第49話 宮守の家
墓参りを終えて、宮森家の屋敷へ戻るころには、鎌倉の空は少しだけ明るさを増していた。
海から来る風が、古い庭木の葉を揺らしている。
横浜の四方院家の屋敷とは、空気が違う。
四方院家は、広い。
古く、大きく、どこか国そのものの影を背負っている。
それに比べると、宮森家は静かだった。
大きな屋敷ではある。
だが、威圧するような広さではない。
庭の石も、縁側の木目も、台所から流れてくる出汁の匂いも、誰かの暮らしの中で時間を重ねてきたものだった。
水希桜夜は、玄関の前で少しだけ足を止めた。
「どうしたの、桜夜さん」
サイカが尋ねる。
「いや」
桜夜は、少し笑った。
「帰ってきたなと思って」
それだけ言って、彼は戸を開けた。
「お帰りなさい」
奥から、桜が顔を出した。
宮森桜。
司の妻であり、この家を守る人だった。
その後ろから、司も出てくる。先に二人は戻っていたらしい。
「お墓参り、終わりましたか」
「うん」
桜夜は頷いた。
「先生には、だいたい報告したよ」
「だいたい、ですか」
司が苦笑する。
「全部話していたら、日が暮れる」
「兄さんらしいですね」
「先生にも言われそうだ」
桜夜は、そう言って靴を脱いだ。
サイカ、リオ、ホムラもそれに続く。
家の中に入ると、さらに出汁の匂いが濃くなった。
サイカが、ぱっと顔を上げる。
「いい匂い」
桜が微笑んだ。
「朝食には少し遅いですけれど、軽く用意しています。皆さん、食べていかれますよね」
「食べる」
ホムラが即答した。
「ホムラちゃん」
リオがたしなめるように見る。
「何だよ。腹減ったんだから仕方ねえだろ」
「もう少し言い方があるでしょう」
「ごちそうになります」
「最初からそう言いなさい」
サイカは二人のやり取りを聞きながら、台所の方をじっと見ていた。
桜が気づく。
「サイカさん。よければ、少し手伝ってくれますか」
「いいんですか?」
「はい。難しいことはお願いしませんから」
サイカの顔が明るくなる。
「やります」
「サイカ」
桜夜が声をかけた。
「包丁には気をつけて」
「子ども扱いしないでよ」
「君が料理をするのを見たことが少ないから」
「洋食なら少しできるもん」
「それは知ってる」
サイカは頬を膨らませた。
「桜夜さん、あとで驚いても知らないからね」
「楽しみにしてる」
桜夜がそう言うと、サイカは少し満足そうに笑って、桜の後について台所へ向かった。
ホムラはしばらくその背中を見送っていたが、すぐに飽きたらしい。
「オレ、ちょっと見てくる」
「何をですか」
リオが聞く。
「屋敷」
「勝手に歩き回ってはいけません」
「迷子にはならねえよ」
「そういう問題ではありません」
「少しならいいよ」
桜夜が言った。
リオが振り返る。
「桜夜様」
「宮森家は、危ないものもあるけど、危ないものほどわかりやすく危ないから」
「その説明で安心できる人間は少ないと思います」
「ホムラちゃんなら、たぶん大丈夫」
「たぶん、ですか」
「たぶん」
リオは小さくため息をついた。
ホムラはにっと笑う。
「ほら、許可出た」
「触っていいとは言っていません」
桜夜が釘を刺す。
「見るだけなら」
「わかってるって」
ホムラはそう言って、廊下の奥へ歩いていった。
その足取りには遠慮がない。まるで古い山道に入っていく獣のようだった。
リオは少し不安そうにその背中を見る。
「本当に大丈夫でしょうか」
「ホムラちゃんは馬鹿ではないよ」
「それは存じていますが……」
「素直ではないけど」
「それも存じています」
司が笑った。
「大丈夫ですよ。古い家ですけど、多少見て回るくらいなら」
桜夜は、そこで何か言いかけた。
だが、言わなかった。
かわりに、縁側に近い部屋へ向かう。
「リオちゃん。少しお話をしようか」
「はい」
リオは姿勢を正した。
「宮森家のこと、聞きたいんでしょ?」
「はい。可能であれば」
司が二人を案内した。
庭に面した座敷だった。
障子越しに、柔らかな光が入っている。
座卓の上には、古い木箱と、何冊かの帳面が置かれていた。
リオの目がわずかに変わる。
記録を見る者の目だった。
「宮森家の記録ですか」
「一部だけです」
司は、木箱に手を置いた。
