第43話 魔女のお茶会
ケイオスは、すぐに気づいた。
水希桜夜が、娘たちを連れて魔女の森へ入ったことに。
その瞬間、胸の奥に苛立ちが生まれた。
あの男は、自分の思い出を土足で踏みにじろうとしている。
そう思った。
不死身の魔女がいた森。
妻が笑っていた家。
サイカ、リオ、ホムラが生まれた場所。
そこへ、水希桜夜が入った。
娘たちを連れて。
自分ではなく、あの男が。
憎しみが、静かに流れ込んでくる。
それが自分のものなのか、コスモスによって整えられたものなのか、強欲の槍に沈んだ負の感情に引かれているのか、ケイオスは考えなかった。
考えることなど、コスモスは許可していない。
命令は下っている。
水希桜夜を排除せよ。
不死身の魔女の忘れ形見を回収せよ。
回収不能の場合、排除せよ。
ケイオスは森を歩いた。
道は覚えている。
木々の影も、土の匂いも、家へ向かう細い道も。
忘れたつもりはなかった。
忘れられるはずもなかった。
ただ、思い出さないようにしていただけだ。
森は、彼を拒まなかった。
だが、歓迎もしなかった。
枝の上では、烏たちが彼を見ている。
茂みの奥では、獣たちが息を潜めている。
白く丸いアヒルたちが、なぜか胸を張って並んでいた。
ケイオスは、それらを無視した。
やがて、古い家が見えた。
石と木で作られた小さな家。
蔦の這う壁。
苔の残る屋根。
窓辺。
庭。
そこは、かつてのままだった。
いや、違う。
庭に、テーブルが出ていた。
白いクロス。
並べられた茶器。
菓子。
花。
紅茶の香り。
ケイオスは、そこで足を止めた。
お茶会。
魔女のお茶会。
それは、彼の妻が愛したものだった。
原初の騎士団にも、お茶会はあった。
戦いの前にも。
別れの前にも。
救えなかった夜の後にも。
紅茶があり、菓子があり、誰かがくだらない話をした。
魔女狩りが激しくなる前、妻はほかの魔女たちを呼び、森の庭でお茶会を開いていた。
彼女たちは笑っていた。
明日も生きられる保証など、どこにもなかったのに。
それでも、茶を淹れ、菓子を並べ、互いの名を呼んでいた。
そのお茶会が、今、目の前で再現されている。
水希桜夜によって。
桜夜は、主の席に座っていた。
背筋を伸ばし、穏やかな笑みを浮かべている。
そのすぐ近くには、鞘に入った桜吹雪。
リオは反対側、女主人の席に座っていた。
姿勢は静かで、表情は揺れない。
だが、その目はケイオスをまっすぐに見ている。
サイカは椅子のそばに立っていた。
怯えている。
それでも逃げない。
ホムラは庭の端に立ち、腕を組んでいる。
燃えるような視線で、ケイオスを睨んでいた。
動物たちは、森の奥からじっと見ている。
烏たちも。
アヒルたちも。
誰も鳴かない。
桜夜は、静かに口を開いた。
「ようこそ」
その声は、あまりにも穏やかだった。
「どうぞお座りください」
サイカが椅子を引いた。
小さな手が、わずかに震えている。
それでも彼女は、椅子を引いた。
まるで、招かれざる客であっても、客として迎えるのがこの森の流儀だと言うように。
ケイオスは、動かなかった。
紅茶の香りが、森の中に漂う。
それは妻が愛した香りではない。
英国の茶葉だ。
だが、茶を淹れ、席を整え、客を迎えるという形だけは、確かに彼女のものだった。
「水希桜夜」
ケイオスは、低く名を呼んだ。
「君は、何のつもりだ」
「お茶会です」
桜夜は答えた。
「見ればわかるでしょう」
「ここを、何だと思っている」
「サイカちゃん、リオちゃん、ホムラちゃんが生まれた家です」
ケイオスの目が細くなる。
桜夜は続けた。
「そして、不死身の魔女が愛した場所です」
「君が語るな」
「ええ。僕には語る資格はありません」
桜夜は、あっさり認めた。
「だから、彼女の流儀を借りました」
ケイオスの背後で、空間がわずかに歪む。
槍の気配が滲む。
それでも桜夜は笑っている。
「あなたは招待されていません」
桜夜は言った。
「ですが、来ることはわかっていました」
リオが静かに紅茶を注ぐ。
サイカがカップを置く。
ホムラの炎が、庭の端で小さく揺れる。
「ここは戦場になります」
桜夜は、ケイオスを見た。
「でも、その前に」
紅茶の湯気が上がる。
「娘さんたちの父親として、一杯くらい飲んでいかれますか」
ケイオスは、答えなかった。
座らない。
槍も出さない。
ただ、桜夜を見ている。
水希桜夜の穏やかさは、嫌なほど何かに似ていた。
はじまりのもの。
まだ世界を諦めていなかった青年。
森の奥で、誰かの祈りを聞き、剣を取る前にまず話を聞こうとした男。
