第46話 帰国の挨拶
空港へ向かう車の中で、桜夜は新聞を広げていた。
ローマの朝刊だった。
見出しは穏やかだった。
教皇、日本の友人と平和を語らう。
その下に、写真が載っている。
平服のヨハネ・パウロ三世。
その向かいに座る、水希桜夜。
テーブルには紅茶とコーヒー。
少し離れた場所には、サイカ、リオ、ホムラが座っている。
三人とも、ヴェネツィアングラスのアクセサリーを身につけていた。
サイカの胸元には、透明な金と紫。
リオの耳元には、水色の硝子。
ホムラの手首には、赤と橙の硝子。
写真の中の三人は、楽しそうに笑っている。
桜夜だけが、少し困った顔をしていた。
「……撮られてる」
桜夜は、深くため息をついた。
別の新聞も広げる。
そこには、教皇と桜夜が握手する写真が載っていた。
その横には、サイカ、リオ、ホムラが証人のように並んでいる。
見出しは、さらに踏み込んでいた。
ヨハネ・パウロ三世、日本の友人と桜を見る約束。
記事には、教皇の言葉が載っていた。
先日、日本から友人が来てくれました。
その友人は、私に謝罪のチャンスをくれました。
私たちは、ともに世界の平和を祈りました。
いつか私が日本へ行き、彼が愛した桜という花を一緒に見るつもりです。
桜夜は新聞を閉じた。
そして、もう一度ため息をついた。
「桜夜さん、ため息ばっかり」
隣に座るサイカが覗き込む。
「新聞に載るの、そんなに嫌?」
「嫌というか、面倒なんだよ」
「有名人だね」
「やめて」
リオが、別の紙面を確認していた。
「教皇庁は、否定しておりません」
「でしょうね」
「むしろ、言葉選びは慎重ですが、肯定に近い声明を出しています」
「でしょうね」
「聖下は日本から来た友人と語らい、ともに世界の平和を祈られました。聖下は、いつの日か日本を訪れ、桜の花を見たいと望んでおられます」
「リオちゃん、読み上げなくていいよ」
「現実確認です」
「残酷だね」
ホムラが、向かいの席で腕を組んでいた。
「いいじゃねえか。白虎のじじい、嫌な顔してるだろ」
「しているだろうね」
桜夜は認めた。
これが外交的に、政治的に、どう働くか。
それをまったく理解できないほど、桜夜は無邪気な子犬ではなかった。
多くのカトリック信徒は、教皇の優しい人柄に注目するだろう。
記者たちは、教皇と親しげに茶を飲んでいる東洋人が何者なのかを調べるだろう。
教会と魔女の歴史を知る者が見れば、それは歴史的な和解の一場面に見えるかもしれない。
そして四方院家の者が見れば、別の意味になる。
水希桜夜に手を出せば、教皇の友人に手を出すことになる。
サイカたちに手を出せば、教皇と同じテーブルで茶を飲んだ魔女の子孫に手を出すことになる。
それは、四方院内部の処理では済まない。
国際世論。
宗教外交。
日本政府。
場合によっては皇室にも余波が届く。
白虎は、桜夜を嫌っている。
今でも野良犬と呼ぶだろう。
だが、その野良犬は、ローマ教皇とともに世界平和を祈ってしまった。
面倒なことになった。
とても面倒なことになった。
「桜夜様」
リオが言う。
「ご理解されているとは思いますが、これはおそらく意図的です」
「教皇庁が?」
「教皇庁も。あるいは、別の誰かも」
「玄武様かな」
「可能性は高いかと」
「だよね」
桜夜は車窓の外を見た。
ローマの街並みが、朝の光の中を流れていく。
ほんの少し前まで、ここで戦っていた。
魔女の森。
ケイオス。
三原色の祈り。
魔女のお茶会。
紅茶の香り。
そして、教皇の穏やかな笑顔。
そこから一夜明けただけで、世界はもう政治の顔をしている。
桜夜は苦笑した。
「本当に、嫌になるね」
「帰れるんでしょ?」
