第52話 消えない足跡
通信が終わったあとも、伊豆の海は変わらずそこにあった。
波は寄せて、返す。
遠い国の老いた声も、平塚の池で聞いたアヒルの鳴き声も、宮森明人の墓前で告げた「ただいま」も、すべて海風の中に溶けていくようだった。
けれど、消えたわけではない。
桜夜はテラスに立ったまま、しばらく海を見ていた。
サイカは隣にいた。
リオは室内で議長から受け取った言葉を整理している。
ホムラはソファに座り、腕を組んでいたが、眠っているわけではなかった。目だけは、窓の外に向けられている。
誰も、すぐに帰ろうとは言わなかった。
桜夜も、帰ろうとは思わなかった。
ここには、昔の自分がいる。
そう言った。
たしかに、その通りだった。
この別荘には、かつての自分がいた。
まだ自分が誰かを好きになっていいのかもわからず、誰かの隣に立つことと、誰かを縛ることの違いに怯えていた頃の自分。
あずさの隣にいて、海を見て、それでも好きだという言葉を飲み込み続けていた自分。
情けなくて、愚かで、でも確かに生きていた自分。
「桜夜さん」
サイカが呼んだ。
「うん」
「少し、歩く?」
桜夜はサイカを見た。
「いいの?」
「うん。歩きたそうな顔してた」
「僕、そんな顔してた?」
「してたよ」
桜夜は苦笑した。
「そっか」
ホムラがソファから声を投げる。
「行くならさっさと行けよ。湿っぽい顔で突っ立ってられると、こっちまで落ち着かねえ」
「ホムラちゃんも来る?」
「散歩だろ」
「うん」
「……まあ、暇だしな」
リオが手帳を閉じた。
「わたくしも同行いたします」
「リオちゃんは記録の整理してたんじゃないの?」
「記録すべきものが、外にあるようですので」
「さすが」
「ありがとうございます」
四人は別荘を出て、海へ続く道を下りた。
夕方の砂浜は、人が少なかった。
夏の盛りの喧騒とは違う。
どこか静かで、波音がよく聞こえる。
砂に足を置くと、柔らかく沈んだ。
ホムラは靴の中に入った砂に顔をしかめる。
「歩きにくいな」
「砂浜だからね」
「知ってる」
サイカは少し楽しそうに歩いていた。
「足跡つくね」
「うん」
リオは自分の足元を見た。
「四人分の足跡が、並んでおりますね」
「リオ、こういうのも記録するの?」
「はい」
「まめだなあ」
「後で、どの足跡が誰のものか判別できなくなる可能性がありますので」
ホムラが呆れる。
「それ、判別する必要あるか?」
「あります」
「何でだよ」
「歴史ですので」
「便利だな、歴史」
桜夜は、三人のやり取りを聞きながら、砂浜を歩いた。
足跡がつく。
少し遅れて波が来る。
端の方から、足跡が薄くなっていく。
その光景に、胸の奥が静かに痛んだ。
「ここを」
桜夜は言った。
「昔、あずさと歩いた」
三人が、そっと桜夜を見る。
ホムラは何か言いかけて、言わなかった。
サイカが優しく尋ねる。
「恋人になった日?」
「その少し前と、その少し後。何度も」
桜夜は海を見た。
「僕は、かなり面倒な人間だったから」
「今もだろ」
ホムラが即座に言う。
「うん。だから、昔はもっと」
「救いがねえな」
「本当にね」
桜夜は少し笑った。
「誰かを好きになるのが怖かった。好きだと言ったら、その人を自分の世界に閉じ込めてしまうんじゃないかと思ってた。守りたいと思うことと、そばにいてほしいと思うことの境目が、うまくわからなかった」
サイカは黙って聞いていた。
「だから、あずさにはずいぶん迷惑をかけた」
「でも、あずささんは待ってくれたんだね」
「うん」
桜夜は頷いた。
「待ってくれた。怒ってもくれた。呆れてもくれた」
「いい人だね」
「うん。すごい人だよ」
ホムラが横目で桜夜を見る。
「お前、あずさの話するとき、ちょっと顔が違うな」
「そう?」
「そうだよ。なんつーか、情けねえ顔になる」
「ひどい」
「でも、悪くねえ顔だ」
桜夜は少しだけ目を丸くした。
ホムラは照れたように顔をそむける。
「何でもねえよ」
「ありがとう」
「礼を言うな。調子狂う」
