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第3話 異端の救済

 赤木家の朝は、祈りの匂いがした。


 それは線香の匂いではない。


 神棚に供えた米や酒の匂いでもない。


 古い木造家屋に染みついた蝋燭の油、磨かれた銀のロザリオ、長い年月をかけて開かれ続けた聖書の紙の匂いだった。


 水希桜夜は、応接室の椅子にもたれたまま瞼を閉じていた。


 だが眠っているわけではない。瞑想に近いものだった。


 彼に睡眠は必要ない。栄養補給も休息も。そして……「愛」も。


 だが時折強制的に「夢」にひきづりこまれることがある。


 夢はひとつの世界だ。時間も空間も飛び越え、どこへでもいけるし、誰にでも会える。英雄にも魔王にもなれる。だが「夢」をコントロールするのは難しく、結局は見たくないものを見るはめになる。今見ていた夢を思い出す。


 黒い海。


 声にならない声。


 名もない影の子どもたち。


 その向こうで、咲夜が立っていた。


 夢渡りの少女。


 未来から来たと名乗る、自分の娘。


 まだ父親になった覚えはない。けれど夢の中の彼女は、いつも当然のように桜夜を「お父様」と呼ぶ。


 今回の夢で、咲夜は泣いていなかった。


 ただ、遠くを見ていた。


 星のない空の向こうに、銀色の山が見えた。


 アララト。


 エデンの底で眠っていた、未来のための山。


 そこから小さな光がいくつも飛び立っていく。


 救えた命。


 救えなかった命。


 名前を借りた水希桜夜が、最後まで手を伸ばした子どもたち。


 咲夜は言った。


「お父様、約束は一つじゃないよ」


 それがどういう意味なのか、桜夜にはまだわからなかった。


 ただ、胸の奥に奇妙なざらつきだけが残っていた。


 赤木家の応接室には、朝の薄い光が差し込んでいる。


 壁の絵画は、昨夜と同じように静かにそこにあった。


〈本物のキリストは偽物のキリストが処刑されるのを見ていた〉


 ふとそんな異端の思想のことを思い出した。


 グノーシス主義。


 昔、バチカン絡みの任務で資料を漁らされたときに、嫌というほど読まされた名前だ。


 彼らの中には、この世界そのものを不完全な造物主が作った牢獄のように捉える者たちがいた。肉体は魂を閉じ込める檻であり、この世に生まれることは必ずしも祝福ではない。真の知識によって魂はこの世界から解放される。そう考えた者たちもいた。


 死を、救済と呼ぶ者。


 死を、解放と呼ぶ者。


 その思想は、カトリックの側から見れば危険な異端だった。


 神が創造した世界を善きものとし、命を祝福として受け取る教えに対して、世界を牢獄と見なし、生を苦しみの始まりと見る思想は、根本から相容れない。だから彼らは退けられた。異端として論駁され、共同体は押し潰され、文書は焼かれ、あるいは土の中に隠された。


 滅ぼされた、と言ってしまえば簡単だ。


 だが実際には、もっと静かで、もっと長い消滅だったのだろう。


 信じる者が減り、名を呼ぶ者がいなくなり、残った言葉だけが壺の中や砂の下で眠り続ける。


 それは、エデンという星の話にどこか似ていた。


 生まれないことを慈悲と呼んだ星。


 未来を閉じることを救いと呼んだ者たち。


 誰も苦しまないように、誰も生まれない世界を選んだ人々。


 桜夜は聖書の表紙に指を置いた。


「救い、ねえ」


 小さく呟く。


 赤木家の当主たちは、代々熱心なカトリックだった。


 彼らにとって命は、神から与えられたものだったはずだ。生まれることは罪ではなく、祝福だったはずだ。だからこそ、この屋敷に残る祈りの気配は、エデンの思想とは正反対の場所にある。


