表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/76

第39話 桜吹雪

 部屋に戻ってから、誰もすぐには口を開かなかった。


 ヴェネツィアの小さな家。


 水路に面した窓。


 薄いカーテン。


 夕暮れの残りが部屋の中を淡く染めている。


 外では、何事もなかったように舟の音がする。


 誰かの笑い声も聞こえる。


 観光客は、少し眩しい夕日を浴びて気を失っただけだと思うだろう。


 店の主人は、暑さにやられたのかもしれないと首を傾げるだろう。


 ヴェネツィアは、すぐにいつもの顔へ戻った。


 だが、この部屋だけは違った。


 サイカは椅子に座り、膝の上で両手を握っている。


 リオは窓際に立ち、外を見るでもなく水面を見ている。


 ホムラは壁にもたれ、腕を組んでいた。


 怒っている。


 けれど、いつものように怒鳴らない。


 怒りの置き場を探している顔だった。


 部屋の中央には、鞘に入った桜吹雪が置かれていた。


 黒い鞘。


 桜の意匠。


 静かな刀。


 だが、誰もそれをただの刀とは思えなくなっていた。


 ケイオスの槍。


 罪の神器。


 ガブリエルの光すら吸い込んだ、あの黒い刃。


 神を殺せる。


 水希桜夜を殺せる。


 その槍と同じ根を持つものが、今、部屋の真ん中にある。


 桜夜は床に座り、桜吹雪を見つめていた。


 手を伸ばせば届く。


 何度も握ってきた。


 何度も抜いてきた。


 何度も、これで神に近いものを斬ってきた。


 それなのに今夜だけは、少し遠く見えた。


「桜夜さん」


 サイカが小さく呼んだ。


「うん」


「その刀、怖い?」


 桜夜は少しだけ笑った。


 強がろうと思えば、できた。


 だが、サイカには通じない。


 リオにも、ホムラにも通じない。


「怖いよ」


 桜夜は答えた。


 サイカが息を呑む。


 リオがこちらを向いた。


 ホムラの眉がわずかに動く。


「怖くないわけがない」


 桜夜は桜吹雪を見つめたまま言った。


「これは、そういうものだから」


「そういうものって、何だよ」


 ホムラが低く聞いた。


 桜夜はすぐには答えなかった。


 外の水音を聞く。


 舟が通り、古い壁に波がぶつかる。


 ヴェネツィアの水は、揺れてもすぐに形を変える。


 だが、桜吹雪の奥にあるものは、揺れても形を変えない。


 ずっとそこにある。


 救われなかった者たちの声。


 神を憎む声。


 世界を憎む声。


 それでも救われたかった声。


「先生からもらったんだ」


 桜夜は言った。


「免許皆伝の日に」


 ホムラが少し目を細める。


 リオは静かに姿勢を正した。


 サイカは黙って桜夜を見ている。


 桜夜は、桜吹雪を見つめながら、遠い日のことを思い出した。


◇◇◇


「免許皆伝だ」


 宮森明人は、縁側でそう言った。


 よく晴れた日だった。


 庭には桜の木があった。


 季節は春ではなかったから、花は咲いていない。


 青い葉が風に揺れているだけだ。


 それでも、桜夜にとって宮森家の庭は、いつも桜の気配がした。


 夜に咲く桜。


 散っても残る記憶。


 明人は、いつものように緩い着物姿で、茶をすすっていた。


 足元には将棋盤。


 その横には釣り竿。


 さらに横には、なぜか焼き魚の皿がある。


 桜夜には意味がわからなかった。


「先生」


「なんだ」


「免許皆伝って、何のですか」


「全部」


「雑です」


「雑じゃない。総合評価だ」


「釣りもですか」


「釣りもだ」


「将棋はまだ勝ち越していません」


「勝ち越されたら、わしの立場がないだろ」


「庭掃除は」


「おまえの負け」


「なぜですか」


「趣がない」


「庭掃除に趣を求めるのは先生だけです」


「だからおまえはまだ甘い」


「免許皆伝じゃなかったんですか」


「今のは庭掃除部門だ」


 桜夜は深くため息をついた。


 明人は楽しそうに笑っている。