サイカが言った。
「日本に」
「まあね」
帰れる。
昨日の夜、ホテルへ戻る途中で電話があった。
桜夜はスマートフォンを持ち歩いている。
ただし、基本的に電話には出ない。
メッセージも、メールも、見ないことが多い。
誰かが本当に急いでいるなら、他の連絡経路を使う。
そういう理屈で、桜夜は現代社会から半歩ほど逃げていた。
だが、その日はたまたまマナーモードが切れていた。
着信音が、しつこく鳴った。
無視した。
鳴り続けた。
さらに無視した。
それでも鳴った。
仕方なく切ろうとして、桜夜はスマートフォンを取り出した。
画面を見た瞬間、嫌な予感がした。
妖怪性悪狸じじい。
そう表示されていた。
そんな名前で登録した覚えはない。
おそらくガブリエルのいたずらだ。
あるいは、ガブリエルの仕業に見せかけた誰かの仕業かもしれない。
どちらにせよ、嫌だった。
桜夜は、しぶしぶ通話を押した。
「はい」
電話の向こうから、玄武の声がした。
「日本に帰ってきてよいぞ」
それだけだった。
桜夜が何か言う前に、電話は切れた。
「……」
桜夜はしばらく画面を見つめた。
通話時間は、数秒。
用件は、帰国許可。
つまり、白虎が動けないと玄武が判断したということだった。
桜夜は、そこでようやく日本へ帰ることにした。
夜景の見えるレストランで食事をしてから、ホテルのスイートルームに戻った。
何気なくテレビをつけた。
すると、もうその日の魔女のお茶会の話がすっぱ抜かれていた。
教皇と謎の東洋人。
魔女迫害の歴史との関係。
日本訪問の可能性。
そんな言葉が流れていた。
桜夜は即座にテレビを消した。
そして、次の日の朝、逃げることにした。
サイカ、リオ、ホムラは、魔女の森へ戻るのだろうと思っていた。
彼女たちはもう、桜夜の保護下にいる必要はない。
教皇が後ろ盾となった。
魔女の子孫として、必要なら教会の保護も受けられる。
どこへでも行ける。
何を選んでもいい。
桜夜と一緒にいる必要など、もうない。
彼は傲慢で、強欲で、可愛い女の子が好きな男だった。
だから、三人を手放すのは惜しかった。
とても惜しかった。
だが、明人の教えがある。
執着を捨てろ。
そして、あずさの声もある。
束縛禁止。
だから耐えた。
朝、こっそりスイートルームを抜け出した。
用意されたリムジンに乗り込んだ。
すると、そこにはすでに三人がいた。
「おはよう、桜夜さん」
サイカが笑顔で言った。
「お待ちしておりました」
リオが優雅に頭を下げた。
「遅え」
ホムラが不機嫌そうに言った。
桜夜は、扉を開けた姿勢のまま固まった。
「……どうしているのかな」
「一緒に行くから」
サイカが当然のように言う。
「どこへ」
「日本」
「どうして」
「桜夜さんが行くから」
桜夜はリオを見た。
「リオちゃん」
「教皇聖下の後ろ盾により、わたくしたちはどこへでも行けます」
「そうだね」
「ですので、桜夜様の隣を選びました」
「選択肢の使い方として、少し問題があると思う」
「ありません」
桜夜はホムラを見た。
「ホムラちゃん」
「置いていこうとしただろ」
「そんなことは」
「した顔だ」
即答だった。
サイカも頷いた。
「した顔だった」
リオも頷く。
「していました」
三対一。
勝ち目はなかった。
桜夜は、観念してリムジンに乗った。
扉が閉まる。
車が動き出す。
ローマの街が、少しずつ遠ざかる。
サイカが、桜夜の袖を軽くつまんだ。
「桜夜さん」
「何?」
「うれしいなら、うれしいって言っていいよ」
桜夜は黙った。
窓の外を見る。
街路樹の影が、車内を流れていく。
彼は少しだけ笑った。
「……うれしいよ」
サイカが、ぱっと笑った。
