表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/76

第41話 夢告

 咲夜は、世界の向きが変わる音を聞いた。


 音、と呼ぶには静かすぎる。


 声、と呼ぶには遠すぎる。


 けれど確かに、何かが決まった。


 世界意思には、過去も現在も未来もない。


 世界意思は、常に世界を見ている。


 世界が壊れないこと。


 世界が続くこと。


 世界が自分自身を保つこと。


 そのためなら、ひとりの名も、ひとつの約束も、ひとりの父の帰り道も、簡単に秤へ乗せる。


 咲夜には、それがわかった。


 なぜなら咲夜は、常に父のことを考えているからだ。


 世界意思が世界を見ているように。


 咲夜は、水希桜夜を見ている。


 だから気づけた。


 世界の刃が、父へ向いたことに。


「だめ」


 咲夜は小さく呟いた。


 すぐに瞑想の間へ走る。


 そこは夜の底のような部屋だった。


 壁は黒く、天井には星のような小さな光が散っている。


 床の中央には水盤があり、水面には無数の夢が浮かんでいた。


 過去の夢。


 現在の夢。


 まだ誰も眠っていない未来の夢。


 名前を持つ夢。


 名前を失いかけた夢。


 誰かの祈りが、泡のように浮かび、消え、また別の時代へ流れていく。


 咲夜はその前に座り、目を閉じた。


「パパ」


 父の夢を探す。


 水希桜夜の夢。


 白い船に近づきすぎた夜。


 誰かに呼び戻された夜。


 眠れずに天井を見ていた夜。


 咲夜はそのすべてを知っているわけではない。


 知ってはいけないことも多い。


 それでも、父の気配なら探せる。


 父は、いつもどこかで困っている。


 いつもどこかで逃げたがっている。


 いつもどこかで、それでも誰かの前に立っている。


 だから見つけられるはずだった。


 だが、見つからない。


 別の時間軸。


 別の夜。


 別の可能性。


 どこを探しても、ちょうどいい水希桜夜は眠っていなかった。


 咲夜は頬を膨らませた。


「パパ、寝て」


 文句を言っても、父は眠らない。


 それもまた、水希桜夜らしかった。


 困った父だ。


 とても困った父だ。


 未来の娘が夢の中から助けようとしているのに、その父が眠っていない。


 咲夜は水盤の前で腕を組んだ。


 このまま待っていては遅い。


 世界意思の決定は、もう下っている。


 コスモスの命令は動く。


 ケイオスは来る。


 父はきっと、逃げない。


 自分の命だけなら絶対に逃げない。


 サイカたちが狙われていると知れば、なおさら逃げない。


 ならば、逃げる理由を与えなければならない。


 父が逃げてもいい理由。


 父が、自分の弱さではなく、誰かを守るためだと思える理由。


 咲夜は父の夢を諦めた。


 諦めたくはなかったが、父は眠らないのだから仕方がない。


 ならば、父の周りにある縁を探す。


 サイカ。


 リオ。


 ホムラ。


 近すぎる。


 白い船にも、世界意思にも、ケイオスにも触れられやすい。


 ガブリエル。


 強すぎる。


 天上の光は、夢渡りには眩しすぎる。


 玄武。


 危ない。


 あの老人の夢に入るのは、夢の中でも避けたい。


 リチャード。


 面白そうだが、絶対に話が長くなる。


 咲夜は、いくつもの縁を避け、選び直し、ようやくひとつの夢へ手を伸ばした。


 ヴァチカン。


 祈る老人。


 父と密かに回線を共有した、新しい協力者。


 優しさと強さを持った、おじいちゃん。


「うん」


 咲夜は頷いた。


「おじいちゃんにしよう」


 水盤の夢が揺れた。


 星のような光が、水面に落ちる。


 咲夜はその中へ、そっと手を差し入れた。


◇◇◇


「起きて、おじいちゃん」


 夢の中で、ヨハネ・パウロ三世は目を開いた。


 そこは、ヴァチカンの寝室ではなかった。


 聖堂でもない。


 星のない夜のようで、夜桜の下のようでもある、不思議な場所だった。


 足元には浅い水が張っている。


 空には何もない。


