↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/77

第51話 伊豆の海と老いた声

 平塚を出てから、しばらく誰も話さなかった。


 車内には、海へ向かう道の音だけがあった。


 リオは静かにハンドルを握り、サイカは助手席から時折、後ろの桜夜を気にして振り返る。ホムラは桜夜の隣で腕を組み、眠っているのか起きているのかわからない顔をしていた。


 桜夜は、窓の外を見ていた。


 街が流れていく。


 遠くに海の気配がある。


 池の水面に揺れていた白い羽根が、まだ目の奥に残っていた。


 死者を笑わない。


 死を美しく語りすぎない。


 そして、次は死ななくてもいい世界を願う。


 明人の教えは、いつも簡単な言葉をしていた。


 けれど、その簡単な言葉を守るのが、桜夜にはひどく難しかった。


 守るためなら殺していい。


 救うためなら犠牲にしていい。


 大きなもののためなら、小さな命を数にしていい。


 世界は、いつもそう囁く。


 その声に抗うのは、たぶん強い力を持つことよりずっと難しい。


 桜夜は、自分の手を見る。


 この手は、どれだけのものを守れただろう。


 どれだけのものをこぼしただろう。


 考えても、答えは出ない。


「桜夜さん」


 サイカが振り返った。


「大丈夫?」


「うん。大丈夫」


「ほんと?」


「ほんと」


 サイカは少しだけ疑うように桜夜を見た。


 桜夜は苦笑する。


「そこまで信用ない?」


「信用はしてるよ。でも、桜夜さん、大丈夫じゃない時も大丈夫って言うから」


「否定できない」


 ホムラが片目を開けた。


「自覚あるなら直せよ」


「努力はしてる」


「してそれかよ」


「人間、そう簡単には変わらないね」


「お前の場合、人間かどうかから怪しいけどな」


「ひどい」


 サイカが笑った。


 リオも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 その空気に背中を押されるように、桜夜は口を開いた。