 この人は、いつもこうだった。


 真面目な話をしているようでふざける。


 ふざけているようで、気づけば逃げ道を塞いでいる。


 桜夜にとって、宮森明人は師であり、父のような人であり、どうしようもなく勝てない相手だった。


「先生」


「なんだ」


「僕は、まだ弟子でいたいです」


 明人の手が、茶碗の上で少しだけ止まった。


 ほんの一瞬。


 当時の桜夜は、その意味に気づかなかった。


 今ならわかる。


 先生は、あの日たぶん知っていた。


 自分に残された時間が、それほど長くないことを。


 自分で悟っていたのかもしれない。


 タオあたりが、余計なことを教えていたのかもしれない。


 あるいは、平行世界を渡り、数えきれない終わりを見てきた明人だからこそ、自分の終わりの気配を知っていたのかもしれない。


 どれが本当かは、もうわからない。


 ただ、あの日の明人は、いつも通り笑っていた。


 いつも通りだったから、桜夜は気づけなかった。


「弟子でいたければ、勝手にいればいい」


 明人は言った。


「ですが、免許皆伝と言いました」


「言ったな」


「それは、もう教えることがないという意味では」


「違う」


 明人は茶を飲み干した。


「教えることがないんじゃない。教えられることがなくなるんだ」


「同じでは?」


「違う。だいぶ違う」


 明人は立ち上がった。


「ついてこい」


「どこへ?」


「宝物庫」


「先生の?」


「わしの宝物庫だ。おまえ、前から入りたがっていただろう」


「入っていいんですか?」


「今日だけな」


 桜夜は思わず立ち上がった。


 その顔を見て、明人は少しだけ笑った。


「本当に子どもだな」


「子どもです」


「開き直るな」


 明人はそう言って、家の奥へ歩いていった。


 桜夜は慌てて後を追った。


◇◇◇


 宮森明人の宝物庫は、地下にあった。


 桜夜はそれまで、宮森家の地下にあんな空間があることを知らなかった。


 古い扉。


 幾重にも重ねられた封印。


 霊的なもの。


 呪術的なもの。


 神道系のもの。


 仏教系のもの。


 西洋魔術の結界。


 どこかの平行世界のものらしい、桜夜には理解できない幾何学模様。


 全部が雑に積み重ねられているようで、実際には一つも干渉していない。


 明人は、鍵も呪文も使わなかった。


 ただ扉の前に立ち、


「わしだ」


 と言った。


 扉が開いた。


「雑です」


「一番確実だ」


 桜夜は呆れながらも、その奥へ足を踏み入れた。


 そして息を呑んだ。


 広い。


 地下とは思えないほど広い。


 棚が並び、台座が並び、古い箱が積まれ、布をかけられた何かが壁際に置かれている。


 剣。


 槍。


 弓。


 鏡。


 勾玉。


 杯。


 古文書。


 壊れた冠。


 どこの国のものともわからない仮面。


 天使の羽根のようなもの。


 悪魔の爪のようなもの。


 神獣の骨。


 妖怪の皮。


 科学機械の残骸。


 この世界のものではないと、一目でわかる金属片。


 聖遺物。


 呪物。


 神代の欠片。


 人の祈りの残骸。


 誰かの戦いの証。


 世界中から。


 平行世界から。


 歴史の表に出なかったものたちが、ここに集められていた。


「先生」


「なんだ」


「趣味が悪いです」


「いい趣味だろ」


「危険物保管庫では?」


「宝物庫だ」


「ほとんど封印対象に見えます」


「だから保管している」


 明人は棚の間を歩きながら、軽い調子で言った。


「おまえに一つやる」


「一つ?」


「免許皆伝の祝いだ。どれか一つ持っていけ」


 桜夜は耳を疑った。


「いいんですか?」


「いいと言っている」


「本当に?」


「何度も聞くな」


「先生がこういう時は、だいたい罠なので」


「ひどい弟子だな」


「先生のせいです」


 明人は楽しそうに笑った。


「まあ、罠ではある」


「やっぱり」


「選ぶというのは、だいたい罠だ」


「急に深いことを言わないでください」


