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第50話 生きて帰るための祈り

 鎌倉を出て、しばらく走った頃だった。


 後部座席で窓の外を見ていた桜夜が、ふと口を開いた。


「少し、平塚に寄ってもいいかな」


 運転席のリオが、バックミラー越しに桜夜を見る。


「平塚、ですか」


「うん」


「この時間でしたら、戻る前に寄ることは可能です」


 助手席のサイカが振り返った。


「平塚に何かあるの?」


 桜夜は少しだけ黙った。


 その沈黙が、ほんのわずかに長かった。


「アヒルがいる」


 車内が静かになった。


 ホムラが隣で桜夜を見る。


「お前さ」


「うん」


「たまに真顔で意味わかんねえこと言うよな」


「自覚はある」


「平塚に寄る理由がアヒル?」


「うん」


「アヒルに何すんだよ」


「お礼を」


「……アヒルに?」


「うん」


 サイカが小さく笑った。


「でも、桜夜さんが行きたいなら行こうよ」


 桜夜は少し笑った。


「ありがとう」


 リオは前を向いたまま、静かに頷いた。


「承知いたしました。では、平塚へ向かいます」


 ホムラは深く息を吐いた。


「アヒルに礼って、言葉にするとだいぶ不安になるな」


「僕もそう思う」


「思うのかよ」


 桜夜は、窓の外へ視線を戻した。


 海の気配を含んだ風景が、ゆっくりと流れていく。


 アヒルに礼を言う。


 文字にすれば、奇妙だった。


 けれど、あの場にいた四人にとって、それはたぶん必要な寄り道だった。


 桜夜は膝の上で指を組んだ。


 あの日の森を思い出す。


 白い秩序。


 ケイオス。


 桜吹雪の気配。


 そして、血に濡れた白い羽根。


 誰に命じられたわけでもなかった。


 誰かの号令があったわけでもなかった。


 気づけば、烏たちは盾となり、アヒルたちは前へ進んでいた。


 世界の秩序に従うなら、ありえない行動だった。


 生き物は、生き延びようとする。


 弱いものは、強いものから逃げる。


 神の秩序も、世界の意思も、きっとそういう理屈でできている。


 けれど、あの子たちは逃げなかった。


 小さな身体で、勝てるはずのないものへ向かっていった。


 桜夜は、窓に映った自分の顔を見る。


 あれがなければ、自分はどうなっていただろう。


 ケイオスを殺していたのか。


 桜吹雪に呑まれていたのか。


 守るためなら殺していいと、自分に言い聞かせていたのか。


 答えは、まだわからない。


 けれど、ひとつだけわかることがある。


 あの子たちは、桜夜に殺せとは言わなかった。


 責めなかった。


 急かさなかった。


 ただ、あきらめなかった。


 それだけだった。


 だから、桜夜は今日、礼を言わなければならなかった。


◇◇◇


 平塚八幡宮の境内は、昼下がりの光の中で静かだった。


 空はよく晴れている。


 鳥居をくぐると、街の音が少し遠ざかる。


 完全に消えるわけではない。


 けれど、境内には境内の呼吸があった。


 人の世に開かれていながら、ほんの少しだけ違う時間が流れているような場所。


 桜夜は鳥居の前で立ち止まり、軽く一礼した。


 サイカもそれに倣って頭を下げる。


 リオは丁寧に一礼した。


 ホムラは少し気まずそうにしながらも、同じように頭を下げた。


「こういうの、作法わかんねえんだけど」


「完璧じゃなくても大丈夫だよ」


 桜夜は言った。


「失礼のないようにしよう、って気持ちがあれば」


「ふうん」


「ただし、境内で火は出さないで」


「出さねえよ」


「念のため」


「信用ねえな」


「信用してるよ。だから念のため」


「それ信用してねえやつの言い方だろ」


 サイカが笑う。


 その笑い声は、境内の空気を少しやわらかくした。


 四人は手水を済ませ、拝殿へ向かった。


 静かに参拝する。


 桜夜は目を閉じた。


 帰ってきました。


 そう心の中で告げる。


 守れたとは、まだ言えません。


 救えたとも、言えません。


 でも、あきらめずに戻ってきました。


 そして、これからも。


 どうか。