 けれど、水面には無数の小さな光が映っていた。


 その中央に、ひとりの少女が立っている。


 黒い髪。


 桜夜にどこか似た目。


 そして、いたずらを思いついた子どものような笑み。


「おじいちゃん?」


 教皇は静かにほほ笑んだ。


「私は、パパと呼ばれることはありますが、グランパと呼ばれたのは初めてです」


「でもおじいちゃんだよ?」


「それは、老いて見えるという意味でしょうか」


「えっと、やさしそうって意味」


「それなら、ありがたく受け取っておきましょう」


 少女は満足そうに頷いた。


 教皇は、彼女を見つめる。


 夢の中であるにもかかわらず、その輪郭は妙にはっきりしていた。


 ただの夢ではない。


 啓示とも違う。


 天使の訪れでもない。


 もっと個人的で、もっと切実なもの。


「では、あなたにとってのパパは?」


「パパはパパだけだよ」


 少女は即答した。


「咲夜にとって、パパはパパだけだから」


 その名を聞いた瞬間、教皇の表情がわずかに変わった。


「咲夜」


「うん」


「あなたは、水希桜夜に連なる者ですね」


「未来のことを言いすぎると、パパに怒られるから言わない」


「彼は怒るでしょうか」


「困る」


「なるほど。それは彼らしい」


 教皇は小さく息を吐いた。


 そして、少女へまっすぐ向き直る。


「では、咲夜。あなたは私に何を告げに来たのですか」


 咲夜の笑みが、少しだけ消えた。


 夢の夜桜が、風もないのに揺れる。


「世界が、パパを殺すって決めた」


 教皇は沈黙した。


 老いた目の奥に、静かな緊張が灯る。


「世界、とは」


「世界意思。コスモス。ホメオスタシス。言い方はいろいろあるけど、パパを秤に乗せたもの」


「水希桜夜は、排除対象になったのですね」


「うん」


 咲夜は頷く。


「パパだけじゃない。サイカ、リオ、ホムラも」


 教皇の眉がわずかに動いた。


「魔女の子たちも」


「回収。だめなら排除」


「誰が来ますか」


「ケイオス」


 その名に、夢の水面が黒く揺れた。


「三人のお父さん。コスモスの使者。罪の神器を持っている」


「ヴェネツィアで悪魔と天使が降臨した可能性があると調査官のひとりが言っていましたが、それは前触れでしたか」


「うん。次はもっとちゃんと来る」


 教皇は目を伏せた。


 短く、内側で祈ったようだった。


 だが、咲夜は待たない。


 時間がない。


「おじいちゃん、パパに伝えて」


「直接、彼に伝えられないのですか」


「パパ、寝てない」


 咲夜は不満そうに言った。


 教皇は、ほんの少しだけ困ったように笑った。


「それもまた、彼らしい」


「笑い事じゃないよ」


「ええ。失礼しました」


「それに、直接言いすぎると、パパの選ぶ道が変わりすぎるかもしれない。未来を押しつけたくない。だから、おじいちゃんから伝えて」


「私は、彼に何を伝えればよいのでしょう」


「ヴェネツィアで戦わないで」


 咲夜は即答した。


「あそこはきれいな街。人がたくさんいる。パパは、巻き込みたくないって思えば動く」


「逃げなさい、と?」


「パパは自分のためには逃げない」


「でしょうね」


「だから、逃げる理由をあげて」


 咲夜は教皇を見上げる。


「ヴェネツィアを守るために、移動してって」


「どこへ」


「魔女の森」


 夢の水面に、深い森が映った。


 小さな家。


 古い木々。


 鳥の影。


 忘れられた道。


 そして、三人の少女が生まれた場所。


「不死身の魔女がいた森。ケイオスと三人がいた家。あそこなら、ヴェネツィアを巻き込まない」


「罠ではありませんか」


「罠にもなる」


 咲夜は正直に言った。


「でも、戦場を選べる。あそこは、ケイオスにとってもただの場所じゃない。サイカたちにとっても、ただの逃げ場所じゃない」


「原点へ戻るのですね」


「うん」


 咲夜の表情が、少しだけ父に似た。


「パパは、きっと迷う。でも、三人が行くって言えば行く。だから、伝えて」


 教皇は、深く頷いた。


「承りました」


「あと」


「まだありますか」


「パパに、ちゃんと寝てって言って」


