第44話 守りの剣
槍が現れた。
黒ではない。
白でもない。
それは、形を得た負の感情だった。
ケイオスの手の中で、罪の神器が低く脈打つ。
茶器が震えた。
紅茶の水面が細かく波立つ。
庭に出した白いクロスの端が、風もないのに揺れた。
お茶会は終わった。
だが、無駄ではなかった。
ほんの一瞬、ケイオスは椅子に座ろうとした。
父として。
夫として。
原初の騎士団の記憶を持つ者として。
その一瞬があった。
ならば、まだ届く可能性はある。
桜夜は、椅子に座ったまま桜吹雪へ手を伸ばした。
サイカが息を呑む。
リオが音もなく立ち上がる。
ホムラの足元で炎が揺れた。
ケイオスは槍を構える。
その目には、もう先ほどの迷いはない。
白い秩序の光が宿っている。
「第一対象、水希桜夜」
ケイオスが低く告げた。
「排除する」
桜夜は桜吹雪を取った。
鞘の感触が手に馴染む。
だが、重い。
いつもよりずっと重い。
鳳凰は眠っている。
身体も万全ではない。
この場で一番死に近いのは、おそらく自分だ。
それでも桜夜は立ち上がった。
「桜夜さん」
サイカが手を伸ばす。
桜夜は、少しだけ振り返った。
「大丈夫」
「それ、信じない」
「鋭いね」
「見てるから」
サイカは泣きそうな目で、それでも泣かなかった。
桜夜は小さく笑う。
「サイカちゃん、リオちゃん、ホムラちゃん」
「はい」
「何だ」
「下がって」
ホムラが目を剥いた。
「ふざけんな」
「ふざけてない」
「下がるわけねえだろ」
「君たちを守るために前に出るんだよ」
「だから、それがムカつくって言ってんだよ!」
ホムラの炎が大きく揺れた。
だが、リオがホムラの肩に手を置く。
「ホムラちゃん」
「リオねえまで」
「桜夜様の意図は、時間を作ることです」
「わかってる」
「なら、わたくしたちはその時間を無駄にしてはいけません」
リオは桜夜を見た。
「桜夜様。何をすればよろしいですか」
桜夜は一瞬だけ迷った。
それを見て、ケイオスが動いた。
槍が走る。
速い。
視界の端が白く焼けるほどの速度。
桜夜は桜吹雪を抜いた。
金属音。
黒い刃が、槍の穂先を受ける。
衝撃が腕から肩へ抜けた。
骨が軋む。
足元の芝が抉れる。
桜夜は一歩退いた。
ただ退いたのではない。
槍の軌道を庭の外へ逃がした。
ケイオスの一撃は、テーブルの端を掠め、森の奥へ抜ける。
茶器は割れなかった。
クロスも裂けなかった。
サイカたちにも届かなかった。
ケイオスの眉が動く。
「守ったのか」
「お茶会を台無しにすると、魔女に怒られそうなので」
「死を前にして冗談か」
「わりと本気です」
ケイオスの槍が再び動く。
桜夜は受けない。
受ければ潰される。
だから流す。
逸らす。
半歩ずれる。
槍の穂先を刀身で撫でるように外へ逃がす。
そのたびに、空間が軋む。
罪の神器が触れ合う音は、普通の金属音ではない。
耳の奥で、誰かの声がまるで泣き声のように響いた。
助けて。
殺して。
返せ。
なぜ私だけが。
桜吹雪の奥で、声が騒ぐ。
ケイオスの槍の奥でも、別の声が蠢いている。
奪え。
取り戻せ。
失ったものを返せ。
譲るな。
その二つの罪が触れ合うたび、森の空気が歪んだ。
桜夜は歯を食いしばる。
斬れる。
今なら入る。
ケイオスの右脇。
槍の戻り。
ほんの一瞬、空いている。
桜吹雪なら届く。
届けば、少なくとも動きを止められる。
うまくいけば、神殺しの刃が深く入る。
桜夜の中で、暗いものが囁いた。
斬れ。
痛めつけろ。
思い出を利用していると罵られたのなら、その思い出ごと斬ってしまえ。
槍に操られている父親など、斬ってしまえばいい。
守るべきもののためなら、それくらい許される。
桜夜の口元が、ほんのわずかに歪みかけた。
その瞬間、昔の声がした。
◇◇◇
「桜夜」
稽古のあと、明人は木刀を肩に担いでいた。
夕方の庭だった。
風が吹くと、宮森家の桜がかすかに揺れる。
まだ幼かった桜夜は、膝に手をついて息を荒くしていた。
「おまえは、人を斬るのが怖いだろう」
「怖いです」
桜夜は正直に答えた。
明人は頷いた。
「それはいい」
