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第1話 契約――コントラクト――

 四方院家の名は、便利だ。


 少なくとも、こういう夜には便利だった。


 赤木家の屋敷に倒れていた者たちは、救急隊員によって次々と運び出されていった。誰も余計なことは聞かなかった。警察にもすでに話は通してある。事情聴取、現場検証、報道対応。そうした面倒な言葉は、四方院という巨大な家名の前では、たいてい順番を後回しにされる。


 もちろん、問題が消えるわけではない。


 ただ、見えない場所へ移されるだけだ。


 桜夜はそのことをよく知っていた。


 だからこそ、あまり好きではなかった。


「本当に、面倒な家に拾われたものだ」


 彼は誰に聞かせるでもなく呟き、赤木家の台所で勝手に湯を沸かしていた。


 深夜の屋敷は静かだった。


 静かすぎるほどだった。


 少し前まで雷が走り、人が倒れ、刃が少女の首筋に触れていた場所とは思えない。廊下の奥では使用人たちが運ばれたあとに残った毛布が乱れている。畳には焦げ跡があり、壁には黄色い稲妻の痕が斜めに走っていた。


 それでも台所だけは、妙に生活感があった。


 棚には来客用の茶器があり、戸棚の奥には未開封のココアの缶があった。誰かが飲むつもりだったのだろう。あるいは、子どもが来たときのために置いていたのかもしれない。


 桜夜はその缶を見つけたとき、ほんの少しだけ手を止めた。


 子ども。


 その言葉が、胸の奥で妙に重く響いた。


 夢のせいだ。


 そう思うことにした。


 エデン。


 アダム。


 名前を借りた「水希桜夜」。


 消えていった影の子どもたち。


 そして、未来から夢を渡ってきたという少女、咲夜。


 どれも夢だ。


 今ここにあるのは、青森の夜と、赤木家の屋敷と、イカズチを纏っていた少女だけだ。


 桜夜は湯気の立つ鍋を見下ろし、ため息をついた。


「夢にまで仕事を持ち込むようになったら、さすがに末期だな」


 ココアを二つのカップに注ぐ。


 一つは自分用。


 もう一つは、あの少女用。


 少女は応接室に待たせてある。


 拘束はしていない。


 扉の鍵もかけていない。


 逃げようと思えば逃げられる。窓からでも、裏口からでも、まだ夜に紛れる方法はいくらでもあった。


 だが、桜夜にはなんとなくわかっていた。


 少女は逃げない。


 助けて、と言ったからだ。


 自分で言った言葉から逃げられるほど、器用そうには見えなかった。


 そういう女は、たいてい損をする。


 そして桜夜は、そういう女に甘い男だった。


 ◇◇◇


 応接室の扉を開けると、少女は三人がけのソファーの端に座っていた。


 小さな身体をさらに小さくするように、膝の上で両手を握りしめている。黄色い髪は乱れ、顔色は悪い。だが、逃げ出した様子はなかった。


 桜夜は少しだけ大げさに目を丸くした。


「おや、逃げなかったのか」


 少女はびくりと肩を震わせた。


 それから、おずおずと顔を上げる。


「たすけて、って、言った、から」


「律儀だねえ」


 桜夜は苦笑しながら、彼女の前にカップを置いた。


「まあ疲れただろうし、飲みなさいな。飲みながら話しましょう」


 少女はカップを見つめた。


 白い湯気が立っている。


 甘い匂いが応接室に広がった。


 桜夜は自分のカップを持ち上げ、口をつける。


「あちち」


 猫舌だった。


 昔からそうだ。戦場では炎にも毒にも慣れているくせに、熱い飲み物だけはどうにもならない。


 少女はその姿を見て、ほんの少しだけ目を瞬かせた。


 人を斬りそうな刀を持っていた男が、ココアで熱がっている。


 その落差がよほどおかしかったのか、少女の口元がわずかに緩んだ。


 それを見て、桜夜は内心で少し安心した。


 まだ笑える。


 なら、まだ壊れきってはいない。


 ()()()()()()()()


