第54話 遠くから守る家
干物屋を出たあと、桜夜は少しだけ海沿いを走った。やがて熱海市に入る。
朝の熱海は、光の中に湯気の気配を含んでいた。
海があり、山があり、坂がある。
道は真っ直ぐではなく、曲がりながら上り、上りながらまた曲がる。建物の隙間から海が見えたかと思うと、次の瞬間には緑の濃い斜面が迫ってくる。
サイカは窓の外を見ながら、楽しそうに言った。
「坂が多いね」
「熱海だからね」
桜夜が答える。
「海と山が近いんだ。歩くと、けっこう大変」
ホムラが嫌そうな顔をした。
「今、歩くって言ったか?」
「言ったかもしれない」
「どこを」
「伊豆山神社」
リオが目を上げる。
「伊豆山神社、ですか」
「うん。せっかくだから、寄っていこうと思って」
サイカは少し身を乗り出した。
「神社?」
「うん。古い神社だよ。伊豆の名にも関わる場所で、山と海の気配が強い」
「へえ」
ホムラはまだ警戒していた。
「車で行けるんだろ」
「行けるよ」
「じゃあ、車で行け」
「でも、下から歩く道もある」
「あるから何だよ」
「階段がある」
「嫌な予感しかしねえ」
桜夜は少し笑った。
「かなり長い」
「車で行け」
「昔の人は歩いたんだよ」
「昔の人は偉いな。オレは車で行く」
サイカが笑った。
「ホムラちゃん、即答」
「当たり前だろ。朝飯食ったあとに尋常じゃねえ階段とか、何の修行だよ」
「修行ではないかな」
「だったら車だ」
リオが静かに言った。
「しかし、徒歩で上ることで土地の気配を段階的に感じ取れる可能性があります」
ホムラがリオを見る。
「お前まで何言い出すんだ」
「観察上、有益かと」
「観光だろ。観察すんな」
「観光も観察の一種です」
「違う」
桜夜は少し考えた。
「じゃあ、途中まで車で行って、少しだけ歩こうか」
「少しってどのくらいだよ」
「ホムラが怒らないくらい」
「もう少し怒ってる」
「じゃあ、ホムラが本気で怒らないくらい」
「信用できねえ」
サイカが楽しそうに手を合わせた。
「でも、歩いてみたいな。せっかくだし」
「サイカまで」
「ごめんね、ホムラちゃん」
「謝るくらいなら車にしろ」
リオは淡々と告げた。
「ホムラ様。足腰の鍛錬にもなります」
「オレに鍛錬を勧めるな。朝は飯食って猫に威嚇されたばっかなんだぞ」
桜夜が笑いをこらえた。
「それ関係ある?」
「ある。精神的疲労だ」
「ミケさん、最後は少し許してくれたじゃない」
「あれは、まだ半分だ」
「半分も許されたなら十分だよ」
「うるせえ」
結局、車は神社へ向かう坂道の途中で止められた。
完全に下からではない。
しかし、まったく歩かないわけでもない。
ホムラは車を降りるなり、上へ続く石段を見て顔をしかめた。
「おい」
「うん」
「少しって言ったよな」
「言った」
「これ、少しか?」
石段は、上へ上へと続いていた。
木々の間を抜け、朱の気配と古い石の気配をまといながら、まだ見えない社へ向かって伸びている。
サイカは見上げて感嘆した。
「すごいね」
「すごいというか、長え」
ホムラが言った。
「戻るか?」
「ここまで来て?」
「車で上まで行けばいいだろ」
「それもできるけど」
桜夜は石段を見上げた。
「今日は、少し歩きたい」
その声があまりに静かだったので、ホムラは文句を飲み込んだ。
かわりに、舌打ちだけをした。
「……本気で倒れたら置いてくからな」
「それは困る」
「困るなら倒れんな」
「努力する」
「努力じゃなくて倒れんな」
サイカが桜夜の横に並ぶ。
「疲れたら言ってね」
「うん」
リオは石段の傾斜と周囲の気配を確認するように、視線をゆっくり巡らせていた。
