第51話 伊豆の海と老いた声
平塚を出てから、しばらく誰も話さなかった。
車内には、海へ向かう道の音だけがあった。
リオは静かにハンドルを握り、サイカは助手席から時折、後ろの桜夜を気にして振り返る。ホムラは桜夜の隣で腕を組み、眠っているのか起きているのかわからない顔をしていた。
桜夜は、窓の外を見ていた。
街が流れていく。
遠くに海の気配がある。
池の水面に揺れていた白い羽根が、まだ目の奥に残っていた。
死者を笑わない。
死を美しく語りすぎない。
そして、次は死ななくてもいい世界を願う。
明人の教えは、いつも簡単な言葉をしていた。
けれど、その簡単な言葉を守るのが、桜夜にはひどく難しかった。
守るためなら殺していい。
救うためなら犠牲にしていい。
大きなもののためなら、小さな命を数にしていい。
世界は、いつもそう囁く。
その声に抗うのは、たぶん強い力を持つことよりずっと難しい。
桜夜は、自分の手を見る。
この手は、どれだけのものを守れただろう。
どれだけのものをこぼしただろう。
考えても、答えは出ない。
「桜夜さん」
サイカが振り返った。
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「ほんと?」
「ほんと」
サイカは少しだけ疑うように桜夜を見た。
桜夜は苦笑する。
「そこまで信用ない?」
「信用はしてるよ。でも、桜夜さん、大丈夫じゃない時も大丈夫って言うから」
「否定できない」
ホムラが片目を開けた。
「自覚あるなら直せよ」
「努力はしてる」
「してそれかよ」
「人間、そう簡単には変わらないね」
「お前の場合、人間かどうかから怪しいけどな」
「ひどい」
サイカが笑った。
リオも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その空気に背中を押されるように、桜夜は口を開いた。
「もう一か所だけ、寄ってもいいかな」
ホムラが嫌な予感を覚えた顔をした。
「今度は何がいるんだよ」
「アヒルではないよ」
「じゃあ何だよ」
桜夜は少し考えた。
「昔の僕がいる」
「詩人みたいなこと言い出したぞ」
ホムラが顔をしかめる。
サイカは不思議そうに首を傾げた。
「昔の桜夜さん?」
「うん」
リオはバックミラー越しに桜夜を見る。
「伊豆の別荘でしょうか」
「さすが」
「桜夜様がそのような言い方をなさる場所は、限られておりますので」
「読まれてるなあ」
桜夜は窓の外へ目を戻した。
「少し、海を見たくなった」
リオは何も聞かなかった。
「承知いたしました。では、伊豆へ向かいます」
ホムラが小さく息を吐く。
「アヒルの次は昔の自分かよ」
「うん」
「面倒くせえな」
「知ってる」
「開き直んな」
けれど、ホムラはそれ以上何も言わなかった。
サイカも、リオも、桜夜がその場所へ行きたい理由をすぐには聞かなかった。
だから桜夜は、少しだけ救われた。
誰かが何かを聞かずにいてくれることも、時には優しさなのだと、彼は知っていた。
伊豆の海は、穏やかだった。
午後の光が水面に散っている。
白く砕ける波の向こうに、空と海の境界がぼんやりと溶けていた。
別荘は、以前とあまり変わっていなかった。
古びているわけではない。
きちんと手入れされている。
けれど、そこには時間が積もっていた。
誰かが笑ったこと。
誰かが泣いたこと。
何かを言いかけて、言えなかったこと。
それらが、壁や窓や床の木目に、薄く残っているようだった。
桜夜は玄関の前で立ち止まった。
鍵を開ける指が、少しだけ遅れる。
「ここ、大事な場所?」
サイカがそっと聞いた。
「うん」
桜夜は頷いた。
「ここで、あずさと恋人になった」
