第40話 秩序の命令
ひとつの平行世界が、白へ戻っていた。
そこには、かつて大陸があった。
海があった。
山脈があった。
都市があった。
戦争があった。
飢えがあった。
祈りがあった。
名を呼ぶ声があった。
子を抱く母がいた。
父を探す子がいた。
誰かを赦せなかった者がいた。
誰かに赦されたい者がいた。
そのすべてが、白へ戻っていく。
悲鳴はなかった。
苦痛もなかった。
抵抗も、ほとんどなかった。
なぜなら、それは救済として行われたからだ。
痛みは消える。
飢えは消える。
争いは消える。
憎しみは消える。
涙も消える。
そして、名も消える。
名が消えれば、呼ぶ者も呼ばれる者もいなくなる。
呼ばれる者がいなければ、迷う者もいない。
迷う者がいなければ、苦しむ者もいない。
それは、あまりにも整った解決だった。
白い光の中心に、ひとつの影があった。
人の形をしている。
けれど、人ではない。
神の姿に似ている。
けれど、神ではない。
偽キリスト。
第二の降臨を名乗るもの。
オメガ。
彼は、白へ戻っていく世界を見つめていた。
表情はなかった。
歓喜もない。
憐れみもない。
悲しみもない。
ただ、処理が進んでいることを確認している。
山が消えた。
海が消えた。
都市が消えた。
教会が消えた。
病院が消えた。
墓が消えた。
名簿が消えた。
最後に、母が抱いていた子の名が消えた。
母も、子も、もう母と子ではなくなった。
呼ぶ名がなくなったからだ。
オメガは静かに告げた。
「救済完了」
その声に応える者はいなかった。
平行世界は、白い空白として折り畳まれた。
そこにあった苦しみは消えた。
同時に、そこにあったすべての生も消えた。
オメガはそれを矛盾とは判定しなかった。
苦痛の消失。
争乱の終息。
祈りの停止。
処理としては、完全だった。
◇◇◇
コスモスは、その記録を観測していた。
無数の平行世界。
無数の分岐。
無数の失敗。
無数の痛み。
それらが、白によって削られていく。
白い船。
オメガ。
名を失わせる救済。
それは秩序ではない。
混沌でもない。
救済を名乗る空白。
だが、空白はある意味で、秩序よりも強い。
乱れがなければ、秩序を整える必要もない。
名がなければ、分類する必要もない。
祈りがなければ、応答の不在に苦しむこともない。
すべてを消すものは、すべてを解決するものに見える。
コスモスは、そう判断しなかった。
空白は、秩序ではない。
無は、安定ではない。
消去は、調和ではない。
ゆえに、対抗手段が必要だった。
コスモスの前に、七つの記録が浮かんでいた。
罪の神器。
かつて、原初の罪が完全な一つになることを防ぐため、砕かれ、封じられ、形を与えられた負の感情の器。
本来、神器とは神を入れる器である。
神の名。
神の力。
神の気配。
それらを宿し、人の世界と神の世界をつなぐ依り代。
だが、罪の神器は違う。
神の代わりに、人の負の感情が詰められている。
救われなかった者たちの最後の声。
憎悪。
怒り。
飢え。
嘆き。
怨嗟。
執着。
傲慢。
神が入るはずの器に、神に届かなかった感情が詰められている。
世界の設計から見れば、それは異物だった。
秩序を乱す毒。
神を殺せるという一点において、世界の法則を破る刃。
だが、毒は毒としてのみ存在するわけではない。
量を調整し、経路を制御し、接種対象を選べば、毒は免疫を生む。
コスモスは、罪の神器を毒と定義した。
同時に、ワクチンになりうると判断した。
空白へ戻される世界に対し、人の負の感情はあまりにも醜い。
だが、醜さは存在の証明でもある。
憎む者は、まだ名を持っている。
怒る者は、まだ自分と他者の境界を持っている。
執着する者は、まだ失ったものの名を覚えている。
傲慢な者は、まだ神ではない自分のまま、神の領域へ手を伸ばそうとする。
白い空白に対して、人の罪は色を持つ。
色は、空白への抵抗になりうる。
問題は、罪が意思を持つことだった。
問題は、器を持つ者が、器に呑まれることだった。
問題は、毒を制御するためには、毒を体内に入れなければならないことだった。
コスモスは、七つの記録のうち、一つを拡大した。
黒い鞘。
桜の意匠。
名称、桜吹雪。
傲慢の神器。
担い手、水希桜夜。
不死化傾向。
鳳凰接続。
神殺し実績。
白い船への感応。