「確かに、下から上へ向かって気配が変わりますね」
「そうだね」
桜夜は一段目に足をかけた。
「山に上る、というより、海から山へ戻っていく感じがする」
「海から山へ」
「うん。ここは、海と山が近すぎるくらい近い」
石段を上り始める。
最初は、まだ会話をする余裕があった。
サイカはきょろきょろと周囲を見ている。
リオは時折、手帳を出したそうな顔をするが、階段では危ないと思ったのか、今は記憶に留めているようだった。
ホムラは明らかに不満そうに歩いていた。
「なあ」
「うん」
「昔の人って馬鹿なのか?」
「どうして?」
「なんでこんな階段作ったんだよ」
「上に神社があるからじゃないかな」
「上に作るなよ」
「山の神域だからね」
「神域は平地に作れ」
「かなり乱暴な意見だね」
サイカが笑う。
「ホムラちゃん、階段きらい?」
「好きなやついるのかよ」
「運動になるよ」
「リオみたいなこと言うな」
リオが静かに言った。
「階段は、身体の上昇と意識の切り替えを同時に促す構造です」
「ほら来た」
「参拝者は、一段ごとに日常から神域へ近づくことになります」
「それはわかるけどよ」
「つまり、ホムラちゃんは今、日常から神域へ移行しておられます」
「息切れしてるだけだ」
桜夜は笑った。
笑うと、少し胸が楽になった。
昨日まで、祈りや死者や足跡や手紙になりそうなものが胸の中で重く揺れていた。
けれど今は、石段があった。
上るしかない石段。
文句を言いながらでも、足を出せば少しずつ進む。
それは意外と、桜夜にはありがたいことだった。
考えすぎる時、身体が先に進んでくれることがある。
「桜夜様」
途中の踊り場で、リオが立ち止まった。
「うん?」
「少し、よろしいでしょうか」
桜夜も足を止める。
サイカは息を整えながら、手すりの方へ寄った。
ホムラは即座に段に座り込んだ。
「休憩だな。よし」
「まだ半分も来てないと思うけど」
「言うな」
リオは石段の上と下を見比べていた。
山の上へ続く道。
その向こうにある古い神域。
そして振り返れば、木々の隙間に熱海の町と海があった。
「以前、近すぎてはいけない、というお話を伺いました」
「四方院家のこと?」
「はい」
リオは頷いた。
「四方院家は、権力の中心に近づきすぎてはいけない。守護は従属になり、助言は干渉になり、影が守るべきものの上に落ちる。そう伺いました」
「うん」
「しかし」
リオの目は、静かだが鋭かった。
「現在の四方院家は、政府や皇族と十分に近づいています。それならば、東京に本拠を置いた方が合理的です」
ホムラが片目を開ける。
サイカもリオを見る。
「また、霊的な力の強さという意味では、この伊豆の方が横浜よりも強い場所があるように感じます。伊豆山はもちろん、熱海という土地そのものも、湯、山、海、人の祈りが重なっています」
桜夜は黙って聞いていた。
「熱海は、徳川家康も湯治に訪れた土地だと聞きます。後の将軍家にも、この地の湯が運ばれたとか。時の権力者に選ばれ、同時に古い神域もある。霊的にも、政治的にも、決して弱い土地ではありません」
「そうだね」
「さらに言えば、近代に入ってからも、この地に理想郷や救いを見た人々がいたように思われます。美術、信仰、療養、土地への執着。名は違っても、この土地は人を引き寄せる」
リオは桜夜を見た。
「でしたら、なおさら疑問です」
「うん」
「なぜ、四方院家は東京でも伊豆でもなく、横浜に本拠を置いたのでしょうか」
風が吹いた。
木々の葉が揺れる。
石段の上から、涼しい空気が降りてきた。
桜夜は少しだけ笑った。
「リオの疑問は、全部正しいよ」