リオは満足そうに目を細める。
ホムラはそっぽを向いた。
「最初からそう言え」
「難しいんだよ」
「面倒くせえ」
「よく言われる」
そうして、桜夜たちは日本へ帰った。
◇◇◇
日本の空港に着くと、桜夜は最初に土産物店へ向かった。
「桜夜様」
リオが不審そうに声をかける。
「イタリアのお土産なら、すでに別便で手配しております」
「うん」
「では、なぜこちらへ」
「必要なんだ」
「何がですか」
「イタリアっぽいお土産が」
サイカが首を傾げた。
「イタリアっぽい?」
「うん。日本の空港で買える、イタリアっぽい何か」
ホムラが桜夜を見た。
「お前、悪い顔してるぞ」
「そんなことないよ」
「してる」
「帰国の挨拶には、心が大事だからね」
「絶対ろくでもねえ」
桜夜はにこにこしながら、輸入菓子風の箱と、イタリアの名所が印刷された缶入り菓子を選んだ。
よく見ると、製造者は国内メーカーだった。
味はおそらく悪くない。
だが、本物のイタリア土産ではない。
イタリアっぽい日本土産である。
桜夜はそれを丁寧に包装してもらった。
リオは、すべてを理解した顔でため息をついた。
「白虎様ですね」
「リオちゃんは賢いね」
「やめた方がよろしいかと」
「礼儀正しく挨拶するだけだよ」
「順番が違います」
「知ってる」
正式な礼儀としては、まず宗主である玄武に帰還を報告する。
次に、兄貴分である一のいる青龍家。
そして、一の妻である京子を輩出した朱雀家。
最後に白虎家。
それが筋だった。
桜夜は、その筋をよく知っていた。
知った上で、まっすぐ白虎家へ向かった。
◇◇◇
横浜の四方院家屋敷群。
その一角にある白虎家の屋敷は、いつ見ても堅苦しかった。
門構えは立派で、庭も整っている。
だが、空気が硬い。
歓迎されていない場所の空気は、わかりやすい。
桜夜は、にこにこしながら門をくぐった。
白虎家の者たちが、あからさまに戸惑っている。
当然だ。
水希桜夜が、帰国して最初に白虎家へ来た。
礼儀としてはおかしい。
だが、追い返せない。
今の桜夜は、ローマ教皇の友人である。
本人は白いワイシャツに軽いジャケットという、少し気の抜けた格好だった。
だが、その背後にはサイカ、リオ、ホムラがいる。
魔女の子孫たち。
教皇と同じテーブルで紅茶を飲んだ少女たち。
白虎家の者たちの視線が、三人にも向く。
桜夜はその視線を感じながら、さらに笑みを深めた。
客間に通される。
白虎家当主は、すでに座っていた。
表情は硬い。
怒りを抑えている顔だった。
「水希桜夜」
「はい」
「帰国したならば、まず宗主へ報告するのが筋ではないか」
「おっしゃる通りです」
桜夜は、実に素直に頷いた。
白虎の眉が動く。
「では、なぜここへ来た」
「白虎様には、今回たいへんご心配をおかけしたかと思いまして」
「心配」
「はい」
桜夜はにこやかに答える。
「イタリアでは、いろいろありましたから。私の身を案じて、夜も眠れなかったのではないかと」
サイカが横で口元を押さえた。
ホムラは完全に笑いをこらえている。
リオだけが、完璧な秘書官の顔をしていた。
白虎のこめかみが、わずかに動く。
「誰が、貴様の身を案じる」
「それでも、帰国のご挨拶は大切です」
桜夜は、丁寧に紙袋を差し出した。
「こちら、イタリアのお土産です」
白虎は受け取らなかった。
側近が代わりに受け取る。
包装紙を見る。
箱を確認する。
そして、わずかに顔を引きつらせた。
「……これは」
白虎が低く言う。
「成田の土産物店で売っているものではないか」
「よくご存じですね。さすが白虎様」
「水希桜夜」
「はい」
「喧嘩を売っているのか」
