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第59話 ひよこの火

 あずさが生まれてから、桜夜はぼんやりすることが増えた。


 眠っているわけではない。

 起きているとも言い難い。


 机の前に座っていても、書類の文字を目で追うだけで、意味が入っていないことがあった。

 サイカが茶を淹れても、湯気が消えるまで手をつけない。

 リオが食事を運んでも、箸を持ったまま止まっている。

 ホムラが苛立って声を荒げても、少し遅れて「ごめん」と答えるだけだった。


 そして、薬を飲まなくなった。


 彼を人間の側へつなぎとめるための薬。


 最初はキセルで吸わせていたが、最近飲み薬に変更になった。


 定められた量を、定められた時間に服用するだけだ。

 しかしそれだけのことが、桜夜にはできなくなっていた。


 薬包は机の端に置かれたまま、日ごとに増えていく。


 リオは、それを見ていた。


 見て、数え、記録し、そして記録するだけでは足りないと悟った。


 玄武は、今度こそあからさまに桜夜から仕事を奪った。


 相談役の執務は大幅に削られた。

 決裁の多くは玄武の手元へ戻り、調整案件は白虎へ流され、面倒な後始末は先代相談役へ押しつけられた。


 それを知った時だけ、桜夜は少し笑った。


「……先代と白虎に?」


「はい」


 リオが答えると、桜夜は窓の外を見たまま、口の端を上げた。


「それは、少しだけ気分がいいね」


 久しぶりの笑みだった。


 ただし、あまり良い種類の笑みではなかった。


 サイカは苦笑し、ホムラは「性格悪いな」と言った。


 桜夜は否定しなかった。


 桜夜に残された命令は、一つだけだった。


 四方院あずさを守れ。


 けれど、青龍家に守られるご息女に、これ以上の護衛は必要なかった。


 一がいる。

 京子がいる。

 青龍の結界があり、朱雀の術者が母子の体調を見ている。

 玄武も監視を緩めていない。


 だから桜夜のすることは、ほとんどなかった。


 時折、指先に小さな火を灯す。


 遠くで、鳳凰の羽が応える。


 あずさは無事だ。


 母子ともに、無事だ。


 それだけを確かめて、桜夜は火を消す。


 会いには行かなかった。


 一からの誘いも、京子からの言伝も、すべて断った。


「顔を見に来いと言われています」


 リオが伝えると、桜夜は首を横に振る。


「行かない」


「京子様も、あずさ様も、お待ちだと」


「行かない」


 声は静かだった。


 けれど、頑なだった。


 サイカが隣に座る。


「桜夜さん、会いたいんだよね」


「会いたくない」


「うそ下手だよね」


「……会いたいから、会いたくないんだよ」


 桜夜はそう言って、それきり黙った。


 あずさに会わないことは、桜夜にとって最後の誠実さだった。


 けれど、会わずに無事だけを確かめ続けることは、最後の未練でもあった。


 数日後、リオは静馬に連絡を取った。


 桜夜が執務室でぼんやりと窓を見ている間に、廊下の奥で電話をかけた。


「静馬様。桜夜様の状態についてご相談がございます」


 電話口の静馬は、いつもの冷たさを少し抑えていた。


『薬か』


「はい。服用が途切れております。精神に作用する薬を、こちらで管理した上で摂取させることは可能でしょうか」


『無理だな』


 返答は早かった。


『仮に無理やり飲ませても、P因子が無効化する。効く前に弾かれる。効いたとしても一時的だ』


「では、投与経路を変えれば」


『同じだ。あいつの身体は、自分を変えるものに過敏すぎる』


 リオは唇を結んだ。


「ならば、せめてカウンセリングを……」


 電話の向こうで、静馬が小さく息を吐いた。


『リオ君。あいつは、心理学で学位を持ってるぞ』


「存じております」