「もう一か所だけ、寄ってもいいかな」


 ホムラが嫌な予感を覚えた顔をした。


「今度は何がいるんだよ」


「アヒルではないよ」


「じゃあ何だよ」


 桜夜は少し考えた。


「昔の僕がいる」


「詩人みたいなこと言い出したぞ」


 ホムラが顔をしかめる。


 サイカは不思議そうに首を傾げた。


「昔の桜夜さん?」


「うん」


 リオはバックミラー越しに桜夜を見る。


「伊豆の別荘でしょうか」


「さすが」


「桜夜様がそのような言い方をなさる場所は、限られておりますので」


「読まれてるなあ」


 桜夜は窓の外へ目を戻した。


「少し、海を見たくなった」


 リオは何も聞かなかった。


「承知いたしました。では、伊豆へ向かいます」


 ホムラが小さく息を吐く。


「アヒルの次は昔の自分かよ」


「うん」


「面倒くせえな」


「知ってる」


「開き直んな」


 けれど、ホムラはそれ以上何も言わなかった。


 サイカも、リオも、桜夜がその場所へ行きたい理由をすぐには聞かなかった。


 だから桜夜は、少しだけ救われた。


 誰かが何かを聞かずにいてくれることも、時には優しさなのだと、彼は知っていた。


 伊豆の海は、穏やかだった。


 午後の光が水面に散っている。


 白く砕ける波の向こうに、空と海の境界がぼんやりと溶けていた。


 別荘は、以前とあまり変わっていなかった。


 古びているわけではない。


 きちんと手入れされている。


 けれど、そこには時間が積もっていた。


 誰かが笑ったこと。


 誰かが泣いたこと。


 何かを言いかけて、言えなかったこと。


 それらが、壁や窓や床の木目に、薄く残っているようだった。


 桜夜は玄関の前で立ち止まった。


 鍵を開ける指が、少しだけ遅れる。


「ここ、大事な場所?」


 サイカがそっと聞いた。


「うん」


 桜夜は頷いた。


「ここで、あずさと恋人になった」


 ホムラが変な顔をした。


「さらっと言うなよ」


「重く言った方がよかった?」


「そういう話じゃねえ」


 サイカは少し頬を赤くした。


「そっか。あずささんと」


「うん」


 リオは静かに桜夜を見ていた。


「桜夜様が、ご自身の過去をそのように語られるのは、珍しいですね」


「そうかな」


「はい」


「平塚で、少し思ったんだ」


 桜夜は鍵を回した。


 小さな音がして、扉が開く。


「帰ってくる場所があることは、たぶん祈りの一部なんだって」


 別荘の中には、淡い木の匂いが残っていた。


 窓を開けると、海風が入り込む。


 カーテンが揺れ、埃ではない光の粒が空気の中を漂った。


 サイカは窓辺へ駆け寄り、外の海を見た。


「きれい」


「うん」


「ここで、あずささんと恋人になったんだ」


「うん」


「どうやって?」


 ホムラが咳き込んだ。


「おい、サイカ」


「え?」


「そこ聞くのかよ」


「聞いちゃだめだった?」


「いや、だめっていうか」


 ホムラが桜夜を見る。


「お前も普通に答えようとすんな」


「答えていいのかと思って」


「よくねえよ」


 桜夜は苦笑した。


「まあ、いろいろあったんだよ」


「雑だな」


「大事なことは、だいたい雑にしか言えないんだ」


 ホムラは呆れたように鼻を鳴らした。


「便利な言い訳だな」


 リオは室内を確認しながら、手早く窓を開け、空気を入れ替えていく。


 秘書というより、そこにある時間を傷つけないように整える人の動きだった。


 桜夜は、リビングの奥にある窓際の椅子を見た。


 昔、あずさがそこに座っていた。


 夕暮れの海を背に、少し困ったように笑っていた。


 桜夜はその前に立って、何かを言おうとして、何度も言葉を失った。


 救うことなら、できると思っていた。


 戦うことなら、できると思っていた。


 けれど、誰かに好きだと言うことは、そのどちらよりもずっと怖かった。


 あの時の自分を思い出すと、今でも少し情けなくなる。


 でも、その情けなさも含めて、自分が生きていた証拠だった。


「桜夜さん」


 サイカが呼んだ。


「ん?」


「今、ちょっと優しい顔してた」


「そう?」


「うん」


 桜夜は照れくさそうに目をそらした。


「昔の僕に会ったからかもしれない」


「昔の桜夜さん、どんな人だった?」


「今より面倒くさい」


 ホムラが即座に言った。


「今でも十分面倒くせえよ」


「じゃあ、かなり面倒くさい」


「最悪だな」


「うん。あずさはすごい」


 サイカが笑った。


 その笑い声に、桜夜も笑った。


 その時だった。


 リオの端末が、静かに震えた。


 彼女は画面を確認し、わずかに目を見開く。


