第47話 朝風呂と感謝の奉告
一との会話は、結局、宴会になった。
青龍家の座敷には、いつの間にか人が増えていた。
出かけていた当主夫妻まで戻ってきて、桜夜を見るなり、まずは無事を喜び、それから京子の腹を見て、今度はそちらを祝った。
酒が出た。
飲める者には日本酒。
飲めない者にはノンアルコールビールやジュース。
豪勢な寿司が並び、揚げたての天ぷらが運ばれ、誰かが「これは帰還祝いだ」と言い、別の誰かが「京子様のご懐妊祝いでもあります」と言い、さらに誰かが「教会と魔女の和解への第一歩でもありますな」と言った。
何を祝っているのか、途中からよくわからなくなった。
だが、誰もそれを咎めなかった。
桜夜の帰還。
京子の懐妊。
ローマ教皇と魔女の子孫が同じテーブルで茶を飲んだこと。
そのどれもが、祝ってよいものだった。
そして誰も、京子の胎にあずさの魂が入れられたことを責めなかった。
悲しまなかった。
恐れもしなかった。
それは、玄武がしたことだからではない。
宗主の決定だから従う、という諦めでもない。
青龍家の人間の懐の深さだった。
生まれてくる命を、まず祝う。
そのうえで、背負わされたものがあるなら、一緒に背負う。
言葉にはしなかったが、座敷に満ちていた空気はそういうものだった。
だから桜夜も、珍しく楽しそうに酒を飲んだ。
一にからかわれ、京子に笑われ、サイカたちに心配されながら、それでも杯を重ねた。
途中で、なぜか手品まで披露することになった。
桜夜の指先で、折り畳まれた懐紙が小さな白い鳥に変わった。
次に、京子の手のひらから赤い花が現れた。
サイカが目を輝かせ、リオが冷静に仕掛けを見破ろうとし、ホムラが「もう一回やれ」と言った。
一は腹を抱えて笑った。
「お前、そんなこともできたのか」
「兄上、僕は器用なんです」
「器用なやつは、だいたい面倒だ」
「偏見です」
「お前を見る限り、事実だな」
夜は更けた。
話すべきことは多かった。
だが、話したいことも多かった。
魔女の森のこと。
ケイオスのこと。
三原色の祈りのこと。
教皇のこと。
烏たちのこと。
アヒルたちのこと。
どれも、簡単には語れない。
それでも、青龍家の座敷では、重すぎる沈黙にはならなかった。
酒と茶と料理と、誰かの笑い声があった。
桜夜は、それに少しだけ救われていた。
そして翌朝。
座敷には、酔いつぶれた屍がいくつも転がっていた。
正確には、四方院家の名門に連なる人々である。
だが、朝の光の中では、ただの屍だった。
一も珍しく寝転がっていた。
誰かが掛けた毛布を肩まで引き上げ、静かに眠っている。
京子は別室で休んでいるらしい。
サイカ、リオ、ホムラの姿は見えなかった。
桜夜は、座敷の惨状を見回した。
「……平和だな」
そう呟いてから、そっと立ち上がった。
軽く頭を下げ、青龍家を出る。
朝の空気は、少し冷たかった。
車を使わず、桜夜は自分の屋敷まで歩いた。
横浜の四方院家屋敷群の中で、水希桜夜の屋敷は目立たない。
玄武、青龍、朱雀、白虎。
そして鷹司。
そういった名門の屋敷に比べれば、ずいぶん貧相な和洋折衷の古い屋敷だった。
門も大きくない。
庭も広すぎない。
外壁には年季が入り、木枠の窓には古い傷が残っている。
だが、桜夜はこの屋敷が嫌いではなかった。
むしろ、落ち着く。
立派すぎる屋敷は、どうにも肩が凝る。
鍵を開け、玄関に入る。
靴を脱ぐ。
廊下を歩く。
屋敷は静かだった。
イタリアから帰ってきたばかりだというのに、不思議と懐かしい匂いがする。
木と、古い畳と、少しだけ桜の香り。
桜夜は、まず風呂に入ろうと思った。
最高級の飛行機が手配されていたので、空の上でもシャワーは浴びた。
帰国後の挨拶回りの前にも、身支度は整えた。