 少女はカップを両手で包み、ふうふうと冷ましてから一口飲んだ。


 その瞬間、桜夜は眉を上げた。


「……あー、飲むんだ」


 少女は不思議そうに首を傾げる。


「え?」


「僕はまだ君の味方じゃない。どちらかというと敵側だ。敵の出した飲み物なんて、僕は恐ろしくて飲めない」


 少女ははっとしたようにカップから口を離した。


 桜夜は肩をすくめる。


「君、戦闘のプロじゃないね」


 少女はうつむいた。


 ココアの入ったカップを、そっと机に置く。


「……ごめんなさい」


「謝るところじゃないよ。むしろ安心した」


「安心?」


「君がそっちのプロじゃないなら、無理矢理戦いに利用されたいたいけな少女を助けた、というシナリオが書ける」


 少女は顔を上げた。


 黄色い瞳が揺れている。


「たすけて、くれるの?」


 その声に、桜夜は一瞬だけ黙った。


 夢の中で聞いた声と重なる。


 助けて。


 エデンの黒い海に沈んでいった子どもたち。


 咲夜の泣きそうな声。


 そして目の前の少女。


 もちろん全部を一緒にするべきではない。


 この子はこの子だ。


 夢の残響ではない。


 今ここで震えている、現実の少女だ。


 だから桜夜は、いつものように軽く笑った。


「もちろん」


 少女の表情が明るくなりかける。


 その前に、桜夜は続けた。


「それが四方院家の害にならないなら、ね」


 少女の顔が少し曇った。


 残酷な言い方だとは思う。


 だが、曖昧に優しい言葉だけを与えるほど、桜夜は善人ではなかった。


 四方院家特別相談役。


 その肩書きは飾りではない。


 宗主直属の荒事担当。


 宗主クラスでなければ対応できない問題を処理し、時に四方院家を守るためなら宗主に背くことも許される地位。


 言い換えれば、四方院家に害をなすものを切り捨てる役目でもある。


 少女を助けることと、四方院家を守ること。


 その二つが矛盾したとき、自分はどうするのか。


 答えはまだ出せない。


 だが、出せないままでも、話は聞ける。


「で、君のご依頼は?」


 桜夜が尋ねると、少女はカップを見つめたまま、小さく息を吸った。


「わたしと、わたしの姉妹2人を助けてほしいの」


「姉妹」


 桜夜はその言葉を繰り返した。


 夢の中で見た三つの色が、脳裏をよぎる。


 雷の黄。


 炎の赤。


 湖の青。


 なるほど。


 咲夜の言った「最初の色」は、この少女一人のことではなかったらしい。


 そもそも桜夜にとっての「最初の色」は黄色でも赤色でも青色でも、もちろん黒色でもない。


「白」だ。


 なにものも穢せない、自分が触れてはいけない「白」。


 守れなかった、救えなかった、色。


 そんな気持ちを隠すように桜夜は少女に尋ねる。


「名前は?」


「わたしは、サイカ」


 少女は答えた。


「姉妹は、ホムラとリオ」


「サイカ、ホムラ、リオ」


 桜夜は三つの名を口の中で転がす。


 不思議な響きだった。


 どれも熱を持っている。


 どれも水音を持っている。


 どれも雷鳴を持っている。


 そして、どれも子どもの名だった。


「君たちは、()()()の娘なんだろう」


 桜夜がそう言うと、サイカの肩が跳ねた。


 あの女。


 不死身の魔女。


 四方院家の北の拠点を順番に潰している存在。


 北海道の最北端から一つずつ、まるで盤上の駒を進めるように四方院に連なる拠点を襲わせていた女。


 その娘が、今、桜夜の前で震えている。


 もちろん証拠はない。あくまでも揺さぶりに過ぎない。しかし少女は小さくうなずいた。


「……うん。でも、わたしたちはお母さんの道具じゃない。こんなこと、したくなかった」


「四方院の秘密を教えろ、と言っていたね」


「そう言えって、言われたから」


「秘密の中身は?」


「知らない。ただ、四方院が隠してる不死の秘密を聞けって」


 不死。


 その単語に、桜夜の口元から笑みが消えた。


 四方院家には、いくつもの秘密がある。


 長い歴史を持つ家なら、どこにでも秘密はあるものだ。だが不死に関わるものとなると、笑い話では済まない。


 桜夜自身にも、他人事ではない。


 フェニックス。またの名を、鳳凰。


 かつて病弱な身体を捨てるために――そして「白」を救うために――契約した存在。


 毒や病に強く、傷の治りも早い。だが完全な不死ではない。深手を負えば倒れるし、「神殺し」と呼ばれるような「神器」くらすの武器に貫かれればどうなるかわからない。そもそも完全に肉体も魂も消滅させられてしまったら果たして再生できるのだろうか。やったことはないのでわからなかった。


