第55話 届かないラブレター
帰りは、ホムラの強い主張により車になった。
伊豆山神社の石段は、上る時よりも下る時の方が足にくる。そう桜夜が言うと、ホムラは「だから車だって言っただろ」と勝ち誇ったように言った。
もっとも、その勝利宣言から十分もしないうちに、ホムラは後部座席で眠っていた。
サイカも、その隣で穏やかな寝息を立てている。
リオは助手席にいたが、手帳を胸元に抱えたまま目を閉じていた。眠っているのか、浅く休んでいるだけなのかはわからない。
桜夜だけが、ハンドルを握っていた。
熱海の坂道を下り、海沿いの道へ出る。
午後の光が、海の上で細かく砕けていた。
かつて、あずさと見た光に少し似ていた。
そう思った瞬間、胸の奥にある古い扉が、音もなく開いた。
夕暮れの砂浜。
波に消えていく二人分の足跡。
知ってるよ、と笑った自分。
もうすぐお別れなんだよ、と言ったあずさ。
後悔しないために、好きだと言った。
涙の味がした。
ファーストキスは、甘くなかった。
苦くて、塩辛くて、息が詰まるほど綺麗だった。
桜夜は小さく息を吐いた。
車内には、少女たちの寝息がある。
それだけで、今の自分が過去に沈みきらずに済んでいるのだとわかった。
ふと、ラジオから古い歌が流れた。
最初は、別れた恋人のことを思い出す歌だった。
狭い部屋。
戻らない時間。
若さの中で置き去りにした後悔。
歌の中の男は、いなくなった恋人をまだ想っていた。
そしてラブレターまで書こうとしていた。
桜夜は、わずかに口元を歪めた。
未練がましい奴だ。
そう思った。
別れた恋人を思い出す。何を今さら。どれだけ悔やんでも、過去が戻るわけではない。どれだけ名前を呼んでも、若かった二人には戻れない。
けれど。
うらやましい、とも思った。
離別なら、まだ可能性がある。
相手はどこかで生きている。
拒絶されるかもしれない。
笑われるかもしれない。
もう会いたくないと言われるかもしれない。
それでも、声が届く可能性はある。
もう一度会えるかもしれない。
もう一度、名前を呼んでもらえるかもしれない。
死別とは違う。
離別の苦しみと、死別の苦しみは別物だ。
そんなことはわかっている。
比べるものではない。
どちらがましだとか、どちらが深いとか、そういう話ではない。
それでも、思ってしまった。
生きている相手に未練を向けられる男が、少しだけうらやましい。
曲が終わる。
少しだけ雑音が入って、次の歌に変わった。
今度は、誰かに笑っていてほしいと願うような歌だった。
自分が泣いても、相手には笑っていてほしい。
そんな、優しさと強がりが混ざった声。
桜夜は、バックミラー越しに後部座席を見た。
サイカの寝顔は穏やかだった。
ホムラは眉間にしわを寄せている。
リオは目を閉じたまま、静かに呼吸している。
笑っていてほしい。
それは、わかる。
泣かせたくない。
それも、わかる。
けれど、本当に大切な相手なら、笑っていなくてもそばにいたいと思う。
泣いていても、怒っていても、弱っていても、そのまま隣にいたいと思う。
あずさは、最後に泣いた。
死にたくないと泣いた。
もっと一緒にいたいと泣いた。
桜夜と、子どもにも会いたいと泣いた。
あの時、彼女に笑っていてほしいとは思わなかった。
ただ、生きていてほしかった。
涙でぐしゃぐしゃになっていても、声が震えていても、わがままを言っていても、何でもよかった。
生きていてほしかった。
桜夜は片手で懐を探り、煙管を取り出した。
火は入れない。
ただ、口にくわえる。
昔から、どうしようもなく言葉が出ない時、そうしてしまう癖があった。
煙のない煙管をくわえたまま、桜夜は海沿いの道を走る。