それでも、ちゃんと風呂に入りたかった。
汗を流すだけでは足りない。
湯に浸かり、身体を温め、余計なものを落とす。
それは、宮森明人と如月あずさのしつけのたまものだった。
明人は、どれほど疲れていても身体を清めることを徹底した。
あずさはあずさで、病室の白いシーツの上から、妙に偉そうに言ったものだ。
『男の子は清潔にしなさい』
その声を思い出し、桜夜は苦笑する。
「はいはい」
誰にともなく返事をして、脱衣場に入った。
かた苦しい服を脱ぎ捨てる。
上着。
シャツ。
ベルト。
スラックス。
靴下。
身体のあちこちに残った疲れが、急に重くなった。
傷は鳳凰の炎で塞がっている。
だが、戦った事実まで消えるわけではない。
筋肉の奥に、まだ魔女の森の痛みが残っていた。
桜夜は、風呂場の戸を開けた。
湯気が柔らかく流れてくる。
風呂場は檜造りだった。
壁も床も、湯船も、よく手入れされた檜でできている。
湯船には、地下から湧き出す霊力を帯びた温泉が満ちていた。
桜夜は、それを霊泉と呼んでいた。
大げさな名前だと笑われることもある。
だが、かけ湯をしただけで、身体の奥にこびりついた疲れが少しほどける。
実際、ただの湯ではなかった。
桶で湯をすくう。
肩からかける。
温かさが皮膚を流れ、胸の奥まで染みていく。
先に少し浸かるか。
それとも、頭と身体を洗ってからにするか。
桜夜は、湯船の前で真剣に悩んだ。
その時だった。
脱衣場の戸が開く音がした。
「桜夜さん、入るね」
「はい?」
返事をする前に、風呂場の戸が開いた。
サイカがいた。
リオがいた。
ホムラがいた。
三人とも、当然のような顔をしている。
そして、湯気の向こうで、どう見ても入浴する気満々だった。
桜夜は女性の裸で同様するほど子どもではなかった。だが少女たちの行動を諫める必要はあった。
「待ちなさい」
サイカが不思議そうに首を傾げる。
「なんで? 一緒に入ろうよ」
「いやなぜ」
「家族だから?」
「疑問形で言わないで」
リオが平然と言った。
「護衛上、桜夜様を一人にするのは危険です」
「風呂場にまで護衛はいらないよ」
「イタリアでは、浴室も安全とは限らないと学びました」
「学ばなくていいことを学んでる」
ホムラは、何も気にしていない顔だった。
「広いんだからいいだろ」
「広さの問題じゃない」
「じゃあ何の問題だよ」
「慎み?」
「面倒くせえ」
「とにかく、一回出て」
「やだ」
サイカが即答した。
「やだじゃない」
「桜夜さん、すぐ一人で抱え込むもん」
「今は抱え込んでない」
「でも一緒にいる」
リオが、いつもの調子で続けた。
「桜夜様。わたくしたちは、すでに桜夜様の屋敷に滞在する準備を整えております」
「聞いてない」
「聞かれませんでしたので」
「それはそうだけど」
「部屋割りについては、後ほどご相談を」
「その前に風呂場から出ようか」
ホムラが湯を軽く確かめた。
「いい湯じゃねえか」
「入る気満々だね」
「温泉だろ」
「霊泉だよ」
「どっちでもいい」
「よくない」
サイカが笑った。
「桜夜さん、はずかしいの?」
「違います」
「大変だね」
「君たちのせいだよ」
三人は、まるで悪びれなかった。
桜夜は深呼吸した。
怒るべきだ。
叱るべきだ。
これはよくない。
距離感が近すぎる。
あまりにも自然に踏み込まれすぎている。
そう思うのに、声が強くならなかった。
なぜなら、三人が笑っていたからだ。
怖がっていない。
怯えていない。
遠慮もしていない。
魔女の森で父を失ったばかりの少女たちが、いま目の前で、あまりにも当たり前のように風呂へ入ろうとしている。
それが少しだけ、救いのようにも見えた。
桜夜は、深くため息をついた。
「……わかったよ」
