第57話 簒奪の日
横浜に戻るころには、空はすっかり重くなっていた。
伊豆の海沿いを走っていた時には、まだ春の光が残っていた。
けれど屋敷の門をくぐる頃には、雲は低く垂れ込め、庭の木々は湿った風にざわめいていた。
サイカは車を降りて、空を見上げた。
「雨、降りそうだね」
「降るだろうな」
ホムラが面倒くさそうに言った。
「荷物、先に入れるぞ」
「うん。ありがとう」
桜夜はそう言って、車のキーを指先で回した。
リオは、横浜の屋敷を見上げていた。
伊豆の別荘とは違う。
ここは、暮らすためだけの家ではない。
守るための家であり、隠すための家であり、命じるための家だった。
四方院における水希桜夜の屋敷。
その意味を、リオはまだすべては知らない。
「桜夜様。本日はお休みになられますか」
「そうしたいところだね」
桜夜は、どこか他人事のように答えた。
そのまま玄関をくぐる。
帰ってきた、という空気があった。
伊豆に残してきたものとは違う。
こちらには、待っていたものがある。
仕事だ。
屋敷の奥、執務室の前に立った桜夜は、しばらく扉を見つめていた。
「開けないの?」
サイカが首をかしげる。
「開けたくないなあ」
「何があるんですか」
リオが尋ねる。
「現実」
桜夜は短く答えた。
「開けた瞬間、帰ってきたことを後悔するやつ」
「じゃあ開けんな」
ホムラが言った。
「そういうわけにもいかないんだよ」
「面倒くせえな」
「うん。面倒くさい」
桜夜はため息をつき、扉に手をかけた。
そして開けた。
執務室の机の上には、書類が山のように積み上がっていた。
一山ではない。
二山でもない。
机の上、脇机、窓際の棚、応接用のテーブル。
あらゆる場所に、分類された書類の束が整然と置かれていた。
整然としていることが、かえって腹立たしかった。
桜夜は、無言で扉を閉めた。
「桜夜さん?」
サイカが不安そうに声をかける。
桜夜はもう一度、扉を開けた。
やはり書類は消えていなかった。
彼はしばらく黙っていた。
それから、低く毒づいた。
「陰険性悪狸じじい。仕事減ってねえじゃねえか」
サイカが目を丸くした。
リオも、ほんのわずかに瞬きをした。
ホムラだけが、にやりと笑った。
「お、育ち悪そうな声出たな」
「出るよ。これは出る」
桜夜は机の上の書類を見た。
そして、ふっと視線を逸らした。
「しーらね」
「おい」
「今日は見なかったことにする」
「できるのかよ」
「今ならできる」
桜夜は本気でそう言っている顔だった。
ホムラが呆れたように肩をすくめる。
サイカは困ったように笑い、リオは静かに書類の量を目測していた。
「桜夜様。こちらの山は緊急度別に分かれているようです」
「見なくていいよ」
「この赤い札の束は、即日確認が必要と思われます」
「見なくていいって」
「こちらは宗主印のある封書です」
「なおさら見たくない」
「お気持ちは理解しますが、業務としては――」
「リオ」
桜夜は真顔で言った。
「今日は悪い子になろう」
リオは沈黙した。
サイカが小さく吹き出す。
「桜夜さん、悪い子って」
「大人が言うと終わってるな」
ホムラが容赦なく言った。
「うるさいな」
桜夜はそう返しながら、執務室の中へ入った。
室内には、紙と墨と古い木の匂いがあった。
窓の向こうでは、庭の木々が揺れている。
雲がさらに低くなっていた。
ふと、廊下側の窓に視線が向いた。
ぽつり、と雨粒が落ちた。
それはすぐに、もう一粒を呼んだ。
窓硝子に小さな点が増えていく。
雨だ。
桜夜は、立ち止まった。
雨脚はあっという間に強くなった。
遠くで雷が鳴る。
低い音が、屋敷の奥へと響いた。
その音を聞いた瞬間、桜夜の表情から軽さが消えた。
「桜夜さん?」
サイカが声をかける。
桜夜は窓の外を見たまま、しばらく返事をしなかった。
雷が、もう一度鳴った。