リオは、足元の砂を見つめていた。
「桜夜様」
「ん?」
「この砂浜には、あずさ様と桜夜様の足跡も残っていたのですね」
「波で消えたよ」
「目には、そう見えます」
リオは静かに言った。
「ですが、消えたからといって、歩かなかったことにはなりません」
桜夜は黙った。
波が寄せる。
四人の足跡の一部が、薄く崩れた。
「あずさが好きだった詩があるんだ」
桜夜は、ふと思い出したように言った。
「詩?」
サイカが聞く。
「うん。『あしあと』っていう詩」
ホムラが眉を上げる。
「どんな詩だよ」
「苦しい時、自分は一人で歩いていると思っていた。でも、本当はその時こそ、誰かに背負われていた。そういう詩」
桜夜は、砂浜に残る自分の足跡を見る。
「昔、あずさがその話をしてくれた」
「桜夜さんも、好きなの?」
「好き、というより」
桜夜は少し考えた。
「怖かった」
「怖い?」
「うん」
波音が、言葉の間に入る。
「僕は、背負う側でいなければならないと思っていたから」
サイカの表情が、少しだけ変わった。
「泣いている人の隣に行く。歩けない人を背負う。帰れない人の道を探す。それが騎士のすることだと思っていた」
「うん」
「でも、あの詩は言うんだ。自分が歩けない時は、誰かに背負われていたんだって」
桜夜は、苦笑した。
「それを認めるのが、僕にはすごく難しかった」
ホムラが小さく舌打ちした。
「お前らしいな」
「そうだね」
「背負われるのがそんなに嫌かよ」
「嫌というより、怖い」
「何が」
「重いだろうから」
ホムラは黙った。
「僕を背負うのは、きっと重い。面倒だし、厄介だし、色々ついてくる。鳳凰も、桜吹雪も、四方院も、名もなき騎士団も、世界が平和でありますように、なんて祈りも」
桜夜は砂を踏む。
「そんなものを誰かに背負わせるくらいなら、僕が背負う方が楽だと思っていた」
サイカは、ゆっくりと桜夜の手を取った。
「でも、桜夜さんは何度も背負われてきたんだよ」
「……うん」
「明人さんに」
「うん」
「あずささんに」
「うん」
「烏さんたちに。アヒルさんたちに」
「うん」
「議長さんにも、教皇様にも」
「うん」
サイカは、少し笑った。
「それに、わたしたちにも」
桜夜はサイカを見た。
サイカの手は温かかった。
「背負われてもいいんだよ」
その言葉は、やわらかかった。
やわらかいのに、逃げ場がなかった。
「僕は」
「うん」
「重いよ」
「知ってる」
サイカは即答した。
桜夜は少し傷ついた顔をする。
「そこは否定してほしかった」
「でも、うそはよくないよ」
「そうだね」
「重くても、いいんだよ」
サイカは言った。
「重いから、一人で持たないんだよ」
ホムラが、少し離れたところから言う。
「つーか、お前たまに勝手に倒れるからな。背負わねえと危ねえんだよ」
「返す言葉がない」
「だろ」
リオも静かに口を開いた。
「桜夜様が歩けない時は、わたくしたちが足跡になります」
「足跡?」
「はい」
リオは砂浜を見る。
「桜夜様がご自身の足跡を見失っても、わたくしたちが隣に足跡を残します。後から見れば、どこを歩いてきたのか、きっとわかります」
桜夜は、何かを言おうとして、言葉を失った。
まただ。
また、自分は言葉を失っている。
でも、今度は怖くなかった。
言葉がないままでも、隣にいてくれる人たちがいた。
波が来る。
足跡が薄くなる。
消えていく。
けれど、歩かなかったことにはならない。
背負われたことも。
誰かと歩いたことも。
誰かに待ってもらったことも。
消えたように見えても、自分のどこかに残っている。
桜夜は、ゆっくり息を吐いた。
「そっか」
「うん」
「僕は、一人で歩いてきたわけじゃないんだね」
サイカが頷いた。
「うん」
ホムラが鼻を鳴らす。
「今さらかよ」
「今さらだね」
「遅えよ」
「ごめん」
「謝んな。余計に面倒くせえ」
桜夜は笑った。
その笑いに、少しだけ力が戻っていた。
夕方の砂浜を、四人はしばらく歩いた。
あずさと歩いた道。
昔の桜夜が立ち止まった場所。