ホムラが変な顔をした。
「さらっと言うなよ」
「重く言った方がよかった?」
「そういう話じゃねえ」
サイカは少し頬を赤くした。
「そっか。あずささんと」
「うん」
リオは静かに桜夜を見ていた。
「桜夜様が、ご自身の過去をそのように語られるのは、珍しいですね」
「そうかな」
「はい」
「平塚で、少し思ったんだ」
桜夜は鍵を回した。
小さな音がして、扉が開く。
「帰ってくる場所があることは、たぶん祈りの一部なんだって」
別荘の中には、淡い木の匂いが残っていた。
窓を開けると、海風が入り込む。
カーテンが揺れ、埃ではない光の粒が空気の中を漂った。
サイカは窓辺へ駆け寄り、外の海を見た。
「きれい」
「うん」
「ここで、あずささんと恋人になったんだ」
「うん」
「どうやって?」
ホムラが咳き込んだ。
「おい、サイカ」
「え?」
「そこ聞くのかよ」
「聞いちゃだめだった?」
「いや、だめっていうか」
ホムラが桜夜を見る。
「お前も普通に答えようとすんな」
「答えていいのかと思って」
「よくねえよ」
桜夜は苦笑した。
「まあ、いろいろあったんだよ」
「雑だな」
「大事なことは、だいたい雑にしか言えないんだ」
ホムラは呆れたように鼻を鳴らした。
「便利な言い訳だな」
リオは室内を確認しながら、手早く窓を開け、空気を入れ替えていく。
秘書というより、そこにある時間を傷つけないように整える人の動きだった。
桜夜は、リビングの奥にある窓際の椅子を見た。
昔、あずさがそこに座っていた。
夕暮れの海を背に、少し困ったように笑っていた。
桜夜はその前に立って、何かを言おうとして、何度も言葉を失った。
救うことなら、できると思っていた。
戦うことなら、できると思っていた。
けれど、誰かに好きだと言うことは、そのどちらよりもずっと怖かった。
あの時の自分を思い出すと、今でも少し情けなくなる。
でも、その情けなさも含めて、自分が生きていた証拠だった。
「桜夜さん」
サイカが呼んだ。
「ん?」
「今、ちょっと優しい顔してた」
「そう?」
「うん」
桜夜は照れくさそうに目をそらした。
「昔の僕に会ったからかもしれない」
「昔の桜夜さん、どんな人だった?」
「今より面倒くさい」
ホムラが即座に言った。
「今でも十分面倒くせえよ」
「じゃあ、かなり面倒くさい」
「最悪だな」
「うん。あずさはすごい」
サイカが笑った。
その笑い声に、桜夜も笑った。
その時だった。
リオの端末が、静かに震えた。
彼女は画面を確認し、わずかに目を見開く。
「桜夜様」
「どうしたの?」
「通信です」
「誰から?」
リオは少しだけ間を置いた。
「議長閣下からです」
桜夜の表情が変わった。
驚き。
懐かしさ。
そして、ほんの少しの痛み。
「つないで」
「はい」
リオが端末をテーブルの上に置き、通信を開く。
画面に映ったのは、ひとりの老人だった。
深い皺。
白くなった髪。
だが、目だけは驚くほど明るかった。
その目を見た瞬間、桜夜の記憶の中で、瓦礫と埃にまみれた古い会議室が蘇った。
まだ若かった男。
疲れ果て、痩せて、それでも国を捨てなかった男。
誰もが無理だと言った場所で、もう一日だけ持ちこたえようとしていた男。
『ミズキ殿』
老人は言った。
声は老いていた。
けれど、どこか嬉しそうだった。
『生きておられましたか』
桜夜は少し笑った。
「そちらこそ」
『ええ。しぶとく』
老人は肩を揺らして笑った。
『あなた方に、諦めるなと言われましたのでな』
「それは、僕じゃない」
桜夜はすぐに言った。
「あなたに諦めるなと言ったのは、猊下だよ。今は教皇様だけど」
老人は目を細めた。
『相変わらずですな』
「何が?」
