第60話 黄色い祈り
キイロは、特別に賢いひよこではなかった。
鳳凰の神通力を強く受け継いだわけでもない。
神の言葉を聞けるわけでもない。
遠い未来を見通せるわけでもない。
ただ、見ていた。
屋敷の廊下を、とことこと歩きながら。
庭の石の上で、丸くなりながら。
サイカの足元で、ぴよぴよ鳴きながら。
時には、ホムラに「踏むぞ」と言われ、リオに丁重に抱き上げられ、使用人たちに小皿で水をもらいながら。
キイロは見ていた。
サイカを。
リオを。
ホムラを。
屋敷の人間たちを。
キイロにとって、魔女も、四方院家の術者も、だいたい人間だった。
食べる。
眠る。
怒る。
笑う。
誰かのそばに寄る。
誰かを心配する。
そういうものは、みんな人間だった。
玄武は少し怪しかった。
老人なのに、老人の匂いだけではなかった。
人間のようで、人間よりずっと古い木の根のようでもあった。
けれど、それでもキイロには、玄武もまだ人間の近くにいるように見えた。
ただ一人。
桜夜だけが、日に日にその中から外れていくように見えた。
桜夜は食べなくなった。
食膳を前にしても、箸を持ったまま動かない。
サイカが心配そうに声をかけると、少しだけ笑って、二口か三口食べる。
それで終わる。
リオが栄養の不足を指摘すると、桜夜は「そうだね」と言う。
ホムラが怒ると、「ごめん」と言う。
静馬が薬を出すと、受け取る。
けれど、飲まない日が増えた。
眠らなくなった。
寝室へは行く。
横にもなる。
けれど、朝になっても、目の下に薄い影を落としたまま、同じ姿勢で起きている。
親友がいたころ一緒に遊んだというゲームにも、手を伸ばさなくなった。
如月あずさのために集めた本も、開かなくなった。
棚には、きれいに並べられた本がある。
海の本。
星の本。
花の本。
異国の絵本。
伊豆の地図。
古い詩集。
けれど桜夜は、それらを眺めても、何も見ていないようだった。
静馬以外の医者が見れば、鬱傾向と診断しただろう。
実際、桜夜は誰とも会わなくなっていた。
来客があっても、会わない。
四方院の者が相談に来ても、リオが取り次ぐ前に断る。
玄武から呼び出しがなければ、屋敷の奥から出てこない。
三姉妹が無理やり接触しなければ、他者と関わることさえ煩わしそうにしていた。
サイカが来れば、拒まない。
リオが来れば、話は聞く。
ホムラが怒鳴り込めば、困ったように笑う。
けれど桜夜の心は、どこか遠くにあった。
ぴよ。
キイロは不安になった。
桜夜には、体温がある。
声もある。
手もある。
サイカの頭を撫でることも、ホムラの火を止めることも、リオの報告に返事をすることもできる。
でも、桜夜は少しずつ、人間ではなくなりかけている。
キイロは、そう思った。
キイロは、はじまりのものを知らない。
世界に無関心だったという、遠い昔の存在を知らない。
最初の孤独も、最初の疲労も、最初の諦めも知らない。
それでも、小さなひよこの目には、桜夜がその方角へ歩いているように見えた。
食べない。
眠らない。
群れに混ざらない。
生き物は、そうやって遠くへ行く。
ある日の午後、キイロは庭に出た。
梅の木の枝に、一羽の烏が止まっていた。
黒い羽。
鋭い目。
くちばしの先。
キイロにとって、烏は明らかに危ない相手だった。
烏にとって、ひよこは餌にすぎない。
それでも、その烏はキイロを食べなかった。
「食うと面倒そうだからな」
烏は枝の上から言った。
「鳳凰の匂いがする。水希桜夜の匂いもする。八咫烏の旦那と縁のあるものに手を出すほど、俺は暇じゃねえ」
ぴよ。
キイロは返事をした。
烏は首を傾ける。
「何だ」
ぴよ。
ぴよぴよ。
ぴよ。
キイロは訴えた。
桜夜が食べないこと。
眠らないこと。
屋敷の奥から出てこないこと。
サイカが泣きそうな顔をすること。
リオが記録を増やすこと。
ホムラが怒って、でもどうしていいかわからない顔をすること。
そして、桜夜だけが、人間から外れていくように見えること。
烏は聞いていた。
聞いていたのか、聞き流していたのかは、キイロにはわからなかった。
やがて、烏は羽を膨らませた。
「飯を食わねえ。寝ねえ。群れに混ざらねえ」
ぴよ。
「そりゃ死ぬやつだ」
キイロは固まった。
烏は面倒くさそうに、くちばしで羽を整える。
「つがいにでもさせろ」
ぴよ?
