第58話 救えなかった命
雨は、夜になってもやまなかった。
横浜の屋敷の窓を、細い雨筋がいくつも伝っている。
雷は遠ざかったが、空の低さだけは残っていた。
執務室では、桜夜が黙々と書類を処理していた。
一枚だけ。
そう言っていたはずだった。
だが、気づけば机の右側にあった山が少し低くなり、左側には処理済みの書類が積み上がっている。
サイカが淹れた茶は、何度目かの入れ替えを終えていた。
リオは書類を緊急度別に分類し、ホムラはソファで腕を組んだまま、退屈そうに足を組み替えていた。
「一枚だけって言ったよな」
ホムラが言った。
「言ったね」
桜夜は書類から目を離さずに答えた。
「何枚目だよ」
「数えない方が幸せなこともある」
「逃げんな」
「逃げたい」
桜夜は万年筆を走らせた。
筆跡は乱れていない。
口では毒づきながら、仕事は速い。
迷うところは迷い、捨てるところは捨て、通すところは通す。
それが、相談役としての水希桜夜だった。
「桜夜様」
リオが、一通の封書を手に取った。
「こちら、差出人の名がございません。ただし封蝋に鷹司の印があります」
桜夜の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、その一瞬を、サイカもホムラも見逃さなかった。
「鷹司?」
サイカが尋ねる。
「できれば一生知らないままでいたかった名前かな」
桜夜は軽く答えたが、声は笑っていなかった。
リオは封書を桜夜へ差し出す。
桜夜は、それをしばらく見ていた。
開けたくない。
その感情が、露骨に顔へ出ていた。
ホムラが眉をひそめる。
「嫌な相手か」
「うん」
「どれくらい」
「焼いたことがある」
「お前、嫌な相手の基準おかしくねえか」
「向こうも僕を縛って遊んでたから、お互い様だよ」
さらりと言った桜夜に、サイカが息を呑んだ。
リオも、目だけを伏せる。
桜夜は封を切った。
中には、短い文面だけが入っていた。
桜夜の表情が、変わった。
雨音が、やけに大きく聞こえる。
「桜夜さん?」
サイカが声をかけた。
桜夜は手紙を机の上に置いた。
「兄さんと京子、それから腹の子が狙われているらしい」
ホムラが立ち上がった。
「暗殺か」
「そう書いてある」
「罠か?」
「罠かもしれない」
「なら行かねえ方がいいだろ」
「行くよ」
桜夜は即答した。
ホムラは舌打ちする。
「だと思った」
リオが手紙に視線を落とす。
「京子様には、お伝えしますか」
「しない」
桜夜は静かに言った。
「母子ともに危険だ。余計な不安は入れない方がいい」
「ですが、警護は」
「兄さんがいる。青龍様もいる。表の襲撃なら、どうせ消される」
その言い方に迷いはなかった。
一と青龍家の実力を、桜夜はよく知っている。
表立って刃を向ける者がいるなら、それは桜夜が出るまでもなく排除される。
だから、桜夜が考えるべきなのはそこではなかった。
「力でどうにかなる相手なら、僕はいらない」
桜夜は小さくつぶやいた。
「なら、問題はそこじゃない」
その時、執務室の電話が鳴った。
古い屋敷の中で、ひどく不吉な音だった。
リオが受話器を取る。
「はい。水希家執務室でございます」
数秒後、リオの顔色が変わった。
「桜夜様」
桜夜は、すでに立ち上がっていた。
リオは受話器を押さえながら言った。
「一様からです。京子様が、予定日よりかなり早く産気づかれたと」
空気が凍った。
桜夜は一度だけ目を閉じた。
「母体は」
「危険な状態だそうです。胎児も」
リオの声が、わずかに揺れる。
「桜夜様を、至急、と」
桜夜は上着を取った。
「行く」
サイカが立ち上がる。
「私も」
「サイカ」
「行く」
サイカは譲らなかった。
リオも書類を閉じる。
「同行いたします」
ホムラはすでに扉へ向かっていた。
「早くしろ」
桜夜は三人を見た。
止める言葉は浮かばなかった。