好きだと言うことに怯えていた場所。
そして今、サイカと、リオと、ホムラと歩いている場所。
足跡は増えていく。
波が来れば消える。
それでも、桜夜には確かに見えていた。
消えない足跡が。
別荘へ戻る頃には、空はすっかり夕暮れから夜へ変わり始めていた。
海の色は深くなり、窓の外には少しずつ星が出ている。
ホムラは玄関に入るなり、靴を脱ぎながら言った。
「腹減った」
桜夜は笑った。
「だと思った」
「何があるんだよ」
「食材は少しあるけど、ちゃんと作るなら時間かかるかな」
「却下」
「早い」
「今日の気分じゃねえ」
サイカが手を洗いながら言う。
「じゃあ、何食べる?」
ホムラは迷わず答えた。
「ピザ」
リオが手を止める。
「ピザ、ですか」
「文句あんのか」
「いえ。ただ、この流れでピザという選択が出るとは思っておりませんでした」
「湿っぽい話の後はピザだろ」
「その理屈は初めて聞きました」
「今作った」
「なるほど」
桜夜は端末を取り出した。
「じゃあ、デリバリーにしようか」
ホムラの目が少し輝いた。
「大量に頼めよ」
「大量に?」
「四人いるんだぞ」
「四人分でいいんじゃない?」
「甘い」
「ピザに対して厳しいね」
「ピザは戦場だ」
「それは違うと思う」
サイカが楽しそうに画面を覗き込む。
「せっかく伊豆に来たから、海鮮ピザとかあるかな」
「あるね」
「じゃあ、わたしこれがいい。エビとイカとホタテのやつ」
「サイカらしい」
「海見たら、海のもの食べたくなっちゃった」
リオは別のメニューを見ていた。
「わたくしは、こちらのマルゲリータを」
「リオ、王道だね」
「はい。ただし、ピッツァとしていただきます」
ホムラが眉をひそめる。
「ピッツァ?」
「はい。フォークとナイフで」
「ピザは手で食うもんだろ」
「それはアメリカ式では?」
「手づかみでいく方がうまいだろ」
「生地や具材によっては、ナイフとフォークの方が美しくいただけます」
「ピザに美しさ求めんな」
「食事には作法がございます」
「戦場には作法より速度だ」
「やはりピザを戦場にしないでください」
桜夜は笑いながら、別のメニューを選んでいた。
サイカがそれに気づく。
「桜夜さんは?」
「これにする」
「どれ?」
「チーズとはちみつのピザ」
ホムラが目を丸くした。
「はちみつ?」
「うん。あまじょっぱいのがいい」
「ピザに甘さ足すのかよ」
「おいしいよ」
リオが頷く。
「チーズと蜂蜜の組み合わせは理にかなっております。塩味、脂肪分、甘味の対比が生まれますので」
「リオは何でも説明するな」
「説明できるものは説明したくなります」
サイカが笑う。
「桜夜さん、甘いもの好きだもんね」
「うん。でも甘すぎるより、少し塩気がある方が好きかな」
「面倒くせえ好みだな」
ホムラが言う。
「ホムラは?」
「肉」
「だと思った」
「ペパロニ。あと照り焼きチキン。あと辛いやつ」
「多い」
「大量に頼めって言っただろ」
リオが計算を始めた。
「四名での摂取量を考慮しますと、通常サイズで四枚から五枚程度が妥当かと」
「足りねえ」
「足ります」
「足りねえ」
「ホムラちゃんの基準は信用できません」
「何でだよ」
「以前、二人前を軽食と表現されていました」
「軽かっただろ」
「軽くありません」
桜夜は笑いながら注文をまとめる。
「じゃあ、海鮮、マルゲリータ、ペパロニ、辛いやつ、チーズとはちみつ。あとサイドを少し」
「ポテト」
ホムラが即答する。
「はいはい」
「チキンも」
「はいはい」
「サラダも頼みましょう」
リオが言う。
ホムラが露骨に嫌な顔をした。
「ピザ食う時に健康を考えんな」
「健康は常に考えるべきです」
「ピザに思想を持ち込むな」
「栄養です」
「似たようなもんだろ」
「違います」
サイカは笑いすぎて、少し涙目になっていた。
桜夜は注文を確定する。
「これでいい?」
「いい」
「はい」
「うん」
端末に通知が出た。
「到着まで四十分くらい」
ホムラがソファに倒れ込んだ。
「長い」