『カウンセラーの質問の意図を、質問される前に読む。誘導も、沈黙も、投影も、全部理解する。頭のいい患者は厄介なんだよ。まして桜夜は、厄介の塊だ』


「では、どうすればよろしいのでしょうか」


 リオの声は、ほんの少しだけ硬くなっていた。


 静馬はしばらく黙った。


『本人が戻るしかない』


「それは」


『冷たい言い方だがな。いのちあるものは、自分で自分を救わなきゃならない』


 リオは目を伏せた。


 その言葉は、以前どこかで聞いたことがあった。


 明人の言葉。


 桜夜の中に、深く刺さっている教え。


『ただし、放っておけって意味じゃない』


 静馬は続けた。


『手は伸ばせ。飯は置け。声はかけろ。寝ろって言え。薬も出せ。怒れ。泣け。そばにいろ。ただ、最後に戻ってくるのは、あいつ自身だ』


「……承知しました」


『リオ君。あいつの世話は、人間一人で抱える量じゃない』


「わたくしは一人ではございません」


『だろうな』


 静馬は少しだけ笑った。


『サイカ君とホムラ君にも伝えろ。あいつは今、自分の役割が終わったと思ってる。だから危ない』


「役割が」


『あずさ嬢を助けた。名もつけた。守りも渡した。仕事も奪われた。あいつの中では、きれいに終わりかけてる』


 リオの手に力が入った。


『終わってないって、誰かが言い続けるしかない』


「はい」


 通話を終えたリオは、しばらく廊下に立っていた。


 執務室からは、何の音もしない。


 桜夜はたぶん、まだ窓を見ている。


 終わっていない。


 リオは心の中で、その言葉を繰り返した。


 終わってなどいない。


 だが、桜夜自身はそれを知らない。


 桜夜は時々、気まぐれにホムラを呼んだ。


 それは訓練と呼ぶにはあまりにも不規則で、授業と呼ぶにはあまりにも投げやりだった。


 庭に出ることもあれば、地下の練武場へ降りることもある。

 何も言わずに火を見せるだけの日もあれば、突然、術式の話を始める日もある。


 ホムラは、最初こそ文句を言っていた。


「何なんだよ、今日は」


「特別な炎」


「説明が足りねえ」


「見ればわかるよ」


「わからねえから聞いてんだよ」


 それでも、ホムラは来た。


 腹は立つ。


 だが、見たい。


 桜夜の火は、ホムラの常識を壊した。

 火の魔女である自分が知らない火を、魔女でもない男が扱っている。


 それが悔しかった。


 悔しいから、目を逸らせなかった。


 桜夜は、そんなホムラを見て、少しだけ安心していた。


 本当の師匠に出会うまで、少しだけ道を整えておけばいい。


 その程度に思っていた。


 ホムラには、いつかホノカグツチを扱う日が来るかもしれない。

 その時、火を焼くものとしてだけ覚えていたら危うい。

 だから、いま少しだけ見せておく。


 癒す火。

 繋ぐ火。

 裁く火。

 奪う火。

 守る火。


 火の境界を。


 ただそれだけのつもりだった。


 自分がホムラの師匠になれるとは、桜夜は思っていなかった。


 ホムラも、桜夜を師匠と呼ぶ気などなかった。


 だから二人は気づかない。


 癒しと破壊、その両面の炎を繊細に扱える者など、朱雀家にもそうはいない。

 まして、刃に火を通し、斬るものと斬らないものを選び分ける技術まで持つ者など、ほとんどいない。


 ホムラをホノカグツチの担い手へ押し上げられるのは、桜夜しかいなかった。


 本人たちだけが、それを知らなかった。


 ある日の午後、桜夜は台所からサイカを呼んだ。


「サイカ」


「なあに?」


「卵、ある?」


「卵?」


「普通のでいいよ」


「普通の卵ならあるけど……食べるの?」


「ううん。教材」


 サイカは少し首をかしげた。


 だが、桜夜が食事に関心を示したわけではないとわかると、少しだけ残念そうに笑った。