浮かんだとしても、たぶんもう聞いてもらえない。
「わかった」
桜夜は言った。
「車を出す」
屋敷を出ると、雨はさらに強くなっていた。
夜の道を車が走る。
ワイパーが忙しく動き、街灯の光が濡れた路面に滲んでいる。
助手席にはサイカ。
後部座席にリオとホムラ。
伊豆からの帰りと同じ配置だった。
けれど、空気はまるで違った。
誰も余計なことを言わない。
桜夜はハンドルを握り、前だけを見ている。
その顔は、ひどく静かだった。
静かすぎた。
「桜夜さん」
サイカが、そっと呼んだ。
「大丈夫?」
「うん」
「うそ下手だよね」
「そうだった」
桜夜は少しだけ笑った。
その笑みは、薄かった。
「でも、これは大丈夫」
「本当に?」
「うん」
桜夜は、迷いなく言った。
「間に合うなら、助けられる」
ホムラが顔を上げた。
「言い切るんだな」
「言い切るよ」
桜夜は前を見たまま答える。
「京子様は朱雀家の人間だ。朱雀と鳳凰は近しい。火の系統が噛み合う。母体が鳳凰の火を拒まないなら、母子の生命力をつなげる」
「火で治すのか」
「治すというより、灯す」
「灯す?」
「消えかけた火を、もう一度燃えるように支える」
桜夜は、ほんの少しだけ口元を上げた。
「ホムラ」
「あ?」
「よく見ておいて」
その声には、珍しく確かな自信があった。
「癒す炎を見せてあげる」
ホムラは一瞬、言葉を失った。
こんな時に笑うのか、と言いかけた。
けれど言えなかった。
桜夜の笑みは、ふざけているものではなかった。
術者として、火を扱う者として、確信している顔だった。
迷えば火は乱れる。
怯えれば火は暴れる。
怒れば火は焼く。
だから桜夜は笑っていた。
火を安定させるために。
命をつなぐために。
その笑みの奥で、何を思っているのかまでは、まだ誰にもわからなかった。
病院に着くと、青龍家の者たちがすでに廊下を固めていた。
物々しい気配がある。
だが、それは外敵に向けられたものだった。
京子のいる分娩室の周囲だけは、異様に静かだった。
一が廊下に立っていた。
顔色が悪い。
それでも、立ち姿は崩れていなかった。
「桜夜」
「状況は」
「予定より早すぎる。医師も朱雀の術者も手を尽くしているが、母体が持たない。子も弱い」
「原因は」
「わからない」
一は短く答えた。
「だが、自然ではない」
「だろうね」
桜夜は淡々と言った。
一の目が、桜夜を見る。
「できるか」
「できる」
迷いのない答えだった。
一は、ほんのわずかに息を吐いた。
「頼む」
「礼はいりません」
「まだ言っていない」
「言いそうな顔をしていた」
桜夜はそう言って、分娩室の扉へ向かった。
その前で、ホムラを振り返る。
「見ていて」
ホムラは黙って頷いた。
扉が開く。
室内には、緊迫した空気が満ちていた。
京子は寝台に横たわり、苦しげに呼吸をしている。
医師たちが処置を続け、朱雀家の術者が火の気を整えようとしていた。
だが、火が散っている。
京子の生命力が弱り、胎児へ渡る力も途切れかけている。
朱雀の術者たちは、火を燃やそうとしていた。
それでは強すぎる。
燃やせば母体を傷つける。
弱めれば子へ届かない。
桜夜は寝台の横へ立った。
京子が薄く目を開ける。
「桜夜……さん……」
「喋らなくていいよ」
桜夜は穏やかに言った。
「大丈夫。今、つなぐ」
京子は、微かに頷いた。
桜夜は両手をかざした。
炎が生まれる。
赤ではない。
金色とも白ともつかない、淡い火だった。
桜色の光を含んだ、静かな炎。
ホムラは息を呑んだ。
火なのに、部屋は熱くならない。
布は燃えない。
肌も焼けない。
器具も焦げない。
それなのに、確かに火だった。
炎は京子の腹部を包むように広がった。
燃やすのではない。
灯す。
桜夜の火は、京子の中にある朱雀の火へ触れた。
拒まれない。
むしろ、火は火を知るように、互いの温度を確かめ合った。