「雌をあてがえって言ってんだよ」
ぴよ。
「怒るな。鳥ならそうする」
烏は、屋敷の奥を見た。
「あれは、もう巣から落ちかけてる」
ぴよ。
「心だの魂だの知らねえよ。生き物は巣に戻る。戻らねえやつは、つがいか子か腹の減りで戻すんだ」
キイロは、黙って烏を見上げた。
烏は目を細める。
「だが、急げよ」
風が吹いた。
黒い羽が一枚、ひらりと落ちる。
「落ちたら、戻らねえぞ」
烏はそう言って、枝を蹴った。
黒い影が空へ飛ぶ。
キイロは、その羽が見えなくなるまで見上げていた。
それから、とことこと屋敷へ戻った。
サイカは縁側にいた。
手に湯呑みを持ち、桜夜の部屋の方を見ている。
湯呑みの中のお茶は、ほとんど減っていなかった。
キイロはサイカの足元へ走った。
ぴよ。
「キイロ?」
サイカが膝をつく。
「どうしたの?」
ぴよぴよ。
キイロは桜夜の部屋の方を見た。
それから、サイカの手に体を寄せた。
小さな体温。
サイカは、その温かさを受け止める。
「桜夜さん?」
ぴよ。
「遠くに行きそう?」
ぴよぴよ。
サイカの顔から、少し血の気が引いた。
「……そっか」
サイカは、桜夜の部屋の方を見た。
閉じた障子。
静かな廊下。
誰もいないように見える屋敷の奥。
でも、そこに桜夜はいる。
いるだけだった。
「心だけじゃ、だめなの?」
ぴよ。
「言葉だけでも、薬だけでも、だめ?」
ぴよ。
サイカは唇を噛んだ。
「もっと、近くにいないとだめ?」
キイロは、まっすぐサイカを見た。
ぴよ。
サイカの頬が、静かに赤くなる。
意味がわからなかったわけではない。
わかってしまった。
桜夜は、心が遠くへ行きすぎている。
言葉では届かない。
説得では戻らない。
薬でもつなぎとめられない夜がある。
だから、体温がいる。
桜夜がまだ身体を持っていることを、思い出せるように。
喉が渇くことを、腹が減ることを、誰かの隣で眠れることを、思い出せるように。
サイカは、キイロを両手で包んだ。
「キイロ」
ぴよ。
「ひよこに言われたからじゃないよ」
ぴよ。
「烏さんに言われたからでもない」
キイロは少し首を傾げた。
サイカは、小さく笑う。
「私が、そうしたいの」
キイロは黙っていた。
サイカの手は温かかった。
その夜、サイカは桜夜の部屋へ行った。
障子の前で、少しだけ立ち止まる。
中から物音はしない。
「桜夜さん」
返事は、少し遅れて返ってきた。
「うん」
「入っていい?」
「いいよ」
サイカは障子を開けた。
部屋は暗かった。
机の上に書類がある。
けれど、ほとんど手をつけられていない。
薬の包みが、開かれないまま置いてある。
茶は冷めていた。
桜夜は、窓のそばに座っていた。
煙管を手にしている。
火は入っていない。
「寒くない?」
「大丈夫」
「大丈夫じゃなさそう」
サイカは部屋へ入り、障子を閉めた。
桜夜は、困ったように笑う。
「サイカちゃんは、最近キイロに似てきたね」
「そうかな」
「うん。じっと見るところが」
「桜夜さんが、見られるようなことをしてるからだよ」
「手厳しいな」
サイカは桜夜のそばに座った。
少し距離がある。
桜夜は、その距離に安心したようにも見えた。
それがサイカには少しだけ悲しかった。
「桜夜さん」
「うん」
「ご飯、食べてないよね」
「少しは食べてるよ」
「少しだけ」
「薬も」
「飲んでない日がある」
「眠れてない」
「努力はしてる」
「うそ下手だよね」
桜夜は黙った。
サイカは、そっと手を伸ばした。
桜夜の手に触れる。
冷たかった。
「桜夜さん、遠くに行きそう」
「どこにも行かないよ」
「体はね」
桜夜の指が、わずかに動いた。
サイカはその手を握る。
「心だけじゃ、届かないところにいる?」
「……サイカ」
「私、桜夜さんのそばにいたい」
「いてくれてるよ」
「もっと」