 それなのに、その祈りの家を襲ったのは、不死身の魔女の娘たちだった。


 そしてその娘たちは、道具として生まれたことに苦しんでいる。


「まったく」


 桜夜は天井を見上げた。


 死を救いと呼ぶ者がいる。


 生まれないことを救いと呼ぶ者がいる。


 永遠に生きることを救いと呼ぶ者がいる。


 なら、自分は何を救いと呼ぶのか。


 答えは、まだわからない。


 ただ少なくとも、昨夜「助けて」と泣いた少女たちに死を差し出す気はなかった。


「祈ったところで、面倒事は来るんだがな」


 そうつぶやいたとき、脳裏に映像がよぎった。壊れた古い神殿らしき場所で一心に祈る「白い少女」。


〈世界が平和でありますように〉


〈争いがなくなりますように〉


〈誰も笑顔を失わない世界になりますように〉


〈もし誰かが泣いているのなら、一緒に涙を流せますように〉


 やがて少女の隣に騎士を思わせる「黒い青年」が現れた。青年は知っていた。


〈世界は平和にならない〉


〈争いはなくならない〉


〈笑顔は簡単に涙に変わる〉


〈泣いているものは皆孤独だ〉


 だが青年は少女を愛していた。その祈りを叶えたかった。

 

 この記憶は誰のものだ。この胸を締め付けられるような「嫉妬」は誰のものだ。


 桜夜は椅子から立ち上がり、ビジョンを頭から追い払う。


 そのとき、廊下の向こうからにぎやかな声が聞こえてきた。


「ホムラちゃん! それ焦げてる!」


「焦げてねえ! これは香ばしいっていうんだよ!」


「ホムラちゃん、ベーコンを炎で直接焼くのは料理とは言いませんよ」


「うっせえな! 火力は大事だろ!」


 桜夜はしばらく黙った。


 そして、心の底から面倒くさそうに呟いた。


「火事になる前に行くか」


 ◇◇◇


 赤木家の台所に入ると、三人の少女が朝食を作っていた。


 サイカはエプロン姿でフライパンを握っている。黄色い髪を軽く後ろで結び、真剣な顔でオムレツを焼いていた。昨夜、泣きながら助けを求めていた少女とは思えないほど、表情は穏やかだった。


 ホムラはベーコン担当らしい。


 ただし、フライパンの上ではなく、指先に出した炎で直接炙ろうとしていた。


 リオはそんな二人の横で、皿を並べ、コーヒーを淹れ、赤木家の食器棚から来客用の銀食器を選び出している。手際がよすぎる。昨日まで敵だった屋敷の台所で、まるで長年仕えていたメイドのように動いていた。


「あっ、桜夜さん。おはようございます」


 サイカが振り返った。


「すみません、勝手に台所を使ってしまって。どうしてもホムラちゃんがお腹が空いたって」


「なっ、ねえちゃんたちも賛成してただろ!」


「わたくしは、ホムラちゃんがお腹を空かせたままですと屋敷ごと燃やしかねないと思っただけです」


「燃やさねえよ!」


 桜夜は三人を見て、少しだけ目を細めた。


 にぎやかだ。


 昨夜まで、彼女たちは魔女の道具として四方院の分家を襲っていた。


 今朝は台所で朝食を作っている。


 人間の変化というものは、早いのか遅いのかよくわからない。


「桜夜様のお席はこちらですよ」


 リオが椅子を引いた。


 そこは赤木家当主の席だった。


 食卓の上座。


 この屋敷で最も偉い者が座る位置。


 リオがそれを理解しているのかどうか、桜夜は一瞬だけ考えた。


 理解しているのだろう。


 この少女は、そういうことを見落とすタイプではない。


「赤木家の当主は病院だよ。僕がそこに座るのは、少し趣味が悪くないかい?」


「あら。現在この場を預かっているのは桜夜様です。四方院家特別相談役として、当然のお席かと」


「本当に君は、そういうところがよく見えているね」


「お褒めにあずかり光栄です」


 リオはにこりと笑った。


 桜夜は苦笑しながら席についた。


 育ちの良くない彼にはどうにも落ち着かない状況だった。


 潜入などでどうしても必要な場合以外、彼は上流階級のマナーを守るのがすきではなかった。横浜にある四方院本家の敷地内に小さな屋敷をもらっているが、使用人はいない。時々留守中に掃除をしてもらうことはあるものの、そこで過ごす「変わり者」は今やほとんどいない。昔は野良犬2人で暮らし、宗主の妹にずいぶん迷惑をかけたこともあった。だから桜夜は困った顔で言った。