「いいんですか」
「いい。怖がらないやつに刃物を持たせるな」
明人はそう言って、桜夜の前にしゃがんだ。
いつもの軽い笑みは、少しだけ薄い。
「だがな、おまえにはもう一つある」
「もう一つ?」
「相手を苦しめられると知った時、ほんの少し笑うところだ」
桜夜は言葉を失った。
否定したかった。
けれど、できなかった。
明人は責めるようには言わなかった。
ただ、見ているものをそのまま告げる声だった。
「おまえは賢い。相手の弱いところが見える。言われたくないことも、突かれたくない傷も、わかる」
「……」
「しかも、怒っている時はそれを使う。正しい顔をして、相手を追い詰める」
「僕は」
「責めているんじゃない。見えていると言っている」
明人は、桜夜の額を軽く小突いた。
「傷つけるのを恐れる強さと、傷つけることに酔える弱さ。おまえは両方持っている」
「それは、悪いことですか」
「人間なら普通だ」
明人は少し笑った。
「だが、おまえは普通の刃を持たない。いずれ、普通じゃないものを握る」
その時の桜夜は、まだ桜吹雪を知らなかった。
それでも、明人の目は遠い未来を見ているようだった。
「だから先に、守る剣を叩き込む」
「守る剣」
「斬れる相手を斬らない剣だ。殺せる相手を殺さない剣だ。相手を壊せる時に、壊さずに済ませる剣だ」
「難しそうです」
「難しいからやるんだ」
明人は立ち上がり、木刀を構えた。
「おまえを殺戮者にしないためにな」
「先生」
「何だ」
「僕は、殺戮者になりますか」
明人は少し黙った。
それから、困ったように笑った。
「ならないように、俺がいる」
桜夜は顔を上げた。
明人は、いつもの軽い調子で言った。
「だから、ほら。構えろ。泣くのは終わってからだ」
「泣いてません」
「泣きそうな顔はしてる」
「してません」
「そういうことにしておいてやる」
木刀が振られた。
桜夜は慌てて受けた。
その日から、明人は桜夜に守る剣を叩き込んだ。
斬るためではない。
斬らないために。
勝つためではない。
人でいるために。
◇◇◇
桜夜は斬らなかった。
代わりに、槍の軌道だけを逸らした。
ケイオスの一撃が地面に走り、庭の端の石を砕く。
桜夜は反動でよろめいた。
胸の奥に熱いものが込み上げる。
血の味がした。
「なぜ斬らない」
ケイオスが言った。
苛立ちが混じっている。
「今、斬れたはずだ」
「斬ったら、先生に怒られます」
「ふざけるな」
「かなり本気です」
桜夜は呼吸を整える。
整えきれない。
視界の端が赤黒く滲む。
それでも、刀を下げなかった。
ケイオスは槍を握り直した。
「その剣」
低い声だった。
「誰に教わった」
「先生に」
「名は」
「宮森明人」
ケイオスの目が、かすかに揺れた。
怒りではない。
もっと古いもの。
もっと苦いもの。
「宮森」
「ご存じですか」
「知っている」
ケイオスの声が沈む。
「その足運び。その受け流し。その、相手を斬らずに席へ戻そうとするような剣」
槍の穂先が、わずかに震えた。
「はじまりのものにも似ている」
桜夜は答えなかった。
知らない。
自分は、はじまりのものの剣など知らない。
だが、明人は知っていたのだろう。
タオも。
ルシフェルも。
原初の騎士団に連なる者たちは、きっとどこかで同じものを見ていた。
相手を殺す前に、話を聞こうとする剣。
対話を諦めないための剣。
あの少女が、原初の騎士団へ託した祈り。
殺し合う前に、名を聞いて。
対話を諦めないで。
それが、明人を通って、桜夜の身体に残っている。
ケイオスの顔が歪んだ。
「またか」
「え?」
「また、お前たちか」
槍の気配が膨れ上がる。
庭の空気が重くなる。
「はじまりのもの。タオ。宮森明人。そして君」
ケイオスの声に、憎しみが滲む。
「いつもそうだ。失ったものの前に、お前たちは立つ。奪われた者の前で、対話だ、祈りだ、茶だと語る」
桜夜は刀を構えた。
ケイオスの目の奥で、白い秩序の光と、槍の負の感情が混ざっている。
「返せ」
ケイオスが呟いた。
「返してくれ。私の妻を。娘たちを。あの日々を」