桜夜は顔を上げた。
サイカは逃げなかった。
頬は赤い。
けれど、目はまっすぐだった。
「もっと近くにいたい」
桜夜は、すぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、静かに言う。
「サイカ、だめだ」
「どうして?」
「僕は今、まともじゃない」
「知ってる」
「君に甘えたら、たぶん戻れなくなる」
「戻ってきてほしいから、甘えてほしいの」
桜夜の顔が歪んだ。
「僕は、君を利用するかもしれない」
「私は、利用されに来たんじゃないよ」
サイカは、桜夜の手を自分の胸元へ引き寄せた。
「私が、桜夜さんのそばにいたいの」
桜夜は目を伏せる。
「僕は、君に何も返せない」
「返さなくていいよ」
「よくない」
「じゃあ、生きて」
その言葉は、静かだった。
強くはない。
責めてもいない。
命令でもない。
ただ、祈りだった。
「生きて、桜夜さん」
桜夜の喉が、かすかに震えた。
「それが一番難しいな」
「うん」
サイカはうなずいた。
「知ってる」
桜夜は笑おうとした。
けれど、笑えなかった。
サイカは近づく。
桜夜が逃げようとしたわけではない。
けれど、体が少しだけ強張る。
サイカはそれに気づいて、止まった。
「嫌なら、言って」
桜夜は首を振った。
「嫌じゃない」
「怖い?」
「少し」
「私も」
サイカは小さく笑った。
「でも、そばにいたい」
桜夜は、長い間サイカを見ていた。
やがて、力が抜けたように息を吐く。
「……うん」
それは、許可のようでもあり、降参のようでもあった。
サイカは桜夜を抱きしめた。
桜夜の身体は冷えていた。
生きているのに、どこか遠い。
体温があるのに、体温を忘れている。
サイカは、強く抱きしめる。
桜夜の額が、サイカの肩に触れた。
「サイカ」
「うん」
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「今日は、謝らないで」
桜夜は黙った。
夜は静かだった。
屋敷の遠くで、誰かの足音がする。
風が庭木を揺らす。
キイロが、廊下の隅で丸くなっている。
その夜、言葉は少なかった。
サイカは、桜夜を責めなかった。
励ましもしなかった。
救うとも言わなかった。
ただ、そばにいた。
心だけでは、桜夜は戻れなかった。
心は、あまりにも遠くへ行きすぎていた。
だからサイカは、体温で呼んだ。
桜夜がまだ身体を持っていることを。
誰かの隣で息をしていいことを。
眠っても、死ぬわけではないことを。
思い出せるように。
鳳凰の聖なる神通力を宿した血。
フェニキアの毒を含んだ魔女の血。
本来なら、混ざり合うはずのないものだった。
聖なる再生の火と、毒を帯びた不死の火。
片方は裁きへ向かい、片方は呪いへ傾く。
けれど夜の底で、それらは互いを拒まなかった。
溶けて、ひかれあい、静かにひとつになった。
翌朝。
桜夜は、障子の向こうの明るさで目を覚ました。
しばらく天井を見ていた。
やってしまった、とは思わなかった。
どうしてこんなことを、と自分を責めることもなかった。
普通の男のように慌てることも、後悔することもなかった。
ただ、隣にサイカがいた。
眠ったまま、桜夜の手を握っている。
その手が温かかった。
桜夜は、ゆっくりと息を吸った。
胸が動く。
喉が渇いている。
身体が少し重い。
そして。
腹が減っていた。
ひどく些細なことだった。
けれど桜夜は、その感覚にしばらく驚いていた。
空腹。
自分はまだ、生き物だったらしい。
サイカが身じろぎをする。
「……桜夜さん」
「うん」
「起きてたの?」
「今、起きた」
「眠れた?」
桜夜は少し考えた。
「たぶん」
サイカは目を開けた。
まだ少し眠そうで、けれど安心したように微笑む。
「よかった」
桜夜は何も言えなかった。