朱雀と鳳凰。
近しい神獣の火が、母体の奥で結び直されていく。
京子の呼吸が、わずかに深くなった。
医師が驚いた顔をする。
朱雀の術者たちが、黙って一歩下がった。
場の火は、もう桜夜が握っていた。
けれど、その支配は鷹司を焼いた日のそれとは違った。
押さえつける火ではない。
奪う火ではない。
命の灯芯に、細く細く火を通す。
それは、恐ろしく繊細な作業だった。
強すぎれば焼く。
弱すぎれば届かない。
母体へ流しすぎれば京子が壊れる。
子へ流しすぎれば、まだ小さすぎる器が耐えられない。
繋ぐ。
ただ、繋ぐ。
桜夜は目を細めた。
できる。
これはできる。
京子は朱雀の血を引いている。
鳳凰の火を拒まない。
子はまだ境界にいる。
完全には離れていない。
肉体も魂も、まだ細い糸でつながっている。
だから、つなげる。
助けられる。
なら、なぜ。
桜夜の胸の奥で、音もなく何かが軋んだ。
なぜ、あの時はできなかった。
如月あずさの手は、最後まで細かった。
病室の白い光。
薬の匂い。
乾いた唇。
笑おうとする顔。
握り返してくれた指先。
僕のお姫様。
あたしのナイトわんこ。
あの時、この火はどこにあった。
この手は、何をしていた。
桜夜は、奥歯を噛んだ。
火がわずかに揺れる。
ホムラが気づいた。
サイカも、リオも。
しかし桜夜はすぐに火を整えた。
笑みを戻す。
火を乱すな。
今は目の前の命だ。
今は、この二つの命をつなぐ。
救えなかった命ではない。
救えるかもしれない命だ。
けれど、その考え自体が痛かった。
命を救える力を得たことは、桜夜を救わなかった。
むしろ、その力は、救えなかった命の輪郭を、あまりにも鮮やかに照らしてしまった。
京子の呼吸が安定していく。
胎児の弱い鼓動が、少しずつ力を取り戻す。
医師たちの動きが変わった。
絶望的な処置から、命を取り上げるための処置へ。
一は扉の外で、ただ待っていた。
青龍の嫡男としてではなく、夫として、父になる者として。
桜夜は火を細く保ち続けた。
腕が重くなる。
呼吸が浅くなる。
それでも火は乱れない。
ホムラは見ていた。
燃やす以外の火。
壊すためではない火。
怒りではなく、命を支える火。
いつか自分が握るかもしれない、ホノカグツチの別の姿。
火は、奪うだけではない。
火は、守ることもできる。
ホムラは無意識に拳を握っていた。
ホムラの常識では、炎は癒しではなかった。
少なくとも、彼女が知る炎はそうだった。
母である不死身の魔女は、火を自在に扱った。料理も、暖炉も、敵の城も、同じ炎で焼いた。焼きすぎず、足りなすぎず、必要なものだけを必要なだけ燃やす。あの女なら、人間を死なせない程度に焼き続けることも容易かっただろう。
けれど、癒しには使わなかった。フェニキアの炎は毒だったからだ。
癒しが必要な時、母は水の術を使った。
その術は、今はリオに受け継がれている。
なのに、桜夜は炎で命を救っていた。
それも、二つ。
京子と、まだ名もない子。
火を細く通し、弱すぎる命の灯を燃え上がらせ、燃え尽きないように支えている。
あんなふうに、ホムラは火を扱えない。
その事実に、腹が立った。
火で命を救う。
そんな非常識を、魔女でもない男がやってのけた。
だからホムラは、腹が立った
長い時間が過ぎた。
実際には、どれくらいだったのかわからない。
やがて桜夜は、ゆっくりと手を下ろした。
炎が消える。
京子の顔には、まだ疲労の色が濃かった。
けれど呼吸は安定していた。
腹の中の命も、まだそこにあった。
桜夜は医師に短く告げた。
「母体の火は戻した。子の灯もつながってる。あとはあなたたちの仕事です」
医師は頷いた。
朱雀の術者の一人が、深々と頭を下げる。
「感謝します」
桜夜は、それを見なかった。
分娩室を出る。
廊下にいた一が、すぐに歩み寄った。
「桜夜」