 それでも普通の人間から見れば、十分に化け物だ。


 咲夜の声が蘇る。


 お父様は、自分が怖いときほど、ふざける。


 桜夜は内心で舌打ちした。


 未来の娘というのは、どうしてこうも痛いところを突いてくるのか。


「助けたとしても、僕は君たちを一生守らないといけない」


 桜夜は言った。


「相手は不死身の魔女だ。君たちをそこらの施設に預けて終わり、というわけにはいかない。四方院本邸に匿えば、魔女と四方院の全面戦争になる可能性がある。護衛をつけるにしても、並の人間じゃ守りきれない」


 サイカは唇を噛んだ。


「つまり、僕が君たちを手元に置くことになる」


「……」


「それは君たちにとっても、僕にとっても、四方院家にとっても厄介だ。だから聞こう」


 桜夜はサイカを見た。


 華奢な身体。


 栄養状態もよくない。


 戦闘に向いているとは思えない心。


 それでも、姉妹たちのために敵陣で助けを求めた少女。


「君は、何を差し出す?」


 サイカは小さく息を呑んだ。


 残酷な問いだ。


 自分でもそう思う。


 だが必要だった。


 助けると決めるだけなら簡単だ。


 問題は、その後だ。


 追われ続けること。


 戦い続けること。


 母親と敵対すること。


 四方院の管理下に置かれること。


 普通の暮らしを失うかもしれないこと。


 それを理解しないまま、優しい言葉だけで連れていけば、この少女はいつか壊れる。


 だから、試す。


 覚悟を。


 あるいは、諦めの悪さを。


「わたし、あなたにあげられるもの、ない」


 サイカはうつむいた。


 握った拳が震えている。


「お金もない。力も、ちゃんと使えない。お母さんに言われたことも、うまくできなかった。戦うのも、怖い」


「だろうね」


「でも」


 サイカは顔を上げた。


 黄色い瞳に、涙が浮かんでいる。


 だが、今度はこぼれなかった。


「でも、家族を助けたい」


 その声は震えていた。


 それでも、芯があった。


「ホムラはすぐ怒るけど、本当は優しいの。リオは大人っぽいけど、本当は誰よりも怖がりなの。二人とも、お母さんの道具なんかじゃない。わたしたちは、ただ普通に生きたいだけなの」