『そういうところです』
桜夜は困ったように眉を下げた。
「本当にそうなんだ。僕は、枯れ木に水をやっていただけだよ」
サイカが桜夜を見る。
ホムラも、リオも、黙って通信を聞いていた。
「白虎家からは正論で殴られた。先代相談役にも怒られた。資源の無駄、効果の見込みなし、四方院家の名を傷つける、ほかに救うべき場所はいくらでもある」
桜夜は苦笑した。
「全部、正しかった」
老人は黙っていた。
「僕は反論できなかった。できるわけがなかった。実際、見込みなんてなかったから」
『それでも、水をやめなかった』
「やめられなかっただけだよ」
桜夜は海の方を見る。
「子どもがいたから」
その一言に、部屋の空気が静かになった。
「瓦礫の横で、石を積んで遊んでいる子がいた。遊んでいるふりをして、家の跡を作っていた。あの子を見たら、もう無理だった」
桜夜は、小さく息を吐いた。
「でも、本当に支援を動かしたのは聖下だ。当時の枢機卿だった聖下が、あなたたちを見捨てなかった。僕はただ、日本はまだ諦めていないと、向こうへ伝え続けただけだよ」
老人の目が、少しだけ遠くを見た。
『あの方は、責められておられました』
「知ってる」
『他の枢機卿たちからも、教皇庁の方々からも。なぜ、あの小国にそこまでこだわるのか。もう政治的にも、経済的にも、宗教的にも、成果は見込めない。支援は他へ回すべきだと』
「うん」
『それでも、あの方は言われた』
老人の声が、少しだけ強くなった。
『日本はあきらめていない。主は、最も弱き者を見捨てない、と』
桜夜は目を伏せた。
あの声を、彼も覚えている。
瓦礫の国を巡る会議。
長い机。
疲れた顔の人々。
数字。
予算。
支援効果。
安全保障上の限界。
宗教的波及の薄さ。
いくらでも並べられる正論。
その中で、当時の枢機卿は静かに立っていた。
穏やかで、頑固で、優しくて、そして恐ろしく強かった。
日本は、まだ諦めていません。
主は、最も弱き者を見捨てません。
だから、私たちも見捨てません。
その言葉に、桜夜は救われた。
自分がどれほど幼稚で、どれほど無力でも、あの人だけは同じ方向を見てくれた。
いや。
たぶん違う。
同じ方向を見ていたのではない。
桜夜より先に、あの人はそこを見ていた。
「だから、聖下のおかげなんだ」
桜夜は静かに言った。
「僕は本気でそう思っている」
老人は画面の向こうで、少しだけ困ったように笑った。
『ミズキ殿。今日は、その話をしに来たのではありません』
「違うの?」
『ええ』
老人は椅子に座り直した。
その動きはゆっくりだった。
老いが、確かに彼の身体を重くしている。
それでも、声には不思議な弾みがあった。
『報告です』
「報告?」
『はい』
老人は、まるで子どものように嬉しそうな顔をした。
『我々は、まだ生きています』
桜夜は息を止めた。
『街に学校ができました。最初は、屋根も半分しかありませんでしたがね。今は雨漏りもしません。子どもたちは、私が顔を出すと、議長は字が下手だと笑います』
老人は笑った。
『市場も戻りました。昔のように豊かではありません。まだまだ足りないものばかりです。それでも、朝にはパンの匂いがします。昼には喧嘩の声がします。夕方には、値段が高いと怒鳴る声がします』
ホムラが小さく呟いた。
「平和じゃねえか」
『ええ。文句の多い国です』
老人は、ホムラの声が聞こえたのか、嬉しそうに頷いた。
『税にも文句を言われます。道路にも文句を言われます。議会にも文句を言われます。私はもう老人だ、少しは労われと言っても、誰も労わりません』
「最高だね」
桜夜が言った。
老人は大きく頷いた。
『最高です』
サイカは目元を押さえた。