「桜夜様」


「どうしたの?」


「通信です」


「誰から?」


 リオは少しだけ間を置いた。


「議長閣下からです」


 桜夜の表情が変わった。


 驚き。


 懐かしさ。


 そして、ほんの少しの痛み。


「つないで」


「はい」


 リオが端末をテーブルの上に置き、通信を開く。


 画面に映ったのは、ひとりの老人だった。


 深い皺。


 白くなった髪。


 だが、目だけは驚くほど明るかった。


 その目を見た瞬間、桜夜の記憶の中で、瓦礫と埃にまみれた古い会議室が蘇った。


 まだ若かった男。


 疲れ果て、痩せて、それでも国を捨てなかった男。


 誰もが無理だと言った場所で、もう一日だけ持ちこたえようとしていた男。


『ミズキ殿』


 老人は言った。


 声は老いていた。


 けれど、どこか嬉しそうだった。


『生きておられましたか』


 桜夜は少し笑った。


「そちらこそ」


『ええ。しぶとく』


 老人は肩を揺らして笑った。


『あなた方に、諦めるなと言われましたのでな』


「それは、僕じゃない」


 桜夜はすぐに言った。


「あなたに諦めるなと言ったのは、猊下だよ。今は教皇様だけど」


 老人は目を細めた。


『相変わらずですな』


「何が?」


『そういうところです』


 桜夜は困ったように眉を下げた。


「本当にそうなんだ。僕は、枯れ木に水をやっていただけだよ」


 サイカが桜夜を見る。


 ホムラも、リオも、黙って通信を聞いていた。


「白虎家からは正論で殴られた。先代相談役にも怒られた。資源の無駄、効果の見込みなし、四方院家の名を傷つける、ほかに救うべき場所はいくらでもある」


 桜夜は苦笑した。


「全部、正しかった」


 老人は黙っていた。


「僕は反論できなかった。できるわけがなかった。実際、見込みなんてなかったから」


『それでも、水をやめなかった』


「やめられなかっただけだよ」


 桜夜は海の方を見る。


「子どもがいたから」


 その一言に、部屋の空気が静かになった。


「瓦礫の横で、石を積んで遊んでいる子がいた。遊んでいるふりをして、家の跡を作っていた。あの子を見たら、もう無理だった」


 桜夜は、小さく息を吐いた。


「でも、本当に支援を動かしたのは聖下だ。当時の枢機卿だった聖下が、あなたたちを見捨てなかった。僕はただ、日本はまだ諦めていないと、向こうへ伝え続けただけだよ」


 老人の目が、少しだけ遠くを見た。


『あの方は、責められておられました』


「知ってる」


『他の枢機卿たちからも、教皇庁の方々からも。なぜ、あの小国にそこまでこだわるのか。もう政治的にも、経済的にも、宗教的にも、成果は見込めない。支援は他へ回すべきだと』


「うん」


『それでも、あの方は言われた』


 老人の声が、少しだけ強くなった。


『日本はあきらめていない。主は、最も弱き者を見捨てない、と』


 桜夜は目を伏せた。


 あの声を、彼も覚えている。


 瓦礫の国を巡る会議。


 長い机。


 疲れた顔の人々。


 数字。


 予算。


 支援効果。


 安全保障上の限界。


 宗教的波及の薄さ。


 いくらでも並べられる正論。


 その中で、当時の枢機卿は静かに立っていた。


 穏やかで、頑固で、優しくて、そして恐ろしく強かった。


 日本は、まだ諦めていません。


 主は、最も弱き者を見捨てません。


 だから、私たちも見捨てません。


 その言葉に、桜夜は救われた。


 自分がどれほど幼稚で、どれほど無力でも、あの人だけは同じ方向を見てくれた。


 いや。


 たぶん違う。


 同じ方向を見ていたのではない。


 桜夜より先に、あの人はそこを見ていた。


「だから、聖下のおかげなんだ」


 桜夜は静かに言った。


「僕は本気でそう思っている」


 老人は画面の向こうで、少しだけ困ったように笑った。


『ミズキ殿。今日は、その話をしに来たのではありません』


「違うの?」


『ええ』


 老人は椅子に座り直した。


 その動きはゆっくりだった。


 老いが、確かに彼の身体を重くしている。


 それでも、声には不思議な弾みがあった。


『報告です』


「報告?」


『はい』


 老人は、まるで子どものように嬉しそうな顔をした。


『我々は、まだ生きています』


 桜夜は息を止めた。


『街に学校ができました。最初は、屋根も半分しかありませんでしたがね。今は雨漏りもしません。子どもたちは、私が顔を出すと、議長は字が下手だと笑います』


 老人は笑った。


『市場も戻りました。昔のように豊かではありません。まだまだ足りないものばかりです。それでも、朝にはパンの匂いがします。昼には喧嘩の声がします。夕方には、値段が高いと怒鳴る声がします』


