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第2話 祈りと契約

「ねえちゃん! なんでこいつが味方なんだよ! こいつ四方院の人間だろ!」


 ホムラの怒鳴り声が、赤木家の玄関先に響いた。


 夜気は冷たい。青森の深夜は、息を吸うだけで肺の奥が凍るようだった。屋敷の庭には、少し前まで炎と水がぶつかり合っていた痕が残っている。雪の残った地面は、ホムラの炎でところどころ黒く焦げ、リオの水で泥のように溶けていた。


 その中心で、桜夜は煙管を口にくわえていた。師匠の形見の一つだ。吸っているのは煙草でも麻薬でもない。世界でただひとりの彼の主治医から渡された薬だ。鳳凰とのコントラクトで変質していく「身体」を「人間」に留めておくためのものだという。自分が化け物になるかどうかに対して興味のない桜夜は気が向いたときに何となく吸っていた。


「そうです。なにかされたの、サイカちゃん」


 リオが静かな声で問いかける。


 声音は穏やかだった。だが、足元には水が薄く広がっている。彼女の気分次第で、それは刃にも槍にも津波にもなるだろう。


 ホムラはすでに拳を握っていた。赤い瞳は桜夜を射抜くように睨んでいる。ほんの少しでも不審な動きをすれば、また炎を纏って突っ込んでくるに違いない。


 サイカは二人の間に立ち、必死に両手を広げていた。


「違うの! 桜夜さんは、わたしたちを助けてくれるって」


「助ける?」


 ホムラが鼻で笑った。


「四方院のやつが? 冗談じゃねえ。こいつらがババアの知りたがってる秘密を隠してるんだろ!」


「でも、お母さんの言うことを聞いていたら、わたしたちはずっと道具のままだよ!」


 サイカの声が震えた。


 ホムラが言葉を詰まらせる。


 リオも目を伏せた。


 道具。


 その一言は、三姉妹の中に深く刺さるらしい。


 桜夜は煙を細く吐いた。


 正直、味方という言葉は重い。


 彼はまだ三人の味方ではない。


 必要なら彼女たちを切り捨てるのが彼の役目だ。


 サイカを助けると契約した。妹たちも保護すると言った。だが、それは彼女たちが四方院家にとって利用価値のある存在であり、なおかつ魔女の戦力を削ることにつながるからにすぎない。