「割らないでね」


「割るかもしれない」


「食べ物で遊んじゃだめだよ」


「遊ばないよ」


 ホムラが廊下から顔を出した。


「お前、卵で何すんだよ」


「殻だけ斬る」


「は?」


「見てて」


 練武場に、安物の刀が一本用意されていた。


 桜吹雪ではない。


 名刀ですらない。


 古く、刃も甘く、扱い方を間違えればすぐに欠けそうな、どこにでもあるなまくらだった。


 ホムラが眉をひそめる。


「桜吹雪じゃねえのか」


「違うよ。ただのなまくら」


「そんなもので何をする」


「名刀じゃなくても、火の通し方でできることはある」


 桜夜はなまくらを軽く振った。


 刀身が、かすかに鳴る。


 良い音ではなかった。


 ホムラは呆れたように言う。


「それ、斬れるのかよ」


「普通には斬れない」


「じゃあ駄目だろ」


「普通じゃなくすればいい」


 桜夜は、サイカが持ってきた卵を台の上に置いた。


 どこにでもある卵だった。


 特別な気配はない。

 術式もない。

 神気もない。


 サイカが心配そうに見ている。


「本当に大丈夫?」


「多分」


「多分?」


「割れても、あとで卵焼きに」


「桜夜さん」


「ごめん」


 桜夜は少しだけ笑った。


 その笑みは薄かったが、ここ数日の中では、まだ人間らしかった。


 ホムラは腕を組んだ。


「で、殻だけ斬るって?」


「うん。殻だけ」


「中身は?」


「斬らない」


「そんな都合のいいことできるか」


「都合がいいんじゃない。境界を選ぶんだよ」


 桜夜は、なまくらの刀身に指を添えた。


 淡い鳳凰の炎が灯る。


 赤ではない。

 金でもない。

 白に近く、しかしどこか桜色を帯びた火。


 熱はない。


 けれど、火だった。


 ホムラは無意識に息を止める。


 この火を、病院で見た。


 京子と、まだ名もなかった子を救った火。


 ホムラの火とは違う。

 不死身の魔女の火とも違う。

 フェニキアの毒とも違う。


 命を焼かずに、命へ触れる火。


 桜夜は刀を構えた。


 構えは自然だった。


 なまくらの刀であっても、桜夜が持つと、ただの鉄ではなくなる。


「よく見て」


 桜夜は言った。


「斬るのは、殻だけ」


 次の瞬間、刀が走った。


 速かった。


 だが、荒くはなかった。


 鳳凰の炎をまとった刃が、卵を通り抜ける。


 からん、と小さな音がした。


 卵の殻だけが、左右に分かれていた。


 黄身も白身もこぼれない。


 傷ついてもいない。


 まるで見えない膜に包まれているように、中身はそのままそこにあった。


 ホムラは目を見開いた。


「……どうなってんだよ」


「殻の境界だけを斬った」


「意味わかんねえ」


「魔術の半分は、意味がわからないことを意味がわかるようにする作業だよ」


「ごまかすな」


 その時だった。


 卵の中から、小さな音がした。


 ぴよ。


 サイカが目を丸くした。


「……え?」


 ぴよぴよ。


 黄身と白身だったはずのものが、淡い鳳凰の火に包まれた。


 火は一瞬だけ強くなり、すぐに消えた。


 そこに、小さな黄色いひよこがいた。


 ひよこは割れた殻の中から顔を出し、きょとんとした目で周囲を見回した。


 そして、もう一度鳴いた。


 ぴよ。


 沈黙。


 ホムラが絶句した。


 サイカも声を失っている。


 リオは、いつの間にか扉のところに立っていた。

 手にしていた記録用紙が、少しだけ下がっている。


 桜夜だけが、妙に平然としていた。


「命の灯を少し足しただけだよ」


 ホムラがようやく声を出した。


「少しで卵がひよこになるか!」


「普通はならないね」