「生きて帰った人たちが、ちゃんと生きてるんだね」
桜夜は、何も言えなかった。
『あの時の子どもたちが、大人になりました』
老人は続けた。
『瓦礫で家を作っていた少年を、覚えておられますか』
「覚えてる」
『今は建築技師です。口が悪くてね。私の銅像を建てる予算があるなら下水を直せと言われました』
「正しい」
『ええ。実に正しい』
老人は楽しそうに笑った。
『母親を探して泣いていた少女もいましたな』
「覚えてる」
『彼女は教師になりました。いまでは子どもたちに、泣いてもよいが、泣いたあとは飯を食え、と教えています』
サイカが涙ぐみながら笑った。
「いい先生だね」
『ええ。怖い先生です』
老人は目を細める。
『戦争で足を失った青年は、義足で走る子どもたちの大会を始めました。最初は三人でした。今は隣国からも参加者が来ます』
リオの手が、静かに動いている。
彼女は、ひとつひとつの言葉を記録していた。
建物ではなく、人の名前を。
制度ではなく、生活の音を。
復興とは、数字だけでは測れない。
そこに生きる誰かが、朝に起き、文句を言い、誰かを叱り、誰かを愛すること。
その全部が、帰ってきたということなのだ。
『ミズキ殿』
老人は、少し真面目な声になった。
『あなたは、枯れ木に水をやっていたと言われた』
「うん」
『ならば、報告しましょう』
老人は笑った。
『枯れ木だと思われていたものは、どうやら根だけは生きていたようです』
桜夜は、画面を見つめた。
『水をやる者がいた。日陰を作る者がいた。祈る者がいた。怒る者がいた。数字を整える者がいた。荷を運ぶ者がいた。信じる者がいた』
老人の声は、ゆっくりと部屋に満ちていく。
『その中に、あなたもいた』
「僕は」
『いいえ』
老人は、初めて桜夜の言葉を遮った。
その声は老いていたが、議長だった。
『今日は、あなたに否定させません』
桜夜は黙った。
『あの方のおかげです。ええ、そうです。あの枢機卿がいなければ、我々は見捨てられていたでしょう。彼は責められながらも、我々を支えた。主は最も弱き者を見捨てないと、誰よりも強く言い切った』
「うん」
『しかし、あの方は、あなたの名も出しておられました』
桜夜の目が揺れた。
『日本はあきらめていない、と』
「それは」
『その言葉が、どれほど大きかったか、あなたはわかっておられない』
老人は言った。
『私たちは、世界から忘れられたと思っていました。地図の端で、ニュースの数行になり、予算の端数になり、やがて誰の記憶からも消えるのだと思っていた』
老人の目が、画面越しに桜夜を見つめる。
『その時、日本はまだ諦めていないと言われた。遠い国の誰かが、我々の名前をまだ呼んでいると知った』
桜夜は、何も言えなかった。
『あれは、水でした』
老人は静かに言った。
『枯れ木にではない。根に届く水でした』
海風が、窓から入り込む。
カーテンが揺れる。
桜夜は、自分の胸の奥が静かに痛むのを感じた。
褒められるのが苦手だった。
感謝されるのも苦手だった。
自分がしたことに価値があったと言われると、どうしていいかわからなくなる。
なぜなら、桜夜の中にはいつも別の声があった。
もっとできたはずだ。
もっと早く助けられたはずだ。
もっと少ない痛みで済ませられたはずだ。
お前が救ったのではない。
お前はただ、こぼしたものから目を逸らしているだけだ。
その声は、なかなか消えない。
けれど、今日だけは。
老人の声が、その声より少しだけ強かった。
『我々は、まだ生きています』
老人はもう一度言った。
『そして、あなた方に報告できるほど、図々しくなりました』
桜夜は小さく笑った。
「それは本当に、いいことだね」
『ええ』
老人も笑った。