リオは瞬きした。
「すべて、ですか」
「うん。合理だけで考えるなら、四方院家は東京にいるべきだった。力だけで考えるなら、伊豆山や富士、あるいはもっと古い神域に拠るべきだった」
桜夜は石段の上を見た。
「熱海は強いよ。湯も、山も、海も、人の祈りも。疲れた人を呼ぶし、治りたい人を呼ぶ。救われたい人も、何かを始めたい人も呼ぶ」
「でしたら」
「強いからだよ」
リオがわずかに眉を動かす。
「強いから、選ばなかったのですか」
「うん」
桜夜は頷いた。
「強い土地は、人を引き寄せる。祈りも、欲も、権力も、救いを求める心も、支配したい心も」
ホムラが少し顔を上げた。
「支配したい心?」
「強い場所を持つと、人はそこを中心にしたくなる」
桜夜は静かに言った。
「伊豆山みたいな場所に四方院家が根を張れば、家そのものが神域に寄りすぎる。人の政治から遠くなる。神に近い顔をし始める」
「それは、危険なのですか」
リオが問う。
「危険だよ」
桜夜は即答した。
「守る家が神の顔をし始めたら、人を見下ろすようになる。祈りを守っているつもりで、祈る人の声を聞かなくなる」
サイカは静かに桜夜を見ていた。
「逆に東京に置けば、権力に近づきすぎる。政府の息づかいどころか、心臓の鼓動まで聞こえる。助言は干渉になり、守護は従属になる。やがて、守るべきものと支配したいものの区別がつかなくなる」
リオは、ゆっくりと視線を海へ向けた。
「では、横浜は」
「近いけど、中心じゃない」
桜夜は言った。
「東京の息づかいは聞こえる。でも、東京の心臓にはならない。外の船も、人も、思想も入ってくる。だから内側だけを見て狂わずに済む」
風が、海の方から上ってきた。
「横浜は、半端なんだ」
桜夜は少し笑った。
「古都ではない。帝都でもない。神域として最強でもない。政治の中心でもない。でも、中心を見失わない距離にある」
「半端であることに意味があるのですね」
「うん」
桜夜は頷いた。
「四方院家は、強い場所を選んだんじゃない。支配しないで守れる距離を選んだ」
ホムラは石段に座ったまま、少し不満そうに言った。
「でもよ」
「うん」
「強い場所にいた方が、守れるもんもあるんじゃねえのか」
「あるよ」
桜夜は否定しなかった。
「伊豆山にいれば守れたものもある。東京にいれば防げたこともある。もっと近づいていれば、助けられた人もいたと思う」
「なら」
「でも、近すぎたせいで壊したものも出る」
ホムラは口を閉じた。
「守ることと、握ることは似ているんだ」
桜夜は自分の手を見た。
「だから、距離を決める必要がある。どこまで手を伸ばすのか。どこから先は、相手自身が歩く場所なのか」
サイカが小さく言った。
「それ、桜夜さん自身の話みたい」
「うん」
桜夜は困ったように笑った。
「たぶん、四方院家の話は、だいたい僕にも刺さる」
「刺さってる自覚あるんだ」
「あるよ。痛いくらい」
ホムラが立ち上がった。
「で、戦争は?」
その声は、さっきまでの階段への文句とは違っていた。
リオが少しだけホムラを見る。
ホムラは腕を組んだ。
「リオが聞きたいこと、まだあるだろ」
「はい」
リオは桜夜に向き直った。
「四方院ほどの力を持つ術者を擁しながら、戦争に敗れたというのも、理解に苦しみます」
桜夜は、すぐには答えなかった。
石段の途中。
強い土地へ上る道。
海と山の間。
そこで戦争の話をすることは、どこか不自然で、どこか自然だった。
人の歴史は、いつも祈りの場所の外にあるわけではない。
むしろ、祈りのすぐ隣に戦争がある。
「四方院家は」
桜夜は言った。
「戦争に勝つための家じゃない」
リオは黙っている。