「……そういえば」
桜夜がつぶやいた。
「あの日も、こんな雨だったな」
リオが静かに顔を上げる。
「あの日、とは」
桜夜は答えなかった。
ただ、窓の向こうの雨を見ていた。
横浜の屋敷。
山積みの書類。
宗主の嫌味な采配。
相談役という役目。
そのすべてが、ひとつの雨の日へとつながっていく。
水希桜夜が正式に相談役の座を得た日。
いいや、得たのではない。
簒奪した日へと。
雨が降っていた。
その日も、空は重かった。
御前試合が行われるには、あまりにも不吉な日だった。
だが、四方院の儀式は天候で止まらない。
屋敷の奥に設けられた試合場には、四家の重鎮が揃っていた。
玄武。
青龍。
朱雀。
白虎。
そして、当時の相談役である鷹司。
水希桜夜は、相談役候補としてその場に立っていた。
まだ若かった。
今よりもずっと、目つきが鋭かった。
今よりもずっと、眠れていなかった。
そして今よりもずっと、自分が生きている意味を見失っていた。
如月あずさの四十九日が、ようやく終わったばかりだった。
彼女はもういない。
その事実だけが、桜夜の胸の中に冷たく残っていた。
桜吹雪は持ってきていた。
けれど、抜くつもりはなかった。
相談役と相談役候補が、真剣を用いて力を示す御前試合。
古い形式だった。
殺し合いではない。
だが、死んでもおかしくはない。
それでも桜夜に、やる気はなかった。
適当に時間を稼ぎ、適当に負けるか、適当に終わらせる。
それでよかった。
相談役になりたいわけではない。
四方院の中枢に座りたいわけでもない。
自分にそんな資格があるとも思っていなかった。
試合場の中央で、鷹司は長巻を構えていた。
年齢を重ねた男だったが、その立ち姿は崩れていない。
相談役という立場にあるだけのことはある。
長巻の切っ先が、雨音の中でわずかに揺れた。
「水希桜夜」
鷹司が言った。
「はい」
桜夜は淡々と返した。
「よい目をしている」
「そうですか」
「死者を見る目だ」
桜夜の表情は変わらなかった。
少なくとも、外からはそう見えた。
試合開始の合図が下る。
鷹司が動いた。
長巻の間合いは広い。
刃が走り、桜夜の肩口を狙う。
桜夜は半歩引いた。
避ける。
切っ先が衣をかすめる。
続く二撃目を、桜夜は短く受け流した。
守りの剣。
明人に教えられた剣。
斬れる相手を斬らない剣。
殺せる相手を殺さない剣。
壊せる相手を、壊さずに済ませる剣。
桜夜は、その技で時間を稼いだ。
鷹司の長巻を受け、流し、間合いを外す。
踏み込みすぎない。
返しすぎない。
相手を殺さない。
相手を壊さない。
ただ、試合を終わらせない。
玄武は黙って見ていた。
青龍も、朱雀も、白虎も、それぞれの席から動かない。
雨音だけが強くなっていく。
鷹司は、鍔迫り合いに近い距離で、桜夜にだけ聞こえる声で囁いた。
「四十九日が終わったな」
桜夜の眉が、ほんのわずかに動いた。
「惜しい娘だった」
長巻の柄と桜夜の剣が押し合う。
周囲には、雨音と刃の軋みしか聞こえない。
鷹司は笑った。
「俺なら、あずさを救えた」
その瞬間、桜夜の呼吸が止まった。
鷹司は、さらに囁く。
「今からでも間に合う」
桜夜の瞳から、光が消えた。
それは怒りではなかった。
少なくとも、最初の一瞬は。
むしろ、希望に似ていた。
あってはならない希望。
もう諦めたはずのもの。
葬ったはずのもの。
彼女の四十九日と一緒に、自分の中で燃やしたはずのもの。
それが、声を持って戻ってきた。
今からでも間に合う。
鷹司は、桜夜が揺らいだことを悟った。
「知りたいか」
囁く。
「知りたければ――」
その言葉は、最後まで続かなかった。
桜夜の剣が、変わった。
それまで受け流すだけだった刃が、すっと沈む。
長巻の軌道の内側に入り込んだ。
鷹司の目が見開かれる。
遅い。
桜夜の剣は、長巻の柄へ滑り込んだ。
