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第5話 傲慢な後悔

 夢を見ている。


 白の夢。


 守りたくて、救えなかった色の夢だった。


 そこには空がなかった。


 地面もなかった。


 上も下も、前も後ろもない。ただ白だけが広がっていた。


 雪の白ではない。


 骨の白でもない。


 祈りの白でも、天使の翼の白でもない。


 赤と青と黄。


 三つの色が混じり合い、あまりにも眩しくなりすぎた果てに、名前を失った白だった。


 桜夜は、その白の中で泣いていた。


 夢の中では、まだ泣けるのか。


 そんなことを思いながら、迷子のように泣いていた。


 身体は子どものように小さかった。


 いや、実際に子どもなのかもしれない。


 病室の匂い。


 点滴の音。


 薄い布団。


 窓の外の桜。


 誰かに拾われる前の自分。


 四方院家に「水希」を与えられる前の野良犬。


 そのどれもが白の奥で滲んでいた。


 桜夜は誰かを探していた。


 サイカ。


 ホムラ。


 リオ。


 咲夜。


 アダム。


 エデンで消えた子どもたち。


 名前を借りた水希桜夜。


 もっと昔に喪った誰か。


 わからない。


 ただ、守らなければならない色があった。


 救わなければならない命があった。


 けれど、手を伸ばしても届かない。


 白はあまりにも広く、あまりにも冷たかった。


 そのとき、声が聞こえた。


「いのちあるものは、自分で自分を救わなければならないんだ」


 師匠の声だった。


 懐かしい。


 それなのに、ひどく冷たい声だった。


「俺たちは傲慢だった。助けを呼ぶ声あらばどこへでも行った。だがすべては無駄だった」


 桜夜は顔を上げた。


 白の向こうに、黒い影が立っていた。


 顔は見えない。


 だが、わかる。


 自分に剣を教えた人。


 戦い方だけでなく、助けを求める声の聞き方を教えた人。


 そして、桜夜が最も聞きたくないことを言う人だった。


「桜夜、お前も傲慢だ」


 胸が締めつけられた。


「お前は無力だ。己を知らず、己を救うこともできない」


 白が揺れた。


 桜夜は首を振った。


 違う。


 違うと言いたかった。


 だが声が出なかった。


 助けて、と言われた。


 だから手を伸ばした。


 サイカが泣いていた。


 リオが震えていた。


 ホムラが怒っていた。


 咲夜が夢の中で告げた。


 エデンが崩れた。


 名前を借りた水希桜夜が消えた。


 子どもたちが眠る山から、届かなかった未来がこぼれた。


 いや、そんなものはどうでもよかった。あの「白」と一緒にいたかった。


 だから。


 だから、行かなければならなかった。


 守らなければならなかった。


 救わなければならなかった。


「救いという言葉を、自分に都合よく使うな」


 師匠の声が、さらに近づいた。


「お前は誰かを救いたいんじゃない。救えなかった自分を許したいだけだ」


 桜夜は息を呑んだ。


 白の中に、黒い炎が落ちる。


 フェニキアの炎。


 分霊の黒鳥。


 背中を焼いた毒の炎。


 あの瞬間、ホムラを庇ったことに迷いはなかった。


 迷いはなかったはずなのに。


 師匠の声は、そこに刃を入れてくる。


「お前は死にたがっている。だから誰かを守る形で死ねるなら、それを救いだと思っている。お前は希望にすがることに憑かれ、そして疲れ果てた」


 違う。


 今度こそ、そう言いたかった。


 だが、白の中で桜夜の足元が崩れた。


 黒い水。


 エデンの海。


 生まれてこなければよかったという声が、底から泡のように上がってくる。


 その中に、白い小さな手がいくつも浮かんでいた。


 届かない。


 届かない。


 届かない。


 桜夜は泣きながら手を伸ばした。


 その手を、誰かが掴んだ。


 温かい手だった。


「違うよ」


 少女の声。


 咲夜だった。


 白の中に、夜桜のような黒髪の少女が立っていた。