サイカの顔が明るくなる。
「いいの?」
サイカが、湯気の向こうで嬉しそうに言う。
「ありがとう、桜夜さん」
「お礼を言われる状況かな」
「うん」
「そっか」
桜夜は諦めて、湯船に入りマナーとして背を向けた。
背後で湯が揺れる音がする。
三人が湯船に入っていく気配。
檜の香りと、霊泉の温かさが、風呂場いっぱいに広がる。
「わあ」
サイカが小さく声を上げた。
「すごい。身体が軽くなる」
「霊力を含んでいますから」
リオの声も、少し柔らかい。
「これは、確かに普通の温泉ではありませんね」
「へえ」
ホムラが感心したように言う。
「悪くねえ」
「君たち、くつろぎすぎじゃない?」
サイカが笑った。
その笑い声を聞いて、桜夜も少しだけ笑ってしまった。
朝の湯気の中で、ようやく屋敷に人の気配が戻ってきた。
それは騒がしくて、無遠慮で、非常識だった。
けれど、悪くはなかった。
霊泉の湯が、静かに揺れた。
桜夜は目を閉じる。
イタリアの血と灰。
ローマの紅茶。
青龍家の酒。
白虎家の苦い茶。
いろいろなものが、少しずつ湯気にほどけていく。
そして、湯気の向こうで少女たちの笑い声がする。
守れなかったもの。
失ったもの。
戻らないもの。
それでも、残ったもの。
桜夜は、ふっと息を吐いた。
「……帰ってきたんだな」
「なにか言った?」
サイカが聞く。
「何でもない」
「うそ」
「うそじゃない」
「桜夜さん、うそ下手だよね」
「そうかな」
「うん」
湯気の中で、サイカが笑った。
桜夜は、もう一度小さく息を吐いた。
屋敷は、もう静かではなかった。
それが、少しだけ嬉しかった。
◇◇◇
結局、桜夜は少女たちを置いて、先に風呂場を出た。
もともと、あまり長湯は得意ではない。
身体の汚れは落とした。
湯は十分に浴びた。
あとは、心を整えるだけだった。
脱衣場で身体を拭き、髪を整える。
それから歯を磨き、うがいをした。
一度では足りない気がして、もう一度うがいをする。
さらに手を洗い、口をすすぎ、指先まで丁寧に清める。
誰かに見せるためではない。
これから向かう場所に、自分の汚れを持ち込みたくなかった。
桜夜は、白い半襟の襦袢に袖を通した。
その上に、ややベージュに近い白の着物を着る。
袴も同じく、淡い白に近い色のものだった。
四方院家が神道系の儀式を行う時の服装である。
武装でも礼服でもない。
祈るための衣だった。
帯を締め、襟を整え、最後に深く息を吐く。
風呂場の方からは、まだ三人の声が聞こえていた。
サイカが何かに驚き、ホムラが笑い、リオが淡々と説明している。
この屋敷は、もう静かではない。
そのことに、桜夜は少しだけ笑った。
だが、すぐに表情を改める。
台所へ向かい、捧げものを用意した。
米。
塩。
水。
酒。
榊。
どれも、特別に高価なものではない。
だが、手を抜くものでもない。
器に盛り、水を替え、酒を注ぐ。
一つ一つの所作を、ゆっくりと行う。
それから桜夜は、屋敷の奥へ向かった。
神域の間。
桜夜は、そう呼んでいる。
廊下の奥にあるその部屋は、普段は固く閉ざされている。
戸の前で一礼し、静かに開ける。
中には、神棚と呼ぶにはあまりにも大きな社があった。
だが、派手ではない。
白木を中心に組まれたそれは、神殿と呼んだ方が近かった。
豪華でありながら、余計な飾りはない。
質素でありながら、安っぽさはない。
榊の緑と、白木の清らかさと、朝の光だけがそこにあった。
桜夜は、捧げものを一つずつ供えた。
米。
塩。
水。
酒。
榊。
すべてを整えると、社の前に正座した。
畳に膝をつける。
背筋を伸ばす。
両手を膝の上に置く。
そして、二度、深く頭を下げた。
空気が変わった。
屋敷の奥にある小さな部屋のはずなのに、そこだけが別の場所になったようだった。