『生き延びた者は、図々しくなるべきです。そうでなければ、死者に叱られます』
ホムラが、ふっと笑った。
「いいじいさんだな」
『聞こえておりますぞ、炎のお嬢さん』
「げ」
ホムラが固まる。
老人は愉快そうに目を細めた。
『あなたのような方は、我が国では人気が出ます。文句を言いながら、最後まで逃げない顔をしている』
「褒めてんのか、それ」
『もちろん』
ホムラは顔をそむけた。
「……変なじいさんだ」
サイカが笑う。
リオは静かに言った。
「議長閣下。現在の復興状況について、可能であれば後日詳細な資料をいただけますでしょうか」
『もちろんです、記録のお嬢さん』
「ありがとうございます」
『ただし、数字だけでは退屈でしょう。市場の喧嘩の録音も付けましょう』
「ぜひ」
「リオ、それ必要?」
桜夜が聞く。
「必要です」
「そっか」
『若い方々にお伝えください』
老人は三人を見るように、画面へ顔を近づけた。
『復興とは、美しい言葉ではありません。泥臭く、うるさく、面倒で、時々腹が立つものです』
サイカは頷いた。
『しかし、朝に文句を言う相手がいて、昼に飯を食い、夜に明日の心配をする。それが戻ってくることです』
リオは、その言葉を書き留める。
『我々は、まだ完全ではありません。貧しい。脆い。争いもある。愚かな政治家もいる』
「それはどこの国にもいると思う」
桜夜が言う。
『ええ。ですから、ようやく普通の国になってきたのです』
老人は誇らしげに言った。
桜夜はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
普通の国。
それは、何より難しいものだった。
英雄が必要ない国。
殉教者が増えない国。
子どもが瓦礫ではなく、砂場で家を作れる国。
税金に文句を言い、教師が子どもを叱り、年寄りが若者に煙たがられる国。
それが、どれほど遠い祈りだったか。
桜夜は、少しだけ目を伏せた。
「よかった」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
「本当に、よかった」
老人は、画面の向こうで静かに頷いた。
『ミズキ殿』
「うん」
『あなたは、あの方のおかげだと言うでしょう』
「うん」
『あの方も、きっとあなたのおかげだと言うでしょう』
「それは困るな」
『でしょうな』
老人は笑った。
『ですから、私が勝手に決めます』
「何を?」
『我々は、多くの人に救われました。あの枢機卿にも。あなたにも。名も知らぬ寄付者にも。瓦礫を運んだ兵にも。パンを焼いた母親にも。泣きながら学校を作った教師にも』
老人は、ゆっくりと息を吸った。
『誰か一人の功績ではありません』
桜夜は黙って聞いた。
『しかし、誰か一人が欠けても、今とは違うものになっていた』
その言葉に、桜夜は目を閉じた。
そう言われると、逃げ場がなかった。
自分だけの功績ではない。
だから誇るな。
でも、自分がいなくても同じだったとは言わせない。
老人の言葉は、優しいくせに容赦がなかった。
まるで、長い年月を生き延びた者だけが持つ、少し意地悪な祝福だった。
『今日は、それを伝えたかった』
「ありがとう」
桜夜は、ようやくそう言った。
「受け取るよ」
サイカが、ほっとしたように微笑んだ。
ホムラは小さく鼻を鳴らす。
リオは、手帳にその言葉を書き込んだ。
受け取る。
たった四文字。
けれど桜夜にとって、それはとても難しい言葉だった。
『それでよろしい』
老人は満足そうに頷いた。
『それと、もう一つ』
「まだあるの?」
『あります』
老人の顔が、また嬉しそうになった。
『来年、我が国で子どもたちの祭りを行います。戦災孤児だった者たちが親になり、その子どもたちが企画しています』