「照れるな」


「照れていません」


 桜夜は棚を見て回った。


 どれも異様だった。


 どれも美しかった。


 どれも危険だった。


 ある剣は、視線を向けるだけで首筋が冷える。


 ある鏡は、覗く前から中の誰かに見られている気がした。


 ある杯は、空なのに水音がする。


 ある仮面は、こちらが瞬きをするたびに表情を変えていた。


 桜夜はそれらを見ながらも、足を止めなかった。


 そして、部屋の奥に置かれていた一振りの刀の前で止まった。


 黒い鞘。


 桜の意匠。


 長すぎず、短すぎず。


 豪奢ではない。


 ただ、静かにそこにあった。


 なのに、目が離せなかった。


「先生」


「なんだ」


「なら、これがいい」


 桜夜は迷わず言った。


 明人は、すぐに答えなかった。


 その沈黙が、妙に長かった。


 桜夜は振り返る。


 明人は、珍しく笑っていなかった。


「先生?」


「それを選ぶか」


「はい」


「理由は」


「わかりません」


「わからないのに選ぶのか」


「はい」


「相変わらず雑だな」


「先生に言われたくありません」


 明人は、少しだけ目を細めた。


 ためらっている。


 桜夜は、その時初めて気づいた。


 宮森明人が、本気で迷っている。


「これは、桜吹雪という」


 明人は静かに言った。


「きれいな名前ですね」


「名前はな」


「中身は違うんですか」


「だいぶ違う」


 明人は桜吹雪へ歩み寄った。


 だが、自分では触れなかった。


「本来、神器とは神を入れる器だ」


「依り代ですか」


「そうだ。神の力、神の名、神の気配を宿す器。それが神器だ」


 明人は桜吹雪を見た。


「だが、これは違う」


「違う?」


「これは罪の神器だ」


 その言葉を、当時の桜夜はまだ知らなかった。


 だが、響きだけで普通のものではないとわかった。


「神の代わりに、負の感情が詰められている」


 明人の声は低かった。


「救われなかった者たちの、最後に掴んだ感情だ。憎しみ、怒り、嘆き、恨み、絶望、祈り損ねた祈り。そういうものが、神の入るはずの器に詰められている」


 桜夜は桜吹雪を見つめた。


 刀は黙っている。


 静かだ。


 だが、静かすぎる。


「危ないんですか」


「危ない」


「先生でも?」


「危ない」


 明人はあっさり言った。


「神を殺せる」


「神を」


「ああ」


「先生、それを宝物庫に置いておくのもどうかと思います」


「だから封じてある」


「封じてあるものを僕に選ばせるのもどうかと思います」


「選んだのはおまえだ」


「そうですが」


 桜夜は少し困った。


 しかし、視線は桜吹雪から離れない。


 不思議だった。


 恐ろしいと聞いている。


 神を殺せると聞いている。


 負の感情が詰められていると聞いている。


 それでも、嫌ではなかった。


 呼ばれている、とは違う。


 懐かしい、でもない。


 ただ、そこにあるのが自然に見えた。


「全部が負の感情なんですか」


 桜夜は聞いた。


 明人は少しだけ桜夜を見た。


「いいや」


「違うんですか」


「ほんの少しだけ、別のものも混じっている」


 明人は桜吹雪へ視線を戻した。


「これを打った鍛冶の神々の想いだ。たぶん、命も混じっている。あいつらは、これをただの呪物にしたかったわけじゃない」


「鍛冶の神々」


「ああ。神殺しの刀を打つために、自分たちの神性を削った連中だ」


 明人の声には、わずかな敬意があった。


「それと、ほんの少しだけ」


 明人はそこで言葉を切った。


「はじまりのものの想いも混じっている」


 桜夜は、その名の意味をまだ知らなかった。


「はじまりのもの?」


「今は知らなくていい」


「先生」


「知らなくていいことは、世の中にある」


「先生がそれを言う時は、後で大変なことになるんです」


「よくわかっているじゃないか」


 明人は少しだけ笑った。


 だが、その笑みはいつもより寂しかった。