それは、彼自身の声だった。
だが次の瞬間、白い光がその声を塗りつぶす。
「第二対象、回収不能と判断」
リオの顔がこわばる。
サイカが震える。
ホムラの炎が跳ねた。
「排除に移行する」
ケイオスが動いた。
今度の狙いは桜夜ではない。
サイカたちだ。
「させない」
桜夜は踏み込んだ。
だが、遅い。
身体がついてこない。
胸の奥が焼ける。
桜吹雪が重い。
ケイオスの槍が、リオの方へ伸びる。
ホムラが炎を放つ。
サイカが雷を呼ぼうとする。
リオが水の盾を展開する。
だが、罪の神器の槍は、そのすべてを裂いた。
桜夜は横から割り込む。
刃を立てるのではない。
槍の腹に当てる。
力で押し返すのではない。
軌道を曲げる。
槍はリオの肩を掠め、庭の古い木へ向かった。
桜夜はさらに一歩踏み込む。
刀を返す。
今度は木を守る。
槍は木の幹を裂く寸前で軌道を変え、空へ抜けた。
ケイオスの目がさらに険しくなる。
「家だけではなく、木まで守るのか」
「この森のものですから」
「偽善だ」
「かもしれません」
「君は何もかも守れると思っているのか」
「思っていません」
桜夜は血の混じった息を吐く。
「だから、守れるところだけ守っています」
ケイオスが歯を食いしばった。
「その言い方が」
槍が唸る。
「その剣が」
さらに速い一撃。
桜夜は受け流す。
腕に痛みが走る。
「その目が」
連撃。
桜夜は退く。
サイカたちの前へ戻る。
「苛立たしい」
ケイオスの槍が、空間そのものを裂いた。
白い線が走る。
それは、ただの魔力ではない。
排除の命令だった。
世界から不要と定められたものを、境界ごと切り落とす力。
桜夜は直感した。
受けてはいけない。
流しきれない。
なら。
「僕がひきつける。その間に、三原色の祈りを……」
言い終える前に、桜夜は血を吐いた。
赤が、白いシャツを汚す。
身体が前へ崩れる。
「桜夜さん!」
サイカが叫んだ。
リオが支える。
ホムラが肩を貸す。
三人の手が、倒れかけた桜夜の身体を受け止めた。
その隙を、ケイオスは逃さなかった。
槍が動く。
それは攻撃ではなかった。
死。
排除。
世界意思の命令を、そのまま形にした一撃。
桜夜にも、サイカにも、リオにも、ホムラにも、防御は間に合わなかった。
だが、黒い翼が割り込んだ。
一羽。
また一羽。
無数の烏が、三人と桜夜の前に飛び込む。
その身体を盾にして。
折り重なる黒い翼が、白い秩序に反抗する。
槍の衝撃が烏たちを裂いた。
羽が散る。
血が落ちる。
それでも、烏たちは退かない。
古くから魔女の眷属であり、八咫烏の末に連なるものたち。
導く鳥。
境を越える鳥。
名を呼ばれた者の道を示す鳥。
彼らは、自然の秩序ではなく、古い約束に従っていた。
「三原色の……祈り……」
桜夜は、うわごとのように呟いた。
それは、魔女と聖女の間に断片的に伝わる祈りだった。
色を失わせる白に抗うための祈り。
名を奪う秩序に抗うための祈り。
桜夜は、その力を借り、一時的にでもケイオスをコスモスから解放しようとしていた。
だが、もう伝える体力がない。
声が出ない。
息をするだけで、胸の奥が焼ける。
それでも、三人は動いた。
サイカが膝をつく。
リオがその隣に並ぶ。
ホムラが歯を食いしばりながら、同じように膝をついた。
祈りが始まる。
サイカの金と紫。
リオの水色。
ホムラの赤。
三原色の祈り。
その祈りの間も、烏たちは盾になり続けた。
一羽。
また一羽。
黒い翼が力尽きていく。
地面に落ちた烏たちは、それでも最後まで三人の方を向いていた。
その光景を見て、アヒルたちが動いた。
誰に命じられるでもなかった。
白く丸い身体が、森の草を蹴る。
声にならない雄叫びを上げて、アヒルたちはケイオスへ突進した。
ケイオスは眉をひそめた。
うっとうしい。
それだけの感情で、足を振る。
一羽が蹴り飛ばされた。
別のアヒルが跳ねる。
槍が横へ払われ、数羽がまとめて吹き飛んだ。
白い羽が舞い散る。
草の上に、赤い血が流れる。
それでも、アヒルたちは止まらなかった。
立ち上がる。
また突進する。
蹴られる。