守りの剣には、武器を壊す技がある。
相手を殺さず、戦闘を終わらせるための技。
刃を奪い、柄を断ち、相手の選択肢を消す技。
桜夜は、その技を使った。
ただし、守るためではなかった。
長巻が、へし折れた。
いや、違う。
切り裂かれた。
刃も、柄も、鷹司の構えも、武人としての誇りも、まとめて裂かれた。
雨音の中に、乾いた破断音が響く。
試合場の空気が凍った。
鷹司が後ろへ下がる。
だが、桜夜はもうそこにいなかった。
次の瞬間、鷹司の首が掴まれていた。
桜夜は片手で、先代相談役の身体を軽々と持ち上げた。
「言え」
声は低かった。
若い声だった。
けれど、その奥にあったものは、若さではない。
壊れた祈りだった。
「今からでも間に合うって、どういう意味だ」
鷹司は答えない。
桜夜の指に力がこもる。
「言え」
鷹司の足が宙を蹴った。
「どうやって、あずさを戻す」
桜夜の周囲に火が生まれた。
赤ではない。
金色に近い、神聖な炎。
鳳凰の火。
それは浄化の火であり、再生の火であり、同時に処刑の火でもあった。
炎が鷹司の身体に触れる。
肉が焼ける匂いがした。
誰かが息を呑んだ。
鷹司が悲鳴を上げる。
桜夜は手を緩めなかった。
死なせない。
まだ死なせない。
死なせれば、聞けなくなる。
だから、焼く。
全身に火を回しながら、心臓だけは止めない。
喉を焼きながら、声だけは残す。
神聖な炎を、尋問の道具に変える。
「言え」
桜夜は繰り返した。
「方法を教えろ」
朱雀が立ち上がった。
「まずい」
彼女の声に、焦りがあった。
朱雀は火の精霊へ呼びかける。
四方院における火の権威。
朱雀の名を継ぐ者として、火を鎮めようとした。
けれど、火は従わなかった。
鳳凰の炎は、朱雀の呼び声を聞かなかった。
いや、火の精霊たちが応じなかったのではない。
応じられなかった。
桜夜の意思が、あまりにも強すぎた。
火が、桜夜の怒りと祈りと絶望に縛られていた。
朱雀の顔色が変わる。
「火が……取れない」
青龍は沈黙していた。
白虎は席を蹴るように立ち上がりかけた。
だが、それより早く、玄武が動いた。
「桜夜」
声が響く。
桜夜は振り返らなかった。
鷹司の身体は、炎に包まれている。
それでも、まだ死んではいない。
「水希桜夜」
玄武が、ゆっくりと席から立った。
その動きに、試合場全体が息を詰める。
玄武は腰の短刀を抜いた。
長大な神器ではない。
儀礼用の太刀でもない。
短刀一本。
それだけを手に、玄武は試合場へ降りた。
「方法を知りたいのだろう」
桜夜の肩が、わずかに動いた。
玄武は静かに言った。
「それは、わしが教えてやろう」
その言葉に、桜夜が初めて玄武を見た。
目が合う。
若い桜夜の目は、ひどかった。
希望に取り憑かれた者の目だった。
玄武は、それを見ても表情を変えなかった。
短刀を構える。
桜夜は鷹司を放り投げた。
炎はまだ消えない。
床に転がった鷹司の身体が、焼けながら痙攣する。
朱雀が駆け寄ろうとする。
だが、火はまだ桜夜の支配下にあった。
玄武が一歩踏み込む。
桜夜の桜吹雪が応じた。
短刀と刀が、雷鳴のような音を立てて打ち合う。
短い刃で、玄武は桜夜の剣を受けた。
受け流し、入り込み、外す。
老人の動きではなかった。
宗主の動きでもなかった。
ただ、桜夜を止められる者の動きだった。
「聞け」
玄武は、刃を合わせながら言った。
「魂、肉体、記憶」
桜夜の剣が止まらない。
玄武は短刀一本で、それを捌く。
「その三つが揃えば、死者の蘇生は可能だ」
桜夜の呼吸が乱れた。
「……本当ですか」
「ああ」
玄武は答えた。
「本当だ」
その言葉は、嘘ではなかった。
だからこそ、残酷だった。
桜夜の剣が、ほんの一瞬だけ鈍る。
聞きたかった言葉。
願ってはいけない言葉。
すがりつきたかった言葉。
死者の蘇生は可能だ。