「桜吹雪は、罪の器だ。神の器ではない。けれど、完全な空っぽでもない。鍛えた者たちの祈りと、誰かが最後まで手放さなかった願いが、ほんの少しだけ残っている」


「願い」


「そうだ」


「何の願いですか」


「人を、ただ罪として終わらせないための願いだ」


 桜夜は黙った。


 その言葉の意味は、当時はよくわからなかった。


 今なら、少しだけわかる。


 罪の神器。


 救われなかった者たちの声。


 だが、それをそのまま世界へ放てば、ただの終わりになる。


 鍛冶の神々は、それを刃にした。


 誰かを殺すためではない。


 斬るべきものを斬るために。


 神を殺せる刃でありながら、神でないものを救う余地を残すために。


 そして、そこにほんの少し、はじまりのものの想いが混じっている。


 何を願ったのか。


 誰を救おうとしたのか。


 桜夜はまだ知らなかった。


「触ってみろ」


 明人が言った。


 桜夜は明人を見た。


「いいんですか」


「おまえが選んだ」


「止めないんですか」


「止めてほしいのか」


 桜夜は首を横に振った。


「いいえ」


「なら触れ」


 明人の声は静かだった。


 桜夜は手を伸ばした。


 黒い鞘に指先が触れる。


 その瞬間。


 世界が反転した。


◇◇◇


 声が押し寄せた。


 助けて。


 殺して。


 赦さない。


 返せ。


 なぜ私だけが。


 神はどこだ。


 救いはどこだ。


 祈ったのに。


 待ったのに。


 奪われた。


 焼かれた。


 捨てられた。


 裏切られた。


 なぜ私ではない。


 なぜあいつだけが。


 なぜ神は黙っている。


 なぜ世界は続いている。


 なぜ、私だけが。


 声。


 声。


 声。


 無数の声が、桜夜の中へ流れ込んだ。


 痛みではない。


 痛みなら耐えられた。


 悲しみでもない。


 悲しみなら知っていた。


 それは、もっと濁ったものだった。


 救われなかった感情の塊。


 祈り損ねた祈り。


 赦しになれなかった怒り。


 名前を呼ばれなかった者たちの最後の声。


 桜夜は膝をつきかけた。


 視界が真っ黒になる。


 耳の奥で、誰かが泣いている。


 誰かが笑っている。


 誰かが呪っている。


 誰かが、桜夜の名を呼ぼうとしている。


 違う。


 呼ばれているのではない。


 引きずり込まれている。


 おまえも来い。


 おまえも憎め。


 おまえも祈れ。


 おまえも救われるな。


 おまえも、こちらへ来い。


 桜夜の中で、何かが切れた。


「うるさい!」


 怒鳴った。


 声が止まった。


 完全には止まらない。


 だが、押し寄せていた波が一瞬だけ引いた。


 桜夜は歯を食いしばり、鞘を掴む手に力を込める。


 明人は黙って見ている。


 桜夜は桜吹雪を握ったまま、荒い息を吐いた。


 声がまだざわめいている。


 桜夜は睨みつけるように刀を見た。


「黙って従え」


 その声は、少年のものだった。


 まだ幼い。


 まだ弱い。


 まだ病の影を身体に残している。


 それでも、そこにあったのは傲慢だった。


「僕が使う」


 桜夜は言った。


「僕が斬る」


 声がざわめく。


 助けて。


 殺して。


 赦さない。


 返せ。


 なぜ私だけが。


「うるさい」


 今度は怒鳴らなかった。


 低く、静かに言った。


「黙ってろ」


 その瞬間、桜吹雪が沈黙した。


 完全な沈黙ではない。


 深い底へ沈んだだけだ。


 でも、確かに黙った。


 桜夜は息を吐いた。


 手は震えていた。


 額には汗が滲んでいる。


 膝も笑っている。


 それでも、刀から手を離さなかった。


 明人が、ゆっくりと近づいてきた。


「おまえ」


「はい」


「本当に、性格が悪いな」


「先生にだけは言われたくありません」


 桜夜は弱々しく言い返した。


 明人は笑った。


 今度は、いつものように。