やがて、また曲が変わった。
今度は、離れていても消えないものを歌う曲だった。
会えない距離。
届かない時間。
それでも、誰かを思う気持ちまでは奪えない。
そんな、少しだけまっすぐすぎる歌だった。
綺麗ごとだ、と桜夜は思った。
離れていてもつながっている。
そんな言葉で救われるなら、死別はもっと優しかったはずだ。
けれど、完全な嘘でもない。
もし本当に何もつながっていないのなら、彼は今、あずさに手紙を書こうなどと思わなかった。
曲は続く。
海の光は、ゆっくりと色を変えていく。
次に流れたのは、未来へ向かう歌だった。
うまく飛べるかもわからない。
昨日より遠くへ行ける保証もない。
それでも、胸のどこかにある小さな羽を信じて、明日へ向かおうとするような歌。
桜夜は、少しだけ笑った。
未来。
昔の自分なら、そんなものはあずさと再会するためだけにあった。
どこに転生しても見つける。
何度でも生きる。
何年でも待つ。
そのために四方院家の情報網も、未来予知の占術も、相談役という地位も利用した。
それは今も、嘘ではない。
如月あずさに会いたい。
もう一度、彼女に名前を呼ばれたい。
わんこ、と呆れられたい。
ばか、と叱られたい。
けれど今、未来はそれだけではなくなっていた。
サイカがいる。
リオがいる。
ホムラがいる。
遠い国で、子どもたちが学校へ行く。
平塚の池には、白いアヒルたちがいる。
干物屋には、三毛猫のミケがいる。
どこかに、まだ名も知らない誰かの朝がある。
そして、いつか生まれてくるかもしれない君がいる。
桜夜は、眠っている三人をバックミラー越しに見た。
彼女たちは、今の桜夜を過去から引き戻す重りだった。
そして、未来へ歩かせる理由でもあった。
「僕も書くかな」
声は、海風に消えるほど小さかった。
「ラブレター」
誰も起きなかった。
桜夜は、少しだけ笑った。
如月あずさへ。
もう届かない、過去の未練へ。
四方院あずさへ。
いや、まだそう呼ばれるかもわからない、未来の君へ。
まだ届かない、未来の絶望へ。
ラブレターを。
木の板一枚に祈りをまとめることすら面倒がった自分が、便箋に向かう。
ひどく滑稽だと思った。
けれど、あずさにだけは。
あずさにだけは、書かないといけない気がした。
別荘に戻る頃には、空の色が少し変わっていた。
夕方にはまだ早い。
けれど、昼の光はもう傾き始めている。
車を停めると、桜夜はまず助手席のリオを見る。
彼女は目を開けていた。
「起きてた?」
「途中から」
「聞こえてた?」
「何がでしょうか」
リオは静かに答えた。
その答え方で、桜夜は彼女が聞こえていたのだと理解した。
「リオは優しいね」
「記録しないことも、秘書官の務めですので」
「そういうもの?」
「はい。少なくとも、今はそういうことにしておきます」
後部座席では、サイカがゆっくり目を覚ました。
「着いた?」
「うん。おかえり」
「ただいま」
サイカは眠たそうに笑い、すぐにホムラを見る。
ホムラはまだ寝ていた。
腕を組んだまま、少し眉間にしわを寄せている。
夢の中でも何かと戦っているようだった。
「ホムラちゃん、起きて」
「……階段はもう登らねえ」
「夢でも階段だったんだね」
「車……」
「着いたよ」
ホムラはゆっくり目を開けた。
「……勝ったか?」
「何に?」
「階段に」
「うん。たぶん勝った」
「ならいい」
桜夜は笑った。
四人は別荘に入った。
伊豆の別荘は、昨日と同じ場所にあるのに、少し違って見えた。
海の匂い。
木の床。
大きな窓。
星が見える天井。
あずさと過ごした場所。
サイカたちと眠った場所。