 ホムラが小さく呟いた。


「平和じゃねえか」


『ええ。文句の多い国です』


 老人は、ホムラの声が聞こえたのか、嬉しそうに頷いた。


『税にも文句を言われます。道路にも文句を言われます。議会にも文句を言われます。私はもう老人だ、少しは労われと言っても、誰も労わりません』


「最高だね」


 桜夜が言った。


 老人は大きく頷いた。


『最高です』


 サイカは目元を押さえた。


「生きて帰った人たちが、ちゃんと生きてるんだね」


 桜夜は、何も言えなかった。


『あの時の子どもたちが、大人になりました』


 老人は続けた。


『瓦礫で家を作っていた少年を、覚えておられますか』


「覚えてる」


『今は建築技師です。口が悪くてね。私の銅像を建てる予算があるなら下水を直せと言われました』


「正しい」


『ええ。実に正しい』


 老人は楽しそうに笑った。


『母親を探して泣いていた少女もいましたな』


「覚えてる」


『彼女は教師になりました。いまでは子どもたちに、泣いてもよいが、泣いたあとは飯を食え、と教えています』


 サイカが涙ぐみながら笑った。


「いい先生だね」


『ええ。怖い先生です』


 老人は目を細める。


『戦争で足を失った青年は、義足で走る子どもたちの大会を始めました。最初は三人でした。今は隣国からも参加者が来ます』


 リオの手が、静かに動いている。


 彼女は、ひとつひとつの言葉を記録していた。


 建物ではなく、人の名前を。


 制度ではなく、生活の音を。


 復興とは、数字だけでは測れない。


 そこに生きる誰かが、朝に起き、文句を言い、誰かを叱り、誰かを愛すること。


 その全部が、帰ってきたということなのだ。


『ミズキ殿』


 老人は、少し真面目な声になった。


『あなたは、枯れ木に水をやっていたと言われた』


「うん」


『ならば、報告しましょう』


 老人は笑った。


『枯れ木だと思われていたものは、どうやら根だけは生きていたようです』


 桜夜は、画面を見つめた。


『水をやる者がいた。日陰を作る者がいた。祈る者がいた。怒る者がいた。数字を整える者がいた。荷を運ぶ者がいた。信じる者がいた』


 老人の声は、ゆっくりと部屋に満ちていく。


『その中に、あなたもいた』


「僕は」


『いいえ』


 老人は、初めて桜夜の言葉を遮った。


 その声は老いていたが、議長だった。


『今日は、あなたに否定させません』


 桜夜は黙った。


『あの方のおかげです。ええ、そうです。あの枢機卿がいなければ、我々は見捨てられていたでしょう。彼は責められながらも、我々を支えた。主は最も弱き者を見捨てないと、誰よりも強く言い切った』