 だが、その目は笑っていなかった。


 嬉しそうで。


 悲しそうで。


 誇らしそうで。


 それでも、どこか悔しそうだった。


「先生」


「なんだ」


「これ、もらっていいんですか」


「もう離す気がない顔をしているだろう」


「はい」


「なら、持っていけ」


 明人は桜吹雪を鞘ごと桜夜へ渡した。


 その重みが、腕に乗る。


 不思議なほど手に馴染んだ。


「今日から、それはおまえの刀だ」


「はい」


「ただし、忘れるな」


 明人の声が低くなる。


「それは、おまえの味方ではない」


 桜夜は明人を見る。


「味方ではないんですか」


「ない」


「でも、僕の刀なんですよね」


「そうだ」


「難しいですね」


「難しいものを選んだのはおまえだ」


「それはそうですが」


 明人は桜夜の頭を軽く叩いた。


「罪に膝をつくな」


「はい」


「罪を救済だと思うな」


「はい」


「だが、罪をなかったことにもするな」


 桜夜は少し黙った。


「どうすればいいんですか」


「黙らせて、持っていけ」


「乱暴ですね」


「おまえ向きだろう」


 桜夜は桜吹雪を抱えた。


 不思議と、嫌ではなかった。


 怖い。


 危ない。


 重い。


 でも、嫌ではない。


「先生」


「なんだ」


「これは、何の罪なんですか」


 明人は少しだけ目を細めた。


「傲慢」


 桜夜は瞬きをした。


「傲慢」


「ああ」


「僕向きですか」


「向きすぎている」


「ひどい」


「褒めている」


「たぶん褒めていません」


 明人は笑った。


「傲慢とはな、ただ上から見下ろすことじゃない」


「違うんですか」


「違う。神ではないものが、神の領域に踏み込むことだ」


 明人は桜夜を見た。


「救えもしないものを救おうとする。斬れもしないものを斬ろうとする。届かないところへ手を伸ばす。自分に資格がないと知りながら、それでも前に出る」


「それは」


「おまえだ」


 桜夜は言葉を失った。


 明人は穏やかに続ける。


「だから、気をつけろ。桜吹雪はおまえを気に入る。だが、気に入られることと、守られることは違う」


「はい」


「呑まれるな」


「はい」


「斬る時は、自分で決めろ」


「はい」


 明人は満足そうに頷いた。


 それから、いつもの軽い調子に戻る。


「よし。免許皆伝の祝いは終わりだ」


「終わりなんですか」


「終わりだ」


「もっと感動的な言葉は」


「焼き魚が冷める」


「先生」


「飯は大事だ」


 桜夜は呆れた。


 明人は背を向けて歩き出す。


 宝物庫を出る直前、桜夜は一度だけ振り返った。


 桜吹雪を抱えている。


 もう棚には戻らない。


 自分が選んだ。


 自分が持っていく。


 その意味を、当時の桜夜はまだ知らなかった。


 知らないまま、師の背中を追った。


 もっと弟子でいたかった。


 もっと叱られたかった。


 もっと一緒に将棋を指し、釣りをし、庭掃除で負け、焼き魚を食べたかった。


 だが、明人は免許皆伝と言った。


 それは、別れの準備だった。


 当時の桜夜は、気づけなかった。


◇◇◇


 現在に戻ると、ヴェネツィアの水音が聞こえた。


 部屋の中央には、鞘に入った桜吹雪がある。


 サイカ、リオ、ホムラは黙っていた。


 桜夜がどこまで話したのか、自分でもよくわからなかった。


 明人の宝物庫。


 免許皆伝。


 罪の神器。


 傲慢。


 桜吹雪の中の声。


 すべてを話したわけではない。


 けれど、隠しきれもしなかった。


「つまり」


 ホムラが低く言った。


「その刀は、おまえを喰うかもしれねえってことか」


「油断したらね」


「軽く言うな」


「軽く言わないと重いから」


「ぶん殴るぞ」


「それは痛い」


 ホムラは本気で怒っていた。


 けれど、それは桜夜への怒りだけではない。


 桜吹雪への怒り。


 明人への怒り。


 罪の神器というものへの怒り。


 そして、桜夜がそれを一人で抱えていたことへの怒りだった。