「それが答え?」
ホムラが聞く。
「答えの一部」
桜夜は石段の横の木々を見た。
「強い術者がいる。神獣の加護を持つ家がある。古い術式も、結界も、呪も、神域への接続もある。だから戦争に勝てるはずだ、という考えはわかる」
「実際、勝てねえのか」
「局地的には勝てる」
桜夜は答えた。
「戦場で百人を救うことはできるかもしれない。部隊を一つ潰すことも、爆撃を一度逸らすことも、指揮官を守ることもできるかもしれない」
「なら」
「でも、百万人の飢えは止められない」
ホムラの言葉が止まった。
「兵站は術だけでは作れない。工業力は呪文では増えない。制空権も、海上封鎖も、国際秩序も、術者一人や一族の力では覆せない」
リオの表情が、わずかに沈んだ。
「近代の総力戦は、神秘の決闘ではない」
桜夜は静かに言った。
「国の胃袋と、工場と、港と、燃料と、空と海と、情報と、同盟と、時間の戦いだ。四方院家の術者がどれほど強くても、それを全部ひっくり返すことはできない」
風が少し冷たくなった。
「それに」
桜夜は続けた。
「もし、術者が戦争を勝たせる国になったら、その国はもう人の国ではなくなる」
「どういう意味ですか」
リオが聞く。
「次の時代は、術者を兵器として育てる」
桜夜の声は低かった。
「子どもは適性で選別され、家は戦力で測られ、神域は軍事拠点になる。祈りは兵站に組み込まれ、神は戦争の名で呼ばれる。勝つかもしれない。でも、その時には、守ろうとした国の形が変わっている」
サイカが小さく息を呑んだ。
「それは、守ったって言えるのかな」
「難しいね」
桜夜は答えた。
「白虎なら、勝つべきだったと言うかもしれない」
ホムラが顔をしかめる。
「白虎家なら、術者を使い潰してでもか」
「たぶん」
桜夜は否定しなかった。
「使える時に使う。壊れたら次を用意する。戦場で勝てる手段があるなら、出し惜しみをするな。白虎の理屈は、戦争の中ではかなり正しい」
「気に入らねえけどな」
「僕も、好きではないよ」
桜夜は少しだけ笑った。
「玄武様は、別の見方をする」
「道具を長く使う、ですか」
リオが言った。
「うん。玄武様は、盤面を見る。今だけ勝っても、次の百年で家が壊れるなら意味がない。国が勝っても、人の国でなくなるなら、それは負けに近い」
「では、玄武様は戦争に勝つことより、何を選んだのですか」
「残すこと」
桜夜は答えた。
「負けを消すことはできなかった。だから、負けの深さを浅くする。守れる神域を守る。残せる血を残す。燃え尽きるはずだった儀礼を、どこかでつなぐ。奪われるはずだった名を、少しでも残す」
リオは目を伏せた。
「勝つ家ではなく、残す家」
「うん」
桜夜は頷いた。
「だから四方院家は、あの戦争を誇らない。守れたものはある。でも、守れなかったものの方が多い」
サイカが、静かに言った。
「それでも、守ろうとしたんだね」
「うん」
「でも、守れなかったものも覚えているんだね」
「覚えていなければ、守ったものまで嘘になるから」
ホムラは、しばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「気に入らねえな」
「うん」
「勝てるかもしれない力を使わないってのは、気に入らねえ」
「うん」
「でも、使ったら終わるものもあるって話か」
「うん」
「面倒くせえな」
「本当にね」
リオは、手帳を取り出しかけて、やめた。
桜夜がそれに気づく。
「書かないの?」
「今は、まだ」
「珍しいね」
「整理が必要です」
リオは石段の上を見た。
「距離とは、逃避ではなく、介入の限界を定めるための規律なのですね」