大きく何かが変わったわけではない。
あずさに会いに行けるようになったわけでもない。
人に会いたいと思えるようになったわけでもない。
仕事に戻れるわけでも、過去が軽くなったわけでもない。
ただ、喉が渇いていた。
腹が減っていた。
隣にいるサイカの体温を、もう少しだけ離したくなかった。
それだけだった。
けれど、その「それだけ」が、桜夜にはずいぶん遠い場所から戻ってきたもののように思えた。
「サイカちゃん」
「なに?」
「水、飲みたい」
サイカは一瞬きょとんとした。
それから、泣きそうな顔で笑った。
「うん」
起き上がろうとしたサイカの手を、桜夜は握ったままだった。
サイカが振り返る。
「桜夜さん?」
「……もう少しだけ」
サイカは何も言わなかった。
ただ、もう一度桜夜の隣に戻った。
廊下の外で、キイロが目を開けた。
ぴよ。
小さく鳴く。
それは勝利の声ではなかった。
神託でも、奇跡の宣言でもなかった。
ただ、小さなひよこが確認しただけだった。
まだ戻ってきたわけではない。
けれど、遠ざかる足は止まった。
その日から、夜になるとサイカは桜夜の寝室へ行くようになった。
あるいは、桜夜がサイカの部屋へ行くこともあった。
毎夜、何かがあったわけではない。
ただ話した晩もあった。
何も話さず、手をつないで朝を待った晩もあった。
抱きしめ合ったまま眠った晩もあった。
桜夜が泣いてしまうこともあった。
如月あずさの名前を呼ぶことはなかった。
けれど、呼ばなかったからこそ、泣いているのだとサイカにはわかった。
サイカが泣いてしまうこともあった。
桜夜があまりにも遠くて。
それでも、手を伸ばせばそこにいることが、嬉しくて、苦しくて。
そして、ときどき、二人は身体を重ねた。
それは救済ではなかった。
罪の償いでもなかった。
約束でも、契約でも、治療でもなかった。
ただ、桜夜がまだ身体を持っていることを、サイカがその体温で確かめる時間だった。
桜夜は、すぐには元に戻らなかった。
食事はまだ少なかった。
眠れない夜も多かった。
薬を忘れる日もあった。
来客には会わなかった。
あずさにも、会いに行かなかった。
それでも、朝になると水を飲む日が増えた。
サイカが差し出した粥を、少しだけ食べる日ができた。
リオがそれを記録しようとして、サイカに止められた。
「リオちゃん、今日は記録じゃなくて、お祝いして」
リオは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、静かに頭を下げた。
「失礼いたしました。では、桜夜様が粥を半椀召し上がったことを、心の中で祝福いたします」
「それ、やっぱり記録っぽい」
「癖ですので」
ホムラは、桜夜の前に焼き魚を置いた。
「食え」
「ホムラちゃん、朝から圧が強いね」
「うるせえ。食え」
「はい」
桜夜は苦笑して、箸を取った。
キイロは食卓の下を歩き回る。
サイカの足元。
リオの椅子の下。
ホムラの足元。
そして、桜夜の近く。
桜夜が魚を一口食べる。
キイロは満足そうに鳴いた。
ぴよ。
桜夜は箸を止める。
「……キイロ」
ぴよ。
「君、最近僕に厳しくない?」
ぴよ。
サイカが笑った。
「食べてって」
「それは聞こえなくてもわかるな」
桜夜はもう一口、魚を食べた。
大きな変化ではない。
世界は救われていない。
過去は消えていない。
救えなかった命は、救えなかったままだ。
自分を救うこと。
自分を赦すこと。
明人から残されたその宿題は、何一つ解けていない。
それでも。
桜夜は水を飲んだ。
粥を食べた。
サイカの手を握った。
夜を一つ越えた。
キイロはそれを見ていた。
ただのひよこは、ただ見ていた。
そして思う。
まだ、人間の近くにいる。
まだ、間に合う。
ぴよ。
小さな黄色い祈りが、屋敷の朝にこぼれた。