 世界が平和でありますように。


 それは、もう何度も口にした祈りだった。


 けれど、祈るたびに意味が変わっていく。


 幼い願いではない。


 勝利宣言でもない。


 正しさの押しつけでもない。


 まだ叶っていないからこそ、何度でも繰り返す言葉。


 桜夜は目を開けた。


 参拝を終えたあと、彼は池の方へ歩いた。


 池には、アヒルがいた。


 それだけのことだった。


 神域の軍勢でも、世界意思に反抗した白い群れでもない。


 ただ、水面に浮かび、首を振り、ときおりぐわと鳴く、どこにでもいるようなアヒルたち。


 けれど桜夜は、その白を見た瞬間、足を止めた。


 サイカが隣で彼を見る。


「桜夜さん?」


「うん」


 桜夜は答えた。


「大丈夫」


 大丈夫。


 そう言った声が、自分でも少し遠く聞こえた。


 水面の白が揺れる。


 あの日の白も、揺れていた。


 血に濡れ、泥にまみれ、黒い森の中で。


 烏たちは、白い秩序の前に身を投げ出した。


 アヒルたちは、ケイオスへ突っ込んだ。


 意味があったのかと問われれば、ほとんどなかった。


 ケイオスを倒せたわけではない。


 時間を稼げたとも言い切れない。


 小さな命が、ただ傷ついただけだった。


 無謀で、無茶で、馬鹿げていた。


 だからこそ、桜夜は忘れられなかった。


「無意味だったんだと思う」


 桜夜は、池を見ながら言った。


 サイカも、リオも、ホムラも、黙って彼の言葉を待った。


「戦術的には、ほとんど何の意味もなかった。ケイオスを倒せたわけじゃない。白い秩序を止められたわけでもない。あの子たちは、ただ傷ついただけだった」


 ホムラが唇を噛む。


「……だったら」


「でも」


 桜夜は続けた。


「あれがなければ、僕はたぶん戻れなかった」


 風が吹いた。


 池の水面が揺れる。


「あの時、僕の中には、殺せという声があった」


 サイカの指が、わずかに震えた。


「守るためなら殺せ。犠牲を減らすためなら正しい。相手が戻らないなら、終わらせるしかない。そういう声が、少しずつ大きくなっていた」


 桜夜は、横浜の屋敷に置いてきた刀を思う。


 桜吹雪。


 神を殺す刀。


 そして、隙があれば持ち主の心すら呑もうとする罪の神器。


「あの子たちは、僕に殺せとは言わなかった」


 桜夜は静かに言った。


「責めなかった。急かさなかった。なぜまだ迷うのかとも言わなかった。ただ、まだ終わっていないと示した。あきらめていないと、身体で言った」


 リオが、そっと手帳を開いた。


 けれど、すぐには書かなかった。


 聞くために、開いたのだ。


「あれは、命令じゃなかった」


 桜夜は続ける。


「誰かが号令をかけたわけじゃない。烏たちは盾になって、アヒルたちは突っ込んだ。気づいたら、みんなそうしていた」


「世界の秩序から外れた行動、ですね」


 リオが静かに言った。


「うん」


 桜夜は頷く。


「自然の理からすれば、間違っていた。弱いものは強いものから逃げるべきだ。生き物は、生きるために動くべきだ。神や世界の秩序は、たぶんそう考える」


「でも、あいつらは逃げなかった」


 ホムラが言った。


「うん」


「勝てねえのにか」


「うん」


「馬鹿だな」


「本当に馬鹿だよ」


 桜夜は、少しだけ笑った。


 ホムラは顔をそむけた。


「……でも、嫌いじゃねえ」


「僕も」


 池のアヒルが、ぐわ、と鳴いた。


 それは返事のようでもあり、ただ鳴いただけのようでもあった。


 サイカは、桜夜の手をそっと握った。


「あの子たちは、死にたかったんじゃないよ」


「うん」


「桜夜さんたちに、生きてほしかったんだと思う」


「……うん」


 桜夜は、握られた手を見る。


 温かかった。


 生きている手だった。


「先生は」


 桜夜は、ぽつりと言った。


「死んだ人を笑うなと言った」


 リオの視線が、桜夜に向く。


 ホムラも黙った。


「守ろうとしたものがあったなら、その祈りまで笑ってはいけない。たとえ間違った場所に立たされていたとしても、たとえ大きな理屈に呑まれていたとしても、その人が誰かを守りたいと思ったことまで、軽く扱ってはいけない」


