第56話 いつもそばに
以下は、あの「救済」の日に、水希桜夜の私用端末上に表示されていた文章である。
遺書、またはそれに類する個人的記録である可能性があるため、原本を改変せず厳重に保管することを推奨する。
◇◇◇
朝の伊豆は、まだ少しだけ冷たかった。
海から吹いてくる風は、夜の名残を含んでいて、窓を開けると、潮の匂いと湿った緑の匂いが一緒に入り込んでくる。
サイカは、キッチンで湯気の向こうに立っていた。
リオは、テーブルの上を整えている。
ホムラは、ソファに座ったまま腕を組み、まだ少し眠そうな顔でこちらを見ていた。
「お前、寝たのか」
「うん」
「どれくらいだよ」
「少し」
「少しって、どれくらいだ」
「僕にしては、かなり」
「信用ならねえ」
ホムラはそう言って、眉間にしわを寄せた。
僕は苦笑した。
いつもの会話だった。
いつもの朝だった。
けれど、いつもという言葉は、ときどき不意に重くなる。
昨日、僕は手紙を書いた。
如月あずさへの手紙。
そして、まだ名前もわからない未来の君への手紙。
過去に置いていくものと、未来へ持っていくもの。
書いてしまえば楽になると思ったわけではない。
書いたからといって、何かが終わるわけでもない。
ただ、言葉にしなければ、僕はまた何も残さないまま勝手に消えようとする。
それが少しだけ、怖くなった。
「桜夜さん」
サイカが、こちらを振り返った。
「コーヒー、飲める?」
「うん。ありがとう」
「ちゃんと朝ごはんも食べてね」
「努力する」
「努力じゃなくて、食べるの」
「はい」
思わず返事が丁寧になって、サイカがくすっと笑った。
リオが、皿を置きながら言う。
「桜夜様。朝食後、本日の予定を確認してもよろしいでしょうか」
「予定ってほどのことはないよ。少し片づけて、横浜に戻るくらいかな」
「承知いたしました」
リオはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「昨日のお手紙は、どうなさいますか」
サイカの手が止まった。
ホムラも、何も言わずにこちらを見る。
「如月あずさへの手紙は、ここに置いていく」
僕は言った。
「未来の君への手紙は、持って帰る」
「……そうですか」
「うん」
リオは、それ以上聞かなかった。
記録するべきことと、記録しない方がいいこと。
彼女は、その境目をとても丁寧に扱う。
ホムラが小さく息を吐いた。
「で、忘れずに持って帰れんのかよ」
「そこまで信用ない?」
「メール返さねえやつが手紙を管理できると思うか?」
「厳しいな」
「事実だろ」
「まあ、そうだね」
サイカが笑った。
その笑い声を聞いて、僕は少しだけ安心した。
昨日の夜、手紙を書いた後、空気は少し変わった。
重くなったのではない。
むしろ、触れてはいけないものに、ようやく名前がついたような感じだった。
名前がつけば、少しだけ近づける。
近づけば、傷つくこともある。
けれど、遠くから眺めているだけでは、たぶん何も守れない。
朝食を終えて、僕たちは別荘の片づけを始めた。
サイカは台所を丁寧に拭き、リオは忘れ物がないか確認し、ホムラは面倒くせえと言いながら荷物を運んだ。
僕は、最後に寝室へ入った。
机の引き出しを開ける。
如月あずさへの手紙を、そこに入れた。
封はしなかった。
届かない手紙に封をするのは、少し違う気がした。
「……また来るよ」
誰に言ったのか、自分でもよくわからなかった。
如月あずさにか。
この家にか。
それとも、ここで泣いた昔の自分にか。
返事はなかった。
けれど、それでよかった。
リビングに戻ると、サイカが玄関の前で待っていた。
「桜夜さん」
「うん」
「置いてこられた?」
「うん」
「そっか」
サイカはそれだけ言って、僕の手を握った。