 

「僕のことは気にしなくていい」


 テーブルに並べられたのは、オムレツ、ベーコン、少量のサラダ、トースト、そしてコーヒーだった。


 意外なほど整っている。


 特にオムレツは、形こそ少し崩れているが、丁寧に焼かれていた。


「どうぞ」


 サイカが緊張した顔で言う。まさか彼女も、桜夜が自分の母親と同様に、食事が必要ないなどとは夢にも思っていない顔だった。


 だから桜夜は何も言わずフォークを手に取ることにした。


「いただきます」


 そして無警戒にオムレツを一口サイズに切り、口にする。躊躇なく飲み込む。彼に毒は効かない。フェニックスである鳳凰と契約した彼の血液には「P因子」なるものがあるらしい。体内に入った「外敵」は瞬時にこの因子が殺してしまう。

 それにもし「P因子」が効かない毒があるのなら、彼は喜んで飲むだろう。それは喪った「白」を取り戻せるかもしれないからだ。


 サイカは桜夜を見ている。その瞳は毒殺の成功を祈っているようには見えない。どちらかというと料理の味を心配している目だ。


 ホムラはすでに自分で焼いたベーコンを口に突っ込んでいる。


 リオは桜夜の反応を一つも見逃すまいとしている。


「うん。おいしい」


 サイカの顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか?」


「本当だよ」


「よかった……」


 サイカは胸を撫で下ろす。


 その様子を見て、桜夜は思った。


 この子は、誰かに喜んでほしいだけなのだ。


 戦いたいわけではない。


 奪いたいわけでも、支配したいわけでもない。


 ただ、自分が作ったものを食べてもらい、おいしいと言われて安心するような、普通の少女だ。


 だからこそ、魔女の道具にされたことが痛々しい。


「でもよ」


 ホムラが牛乳を一気に飲み干してから言った。


「サイカねえには毒を警戒しろとか言ってたんだろ。なんで食ったんだ?」


 桜夜は苦笑する。


 リオが静かにコーヒーカップを置いた。


「もちろん毒など入れておりません。愛情なら入っているかもしれませんが」


「リオ!」


 サイカは顔を赤くして怒る。しかしリオは涼しげな顔をしていた。桜夜は苦笑した。


〈愛情〉とはなんだったろうか。もう彼には思い出せなかった。愛情のこもった料理の味など、彼は知らなかった。


 桜夜はコーヒーの入ったグラスを手に取る。黒い液体はよく冷えていた。猫舌なのを配慮してくれたのかもしれない。


「僕にはどんな毒も効かないから。なにを入れてもかまわないけどね」


 三人が固まった。


 ホムラが最初に反応する。


「は? 毒が効かねえって、どういうことだよ」


「そのままの意味だよ。普通の毒、病原体、ある程度の呪毒なら効かない。効いてもすぐに燃えて消える」


「燃えるって?」


 サイカが不安げに聞く。


 桜夜はコーヒーを一口飲んでから、自分の唇に人差し指をあてる。


「秘密」


 別に話してもよかったが、彼はいたずらや隠し事がすきだった。


 いたずらっぽく笑う彼とは対照的に、少女たちは険しい顔で視線を交わす。


「不死鳥の血……」


 リオが小さく呟く。


 不死身の魔女が不死身たる由縁。


 彼女たちの母もどんな毒も効かない。体内に入った毒は暗い炎に焼き尽くされる。


 それは不死身の魔女がかつてフェニキアという不死鳥と契約したときに受けた呪いだった。


 サイカがそっと尋ねる。


「桜夜さんも、不死なの?」


「さあな。死んだことがないからわからん」


 桜夜は即答した。


 嘘だった。四方院総合病院で、彼は一度死んだ。しかし病院の守りとして祀られていた鳳凰は彼に不死鳥の力を与えた。それから何度も大けがをした。致死量の血を流したこともある。しかし死ななかった。ありとあらゆる毒を盛られた。死ななかった。銃弾は彼に着弾することなく鳳凰が自動的に燃やした。ミサイルを撃ち込まれても鳳凰は彼を守った。放射能もウイルス兵器も効かなかった。手足が吹き飛ばされたことはないが、もう一度生えたりはさすがにしないだろうと彼は思っていた。