そして、妻にも似ていた。
狂う前の妻。
不死身の魔女と呼ばれる前の、彼女。
妻は、招かれざる客人にも茶を振る舞った。
武器を持った者にも。
罵声を浴びせる者にも。
魔女を憎む者にも。
まず、座らせた。
茶を出した。
名を聞いた。
毒気を抜かれた客人は、気づけば茶を飲んでいる。
その隣で、あの少女がまっすぐな祈りを口にする。
さらにタオが、口八丁手八丁で相手を巻き込む。
怒鳴り込んできた者が、いつの間にか薪を割らされている。
剣を抜くつもりだった者が、気づけば畑の柵を直している。
殺し合いになるはずだった夜が、くだらない口論と焼き菓子で終わる。
一滴の血も流れないまま、平和が生まれる。
それが、原初の騎士団の戦い方だった。
少なくとも、最初はそうだった。
魔女のお茶会は、その名残だった。
ケイオスは、忘れていたわけではない。
思い出さないようにしていただけだ。
桜夜は、黙ったまま待っていた。
急かさない。
挑発しない。
席を用意し、茶を置き、相手が選ぶまで待っている。
その辛抱強さすら、思い出の中の騎士団と変わらない。
だから、ケイオスは一歩進んだ。
サイカが息を呑む。
リオの指が、カップの縁で止まる。
ホムラの炎が、わずかに強くなる。
ケイオスは椅子の前に立った。
座ろうとした。
その時だった。
胸の奥に、黒い感情が流れ込んだ。
あの男は、お前の思い出を利用している。
声ではない。
命令でもない。
だが、その感情はあまりにも鮮明だった。
妻の流儀を盗んでいる。
娘たちの家を奪っている。
はじまりのものの影をまとい、原初の騎士団の残骸を使って、お前を黙らせようとしている。
許すな。
取り戻せ。
奪い返せ。
強欲の槍が、背後で脈打った。
コスモスの命令が、思考の奥に白い線を引く。
第一対象、水希桜夜。排除。
第二対象、不死身の魔女の忘れ形見。回収不能の場合、排除。
ケイオスの手が止まった。
椅子の背に触れる寸前で。
桜夜は、その変化を見逃さなかった。
「ケイオス」
穏やかに呼ぶ。
だが、その声は届かなかった。
ケイオスの目から、わずかに人の色が消えていく。
代わりに、整えられた白い光が宿る。
秩序の光。
排除の光。
「なるほど」
ケイオスは低く言った。
「君は、私の思い出を利用するのか」
サイカが小さく震えた。
リオの表情が固くなる。
ホムラが一歩前へ出る。
桜夜は座ったまま、静かに答えた。
「利用しています」
ケイオスの目が細くなる。
桜夜は逃げなかった。
「あなたを座らせるために。槍を抜く前に、少しでも父親として考えてもらうために。僕はこのお茶会を利用しています」
「認めるのか」
「ええ」
桜夜は微笑んだ。
「でも、踏みにじるつもりはありません」
「同じことだ」
「違います」
桜夜の声が少しだけ強くなる。
「あなたの思い出は、あなたのものです。でも、この家はあなた一人のものではない」
ケイオスの背後で、空間が歪む。
槍の気配が濃くなる。
桜夜は続けた。
「ここは、サイカちゃん、リオちゃん、ホムラちゃんが生まれた家です。彼女たちのお母様がいた場所です。あなたが命令で奪い返す場所ではない」
「黙れ」
ケイオスの声が低く沈んだ。
「それを君が言うな」
「僕もそう思います」
桜夜は静かに答えた。
「だから、彼女たちの前で言っています」
リオが、ゆっくりと立ち上がった。
「父上」
ケイオスの視線が動く。
「この席を整えたのは、桜夜様だけではありません」
サイカも、震えながら立った。
「わたしも、準備した」
ホムラは炎をまといながら言う。
「オレも火を入れた」
リオはケイオスを見つめる。
「これは、わたくしたちの選択です」
ケイオスの目が揺れた。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬を、強欲の槍が許さなかった。
空間が裂ける。
黒でも白でもない槍が、ケイオスの手に現れた。
茶器が震える。
紅茶の水面が波立つ。
森の鳥たちが、一斉に羽を広げた。
桜夜は、静かに桜吹雪へ手を伸ばす。
お茶会は終わった。
だが、無駄ではなかった。
ほんの一瞬、ケイオスは座ろうとした。
父として。
夫として。
原初の騎士団の記憶を持つ者として。
その一瞬があった。
ならば、まだ届く可能性はある。
桜夜は桜吹雪の鞘を握った。
「残念です」
ケイオスが槍を構える。
「私もだ」
その声は、コスモスの使者のものだった。
だが、その奥に、ほんのかすかに父の声が残っていた。
お茶会は終わった。
だが、無駄ではなかった。