何も聞かなかった。
だから、僕も何も言わなかった。
外に出ると、海が光っていた。
伊豆の朝は、昨日の僕たちのことなど知らない顔をしている。
それが少し腹立たしくて、少しありがたかった。
「帰るぞ」
ホムラが車の横で言った。
「はいはい」
「はいは一回」
「ホムラちゃん、お母さんみたいだね」
「あ?」
「ごめん」
サイカが吹き出した。
リオも、口元に手を当てて笑っていた。
ホムラは耳まで赤くして、車のドアを乱暴に開けた。
「さっさと乗れ」
「うん」
僕は運転席に座った。
助手席にはサイカ。
後部座席にリオとホムラ。
いつもの配置になっていた。
エンジンをかける。
車はゆっくりと別荘を離れた。
坂を下り、海沿いの道へ出る。
青い海。
白い波。
遠くに見える小さな船。
昨日までここにいたことが、すでに少し遠い出来事のように感じられた。
ラジオをつけると、古い歌が流れていた。
遠く離れた誰かへ、そばにいると伝えるような歌だった。
約束の歌。
別れの歌。
会えなくても、触れられなくても、それでも心だけは近くにあると祈るような歌。
サイカが、窓の外を見ながら言った。
「綺麗な歌だね」
「うん」
「でも、ちょっと寂しいね」
「そうだね」
寂しいのに、優しかった。
別れの歌なのに、離れきっていない。
約束の歌なのに、その約束が守られるかどうかは、どこにも書かれていない。
ただ、そばにいると言う。
いつもそばにいる、と。
それだけを、何度も言葉を変えて伝えている。
僕は、ハンドルを握る指に少し力を込めた。
約束は、苦手だ。
守れないかもしれないから。
破るくらいなら、最初からしない方がいい。
そう思っていた。
けれど、僕はもういくつも約束してしまっている。
帰ること。
置いていかないこと。
勝手に終わらないこと。
迷っても、帰ること。
そして、いつかどこかで誰かに叱られること。
「桜夜さん?」
サイカがこちらを見た。
「どうしたの?」
「ううん。何でもないよ」
「うそ下手だよね」
「それ、最近よく言われる気がする」
「だって下手だもん」
サイカはやわらかく笑った。
その笑顔が、少しだけ眩しかった。
後部座席から、ホムラの声がする。
「眠そうな顔してんぞ。運転代わるか」
「ホムラちゃん、免許あるの?」
「ねえよ」
「じゃあ駄目だよ」
「なら休憩しろ」
「うん。次のサービスエリアで止まる」
「最初からそう言え」
ホムラは不機嫌そうに言った。
けれど、その不機嫌さの底にあるものを、僕はもう少しだけ知っている。
心配。
怒り。
置いていかれたくないという、ぶっきらぼうな祈り。
リオが静かに言った。
「桜夜様」
「うん」
「昨日のお手紙の件ですが」
「うん」
「未来の方へのお手紙は、桜夜様が持ち続けるのですね」
「そのつもり」
「では、なくされないよう、定期的な確認を推奨いたします」
「秘書っぽい」
「秘書ですので」
「でも、まだ正式には秘書じゃないよね」
「記録上は、そうです」
「記録上は?」
「実務上は、すでに相当程度、秘書業務に近いものを担っていると認識しております」
「それは、いつもありがとう」
リオは少しだけ目を丸くした。
それから、静かに微笑んだ。
「どういたしまして、桜夜様」
ラジオの歌は、まだ続いていた。
声は遠くへ伸びていく。
会えなくなるかもしれない誰かへ。
もう会えないかもしれない誰かへ。
それでも、そばにいると伝え続けていた。
僕は、ふと教皇の顔を思い出した。
まだ、この時の僕は知らない。
いつか、日本を訪れた教皇を空港まで見送りに行くことになることを。
そこで、あの人が僕に尋ねることを。
あなたは私が神の御許に逝ったら泣いてくれますか、と。
僕がまた逃げることを。