薙ぎ払われる。
魔力をぶつけられる。
小さな身体が地面を転がる。
それでも、また立ち上がる。
かつて、ある平行世界に、絶望の中にいたアヒルたちがいた。
人間に追われ、食われ、笑われ、踏みつけられていた彼らを、ひとりの皇帝が救い出した。
皇帝は、いくつものルールを定めた。
アヒルたちには、よくわからないものも多かった。
だが、三つだけはわかった。
一つ。
絶対にあきらめないこと。
二つ。
友達は大切にすること。
三つ。
友達の友達は、みんな友達だということ。
子どもじみていた。
笑ってしまうほど単純だった。
だが、アヒルたちはその教えを信じていた。
皇帝は、水希桜夜を友達だと言っていた。
蹴られたけど、とも言っていた。
ならば、水希桜夜は友達だった。
そして、水希桜夜が守ろうとしている少女たちも、友達だった。
友達が大変な時に見捨てることは、皇帝に背くことだった。
痛くても。
苦しくても。
逃げたくても。
アヒルたちは、あきらめなかった。
血を流しながら決死に立ち向かうアヒルたちを見て、桜夜は叫びたかった。
もういい。
あとは僕が。
だが、声が出ない。
力が入らない。
立っていられない。
桜吹雪を握っていることもできない。
アヒルたちの行動を、誰もが無駄で無意味だと言うだろう。
人間も。
神も。
天使も。
ケイオスも。
世界意思も。
ケイオスを倒すことなど、彼らにはできない。
むざむざ殺されるだけだ。
時間稼ぎにもならない。
それでも、アヒルたちは突進した。
やがて、すべてのアヒルが、羽を血に染めて地面に倒れた。
その光景を見た瞬間、桜夜の胸の奥で何かが折れかけた。
僕が、早くケイオスを殺していれば。
そんな言葉が、頭の中に落ちた。
守る剣などと言って、斬らなかった。
対話を諦めないなどと言って、踏み込まなかった。
その結果が、これではないのか。
黒い翼が裂かれた。
白い羽が血に染まった。
小さな命が、地面に叩きつけられた。
僕がもっと早く斬っていれば。
殺していれば。
こんな犠牲は出なかったのではないか。
桜吹雪の奥で、負の声が膨れ上がった。
そうだ。
お前が遅い。
お前が甘い。
お前が斬らなかったからだ。
助けたいなら殺せ。
守りたいなら奪え。
赦すな。
迷うな。
あの父親を斬れ。
娘たちの前で、父を殺せ。
声は桜夜を責めた。
責めながら、誘った。
守るためなら仕方がない。
犠牲を減らすためなら正しい。
血を流した者たちのために、次はお前が血を流させろ。
桜夜の指が、桜吹雪の柄を探す。
だが、力が入らない。
握れない。
立てない。
声も出ない。
それでも、心だけが刃を探した。
その時だった。
かすかな声が聞こえた。
烏の声だった。
もう鳴く力も残っていないような、か細い声。
それに重なるように、アヒルの声も聞こえた。
蚊の鳴くような、小さな音。
けれど、それは責めていなかった。
急かしてもいなかった。
斬れとも、殺せとも、言っていなかった。
ただ、まだ終わっていないと告げていた。
あきらめていない。
まだ、見ている。
まだ、友達を見捨てていない。
桜夜の中で、膨れ上がっていた負の声が一瞬だけ遠のいた。
明人の声が、かすかに戻る。
斬れる相手を斬らない剣だ。
殺せる相手を殺さない剣だ。
相手を壊せる時に、壊さずに済ませる剣だ。
桜夜は、息を吸った。
血の味がした。
涙は出ない。
泣く力もない。
だが、目は逸らさなかった。
アヒルたちが見せたもの。
烏たちが守ったもの。
それは、殺せという願いではなかった。
あきらめるなという意思だった。
だから桜夜は、ケイオスを見た。
殺すためではない。
倒すためでもない。
まだ、呼び戻すために。
血に濡れた庭の中で、水希桜夜は、あきらめないまなざしをケイオスへ向けた。
ゆっくりと死刑執行人であるケイオスが歩く。
白い羽。
黒い羽。
赤い血。
その上を、秩序の使者が踏み越えてくる。
ケイオスが槍を構える。
「さらばだ」
その穂先が、水希桜夜の心臓へ向けられた。
そして、振り下ろされる。
その瞬間。
三原色の祈りが、完成した。