玄武は、その隙を逃さなかった。
「だが」
短刀が桜夜の刀を弾く。
玄武の指が、空を切った。
術式が、桜夜の意識へ滑り込む。
「お前が戻したい娘には、もう届かん」
桜夜の目が見開かれた。
「玄武、さ――」
「眠れ」
次の瞬間、桜夜の身体が崩れた。
桜吹雪が床に落ちる。
鳳凰の炎が、一瞬遅れて揺らいだ。
朱雀が叫ぶ。
今度は火が応じた。
桜夜の意思が途切れたことで、炎の支配が外れたのだ。
朱雀は火の精霊に呼びかけ、鷹司を包んでいた炎を引き剥がした。
焦げた匂いが、試合場に満ちていた。
鷹司はまだ生きていた。
かろうじて。
それは慈悲ではなかった。
桜夜が、死なせなかっただけだった。
鷹司相談役は、その後七日間、生死の境をさまよった。
水希桜夜は、目を覚ました時には自室にいた。
雨はまだ降っていた。
身体には、玄武との切り結びでできた傷がいくつも残っていた。
桜夜はしばらく天井を見ていた。
そして、起き上がった。
荷物をまとめ始めた。
当然だった。
追放だ。
先代相談役を御前試合の場で半殺しにした。
死者蘇生の情報を求めて、神聖な炎で焼いた。
宗主と切り結び、四方院の秩序を乱した。
弁解の余地はない。
水希の屋敷を出る準備は、驚くほど簡単だった。
もともと、持ち物など少ない。
桜夜は、必要最低限のものだけを鞄に入れた。
桜吹雪を手に取る。
鞘の冷たさが、掌に重かった。
その時、襖の向こうから声がした。
「起きたか」
玄武だった。
桜夜は手を止めた。
「はい」
「荷造りか」
「はい」
「どこへ行く」
「さあ? どうせ追放でしょう」
桜夜は淡々と言った。
「自分で出ていきます。手間はかけません」
襖が開いた。
玄武が立っていた。
傷ひとつない顔で、いつものように桜夜を見ている。
「誰が追放すると言った」
桜夜は、意味がわからなかった。
「……されない理由がありますか」
「ある」
玄武は短く言った。
「お前は今日から相談役だ」
桜夜は黙った。
言葉が入ってこなかった。
「代行ではない」
玄武は続ける。
「候補でもない」
「玄武様」
「今すぐ、相談役をやれ」
桜夜は、玄武を見た。
冗談ではない。
玄武は冗談を言わない。
少なくとも、こういう時には。
「僕は、鷹司相談役を焼きました」
「知っている」
「死者蘇生を求めて、拷問しました」
「見ていた」
「宗主に刃を向けました」
「切り結んだな」
「なら」
桜夜の声が、ほんの少しだけ荒くなった。
「なぜですか」
玄武はしばらく黙っていた。
雨音が聞こえる。
遠くで雷が鳴った。
「お前を外に出す方が危うい」
玄武は言った。
「お前は座を欲していなかった。だが、座を奪った」
「奪ったつもりはありません」
「力で“先代”を退けた」
桜夜は何も言えなかった。
「ならば、簒奪だ」
玄武の声は冷たかった。
けれど、そこには奇妙な確かさがあった。
「簒奪した者には、簒奪した座の責任を負わせる」
「罰ですか」
「役目だ」
「同じことでは」
「違う」
玄武は言った。
「罰なら、終わりがある」
桜夜の指が、鞄の取っ手を握りしめる。
「役目には、終わりがない」
桜夜は笑わなかった。
笑えなかった。
その後、四家の当主を揃えた場で玄武は正式に告げた。
水希桜夜を特別相談役に据える、と。
青龍は静観した。
朱雀もまた、何かを言いかけて、結局は口を閉じた。
白虎だけが吠えた。
「宗主、正気か!」
白虎の怒声が、広間に響いた。
「あの者は鷹司相談役を半殺しにしたのですぞ! しかも死者蘇生などという禁忌に囚われ、炎で焼いた! その者を新たな相談役に据えるなど、四方院の秩序を自ら踏みにじる行為です!」
玄武は白虎を見た。
「では、誰が止める」
「何を」
「水希桜夜をだ」
白虎が言葉を詰まらせる。
玄武は静かに続けた。
「追放して、誰が責任を持つ。幽閉して、誰が鍵を握る。殺すと言うなら、誰が殺す」