「善意」も「優しさ」も、彼は忘れてしまった。いや、最初から持っていなかったのかもしれない。


 だから内心では、サイカの言葉にこう返していた。


 味方かはわかんないけどなあ。


 ただ、賢い大人は沈黙を守るものだ。


 桜夜は黙って煙管をくわえ直した。


「とにかく聞いて。リオ、ホムラ、わたしを信じて」


 サイカは二人をまっすぐ見た。


「この人は、お母さんからわたしたちを離してくれる。少なくとも、わたしたちをお母さんの道具には戻さないって言ってくれた」


「口だけならなんとでも言えるだろ」


 ホムラはまだ納得していない。


 それでも炎は消えた。


 リオはしばらくサイカを見つめていたが、やがて小さく息をついた。


「……サイカちゃんがそこまで言うなら、今は信じます」


「リオねえ!」


「ただし」


 リオは桜夜へ視線を向けた。


 湖のような青い瞳。


 その奥に、冷たい警戒が沈んでいる。


「あなた様を信用したわけではありません」


「それは賢明だ」


 桜夜は軽く笑った。


 ホムラがびしっと指を突きつける。


「いいか! てめえがねえちゃんに変なことしたら、オレが燃やす!」


「すでに燃やされかけた気がするけどね」


「次は当てる!」


「それは怖い」


 桜夜の言い方があまりにも軽かったので、ホムラは余計に苛立ったらしい。だが、サイカが困ったように見ているのに気づくと、舌打ちをして顔を背けた。


 リオはスカートの裾を軽く持ち上げ、優雅にお辞儀をした。


「申し遅れました。リオと申します。サイカちゃんのこと、ありがとうございます」


「ご丁寧にどうも。水希桜夜だ」


「存じておりますわ。四方院家特別相談役。宗主直属の荒事担当。若くして四方院の名代を務める、黒い野良犬」


「最後の呼び名だけ誰から聞いたのかな」


「母です」


「なるほど」


 桜夜が苦笑すると、サイカが少しだけ不安そうに彼を見た。


 その顔を見て、桜夜は煙管をしまう。


「とりあえず寒いんで部屋にもどって良い?」


「はあ?」


 ホムラが呆れた声を上げた。


「この流れでそれかよ」


「青森の寒さをなめてはいけない。僕は関東の人間なんだ」


「オレの炎で温めてやろうか?」


「遠慮しておく。丸焼きは好みじゃない」


 サイカがほっとしたように笑う。


「あの、妹たちも中に入れても……?」


「いいんじゃない。僕の家じゃないし」


 桜夜はそう言って、赤木家の屋敷へと入っていった。本来他人の家だからこそ入室を許可できないはずなのに、彼は他人の家だから勝手に入れといった。彼は適当な人間だった。そう思われるようにふるまうことを好んだ。そして赤木家当主より相談役の方が地位的には上なので、ここに当主がいても逆らうことはできなかっただろう。


 三姉妹は顔を見合わせる。


 そして、奇妙なほど自然に、その背中を追った。


 ◇◇◇


 深夜三時。


 赤木家の屋敷は、ようやく静かになっていた。


 倒れていた者たちは病院へ運ばれ、救急隊も警察も撤収した。四方院家の圧力と手回しは見事なものだった。事後処理だけは、本当に便利な家である。


 サイカたち三姉妹は客室で眠っている。


 といっても、すぐに寝入ったのはサイカだけだった。極度の緊張と消耗で限界だったのだろう。毛布をかけると、彼女は小さく丸まって眠ってしまった。


 ホムラは最後まで桜夜を睨んでいたが、リオに促されると横になった。


 リオは三姉妹の中で一番落ち着いて見える。


 だが、桜夜にはわかっていた。


 あの子が一番、考えすぎる。


 考えすぎる子は、夜に眠れない。


 だから、いずれ来るだろうと思っていた。


 桜夜は応接室の広い机に日本地図を広げていた。


 右手には万年筆。


 北海道から青森まで、四方院家に連なる拠点に×印をつけていく。


 あの女の手先たちは、北海道の最北端から一つずつ拠点を潰していた。まるでゲーム盤の上を進む駒のように、順番を守っている。


 四方院宗主、玄武の読みでは、相手は遊んでいる。


 四方院の秘密がほしいなら、宗家を攻めればいい。


 にもかかわらず、北から一つずつ分家をつぶしていく。


 それは挑発であり、儀式であり、何より時間稼ぎにも見えた。


「不死の秘密、ねえ」


 桜夜は地図に視線を落としたまま呟いた。


 不死。


 その言葉は嫌いだった。


 桜夜は死に損なったことがある。


 病弱だった身体を捨てるために、守りたいもののために、鳳凰とコントラクトした。


 毒に強く、傷の治りも早い。人間離れした身体になったのは事実だ。


 だが、守りたいものはひとつとして守れなかった。


 不死は呪いだ。永遠に悲しみから解放されなくなる呪い。


 それでも彼は無限にも似た時間の中に淡い希望をもっていた。


 いつか「白」と再会できるかもしれない、と。


 机の隅には、地図や報告書とは別に、一冊の本が置かれていた。


 聖書だった。


 日本語と英語の対訳版。


 表紙はかなり使い込まれている。角は丸くなり、ところどころ付箋が挟まっていた。


 桜夜の持ち物ではない。


 赤木家の応接室の本棚に置かれていたものだ。


 この家の当主は、代々熱心なカトリックだったという。


 四方院家に連なる分家でありながら、赤木家はどこか独特だった。武家めいた作法と、古い日本家屋の重々しさ。その中に、十字架や聖母像、ロザリオが当然のように置かれている。応接室の壁には、小さな絵画「キリストの磔刑」が掛けられていた。廊下の飾り棚には銀のロザリオがあり、当主の私室には祈祷台まであった。