「普通じゃねえことを普通みたいに言うな!」


 ホムラは台の上のひよこを指さした。


「お前、何したんだよ!」


「殻だけ斬って、火を通した」


「説明になってねえ!」


 ひよこは、そんなホムラの怒声など気にもせず、ぴよぴよと鳴いた。


 サイカがそっと手を伸ばす。


「触ってもいい?」


「うん。たぶん大丈夫」


「たぶんは怖いよ」


 それでもサイカは、ひよこを両手で包むように持ち上げた。


 小さい。


 温かい。


 黄色い。


 サイカの手の中で、ひよこは安心したように丸くなった。


「かわいい」


 サイカが小さく言った。


 ひよこは、ぴよ、と鳴いた。


 リオが桜夜を見る。


「桜夜様。こちらの生命体は、通常の鶏と同じ成長過程を辿るのでしょうか」


「わからない」


「不明な生命体を発生させた、という理解でよろしいでしょうか」


「言い方」


「事実ですので」


「記録しないでくれる?」


「検討します」


 ホムラはまだ納得していなかった。


「いや、待て。卵ってそういうものじゃねえだろ」


「そうだね」


「そうだねじゃねえよ。お前、命を作ったのか?」


 その言葉に、桜夜の表情がわずかに止まった。


 命を作った。


 その言い方は、桜夜の中のどこかに触れた。


 自分は、作られたものだった。


 土と記憶と、誰かの未練から。


 はじまりのものの模造品として。


 ルシフェルが作り、捨てたものとして。


 桜夜は目を伏せた。


「作ったわけじゃないよ」


 声が少しだけ低くなった。


「もともとあった可能性に、火を足しただけ」


「可能性?」


「卵は、命になるかもしれないものだから」


 サイカの手の中で、ひよこが小さく鳴いた。


 ぴよ。


 桜夜はそれを見た。


「命になれそうだったから、灯した」


 ホムラは言い返そうとして、やめた。


 桜夜の顔が、あまりにも静かだったからだ。


 静かすぎて、危うかった。


 サイカはひよこを見ていた。


 かわいい。


 それは本当だった。


 でも、それだけではなかった。


 桜夜は命を灯せる。


 けれど、自分の命には灯を入れられない。


 人を助ける火を持っているのに、自分を温めることができない。


 薬は効かない。

 言葉も届かない。

 カウンセリングの意図すら読んでしまう。


 なら、この小さな命はどうだろう。


 意味も使命も語らない。

 感謝もしない。

 ただ、ぴよぴよと鳴く。


 桜夜さんのそばに、この子がいたら。


 少しでも、桜夜さんは人間の側に戻ってこられるだろうか。


 サイカは、ひよこを両手で包んだまま、桜夜を見た。


「桜夜さん」


「うん」


「この子、飼ってもいい?」


「鶏になるよ」


「いいよ」


「朝うるさいよ」


「桜夜さんを起こしてくれるかも」


「それは迷惑だね」


「でも、起きられるよ」


「起きてはいるよ」


「起きてるだけじゃなくて」


 サイカは少しだけ言葉を探した。


「戻ってきてくれるかも」


 桜夜は黙った。


 ひよこが、サイカの手の中から首を伸ばす。


 ぴよ。


 その鳴き声に、桜夜の視線が落ちた。


 小さな黄色い命。


 自分の火で孵ってしまった命。


 ホムラが横から言う。


「責任取れよ。お前が孵したんだからな」


「教材のつもりだったんだけど」


「命だろ」


 ホムラの声は、ぶっきらぼうだった。


 しかし、その言葉は正しかった。


 命だよ。


 サイカも同じことを、目で言っていた。


 桜夜は、しばらくひよこを見ていた。


「……名前は?」


 サイカがぱっと笑顔になった。


「つけてくれるの?」


「つけない」


 即答だった。


「僕がつけると、ろくなことにならない」


「そんなことないよ」