 桜夜の声は、静かだった。


 けれど、そこには明人の声が重なっているようでもあった。


「でも、先生は同時に、死を美しく語りすぎるなとも言った」


 サイカが小さく尋ねる。


「美しく?」


「うん」


 桜夜は池を見つめたまま答えた。


「誰かが命を落としたことを、尊い、立派だ、だけで終わらせてしまうと、次の誰かにも同じことを求めてしまう」


 水面で、アヒルが羽を震わせた。


「死者に頭を下げることと、死を当然にすることは違う。守ろうとした祈りを忘れないことと、その人たちを死なせた理屈まで美しく飾ることは違う」


 ホムラが、低く言った。


「お前の師匠なだけはあるな」


「うん」


 桜夜は頷いた。


「先生は、そういう人だった」


 しばらく、誰も話さなかった。


 境内の木々が揺れる。


 遠くで誰かが参拝する音が聞こえる。


 池のアヒルたちは、何も知らないように泳いでいた。


 たぶん、本当に何も知らない。


 それでいいのだと、桜夜は思った。


 あの日のことを、この子たちが覚えている必要はない。


 血に濡れた白い羽根も、折れた小さな身体も、世界の秩序に逆らった無茶も。


 覚えているのは、自分でいい。


 忘れないのは、自分でいい。


「僕は、あれを美談にしたくない」


 桜夜は言った。


「小さな命が僕たちのために身を投げ出した。尊い犠牲だった。そういうふうには言いたくない」


「じゃあ、何て言うんだよ」


 ホムラが聞いた。


「馬鹿げた友情だった」


 桜夜は答えた。


「無茶で、無意味で、勝てるはずもなくて、できればしてほしくなかった」


 そこで、彼は少しだけ笑った。


「でも、その馬鹿げた友情に、僕は救われた」


 サイカは、桜夜の手を少し強く握った。


 リオは、ゆっくりと手帳に文字を書き始める。


「烏たちは古い約束に従い、盾となった」


 彼女は、書きながら言った。


「アヒルたちは友情の掟に従い、立ち向かった。いずれも、世界意思の命令ではなく、自らの選択であった」


 桜夜はリオを見る。


「それがいい」


「はい」


「でも、もう一文だけ足してくれる?」


「何でしょう」


 桜夜は池に向かって頭を下げた。


「彼らは、死ぬために行ったのではない。生かすために行ったのだ、と」


 リオの筆が止まった。


 それから、彼女は静かに頷く。


「はい。必ず」


 その時だった。


 池の向こうから、一羽のアヒルが歩いてきた。


 他のアヒルより少しだけ大きい、ような気がする。


 胸を張っている。


 明らかに偉そうである。


 桜夜は、その姿を見て固まった。


 サイカが首を傾げる。


「桜夜さん?」


「……陛下」


「陛下?」


 ホムラが怪訝な顔をする。


「お前、今アヒルに陛下って言ったか?」


「言った」


「なんでだよ」


「皇帝だから」


「何の?」


「アヒルの」


「会話が終わってるな」


 皇帝アヒルは、堂々と桜夜の前まで歩いてきた。


 そして、じっと桜夜を見上げる。


 桜夜は姿勢を正した。


「ご無沙汰しております」


「ぐわ」


「はい。帰ってきました」


「ぐわ」


「その節は、大変お世話になりました」


「ぐわ」


 皇帝アヒルは、桜夜の足を蹴った。


「痛っ」


 ホムラが吹き出した。


 サイカは驚いて口元を押さえる。


 リオは真剣な顔で手帳を構えた。


「皇帝アヒル陛下、桜夜様の足部に対し物理的接触」


「リオ、記録しなくていい」


「歴史ですので」


「それ歴史に残す必要ある?」


「あります」


「ないと思うなあ」


 皇帝アヒルは、もう一度桜夜の足を蹴った。


「痛いです、陛下」


「ぐわ」


「昔のことは、水に流していただけませんか」


「ぐわ」


「駄目ですか」


「ぐわ」


「ですよね」


 ホムラが腹を抱えた。


「何したんだよ、お前」


「色々あって」


「アヒルに蹴られるくらい恨まれることって何だよ」


「不可抗力で」


「たしか蹴ったんだったな」


「……うん」


 サイカが目を丸くする。


「桜夜さん、アヒルさん蹴ったの?」


「わざとじゃない」


「ほんと?」


「本当」


 皇帝アヒルが、ぐわ、と鳴いた。


 サイカは桜夜を見る。


「本当?」


「陛下の証言だけで僕を疑わないで」


「でも、桜夜さん、たまにうそ下手だよね」


「つらい」


 皇帝アヒルは満足そうに胸を張った。


 その姿は、ただのアヒルだった。


 小さく、丸く、白く、池のほとりで偉そうにしているだけの鳥だった。


 けれど桜夜には、どうしてもただのアヒルには見えなかった。


 桜夜は膝をついた。


 皇帝アヒルと同じ目線になる。


「陛下」


「ぐわ」


「あなたは、自由ですね」


 皇帝アヒルは首を傾げた。


「八咫烏は、導きの鳥です。道を示すことはできても、道を歩くのは人の役目だと知っている」


 黒い羽根が、一枚、どこからか風に乗って落ちてきた。


 社の屋根の上に、烏が一羽止まっている。


 ただの烏かもしれない。


 それでも桜夜は、軽く頭を下げた。


「ガブリエルも、きっと同じです。彼女はうるさいし、勝手に来るし、導きという名のちょっかいを出します。でも、大天使としての役割を完全には越えない」


 ホムラがぼそりと言う。


「うるさい大天使って何だよ」


「そのまま」


「会ってみたいような、会いたくねえような」


「会うと面倒だよ」


 桜夜は、皇帝アヒルを見た。


「でも、陛下は違う」


「ぐわ」


「あなたは、役割ではなく、生き方で動いている」


 皇帝アヒルは、胸を張った。


「友達が困っているから助ける。やりたいようにやる。生きたいように生きる。神様の許可も、世界の秩序も、未来の確定も気にしない」


「ぐわ」


「僕には、なかなかできません」


 サイカは、桜夜の横顔を見つめた。


 桜夜の声には、少しだけ羨望があった。


「僕は考えてしまう。守ることが縛ることにならないか。手を伸ばすことが、相手を閉じ込めることにならないか。祈りが命令になっていないか。助けたいという気持ちが、自分の傲慢ではないか」