 桜夜は最初、それを見て少し意外に思った。


 だが、よく考えれば不思議ではない。


 四方院家の分家は、日本各地の土着信仰や外来宗教と結びつきながら、それぞれ独自の術式を育ててきた。赤木家にとって、カトリックは単なる信仰だけでなく、家を守る規律であり、結界であり、代々の精神的支柱でもあったのだろう。


 その当主が、今夜、魔女の娘に倒された。


 熱心に祈る家の中で、魔女の血を引く少女が泣きながら助けを求めた。


 なんとも皮肉な話だった。


 桜夜は聖書を開いた。


 創世記。


 はじめに神は天と地とを創造された。


 そこに書かれている言葉を、桜夜は黙って目で追った。


 彼はクリスチャンではない。


 洗礼も受けていないし、教会に通う習慣もない。祈るときの作法も、信徒のそれとは違う。神を信じているかと聞かれれば、答えに困る。


 ただ、海外で働くことがある。


 ヨーロッパ、アメリカ、中東。


 キリスト教が政治にも文化にも、人の価値観にも深く根を張る土地で仕事をするなら、その教えを知らないままでは話にならない。


 宗教は、信じるかどうかだけの問題ではない。


 人が何を善とし、何を罪とし、何を救いと呼ぶか。


 それを知るための地図でもある。


 そう教えたのは、兄と慕う四方院(はじめ)だったか、あるいは宗主の玄武だったか。


 いや。


 桜夜は顔をしかめた。


 もっと厄介な相手もいた。


 大天使ガブリエル。


 その名を思い出すだけで、こめかみが痛くなる。


 昔、海外任務中に巻き込まれた「奇蹟執行」。


 現地教会が秘匿していた聖遺物の暴走を止めるため、桜夜は半ば強制的に協力させられた。協力という言葉はかなり柔らかい。実際には、ガブリエルと名乗る存在に一方的に選ばれ、現場へ放り込まれ、失敗すれば街ごと神罰に巻き込まれるという、あまりにも理不尽な任務だった。