「さっきまで感傷的な散歩してた人とは思えないね」
「あれはあれ、これはこれだ」
「切り替えが早い」
「生きて帰るって、飯食うことだろ」
ホムラは天井を見ながら言った。
桜夜は、少しだけ黙った。
それから笑う。
「うん。たぶん、そうだね」
四十分後、別荘のテーブルはピザの箱で埋まった。
ホムラは宣言通り、アメリカ式の手づかみでいった。
熱々のペパロニを迷いなく持ち上げ、チーズが伸びても気にしない。
「熱っ。でもうまい」
「気をつけて食べてください」
リオが言う。
「ピザは熱いうちに食うもんだろ」
「火傷します」
「火なら慣れてる」
「そういう問題ではありません」
リオは対照的に、マルゲリータを皿に取り、ナイフとフォークで丁寧に切り分けていた。
背筋を伸ばし、チーズが糸を引いても慌てず、きれいな一口にして運ぶ。
ホムラがそれを見て、信じられないものを見る目をした。
「本当にフォークとナイフで食ってる」
「はい」
「ピザだぞ」
「ピッツァです」
「言い方の問題じゃねえ」
「食べ方の問題です」
「だから言ってんだよ」
サイカは海鮮ピザを嬉しそうに食べていた。
「これ、おいしい。エビぷりぷり」
「よかった」
「伊豆に来た感じするね」
「ピザで?」
「うん。海見ながら海鮮ピザ」
「たしかに」
桜夜はチーズとはちみつのピザを一切れ取り、はちみつを少しだけ追加でかけた。
ホムラが眉をひそめる。
「さらにかけるのかよ」
「追いはちみつ」
「言い方」
桜夜は一口食べる。
チーズの塩気と、はちみつの甘さが口の中で溶けた。
「うん。おいしい」
サイカが興味深そうに見る。
「ひと口もらっていい?」
「もちろん」
桜夜は一切れ取り分ける。
サイカはそれを食べて、目を丸くした。
「あ、おいしい。甘いけど、しょっぱい」
「でしょ」
「好きかも」
リオも少しだけ興味を示した。
「わたくしも、いただいてよろしいでしょうか」
「うん」
リオは小さく切って食べた。
「なるほど。これは興味深い味です。甘味が主張しすぎず、乳製品の塩味と香りを引き立てています」
「感想が評論家だな」
ホムラが言う。
「ホムラも食べる?」
桜夜が聞く。
「いらねえ」
「本当に?」
「……少しだけな」
ホムラは手づかみで一切れ取り、はちみつのかかった部分を慎重に食べた。
数秒、黙る。
「どう?」
サイカが聞く。
「……悪くねえ」
「素直じゃないなあ」
「悪くねえって言ってんだろ」
桜夜は笑った。
ピザの箱が減っていく。
ホムラは結局、肉系も辛いものもかなり食べた。
リオは丁寧に食べながらも、意外と量を食べた。
サイカは海鮮ピザを中心に、桜夜のはちみつピザも気に入ったようだった。
桜夜は、みんなの食べ方を見ていた。
手づかみで豪快に食べるホムラ。
ナイフとフォークで美しく食べるリオ。
海鮮ピザを嬉しそうに頬張るサイカ。
はちみつの甘じょっぱさを楽しむ自分。
ただの食事だった。
世界を救う話ではない。
祈りでも、戦いでも、神域でもない。
でも、桜夜はふと思った。
こういう時間に帰ってくるために、祈りはあるのかもしれない。
誰かに死んでほしくない。
誰も消えてほしくない。
それはつまり、こういうくだらない会話を続けたいということなのかもしれない。
「何笑ってんだよ」
ホムラが言った。
「ピザって平和だなと思って」
「急に何言ってんだ」
「ホムラがピザを戦場にしたから」
「してねえよ」
「してたよ」
サイカが笑った。
「してたね」
リオも頷く。
「しておりました」
「全員で責めんな」
ホムラは不満そうにペパロニをかじった。
その姿に、桜夜はまた笑った。
夜が深くなる頃、別荘の明かりは少し落とされた。
片づけを終え、風呂も済ませ、四人は星が見える寝室へ向かった。
その部屋には、大きな窓と天窓があった。
ベッドから空が見えるように作られている。
昔、あずさがここを気に入っていた。
星を見ながら眠れるから、と言っていた。
桜夜は、その言葉をよく覚えている。
眠ることが怖かった頃。
いや、今も完全に怖くなくなったわけではない。