 皇帝アヒルは、ぐわ、と鳴いた。


「でも、陛下は最初に行く」


 桜夜は笑った。


「友達だから」


「ぐわ」


「本当に、すごいですね」


 皇帝アヒルは、桜夜の膝を蹴った。


「痛いです」


「ぐわ」


「褒めたのに」


「ぐわ」


「照れ隠しですか」


「ぐわ」


「違いますか」


 ホムラが笑った。


「たぶん違うぞ」


「そうかな」


 リオは手帳に何かを書いている。


 桜夜は見ないことにした。


 きっと歴史になってしまう。


 サイカが皇帝アヒルの前にしゃがんだ。


「こんにちは」


「ぐわ」


「桜夜さんを助けてくれて、ありがとう」


「ぐわ」


「桜夜さん、ちょっと面倒くさいけど、いい人だから」


「サイカちゃん」


「うん?」


「今、ちょっと面倒くさいって言った?」


「言ったよ」


「否定しない」


「うん」


 皇帝アヒルが、どこか満足そうに鳴いた。


 ホムラもしゃがみ込む。


「おい、アヒル」


「ぐわ」


「お前ら、次はあんな無茶すんなよ」


「ぐわ」


「勝てねえ相手に突っ込むな」


「ぐわ」


「聞いてねえな、こいつ」


「たぶん聞いてる」


 桜夜が言った。


「でも、聞いた上でやる」


「最悪じゃねえか」


「陛下だから」


「理由になってねえよ」


 リオが静かに口を開く。


「しかし、ホムラ様。皇帝陛下の行動原理は一貫しています」


「どこがだよ」


「友達を助ける」


 ホムラは黙った。


 リオは続けた。


「命令ではなく、損得でもなく、勝算でもなく、役割でもない。友達を助ける。それだけです」


「……単純だな」


「はい」


「馬鹿みてえだ」


「はい」


「でも」


 ホムラは、皇帝アヒルを見る。


「強えな」


「はい」


 皇帝アヒルは、ぐわ、と鳴いた。


 まるで当然だと言うように。


 桜夜は立ち上がった。


 そして、池に向かってもう一度頭を下げる。


「ありがとうございました」


 風が吹く。


 白い羽根が一枚、水面に浮かんだ。


「あなたがたが、馬鹿みたいにあきらめなかったから、僕はまだ人でいられました」


 サイカは桜夜の隣に立つ。


 リオは手帳を胸に抱く。


 ホムラは、照れくさそうに顔をそむけながらも、同じように池を見ていた。


「でも」


 桜夜は静かに続けた。


「あなたがたが傷つかなくてもよかった世界を、僕は諦めたくありません」


 池のアヒルたちは、好き勝手に泳いでいる。


 あの日のように血に濡れてはいない。


 誰かの盾になる必要もなく、誰かのために突っ込む必要もなく、ただ水面に浮かんでいる。


 それが、ひどく尊いものに見えた。


「死者を笑わない」


 桜夜は言った。


「死を美しく語りすぎない」


 社の屋根の上で、烏が鳴いた。


「そして、次は死ななくてもいい世界を願う」


 皇帝アヒルが、胸を張る。


 桜夜は少しだけ笑った。


「世界が平和でありますように」


 その言葉は、まだ叶わない。


 けれど、まだ終わってもいない。


「それは、誰かに死んでほしいという願いじゃない」


 桜夜は、ゆっくりと言葉を続けた。


「誰も死ななくていい場所へ、みんなで帰りたいという祈りなんだと思う」


 沈黙が降りた。


 重くはなかった。