「うん」


『しかし、あの方は、あなたの名も出しておられました』


 桜夜の目が揺れた。


『日本はあきらめていない、と』


「それは」


『その言葉が、どれほど大きかったか、あなたはわかっておられない』


 老人は言った。


『私たちは、世界から忘れられたと思っていました。地図の端で、ニュースの数行になり、予算の端数になり、やがて誰の記憶からも消えるのだと思っていた』


 老人の目が、画面越しに桜夜を見つめる。


『その時、日本はまだ諦めていないと言われた。遠い国の誰かが、我々の名前をまだ呼んでいると知った』


 桜夜は、何も言えなかった。


『あれは、水でした』


 老人は静かに言った。


『枯れ木にではない。根に届く水でした』


 海風が、窓から入り込む。


 カーテンが揺れる。


 桜夜は、自分の胸の奥が静かに痛むのを感じた。


 褒められるのが苦手だった。


 感謝されるのも苦手だった。


 自分がしたことに価値があったと言われると、どうしていいかわからなくなる。


 なぜなら、桜夜の中にはいつも別の声があった。


 もっとできたはずだ。


 もっと早く助けられたはずだ。


 もっと少ない痛みで済ませられたはずだ。


 お前が救ったのではない。


 お前はただ、こぼしたものから目を逸らしているだけだ。


 その声は、なかなか消えない。


 けれど、今日だけは。


 老人の声が、その声より少しだけ強かった。


『我々は、まだ生きています』


 老人はもう一度言った。


『そして、あなた方に報告できるほど、図々しくなりました』


 桜夜は小さく笑った。


「それは本当に、いいことだね」


『ええ』


 老人も笑った。


『生き延びた者は、図々しくなるべきです。そうでなければ、死者に叱られます』


 ホムラが、ふっと笑った。


「いいじいさんだな」


『聞こえておりますぞ、炎のお嬢さん』


「げ」


 ホムラが固まる。


 老人は愉快そうに目を細めた。


『あなたのような方は、我が国では人気が出ます。文句を言いながら、最後まで逃げない顔をしている』


「褒めてんのか、それ」


『もちろん』


 ホムラは顔をそむけた。


「……変なじいさんだ」


 サイカが笑う。


 リオは静かに言った。


「議長閣下。現在の復興状況について、可能であれば後日詳細な資料をいただけますでしょうか」


『もちろんです、記録のお嬢さん』


「ありがとうございます」


『ただし、数字だけでは退屈でしょう。市場の喧嘩の録音も付けましょう』


「ぜひ」


「リオ、それ必要?」


 桜夜が聞く。


「必要です」


「そっか」


『若い方々にお伝えください』


 老人は三人を見るように、画面へ顔を近づけた。


『復興とは、美しい言葉ではありません。泥臭く、うるさく、面倒で、時々腹が立つものです』


 サイカは頷いた。


『しかし、朝に文句を言う相手がいて、昼に飯を食い、夜に明日の心配をする。それが戻ってくることです』


 リオは、その言葉を書き留める。


『我々は、まだ完全ではありません。貧しい。脆い。争いもある。愚かな政治家もいる』


「それはどこの国にもいると思う」


 桜夜が言う。


『ええ。ですから、ようやく普通の国になってきたのです』


 老人は誇らしげに言った。


 桜夜はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 普通の国。


 それは、何より難しいものだった。


 英雄が必要ない国。


 殉教者が増えない国。


 子どもが瓦礫ではなく、砂場で家を作れる国。


 税金に文句を言い、教師が子どもを叱り、年寄りが若者に煙たがられる国。


 それが、どれほど遠い祈りだったか。


 桜夜は、少しだけ目を伏せた。


「よかった」


 その声は、自分でも驚くほど小さかった。


「本当に、よかった」


 老人は、画面の向こうで静かに頷いた。


『ミズキ殿』


「うん」


『あなたは、あの方のおかげだと言うでしょう』


「うん」


『あの方も、きっとあなたのおかげだと言うでしょう』


「それは困るな」


『でしょうな』


 老人は笑った。


『ですから、私が勝手に決めます』


「何を?」


『我々は、多くの人に救われました。あの枢機卿にも。あなたにも。名も知らぬ寄付者にも。瓦礫を運んだ兵にも。パンを焼いた母親にも。泣きながら学校を作った教師にも』


 老人は、ゆっくりと息を吸った。


『誰か一人の功績ではありません』


 桜夜は黙って聞いた。


『しかし、誰か一人が欠けても、今とは違うものになっていた』


 その言葉に、桜夜は目を閉じた。