 普通に生きたい。


 その言葉は、桜夜の胸の奥に深く刺さった。


 普通。


 桜夜がとうの昔に諦めた言葉。


 それを、まだ諦めきれない少女が目の前にいる。


「わたしを使って」


 サイカは言った。


「わたしがあなたの盾でも、道具でも、なんでもなる。だから、家族を助けて」


 桜夜は目を細めた。


 道具。


 その言葉は嫌いだった。


 昔の自分を思い出す。


 才能があるから拾われた。


 戦えるから使われた。


 役に立つから生かされた。


 そう思っていた時期がある。


 今でも完全には抜けていない。


 そして指揮官としての彼は、政治家としての彼は、他者を「道具(コマ)」として使うことに精通していた。


 だが、目の前の少女に同じことを言わせたくはなかった。


 桜夜はカップを机に置き、立ち上がった。


 サイカがびくりとする。


 彼は少女の前に膝をついた。


 同じ目線になる。


「サイカ」


「は、はい」


「一つ訂正しておく」


「え?」


「僕は盾や道具がほしいわけじゃない。そんなものはいくらでもある」


 サイカは戸惑ったように瞬きをした。


「なら……」


「僕がほしいのは、契約を守る意思だ」


 桜夜は右手を差し出した。


「君は家族を助けたい。僕は四方院家に害を出さず、かつ君たちを利用できる形で保護したい。利害は一致している」


「利用……」


「きれいな言葉だけで済ませる気はないよ。君たちの力は、間違いなく戦力になる。僕はそれを使う。だが」


 桜夜は少しだけ声を落とした。


「君たちを母親の道具には戻さない」


 サイカの目が揺れた。


「本当に?」


「契約するならね」


「契約……」


(ふる)い契約だ。血も唇もいらない。君が自分の意思で僕の手を取ればいい」


 サイカは差し出された手を見つめた。


 細い指が震える。


「手を取ったら、どうなるの?」


「僕は君たちを保護する。君たちは僕の指示に従う。ただし、君たちの命と尊厳を損なう命令はしない。君たちが拒む権利も残す」


「そんな契約、都合がよすぎない?」


「そうだね。僕にとってはずいぶん不利だ」


「なんで?」


 桜夜は少し考えた。


 正直に言うなら、夢のせいだ。


 咲夜が、助けてと言ったから。


 エデンの子どもたちが、手の届かないところで消えたから。


「水希桜夜」が、後悔を残したから。


 でも、それをこの少女に話すつもりはなかった。


 代わりに、彼は軽く笑った。


「女の涙に騙されてやるのが男だと昔誰かに教わってね」


 サイカはぽかんとした。


 それから、泣きそうな顔のまま、少しだけ笑った。


「変な人」


「よく言われる」


 サイカは恐る恐る手を伸ばした。


 桜夜の手に触れる。


 小さな手だった。


 冷たい。


 だが、生きている手だった。


 その瞬間、桜夜の胸の奥で、何かが小さく鳴った。


 夢の桜が散る。


 咲夜の声が聞こえた気がした。


 最初の色に出会ったね、お父様。


 桜夜は内心でため息をつく。


 うるさい夢だ。


「最初の色」にはもうすでに出逢い、喪った。それをあの娘は知らないのだろうか。


 だが、不思議と嫌な気分ではなかった。


「契約成立だ」


 桜夜はサイカの手を軽く握り返した。


「助けてやるよ。君たちを」


 サイカの目から、今度こそ涙がこぼれた。


 だがそれは、さっきまでの涙とは違っていた。


「ありがとう」


 小さな声だった。


 それでも、確かに届いた。


 桜夜はその手を離し、立ち上がる。


「さて。契約が成立したところで、少し寝なさい」


「え?」


「君、顔色がひどいよ。妹たちが来るまでに倒れられると困る」


「妹たちが来るって、わかるの?」


「わかるさ」


 桜夜は窓の外を見た。


 夜の向こうから、二つの強い力が近づいている。


 一つは熱い。


 火の塊のように一直線で、怒りに満ちている。


 もう一つは冷たい。


 水のように静かで、けれど底が見えない。


 ホムラ。


 リオ。


 まだ顔も見ていないのに、名前だけでわかった。


 夢の中の三つの色が、現実の気配になって近づいている。


「君の家族は、ずいぶん君が好きらしい」


 サイカは目を見開いた。


 それから、慌てて立ち上がろうとする。


「だめ、二人は誤解してる。わたしが捕まったと思ってるかも」


「だろうね」


「止めなきゃ」


 サイカは立ち上がった瞬間、足元をふらつかせた。


 桜夜は咄嗟に支えた。


「僕が行く」


「だめ! 二人とも強いの。ホムラはすぐ手が出るし、リオは怒ると何をするかわからないし」


「それは楽しみだ」


「楽しみじゃない!」


 サイカは必死だった。


 桜夜はその顔を見て、少しだけ表情を緩める。


「大丈夫。殺しはしない」


「本当……?」


()()()()()()()()()()()()。先生はいつもそう言っていた」


 もう会えない師匠。自分を拾った恩人。名付け親。「水希桜夜」が他者を傷つけることを恐れる「強さ」と、他者を傷つけて愉しむ「弱さ」を持っていることを最初に見抜いた人物。「先生」は自分と大切なものを守る技術だけを教えてこの世を去った。しかし桜夜は結局、「守るために攻める力」を身に着けてしまった。弱い者を踏みにじる悦楽を知ってしまった。だからこそ。