「本当に古いものは、別に保管されています。ここにあるのは、家の由来を説明する時に使うものですね」
桜夜は座布団に腰を下ろす。
リオも、その向かいに座った。
司は少し考えてから、口を開いた。
「宮森という名は、もとは宮守だったと伝わっています」
「宮を守る、ですか」
「はい」
リオは、すぐに小さな手帳を取り出した。
桜夜がそれを見て苦笑する。
「本当に記録するんだね」
「聞いた以上は、正確に残すべきです」
「リオちゃんらしい」
「ありがとうございます」
「褒めたつもりだよ」
「そう受け取りました」
司は二人のやり取りに微笑み、それから話を続けた。
「宮を守るといっても、神を閉じ込めるという意味ではありません。神域と人の世の境を守る。人が神に近づきすぎた時、神が人の世に近づきすぎた時、その境を整える。それが宮守の役目だったそうです」
リオの筆が走る。
「四方院家とは、役目が違うのですね」
「うん」
答えたのは桜夜だった。
「四方院家は、もっと大きく見る。国と世界。天皇と政府。神域と外の国。人と神。表と裏。その距離を測る家だ」
「横浜にいる理由と同じですね」
「そう。近すぎれば守護は従属になる。助言は干渉になる。四方院家の影が、守るべきものの上に落ちる」
リオは頷いた。
その言葉は、以前にも聞いたものだった。
だが、この鎌倉の屋敷で聞くと、少し違って響いた。
「では、宮森家は」
「鎌倉を見る家だった」
桜夜は庭を見た。
「鎌倉は、武士の都だったからね」
風が、庭の木々を揺らす。
「勝った者の名がある。負けた者の怨みがある。祈りもある。処刑もある。寺も、神社も、海も、山も、切通しもある。武の記憶が、かなり濃い土地だ」
「武の記憶」
リオが繰り返した。
「先生は、そういう場所の人だった」
桜夜の声は、少しだけ低くなった。
「だから、先生の剣はただ斬るための剣じゃなかった。斬った後に何が残るのかを知っている家の剣だった」
司は、静かに頷いた。
「祖父は、兄さんに強くなるためだけの剣を教えたわけではないと思います」
「うん」
桜夜は、薄く笑う。
「殺せる相手を殺さない剣。斬れる相手を斬らない剣。壊せる時に、壊さずに済ませる剣」
リオは筆を止めた。
その言葉を、ただ文字にするのが少しだけ怖いように思えた。
「桜夜様」
「何?」
「明人様は、桜夜様が危うい方だと知っていたのですね」
桜夜は、すぐには答えなかった。
庭の向こうを見ている。
少し遅れて、彼は頷いた。
「知っていたと思う」
「だから、守りの剣を」
「僕を殺戮者にしないために」
司が目を伏せた。
その言葉には、明人の影が濃く残っていた。
リオは、手帳に短く記す。
宮森。
もとは宮守。
神域と人の世の境を守る家。
鎌倉の武の記憶を鎮める家。
守りの剣。
そこまで書いて、彼女はふと顔を上げた。
「桜夜様は、弟子を取らないのですか」
桜夜は、きょとんとした顔をした。
「弟子?」
「はい。明人様から免許皆伝を受けているのでしょう」
「そういうことにはなっているね」
「ならば、桜夜様が誰かに剣を伝えることもできるのではありませんか」
司も桜夜を見る。
桜夜は困ったように笑った。
「僕には、まだ早いよ」
「早い、ですか」
「先生から教わったことを、僕はまだ全部わかっていない。剣を振ることはできる。技も教えられるかもしれない。でも、それだけなら僕が教える意味がない。心が大切なんだ」
「守りの剣を教えるには、まだ足りないと」
「うん」
桜夜は、自分の手を見た。
「僕はまだ、守ることと縛ることを間違えそうになる。手を伸ばすことと、閉じ込めることを間違えそうになる。そんな人間が、誰かの師匠になるのは怖い」
リオは、何も言わなかった。
その沈黙は、否定ではなかった。
ただ、受け止めるためのものだった。
そのころ、台所ではサイカが真剣な顔で包丁を握っていた。
「力を入れすぎない方がいいですよ」
桜が、横から穏やかに声をかける。
「力を入れないと切れない気がして」
「よく研いである包丁なら、刃が進んでくれます」
「剣と同じ?」
サイカがそう言うと、桜は少し笑った。
「桜夜さんたちは、何でも剣にたとえますね」
「桜夜さんの影響かも」
「では、明人さんの影響でもあります」
サイカの手が止まった。
「明人さんも?」