「とんでもありません。帰国のご挨拶です」
桜夜は、実に穏やかに答えた。
「イタリア風で、とてもよい品かと」
「風」
「はい。風情は大切です」
ホムラが横を向いた。
肩が震えている。
サイカは膝の上で両手を握り、必死に笑わないようにしていた。
リオは無表情だった。
だが、目だけが少し笑っていた。
白虎は、深く息を吐いた。
「用件はそれだけか」
「いえ」
「まだあるのか」
「お茶をいただけますか」
空気が止まった。
白虎家の者たちが、ほとんど同時に桜夜を見た。
白虎も、しばらく黙った。
「茶?」
「はい。ローマで教皇聖下とお茶をいただいてから、お茶の大切さを学びまして」
「……」
「白虎様とも、ぜひ一度、ゆっくりお茶をいただきたいと思っておりました」
断りづらい言い方だった。
実に断りづらい。
ローマ教皇。
お茶。
対話。
桜夜は、それらの言葉を丁寧に並べている。
白虎が断れば、白虎家は対話を拒んだことになる。
少なくとも、桜夜はそう受け取れる形にする。
白虎は、奥歯を噛みしめた。
「茶を出せ」
低い声だった。
桜夜は微笑んだ。
「ありがとうございます」
茶が運ばれてきた。
桜夜は、ゆっくりと茶碗を手に取る。
香りを楽しむ。
一口飲む。
そして、穏やかに言った。
「おいしいですね」
「飲んだなら帰れ」
「いえ、せっかくなので少しお話を」
「話すことなどない」
「白虎様は、最近の新聞をご覧になりましたか」
白虎の手が止まった。
桜夜はにこにこしている。
「ローマのものは面白かったですよ。日本の新聞も、きっといろいろ書くでしょうね」
「貴様」
「教皇聖下は、本当にお優しい方でした」
桜夜は、茶をもう一口飲んだ。
「世界平和のためにともに祈るというのは、なかなか得がたい経験でした」
白虎は黙っている。
怒りはある。
憎しみもある。
だが、手を出せない。
桜夜は、それをわかっている。
わかった上で、ここにいる。
最低だった。
「サイカちゃんたちも、教皇聖下に大変よくしていただきまして」
桜夜は続ける。
「魔女の子孫として、あの方と同じテーブルにつけたことは、大きな意味があったと思います」
「……」
「白虎様も、いつかお茶会にいらっしゃいますか」
「行くわけがない」
「残念です」
桜夜は本当に残念そうな顔をした。
白虎は、その顔を見てさらに苛立った。
だが、怒鳴れない。
追い出せない。
新聞がある。
写真がある。
教皇の言葉がある。
今の桜夜に無礼を働けば、それすら利用されかねない。
桜夜は、しばらく白虎家の茶を楽しんだ。
世間話をした。
ローマの天気の話をした。
ヴェネツィアングラスの話をした。
教皇が日本の桜を楽しみにしている話もした。
白虎は、ほとんど返事をしなかった。
それでも桜夜は、にこにこしていた。
たっぷり意趣返しをして、十分に満足した頃、桜夜はようやく立ち上がった。
「それでは、私はそろそろ宗主様に帰還の報告をしてまいります」
「今からか」
「はい」
「順番が逆だ」
「ええ」
桜夜は微笑む。
「白虎様へのご挨拶を、どうしても最初にしたかったものですから」
白虎の顔が険しくなる。
桜夜は深く一礼した。
「本日は、たいへんおいしいお茶をありがとうございました」
そして、さっさと白虎家を出た。
門を出たところで、ホムラが限界を迎えた。
「お前、最低だな」
笑いながら言う。
「礼儀正しくしただけだよ」
「どこがだ」
サイカも、くすくす笑っていた。
「白虎様、すごく怒ってたね」
「そうかな」
「桜夜さん、すごく楽しそうだった」
「気のせいだよ」
リオが静かに言う。
「桜夜様」
「何?」
「今回の行為は、礼法上かなり問題があります」
「うん」