 教皇は今度こそ、少しだけ笑った。


「それは最も難しい命令かもしれません」


「知ってる」


 咲夜も少し笑った。


 だが、その笑みはすぐに薄れる。


「おじいちゃん」


「はい」


「パパをお願い」


 教皇は、しばらく少女を見つめた。


 世界中の信徒から聖なる父と呼ばれる老人は、その時、ひとりの少女から未来の父を託されていた。


 彼は静かに答える。


「できる限りのことをします」


「できる限りじゃなくて」


 咲夜は少しむっとした。


「ちゃんとして」


 教皇は目を細めた。


「それは、厳しいお願いですね」


「娘だから」


「なるほど」


 教皇は、右手を胸に当てた。


「では、咲夜。私は、あなたの父を助けるために動きます」


「うん」


「あなたの父が、彼自身の名で帰れるように」


 咲夜は、ようやく安心したように笑った。


 夢の夜桜が揺れる。


 水面の光がほどけていく。


「ありがとう、おじいちゃん」


 その声を最後に、夢は白ではなく、静かな夜の色へ溶けた。


◇◇◇


 ヨハネ・パウロ三世は、飛び起きた。


 ヴァチカンの寝室は暗い。


 窓の外には夜がある。


 誰もいない。


 だが、夢の中の少女の声は、まだ耳の奥に残っていた。


 世界が、パパを殺すって決めた。


 教皇は寝台から降りた。


 老いた身体には、急な動きが少し堪えた。


 だが、構っている時間はない。


 彼はまず、短く祈った。


「主よ」


 それだけだった。


 長い祈りではなかった。


 今は、祈りだけで終える時ではない。


 祈りながら動く時だった。


「これが御心に背かぬ働きであるなら、私の手をお使いください」


 教皇は立ち上がり、机へ向かった。


 引き出しを開ける。


 そこには、通常の通信端末とは別に、古い紙片が一枚だけ入っていた。


 先日の会談の時、水希桜夜と交わしたものだ。


 リオにも気づかれないよう、慎重に共有した連絡方法。


 リオを信用していなかったわけではない。


 むしろ、信用していたからこそ記録に残したくなかった。


 記録されれば、どこかで読まれる。


 読まれれば、利用される。


 桜夜も、それを理解していた。


 教皇も理解していた。


 だから二人は、祈りの言葉と聖句の引用の陰に、小さな回線を隠した。


 神の家で、祈りに似た隠し事をした。


 それが罪であるなら、今はその罪も使うしかない。


 教皇は紙片を開いた。


 短い聖句。


 その中に、別の意味が織り込まれている。


 老人は深く息を吸い、回線を開いた。


◇◇◇


 ヴェネツィアの小さな家で、桜夜は眠っていなかった。


 当然のように。


 サイカも眠っていない。


 リオも眠っていない。


 ホムラも眠っていない。


 部屋の中央には、鞘に入った桜吹雪がある。


 夜は深い。


 水路の灯りが、窓の外で揺れていた。


 桜夜は椅子に座り、桜吹雪を見ていた。


 怖い。


 危険だ。


 それでも、ないともっと怖い。


 そういう刀だった。


 その時、端末ではない場所から、小さな音がした。


 紙をめくるような音。


 あるいは、祈りの頁が開かれるような音。


 桜夜は顔を上げた。


 リオがすぐに反応する。


「桜夜様?」


「大丈夫」


「通信ですか」


「たぶん」


「どこから」


 桜夜は少し困った顔をした。


「ヴァチカン」


 リオの眉がわずかに動く。


「わたくしの記録には、その回線はありません」


「うん。記録に残さなかったから」


「桜夜様」


「怒るのは後でお願い」


 リオは何か言いたそうだったが、今は抑えた。


 桜夜は回線を開く。


 聞こえてきたのは、老人の静かな声だった。


『水希桜夜』


「聖下」


『眠っていませんでしたね』


「そちらこそ」


『老人は眠りが浅いのです』


「僕は眠るのが下手です」


『存じています』


 その穏やかなやり取りの奥に、緊張があった。


 桜夜はすぐに気づいた。


「何がありました」


『夢を見ました』


「夢」