広間は沈黙した。
「危険だから外へ出すのではない」
玄武は言った。
「危険だから、中枢に縛る」
「それは、褒賞ではありませんか!」
「違う」
玄武の声に、わずかな重みが増した。
「これは鎖だ」
桜夜は、その場に座っていた。
自分のことを話されているのに、どこか遠くのことのように聞こえた。
相談役。
簒奪者。
鎖。
役目。
そのどれもが、まだ実感を持たなかった。
ただ、ひとつだけわかっていた。
あずさは戻らない。
魂、肉体、記憶。
三つが揃えば、死者の蘇生は可能だ。
玄武はそう言った。
そして、届かないとも言った。
届かない。
その言葉だけが、雨音のように桜夜の中で鳴り続けていた。
雷鳴で、現在の執務室に戻った。
桜夜は、窓の前に立っていた。
雨は強くなっている。
庭の石畳に、水が跳ねていた。
サイカは、何も言えずに桜夜の背中を見ていた。
リオも、ホムラも黙っている。
桜夜が何を思い出していたのか、すべてはわからない。
けれど、空気だけは伝わっていた。
この雨は、ただの雨ではないのだと。
桜夜は、ゆっくりと息を吐いた。
「……だからって」
そして、机の上の書類を見る。
「仕事まで増やすことないだろ。陰険狸じじい」
さっきより少しだけ、声が疲れていた。
ホムラが眉をひそめる。
「お前、大丈夫か」
「うん」
「嘘くせえ」
「まあ、少し昔のことを思い出しただけだよ」
「昔のこと?」
「うん」
桜夜はそれ以上言わなかった。
サイカが一歩近づく。
「桜夜さん」
「うん」
「休む?」
桜夜は答えようとして、少しだけ迷った。
執務室の机。
山積みの書類。
宗主の印。
相談役としての責任。
簒奪した座。
負わされた鎖。
逃げてもいい理由なら、いくらでもあった。
けれど、逃げた先に何があるかも、桜夜は知っていた。
外に出す方が危うい。
玄武の声が、雨音に混じって蘇る。
桜夜は小さく笑った。
「少しだけやる」
「少しだけ?」
「一枚だけ」
ホムラが鼻で笑う。
「絶対一枚で終わらねえやつだろ」
「そうかも」
「なら最初からそう言え」
桜夜は机へ向かった。
椅子に座り、山の一番上にある書類を手に取る。
桜吹雪ではない。
長巻を切り裂いた剣でもない。
鳳凰の炎でもない。
今、桜夜の手にあるのは、一本の万年筆だった。
リオが静かに言った。
「必要であれば、分類をお手伝いいたします」
「ありがとう。助かる」
サイカが隣に立つ。
「お茶、淹れるね」
「ありがとう」
ホムラは扉にもたれかかったまま、面倒くさそうに腕を組んだ。
「倒れたら蹴るからな」
「そこは助けてほしいな」
「蹴って起こす」
「優しくない」
「知るか」
桜夜は少しだけ笑った。
雷が鳴る。
あの日と同じ雨だった。
けれど、今の桜夜は試合場に立っていない。
誰かの首を掴んでもいない。
火を従えてもいない。
届かない希望に、すべてを焼かれてもいない。
机の前に座り、書類を読み、万年筆を取る。
それだけのことが、ひどく重かった。
けれど、その重さが鎖なら。
その鎖で、まだこちら側につながれているのなら。
今は、それでいいのかもしれなかった。
桜夜は書類の一枚目に目を通し、低くつぶやいた。
「……一枚だけな」
雨は降り続いていた。
簒奪の日と同じ雨が。
結局、桜夜は一枚だけでは終わらなかった。
一枚目に目を通し、万年筆を走らせる。
二枚目を開き、印を入れる。
三枚目で眉をひそめ、四枚目で小さく舌打ちをした。
サイカが淹れた茶は、いつの間にか半分ほど冷めていた。
リオは隣で書類を分類している。
ホムラは面倒くさそうにしながらも、部屋を出ていかなかった。
雨は降り続いていた。
桜夜は昔から、敵が多かった。
相談役になる前は、野良犬と呼ばれた。
どこの家にも正式には属さず、どの家の都合にも従いきらず、必要な時だけ呼ばれて血を流す。