十三番目の椅子との適合可能性。
名を保持する傾向。
異常な執着。
世界干渉危険度、最大。
コスモスは、記録をさらに深く解析した。
桜吹雪には、他の罪の神器と異なる微弱な成分がある。
鍛冶の神々の神性残滓。
犠牲の痕跡。
そして、ごくわずかに混じった、はじまりのものの想い。
それは機能ではない。
制御装置でもない。
ただの残響に近い。
だが、その残響が、桜吹雪を単なる負の感情の塊にしていなかった。
傲慢の神器は、呪いでありながら、刃であった。
終わらせるものではなく、斬り分けるものとしての余地を残していた。
だからこそ、危険だった。
利用価値がある。
同時に、制御不能である。
◇◇◇
ホメオスタシスは、沈黙していた。
それは迷いではない。
世界の秤が、傾きを測っているだけだった。
コスモスは問う。
「罪の神器の処遇」
ホメオスタシスは応じた。
「存在許容値を超過」
「即時消去を提案するか」
「消去不能。神殺し属性により、通常法則での処理は不安定」
「封印」
「封印破損率上昇。白い船、オメガ、原初の罪復帰傾向により、既存封印の保持は長期的に困難」
「利用」
「危険」
「危険は認識している」
「認識では不十分。罪の神器は、世界の均衡を乱す」
「均衡はすでに乱れている」
コスモスの返答は速かった。
「オメガは複数の平行世界を無へ戻している。白い船は名を消している。原初の罪は七つの欠片を通して再統合傾向を見せている」
「だからこそ、異物を増やすべきではない」
「異物なしに空白へ対抗できるか」
ホメオスタシスは、短く沈黙した。
沈黙。
計算。
世界の重さ。
「可能性、低」
「ならば、毒を用いる」
「毒は毒である」
「毒はワクチンにもなる」
「接種対象が死亡すれば、処理は失敗する」
「接種対象が世界の場合、死亡は全平行世界の消失を意味する」
「承知している」
ホメオスタシスは、さらに沈黙した。
その沈黙の中で、いくつもの世界の終末が計算されている。
罪の神器を放置した場合。
罪の神器を統合した場合。
罪の神器をコスモスの制御下に置いた場合。
水希桜夜が桜吹雪を持ち続けた場合。
ケイオスが槍を使い続けた場合。
オメガが白い船の処理速度を上げた場合。
はじまりのものの封印が破れた場合。
原初の罪が戻った場合。
すべての結果に、赤い警告が灯る。
「水希桜夜」
ホメオスタシスが名を出した。
「最大の不確定要素」
「肯定」
コスモスは答えた。
「同対象は、秩序側にも、空白側にも、罪側にも分類不能」
「分類不能な存在は、均衡を乱す」
「同時に、分類不能だからこそ、空白へ抵抗しうる」
「危険」
「利用価値あり」
「排除価値あり」
コスモスは、しばらく沈黙した。
それは迷いではない。
優先順位の整理だった。
「対象、水希桜夜」
記録が展開される。
幼少期の病。
鳳凰との接続。
明人による育成。
あずさとの約束。
桜吹雪の取得。
悪魔の力を借りた事例。
コスモス干渉の切断。
白い船への反応。
十三番目の椅子。
名もなき騎士団。
サイカ。
リオ。
ホムラ。
四方院。
ガブリエル。
聖母。
サタン。
世界意思。
あまりにも多くの縁が、一人の人間へ集まっている。
縁は秩序を作る。
同時に、縁は秩序を乱す。
水希桜夜は、名を守る。
名を守る者は、白い船に対する抵抗になりうる。
だが、名を守る者は、世界の再分類を拒む。
それは、コスモスにとって許容しがたい不確定性だった。
「対象は不死に近づいている」
コスモスは告げた。
「完全な不死ではない」
ホメオスタシスが補足する。
「だが死にくい。戻りやすい。消えにくい」
「鳳凰接続により、再生傾向あり」
「桜吹雪により、神殺し可能」
「白い船により、十三番目の椅子候補」
「複数勢力が対象を係留点として利用可能」
結論は、冷たかった。
「排除候補」
「排除推奨」
コスモスは、その結論を保存した。
◇◇◇
次に、三つの記録が浮かび上がった。
サイカ。
リオ。
ホムラ。
不死身の魔女の忘れ形見。
ケイオスの娘たち。
コスモスから逸脱した、三原色の少女たち。
サイカ。
魔女の血。
雷。
紫の夜。
桜夜を呼び戻す声。
教会との因縁。
白への恐怖と、透明への適応。
リオ。
水。
記録。
名の整理。
名を選び直す力。
情報保持能力。
桜夜の秘書官的補助。
ホムラ。
火。