「うん。すごくリオらしいまとめ方だ」
「褒めておられますか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
桜夜は、また上り始めた。
ホムラは嫌そうにしながらもついてくる。
「話終わったなら車戻ろうぜ」
「あと少し」
「それ、信用できねえって言ったよな」
「今度は本当にあと少し」
「お前のあと少しは長い」
「かもしれない」
「認めんな」
だが、不思議とホムラの足取りはさっきより軽かった。
文句は増えたが、止まることはなかった。
サイカは時々、桜夜の様子を見ながら歩いた。
リオは周囲の気配を測るように、静かに一段一段を上がっていた。
やがて、四人は社の近くへ辿り着いた。
空気が変わる。
石段の下とは違う、澄んだ重さがあった。
強い場所だった。
ただ明るいだけではない。
古く、深く、たくさんの祈りと願いと疲れが沈み込んでいるような場所。
サイカは自然と声を落とした。
「ここ、すごいね」
「うん」
桜夜も静かに頷く。
「強いよ」
ホムラも、さすがに茶化さなかった。
「なんか、火が出しづれえ」
「出さないでね」
「出さねえよ」
リオは境内を見渡した。
「このような場所を本拠としなかった理由が、少しだけわかった気がします」
「そっか」
「はい。ここは、強すぎます」
桜夜は社へ向かって一礼した。
三人もそれに倣う。
参拝を済ませる間、誰も余計なことは言わなかった。
祈りは、それぞれの中にあった。
桜夜は目を閉じる。
世界が平和でありますように。
その祈りは、どこでも同じではない。
場所によって、響き方が変わる。
平塚の池では、アヒルたちの白い羽根に触れた。
伊豆の海では、あずさと歩いた足跡に触れた。
熱海の山では、強い土地の引力と、そこに根を張らない選択に触れている。
祈りとは、中心に立つことではない。
祈る者を支配することでもない。
時には、少し離れて立つこと。
近づきすぎず、遠ざかりすぎず、手を伸ばせる距離にいること。
それは、ひどく難しい。
桜夜自身も、まだできているとは言えなかった。
参拝を終えたあと、サイカが絵馬掛けの前で足を止めた。
「ねえ、せっかくだから書いていかない?」
桜夜とホムラが、ほとんど同時に微妙な顔をした。
「絵馬か」
「願い事を板に書くのかよ」
サイカは二人を見比べる。
「二人とも、そんなに嫌そうな顔する?」
「嫌というか」
桜夜は言葉を探した。
「短い文章に祈りをまとめるのが、少し苦手で」
「メールの返信すら面倒がる人間の言い訳だろ」
ホムラが言う。
「ホムラも嫌そうだけど」
「オレは、願い事を人に見えるところへ掛けるのが気に入らねえ」
「神様には見せるのに?」
「神様なら察しろ」
「それは少し横暴だと思う」
リオは静かに絵馬を手に取った。
「わたくしは書きます」
「リオは迷わないね」
「願いを文字にすることも、記録の一種ですので」
サイカは嬉しそうに筆を取った。
少し考えてから、丸みのある字で書く。
『みんなで生きて帰れますように』
桜夜は、その文字を見て少しだけ目を細めた。
リオは丁寧な字で書いた。
『大切な名と祈りが、失われずに残りますように』
ホムラはしばらく腕を組んでいたが、やがて乱暴に筆を取った。
「……書けばいいんだろ」
彼女は大きな字で、短く書いた。
『全員帰る』
サイカが笑う。
「ホムラちゃんらしい」
「うるせえ」
最後に、桜夜が絵馬を手に取った。
筆先が、しばらく動かなかった。
世界が平和でありますように。
そう書くことはできた。
けれど、その言葉は大きすぎた。木の板一枚に収めた瞬間、何かを取りこぼしてしまう気がした。