「……死にたくならねえのか?」


 ホムラが聞いた。


 声は少しだけかすれていた。


 彼女たちの母親はいつも死ぬことを望んでいた。その夫――彼女たちの父親――も妻を殺すすべを探して旅に出たまま帰ってこない。


「悩んでいるよ。永遠に近いときを待つか。自分から会いにいくか」


「はあ? なんだよそれ」


 ホムラには理解不能だった。死にたいかどうか聞いたのに、別のことを答えられたと思ったからだ。サイカも困惑気味だ。リオだけは桜夜の答えの意図を理解していた。


 桜夜は()()()()()()()()()。不死で居続ければいつか生まれ変わったその「誰か」に会えるかもしれない。死ねば「死後の世界」で会えるかもしれない。

 おそらくそんなところだろうとリオは推測したが、なにも言わなかった。それは出逢って間もない自分たちが踏み込むべき領域ではないと思ったからだ。


 ホムラは納得していない顔で「つまんねえ」とつぶやき、食事を再開した。


 サイカが話題を変えるように、食卓の端に置かれた十字架を見た。


「この家、カトリックだったんだね」


「赤木家は四方院の分家だが、術式の一部にカトリックのエクソシストが使う技能を取り入れたらしい。バチカンに封印された禁書も見せてもらったことがあるとか。少なくとも表向きはずいぶん熱心に信仰していたようだ」