「母体は安定した。子も持ち直した。あとは医師と朱雀で足ります」
「ありがとう」
「礼はいりません」
桜夜は、一の言葉を途中で切った。
「仕事です」
一は黙った。
その顔に、何かを言いたい気配があった。
だが桜夜は聞かなかった。
「僕は帰ります」
そう言って、踵を返す。
サイカがその前に立った。
「だめ」
「サイカ」
「帰っちゃだめ」
「僕がいても、もうできることはないよ」
「あるよ」
「ない」
「ある」
サイカは真っ直ぐに桜夜を見た。
「今帰ったら、桜夜さん、きっとひとりで悪い方に考える」
桜夜は黙った。
リオが横から静かに言う。
「桜夜様。これは任務完了報告ではありません」
「リオ」
「ここで終えてよい記録でもありません」
ホムラも近づいてきた。
「逃げんな」
「逃げてない」
「逃げてる顔だ」
「ホムラまで」
「お前、助けただろ」
その言葉に、桜夜の表情がかすかに歪んだ。
「助けられなかったものもある」
廊下が静まり返った。
サイカは、何も言わなかった。
リオも、ホムラも。
その言葉の意味をすべて知っているわけではない。
それでも、そこにある痛みだけはわかった。
桜夜は目を伏せる。
「だから、帰る」
「だめ」
サイカが、もう一度言った。
「今はだめ」
押し問答が続いた。
桜夜は帰ると言い、サイカはだめと言い、リオは静かに退路を塞ぎ、ホムラは腕を組んで睨んでいる。
一はそれを見ていた。
そして、少しだけ目を伏せた。
その時だった。
奥の扉の向こうから、声が聞こえた。
小さな声。
弱く、細く、けれど確かに空気を震わせる声。
赤子の泣き声だった。
桜夜の足が止まった。
世界が、一瞬だけ静かになった。
雨音も、廊下の気配も、医師たちの声も、遠のく。
泣いている。
生きている。
あの小さな命が、こちら側で泣いている。
桜夜は動けなかった。
サイカが、そっと息を呑む。
リオは手元の記録を閉じた。
ホムラは何も言わなかった。
一が、桜夜の隣に立った。
「入れ」
「僕はここで」
「入れ」
「兄さん……」
「君が守った命だ」
桜夜は首を振った。
「だからこそ、入れない」
一は静かに見ていた。
そして、もう一度言った。
「なら、なおさら入れ」
桜夜は逃げ場を探した。
けれど、廊下にはサイカがいる。
リオがいる。
ホムラがいる。
一がいる。
誰も、逃がしてくれなかった。
一が扉を開けた。
中は、先ほどまでの緊迫とは違う空気に包まれていた。
京子は疲れ切っていたが、穏やかに微笑んでいた。
腕の中には、小さな赤子がいた。
まだ赤い顔をして、目も開ききらない、小さな命。
桜夜は入口で止まった。
足が動かない。
如月あずさの病室を思い出した。
白いシーツ。
細い手。
消えていく呼吸。
けれど、今ここにあるのは終わりではない。
始まりだった。
「桜夜さん」
京子が、かすれた声で呼んだ。
「来てください」
「僕は」
「抱いてあげてください」
桜夜は顔を上げた。
「僕が?」
「はい」
京子は微笑んだ。
「この子は、あなたの炎を知っています」
その言葉に、桜夜の胸が詰まった。
知っている。
この子が。
言葉も知らない。
名前もまだない。
何も知らないはずの命が。
自分の火を、知っている。
一が、そっと桜夜の背に手を添えた。
押すほどではない。
ただ、そこにいると伝えるだけの手だった。
桜夜は、ゆっくりと京子のそばへ歩いた。
京子が赤子を差し出す。
桜夜は手を出せなかった。
「落とします」
「落としません」
「壊します」
「壊れません」
「僕は」
「大丈夫です」
京子は、静かに言った。
「あなたは、この子を壊しません」
桜夜の手が震えた。
京子は待っていた。
一も待っていた。
サイカたちも、入口で見守っている。
やがて桜夜は、恐る恐る赤子を受け取った。
軽かった。
あまりにも軽かった。
けれど、重かった。
腕に乗った小さな体温が、信じられないほど重い。