過去と現在が、同じ部屋に重なっている。
桜夜は、ふとサイカの胸元を見た。
イタリアで選んだ小さなアクセサリーが、光を受けて揺れている。
リオの手首にも、彼女らしい整った輝きがあった。
ホムラは「邪魔だ」と文句を言いながらも、結局外していない。袖の奥で、赤い石がかすかに光っていた。
形あるものは、すでに渡していた。
今ここにいる三人には、触れることができる。
贈ることができる。
呼べば、返事がある。
怒らせることも、笑わせることも、謝ることもできる。
けれど、形あるものを渡せない相手がいる。
もういない人と、まだいない人。
如月あずさ。
四方院あずさ。
過去と、未来。
桜夜は煙管を懐にしまった。
「桜夜さん?」
サイカが声をかける。
「うん?」
「どうかした?」
「少し、書きたいものがある」
サイカが瞬きをした。
「書きたいもの?」
「うん」
リオがわずかに目を見開いた。
「桜夜様が、自発的に書き物を……?」
「リオ、その反応は少し傷つく」
「申し訳ございません。ですが、昨日の絵馬一枚でもかなり悩んでおられましたので」
「否定できない」
ホムラが怪訝そうに言った。
「メールすら返さねえやつがいまさら何を書くんだよ」
「手紙」
「は?」
ホムラは本気で驚いた顔をした。
「お前が?」
「うん」
「誰に」
桜夜は少しだけ黙った。
それから、静かに言った。
「あずさに」
部屋の空気が変わった。
サイカは何も言わなかった。
リオも、記録しようとはしなかった。
ホムラは、少しだけ目を伏せた。
「……そうかよ」
「うん」
「読ませろとは言わねえ」
「ありがとう」
「でも、書いたことは忘れんな」
「うん。忘れない」
サイカがそっと微笑んだ。
「お茶、淹れようか」
「うん。お願い」
「甘いものもあるよ。干物屋さんの近くで買ったお菓子」
「ありがとう」
リオが立ち上がる。
「便箋と筆記具をご用意いたします」
「持ってきてるの?」
「桜夜様が使うかどうかに関わらず、用意はしております」
「さすがだね」
「秘書官ですので」
そう言いながら、リオはすぐに戻ってきた。
白い便箋。
封筒。
万年筆。
そして、黒いインク。
桜夜はそれらを見て、少しだけ困ったように笑った。
「逃げられないね」
「逃げたいのですか」
「少し」
「では、逃げないでください」
「はい」
リオはその返事に、わずかに満足そうな顔をした。
桜夜は窓際の机に座った。
海が見える。
かつてあずさと歩いた海。
昨日、三人と歩いた海。
波は同じように寄せて、同じように引いていく。
桜夜は万年筆を手に取った。
最初の便箋を前に、しばらく何も書けなかった。
絵馬の時もそうだった。
短い言葉に祈りをまとめることが苦手だった。
では、長ければ書けるのかと言えば、そうでもない。
長ければ長いほど、逃げ道が増える。
美しい言葉で飾ることもできる。
嘘を混ぜることもできる。
冗談にしてしまうこともできる。
桜夜はそれをよく知っていた。
だから、最初の一行に時間がかかった。
やがて、彼はゆっくり書いた。
『如月あずさへ』
その文字を見て、胸が痛んだ。
様、とは書かなかった。
拝啓、とも書かなかった。
昔の恋人に、急に礼儀正しくするのは、どこか卑怯な気がした。
君へ、とも書けなかった。
君という呼び方は、まだ近すぎる。
だから、名前だけにした。
如月あずさへ。
もう届かない人へ。
桜夜は息を吐き、続きを書いた。
『伊豆に来た。
君と歩いた砂浜を、もう一度歩いた。
今度は一人じゃなかった。サイカと、リオと、ホムラがいた。
君が聞いたら、どういう顔をするだろう。
怒るかな。
呆れるかな。