「そっか……」


 魔女と教会は長年敵対してきた。教会の影響力の弱い日本でなんの因果か十字架を前にしていることに、少女たちはすこし戸惑っているようだ。


 桜夜は構わず、コーヒーにシロップを注ぐ。結構な量をいれたためか、ホムラが「うげ」と顔をしかめた。


「甘党かよ」


「毒は効かないから大丈夫」


 P因子がある限り、虫歯にも糖尿病にもならない。だから彼は気にした様子もない。


「でもホムラちゃんも甘いものすきでしょう?」


 リオがからかうと、ホムラは「うるせえ!」と怒鳴った。


◇◇◇


 食事を終えて少ない荷物をまとめた4人は赤木家の前に止められている車に乗り込んだ。特に高級車ではないが、防弾や対魔の守りはちゃんとしている。

 行きは桜夜ひとりを運んでいたのに少女が3人も増えていることに運転手はなにも言わなかった。運転手もプロだったし、この男は水希桜夜の行動に興味がなかった。


「秋田の白井家まで頼む」


 運転手は静かに返事をすると、車を発進させた。


「そいつも確か四方院の分家だよな?」


「青森から最も近い本土側の拠点だね。魔女が北から順番に潰しているなら、次の標的になる可能性が高い」


「お母さんは、そこを襲うの?」


「聞いていないのか?」


「うん……」


 不死身の魔女は謎が多い。少女たちに話していないことも多いようだ。


 ホムラが拳を握った。


「今度こそぶん殴ってやる」


 その言い方には迷いがなかった。


 リオも静かに頷く。


「わたくしたちと桜夜様が力を合わせれば、母にも対抗できる可能性はあります」


「そう願うよ」


 桜夜はそう言ってから、三人を見渡した。


「ただまあ、君たちは生きることだけ考えればいいよ」


「殴らなきゃ気がすまねえ」


 ホムラが少し不満そうに言う。


「ホムラちゃんは刺し違えそうで怖いですねえ」


「リオねえ!」


「事実でしょう」


 困ったものだという顔のリオ、怒るホムラ、二人をなだめるサイカ。


 桜夜はその様子を見ながら、ほんの少しだけ笑った。


 この三人は、危うい。


 力も、心も、関係性も。


 だが同時に、強い。


 母親に道具として使われ、四方院家の敵として立たされても、互いを守ろうとする芯は折れていない。


 それはきっと、魔力よりも厄介で、魔力よりも頼りになる。


 そんな予感がした。


 ◇◇◇


 赤木家を出た車内は、一気にかしましくなった。


 桜夜は助手席に座り、後部座席の三姉妹の様子を時折観察していたが、不意にどこからともなくトランプを取り出した。


「暇なら遊ぶ?」


 桜夜の提案にホムラが怒鳴る


「なんで敵地に向かう途中でトランプで遊ぶんだよ!」


「緊張しっぱなしだと本番で動けなくなる。遊べるときは遊んでおくものだよ」


「いいですね。やりましょう」


 緊張感のないのほほんとした声でリオは賛同し、サイカは困った笑みを浮かべた。


「じゃあババ抜きでいい?」


「う、うん」


 サイカがうなずく。リオも否定しない。ホムラだけはむすっとしていたが、目はやる気満々に血走っていた。


◇◇◇


 10分後。


◇◇◇


「ああくっそ! なんで勝てないんだよ!」


 ホムラがトランプをぶちまけていた。しかもご丁寧に空中で燃やしてしまった。


 桜夜はサディスティックに笑っていた。


「はっはっはっ」


「なに笑ってんだてめえ!」


「いや、ホムラちゃんは感情が顔に出るね。ババを持った瞬間、眉が上がる」


「上がってねえ!」


「上がってました」


「ホムラちゃん、かわいかったよ」


「ねえちゃんたちまで!」


 最初は普通に遊んでいたのだ。


 しかし一喜一憂するホムラの様子があまりにもわかりやすく、いつの間にか桜夜、サイカ、リオの三人が暗黙の連合を組んでいた。


 ホムラをいじめているわけではない。


 かわいがっているだけだ。


 たぶん。


「もうトランプはやらん! ほかのゲームもってこい!」


「いやそろそろ着くからゲームは終わりだよ」


 桜夜が窓の外を見る。


 秋田の空は重かった。


 灰色の雲が低く垂れ込め、今にも雪が降りそうだ。


 その雲を見て、桜夜はふと夢の空を思い出した。


 星のないエデンの空。


 白い飛行艇。


 アララトの山。


 眠る子どもたち。


 そして咲夜の声。


「約束は一つじゃないよ」


 桜夜は小さく息を吐く。


「桜夜さん?」


 サイカが心配そうに覗き込んできた。


「どうしたの?」


「いや、なんでもない」


「……そっか」


 お互いにまだ信じ合えていない。そんな気がしてサイカの胸は少しだけ痛みを覚えた。エデンの人々が拒絶した「針でチクリとされた」程度の痛みだったが。


「この気配は……」


 最初に気づいたのはリオだった。そして三姉妹の空気が変わり、表情が固くなる。桜夜は生まれつき魔力も霊力も低く、玄武のように異常な直観をもっているわけでもない。ただ長い間戦いに身を置いてきたのだ、感じるものは少なからずあった。


 先ほどまでのにぎやかさが消える。


 ホムラは拳を握り、リオは窓の外に水の気配を探り、サイカは膝の上で両手を重ねた。


 車はやがて白井家の敷地へ近づいていった。


 そこは、屋敷というより小さな城だった。


 門の両脇には武装した者たちが立ち、運転手の身分証と桜夜のバッジを確認してからようやく開門された。敷地内には結界の柱がいくつも立てられている。赤木家の祈りの家とは違う。ここには祈りよりも近代兵器と東洋の呪術が似合った。


 車が止まり、まずは桜夜が下りる。


 白井家の当主が出迎えに出ていた。戦国武将のような姿をした老人だった。その目は鋭く、少女たちは怯んだ。しかし桜夜に言わせれば「先生の方が怖い」の一言であり、ヘラヘラしていた。そんな姿に老人はあからさまに不機嫌そうな顔をした。


「相談役殿、噂通りお若いですな」


「お初にお目にかかります。白井殿。童顔なものでして」


「宗主様は本気で、貴殿にこの地の守護を預けるおつもりか」


「そのようですね」


 桜夜はにこやかに答えた。「相談役の言葉は宗主の言葉」。それが四方院の掟だ。ゆえに老人は逆らうことはできない。それゆえに、桜夜の外交スマイルは老人の苛立ちの火に薪をくべた。