「あるよ」


 桜夜は少しだけ困った顔をした。


「名前は重い」


 その言葉に、サイカは何も言わなかった。


 あずさ。


 その名を、桜夜がどれだけ震えながら渡したのか、サイカは見ていた。


 だから、無理にとは言わなかった。


「じゃあ、一緒に考えよう」


「一緒に?」


「うん」


 サイカはひよこを顔の高さまで持ち上げた。


 ひよこは、ぴよ、と鳴く。


「この子、黄色いね」


「見ればわかる」


「ずっと黄色い気がする」


「根拠は?」


「かわいいから」


「理由になってない」


 サイカは笑った。


「キイロ」


 桜夜は少し瞬きをした。


「そのままだね」


「うん」


「本当にそれでいいの?」


 ひよこが、ぴよ、と鳴いた。


 サイカは頷いた。


「本人もいいって」


「今の、わかるの?」


「なんとなく」


 ホムラが呆れた顔をする。


「ついにサイカまでおかしくなったか」


 リオが冷静に言った。


「鳳凰由来の生命体とサイカ様の感受性が同調している可能性はございます」


「冷静に分析しないで」


 桜夜が小さく言った。


 サイカは楽しそうにキイロを抱いた。


「よろしくね、キイロ」


 ぴよ。


 キイロは、サイカの手の中で胸を張った。


 それから突然、台から飛び降りようとした。


「あ、危ない」


 サイカが慌てて受け止める。


 キイロは落ち着きなく足を動かし、床に下ろされると、すぐに練武場の中を歩き始めた。


 ぴよぴよ。


 好き勝手に歩く。


 刀の柄をつつき、ホムラの靴をつつき、リオの記録用紙の端をつつく。


「ちょっと、こいつ」


 ホムラが足を引く。


 キイロは気にせず、今度は桜夜の足元へ来た。


 そして、桜夜の靴の上に乗った。


 ぴよ。


 桜夜は見下ろした。


「そこ、何か意味ある?」


 ぴよぴよ。


 サイカが首をかしげる。


「そこがいいって」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんが多いね」


 桜夜は困った顔をした。


 キイロは桜夜の靴の上で丸くなろうとしている。


「歩けないんだけど」


 ぴよ。


「退く気ないね」


 サイカが笑う。


「気に入られたんだよ」


「困る」


「困ってる顔、久しぶり」


 桜夜は言葉に詰まった。


 サイカの言葉は、責めていなかった。


 ただ、少し嬉しそうだった。


 桜夜は視線を逸らす。


「……そうかな」


「うん」


 ホムラが腕を組んで言う。


「で、そのひよこ、何ができんだよ」


「何も」


 桜夜は答えた。


「たぶん戦えない。癒しの炎も使えない。神託も告げない。八咫烏や皇帝アヒルの代わりにもならない」


「じゃあ、ただのひよこじゃねえか」


「長生きはするかもしれない」


「鶏には?」


「ならないかもしれない」


「意味わかんねえ」


「僕もわからない」


 キイロは、ぴよ、と鳴いた。


 サイカは少し笑った。


「役に立つために生まれたんじゃないって」


 桜夜の表情が止まった。


「今のも、キイロが?」


「うん。たぶん」


 桜夜は、足元の小さな黄色い命を見た。


 役に立つために生まれたんじゃない。


 その言葉は、妙に胸の奥へ落ちた。


 役に立たない命。


 ただいる命。


 何も背負わず、何も求めず、ぴよぴよ鳴いている命。


 そんなものが、この屋敷にいていいのだろうか。


 いや。


 いていいのだろう。


 たぶん。


 少なくとも、サイカはそう思っている。


 キイロは桜夜の靴の上で、また鳴いた。


 ぴよ。


 桜夜は小さく息を吐いた。


「サイカ」


「なあに?」


「この子、台所に戻して」


「もう卵じゃないよ」