たぶん、最初は僕を犬扱いして叱るんだと思う。
それから、少しだけ笑う気もする。
君はそういう人だった。』
桜夜は一度、筆を止めた。
サイカがお茶を置いてくれる。
「ありがとう」
「うん」
サイカは手紙を見ようとはしなかった。
ただ、桜夜の隣に温かいお茶を置き、少し離れたソファに戻った。
リオも本を開いている。
読んでいるようで、桜夜を見守っている。
ホムラは窓際に座り、外を眺めている。こちらを見ないようにしているのが、逆に彼女らしかった。
桜夜はまた書いた。
『君が好きだった「あしあと」の詩を思い出した。
苦しい時、一人で歩いていると思っていた。
でも、本当は背負われていた。
そういう詩だったね。
僕はずっと、背負う側でいなければならないと思っていた。
泣いている人の隣へ行く。
歩けない人を背負う。
帰れない人の道を探す。
それが騎士のすることだと思っていた。
でも、僕はたくさん背負われていた。
明人先生に。
君に。
烏たちに。
アヒルたちに。
遠い国の人たちに。
そして、今そばにいる三人に。
それを認めるのに、ずいぶん時間がかかった。』
桜夜は苦笑した。
『君には、たぶん最初からばれていたんだと思う。
あいつの強さの核には弱さがある。
いつか折れてしまいそうな、繊細な奴。
そう言っていたらしいね。
余計なことを。
でも、間違ってはいなかった。』
手が少し止まる。
桜夜は窓の外を見る。
海は静かだった。
『僕はまだ、うまく生きられていない。
君を忘れていない。
忘れようともしていない。
でも、君のいない世界で朝ごはんを食べた。
猫に覚えられていた。
少し眠れた。
絵馬に願い事も書いた。
迷っても、帰れますように。
そう書いた。
君がいたら、面倒くさい願いだと笑ったかもしれない。
でも、今の僕にはあれが精一杯だった。』
桜夜は万年筆を持つ手に、少し力を込めた。
『あずさ。
君に会いたい。
これは、今でも変わらない。
何度も言わないようにしている。
言いすぎると、今そばにいてくれる人たちに失礼な気がするから。
でも、嘘は書かない。
君に会いたい。
もう一度、名前を呼ばれたい。
わんこ、と呆れられたい。
ばか、と叱られたい。
でも、それだけではなくなった。
君に会うためだけに生きていた僕は、少しずつ別の約束を持ってしまった。
サイカを泣かせたくない。
リオの記録を悲しいものだけにしたくない。
ホムラが怒る理由を、守りたいと思う。
遠い国の子どもたちが、税金に文句を言える世界が続いてほしい。
猫が僕を覚えていてくれるような朝が、また来てほしい。
君が聞いたら、欲張りになったねと言うだろうか。
うん。
たぶん僕は、欲張りになった。』
そこまで書いて、桜夜は目を閉じた。
胸の奥が痛い。
けれど、痛いだけではなかった。
痛みの中に、温かいものが混じっている。
過去は、冷たい墓ではない。
時々、今を温める火になる。
けれど、その火に近づきすぎれば、今を燃やしてしまう。
桜夜は、最後の段落を書いた。
『君を忘れない。
これは約束だ。
でも、君を忘れないまま、僕は今日を生きる。
君のいない世界で、誰かと笑う。
誰かに支えられる。
誰かを好きになる。
それを裏切りだとは、できれば言わないでほしい。
いや、怒ってもいい。
怒ってくれた方が、君らしい。
それでも僕は、君にもう一度言う。
好きだった。
今も、好きだ。
そして、君を好きだった僕のまま、僕は明日へ帰ろうと思う。
届かないことはわかっている。
それでも書く。
これが、僕から君へのラブレターです。』
桜夜は万年筆を置いた。
手紙は終わった。
けれど、終わった気がしなかった。