「はい。魚の食べ方、箸の持ち方、包丁の扱い方。桜夜さんは、いろいろ叱られたそうです」
「見てみたかったな」
「きっと、今と同じ顔をしていたと思います」
「どんな顔?」
「納得していないのに、言い返せない顔です」
サイカは想像して、ふふっと笑った。
「桜夜さん、そういう顔する」
「しますね」
二人は小さく笑い合った。
サイカは、改めて包丁を動かす。
大根を切る。
少し厚い。
次は薄すぎる。
桜は叱らず、ただ少しずつ手を添えてくれた。
「お味噌汁って、毎日味が違うんですね」
「そうですね。出汁の濃さも、お味噌の量も、具材も、その日の体調でも変わります」
「難しい」
「難しいです。でも、だから家の味になるんだと思います」
「家の味」
サイカは、その言葉を繰り返した。
彼女にとって、家という言葉はまだ少し不思議なものだった。
生まれた場所。
育った場所。
帰る場所。
誰かが待っている場所。
桜夜の隣にいると、その言葉が少しずつ増えていく。
「桜夜さんは、ここの味が好きですか?」
「好きだと思います」
桜は答えた。
「口では何も言わないかもしれませんけれど」
「言わなそう」
「でも、きれいに食べます」
サイカは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ちゃんと作りたい」
「はい」
桜は頷いた。
「一緒に作りましょう」
一方、ホムラは屋敷の奥へ進んでいた。
古い廊下だった。
床板がかすかに軋む。
壁には、古い弓や、木刀や、よくわからない札が掛けられている。
ホムラはそれらを横目で見ながら歩いた。
「変な家だな」
四方院家ほど大きくはない。
けれど、何かがある。
この家には、ただ古いだけではない重さがあった。
火の匂いがする。
煙ではない。
焦げた匂いでもない。
もっと奥の方。
火が、火になる前の気配。
ホムラは足を止めた。
廊下の先に、細い階段があった。
下へ続いている。
「地下かよ」
普通の人間なら、入らない。
だが、ホムラは普通ではなかった。
それに、呼ばれた気がした。
呼ばれたなら、行く。
ホムラは迷わず階段を下りた。
地下は思ったより広かった。
石造りの部屋。
空気は冷たい。
だが、その奥に、熱がある。
扉があった。
古い木の扉。
札が貼られている。
そこには、読みにくい字でこう書かれていた。
開くな。
ホムラは腕を組んだ。
「開くなって書かれると、開けたくなるだろ」
しばらく悩む。
悩んだ。
本人としては、かなり悩んだ。
だが、結論は早かった。
「見るだけだ」
ホムラは札に触れた。
熱い。
指先が、ぴりっとした。
「へえ」
札は燃えなかった。
それどころか、拒むようでもなかった。
ホムラは扉を開けた。
中は、ほとんど何もない部屋だった。
中央に、一本の刀が置かれている。
黒い鞘。
黒い柄。
だが、その黒の内側で、赤い光が脈打っているように見えた。
火ではない。
けれど、間違いなく火だった。
ホムラの胸の奥が、どくんと鳴る。
「……何だ、お前」
刀は答えない。
だが、ホムラにはわかった。
これは、自分を見ている。
物に見られるというのは変な話だ。
それでも、見られている。
試されている。
呼ばれている。
ホムラは一歩近づいた。
その瞬間、背後から声がした。
「ホムラ」
低い声だった。
ホムラは振り返る。
入口に、桜夜が立っていた。
その後ろに、司とリオもいる。
桜夜の顔は、いつもの軽さを消していた。
「それには触らない」
「ただの刀じゃねえのか」
「ただの刀でも、だ」
ホムラは、少しだけ黙った。
桜夜は、危ないものに対しては冗談を言わない。
少なくとも、本当に危ない時は。
ホムラは舌打ちした。
「見てただけだ」
「それで十分危ない」
「何なんだよ、これ」
司が、部屋の前で息を呑んだ。
「ホノカグツチ」
リオがその名を繰り返す。
「ホノカグツチ?」
桜夜は刀を見たまま言った。
「火の神の力を宿す刀。宮森家が守ってきた、火の神刀の一つだ」
「火の神?」
「火之迦具土とも、火の神とも結びつけられている。名前の由来はいくつかあるけど、この家ではホノカグツチと呼んでいる」
ホムラは刀を見た。
「強いのか」
「強いよ」
桜夜は即答した。
「抜けば、かなり」
「なら、何でしまってある」