「知ってる」


「じゃあ戻せないよ」


「……そうだね」


 ホムラがふんと鼻を鳴らす。


「責任取れ、父親」


「父親ではない」


「孵しただろ」


「火を足しただけ」


「言い訳すんな」


 桜夜は反論しかけて、やめた。


 キイロが足元で丸くなっていたからだ。


 動けない。


 追い払うこともできない。


 桜夜は困った顔で立ち尽くした。


 サイカは、その顔を見ていた。


 薬は効かなかった。


 言葉も、まだ届かなかった。


 玄武が仕事を奪っても、桜夜は戻ってこなかった。


 あずさの無事を確かめても、桜夜は病室へは行けなかった。


 けれど、小さなひよこは、桜夜の足元でぴよぴよ鳴いている。


 桜夜は困っている。


 困っているけれど、逃げてはいない。


 それだけで、サイカには少しだけ希望に見えた。


 その夜、キイロは屋敷の中を好き勝手に歩き回った。


 廊下を歩き、茶室を覗き、ホムラの部屋の前で鳴き、リオの書類の上に足跡をつけ、最後には桜夜の書斎へ入り込んだ。


 桜夜は机の前に座っていた。


 薬は、まだ飲まれていない。

 食事も、半分以上残っている。


 指先には、小さな鳳凰の火が灯っていた。


 遠くの羽を通して、あずさの無事を確かめている。


 キイロはその足元まで歩いていった。


 ぴよ。


 桜夜は指先の火を消した。


「また来たの」


 ぴよぴよ。


「ここ、寝床じゃないよ」


 ぴよ。


「サイカのところに行きなさい」


 キイロは動かなかった。


 小さな体で、桜夜の足元に座り込む。


 桜夜はため息をついた。


「本当に、言うことを聞かないね」


 ぴよ。


 桜夜は、机の上の薬を見た。


 飲む気はなかった。


 けれど、キイロが見ている。


 ただのひよこが、見ている。


 桜夜はしばらく黙っていた。


 そして、薬包を一つ手に取った。


「……見張り?」


 ぴよ。


「そう」


 桜夜は苦笑した。


 水を取り、薬を飲む。


 P因子がどこまで許すかはわからない。

 効くかどうかもわからない。

 意味があるかもわからない。


 それでも、飲んだ。


 キイロは満足そうに、ぴよぴよと鳴いた。


 その声を聞きつけたのか、扉の向こうでサイカが立ち止まった。


 少しだけ開いた扉の隙間から、彼女は中を見た。


 桜夜が薬を飲んでいる。


 キイロが足元で鳴いている。


 それだけの光景だった。


 でも、サイカは泣きそうになった。


 桜夜は、まだ戻ってきてはいない。


 けれど、完全には遠くへ行っていない。


 小さな黄色い命が、彼の足元を押さえている。


 サイカは声をかけなかった。


 ただ、そっと扉を閉じた。


 書斎の中で、桜夜は椅子にもたれた。


 キイロが足元で丸くなる。


 ぴよ。


「おやすみ?」


 ぴよ。


「……僕も寝ろって?」


 ぴよぴよ。


 桜夜は目を閉じた。


「努力する」


 キイロが、ぴよ、と強めに鳴いた。


 桜夜は少し笑った。


「約束、かな」


 小さなひよこは、もう一度鳴いた。


 ぴよ。


 雨はやんでいた。


 屋敷の外には、湿った夜の匂いが残っている。


 遠くでは、鳳凰の羽を握った小さな手が、静かに眠っている。


 屋敷の中では、鳳凰の火で孵った小さなひよこが、桜夜の足元で眠っている。


 救えなかった命は、消えない。


 救えた命も、代わりにはならない。


 けれど、役に立たない小さな命が、ただそこにいるだけで、桜夜は薬を一つ飲んだ。


 それは奇蹟と呼ぶには、あまりに小さかった。


 けれどサイカには、その小ささが、とても大切に思えた。

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