過去への手紙は、どれだけ書いても返事がない。
返事がないから、終わりも来ない。
桜夜は便箋を折らずに、しばらく見つめた。
「桜夜さん」
サイカが小さく声をかける。
「うん」
「書けた?」
「一通は」
「そっか」
サイカはそれ以上聞かなかった。
ホムラも振り返らなかった。
リオも記録しなかった。
その沈黙が、ありがたかった。
桜夜は二枚目の便箋を取った。
今度は、もっと時間がかかった。
まだいない人。
まだ名付けられていない人。
それでも、自分はその人に向けて手紙を書こうとしている。
未来に向けて手紙を書くことは、過去に向けて書くよりも傲慢かもしれない。
過去はもう動かない。
けれど未来は、まだ誰のものでもない。
そこに自分の言葉を置くことは、少し怖かった。
桜夜は、それでも書いた。
『拝啓 四方院あずさ様』
そこまで書いて、すぐに筆が止まった。
違う。
まだ、そうとは限らない。
君が本当に四方院家に生まれるのか。
君があずさと名付けられるのか。
君が、あの子の生まれ変わりなのか。
何もかも、まだ決まっていない。
桜夜は小さく息を吐き、次の行に書いた。
『いや、君があずさと名付けられるのかは、まだわからないけれど。』
書いた瞬間、少しだけ楽になった。
未来を決めつけずに済んだ気がした。
『それでも僕は、君に手紙を書いている。
君がいつかこの手紙を読むと信じて。
そして、できればその時の君が、僕のことを少し怒ってくれるといいなと思っている。
生まれる前から、こんな重い手紙を寄こす男なんて、ろくでもないから。』
ホムラが小さく笑った気配がした。
読んではいないはずなのに。
桜夜は少しだけ口元を緩め、続きを書く。
『僕は、君に会いたい。
これは嘘ではない。
でも、その言葉が君を縛る鎖にならないようにしたい。
僕は昔、如月あずさという人を愛した。
彼女は、死ぬ前に僕にひどいお願いをした。
忘れないで。
いつか生まれ変わるから、また見つけて。
僕は約束した。
僕のお姫様、と。
その約束のせいで、僕はずっと未来を探している。
君が、その未来なのかもしれない。
でも、君は如月あずさの続きである前に、君自身だ。
もし君があずさと名付けられても。
もし君が彼女の記憶を持っていても。
もし僕を見て、懐かしいと思ってくれても。
君は、君だ。
僕はそれを忘れてはいけない。』
桜夜は、万年筆を止めた。
これは、未来の彼女へ向けた手紙であると同時に、自分への戒めだった。
愛は、簡単に祈りの顔をする。
祈りは、簡単に命令の形を取る。
待っていた、という言葉は美しい。
けれど、待たれていた側にとっては、重荷になることがある。
守ろうと抱きしめた腕が、相手の息を奪うこともある。
怖くなって腕をほどきすぎたせいで、相手が風にさらわれることもある。
近づけば、壊すかもしれない。
離れれば、失うかもしれない。
だから、距離がいる。
昨日、伊豆山の石段で話したこと。
四方院家が中心に立たない理由。
東京でもなく、伊豆でもなく、横浜を選んだ理由。
支配しないで守る距離。
それは、家や国だけの話ではなかった。
桜夜自身の話でもあった。
守ることと、縛ることは違う。
手を伸ばすことと、閉じ込めることは違う。
名が戻るまで隣にいることと、その名を自分のものにすることは違う。
明人先生に教わったこと。
四方院家に関わって学んだこと。
サイカたちと出逢って、ようやく少しだけわかり始めたこと。
桜夜は続きを書いた。
『僕は、君を守りたい。
でも、守ると言いながら君を強く抱きしめすぎれば、君は息ができなくなる。
だからといって、怖がって腕をほどきすぎれば、君が風にさらわれる時に手を伸ばせない。