世界中のカトリック教徒が泣いてくださいますよ、と。
そして、あの人が静かに首を横に振ることを。
水希桜夜。
君がいないと、私はさみしい。
友よ。
私より先に、神の御許に逝かないでくださいね。
まだ何も知らない僕は、ただ歌を聞いていた。
約束と別れの歌を。
守れるかどうかわからない約束の歌を。
破られるかもしれない別れの歌を。
それでも、そばにいると祈る歌を。
「桜夜さん」
サイカが、そっと言った。
「うん」
「また来ようね」
伊豆に、とサイカは言わなかった。
でも、わかった。
この海へ。
この家へ。
あの砂浜へ。
過去を置いてきた場所へ。
手紙を置いてきた場所へ。
それでも、また帰ってくる場所へ。
「うん」
僕は答えた。
「また来よう」
「約束?」
サイカが聞いた。
約束。
その言葉に、胸の奥が小さく痛んだ。
僕は約束が苦手だ。
守れないかもしれないから。
破るくらいなら、最初からしない方がいい。
それでも。
「うん」
僕は言った。
「約束」
サイカは嬉しそうに笑った。
後部座席で、ホムラが鼻を鳴らす。
「破ったら殴るからな」
「それ、約束より怖いな」
「怖くしてんだよ」
リオが静かに頷いた。
「記録いたしました」
「今のは記録するんだ」
「はい。重要な約束ですので」
僕は笑った。
その笑いは、たぶん少しだけ困っていた。
約束は増えていく。
帰る場所も増えていく。
忘れてはいけない名前も、泣かせたくない人も、置いていけない人も、増えていく。
それは、重い。
とても重い。
けれど、その重さがなければ、僕はきっとどこまでも軽くなってしまう。
軽くなって、消えてしまう。
風にさらわれるみたいに。
名も、記憶も、足跡も、全部ほどけてしまう。
だから、重くてよかったのかもしれない。
少なくとも、この時の僕は、そう思おうとした。
サービスエリアに入ると、ホムラが真っ先に車を降りた。
「休憩だ。お前はコーヒー禁止」
「え」
「寝てねえやつがカフェインで誤魔化すな」
「手厳しい」
「水飲め」
ホムラはそう言って、自販機の前へ歩いていった。
サイカは売店を覗き込み、リオは土産物の棚を几帳面に眺めていた。
僕は少し離れて、駐車場の端に立った。
空は高かった。
春の空だった。
風が吹く。
誰かの声が聞こえた気がした。
いつもそばにいる。
そう言われることは、救いなのだろうか。
それとも、呪いなのだろうか。
そばにいると言われたら、離れられなくなる。
帰ってきてと言われたら、消えられなくなる。
先に逝かないでと言われたら、死ぬことさえ裏切りになる。
それでも、人はたぶん、そういう言葉に縛られて生きている。
縛られているから、帰れる。
縛られているから、踏みとどまれる。
縛られているから、ひとりで終われない。
「桜夜さん」
サイカが戻ってきた。
手には、小さな袋を持っている。
「これ、買っちゃった」
「何?」
「お菓子。車の中で食べようと思って」
「いいね」
「桜夜さんも食べる?」
「うん。少し」
「少しじゃなくて、ちゃんと食べるの」
「それは朝にも聞いたな」
「何回でも言うよ」
サイカは、まっすぐに僕を見た。
「何回でも言う」
その言い方に、僕は少しだけ言葉を失った。
何回でも。
帰ってきて。
食べて。
寝て。
生きて。
たぶん、サイカはまだそこまで言っていない。
けれど、いつか言うのだろうと思った。
僕がまた、自分を軽くしようとした時に。
全部なかったことにしてしまえばいいと、最悪の優しさに膝をつきかけた時に。
サイカは、きっと何回でも言う。
大丈夫じゃないよ、と。
帰ってきて、と。
リオは記録ではなく願いとして言うだろう。
ホムラは怒鳴るだろう。
あずさは、たぶん叱る。
ばか、と。
わんこ、と。
勝ち逃げするな、と。