「政治的には、一定の効果があったと思われます」
「そうだね」
「人間性としては、少々疑問が残ります」
「厳しい」
「事実です」
桜夜は笑った。
久しぶりに、日本の空気を吸っている気がした。
◇◇◇
玄武の屋敷へ着くと、桜夜は姿勢を正した。
白虎家にいた時とは違う。
短く、しかし正式な礼を取る。
「ただいま戻りました」
玄武は、奥の座から桜夜を見ていた。
しわ深い顔に、いつもの笑みが浮かんでいる。
「うむ」
「以上です」
「短いのう」
「帰還報告ですので」
「白虎のところには、随分長くおったそうじゃな」
「ご挨拶は丁寧にすべきですから」
「ほっほ」
玄武が笑った。
悪い顔だった。
「性格が悪くなったのう」
「宗主様ほどではありません」
「言うようになった」
「ご指導の賜物です」
「わしは、そこまで教えた覚えはないぞ」
「背中で学びました」
玄武は楽しそうに笑った。
だが、その目の奥には、わずかな警戒もある。
「教皇とは、うまくやったようじゃな」
「利用されました」
「守られたとも言う」
「リオちゃんにも同じことを言われました」
「賢い娘じゃ」
「ええ」
玄武は桜夜をじっと見た。
「白虎はしばらく動けぬ」
「でしょうね」
「お前は、聖座の札を拾って帰ってきた」
「拾ったつもりはありません」
「ならば、向こうから懐に入ってきたか」
「それも困ります」
「ほっほ。野良犬を追い払おうとしたら、聖座の庭で餌をもらって帰ってきおった」
「その表現はどうかと思います」
「似合っておる」
桜夜はため息をついた。
「宗主様」
「何じゃ」
「僕は、白虎様に挨拶を済ませました。帰還報告も済ませました。次は朱雀家へ向かいます」
「青龍ではなく?」
「青龍家は最後にします」
玄武は、目を細めた。
「理由は?」
「長くなりそうなので」
「なるほど」
玄武は頷いた。
「行け」
「はい」
桜夜は一礼して、玄武の前を辞した。
廊下に出ると、サイカが小声で言った。
「玄武様、楽しそうだったね」
「性格が悪いからね」
「桜夜さんも楽しそうだった」
「僕は被害者だよ」
「そうかなあ」
ホムラが鼻で笑った。
「さっき白虎んとこで、めちゃくちゃ楽しそうだったじゃねえか」
「人聞きが悪い」
「事実だろ」
「リオちゃんまで頷かないで」
「事実ですので」
桜夜は、少しだけ肩を落とした。
日本に帰ってきた実感が、ますます強くなった。
◇◇◇
朱雀家への挨拶は、桜夜もきちんと行った。
服装も整えた。
土産も、ちゃんとしたものを用意していた。
ローマで選んだ菓子。
ヴェネツィアで選んだ硝子細工。
妙齢の女性当主に似合いそうな落ち着いた赤を含む小さな装飾品。
白虎家へ渡した空港土産とは、明らかに違った。
サイカが小声で言う。
「桜夜さん、差がすごい」
「礼儀だよ」
「さっきも礼儀って言ってた」
「礼儀にもいろいろある」
「便利な言葉だね」
朱雀家の当主は、桜夜を穏やかに迎えた。
桜夜は深く頭を下げる。
「ただいま戻りました。イタリア滞在中は、ご心配をおかけしました」
「無事の帰国、何よりです」
「こちら、わずかですが土産です」
「お気遣い、痛み入ります」
礼儀正しい挨拶だった。
必要以上に長居もしない。
余計な皮肉も言わない。
白虎家での姿を見ていた三人には、別人のように見えた。
だが、これも水希桜夜だった。
礼儀を知らないのではない。
知っているからこそ、破る時には意味を持たせる。
朱雀家では、京子の様子も少し聞いた。
体調は安定しているという。
桜夜の表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「そうですか。よかった」
