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第42話 いのちの実

 魔女の森は、静かだった。


 ヴェネツィアの水音とは違う。


 王宮の雨音とも違う。


 白い船の軋む音とも違う。


 木々が息をし、土が湿り、遠くで鳥が鳴く。


 そのすべてが、何かを待っているようだった。


 桜夜たちは、教皇庁の協力者が用意した車を降り、森の入口に立っていた。


 道は細い。


 地図には載っていない。


 人が通るための道というより、森が許した者だけを奥へ通すための隙間に見えた。


 サイカは、胸元のロザリオをそっと握っている。


 リオは周囲の気配を確認しながら、森の構造を記録しようとしていた。


 ホムラは腕を組み、明らかに不機嫌な顔をしている。


「ここか」


「うん」


 サイカが小さく答えた。


「覚えているの?」


 桜夜が聞くと、サイカは首を傾げた。


「覚えてる、とは違うかも」


「違う?」


「でも、知ってる気がする」


 リオが静かに言う。


「わたくしも同じです。記録としてではなく、身体の奥が反応している感覚があります」


「オレは嫌な感じがする」


 ホムラは吐き捨てるように言った。


「でも、知らねえ場所じゃない」


 魔女の森。


 かつて、不死身の魔女がいた場所。


 ケイオスがいた場所。


 そして、三人の少女が生まれた場所。


 ここは避難所ではない。


 ただの戦場でもない。


 原点だった。


 桜夜は森を見上げた。


「行こう」


「桜夜さん」


 サイカが不安そうに見る。


「大丈夫?」


「大丈夫」


「本当?」


「たぶん」


「たぶんは大丈夫じゃないよ」


「サイカちゃんは鋭いね」


「見てるから」


 サイカはそう言って、桜夜の手を握った。


 その温度に、桜夜は少しだけ息を吐く。


 白い船に引かれているわけではない。


 だが、別のものが近い。


 この森は、魔女の森だ。


 そして魔女の森は、世界の端に近い。


 秩序と混沌。


 神と悪魔。


 生と死。


 人と人でないもの。


 それらの境目に、根を張っている。


 だからだろう。


 ここでは、普段は届かない声が届く気がした。


◇◇◇


 森の奥に、小さな家があった。


 石と木で作られた家。


 蔦が壁を這い、屋根には苔が生えている。


 古い。


 けれど朽ちてはいない。


 誰も住んでいないはずなのに、荒れ果ててもいない。


 まるで、家そのものが眠っていただけのようだった。


 サイカは扉の前で立ち止まった。


 リオも。


 ホムラも。


 三人は、しばらく何も言わなかった。


 桜夜も急かさなかった。


 ここは、彼女たちの場所だ。


 彼が先に踏み込んでいい場所ではない。


 最初に動いたのは、リオだった。


 彼女は扉に手を添え、静かに言った。


「ただいま戻りました」


 扉が、音もなく開いた。


 ホムラが小さく舌打ちした。


「家まで律儀かよ」


「ホムラちゃん」


「わかってる。入る」


 サイカは桜夜の手を握ったまま、一歩進んだ。


 桜夜は少し迷った。


「僕も入っていいのかな」


 三人が同時に振り返った。


 サイカは当たり前のように言う。


「桜夜さんも一緒」


 リオも頷く。


「ここであなた様を外に置く理由がありません」


 ホムラは顔をそらした。


「今さら他人ぶるな」


 桜夜は少し困ったように笑った。


「ありがとう」


 家の中は、静かだった。


 小さな居間。


 暖炉。


 丸いテーブル。


 古い椅子。


 壁にはいくつかの傷。


 棚には、使われていない茶器。


 窓辺には乾いた薬草の束。


 奥には寝室へ続く扉がある。


 生活の気配は遠い。


 けれど、完全に消えてはいない。


 ここで誰かが火を焚いた。


 ここで誰かが茶を入れた。


 ここで誰かが笑った。


 ここで、三人の少女が生まれた。


 桜夜は、部屋の真ん中に立った。


 不思議な感覚だった。


 彼はこの家を知らない。


 この家で過ごしたこともない。


 それでも、ここであったはずの時間が、壁や床や古いテーブルに薄く残っているのを感じる。


 不死身の魔女。


 ケイオス。


 三姉妹。


 失われた家族の形。


 それを思うと、少しだけ胸が痛んだ。


「ここで待つの?」


 サイカが聞いた。