 老人の視線が三姉妹へ向く。


「それが、魔女の娘たちか」


 車から降りていなかった少女たちは三者三様の反応をした。


「それ」という物扱いにホムラがぴくりと反応し、サイカが唇を噛んだ。


 リオだけは静かに微笑みすら浮かべて車から降り、桜夜の半歩後ろに立て優雅に挨拶をした。


「ええ、はじめまして」


「敵を連れてくるとは、相談役殿は「外患誘致」という言葉を知らないのですかな」


「浅学菲才の身ですので」


 桜夜は笑みを絶やさない。その気になれば日本で定められている「外患誘致罪」について100分くらい講義できる知識があったものの、そんな「大人げないこと」はしない。笑って受け流すばかりだ。


「誰が四方院の敵かは宗主様が判断されます。そして宗主様は僕に判断を任せました。それがすべてです」


 桜夜はにこやかで友好的な態度を崩さない。だが老人に嫌味を露骨に言っていた。「分家の当主風情が文句を言うな」という意味なのを理解した老人は顔を真っ赤に染めた。しかし怒鳴りはしなかった。先代相談役の時代なら首を物理的に切られただろうし、桜夜もあとでどんな圧力や嫌がらせをしてくるかわからない人物と思われていた。


「……部屋を用意してある。外へは出さぬように。こちらにも警戒体制というものがある」


「感謝します」


 桜夜は頭を下げた。軟禁する気なのはわかっていたが、どうでもよかった。白井家の戦力ではどのみち不死身の魔女やその眷属にも勝てない。おそらく、ホムラひとりでも家を焼いて皆殺しにできるだろう。

 だから彼はイギリスやフランスで学んだ作法で三姉妹をエスコートすると、屋敷の家政婦の案内のもと、旅館を思わせる豪華な和室に入っていった。キングサイズのベッド、専用の風呂、洗面所、トイレ。食べ物も飲み物も十分用意され、ベルを鳴らして命令すればすべて使用人が必要なものを用意してくれるらしい。

 桜夜は外套を適当に脱ぐとベッドにダイブした。子どもみたいな人だなあとサイカは呆れ、リオは外套をハンガーにかけてくれた。


 ホムラは我慢していた怒りを爆発させた。


「あー! ムカつく! なんだよあの爺! 人が協力してやるっていってんのによ!」


「いーじゃん仕事しなくていいみたいだし、ただ飯食べようよ」


 ベッドでだらけていた桜夜はさっそく食べ物を物色する。高そうなお菓子を見つけてホムラに渡すと、彼女はやけ食いを始めた。


「んぐんぐ、リオねえたちは腹が立たねえのかよ!」


「怒っても相手の思うつぼです」


 リオが窘めるとホムラは殻になったお菓子の袋を燃やす。


「くそっ」


 いらいらして爪を噛むホムラ、窘めるリオ、サイカはベッドに腰を下ろした。


 ひとつ息をついた。彼女たちを助けると約束してくれた桜夜は、冷蔵庫から高そうな日本酒を取り出して飲みだしてしまった。


(頼る人間違えたかな……)


 サイカはだんだん後悔してきた。ホムラは桜夜に食って掛かる。


「これからってときに酒かよ! ふざけんな!」


「あのじいちゃんがなんとかするでしょー。あはは」


 桜夜は酔っ払いのように笑うが、リオだけは見抜いていた。毒が効かない桜夜には、アルコールも効かない。たしかに口は酒臭かったが、顔はちっとも赤くなっていないし、目も正気を保っている。

 そんな桜夜をリオはすこしかわいそうにおもった。彼の瞳は深い哀しみと絶望、そして諦めを宿していた。アルコールで一瞬でもそれらを忘れられることはないのだろう。母と同じように。だがそんなことはおくびにも出さず、彼女は別のことを報告する。