 彼女は泣いていなかった。


 けれど、泣いている桜夜を見て、とても苦しそうな顔をしていた。


「お父様は、救えなかった自分を許したいだけじゃないよ」


 咲夜は桜夜の手を握った。


「でも、お師匠さんの言うことも、少しだけ本当」


 残酷なことを、優しい声で言う子だった。


「お父様は、まだ自分を救う方法を知らない。だから、誰かを救うことで、自分が生きていていい理由を探している。あのとき死ななかったことを悔いているから」


 桜夜は何も言えなかった。


 咲夜は彼の手を両手で包んだ。そのぬくもりは喪った「白」に似ていた。


「それでもいいの」


 世界が、少しだけ温かくなった。


「最初はそれでもいい。誰かを助けたいと思ったことまで、傲慢だって切り捨てなくていい。でもね、お父様」


 咲夜の後ろに、三つの色が浮かんだ。


 雷の黄。


 炎の赤。


 湖の青。


「救うって、一人で背負うことじゃないよ」


 白の中に、三つの色が溶けていく。


 眩しい。


 けれど、さっきまでの白とは違う。


 冷たい白ではない。


 祈りの白だった。


「白は、失われた色じゃない」


 咲夜は言った。


「色が一緒にいるための光だよ。あなたの心に「光」をともすために、お母様が()()で待ってる」


 未来、桜夜の嫌いな言葉。「白」を喪った彼に一抹の希望を与える呪いの言葉。


 だから何かを言い返そうとした。その瞬間、桜夜は目を覚ました。


 ◇◇◇


 消毒液の匂いがした。


 天井は白い。


 今度の白は夢ではなかった。


 四方院家御抱えの病院。


 白井家で黒鳥の分霊を退けたあと、桜夜はそのまま運び込まれたらしい。


 身体には痛みはない。呼吸も心音も正常。ただ心は()()()()()痛い。そしてだるかった。睡眠を必要としないとはいえ、夢の世界でも気が休まらないのは疲れるものだ。ため息をつきたくなった。

 彼の身体の奥、魂の中、そこで鳳凰はひな鳥のような姿で眠っている。どうやらフェニキアの穢れに対抗する力を桜夜に渡すため、自分は休眠モードに入ったらしい。


 生きている。


 眠りは死だ。彼はまた意識を失い、そして今生き返った。「白」のいない世界に。「鳳凰」も「白」も「先生」も、彼に生きることを望んでいる。ただ彼はすでに生きることに疲れていた。


「未来、か」


 いつの日にか、永劫の時の中で、無限に分岐する世界の中で、「白と黒」が再び交わる日、その日を彼は待っていた。もう待ちくたびれていた。

 世界は選択の数だけ分岐をし続ける。平行世界、パラレルワールド、異世界。哲学者が神学者が物理学者が魔術師が探求してきた世界の「可能性」。だが桜夜は知っていた。()()()()()()()()()()()()。分岐の繰り返しは永遠ではない。分岐した世界や宇宙は次々に消滅する。そして物語は収束し結末へ向かう。世界とは、一冊の本なのだ。分岐することも、消滅することも、選択することも、あらゆることは決められている。


〈世界意思〉


 この分岐し続ける世界をエピローグへと導く「意思」。時に未来を読み、望む未来をつかみ、「人の想いが世界の意思に勝った」と宣言するものがいる。


「はっ」


 桜夜は嘲笑った。それは「世界意思」が「勝った」と思うように物語を書いてくれたに過ぎない。命あるものに「自由」も「自己決定権」もありはしない。すべては「世界意思」の手のひらの上。物語の登場人物は、クリエイターには勝てないのだから。


 桜夜の悲しみも絶望も苦しみも、そして幸福も。与えられては奪われるものにすぎない。「先生」の言っていた「傲慢な少年」はもういないのだ。ふと顔を右に向けると二人がけのソファで小さな身体が横たわっていた。

 ホムラだった。鳳凰に従う炎の精霊が、ホムラを手助けする炎の精霊に桜夜の目覚めを伝えたらしい。彼女は飛び起きて桜夜を見た。目元が赤い。この強がりな少女は泣く権利を「世界意思」に奪われてはいないらしい。うらやましいようなそうでもないような不思議な気持ちだった。ホムラと桜夜は見つめ合う。ホムラは目つきが悪いので睨んでいるようにも見えた。そして彼女は悪態をついた。