「すごいね」
『ええ。非常に騒がしい祭りになるでしょう』
「いいことだ」
『ぜひ、いらしてください』
桜夜は少し固まった。
「僕が?」
『あなた方が』
老人は、画面越しに四人を見た。
『もちろん、あの方にもお声がけします。今や教皇となられましたから、お忙しいでしょうが』
「忙しいだろうね」
『ですが、あの方は来るでしょう』
「来ると思う」
桜夜は苦笑した。
「責められても、止めても、結局来る人だから」
『あなたも似たようなものです』
「僕はそんなに立派じゃない」
『立派かどうかは関係ありません。面倒な人です』
ホムラが吹き出した。
「じいさん、わかってんな」
『長く政治をしておりますので』
「政治家ってすげえな」
『たいしたものではありません。怒られ慣れるだけです』
老人は笑った。
そして、少しだけ真剣な顔に戻る。
『ミズキ殿』
「うん」
『生きて帰ってください』
桜夜は、息を止めた。
『あなたは、救うことばかり考える。背負うことばかり考える。誰かを帰す道ばかり探す』
老人の声は、穏やかだった。
『しかし、あなた自身も帰らねばなりません』
サイカの手が、そっと桜夜の袖に触れた。
リオは手帳から顔を上げる。
ホムラも、茶化さなかった。
『あの方も、きっと同じことを言われるでしょう』
「……うん」
『あなたが戻る場所は、もう一つではないはずです』
老人は微笑んだ。
『伊豆の海にも。横浜にも。友のいる場所にも。あなたを待つ方々の隣にも』
桜夜は、窓の外の海を見た。
ここで、あずさと恋人になった。
自分が誰かを好きになってもいいのだと、少しだけ信じられた。
平塚の池では、アヒルたちに生きて帰ることを教えられた。
遠い国の老いた議長は、まだ生きていると笑った。
帰る場所は、一つではない。
その言葉が、桜夜の胸に静かに沈んでいく。
「ありがとう」
桜夜は言った。
「できるだけ、そうする」
『できるだけ、では困りますな』
「厳しい」
『老人は厳しいものです』
老人は愉快そうに笑った。
『では、今日はここまでにしましょう。長く話すと医師に怒られます』
「お大事に」
『あなたも』
「僕は大丈夫」
『そういう方ほど大丈夫ではありません』
サイカが大きく頷いた。
「本当にそうです」
「サイカさん」
「桜夜さん、大丈夫じゃない時も大丈夫って言うから」
『なるほど。よい方がそばにおられる』
桜夜は少し困ったように笑った。
「うん。僕にはもったいないくらい」
サイカが頬を赤くした。
ホムラが呆れる。
「そういうことをさらっと言うな」
「今のはだめだった?」
「だめじゃねえけど、反応に困るんだよ」
老人は笑った。
『よいことです。反応に困る言葉を言えるうちは、人は生きております』
通信の向こうで、誰かが老人を呼ぶ声がした。
『では、ミズキ殿。また』
「うん。また」
『次は、画面越しではなく、文句の多い我が国で』
「楽しみにしてる」
『ええ。我々は、まだ生きていますから』
通信が切れた。
部屋に、海の音が戻ってきた。
誰もすぐには話さなかった。
リオは手帳を閉じる。
サイカは、そっと目元を拭った。
ホムラは窓の外を見ながら、照れ隠しのように呟く。
「税に文句言えるなら、まあ平和なんじゃねえの」
「うん」
桜夜は笑った。
「たぶん、すごく平和だ」
サイカが言った。
「よかったね」
「うん」
「桜夜さんが、水をやめなかったからだね」
「聖下がね」
「桜夜さんも」
サイカは、少しだけ強い声で言った。
「桜夜さんも、だよ」
桜夜は言い返そうとして、やめた。
受け取る。
そう言ったばかりだった。
「……うん」
小さく頷く。
「僕も、少しだけ」