 天使というものは、もっと優雅で慈悲深い存在だと思っていた。


 実物は違った。


 少なくとも、桜夜が知るガブリエルは、笑顔で人を無茶な仕事に押し込むタイプだった。


『あなたならできます。神は乗り越えられない試練を与えません』


『僕は君の神を信仰していないんだが?』


『では、今回は特別に業務委託ということで』


 あのときの会話を思い出して、桜夜は本気でため息をついた。


 以来、彼は聖書を読むようになった。


 信仰のためではない。


 対策のためだ。


 天使に絡まれたとき、せめて相手の論理を理解していないと、逃げることもできない。


「まったく、神様も天使も、僕を便利屋か何かと勘違いしている」


 そう呟きながら、桜夜はページを進めた。


 禁断の果実。


 エデンの園。


 アダムとイヴ。


 その文字を見た瞬間、彼の指が止まった。


 エデン。


 夢の中で聞いた星の名。


 生まれることが罪とされた星。


 アダムという少年が生まれた星。


 そして、自分の名前を借りた何者かが、救えずに消えた場所。


 桜夜はしばらく、そのページを見つめていた。


 聖書のエデンは、楽園だった。


 夢のエデンは、未来を閉じた星だった。


 同じ名を持ちながら、あまりにも違う。


 あるいは、違わないのかもしれない。


 楽園とは、失われて初めて名づけられる場所だ。


 生まれる前に苦しみを消そうとした星も、そこに住む者たちにとっては楽園を作ろうとした結果だったのかもしれない。


 誰も泣かないように。


 誰も苦しまないように。


 誰も「生まれてこなければよかった」と思わないように。


 そのために、誰も生まれない世界を選ぶ。


「……救いという言葉は、どこの世界でも厄介だな」


 桜夜は小さく言った。


 聖母子像の下で、熱心なカトリックの家に残された聖書を読みながら、彼は神に祈らなかった。


 祈り方を知らないわけではない。


 祈る気になれなかっただけだ。


 そのとき、応接室の扉が控えめにノックされた。


「あの、桜夜様。まだいらっしゃいますか?」


 予想通りの声だった。


 リオだ。


「ん? なにかあったかい?」


「いえ……あの、中に失礼してもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


 扉が開く。


 リオは少し怯えたように入ってきた。長い青い髪はほどかれていて、客室にあった寝間着の上に薄いショールを羽織っている。昼間のような優雅さはまだ残っているが、目元には眠れなかった痕があった。


 彼女は机の上を見た。


 地図。


 報告書。


 万年筆。


 そして聖書。


「聖書、ですか?」


「ああ。本棚にあった」


「この家は、宗教を信じているのですか? 日本人はあまり宗教を信じないと伺いましたが」


「代々熱心なカトリックらしい。廊下にロザリオがあったし、当主の部屋には祈祷台もあった。応接室に聖母像まである。ここまで揃っているなら、ただの飾りではないだろうね」


 リオは絵画「キリストの磔刑」の前に立ち、それを見つめた。イエス・キリストは、最後に神になぜ自分を見捨てたのかと言ったと聖書には書かれている。現代の研究では、「それでも信じます」が省略されているだけという説もあると桜夜は記憶していた。


「わたくしたち、そんな家を襲ってしまったのですね」


「君たちが好きでやったわけじゃない」


「それでも、傷つけたことは消えません」


 リオの声は静かだった。


 桜夜は少しだけ目を細める。


 この子は、罪悪感を言葉にできる。


 それは強さでもあるが、危うさでもあった。


「信仰の厚い家だからといって、傷つけていいわけではない。信仰のない家だからといって、傷つけていいわけでもない。そこは同じだよ」


「桜夜様は、何か信仰をお持ちなのですか?」


「いや、僕は神様に祈るより、神様から逃げる方が得意だ」


「逃げる?」


「海外で働くことがあるから勉強しているだけさ。キリスト教圏で仕事をするなら、聖書をまったく知らないのは危ない。冗談も皮肉も交渉も、宗教の下地がないと意味が取れないことがある」


 リオは興味深そうに聖書へ近づいた。


「それだけですか?」


「それだけ、と言いたいところだけどね」


 桜夜は苦笑する。


「昔、大天使ガブリエルに無理やり『奇蹟執行』とやらを手伝わされたことがある。それ以来、天使に絡まれたときの護身用に読んでいる」


「大天使、ガブリエル……?」


 リオの表情が固まった。


 無理もない。


 普通の少女は、大天使の名を日常会話で聞かない。もちろんガブリエルやジブリールという名前の人間は海外にはいる。


 しかし魔女にとっては天使は敵だ。天使にとって魔女は守り救う対象ではない。殺してもよい存在だった。赦す必要のない存在だった。神と天使の名のもとに、多くの魔女が罪びとが、罪なきものが死んでいった。


「まあ、会わないに越したことはないよ。ああいう連中は慈悲深い顔で無茶を言う。僕に言わせれば、悪魔より天使の方がよほど断りにくい」


 その言葉にリオは少し驚く。多くの人間は天使に会うと思わず頭を垂れる。そのくらいの神聖さを持った存在だ。特にガブリエルは、聖母マリアや預言者ムハンマドの前にも姿を現したとされる存在だ。対して悪魔も、天使のような笑みを浮かべて人間に近づいてくる。魔女ともときに契約を結ぶ。たいていの「人間」は天使をありがたがり、悪魔を追い払いたいと思うものだ。だからリオは尋ねた。