「てめえは最低だ」


 ホムラは立ち上がり、ベッドの横に来た。


 いつものように怒っている。


「勝手にオレを守ったくせに、勝手に寝やがって。最低だ」


「悪い男の方がモテるからいいだろ?」


「ふざけんな!」


 ホムラの拳が震えた。


 その拳で桜夜を殴りたいのか、それとも触れたいのか、自分でもわからないようだった。


「てめえ、何を考えてやがる」


 抽象的な質問に桜夜は答えを探したが、ホムラの口撃は続いた。


「お前、オレたちを生かすつもりなんだろ」


「そうだね」


「お前は生きる気があんのかよ! オレたちを生かした責任を取るのかよ!」


 怒鳴ったあと小さな声で付け足した。


「てめえは死にたくないって、生きたいって言うことはあるのかよ」


 桜夜は静かな目でホムラを見ていた。姉妹の中で一番戦士に向いていて、一番向いていないのがこの子だろう。戦場では自分さえ生き残れればいいのだ。他人のことに首を突っ込んだ奴から死んでいく。この少女はまさに焔。燃え盛る命の火だ。「白」とは違うまぶしさがあった。


「ないだろうね」


 彼の目には諦めしかなかった。悟りの境地にたどり着いたわけではない。ただ疲れ果てた老人のような目をしていた。


「無責任やろう」


 ホムラは泣きそうな顔で嘲笑った。嘲笑おうとした。


「オレたちに生きろって言ったくせに、てめえは言えねえのかよ」


「そうだね」


 ホムラが結構本気の拳で頬を殴ってきた。回避も防御もしない。普通に殴られた。ホムラは人間を殴ったときの嫌な感覚を感じた。こいつは人間なんだと確信した。だから……。


「桜夜」


 名前を呼んでみた。そしてベッドに桜夜を押し倒す。


「ん?」


「お前が生きたいって言うまで、絶対死なせねえ。死にたいって言ったらぶん殴ってやる。生きたいって言ったら殺してやる」


「めちゃくちゃだね」


 ホムラは殴った頬に唇を押し付けた。そのめちゃくちゃな誓いを「契約」にするために。


 鳳凰の神聖な神通力で生きる精霊と、ホムラの膨大な魔力で生きる精霊が交流し、混ざり合う。舞いを踊り、祝福をしていた。精霊の力が暴走すれば病院が火事になるレベルで集まっていた。そんな部屋にサイカとリオが駆け付けた。


 最初はホムラが炎の精霊のコントロールに失敗したのかと思い、事故を阻止するためだったが、精霊たちは静かになっていった。ほっとしたサイカとリオは少し疲れた顔をしていた。サイカは桜夜の目覚めを喜んだ。しかしリオはいじわるそうに笑った。


「お邪魔だったかしら?」


「あ?」


 ホムラが姉の言葉に首をかしげる。そして自分が男を押し倒していることに気づき、慌てて病室を逃げ出してしまった。


「うぶだなあ」


「そこがかわいいんです」


 桜夜とリオは笑顔を浮かべたが、サイカは泣きそうだった。


「桜夜さん……」


「おはよう」


「おはようじゃない!」


 サイカは知っていた。倒れた桜夜の心臓は止まっていたのだ。自発呼吸も停止していた。瞳孔も開いていた。サイカは急いで人工呼吸をした。魔女にとって唇を重ねることが「契約」を意味することも、治癒に関してはリオの方が得意なことも頭から飛び出ていた。リオはほとんど狂乱状態のサイカを落ち着かせ、呆然としているホムラを正気に戻してから治療しようとした。しかし彼女には無理だと思った。そこにあるのは死体だったからだ。触れた身体はわずかに温かい。だが降り出した雨がそのぬくもりさえも奪っていく。

 救急隊員に扮した四方院家の人間は救急車でおかかえの病院に桜夜たちを運んでくれた。桜夜の精密検査が進められたが、脳波が平坦であるとか、目に光を当てても反応しないとか、痛み刺激に反応しないとか、死亡しているとしか言えないことが確認されていった。

 しかし医者は不思議なことに死亡判定をしなかった。やがて、若い長髪の男が入ってきた。白衣を着ているからこの男も医者なのだろう。サイカは思わず縋り付いた。だが何も言えなかった。男はつまらなそうに桜夜の検査結果報告を受けたあと「そうか」とだけつぶやいた。

 暴れだしそうなホムラを取り押さえながらリオは最悪の事態を覚悟していた。それなのに、今この男は平然としている。医者たちは病室に桜夜を残して去っていった。リオは「わたしのせいだ」とつぶやくサイカを伴って別室に行った。ホムラは桜夜をにらみ、殴り、蹴り、疲れてそのまま病室で寝てしまったのだ。