迷いませんように。
それも違った。
迷わないことが正しいわけではない。迷ったからこそ、殺さずに済んだものもある。
桜夜は、しばらく考えた。
そして、ゆっくりと書いた。
『迷っても、帰れますように』
サイカが、そっとその文字を見た。
「桜夜さんらしいね」
「そうかな」
「うん」
ホムラは顔をそむけながら言った。
「面倒くせえ願いだな」
「うん」
桜夜は少し笑った。
「でも、僕にはこれくらいがちょうどいい」
四人は、それぞれの絵馬を掛けた。
木札が風に揺れる。
たくさんの願いの中に、四人の願いが混ざっていく。
合格祈願。
良縁祈願。
病気平癒。
家内安全。
誰かの名前。
誰かの未来。
誰かが帰る場所。
桜夜は、自分の絵馬を見た。
迷っても、帰れますように。
短い。
短すぎる。
それでも、その短さの中にしか置けない祈りがあるのかもしれない。
リオが隣に立つ。
「桜夜様」
「うん」
「四方院家は、中心に立たないのですね」
「うん」
「けれど、中心が壊れた時、そこから落ちるものを受け止める」
「そうだね」
「それが、遠くから守るということですか」
桜夜は、絵馬掛けの向こうに見える空を見た。
「たぶんね」
ホムラが横から言う。
「たぶんかよ」
「断言できるほど、僕は四方院家を信じきれていない」
サイカが桜夜を見る。
「信じてないの?」
「信じてるよ」
桜夜は答えた。
「でも、信じることと、全部を正しいことにすることは違う」
リオはその言葉を、静かに受け止めた。
「四方院家は、多くを守った。多くを守れなかった。時には正しく、時には間違えた。それでも中心に立たないという規律だけは、まだ失っていない」
桜夜は少しだけ笑った。
「だから、僕はあの家に関わっているんだと思う」
「桜夜さんは、中心に立ちたい?」
サイカが聞いた。
桜夜は、少し考えた。
「立ちたくない」
「うん」
「でも、泣いている人が中心にいるなら、そこへ歩いていく」
サイカは優しく笑った。
「桜夜さんらしいね」
ホムラが腕を組む。
「で、帰りも階段か?」
空気が一気に現実へ戻った。
桜夜は振り返る。
「下りは下りで大変だよ」
「車」
「途中からなら」
「全部車」
「でも、下りながら見る景色も」
「車」
ホムラは強い声で言った。
「この話だけは譲らねえ」
サイカが笑った。
「ホムラちゃん、今日はがんばったもんね」
「そうだ。オレはがんばった」
リオが頷く。
「一定の運動量を確認しております」
「確認すんな」
桜夜は笑った。
「じゃあ、帰りは車にしよう」
「最初からそうしろ」
「でも、歩いたから話せたこともあったと思うよ」
「それは」
ホムラは少しだけ言葉に詰まった。
それから、顔をそむける。
「……まあ、少しはな」
桜夜は海を見た。
伊豆山は強い。
熱海は人を呼ぶ。
湯も、山も、海も、祈りも、欲も、救いも、ここには重なる。
だからこそ、四方院家はここを本拠にしなかった。
東京でもなく、伊豆でもなく、横浜。
近すぎず、遠すぎず。
強すぎる中心にも、権力の心臓にもならない場所。
遠くから守るための、半端な港町。
それは、完璧な答えではない。
それでも、答えのひとつではあった。
風が吹く。
絵馬が小さく揺れる。
迷っても、帰れますように。
桜夜は、その言葉を胸の中でもう一度読み返した。
世界が平和でありますように。
その祈りは、山の上から海へ降りていく。
誰かを支配するためではなく。
誰かを中心に閉じ込めるためでもなく。
泣いている人が、自分の足で帰れる場所を失わないために。
遠くから。
けれど、見失わない距離で。