「うん」


 桜夜は答えた。


「ケイオスは来る」


「来るでしょうね」


 リオが淡々と言う。


「世界意思の命令が下っている以上、父上は任務を遂行するはずです」


「父上、か」


 ホムラが嫌そうに呟いた。


「そう呼ぶなって言ったんだけどな」


「呼称の問題と、事実の問題は別です」


「わかってるよ」


 ホムラは乱暴に椅子を引き、座らずにまた戻した。


 落ち着かないらしい。


 桜夜は、窓の外を見た。


 森は静かだ。


 だが、静かすぎる。


「桜夜様」


 リオが問いかける。


「作戦は」


「まず、ここを戦場にしないこと」


「ここへ来ておいて?」


 ホムラが眉を上げる。


「戦場にはなる。でも、ただの戦場にはしない」


「どういう意味だよ」


「まだ考えてる」


「おい」


 桜夜は笑った。


 余裕そうに。


 穏やかに。


 まるで、客を待つ家の主のように。


 それは強がりだった。


 英国王への謁見を嫌がり、王室と四方院に追い詰められた男。


 天皇の招待から逃げたいあまりに、一騎当千の強さを見せた男。


 教皇と会いたくないと、最後まで駄々をこねた男。


 その水希桜夜が、神殺しの槍を持つケイオスを平然と待てるはずがない。


 鳳凰は眠っている。


 霊力も万全ではない。


 桜吹雪はあるが、抜けば森そのものを傷つけかねない。


 正直に言えば、今の桜夜の状態は、排除するには絶好の機会だと言えた。


 銃で一発撃たれただけでも、致命傷になりうる。


 それでも桜夜は笑っていた。


 逃げたい。


 ものすごく逃げたい。


 でも、ここで逃げれば、ケイオスは三人を追う。


 ならば、自分がここにいるしかない。


『弱いな』


 声がした。


 桜夜は目を細める。


 部屋にはサイカたちがいる。


 だが、今の声は彼女たちには聞こえていない。


 暖炉の中に、まだ火はない。


 それなのに、影だけが揺れた。


『フェニックスは眠っている。お前の身体は脆い。神殺しの槍を持つ男が来れば、次は天使が間に合うとは限らない』


「ご親切にどうも」


 桜夜は小さく答えた。


 サイカがすぐに反応する。


「桜夜さん?」


「大丈夫。嫌な知り合い」


「嫌な知り合い?」


「うん。かなり嫌な知り合い」


 桜夜は視線を暖炉の奥へ向けた。


 そこには何もいない。


 だが、声は確かにそこから響いている。


『力が欲しいか』


「ずいぶんと定番な問いだね」


 声は笑った。


 甘くはない。


 むしろ冷たい。


 だからこそ、嘘ではないとわかる。


『フェニックスの力を覚醒させてやろう』


 桜夜の指先が、わずかに冷えた。


『いのちの実を食べろ』


 サイカの手が、桜夜の袖を掴む。


 彼女には声そのものは聞こえていない。


 だが、桜夜の顔が変わったことには気づいていた。


『そうすれば、お前は神を殺す神になれる。不死身の騎士になれる』


「神を殺す神」


 桜夜は静かに繰り返した。


「ずいぶん悪趣味な言い方だ」


『正確な言い方だ』


 声は低く笑う。


 ルシフェル。


 かつて天使長であり、神に背き、悪魔となった者。


 そして、水希桜夜を作った者。


『お前は弱い。だが、完成すれば強い。フェニックス、桜吹雪、いのちの実。すべてを揃えれば、お前は世界の盤面から外されない』


「僕を利用する気満々だね」


『当然だ。お前はそのために作られた』


 桜夜は笑った。


 笑ったまま、指先だけが冷えた。


 リオが静かに近づく。


「外部干渉ですか」


「たぶん。通信じゃない。領域が近いんだと思う」


「ルシフェルですね」


「正解」


 ホムラが暖炉を睨んだ。


「そいつ燃やせねえのか」


「燃やせたら苦労しないかな」


『水希桜夜。お前は守りたいのだろう』


「うん」


『ならば食え』


「それを食べた僕は」


 桜夜は、ゆっくりと問い返した。


「あの子たちのところへ帰れるの?」


 声は、すぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、十分だった。


「答えられないなら、いらない」


『愚かだな』


「よく言われる」


『死ぬぞ』


「それもよく言われる」


『守れないぞ』


 その言葉だけは、痛かった。


 桜夜は目を伏せる。


 サイカが、桜夜の手を握った。


「桜夜さん」


「うん」


「こっち見て」