その距離が、まだわからない。
たぶん僕は、何度も間違える。
近づきすぎるかもしれない。
遠ざかりすぎるかもしれない。
待っていたと言いながら、君を僕の過去に閉じ込めようとしてしまうかもしれない。
自由でいてほしいと言いながら、君が助けを求めている時に気づけないかもしれない。
だから、君が僕を叱ってくれるといい。
近すぎる、と。
遠すぎる、と。
重すぎる、と。
遅すぎる、と。
わんこ、と。
ばか、と。
できれば、遠慮なく。』
サイカが、ソファの上で小さく笑った。
「どうしたの?」
桜夜が聞く。
「ううん。なんとなく、桜夜さんが怒られる未来が見えた気がして」
「それはかなりありそうだね」
ホムラが言った。
「確実だろ」
「断言された」
「お前は怒られた方がいい時が多い」
「ひどい」
「事実だ」
リオが静かに付け加える。
「記録上も、その傾向は否定できません」
「リオまで」
「はい」
桜夜は苦笑した。
その苦笑のまま、手紙に戻る。
『今、僕のそばには三人の女の子がいる。
サイカ。
リオ。
ホムラ。
君がいつかこの手紙を読む頃には、君は彼女たちを知っているのだろうか。
仲良くしているのだろうか。
喧嘩しているのだろうか。
僕は、たぶんその間で困っているのだろう。
でも、これは書いておきたい。
彼女たちは、君の敵ではない。
彼女たちは、僕が過去に沈みきらないようにしてくれた人たちだ。
君に会いたいと願いながら、君に会う前に壊れてしまわないように、僕を今に繋いでくれた人たちだ。
僕は、彼女たちにもたくさん背負われている。
だから、君がいつか僕に会う時、どうか彼女たちを僕から奪うものとして見ないでほしい。
同じように、僕も君を彼女たちから奪うための存在にしてはいけない。
人は、誰かの場所を奪うために生まれてくるわけではない。
君も、そうだ。
君は、君の場所を作るために生まれてくる。』
桜夜は、深く息を吸った。
窓の外の海が、少し暗くなり始めていた。
夕暮れが近い。
過去の夕暮れ。
現在の夕暮れ。
未来へ続く夕暮れ。
すべてが、同じ海の色の中に混ざっている。
『未来の君へ。
僕は、君に会いたい。
でも、君を待つことが君を縛る鎖にならないようにしたい。
君を自由にすると言って、君が風にさらわれるのを見ているだけにならないようにもしたい。
君が君として歩けるように。
君が自分の名前を、自分のものとして持てるように。
君が僕を選ぶにしても、選ばないにしても、その選択が君のものになるように。
僕は、できれば君の隣にいたい。
でも、君の前に立って道を塞ぐ男にはなりたくない。
これが、僕から君へのラブレターです。
まだ届かない。
もしかしたら、届かないままで終わるかもしれない。
それでも書く。
君がいつか読むと信じて。
君がいつか怒ってくれると信じて。
君がいつか笑ってくれると信じて。
そして、君が君自身として生まれてくることを、祈っている。』
桜夜は、最後に署名した。
『水希桜夜』
書き終えた瞬間、急に疲れが来た。
神殺しの戦いよりも、長い階段よりも、ずっと疲れた気がした。
桜夜は万年筆を置き、椅子の背にもたれた。
「終わりましたか」
リオが静かに聞く。
「うん」
「二通とも」
「うん」
サイカが、少しだけ安心したように笑った。
「桜夜さん、ちゃんと書けるんだね」
「サイカまで失礼だね」
「ううん。よかったなって思ったの」
「よかった?」
「うん。言葉にできたんだなって」
桜夜は目を伏せた。
「できたのかな」
「できたよ」
サイカの声は、迷いがなかった。
リオは机の上の二通を見た。
「その手紙は、歴史ではなく、祈りですね」