 そう言われると、逃げ場がなかった。


 自分だけの功績ではない。


 だから誇るな。


 でも、自分がいなくても同じだったとは言わせない。


 老人の言葉は、優しいくせに容赦がなかった。


 まるで、長い年月を生き延びた者だけが持つ、少し意地悪な祝福だった。


『今日は、それを伝えたかった』


「ありがとう」


 桜夜は、ようやくそう言った。


「受け取るよ」


 サイカが、ほっとしたように微笑んだ。


 ホムラは小さく鼻を鳴らす。


 リオは、手帳にその言葉を書き込んだ。


 受け取る。


 たった四文字。


 けれど桜夜にとって、それはとても難しい言葉だった。


『それでよろしい』


 老人は満足そうに頷いた。


『それと、もう一つ』


「まだあるの?」


『あります』


 老人の顔が、また嬉しそうになった。


『来年、我が国で子どもたちの祭りを行います。戦災孤児だった者たちが親になり、その子どもたちが企画しています』


「すごいね」


『ええ。非常に騒がしい祭りになるでしょう』


「いいことだ」


『ぜひ、いらしてください』


 桜夜は少し固まった。


「僕が?」


『あなた方が』


 老人は、画面越しに四人を見た。


『もちろん、あの方にもお声がけします。今や教皇となられましたから、お忙しいでしょうが』


「忙しいだろうね」


『ですが、あの方は来るでしょう』


「来ると思う」


 桜夜は苦笑した。


「責められても、止めても、結局来る人だから」


『あなたも似たようなものです』


「僕はそんなに立派じゃない」


『立派かどうかは関係ありません。面倒な人です』


 ホムラが吹き出した。


「じいさん、わかってんな」


『長く政治をしておりますので』


「政治家ってすげえな」


『たいしたものではありません。怒られ慣れるだけです』


 老人は笑った。


 そして、少しだけ真剣な顔に戻る。


『ミズキ殿』


「うん」


『生きて帰ってください』


 桜夜は、息を止めた。


『あなたは、救うことばかり考える。背負うことばかり考える。誰かを帰す道ばかり探す』


 老人の声は、穏やかだった。


『しかし、あなた自身も帰らねばなりません』


 サイカの手が、そっと桜夜の袖に触れた。


 リオは手帳から顔を上げる。


 ホムラも、茶化さなかった。


『あの方も、きっと同じことを言われるでしょう』


「……うん」


『あなたが戻る場所は、もう一つではないはずです』


 老人は微笑んだ。


『伊豆の海にも。横浜にも。友のいる場所にも。あなたを待つ方々の隣にも』


 桜夜は、窓の外の海を見た。


 ここで、あずさと恋人になった。


 自分が誰かを好きになってもいいのだと、少しだけ信じられた。


 平塚の池では、アヒルたちに生きて帰ることを教えられた。


 遠い国の老いた議長は、まだ生きていると笑った。


 帰る場所は、一つではない。


 その言葉が、桜夜の胸に静かに沈んでいく。


「ありがとう」


 桜夜は言った。


「できるだけ、そうする」


『できるだけ、では困りますな』


「厳しい」


『老人は厳しいものです』


 老人は愉快そうに笑った。


『では、今日はここまでにしましょう。長く話すと医師に怒られます』


「お大事に」


『あなたも』


「僕は大丈夫」


『そういう方ほど大丈夫ではありません』


 サイカが大きく頷いた。


「本当にそうです」


「サイカさん」


「桜夜さん、大丈夫じゃない時も大丈夫って言うから」


『なるほど。よい方がそばにおられる』


 桜夜は少し困ったように笑った。


「うん。僕にはもったいないくらい」


 サイカが頬を赤くした。


 ホムラが呆れる。


「そういうことをさらっと言うな」


「今のはだめだった?」


「だめじゃねえけど、反応に困るんだよ」


 老人は笑った。


『よいことです。反応に困る言葉を言えるうちは、人は生きております』


 通信の向こうで、誰かが老人を呼ぶ声がした。


『では、ミズキ殿。また』


「うん。また」


『次は、画面越しではなく、文句の多い我が国で』


「楽しみにしてる」


『ええ。我々は、まだ生きていますから』


 通信が切れた。


 部屋に、海の音が戻ってきた。


 誰もすぐには話さなかった。


 リオは手帳を閉じる。


 サイカは、そっと目元を拭った。


 ホムラは窓の外を見ながら、照れ隠しのように呟く。


「税に文句言えるなら、まあ平和なんじゃねえの」


「うん」


 桜夜は笑った。


「たぶん、すごく平和だ」


 サイカが言った。


「よかったね」


「うん」