「桜夜さん、死んでたんだよ……?」


 少女たちは人を殺したことがない。両親の死も知らない。自分が助けを求めたせいで桜夜が死んだと思ったサイカの絶望は深かった。だが桜夜はあっけらかんとしていた。


「ああ、いつものことだよ。心配させたね」


 不死鳥は寿命を迎えると火の中に飛び込み身体を燃やし尽くしてから再生する。桜夜の場合も力を使いすぎると回復のため仮死状態になるのだ。だからおかかえの医師たちは一応確認はしたが、死亡判定はしなかった。そして彼女たちにもなにも説明しなかった。サイカは自分が死なせたのだと錯乱し、リオは死を受け入れようと必死になった。そしてホムラは勝手にくたばるなと怒っていた。力の抜けたサイカをソファに座らせたリオは腰に手を当て、桜夜を叱るように言った。


「言葉軽いです」


「なら、ごめん?」


「まだ軽いです」


「申し訳ございません?」


 桜夜が困ったように言うと、サイカがよろよろと立ち上がりベッドのそばまで来た。


 そして、そっと彼の手を握った。


「……生きててくれて、よかった」


 その言葉に、桜夜はほんの少しだけ息を詰まらせた。


〈生きててくれた〉


 その単純な言葉が、夢の白を少しずつ溶かしていく。


「うん」


 桜夜は応えた。


「ありがとう」


「本当に、よかったです」


 サイカとリオは涙をこぼしながら笑った。


 ◇◇◇


 その夜。


 三姉妹が眠ったあと、桜夜は病院の庭に出ていた。


 夜のお茶会になるだろうからと燕尾服に身を包んでいる。その上からはいつもの黒い外套。腰には桜吹雪。手には不死身の魔女が残した水晶の欠片。


 今宵は新月ではない。朧月夜だった。魔女は新月の晩に招待すると言ったが、待つつもりはなかった。


 問題は彼には魔女の下へ行く術がないことだった。空間の移動は四方院家の中でも禁術に指定されている。仮に学ぶことが許されたとしても、使えるものはいない。


 だから咲夜を名乗った少女が夢を渡ったというなら相当に恐ろしいことをしているわけだ。身体という邪魔者を捨て、神聖な魂だけになって世界を渡る。グノーシス主義者でもできないことだ。

 とはいえ四方院家の開祖は借金取りと孕ませた女から逃げるために世界を身体を持ったまま世界を移動し、また問題を起こしては次の世界へと移動したらしいので頭がいろんな意味でおかしいのだが。

 欠片に残る残滓から魔女の居場所はたどれる。だがどうやってそこまで行ったものか。


 少し考えながら歩いていると庭の端に、低い植え込みと、小さな祠があった。病院内の安全を祈るために置かれたものらしい。神道系の術者が管理しているのだろうが、カトリック系の病院のマリア像ならともかく、祠があるのは四方院家の病院らしい。


 桜夜は祠の前で足を止めた。神は実在する。「世界意思」も「クリエイター」も、「悪魔」も、「天使」も。そして桜夜はあることを思いつき、ゆっくり鳥居をくぐった。人間の住む「豊葦原瑞穂国」と神々が住む「高天ヶ原」。その間を繋ぐ異界が鳥居をくぐった神域にはあった。ここでなら、ここからなら、桜夜には謎の確信があった。胸の奥で鳳凰が吠える。

 桜夜が外套を脱ぎ捨てるとその背中に鳳凰の炎の翼が出現する。片翼だけでも5メートルはありそうな大きさだった。この祠には鳳凰の分霊が祀られていた。桜夜の中の鳳凰と強く共鳴し、桜吹雪の持つ「罪」の力と水晶の欠片の「魔力」が荒れ狂う。

 空間の境界があいまいになる。過去も現在も未来も関係ない。気づいたときには、魔女の秘密の庭園にいた。よく手入れのされた美しい庭園には「ユダの木」があった。キリストを裏切り地獄に堕ちた愚かな弟子。キリストのために汚れ役を担った親友。イスカリオテのユダ。その木の下で、不死身の魔女は優雅に紅茶を飲んでいた。