「桜夜様、この部屋、物理的にも魔術的にも監視されていますわ」


「だろうね」


「よろしいのですか?」


「んー、見られるのは好きじゃないなあ」


 そう呟いた桜夜はスマートフォンを取り出し、電話をかけた。


「うすうすー、()()はどう? とりあえずいつものよろしくねー」


 電話の相手は大型のサーバーに囲まれた暗い部屋でキーボードを操作していた。すぐに白井家のシステムにアクセスし掌握する。古い家の監視システムの映像を無害なものに差し替えるなど30秒で終わった。電話を切った桜夜にサイカは尋ねる。


「なにをしたの?」


「おもしろいこと。あとは……」


 桜夜はほんのすこしだけ鳳凰の神通力を解放する。監視のための結界はその力に耐えられずに壊れ、術者は全身の穴から血を流して倒れた。


〈呪詛返し〉


〈人を呪わば穴二つ〉


 人間風情の術を破ることは神に近づいた神獣である鳳凰にはたやすいことだった。もちろん同じことは宗家の人間ならだれでもできる。相談役は宗家の血筋はなれない決まりだ。だから白井家の術者は侮っていた。侮った相手を罠にはめるのが、桜夜は大好きだった。鳳凰の神通力が新たな結界となり、白井家の人間を寄せ付けないものとなった。


「これでのんびりできるね」


 リオは当然と受け入れた。サイカは唖然とした。ホムラは普段自分が制御している「炎の精霊」が畏まっていることに気づいた。それは母のフェニキアに対して怯えているのとは違った。桜夜の中にいる存在に畏敬の念を抱いているのだ。


「てめえ、本当になんなんだよ。魔力もねえくせに……」


 桜夜はまたベッドに横になる。


「そういう話はベッドの中でしようよ」


「ふざけんな!」


 桜夜が掛布団をめくって誘うとホムラは羞恥と怒りで顔を真っ赤にした。それを見て桜夜は楽しそうに笑う。サイカは、桜夜が実の妹のようにホムラに接してくれていると喜んだ。

 リオも、この殿方は女性をからかうのがお好きなようだと思った。桜夜は本当に楽しそうに見えた。なのに感じてしまう。彼の体内の液体にも水の精霊は住んでいる。だから教えてくれるのだ。桜夜の涙が枯れてしまっていることを。さみしくて、つらくて、泣き出したいのに、もう泣くこともできないのだと。それが哀れに思えて、リオはつらそうな顔をしてしまった。桜夜はすぐに気づいた。


「大丈夫?」


 優しい声だった。ベッドから起き上がった桜夜がリオを見つめる。リオは泣いていた。桜夜の中の水の精霊たちが、リオの身体を使って泣いていた。もう泣くことのできない、その人のために……。


◇◇◇


 桜夜と電話をしていた人物は、相変わらずキーボードを高速で叩いていた。あらゆる平行世界の情報が、過去も現在も未来も、すべての情報がモニターに映し出されては消えていく。

 特注のスーパーコンピューターと、化け物じみた脳細胞がそれらを処理していく。


 フェニキア。


 不死身の魔女。


 エデン。


 サタン。


 コスモス。


 神。


 悪魔。

 

 人間。

 

 魔女。


 救済。


 そして最後に「希望」と表示された瞬間、部屋中にアラートが鳴り響き、モニターには「ERROR」とだけ表示された。コンピュータが機械音声で話す。


『理解不能ERROR理解不能ERROR』


 コンピュータはそれだけを言い続けた。


 グノーシス主義者たちは、死をこの世界からの解放と見た。


 エデンの者たちは、生まれないことを苦しみからの救済と呼んだ。


 不死身の魔女は、不死を手にしたまま、それを捨てる術を求めている。


 そして悪魔は、いつか「命の実」を差し出してくるのだろう。


「永遠に生きれば大切なものを守れる」


 しかしそれは誰を救うのだろうか。

 

 モニターの赤い警告灯に照らされた「天才」は、「水希桜夜」を2人知っている。


 1人目の「水希桜夜」はまだ幼く、「天才」どころか「能無し」と呼ばれていた時代の彼を助けてくれた。年齢もそんなに変わらない。優しい人だった。だがそのときにはすでに、深い絶望という病に侵されていた。