命の重さだった。
桜夜は息を止めた。
赤子が、小さく身じろぎした。
桜夜の胸元で、かすかな声を上げる。
生きている。
この子は、生きている。
桜夜の目が揺れた。
一が言った。
「名前をつけるのは、君だ」
桜夜は、すぐに首を振った。
「できない」
「君がつけてくれ」
「だめだ」
「なぜ」
「僕がつけたら、間違える」
一は黙っていた。
桜夜は赤子を抱いたまま、目を伏せる。
「この子は、誰かの代わりじゃない」
「わかっている」
「僕の未練の器じゃない」
「わかっている」
「僕がつけていい名前じゃない」
「それでも、君に頼みたい」
桜夜は、言葉を失った。
考えていた名前はいくつもあった。
春の名。
光の名。
海の名。
京子と一にふさわしい、穏やかで、明るく、未来へ向かう名前。
この子が過去に縛られないように。
如月あずさの影を背負わないように。
桜夜の未練に巻き込まれないように。
いくつも考えた。
考えていた。
けれど、腕の中の小さな命が、かすかに泣いた。
その声を聞いた瞬間、全部が崩れた。
砂浜。
病室。
涙の味のした口づけ。
忘れないで。
また見つけて。
僕のお姫様。
あたしのナイトわんこ。
そして、未来へ宛てた手紙。
君があずさと名付けられるのかは、まだわからないけれど。
桜夜の喉が震えた。
「……あずさ」
言ってしまった。
その瞬間、桜夜の目から涙が落ちた。
赤子の頬ではなく、自分の手の甲へ落ちた。
「ごめん」
桜夜は小さく言った。
「違うんだ」
声が震える。
「君は、君なのに」
もう一粒、涙が落ちた。
「誰かの代わりにしたいわけじゃない」
「僕の未練にしたいわけじゃない」
「でも」
桜夜は、赤子を抱きしめることもできず、ただ支えていた。
壊さないように。
奪わないように。
名前だけを、震える声で渡す。
「この名前しか、出てこない」
京子は責めなかった。
一も責めなかった。
静かな時間が流れた。
やがて一が言った。
「あずさ」
その名を、確かめるように。
「四方院あずさ」
桜夜の肩が震えた。
一は続けた。
「その名前でいい」
「兄さん」
「その名前は、君の未練だけではない」
桜夜は顔を上げられなかった。
「君が今、繋いだ命の名前だ」
京子も、穏やかに言った。
「この子が、自分の名前にします」
桜夜は、何も言えなかった。
腕の中の赤子は、もう泣き止んでいた。
小さく息をしている。
生きている。
あずさ。
その名は、過去から奪ってきた名前ではなかった。
けれど、過去と無関係でもなかった。
それは、桜夜が一生抱える名だった。
そして、この子がこれから自分のものにしていく名だった。
サイカが入口で泣いていた。
リオは記録を取っていなかった。
ホムラは、目を逸らしていた。
桜夜は赤子を抱いたまま、ただ泣いていた。
救えなかった命がある。
救えた命がある。
その二つは、決して釣り合わない。
片方が片方を埋めることはない。
如月あずさは戻らない。
四方院あずさは、如月あずさではない。
それでも。
今、腕の中にいる命は、確かに生きていた。
桜夜の火を知っていた。
桜夜の腕の中で、小さく呼吸していた。
雨はまだ降っていた。
けれど、病室の中には、消えかけた命を灯し直した火の温もりが、かすかに残っていた。
◇◇◇
母子を休ませるため、桜夜は長く病室にはいなかった。
京子は疲れ切っている。
あずさもまた、生まれたばかりの小さな身体で、懸命に呼吸をしている。
ここに長くいてはいけない。
そう判断して、桜夜は赤子を京子の腕へ戻そうとした。
その前に、桜夜はふと思い出したように懐へ手を入れた。
取り出したのは、一枚の羽だった。
淡い金色を帯びた、薄く、けれど決して折れそうにない羽。
鳳凰の羽。
あらゆる災いを払いのける、強力な守りのしるしだった。
「これを」
桜夜は小さく言って、あずさの幼い手にそっと握らせた。