 リオが静かに問う。


「桜夜様は、その声を今も聞いておられるのですか」


「時々ね」


「今も?」


「少し」


 サイカの顔が強張った。


 桜夜は安心させるように笑う。


「大丈夫。普段は黙ってる」


「桜夜さんが、黙らせてるの?」


「うん」


「つらくない?」


 桜夜は答えに迷った。


 つらくないわけではない。


 だが、つらいと認めるほど、素直でもない。


 少し考えて、桜夜は言った。


「うるさいだけだよ」


「それ、つらいってことだよ」


 サイカに即答され、桜夜は困った。


 リオは桜吹雪を見る。


「本来、神器は神を宿す器。しかし罪の神器は、神の代わりに負の感情を宿す器」


「うん」


「ですが、桜吹雪には鍛冶の神々と、はじまりのものの想いがわずかに混じっている」


「先生はそう言っていた」


「その差が、父の槍との違いでしょうか」


 桜夜は目を細めた。


 ケイオスの槍。


 あの槍には、救われなかった声があった。


 それだけではない。


 整えられた意志。


 コスモスの気配。


 罪を、秩序のために利用する力。


「たぶんね」


 桜夜は言った。


「桜吹雪にも、罪はある。負の感情もある。神を殺せる力もある。でも、これを打った神々は、これをただの呪いにしたかったわけじゃない」


 桜夜は、鞘に手を置いた。


「はじまりのものの想いが何なのか、僕はまだ全部わからない。でも、少なくともこれは、世界を終わらせるためだけの刃じゃない」


「では、何のための刃ですか」


 リオが聞いた。


 桜夜は少しだけ笑った。


「斬るべきものを斬るため、かな」


「曖昧ですね」


「先生の受け売りだから」


 リオは少しだけ目を伏せた。


「明人様らしいです」


「うん」


 サイカが、そっと桜吹雪へ手を伸ばそうとした。


 桜夜はすぐにその手を取った。


「触らない方がいい」


「うん」


 サイカは素直に引いた。


 けれど、そのまま桜夜の手を握った。


「桜夜さん」


「うん」


「ひとりで黙らせなくてもいいよ」


 桜夜は息を止めた。


 サイカはまっすぐ見ている。


「わたしには、その声は聞こえないかもしれない。でも、桜夜さんの声は聞こえるから」


 リオも頷いた。


「記録できる範囲であれば、わたくしも支えます」


「記録するものじゃないよ」


「では、覚えます」


 ホムラが舌打ちした。


「声がうるせえなら、今度オレが燃やしてやる」


「燃やせるかな」


「燃やす」


「頼もしいね」


「茶化すな」


 桜夜は笑った。


 少しだけ、部屋の重さが薄れる。


 だが、桜吹雪の奥の声は消えていない。


 助けて。


 殺して。


 赦さない。


 返せ。


 なぜ私だけが。


 桜夜は鞘の上から、静かに刀を押さえた。


「うるさい」


 声は、それで沈んだ。


 昔と同じように。


 けれど、桜夜はもう知っている。


 黙らせた声が、消えたわけではないことを。


 そして、その声に似たものを、ケイオスの槍の中にも聞いた。


 罪の神器。


 七つに砕かれた、人の負の感情。


 もしそれを一つに戻すことができたら、いったい何が起きるのか。


 コスモスは、それをどう利用しているのか。


 ケイオスは、本当に槍を使いこなしてくるのか。


 それとも、槍に使われているだけか。


 桜夜は桜吹雪を見つめる。


 黒い鞘。


 桜の意匠。


 師から受け継いだ刀。


 罪の器。


 傲慢の刃。


 怖い。


 今でも怖い。


 けれど、桜夜は手を離さなかった。


「これは僕の刀だ」


 小さく言った。


 サイカが手を握る。


 リオが静かに頷く。


 ホムラが腕を組んだまま、桜吹雪を睨む。


 窓の外で、水が揺れた。


 ヴェネツィアの夜が近づいている。


 白い船の白ではない。


 罪の槍の黒でもない。


 水面に揺れる、小さな灯りの夜だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