 静かで、柔らかく、風の音と水の音が混ざるような沈黙だった。


 やがて、皇帝アヒルが一声鳴いた。


「ぐわ」


 桜夜は頷いた。


「そうですね」


 サイカが首を傾げる。


「今の、わかったの?」


「気分」


「気分」


「大事だよ、気分」


 ホムラが呆れたように笑う。


「結局、アヒル語わかんねえのかよ」


「わからない」


「何なんだよ、この時間」


「祈りの時間」


「アヒルと?」


「うん」


「やっぱ意味わかんねえな」


 それでも、ホムラは笑っていた。


 リオが手帳を閉じる。


「本日の記録は、こう締めたいと思います」


「どう締めるの?」


 桜夜が聞く。


 リオは少し考えてから、静かに言った。


「祈りとは、死者を美しく飾ることではない。生きて帰る道を、諦めないことである」


 桜夜は、しばらく黙った。


 それから、優しく笑った。


「いいね」


「ありがとうございます」


「でも、僕なら少しだけ足す」


「どのように?」


 桜夜は池を見た。


 アヒルたちが泳いでいる。


 烏が空へ飛んでいく。


 境内には、相変わらず穏やかな風が流れていた。


「祈りとは、死者を美しく飾ることではない。生きて帰る道を、諦めないこと」


 桜夜は言った。


「そして、帰ってきた誰かと、また笑うこと」


 皇帝アヒルが、ぐわ、と鳴いた。


 桜夜は笑った。


「うん。まずは、生きて帰るところからだね」


 その日、桜夜たちは八幡宮を後にした。


 池には、アヒルたちがいた。


 白い羽根が水面を揺らし、何でもないように鳴いている。


 それは、ただのアヒルだった。


 けれど桜夜にとっては、世界の秩序を蹴飛ばした友達でもあった。


 死ぬためではなく、生かすために進んだ小さな白。


 そして、生きて帰れと鳴く皇帝。


 桜夜は鳥居を出る前に、もう一度振り返った。


 皇帝アヒルが、池のほとりで胸を張っている。


 桜夜は深く一礼した。


「また来ます」


「ぐわ」


「次は、できれば蹴らないでください」


「ぐわ」


「無理ですか」


「ぐわ」


「ですよね」


 サイカが笑い、リオが記録し、ホムラが呆れる。


 桜夜も笑った。


 それは、帰ってきた者の笑いだった。


 世界が平和でありますように。


 その祈りは、まだ遠い。


 けれど桜夜は、この日ひとつだけ確かに知った。


 平和とは、誰かに死を求める言葉ではない。


 みんなで、生きて帰るための祈りなのだと。


「前は、言葉が聞こえた気がしたんだけどね」


 桜夜は、皇帝アヒルを見ながら呟いた。


「今は?」


 サイカが尋ねる。


「ぐわ、だね」


「ぐわ」


「うん。ぐわ」


 ホムラが呆れたように言う。


「何なんだよ、それ」


「たぶん、あの時だけだったんだと思う。八咫烏がいて、神在月で、神域が歪んでいて、いろんな境界が薄くなっていた。だから、陛下の意思が言葉みたいに聞こえた」


「じゃあ、今はわかんねえのか」


「わからないよ」


 桜夜は笑った。


「でも、わからないままでも、友達ではいられる」


この日、桜夜と皇帝アヒルは、変わらぬ友情をそれぞれが勝手に誓った


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