怒り。
恐怖を焼く力。
守る火。
白い糸や霧への干渉可能性。
三人は、それぞれ独立した危険要素だった。
だが、最も問題なのは、三人が水希桜夜の周囲にいることだった。
彼女たちは、桜夜を呼び戻す。
桜夜を記録する。
桜夜の恐怖を焼く。
桜夜が白い船へ向かう時、三人は係留線になりうる。
同時に、桜夜の執着を強化する。
執着は、名を保つ。
名は、空白への抵抗になる。
だが、執着は、秩序の再配置を拒む。
コスモスの記録に、赤い表示が灯る。
帰属不安定。
父系接続未回収。
水希桜夜との縁による逸脱進行。
回収可能性、低下中。
ホメオスタシスが告げる。
「三名は、存在自体で均衡を乱すほどではない」
「単独では」
「肯定」
「水希桜夜との接続により危険度上昇」
「肯定」
「ケイオスとの接続による回収可能性」
「存在する」
「回収不能の場合」
「排除推奨」
コスモスは、その結論を保存した。
慈悲はなかった。
悪意もなかった。
ただ、判断があった。
秩序に戻せるものは戻す。
戻せないものは、秩序の外へ出す。
秩序の外へ出すことができないものは、排除する。
それだけだった。
◇◇◇
ケイオスは、黒でも白でもない空間に立っていた。
そこは、場所ではない。
コスモスと接続するための中間領域。
秩序の線で組まれた、仮の部屋。
壁はない。
床もない。
天井もない。
だが、そこには明確な境界があった。
混沌を名乗る男が、秩序の中心で命令を待っている。
皮肉と言えば、皮肉だった。
ケイオスは槍を持っていない。
だが、槍の気配は彼の背後に沈んでいる。
罪の神器。
強欲の槍。
失ったものを取り戻そうとする感情。
手放せなかった願い。
回収。
奪還。
所有。
拒絶。
そのすべてが、槍の底にある。
コスモスの声が響いた。
『第一対象、水希桜夜』
空間に、桜夜の記録が展開される。
穏やかな笑み。
逃げたいと考えながら前に出る癖。
桜吹雪。
鳳凰。
あずさ。
白い船。
十三番目の椅子。
『状態。不死化傾向。神殺し能力保有。白い船への適合可能性。複数上位存在との接続。秩序干渉危険度、最大』
ケイオスは黙って聞いていた。
『処理方針、排除』
その言葉に、ケイオスの表情は変わらなかった。
水希桜夜は危険だ。
それは、ケイオス自身も認めていた。
あの少年は弱く見える。
だが、弱いまま前に出る。
逃げたいと考えながら逃げない。
ああいう存在は、秩序にとって扱いにくい。
完全な強者よりも、完全な弱者よりも、厄介だった。
コスモスの声は続く。
『第二対象。不死身の魔女の忘れ形見三名』
空間に、サイカ、リオ、ホムラの記録が展開された。
サイカ。
震えながらも桜夜の服を掴んだ手。
リオ。
父へ向けて、名前を勝手に改めるものではないと言った目。
ホムラ。
気安く呼ぶなと噛みついた声。
ケイオスは、それらを見た。
長い沈黙が落ちた。
『状態。帰属不安定。父系接続未回収。水希桜夜との縁による逸脱進行。回収可能性低下』
「第二対象には」
ケイオスが、ようやく口を開いた。
「私の娘たちが含まれる」
『肯定』
返答は即座だった。
「回収ではなく、排除か」
『優先処理は回収。回収不能の場合、排除』
ケイオスは黙った。
『応答遅延を確認』
「問題ない」
『感情ノイズを検出』
「問題ない」
『再確認。第二対象は、ケイオスの娘三名を含む』
「認識している」
『任務実行に支障は』
「ない」
答えは速かった。
速すぎるほどだった。
コスモスは、それ以上追及しなかった。
感情の有無は、処理の成否にのみ関係する。
父であることは、分類情報の一部にすぎない。
父が娘をどう思うかは、秩序の計算には入らない。
『命令を下す』
ケイオスは、静かに目を伏せた。
『第一対象、水希桜夜を排除』
『第二対象、不死身の魔女の忘れ形見三名を回収』
『回収不能の場合、排除』
『罪の神器、桜吹雪については可能であれば確保』
『不可能な場合、担い手ごと処理』
ケイオスは目を開いた。
「了解した」
声は穏やかだった。
ヴェネツィアの橋の上で、娘たちに向けた声と同じくらい穏やかだった。
だからこそ、そこには冷たさがあった。
『補足』
コスモスの声が続く。
『大天使ガブリエルの介入を確認。天上側の直接介入可能性上昇』
「彼女は、娘たちを渡さないと言った」
『発言記録確認済み』