まだ何も起きていないのに、そんな未来だけが、なぜか一瞬、胸をよぎった。
「桜夜さん?」
「うん」
「やっぱり、変な顔してる」
「そうかな」
「うん」
「じゃあ、お菓子食べたら治るかも」
「ほんと?」
「たぶん」
「じゃあ食べよう」
サイカは満足そうに頷いた。
車に戻ると、ホムラが水のペットボトルを僕に投げてきた。
「飲め」
「ありがとう」
「礼はいらねえ。飲め」
リオが後部座席から言う。
「桜夜様、糖分も適量必要です。サイカちゃんのお菓子を摂取なさってください」
「摂取」
「健康管理ですので」
「みんな厳しいね」
「お前が信用ねえからだろ」
ホムラの言葉に、サイカとリオが同時に頷いた。
「そこは否定してほしかったな」
「無理」
「事実ですので」
「うそ下手だもん」
三方向から言われて、僕は笑うしかなかった。
車は再び走り出した。
海が遠ざかっていく。
山を抜け、街が近づき、横浜へ戻っていく。
ラジオの歌は、いつの間にか終わっていた。
けれど、耳の奥にはまだ残っていた。
そばにいるという祈り。
別れても消えないという約束。
守れるかどうかわからない言葉。
破ったら、きっと誰かが泣く言葉。
それでも、約束は必要なのだと思った。
人は、約束なしには未来へ行けない。
たとえ破るかもしれなくても。
たとえ守れないかもしれなくても。
それでも、約束する。
帰ると。
また会おうと。
そばにいると。
先に逝かないと。
その全部を守れるほど、僕は強くない。
でも、約束をしないまま消えるほど、もう軽くもなかった。
「桜夜さん」
「うん」
「眠くない?」
「大丈夫」
サイカがじっと僕を見る。
「ほんと?」
「……少し眠い」
「じゃあ、次で休もう」
「うん」
僕は素直に頷いた。
少し前の僕なら、たぶん大丈夫だと言い切っていた。
心配させないように。
迷惑をかけないように。
自分の弱さを、誰の手にも渡さないように。
でも今は、少しだけ渡せた。
眠い、と。
疲れた、と。
休みたい、と。
それだけのことが、ひどく難しかった。
後部座席で、ホムラが小さく言う。
「そういうのでいいんだよ」
「何が?」
「知らねえ」
ホムラは窓の外を向いた。
リオは、その横で静かに微笑んでいた。
サイカは、僕の方を見て笑っていた。
いつもそばにいる。
その言葉は、きっと嘘になることもある。
人は離れる。
死ぬ。
忘れる。
約束は破られる。
手紙は届かない。
名前は変わる。
それでも。
その時、その言葉を本気で言ったのなら。
その時、そばにいたいと願ったのなら。
たぶん、それは嘘ではない。
僕は前を見た。
道は横浜へ続いていた。
守れるかどうかわからない約束を、胸の奥に抱えたまま。
いつか破るかもしれない別れを、まだ知らないふりをしたまま。
それでも、車は進んでいく。
帰る場所へ。
待っている人たちのいる場所へ。
そして、まだ終われない明日へ。
僕は、ハンドルを握り直した。
「帰ろうか」
そう言うと、サイカが笑った。
「うん。帰ろう」
リオが頷く。
「帰還記録として、残しておきます」
ホムラが、ぶっきらぼうに言った。
「今度はちゃんと寝ろよ」
「努力する」
「そこは約束しろ」
僕は少しだけ黙った。
約束。
重くて、怖くて、破れば誰かを泣かせるもの。
けれど、僕をここにつなぎとめてくれるもの。
「うん」
僕は言った。
「約束する」
ホムラは何も言わなかった。
サイカは嬉しそうに笑った。
リオは、静かに目を伏せた。
車は、春の光の中を走っていく。
遠ざかる海の音は、もう聞こえない。
それでも、誰かの声だけが耳に残っていた。
いつもそばにいる。
その言葉が、いつか僕を苦しめるのか。
それとも、いつか僕を救うのか。
この時の僕には、まだわからなかった。