 2人目の「水希桜夜」は彼が18歳になったときに出会った。直接会ったことは一度もない。だが親友だった。深い絶望の中で、それでも「希望」を諦められない男だった。


「天才」は「水希桜夜」を救いたかった。幸せになってほしかった。せめてどこかの平行世界では、穏やかに愛した人と過ごしていると知りたかった。


 だからまたコンピュータに計算をさせた。


 救いとは何か。


 幸福とは何か。


 死ぬことか。


 生まれないことか。


 永遠に終わらないことか。


『理解不能ERROR理解不能ERROR』


 コンピュータは答えを見つけられずアラートを鳴らす。


「天才」はこう入力してみた。


「すべてをなかったことにすることか」


 コンピュータは静かにポップアップ画面を表示した。


『実行しますか?』


 Yes No


「天才」はカーソルをYesに向かって動かし、最後にクリックを……。







 押せなかった。







「天才」は「忘れることができない」。「忘れたい」、「なかったことにしたい」、「幸せでいてほしい」。ただいつものようにクリックするだけなのに、彼は泣いていた。「思い出」が彼を苛んだ。

「天才」は出会ってしまったのだ。それが間違いだった。出会わなければ、その優しさに触れなければ、今自分は泣いてなどいないのだから。


◇◇◇


 泣いてしまったリオは桜夜の胸に飛び込んでいた。大声で泣いていた。別の誰かも泣いているような気が、桜夜にはしていた。彼はすこしためらったあと、リオの頭を包み込むように抱き、優しく撫でた。「女性は髪に触られるのを嫌がる」。そんな知識が彼を躊躇させた。でも拾ってくれた「先生」が、喪ってしまった「白」が、してくれたこと。そしてあの日の幼い自分が「天才」にしたこと。ただ抱きしめて、頭を撫でて泣くのを許すこと。もう自分は泣けないけれど、泣いている誰かを抱きしめる腕はまだあった。いつの間にか、サイカも泣いていた。桜夜の背中で泣いていた。ホムラは背中を向けたが、鼻をすすっている。


「約束は一つじゃないよ」


 かつて神はモーセと契約した。その後キリストを通して全人類と契約をした。


 神と人との契約――テスタメント――


 思えば「水希桜夜」が「水希桜夜」になってからたくさん約束をしてきた。


「先生」とは「攻撃に力を使わない」と約束をした。


 その約束は果たされなかった。


「白」とは「再会」を約束した。


 いまだ果たせていない。いつ果たせるかもわからない。


 サイカとの契約はどうだろうか。果たせるだろうか。


 リオとの契約は?


 今肩を震わせているホムラとも何か契約をするのだろうか。


「水希桜夜」は呪われた名だ。果たせなかった約束と繰り返す後悔の墓標。


 今の桜夜は遠くを見ていた。鳳凰の眷属たる風の精霊が、世界を見せてくれる。悲しみと苦しみに満ちた世界を。


 窓の外の空は、重く曇っている。


 嫌な気配が、少しずつ近づいていた。


 風の精霊が察知し、鳳凰を介して桜夜に危険を伝えた。次に大気中の水の精霊が、リオに危険を伝えた。ホムラの炎の精霊もおびえだした。サイカだけはそこまで察知できていないようだった。だから桜夜は声をかけた。


「サイカ」


「うん……」


「リオ」


「……はい」


「ホムラ」


「……」


「自由は辛く、生きるのは苦しい。それでも「人間」は、いつまでも「エデン」にはいられないんだ」


 エデンではなにも考えなくてよかった。苦しまなくてよかった。


 しかし蛇にそそのかされ、人間は苦しみを背負った。


 そして世界の広さを知った。


「親離れの覚悟はあるね?」


 失楽園の神話は、「親離れ」とも解釈される。代わりに考えてくれる神、守ってくれる神、そこからあえて離れて、逆らって、世界の広さを知り、自分の矮小さを知る。


「人間」にはそれが必要だ。だから少女たちに尋ねたのだ。桜夜には切り札があった。桜夜は不死身の魔女の天敵になりうる存在だった。少女たちにとっての「蛇」だった。


 少女たちは迷うことなく頷いた。

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