「そうかもしれない」
「では、記録しません」
「珍しいね」
「はい。これは、桜夜様のものですので」
ホムラは窓の外を見たまま言った。
「しまっとけよ」
「うん」
「燃やすなよ」
「燃やさないよ」
「お前、そういうの燃やしそうだろ」
「信用がない」
「あるから言ってんだよ」
桜夜は少し笑った。
「ありがとう」
「礼を言うな。腹立つ」
桜夜は二通の手紙を、それぞれ封筒に入れた。
如月あずさへの手紙には、宛名だけを書いた。
『如月あずさへ』
封はしなかった。
もう届かない手紙に封をするのは、なぜか違う気がした。
四方院あずさへの手紙には、少し迷ってから書いた。
『未来の君へ』
四方院あずさ様、と書くことはできなかった。
あずさと名付けられるかもわからない。
それでも、未来の君へ。
それなら、嘘ではない。
桜夜は一通目を、別荘の机の引き出しにしまった。
ここは、如月あずさと歩いた海の近くだ。
ここは、彼女と恋人になった場所だ。
ここは、過去への手紙を置いていく場所として、きっと一番ふさわしい。
そして二通目は、懐にしまった。
未来への手紙は、未来へ持っていく。
サイカがそれを見て、静かに言った。
「一通は置いていくんだね」
「うん」
「もう一通は持っていくんだね」
「うん」
「そっか」
それだけで、サイカは理解してくれたようだった。
夜が近づいていた。
窓の外には、夕暮れの海が広がっている。
かつて、如月あずさと歩いた海。
今、サイカとリオとホムラがそばにいる海。
いつか、四方院あずさへ続くかもしれない海。
過去と現在と未来が、波のように寄せては返す。
桜夜は、机の前で静かに立っていた。
届かないラブレターがある。
もう届かない人への手紙。
まだ届かない人への手紙。
けれど、届かないからといって、書かなくていいわけではなかった。
木の板一枚に祈りをまとめることすら苦手な男が、二通の手紙を書いた。
それは、未練だった。
祈りだった。
言い訳だった。
誓いだった。
そして、たぶん。
生きて帰るための、小さな練習だった。
「桜夜さん」
サイカが言った。
「うん」
「今日は、眠れそう?」
桜夜は少し考えた。
過去への手紙を置いた。
未来への手紙を持った。
現在には、三人がいる。
なら。
「たぶん」
ホムラが即座に言った。
「たぶんじゃなくて寝ろ」
「うん」
リオが穏やかに微笑む。
「必要であれば、わたくしが手紙の番をいたします」
「盗み読みしない?」
「いたしません」
「ホムラは?」
「しねえよ」
「サイカは?」
「読まないよ。桜夜さんが読んでいいって言うまでは」
桜夜は、三人を見た。
アクセサリーの光。
夕暮れの光。
海の光。
どれも、少しずつ違っていた。
形あるものを渡せる相手がいる。
形あるものを渡せない相手がいる。
まだ何も渡せない相手がいる。
それでも、桜夜は少しだけ笑った。
「ありがとう」
その夜、伊豆の別荘には、波の音が静かに響いていた。
引き出しの中には、過去への手紙がある。
桜夜の懐には、未来への手紙がある。
そして、部屋の中には現在があった。
サイカの体温。
リオの気配。
ホムラの不器用な優しさ。
眠りは、死に似ていなかった。
少なくとも、この夜も。
桜夜は目を閉じる。
如月あずさへ。
未来の君へ。
そして、今そばにいる君たちへ。
世界が平和でありますように。
それは、遠い祈りだった。
けれど今夜だけは、少しだけ近くにあった。
届かないラブレターの向こう側で、過去と現在と未来が、同じ波の音を聞いていた。
そして、飛べるかどうかはまだわからないまま。
桜夜は、明日へ帰るために眠った。