 桜夜はサイカを見た。


 サイカの目は、少し不安そうだった。


 でも逸らさなかった。


「帰ってきて」


 その一言で、桜夜の胸の奥に、現実の重さが戻る。


 リオが言う。


「桜夜様。力を得ることと、帰還できることは同義ではありません」


 ホムラも低く言った。


「帰れねえ力なんか、捨てろ」


 桜夜は、手の温度を確かめた。


 帰る場所がある。


 なら、帰れなくなる力はいらない。


「ルシフェル」


『何だ』


「僕は、神を殺す神にはならない」


 桜夜は静かに言った。


「僕は、水希桜夜で帰る」


 暖炉の影が、大きく揺れた。


 声はしばらく沈黙し、それから低く笑った。


『ならば、死ぬなよ。失敗作』


「あなたに言われると腹が立つね」


『褒め言葉だ』


「たぶん違う」


 声は消えた。


 森の奥で、何かが遠ざかる気配がした。


 桜夜は、長く息を吐いた。


「ふう」


 悪魔の誘惑を退けた者は、覚醒する。


 そんな話を、どこかで聞いたことがある。


 釈迦も、キリストも、悪魔に試され、それを退けて道を定めたらしい。


 だが、水希桜夜には何も起きなかった。


 身体の奥から光が溢れることもない。


 鳳凰が目覚めることもない。


 神に近づくこともない。


 ただ、しんどいだけだった。


 失敗作には、どうやらそれくらいが相応しいらしい。


「桜夜さん、大丈夫?」


「大丈夫」


「大丈夫な人のため息じゃなかった」


「鋭いね」


「見てるから」


 桜夜は少しだけ笑った。


 その時、不意に思い出した。


 不死身の魔女。


 かつて、彼女は桜夜をお茶会に誘った。


 森の奥。


 小さな家。


 テーブル。


 紅茶。


 菓子。


 命を巡る異常な話でさえ、彼女は茶を出してから始めた。


 それが魔女の流儀なら。


 この森で、三人の父を迎えるのなら。


 自分も、そうするべきなのだろう。


 桜夜は顔を上げた。


「三人とも」


「何?」


 ホムラが腕を組んだまま聞く。


「魔女のお茶会の準備をお願い」


 三人が、同時に桜夜を見た。


 サイカは目を丸くし、リオは一瞬だけ言葉を失い、ホムラは露骨に顔をしかめた。


「は?」


「お茶会」


「今から?」


「うん」


「ケイオスが来るかもしれねえんだぞ」


「だから」


 桜夜は立ち上がった。


「ここは、君たちのお母様の森で、君たちが生まれた家だ。なら、ただの戦場にはしない方がいい」


 ホムラは言い返そうとして、口を閉じた。


 リオが静かに頷く。


「母の流儀で迎える、ということですね」


「たぶん」


「たぶんですか」


「僕は魔女じゃないから」


「ですが、学んではいます」


 リオは少しだけ微笑んだ。


「承知しました。食器を確認します」


「わたし、クッキーとケーキ探す」


 サイカも立ち上がる。


「ホムラちゃんは?」


「護衛だろ」


 ホムラは不機嫌そうに言った。


「あと、火は任せろ」


「ありがとう」


「礼言うな。ムカつく」


 それぞれが動き出すと、小さな家の空気が少し変わった。


 怯えだけではなくなる。


 準備。


 もてなし。


 迎え撃つための、静かな作業。


 リオは古い食器棚からカップを選んだ。


 サイカは保存箱から焼き菓子を探し出した。


 ホムラは暖炉の火を整え、ついでに家の周囲の気配を探った。


 桜夜は荷物の中を確認していた。


 そこで見慣れない箱を見つけた。


 深い緑の箱。


 金の紋章。


 英国王室御用達の印。


 桜夜はしばらく沈黙した。


 中には、最高級の茶葉が入っている。


 さらに、小さなカードもあった。


 流麗な筆跡で、日本語が書かれている。


 友よ。


 英国の危機管理とは、よい茶葉を切らさぬことだ。


 桜夜は額を押さえた。


「リチャード……」


「どうされましたか」


 リオが近づく。


「英国王室御用達の茶葉が入ってた」


「なぜですか」


「リチャードだから」


「納得できてしまうのが困りますね」


「本当にね」


 結局、その茶葉を使うことになった。


 湯を沸かし、ポットを温める。


 茶葉を入れる。


 湯を注ぐ。


 香りが広がる。


 ミルクを用意する。


 魔女の森の小さな家に、英国のミルクティーの香りが満ちていく。


 それは奇妙な取り合わせだった。


 だが、不思議と悪くなかった。


◇◇◇