「悪魔より天使の方が、ですか」


「そう。悪魔は契約書を出してくる。天使は使命という名の業務命令を出してくる。どちらも迷惑だが、後者の方がたちが悪い」


 リオは小さく笑った。


 その笑いは、少しだけ少女らしかった。


 桜夜は聖書を閉じ、彼女のために椅子を引いた。


「座る?」


「よろしいのですか?」


「立ったまま話すには寒い夜だ」


 リオは少し迷ってから、桜夜の隣に座った。


 距離が近い。


 わざとだろう。


 この子は、人との距離の取り方が妙に上手い。いや、上手すぎる。


 桜夜はそれを少し危うく感じた。


「あの、サイカちゃんから聞きました」


「何を?」


「わたくしたちのために、サイカちゃんが桜夜様と契約したと」


「ああ、確かにしたな」


「その契約、わたくしにしていただけませんか?」


 桜夜は瞬きをした。


「は……?」


 次の瞬間、リオは桜夜の方へ身を乗り出してきた。


 力ではない。


 雰囲気で押してくる。


 青い瞳が潤み、細い指が彼の袖を掴んだ。


「お願いします。わたくしは、どんな目にあったってかまいません。だから、サイカちゃんとホムラちゃんを守ってください」


 その言葉は、昼間の優雅な挨拶とは違っていた。


 必死だった。


 サイカは自分を差し出すと言った。


 リオも同じことをしようとしている。


 姉妹を守るために、自分を交渉材料にする。


 桜夜はその構図が嫌だった。


 とても嫌だった。


「そういう交渉は、もっと大人になってからしなさいな」


 桜夜はリオの唇に人差し指を当てた。


「特に君みたいな魅力的な子はね」


 リオの目から、涙がこぼれた。


 彼女は桜夜の胸に顔を押し当てる。


「お願いします……どうか、サイカちゃんにひどいことをしないでください」


「大丈夫だよ」


 桜夜は、弟分たちに接するときのような声で言った。


 右手で彼女を抱きしめ、左手で髪を撫でる。


 青い髪は、驚くほど冷たかった。


「サイカにも、ホムラにも、君にも、ひどいことはしない」


「本当ですか?」


「契約したからね」


「でも、桜夜様は四方院の方です」


「そうだね」


「わたくしたちは、魔女の娘です」


「そうだね」


「なら、いつか切り捨てるのではありませんか?」


 リオの声は震えていなかった。


 むしろ、あまりにも静かだった。


 だから桜夜は、この子がどれほどその可能性を考え続けていたのかを理解した。


 裏切られること。


 利用されること。


 捨てられること。


 きっと、彼女は最悪の未来を先に並べておくことで、自分を守ってきたのだろう。


「リオ」


「はい」


「僕は善人じゃない。君たちを利用する。君たちの力は必要だし、あの女と戦う以上、こちらの戦力は多い方がいい」


 リオは顔を上げた。


 涙で濡れた瞳が、桜夜を映している。


「でも、道具にはしない」


「……」


「君たちは、母親の人形じゃない。四方院の兵器でもない。少なくとも、僕と契約している間はそう扱わせない」


 リオはしばらく黙っていた。


 やがて、彼女は小さく息を吸った。


「では、わたくしも契約します」


「話を聞いていたかな?」


「聞いていました。ですから、契約します」


 リオは桜夜の手を取った。


 その手は細い。


 だが、握る力は強かった。


「わたくしが、あなた様をお守りします。だから、サイカちゃんとホムラちゃんを守ってください」


「君たちは本当に、自分を後回しにするのが得意だね」


「姉妹ですから」


「答えになっているようで、なっていない」


 桜夜が苦笑した瞬間、リオは身を伸ばした。


 軽い口づけだった。


 唇に触れて、すぐに離れる。


 だが、その瞬間、微かな魔力が桜夜の内側に流れ込んだ。


 魔女の口づけ。


 ただの口づけではない。


 契約だ。


 リオは自分でしたことに驚いたのか、顔を真っ赤にして立ち上がった。


「お、おやすみなさいませ!」


 そう言い残し、彼女は逃げるように部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 応接室に、再び静寂が戻った。