桜夜は、静かに口を開く。
「掛まくも畏き……」
祓詞。
桜夜は、それを暗記していた。
幼い頃、明人に何度も直された。
声が軽い。
息が乱れている。
字面を読んでいるだけだ。
祓うとは、掃除のことではない。
清めるとは、きれいなふりをすることではない。
そう何度も叱られた。
だから桜夜は、一音ずつ、魂を乗せて唱えた。
早すぎず。
遅すぎず。
低く、澄んだ声で。
祓詞を終えると、少しだけ間を置く。
続いて、神棚拝詞を唱えた。
「此の神床に坐す、掛まくも畏き……」
言葉が、部屋の奥へ染み込んでいく。
檜の香り。
榊の青い匂い。
供えた酒のかすかな香り。
それらが、朝の空気と混ざっていた。
唱え終えると、桜夜は静かに頭を垂れた。
しばらく、そのまま動かなかった。
それから、胸の内で報告を始める。
イタリアでの戦い。
魔女の森へ入ったこと。
ケイオスと戦ったこと。
三原色の祈りが完成したこと。
ローマ教皇と語らい、魔女の子孫たちとともに紅茶を飲んだこと。
そして、無事に日本へ帰ったこと。
桜夜は、一つずつ報告した。
言い訳はしない。
誇張もしない。
できたこと。
できなかったこと。
助けられたこと。
失ったもの。
残ったもの。
それらを、神前に置いていくように告げた。
そして、八咫烏への感謝を深く捧げた。
魔女の森で、烏たちが身を挺してかばってくれたこと。
黒い翼が、白い命令に抗ってくれたこと。
倒れても、最後まで道を見ていてくれたこと。
そして最後に、魔女とその伴侶の魂を導いてくれたこと。
桜夜は、静かに頭を下げた。
深く。
深く。
畳に額が触れそうになるほどに。
「ありがとうございました」
声に出した。
その言葉だけは、祝詞ではなかった。
形式でもなかった。
水希桜夜自身の礼だった。
しばらく、何も起きなかった。
それでよかった。
神は、便利な返事をするためにいるわけではない。
桜夜は、そう教えられてきた。
祈りは取引ではない。
礼は呼び出しではない。
ただ、届くべきところへ置いていくものだ。
それでも。
ふと、社の奥で小さな影が揺れた気がした。
黒い羽の気配。
朝の光の中に、一瞬だけ濃い影が差したような気配。
桜夜は顔を上げなかった。
見ようとはしなかった。
ただ、もう一度、静かに頭を下げた。
それから、二礼。
二拍手。
一礼。
柏手の音が、神域の間に澄んで響いた。
最後に軽く頭を下げ、桜夜は帰還奉告の儀を終えた。
顔を上げると、部屋の入口に三人が立っていた。
いつの間に来たのか。
サイカ、リオ、ホムラ。
三人とも、風呂上がりの髪を少し湿らせたまま、黙ってこちらを見ていた。
さっきまでの騒がしさはなかった。
サイカは胸の前で手を組み、リオは静かに姿勢を正し、ホムラですら口を挟まなかった。
桜夜は、少しだけ驚いた。
「騒がないんだね」
サイカが、小さく首を横に振った。
「騒いじゃいけない場所だって、わかったから」
リオも頷く。
「ここは、桜夜様が礼を尽くす場所なのですね」
「うん」
ホムラは、神殿の方を見てから、ぼそりと言った。
「烏たちへの礼か」
「それもある」
「そっか」
桜夜は立ち上がろうとした。
だが、正座のせいか、少し足がしびれていた。
動きが止まる。
サイカがすぐに気づいた。
「桜夜さん?」
「何でもない」
「足しびれた?」
「何でもない」
「しびれたんだ」
「神域でそういうことを言わない」
ホムラが噴き出した。
リオも口元を押さえる。
サイカは、くすくす笑いながら近づいてきた。
桜夜はため息をつく。
神域の間に、ほんの少しだけ人の笑い声が混じった。
それでも、不思議と不敬ではなかった。
感謝を終えた後の、やわらかな朝の音だった。