 庭にテーブルを出した。


 森は深く、夕暮れの光は木々の間で細かく砕けている。


 テーブルクロスをかけ、カップを並べ、菓子を置く。


 サイカが小さな花を摘んできて、グラスに挿した。


 リオが配置を整えた。


 ホムラは庭の端に立ち、森の奥を睨んでいる。


 桜吹雪は、桜夜のすぐ手が届くところに置いた。


 鞘に入ったまま。


 だが、いつでも抜ける位置に。


 桜夜が椅子を引こうとした時、視線を感じた。


 森の奥。


 木の枝。


 茂み。


 石の上。


 動物たちが集まっていた。


 鹿。


 狐。


 兎。


 小鳥。


 それらは森の住人だった。


 自然の中で生き、生態系の中で循環するものたち。


 つまり、大きな意味では秩序の側にいる存在だ。


 森は、桜夜たちの味方ではない。


 森は自然であり、循環であり、システムだ。


 世界意思が排除対象と定めた水希桜夜を、守る義理はない。


 三人の少女を、秩序の決定から庇う理由もない。


 それでも、動物たちは見ていた。


 とくに、烏たちが目立った。


 黒い翼。


 枝に並ぶ無数の目。


 彼らはただの鳥ではない。


 古くから魔女の眷属であり、八咫烏の末に連なるものたち。


 導く鳥。


 境を越える鳥。


 名を呼ばれた者の道を示す鳥。


 桜夜と鳳凰を導いた八咫烏の気配が、その奥にほんの少しだけある。


 そして、なぜかアヒルがいた。


 白く丸い体。


 偉そうな立ち姿。


 水辺でもないのに、当然のようにそこにいる。


 一羽ではない。


 何羽もいる。


 しかも、全員妙に堂々としている。


 桜夜はそのアヒルたちを見て、目を細めた。


 かつての出雲。


 神々の集い。


 八咫烏。


 そして、皇帝を名乗る変なアヒル。


 ある平行世界で人間に反旗を翻し、自分たちの国と皇帝を手に入れたという、妙な一族。


 その皇帝は、水希桜夜を友達だと思っている。


 蹴られたけど、と言っていた。


「……あなたたち」


 烏は鳴かない。


 アヒルも鳴かない。


 ただ、見ている。


「援軍のつもりですか? 客人のつもりですか?」


 返事はなかった。


 烏が首を傾げる。


 アヒルは胸を張った。


 どう見ても偉そうだった。


 桜夜は深くため息をつく。


「招待状は出していないんですが」


 やはり返事はない。


 サイカが桜夜の袖を引いた。


「桜夜さん」


「うん?」


「座って」


「僕が?」


「うん。主の席」


「ここは僕の家じゃないよ」


「でも、今は桜夜さんが迎えるんでしょ」


 桜夜は困ったように笑った。


 だが、サイカの目は真剣だった。


 リオが静かに椅子を引く。


「お座りください、桜夜様」


「リオちゃんまで」


「母の流儀で迎えるなら、席には意味があります」


「僕は魔女ではないんだけど」


「ですが、この場を預かる方です」


 ホムラが庭の端から言った。


「いいから座れ。落ち着かねえ」


「僕が座ると落ち着くの?」


「少なくとも、うろうろされるよりマシだ」


「厳しい」


 桜夜は諦めて、主の席に座った。


 リオは反対側、女主人の席に座る。


 サイカはポットを持ち、給仕の位置に立つ。


 ホムラは庭の端で、護衛として森を見る。


 桜夜は、その配置を眺めた。


 不思議だった。


 戦いを待っているはずなのに、お茶会の形になっている。


 招待状は出していない。


 客が誰かもわからない。


 それでも、茶は用意された。


 菓子もある。


 席もある。


 森の動物たちも、なぜか見ている。


 これは、戦場ではない。


 少なくとも今は。


 不死身の魔女から学んだ、もてなし方だった。


 リオが静かに紅茶を注ぐ。


 サイカがそれを配る。


 ホムラは森の奥を睨んだまま、低く言った。


「来るぞ」


 森の空気が変わった。


 鳥が鳴き止む。


 鹿が木陰へ下がる。


 狐が尾を低くする。


 烏たちだけは動かない。


 アヒルたちも、なぜか胸を張ったままだ。


 桜夜はカップを手に取った。


 香りを確かめる。


 英国王室御用達の茶葉は、悔しいほど良い香りだった。


「それでは」


 桜夜は静かに言った。


「招かれざる客を迎えましょう」


 森の奥で、空間が歪んだ。


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