『あなたに連なる少女が、私を訪ねてきました』


 桜夜は一瞬、言葉を失った。


「咲夜」


 声に出してから、少しだけ額を押さえた。


 未来の娘にまで心配される父親とは、いったいどうなのか。


 いや、まだ父親になっていない。


 ややこしい。


『彼女は、私をおじいちゃんと呼びました』


「本当にすみません」


『不思議な体験でした』


「重ねてすみません」


『謝罪は後で結構です。彼女は急いでいました』


 教皇の声が低くなる。


『世界意思が決定を下した、と』


 部屋の空気が変わった。


 サイカが桜夜を見る。


 リオが姿勢を正す。


 ホムラが壁から身を離す。


 桜夜は静かに聞いた。


「内容は」


『第一に、水希桜夜の排除』


 サイカの息が止まった。


 ホムラが低く唸る。


 リオの表情が冷える。


 桜夜は少しだけ目を伏せた。


「まあ、そうでしょうね」


「そうでしょうねじゃねえだろ」


 ホムラが怒鳴りかける。


 桜夜は手で制した。


『第二に、不死身の魔女の忘れ形見三名の回収。回収不能の場合、排除』


 その言葉は、部屋の中心に落ちた。


 サイカは両手を握った。


 リオは顔色を変えない。


 だが、指先がわずかに震えている。


 ホムラは拳を握りしめた。


「ふざけんな」


 低い声だった。


『ケイオスが動きます』


「でしょうね」


『ヴェネツィアで戦ってはいけない、と咲夜は言いました』


 桜夜は窓の外を見た。


 夜の水路。


 古い街。


 美しい石造りの建物。


 人の暮らし。


 食事の匂い。


 笑い声。


 舟の音。


 ここで、罪の神器同士がぶつかればどうなるか。


 考えるまでもない。


 桜夜は、すぐに答えた。


「同感です」


『退避先として、魔女の森を示されました』


 サイカが顔を上げた。


 リオの目が細くなる。


 ホムラが固まった。


 魔女の森。


 不死身の魔女がいた場所。


 ケイオスがいた場所。


 三人が生まれた場所。


 桜夜は三人を見た。


 すぐには何も言えなかった。


「……そこは」


 サイカが小さく言う。


「わたしたちの」


「家、だった場所ですね」


 リオが引き継いだ。


 ホムラはしばらく黙っていた。


 それから、吐き捨てるように言った。


「あいつが来るなら、あそこでいい」


「ホムラちゃん」


「あそこは、あいつだけの場所じゃねえ」


 ホムラは桜夜を見た。


「ばばあがいた場所だ。オレたちがいた場所だ。あいつの命令で踏み荒らされるくらいなら、こっちから戻る」


 リオも頷いた。


「同意します。あそこは、父上だけの場所ではありません」


 サイカは少し震えていた。


 それでも、桜夜を見て言った。


「怖い」


「うん」


「でも、知らない街で待つより、知ってる怖さの中に行く」


 桜夜は、三人を見た。


 反対したかった。


 そこへ行けば、三人はより深く父と向き合うことになる。


 母の記憶にも触れる。


 傷も開く。


 だが、ここに残れば、ヴェネツィアが巻き込まれる。


 ケイオスは来る。


 コスモスの命令は、もう下っている。


 戦場を選べるなら、選ぶべきだ。


 桜夜は教皇へ向き直った。


「聖下」


『はい』


「魔女の森への移動経路を確保できますか」


『できます』


 即答だった。


「早いですね」


『夢を聞いた時点で手配を始めています』


「祈りながら動く方でしたね」


『祈りだけでは、あなたは逃げないでしょう』


「否定しづらいです」


『咲夜も、そう言っていました』


 桜夜は額を押さえた。


 未来の娘に行動を読まれている。


 かなり複雑だった。


『彼女から、もう一つ伝言があります』


「何でしょう」


『ちゃんと寝て、とのことです』


 部屋の中の空気が、一瞬だけ止まった。


 サイカが、少しだけ笑った。


 リオも目を伏せる。


 ホムラは鼻を鳴らした。


「未来の娘の方がよくわかってんじゃねえか」


「まだ未来の娘と決まったわけでは」


「パパって呼ばれてんだろ」


「それは」