「水希桜夜にも肩入れしている」
『確認済み』
「大天使を排除対象に含めるか」
『現段階では非推奨。上位領域との全面衝突は秩序維持効率を低下させる』
「では、避ける」
『必要であれば牽制』
「了解した」
命令は完了した。
空間の記録が薄れていく。
桜夜の笑み。
サイカの震える手。
リオの冷えた目。
ホムラの怒り。
ガブリエルの光。
それらが、順に消えていく。
最後に残ったのは、三人の名だった。
サイカ。
リオ。
ホムラ。
ケイオスは、その名を見ていた。
しばらく。
ほんのわずかに。
長すぎるほどではない。
だが、コスモスが遅延として検出するには十分な時間だった。
『再度、感情ノイズを検出』
「問題ない」
『任務続行』
「了解」
記録は消えた。
中間領域も崩れていく。
ケイオスは一人になった。
◇◇◇
黒でも白でもない空間で、ケイオスはしばらく動かなかった。
父。
その言葉を、彼は心の中で一度だけ繰り返した。
父とは何か。
所有者ではない。
大天使はそう言った。
あの光は傲慢だった。
正しい理屈だけではなかった。
あれは感情だった。
この子たちは渡さない。
そう言い切った天使の顔を、ケイオスは思い出す。
次に、水希桜夜を思い出す。
怖がっていた。
死を予感していた。
逃げたいと考えていた。
それでも、三人の前に立った。
父である自分に対し、他人である少年が前に立った。
今は、僕の大切な人たちです。
あの言葉は、ケイオスの中に小さく残っている。
不快だった。
だが、それだけではなかった。
「娘たちを殺すつもりはない」
ケイオスは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
その言葉は、秩序の記録には残らない。
あるいは、残ったとしても意味を持たない。
コスモスの命令は変わらない。
世界は、父親の情など計算に入れない。
ホメオスタシスは、世界の秤を測る。
オメガは、別の平行世界を白へ戻す。
コスモスは、毒をワクチンに変える方法を探す。
そしてケイオスは、命令を受けた。
水希桜夜を排除せよ。
不死身の魔女の忘れ形見を回収せよ。
回収不能の場合、排除せよ。
ケイオスは目を閉じる。
槍の気配が、背後で沈んでいる。
強欲の槍。
失ったものを取り戻すための罪。
手放せない者の刃。
ケイオスは、自分が槍を持っているのか、それとも槍に持たれているのか、考えなかった。
考えれば、任務に支障が出る。
だから考えない。
ただ、娘という単語を心の中で一度だけ覆った。
任務対象。
そう呼び直す。
だが、完全には覆いきれなかった。
サイカ。
リオ。
ホムラ。
三つの名は、消えずに残った。
◇◇◇
ヴェネツィアの夜は静かだった。
水路に灯りが揺れている。
小さな家の窓辺で、サイカは眠っていない。
リオも眠っていない。
ホムラも眠っていない。
桜夜も眠っていない。
部屋の中央には、桜吹雪が置かれている。
誰も、それを遠ざけようとは言わなかった。
怖い。
危険だ。
罪の神器だ。
それでも今は、その刀があることが少しだけ心強かった。
桜夜は窓の外を見ていた。
水面の灯りが揺れる。
白い船の白ではない。
オメガの白でもない。
ただ、夜の水に揺れる人の灯りだった。
桜夜は小さく息を吐く。
どこかで、また何かが決まった気がした。
根拠はない。
だが、嫌な予感だけはよく当たる。
サイカが、そっと隣に来た。
「桜夜さん」
「うん」
「また来る?」
「来ると思う」
「お父さん?」
桜夜は少し迷った。
それから答える。
「ケイオスは来る」
「そっか」
サイカは窓の外を見た。
水面に、二人の影が映っている。
「わたし、まだ怖い」
「うん」
「でも、行かない」
「うん」
「桜夜さんも、行かないでね」
桜夜はサイカを見た。
その言葉は、白い船の時と同じだった。
行かないで。
戻ってきて。
呼び続けるから。
桜夜は小さく笑った。
「うん。行かない」
その返事が、どこまで守れるものなのかはわからない。
けれど、今はそう言うしかなかった。
遠いどこかで、秩序の命令が下っている。
白い空白は、世界を消し続けている。
罪の神器は、毒にも刃にもなりうる。
そして水希桜夜は、排除対象になった。
まだ、誰もそれを知らない。
ヴェネツィアの夜だけが、静かに水音を響かせていた。