「強すぎるから」
ホムラは眉を寄せた。
「強いなら使えばいいだろ」
「使う人間によっては危険すぎる」
「オレなら?」
その問いに、桜夜はすぐには答えなかった。
ホムラはその沈黙に少し苛立つ。
「何だよ」
「君だと、相性がよすぎる」
「ならいいじゃねえか」
「火に火を足すようなものだよ」
桜夜の声は静かだった。
「君は怒れる。大切なものを傷つけられた時、迷わず前に出られる。それは君の強さだ」
ホムラは何も言わなかった。
「でも、正しい怒りほど、よく燃える」
部屋の中の赤い光が、かすかに強くなる。
「そして、燃えたものは戻らない」
ホムラは唇を噛んだ。
「じゃあ、封印すんのかよ」
「今も封印してあるようなものだ」
「ふざけんな」
「うん」
「信用できねえのか」
「信用してるから、悩んでる」
ホムラは言葉を失った。
その言い方は、ずるかった。
信用していないと言われた方が、まだ怒れた。
桜夜は、刀から目を離さない。
「先生は、これを僕に教えなかった」
「何でだよ」
「たぶん、僕には必要ないと思ったんだろうね」
「お前なら使えそうだけどな」
「使えるかもしれない。でも、僕の剣ではない」
桜夜は、そこでホムラを見た。
「たぶん、これは君を見ている」
ホムラの喉が鳴った。
わかっていた。
言われる前から、わかっていた。
この刀は、自分を呼んでいる。
自分の中の火を知っている。
だからこそ、怖くなかった。
怖くないことが、逆に少し怖かった。
司が静かに言う。
「祖父は、この刀を一度も抜きませんでした」
「明人様が?」
リオが尋ねる。
「はい。少なくとも、私の知る限りでは」
桜夜が苦く笑った。
「先生、本当にいろいろ隠し持ってるなあ」
「兄さんにも、言わなかったんですね」
「知っていたら、僕はたぶん見に来てたよ」
「でしょうね」
「そして叱られた」
「でしょうね」
司は困ったように笑った。
ホムラは刀を見つめた。
「なあ、桜夜」
「何?」
「オレは、これを抜いちゃいけねえのか」
桜夜は、長い沈黙の後で答えた。
「今は、抜かないでほしい」
「今は?」
「うん」
ホムラはその言葉を聞き逃さなかった。
「いつかはいいのか」
「わからない」
「何だよ、それ」
「本当にわからないんだ」
桜夜は、困った顔をした。
「封印するべきなのか、君に持たせるべきなのか、僕にはまだ決められない」
「お前が決めんのかよ」
「そうだね」
桜夜は頷いた。
「本当は、君が決めるべきことだ。でも、これに関しては、君だけに背負わせていい話じゃない」
「子ども扱いすんな」
「するよ」
ホムラが睨む。
桜夜はそれを受け止めた。
「君を危ないところへ連れてきたのは僕だ。君がホノカグツチに選ばれたなら、僕にも責任がある」
「責任」
「うん」
「お前、すぐそういう顔するよな」
「どういう顔?」
「全部自分が背負いますって顔」
桜夜は少しだけ目を見開いた。
リオが、ほんのわずかに視線を伏せる。
司も何も言わない。
ホムラは続けた。
「気に食わねえ」
「ホムラ」
「オレが選ばれたんなら、オレの問題だろ。お前が一人で悩むな」
桜夜は、しばらくホムラを見ていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「君は、そう言うと思った」
「なら最初からわかれ」
「努力するよ」
「そこは、わかったって言え」
「わかった」
桜夜は、ホノカグツチに近づいた。
だが、触れない。
ただ、刀の前で軽く頭を下げた。
「今日は、ここまでにしましょう」
刀は何も答えない。
赤い光だけが、ゆっくりと脈打っている。
ホムラは名残惜しそうに見た。
桜夜はそれに気づいていた。
「また来よう」
「本当か」
「うん」
「勝手に来てもいいか」
「駄目」
「けち」
「危ないからね」
「わかったよ」
ホムラは不満そうにしながらも、部屋を出た。
扉が閉まる。
札が再び静かに貼り直される。
その瞬間、地下の熱が少し遠のいた。
だが、完全には消えなかった。
ホムラの中に、まだ残っている。
火の気配。
呼ぶ声。
抜け、と言っているような気がした。
いや、違う。
たぶん、こう言っていた。
いつか来い。
屋敷の座敷へ戻ると、台所からサイカの声が聞こえてきた。