 桜夜は言葉に詰まった。


 教皇が、回線の向こうで静かに言う。


『水希桜夜』


「はい」


『あなたは、眠るのが下手です』


「はい」


『逃げるのも下手です』


「それは少し心外です。僕は儀礼から逃げるのは得意です」


『しかし、本当に逃げるべき時には逃げない』


 桜夜は黙った。


『今回の移動は、逃亡ではありません。戦場の選択です』


 その言葉は、桜夜の中にすとんと落ちた。


 逃げるのではない。


 ヴェネツィアを守るために、戦う場所を選ぶ。


 そう言われれば、動ける。


 咲夜はそれを知っていた。


 教皇も知っていた。


 桜夜は小さく息を吐いた。


「わかりました」


『夜明け前に出てください。手配はこちらで行います』


「ありがとうございます」


『神の御加護を』


「僕にですか」


『あなたにも。サイカ、リオ、ホムラにも。ヴェネツィアにも。そして、ケイオスにも』


 桜夜は少しだけ目を細めた。


「ケイオスにも」


『彼もまた、道を誤った父かもしれません』


「優しいですね」


『そうありたいと祈っています』


 回線が静かに閉じた。


 部屋には、再び水音だけが戻った。


◇◇◇


 夜明け前。


 ヴェネツィアはまだ眠っていた。


 空は深い青。


 水面には、街灯の光が細く揺れている。


 桜夜たちは荷物をまとめた。


 観光の荷物は少ない。


 だが、桜吹雪だけは桜夜の手元にある。


 今回は離さない。


 ガブリエルに言われたからではない。


 自分で必要だと判断したからだ。


 サイカは、教皇からもらった白と透明のロザリオを胸元にしまった。


 リオは資料と記録端末を最小限にまとめた。


 ホムラは不機嫌そうに、しかし手際よく荷物を背負った。


 家を出る前、桜夜は一度だけ部屋を見回した。


 四人で一つのベッドに無理やり眠ろうとした部屋。


 白いシーツが、白い船ではないと確かめた部屋。


 水の都で、少しだけ平和な時間を過ごした場所。


 短い滞在だった。


 それでも、惜しいと思った。


「きれいな街だったね」


 サイカが言った。


「うん」


 桜夜は頷く。


「だから、ここでは戦わない」


 リオが静かに言う。


「移動経路、確認済みです。教皇庁側の協力者が水路で待っています」


「さすが聖下」


「そして、さすが桜夜様です」


「僕?」


「教皇と秘密回線を作るなど、普通はできません」


「怒ってる?」


「少し」


「後で聞きます」


「必ず」


 ホムラが扉を開けた。


「行くぞ」


「うん」


 四人は小さな家を出た。


 水路には、目立たない舟が一艘待っている。


 船頭は何も言わず、ただ一礼した。


 ヴェネツィアの朝は、まだ始まっていない。


 舟が静かに水面を進む。


 石の橋をくぐり、古い建物の影を抜ける。


 サイカは桜夜の隣に座っている。


 リオは前方を確認している。


 ホムラは後ろを警戒している。


 桜夜は、街を振り返った。


 水の都。


 沈みゆくかもしれない美しい街。


 明人なら、きっと好きになった街。


 ここで戦わない。


 ここを、罪の神器の戦場にしない。


 そのために離れる。


 逃げるのではない。


 戦場を選ぶ。


 桜夜は自分にそう言い聞かせた。


 遠く、朝の光が水面に差し始める。


 白ではない。


 白い船の白ではない。


 夜明けの光だった。


◇◇◇


 遠い森の奥で、古い結界が揺れた。


 それは、教会の祈りではない。


 天使の光でもない。


 神の秩序でもない。


 魔女の森に残る、古い流儀。


 招かれた者を迷わせず。


 招かれざる者を迷わせる。


 母がかつて娘たちのために張った、柔らかく、頑固な結界。


 その結界が、三人の娘の帰還を感じ取る。


 サイカ。


 リオ。


 ホムラ。


 そして、その隣にいる水希桜夜。


 森は、まだ何も語らない。


 ただ、葉を揺らした。


 まるで、長い眠りから目を覚ますように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