赤子の指が、反射のように羽を掴む。
桜夜はその小さな手を見つめた。
「君にあげる」
声は静かだった。
「名前だけじゃ、足りないから」
一はそれを見て、苦笑した。
「生まれたばかりの子に、ずいぶんな贈り物だな」
「重かったですか」
「いや」
一は首を横に振った。
「君らしい」
京子は優しく微笑んでいた。
「ありがとうございます、桜夜さん」
「礼はいりません」
「言わせてください」
桜夜は困ったように目を伏せた。
京子は、あずさを抱いたまま言った。
「この子は、名前と守りをいただきました」
桜夜は何も返せなかった。
鳳凰の羽を握った小さな手。
その手の温度が、まだ自分の腕に残っている。
命は、こんなにも小さい。
そして、こんなにも重い。
「休んでください」
桜夜は、それだけ言った。
京子は頷いた。
一が扉まで送る。
廊下へ出ると、桜夜はようやく息を吐いた。
サイカが心配そうに顔を覗き込む。
「桜夜さん」
「うん」
「大丈夫?」
桜夜は少しだけ笑った。
「大丈夫って言うと怒られそうだね」
「うん。怒る」
「じゃあ、少し疲れた」
サイカは、ほっとしたように微笑んだ。
「うん。それならいい」
「いいんだ」
「ちゃんと言えたから」
リオが静かに言う。
「車を回してまいります。帰路は、わたくしが運転いたします」
「頼もしいね」
「記録と移動補助は秘書業務に含まれますので」
「まだ正式には秘書じゃないけどね」
「実務上は、すでに相当程度――」
「うん、ありがとう」
リオは少しだけ満足そうに頷いた。
帰りの車では、リオが運転席に座った。
助手席にはサイカ。
後部座席には、桜夜とホムラ。
雨は弱くなっていた。
夜の街は濡れていて、信号の赤や青が路面にぼんやりと滲んでいる。
しばらく、誰も話さなかった。
ホムラは窓の外を見ていた。
だが、その目は景色を見ていない。
彼女が考えていることを、桜夜はだいたい察していた。
「聞きたいことがある顔だね」
桜夜が言った。
ホムラは横目で見る。
「別に」
「うそ下手だね」
「お前にだけは言われたくねえ」
桜夜は小さく笑った。
それから、窓の外へ視線を向けた。
「鳳凰は、特別な神獣なんだ」
ホムラは黙っていた。
けれど、聞いている。
「再生の炎を持っている。同時に、破壊の炎も持っている。だから扱うには、力に飲み込まれない心と、乱れない精神が必要になる」
リオは運転しながら、静かに耳を傾けていた。
サイカも、助手席で振り返らずに聞いている。
「救うべき命には、生命を分け与える。愚かなる町には、裁きの火を下す。それが鳳凰」
ホムラが、ぽつりと言った。
「ずいぶん都合のいい火だな」
「都合がいいんじゃない。危ないんだよ」
桜夜は即座に返した。
「救う火と焼く火の境目が、術者の中にある。怒れば焼く。焦れば燃やしすぎる。怯えれば消える。助けたいという気持ちが強すぎても、相手を壊すことがある」
ホムラは黙った。
桜夜は続ける。
「術には、大きく分けて二つある」
「二つ?」
「物理法則に従うものと、物理法則を越えるもの」
桜夜は指先を立てた。
「たとえば紙を燃やす。紙が燃える条件を満たして、そこへ魔力や霊力を加える。熱を与え、酸素と反応させ、化学式どおりに燃焼させる。そうすれば火は出る」
「それは魔術なのか」
「魔術だよ。でも、科学と大きくは違わない。仕組みを理解して、必要な力を通すだけだから」
ホムラは眉をひそめる。
「じゃあ、今日のは違うのか」
「違う」
桜夜の声が少し低くなった。
「神に近づく力を得たものは、物理法則を越える」
車内に、静かな緊張が落ちた。
「水の中で火を燃やすことだってできる。死なないぎりぎりまで身体を焼くこともできる。相手の心臓だけを焼くこともできる。命に灯をともすこともできる」
ホムラは、その言葉にわずかに反応した。
死なないぎりぎりまで身体を焼く。