 その漆黒のドレスは夜会のためか、あるいは世界に対する喪服か。魔女はカップを優雅に置くと、美しく魅了されそうになる声で話した。


「今宵は招待していないのだけれど」


「世界一の美女に早く会いたかったものでして」


 顔をレースで隠している魔女の前で片膝をつく桜夜。服装も相まって高位の騎士と貴婦人を思わせた。


「まあ、いいでしょう。座りなさい」


「はい、マダム」


 魔女が魔法で引いた対面の椅子に腰かけるために翼を霧散させる。闇の精霊たちが、ティーポットを動かし、彼の分の紅茶を入れてくれた。

 桜夜は静かに紅茶の香りと味を楽しんでから言った。


「良い紅茶ですね。オリジナルブレンドですか」


「主人がブレンドしたのよ。Con Todo Me Amoreと名付けたと自慢していたわ」


 魔女が微笑を浮かべる。不死身の魔女の伴侶は、自分の妻をとても愛していたようだ。でなければオリジナルブレンドに「私のすべての愛を込めて」などとは名付けないだろう。


「あたくしをいつも喜ばせてくれた。でも殺してはくれなかった」


 魔女は紅茶をまた飲む。桜夜は闇の精霊のすすめるままクッキーを口にする。上質なバターの香りと味がした。


「あなた、ヨモツヘグイを知らないの?」


 躊躇なくクッキーや紅茶を口にする桜夜を魔女は意外そうに見ていた。ヨモツヘグイとは、異世界のものを口にすると元の世界には二度と戻れなくなることを意味する。古事記ではイザナギとイザナミの永遠の別れを意味していた。


「僕はどの世界でも異物ですからかわりませんよ」


 桜夜はヨモツヘグイを知っていてもかまわず紅茶を飲んでいた。上流階級との交流を嫌っているわりには、優雅な所作だった。


「それもそうね。だってあなたは……」


 魔女はかわいそうなものを見るような慈悲深い目で桜夜を見た。桜夜はさみしそうに微笑むことで返事に変えた。


「まあいいわ。あなたはあたくしが待ち続けた存在。あたくしを殺せる存在」


 魔女は椅子から立ち上がり、桜夜の隣に移動すると彼を見下ろした。


「剣……刀というのだったかしら。それであたくしを切りなさい。それですべては終わる。ようやく終われるのよ」


 桜夜は魔女を見ず、紅茶の入ったカップに映る自分の顔を見ていた。


「「はじまりのもの」には「殺人」の概念がなかった。タオは不死を選ばないことができた」


「タオ、四方院家の開祖ですか」


 黄龍、青龍、朱雀、白虎、玄武、そのすべてと契約をし、あらゆる術を極めた存在。世界の移動も死者の蘇生も、永遠の命も思うがままだったという。しかし四神獣を4人の息子に、世界の守護を麒麟に任せ、本人は黄龍とともに姿を消したと伝わっている。タオも本名ではなく、(タオ)を極めたからこその通称だった。


「タオは言っていた。やがてあたくしに(解放)を与えてくれる存在が出現すると」


「僕は人間を殺すことを禁止されています」


「魔女は人間ではないわ」


 桜夜は椅子から立ち上がりもしなかった。


「殺されそうになってもそう言えるかしら」


 魔女の魔力が増幅する。彼女の陰からフェニキアが飛び出した。そして桜夜の凍った心臓からは鳳凰が飛び出し、庭園の空で互いを威嚇する。


 闇の不死鳥:フェニキア

 光の不死鳥:フェニックス


 どちらが善でどちらが強いわけでもない。鳳凰は本来風の霊獣だったが、朱雀の力を受けて炎の神獣となった。西洋魔術の世界ではフェニックスに属する。


 不死鳥同士の戦いにも桜夜は関心を示さなかった。紅茶を飲み干し、静かに椅子から立ち上がった。


「僕は刀を抜きません」


「そう、なら仕方ないわね」


 魔女が言霊を紡ぐと、庭の先に続く丘が出現した。そこには3つの巨大な十字架がある。ゴルゴダの丘をイメージしているのだろう。磔にされているのは、魔女の3人の娘だった。


「あなたがあたくしを殺さないなら、あのできそこないたちを処刑する。どう? 少しは本気になれそうかしら」


 磔になっている少女たちは深い眠りの中にあるようだが、死んではいない。外傷もない。


「四方院家の秘密。それはあなたのことだったのよ。タオの遺した予言……いや預言かしら。神を殺す神器とその担い手。今の宗主はあえて前線に出すことで目くらましをたくらんだようだけど、フェニキアの分霊を退けられたときに気づいたわ。あなたが「神殺しの騎士」だと」


 魔女は両腕を広げ、殺せとばかりに心臓を差し出す。


「あたしを殺せば、あなたとできそこないたちとの約束は果たされる。さあ、不死身の魔女に鉄槌を。神の正義を。さあ、さあ!」


 桜夜は桜吹雪に触れもしなかった。なにを考えているのか誰にもわからなかった。静かに瞼を閉じた。誰かの声が聞こえた。


《後悔しない選択を》


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