「青龍家へは、この後に?」
「はい」
「一様も、京子も、お待ちでしょう」
「長くお邪魔することになりそうです」
「でしょうね」
朱雀家の当主は、静かに微笑んだ。
「どうか、ゆっくり話していらしてください」
桜夜は、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇◇◇
青龍家に着いた頃には、空が少し淡くなっていた。
長い移動と挨拶回りで、さすがに疲れが出ている。
それでも、桜夜の足取りは軽かった。
青龍家の門をくぐる。
玄関先で、一が待っていた。
隣には京子もいる。
京子は穏やかに微笑んでいた。
そのお腹は、以前より少し大きくなっている。
桜夜は、足を止めた。
一は腕を組み、少し呆れたように言った。
「白虎のところへ最初に行ったそうだな」
「はい」
「楽しかったか」
「少し」
「悪い弟だ」
「兄上ほどではありません」
「俺はそこまで悪くない」
桜夜は笑った。
一も笑った。
それだけで、肩の力が抜けた。
京子が、サイカたちを見る。
「おかえりなさい」
その言葉に、サイカが少し驚いた顔をした。
リオも、わずかに目を見開く。
ホムラは、気まずそうに視線をそらした。
おかえりなさい。
その言葉は、桜夜だけに向けられたものではなかった。
三人にも向けられていた。
サイカが、小さく頭を下げる。
「ただいま、です」
リオも続いた。
「ご挨拶が遅れました。ただいま戻りました」
ホムラは少し迷ってから、ぼそりと言った。
「……ただいま」
京子は、嬉しそうに頷いた。
「はい」
一が桜夜を見た。
「入れ。話すことは多いだろう」
「多すぎます」
「なら、今夜は帰さない」
「兄上、僕は帰国したばかりなんですが」
「知っている」
「休ませる気は?」
「話してから休め」
「横暴だ」
「兄だからな」
桜夜は苦笑した。
けれど、嫌ではなかった。
青龍家の座敷に通される。
茶が出される。
京子が、サイカたちに席を勧める。
リオは丁寧に礼を言い、サイカは少し緊張しながら座り、ホムラは落ち着かなさそうにしながらも腰を下ろした。
一は桜夜の向かいに座った。
「それで」
「はい」
「イタリアで、何があった」
桜夜は茶碗に視線を落とした。
何から話せばよいのか、少し迷った。
ヴェネツィアの光。
ムラーノ島の硝子。
ケイオスの槍。
鳳凰の警告。
ガブリエルの降臨。
桜吹雪。
コスモスの命令。
咲夜の夢告。
魔女の森。
魔女のお茶会。
守りの剣。
烏たち。
アヒルたち。
三原色の祈り。
ケイオスと魔女の魂。
教皇との紅茶。
桜を見る約束。
話すことは、多すぎた。
桜夜は、小さく息を吐く。
「長くなりますよ」
一は頷いた。
「聞く」
京子も静かに言った。
「聞かせてください」
桜夜は、三人の少女を見た。
サイカは、彼を見ていた。
リオは、姿勢を正している。
ホムラは、腕を組んでいるが、目は逸らしていない。
桜夜は、少しだけ笑った。
帰ってきた。
そう思った。
白虎への意趣返しでもなく。
玄武への報告でもなく。
朱雀家への礼儀でもなく。
この場所で、ようやくそう思えた。
「では」
桜夜は、茶碗を置いた。
「まず、ヴェネツィアで変な父親に会ったところから話します」
サイカが困ったように笑った。
リオが静かに目を伏せた。
ホムラが、小さく息を吐く。
一は眉を上げた。
「変な父親?」
「はい」
桜夜は頷いた。
「ものすごく強くて、ものすごく面倒で、最後まで父親だった人です」
青龍家の座敷に、静かな夜が降りていく。
外では、横浜の街が遠くに光っていた。
日本へ帰ってきた。
そして、話すべきことは、まだたくさんあった。