眠りは、時々、死に似ている。
目を閉じた先で、自分が自分でなくなる気がする。
消えてしまう気がする。
誰の声も届かない場所へ落ちていく気がする。
だから桜夜は、一人で眠るのが苦手だった。
けれど、この部屋には星があった。
そして今夜は、一人ではなかった。
「本当に四人で寝るのかよ」
ホムラがベッドを見て言った。
「嫌なら別の部屋もあるよ」
桜夜が言う。
「嫌とは言ってねえ」
「では、問題ございませんね」
リオが淡々と言う。
「お前は順応早すぎるだろ」
「桜夜様が眠れることを優先すべきです」
「それ言われると反論しづれえな」
サイカは枕を並べながら笑った。
「星、よく見えるね」
「うん」
桜夜は天窓を見上げた。
夜空には、星が散っていた。
派手ではない。
けれど、静かに明るい。
四人は横になった。
真ん中に桜夜。
片側にサイカ。
もう片側にホムラ。
少し斜め上にリオが横になり、全員が空を見られるように位置を調整した。
ホムラがぼそりと言う。
「狭くねえか」
「狭い?」
サイカが聞く。
「いや」
ホムラは少しだけ布団を引っ張った。
「……悪くねえ」
リオが天窓を見ながら言った。
「星を見ながら眠るというのは、良いものですね」
「リオは眠れるの?」
「必要であれば」
「必要であればって何」
「桜夜様が眠るまでは起きております」
「リオ」
桜夜が困った声を出す。
「休んで」
「ですが」
「今日は、みんなで休む日」
リオは少しだけ黙った。
「……承知いたしました」
サイカが桜夜の方を見る。
「桜夜さん、今日は眠れそう?」
「たぶん」
ホムラがすぐに言う。
「たぶんじゃなくて寝ろ」
「命令?」
「命令」
「厳しい」
「寝ないやつが悪い」
リオが真面目な声で言う。
「眠れない場合は、わたくしが本日の記録を読み聞かせます」
ホムラが顔をしかめた。
「それ逆に寝られねえだろ」
「記録には鎮静効果があるかもしれません」
「ないと思うぞ」
「試してみますか」
「やめろ」
サイカがくすくす笑った。
桜夜も笑った。
笑い声が、寝室の中で小さく響く。
その響きは、星に吸い込まれていくようだった。
「桜夜さん」
サイカが小さく言った。
「ん?」
「あしあと、消えちゃうね」
桜夜は、天窓の星を見たまま答える。
「うん」
「でも、消えないね」
「うん」
砂浜の足跡は、波に消える。
けれど、誰かと歩いたことまで消えるわけではない。
あずさと歩いたこと。
サイカと歩いたこと。
リオと歩いたこと。
ホムラと歩いたこと。
明人に手を引かれたこと。
あずさに待ってもらったこと。
アヒルたちに助けられたこと。
烏たちに守られたこと。
遠い国の人々に、まだ生きていると告げられたこと。
全部、消えない。
目には見えなくても。
砂には残らなくても。
ちゃんと、自分の中に残っている。
「僕は」
桜夜は、ぽつりと言った。
「たぶん、たくさん背負われてきた」
「うん」
サイカが答えた。
「今さらだけど」
「うん」
「ありがとう」
ホムラが天井を見たまま言う。
「礼を言うなら寝ろ」
「それ、つながってる?」
「つながってる。寝ろ」
リオも静かに言った。
「おやすみなさいませ、桜夜様」
「うん。おやすみ、リオ」
「おやすみ、桜夜さん」
「おやすみ、サイカ」
「寝ろよ」
「おやすみ、ホムラ」
「……おやすみ」
星が見える。
誰かの体温がある。
呼吸の音がある。
眠りは、死に似ていなかった。
少なくとも、この夜は違った。
それは、明日へ帰るための、小さな休息だった。
桜夜は目を閉じる。
砂浜の足跡が、波に消えていく。
けれど、その先にはまた別の足跡が続いている。
誰かが隣を歩いている。
歩けなくなれば、誰かが背負ってくれる。
そしていつか、自分もまた誰かを背負うのだろう。
それでいい。
一人で歩く必要は、なかった。
星の下で、桜夜は静かに眠りへ落ちていった。
その寝顔を、三つの温度が守っていた。
消えない足跡のように。
波にさらわれても、祈りの中に残り続けるもののように。