「桜夜さん、できたよ!」
明るい声だった。
さっきまでの地下の熱とは、まるで違う。
けれど、その声を聞いて、桜夜の表情が少しだけやわらぐ。
「行こうか」
食卓には、味噌汁と焼き魚、卵焼き、小さな煮物が並んでいた。
形は少し不揃いだった。
大根は厚さがまちまちで、卵焼きも端が少し崩れている。
それでも、サイカは誇らしげだった。
「私も作ったの」
「うん」
桜夜は座る。
「いただきます」
全員で手を合わせた。
桜夜は、まず味噌汁を飲んだ。
サイカがじっと見る。
「どう?」
「おいしい」
「ほんと?」
「ほんと」
「桜さんがほとんど作ったけど」
「サイカも作ったんだろう?」
「うん」
「なら、サイカの味もする」
サイカは、ぱっと笑った。
「よかった」
ホムラは焼き魚を食べながら言う。
「普通にうまい」
「普通にって何」
「褒めてる」
「ほんとに?」
「ほんとだって」
リオも箸を置き、丁寧に言った。
「とても美味しいです。出汁が優しい味です」
「それは桜さん」
「具材の切り方に、サイカちゃんの努力が見えます」
「それ褒めてる?」
「もちろんです」
サイカは少し照れたように笑った。
桜夜はその様子を見ていた。
宮森家の座敷。
桜の料理。
司の穏やかな声。
サイカの笑顔。
リオの記録。
ホムラの中に宿った火の気配。
明人の墓にただいまと言ったあとで、この家はまた別の形で桜夜に何かを渡してきた。
先生。
まだ隠し事が多すぎますよ。
桜夜は心の中でそう呟いた。
食事の後、桜夜は一人で縁側に出た。
庭には、朝の光が落ちている。
司が隣に座った。
「ホノカグツチのこと、すみません」
「司が謝ることじゃないよ」
「祖父が兄さんに伝えていなかったことですから」
「先生には先生の考えがあったんだと思う」
「兄さんは、どうしますか」
桜夜は庭を見たまま答えなかった。
司は急かさない。
しばらくして、桜夜は言った。
「封印するのが、一番安全だ」
「はい」
「ホムラとあの刀は、相性がよすぎる。危険なくらいに」
「はい」
「あの子は怒れる。大切なもののために燃えられる。それは美点だけど、ホノカグツチはそこを増幅する」
桜夜は、自分の手を見た。
「世界を燃やしかねない」
司は、何も言わなかった。
「でも」
桜夜は続ける。
「危険だから封印する。それで終わらせていいのか、僕にはわからない」
「兄さん自身が、そうされなかったからですか」
桜夜は苦笑した。
「痛いところを突くね」
「すみません」
「その通りだよ」
庭の木々が揺れる。
「先生は、僕を封印しなかった。危ないと知っていたはずなのに、剣を教えた。壊さないための剣を」
「では、ホムラさんにも」
「まだわからない」
桜夜は首を振った。
「僕は、弟子を取ったことがない」
「はい」
「司の相手はする。稽古も見る。でも、弟子とは違う」
「兄さんは、いつもそう言いますね。自分にはまだ早いと」
「実際、早いよ」
「でも」
司は、兄と呼ぶ相手を見た。
「祖父も、兄さんを拾った時は、そう思っていたかもしれません」
桜夜は黙った。
「自分にはまだ早い。自分が教えていいのかわからない。そう思いながら、それでも教えたのかもしれません」
「司」
「すみません。言いすぎました」
「いや」
桜夜は、少し笑った。
「たぶん、言われるべきことだった」
座敷の方から、サイカの笑い声が聞こえた。
ホムラが何か言い、リオがたしなめている。
いつもの声だった。
その中に、まだ抜かれていない火の刀の気配が混じっている。
桜夜は目を閉じた。
先生。
僕は、誰かに剣を教えていいのでしょうか。
守りの剣を。
壊さずに済ませる剣を。
燃やせるものを、燃やさずに済ませる剣を。
答えはなかった。
ただ、鎌倉の風が吹いた。
まるで、考えろと言うように。
まだ逃げるなと言うように。
桜夜は小さく息を吐いた。
「本当に、宿題が多いな」
司が笑う。
「祖父らしいですね」
「うん」
桜夜も笑った。
「先生らしい」
宮森家。
もとは、宮守。
神と人の境を守る家。
武の記憶を鎮める家。
そして今、その家の奥で、一本の火の刀が眠っている。
いつか、ホムラに抜かれる日を待つように。
桜夜は、まだその日を選べなかった。
けれど、目をそらすことも、もうできなかった。