桜夜の声は淡々としていた。
だが、その淡々さの奥に、何か古い焦げ跡のようなものがあった。
「今日やったのは、最後のやつだよ」
桜夜は言った。
「京子様と子どもの命の火が、細くなっていた。でも完全には消えていなかった。朱雀家の血と鳳凰の火は近い。だから、僕の火で灯を足せた」
「もし、相性が悪かったら?」
「焼いていたかもしれない」
桜夜は平然と言った。
ホムラの目が鋭くなる。
「怖いこと言うな」
「怖い力だからね」
「お前、よく笑って使えたな」
「笑えないと、使えない」
桜夜は窓の外を見る。
「火は、こっちの心をよく見る。特に鳳凰の火はね。迷えば、相手を焼く。悲しめば、火が冷える。怒れば、裁きになる」
ホムラは、昼間見た炎を思い出していた。
熱くない火。
布も肌も焼かず、命だけを灯した火。
彼女の常識では、炎は癒しではなかった。
少なくとも、彼女が知る炎はそうだった。
母である不死身の魔女は、火を自在に扱った。
料理も、暖炉も、敵の城も、同じ炎で焼いた。
焼きすぎず、足りなすぎず、必要なものだけを必要なだけ燃やす。
あの女なら、人間を死なせない程度に焼き続けることも容易かっただろう。
けれど、癒しには使わなかった。
フェニキアの炎は毒だったからだ。
癒しが必要な時、母は水の術を使った。
その術は、今はリオに受け継がれている。
なのに、桜夜は炎で命を救っていた。
それも、二つ。
京子と、あずさ。
火を細く通し、弱すぎる命の灯を燃え上がらせ、燃え尽きないように支えていた。
あんなふうに、ホムラは火を扱えない。
その事実に、腹が立った。
「……魔女でもねえくせに」
ホムラが低くつぶやいた。
「うん」
桜夜は怒らなかった。
「僕は魔女じゃない」
「火の家の人間でもねえ」
「そうだね」
「なのに、なんでそんな使い方ができる」
桜夜は少しだけ考えた。
「たぶん、僕の火じゃないから」
「は?」
「僕は、鳳凰の火を借りてる。支配してると言ってもいいけど、根本的には僕自身の火じゃない。だから扱えることもあるし、扱いきれないこともある」
「意味わかんねえ」
「僕も全部はわかってないよ」
「腹立つな」
「うん。腹立っていいと思う」
ホムラは桜夜を睨んだ。
「何でお前が許可すんだよ」
「ホムラは火の魔女だから」
桜夜は穏やかに言った。
「得意分野で、魔女でもない僕に変なものを見せられた。腹が立つのは当然だよ」
「……わかってんなら、黙れ」
「うん」
桜夜は黙った。
しばらく車内には、雨の音とエンジンの低い振動だけがあった。
やがてホムラが、小さく言った。
「火で助けるなんて、反則だろ」
桜夜は、少しだけ困ったように笑った。
「僕も、そう思うよ」
その返事は、軽くなかった。
ホムラは横目で桜夜を見た。
桜夜は窓の外を見ていた。
濡れた街の灯りが、その横顔を淡く照らしている。
今日、桜夜は命を救った。
それも二つ。
自信満々に、笑みすら浮かべて、癒す炎を見せた。
けれど、その横顔は、勝った者の顔ではなかった。
ホムラは、それを見て少しだけ黙った。
火で助けることができる。
なら、なぜ救えなかった命がある。
桜夜がずっと何を考えていたのか、ホムラにも少しだけわかった気がした。
だから、何も言わなかった。
言えなかった。
リオの運転する車は、雨の横浜を静かに走っていく。
助手席で、サイカが小さく振り返った。
「桜夜さん」
「うん」
「今日は、帰ったら寝ようね」
「努力する」
「約束」
桜夜は一瞬、黙った。
ホムラが横から言う。
「約束しろ。逃げんな」
リオも前を見たまま言った。
「睡眠は生命維持に必要です。桜夜様」
桜夜は、少しだけ笑った。
「わかった」
そして、静かに答えた。
「約束する」
雨はまだ降っていた。
けれど車内には、鳳凰の羽を握った小さな手の記憶と、命に灯をともした炎の温度が、かすかに残っていた。