ホムラが横から言った。
「少しだけ、ってつけんな」
「難しい」
「知ってる」
リオが静かに微笑んだ。
「記録には、こう残します」
「どう残すの?」
「枯れ木に水をやっていたと本人は語った。しかし、その水は根に届いていた」
桜夜は、困ったように笑った。
「それ、少し恥ずかしいな」
「歴史ですので」
「便利だね、歴史」
「はい」
サイカが窓を開けた。
海風が部屋に満ちる。
桜夜はゆっくりと立ち上がり、外へ出た。
別荘のテラスから、伊豆の海が見えた。
広い海だった。
平塚の池とは違う。
けれど、つながっている。
池の水面に浮かんだ白い羽根も、この海の向こうの遠い国も、あずさと恋人になったこの場所も、どこかで同じ祈りに触れている。
生きて帰る。
その言葉は、戦場から戻ることだけではなかった。
帰った場所で、また誰かと笑うこと。
喧嘩すること。
税金に文句を言うこと。
子どもを叱ること。
好きな人に好きだと言うこと。
誰かに大丈夫かと聞かれて、できれば嘘をつかないこと。
それら全部が、生きて帰るということなのだ。
桜夜は、海を見ながら呟いた。
「世界が平和でありますように」
その祈りは、まだ遠い。
けれど、今日だけは少しだけ、遠い国から返事があった気がした。
我々は、まだ生きています。
老いた声は、嬉しそうだった。
桜夜は目を閉じる。
あの時、枯れ木に水をやっていたと思っていた。
無駄だと言われた。
正論で殴られた。
それでも、やめられなかった。
そして、遠い国で根はまだ生きていた。
それは桜夜ひとりの功績ではない。
後の教皇がいた。
議長がいた。
名も知らぬ人々がいた。
水を運んだ者がいて、土を守った者がいて、泣きながら種を植えた者がいた。
誰か一人の功績ではない。
けれど、誰か一人が欠けても、今とは違っていた。
桜夜は、その言葉を胸の中で繰り返した。
受け取る。
まだ上手にはできない。
でも、今日くらいは。
「桜夜さん」
サイカが隣に来た。
リオも、ホムラも、少し離れて海を見ている。
「寒くない?」
「大丈夫」
サイカがじっと見る。
桜夜は少し笑った。
「今度は、本当」
「ならいいけど」
サイカは、桜夜の隣に立った。
「いつか、行けるといいね。その国」
「うん」
「議長さん、嬉しそうだったね」
「うん」
「生きてるって、嬉しいことなんだね」
桜夜は、すぐには答えなかった。
海風が髪を揺らす。
遠い波の音が、静かに耳に届く。
「うん」
やがて、桜夜は頷いた。
「たぶん、とても」
それから、少しだけ笑った。
「僕はよく忘れるけど」
「じゃあ、思い出そう」
サイカは言った。
「何度でも」
桜夜は彼女を見る。
サイカは、海を見たまま笑っていた。
その横顔に、桜夜は伊豆の夕暮れを思い出した。
あずさが笑っていた。
好きだと言うことが怖かった。
それでも言った。
あの日の自分も、たぶん生きて帰ろうとしていたのだ。
戦場からではない。
孤独から。
桜夜は、海の向こうを見る。
祈りは、池のほとりで終わらなかった。
海へ出て、遠い国の朝へつながっていた。
そして、またここへ戻ってくる。
伊豆の海と、老いた声と、隣にいる人たちの温度の中へ。
「生きて帰ろう」
桜夜は、小さく言った。
サイカが頷く。
リオも、静かに頭を下げた。
ホムラは照れくさそうに顔をそむけながら、ぼそりと言った。
「当たり前だろ」
桜夜は笑った。
「うん。当たり前にしたいね」
海は、ただ広がっていた。
誰かに死を求めることなく。
誰かの名を奪うことなく。
帰ってきた者たちを、静かに迎えるように。
世界が平和でありますように。
その祈りは、遠い国の税金への愚痴と、伊豆の海風の中で、少しだけ笑っていた。