「桜夜さんが、水をやめなかったからだね」


「聖下がね」


「桜夜さんも」


 サイカは、少しだけ強い声で言った。


「桜夜さんも、だよ」


 桜夜は言い返そうとして、やめた。


 受け取る。


 そう言ったばかりだった。


「……うん」


 小さく頷く。


「僕も、少しだけ」


 ホムラが横から言った。


「少しだけ、ってつけんな」


「難しい」


「知ってる」


 リオが静かに微笑んだ。


「記録には、こう残します」


「どう残すの?」


「枯れ木に水をやっていたと本人は語った。しかし、その水は根に届いていた」


 桜夜は、困ったように笑った。


「それ、少し恥ずかしいな」


「歴史ですので」


「便利だね、歴史」


「はい」


 サイカが窓を開けた。


 海風が部屋に満ちる。


 桜夜はゆっくりと立ち上がり、外へ出た。


 別荘のテラスから、伊豆の海が見えた。


 広い海だった。


 平塚の池とは違う。


 けれど、つながっている。


 池の水面に浮かんだ白い羽根も、この海の向こうの遠い国も、あずさと恋人になったこの場所も、どこかで同じ祈りに触れている。


 生きて帰る。


 その言葉は、戦場から戻ることだけではなかった。


 帰った場所で、また誰かと笑うこと。


 喧嘩すること。


 税金に文句を言うこと。


 子どもを叱ること。


 好きな人に好きだと言うこと。


 誰かに大丈夫かと聞かれて、できれば嘘をつかないこと。


 それら全部が、生きて帰るということなのだ。


 桜夜は、海を見ながら呟いた。


「世界が平和でありますように」


 その祈りは、まだ遠い。


 けれど、今日だけは少しだけ、遠い国から返事があった気がした。


 我々は、まだ生きています。


 老いた声は、嬉しそうだった。


 桜夜は目を閉じる。


 あの時、枯れ木に水をやっていたと思っていた。


 無駄だと言われた。


 正論で殴られた。


 それでも、やめられなかった。


 そして、遠い国で根はまだ生きていた。


 それは桜夜ひとりの功績ではない。


 後の教皇がいた。


 議長がいた。


 名も知らぬ人々がいた。


 水を運んだ者がいて、土を守った者がいて、泣きながら種を植えた者がいた。


 誰か一人の功績ではない。


 けれど、誰か一人が欠けても、今とは違っていた。


 桜夜は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 受け取る。


 まだ上手にはできない。


 でも、今日くらいは。


「桜夜さん」


 サイカが隣に来た。


 リオも、ホムラも、少し離れて海を見ている。


「寒くない?」


「大丈夫」


 サイカがじっと見る。


 桜夜は少し笑った。


「今度は、本当」


「ならいいけど」


 サイカは、桜夜の隣に立った。


「いつか、行けるといいね。その国」


「うん」


「議長さん、嬉しそうだったね」


「うん」


「生きてるって、嬉しいことなんだね」


 桜夜は、すぐには答えなかった。


 海風が髪を揺らす。


 遠い波の音が、静かに耳に届く。


「うん」


 やがて、桜夜は頷いた。


「たぶん、とても」


 それから、少しだけ笑った。


「僕はよく忘れるけど」


「じゃあ、思い出そう」


 サイカは言った。


「何度でも」


 桜夜は彼女を見る。


 サイカは、海を見たまま笑っていた。


 その横顔に、桜夜は伊豆の夕暮れを思い出した。


 あずさが笑っていた。


 好きだと言うことが怖かった。


 それでも言った。


 あの日の自分も、たぶん生きて帰ろうとしていたのだ。


 戦場からではない。


 孤独から。


 桜夜は、海の向こうを見る。


 祈りは、池のほとりで終わらなかった。


 海へ出て、遠い国の朝へつながっていた。


 そして、またここへ戻ってくる。


 伊豆の海と、老いた声と、隣にいる人たちの温度の中へ。


「生きて帰ろう」


 桜夜は、小さく言った。


 サイカが頷く。


 リオも、静かに頭を下げた。


 ホムラは照れくさそうに顔をそむけながら、ぼそりと言った。


「当たり前だろ」


 桜夜は笑った。


「うん。当たり前にしたいね」


 海は、ただ広がっていた。


 誰かに死を求めることなく。


 誰かの名を奪うことなく。


 帰ってきた者たちを、静かに迎えるように。


 世界が平和でありますように。


 その祈りは、遠い国の税金への愚痴と、伊豆の海風の中で、少しだけ笑っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。