 桜夜は自分の唇に触れた。


「いやあ、まさかリオちゃんとも契約しちゃうとは困った困った」


 あはは、と笑う。


 だが、その笑いはすぐにため息へ変わった。


 机の上には聖書がある。


 閉じたはずのページの奥に、エデンの名がまだ残っている気がした。


 桜夜は「キリストの磔刑」を見上げた。


 赤木家の当主たちは、この絵の前で何を祈ってきたのだろう。


 志半ばで処刑された救世主は、本当は何を思ったのだろうか。


 桜夜にはわからない。


 だが、祈りの家で今夜、魔女の娘たちは眠っている。


 その事実だけは、どこか皮肉で、どこか救いのようにも思えた。


 サイカ。


 ホムラ。


 リオ。


 三つの色が、今夜彼の周囲に集まった。


 雷。


 炎。


 湖。


 そして、その向こうには、夢渡りの少女が告げた別のエデンがある。


 救えなかった星。


 消えた子どもたち。


 名前を借りた男。


 桜夜は椅子にもたれ、天井を見上げた。


「神様でも天使でもないんだがな、僕は」


 誰に向けた言葉でもない。


 だが、どこかで大天使ガブリエルが微笑んでいるような気がして、桜夜は心底嫌そうな顔をした。


「奇蹟執行なんて、二度と御免だ」


 彼が出会ったガブリエルはとても美しい少女の姿をしていた。そして桜夜の仕事を見届けたあと、こう言った。


《あなたが奇蹟執行官に、私たちの代理人に今後もなってくれるなら、あなたにも奇蹟をプレゼントしてあげる》


 桜夜は泣きそうになった。叫びそうになった。「奇蹟」。それは魔法をも超える力。キリストは死者すら蘇らせ、自分も復活してみせた。

 だから願いたかった。祈りたかった。「もう一度」と。だが彼は願わなかった。祈らなかった。今でも後悔している。あのときガブリエルが差し出してきた白百合をつかめば、喪ったものをすべて取り戻せたのに。


 彼は聖書を閉じて机に置いた。


「我が神我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」


 キリストが処刑される前につぶやいたことば。もちろん桜夜には信じる神も救ってくれる神もいない。()()()()見捨てられている。


 そんなとき、屋敷の外で風が鳴った。


 北から南へ。


 次の駒が動く気配がした。


 不死身の魔女のゲームは、まだ終わっていない。


 むしろ、ようやく始まったばかりだ。


 桜夜は地図の上に視線を戻し、万年筆を手に取った。


 青森の次。


 秋田。


 白井家。


 地図の上に次々と丸印とバツ印をつけ、チェスの駒を配置していく。


 不死身の魔女はクイーンにしてキング。最強の駒だ。


 今の桜夜の手札でどう戦うか。


「さて」


 彼は静かに言った。


「次はなにをして遊ぶ?」


 応接室の明かりは、夜明けまで消えなかった。


 そして水希桜夜はまだ知らない。


 この夜に赤木家の聖書で読んだエデンと、夢で聞いた星のエデンが、いつか一本の線でつながることを。


 神も天使も、魔女も人間も。


 救いという言葉を掲げる者ほど、ときに誰かの生を奪おうとする。


 だからこそ、黒の騎士は剣を取る。


 信仰のためではない。


 奇蹟のためでもない。


 ただ、助けてと泣いた少女たちが、自分の色で生きられるように。


 そのためだけに。


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