そういうものとして扱われていた。
相談役になってからは、呼び名が変わった。
簒奪者。
狂犬。
水希の失敗作。
宗主の飼い犬。
名前はいくつもあった。
どれも、間違いではなかったのかもしれない。
味方がいなかったわけではない。
親友もいた。
ただ、その親友とは、二人にすると問題を起こすと判断され、いつの間にか距離を置かされた。
静馬のことは、好きだった。
今でも、そう思っている。
けれど、静馬には静馬の傷があった。
桜夜には桜夜の傷があった。
傷口同士を近づければ、慰め合えることもある。
けれど、互いの血で互いを汚してしまうこともある。
だから桜夜は、ただ淡々と任務をこなした。
命じられた場所へ行く。
壊れかけた均衡を戻す。
暴走した術者を止める。
神域の歪みを封じる。
汚れ役を引き受ける。
恨まれるべき相手には、きちんと恨まれる。
成功すればするほど、敵は増えた。
役に立てば立つほど、危険視された。
それでも桜夜は、仕事をした。
そうする以外に、自分をこちら側へつなぐ方法を知らなかった。
いつのころからか、青龍家の嫡男が桜夜を案じるようになった。
最初は、疑った。
この男も、自分が次の宗主になるために、新しい相談役を利用したいのだろう。
そう思っていた。
青龍の嫡男は穏やかに笑い、必要な時には遠回しに助け、桜夜が無茶をすれば静かに怒った。
それでも桜夜は、しばらく信用しなかった。
信用しない方が楽だった。
期待しなければ、裏切られない。
近づかなければ、置いていかれない。
名前を呼ばれなければ、失った時に痛まない。
けれど、気がつけば、そうではなくなっていた。
いつからか、兄弟になった。
正式に盃を交わしてからは、敵もだいぶ減った。
青龍家の嫡男と水希桜夜。
その関係が明文化されたことで、軽々しく噛みついてくる者は減った。
桜夜を孤立した狂犬として扱うことは、以前よりずっと難しくなった。
ただし、仕事は減らなかった。
むしろ増えた。
敵が減った分、頼まれることが増えた。
狂犬ではなく相談役として扱われるようになった分、断れない案件が増えた。
青龍とのつながりができた分、四方院全体の調整まで回ってくるようになった。
それが、今の現状だった。
桜夜は、机の上の書類を見た。
「……やっぱり陰険狸じじいだな」
低く毒づきながらも、手は止めなかった。
サイカが、少し心配そうに言う。
「桜夜さん、休まなくて大丈夫?」
「うん」
「うそ下手だよね」
「うん。少し疲れてる」
素直に認めると、サイカは少しだけ驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、あと少しだけね」
「うん。あと少しだけ」
ホムラが鼻を鳴らした。
「どうせ少しじゃ終わらねえだろ」
「そうかも」
「認めんな」
リオは書類の束を整えながら、静かに言った。
「桜夜様。こちらの分類が終わりました。緊急度の高いものから順にお渡しします」
「ありがとう。助かる」
「秘書業務ですので」
「まだ正式には秘書じゃないよね」
「実務上は、すでに相当程度、秘書業務に近いものを担っていると認識しております」
桜夜は小さく笑った。
雨は降っている。
雷も鳴っている。
あの日と同じ雨だった。
けれど、今の桜夜はひとりで書類の山に向かっているわけではなかった。
茶を淹れてくれる声がある。
書類を分けてくれる手がある。
倒れたら蹴ると怒鳴る者がいる。
昔より、敵は減った。
仕事は増えた。
背負うものも、増えた。
けれどその重さが、今の桜夜をまだ椅子に座らせていた。
桜夜は万年筆を持ち直した。
「……次」
リオが、次の書類を差し出す。
桜夜はそれを受け取り、目を通した。
窓の外では、雨が降り続いていた。
簒奪の日と同じ雨が。
けれど、窓の内側には、もうひとりではない桜夜がいた。