 桜夜はソファーにあった毛布をサイカの肩にかけた。


「ここで待っていなさい」


「でも」


「サイカ」


 名を呼ぶと、少女は口を閉じた。


「家族を助けたいなら、まず自分が倒れないことだ」


 その言葉に、サイカは悔しそうに俯いた。


 やがて小さく頷く。


「……わかった」


「良い子だ」


「子ども扱いしないで」


「子どもだろう」


 サイカは少しだけむっとした顔をした。


 その表情を見て、桜夜はまた少し安心した。


 怒れるなら、大丈夫だ。


 悲しみと恐怖だけで埋まっているわけではない。


 桜夜は応接室を出た。


 廊下の先で、防寒用のマントを羽織り、腰に桜吹雪を差す。


 玄関へ向かう途中、ふと足を止めた。


 廊下の窓に、自分の顔が映っている。


 黒い着物スーツ。


 公式任務中を示す四方印。


 四方院家特別相談役、水希桜夜。


 その名を、どこかの誰かが借りた。


 エデンへ行き、救えずに消えた。


 そして今、本来の水希桜夜は、別の少女たちを助けようとしている。


 まるで帳尻合わせだ。


 そう思って、すぐに否定した。


 違う。


 サイカはエデンの代わりではない。


 ホムラも、リオも、消えた子どもたちの代わりではない。


 彼女たちは彼女たちだ。


 ここにいる。


 だから助ける。


 それだけだ。


「本当に、面倒だな」


 桜夜は小さく笑い、玄関を開けた。


 青森の夜気が、頬を刺した。


 屋敷の前庭に出た瞬間、炎が走った。


「サイカを返せ!」


 声と同時に、赤い火の塊が突っ込んできた。


 その中心にいたのは、サイカを少しボーイッシュにしたような少女だった。赤い髪。赤い瞳。引き締まった身体。怒りをそのまま炎にしたような魔力。


 ホムラ。


 桜夜は鞘ごと桜吹雪を抜き、彼女の拳を受け止めた。


 衝撃が腕に響く。


「っ」


 なかなか速い。


 子どもだと思って油断すれば、普通の術者なら一撃で沈む。


「てめえが四方院の犬か!」


「犬は否定しないが、てめえ呼ばわりは傷つくね」


「うるせえ! サイカをどこにやった!」


「応接室で寝かせているよ。ココア付きで」


「信じるか!」


 ホムラがさらに炎を強める。


 桜夜は力を受け流しながら、内心で感心した。


 怒りがまっすぐだ。


 姉を助ける。


 それ以外の余計なものがない。


 こういう相手は強い。


 そして危うい。


「離れて、ホムラちゃん」


 静かな声が響いた。


 ホムラが桜吹雪の鞘を蹴り、後方へ跳ぶ。


 次の瞬間、桜夜の視界いっぱいに水が広がった。


 津波だった。


 屋敷ごと飲み込むつもりかという量の水が、夜の庭を覆い尽くすように迫ってくる。


「ちっ」


 サイカが中にいるかもしれない屋敷ごと流すつもりか。


 いや、違う。


 水の軌道は、ぎりぎり屋敷を避けている。


 荒っぽく見えて、制御は繊細だ。


 リオ。


 桜夜は桜吹雪を抜いた。


 刃が月のない夜に淡く光る。桜を思わせる薄紅色の刃だった。


「剣じゃなくて刀だよ、と先に言っておくか」


 誰に向けたかわからない独り言を漏らし、桜夜は迫る水へ刃を振るった。


 水が割れた。


 モーセの海割りのように、津波は左右に裂け、力を失って庭へ降り注いだ。


 雨のような飛沫の向こうで、青い髪の少女が目を細めていた。


 長い髪。


 湖のような瞳。


 サイカやホムラとはまた違う、大人びた気配。


「あら、ただの犬ではないようですね」


 リオと思われる少女は優雅にほほ笑む。仕事柄「ご令嬢」と話すことはあるが、その上品さは並みのご令嬢ではかなわないだろうほどだった。


「サイカちゃんに何をしたのですか?」


「ココアを出した」


「それだけ?」


「それだけ、というには少し話もしたかな」


 リオの目が冷たくなる。


 ホムラが空中で巨大な火球を作り始めた。


「リオねえ、話すだけ無駄だ。こいつをぶっ飛ばしてサイカを取り返す!」


「待ちなさい。サイカちゃんの気配は確かに屋敷の中にあります。けれど、苦しんでいる様子はありません」


「じゃあなんで出てこねえんだよ!」


「消耗しているのでしょう」


「だったらなおさらこいつのせいだろ!」


 炎がさらに膨れ上がる。


 桜夜は息を吐いた。


 殺す気はない。


 彼が師匠から、師匠は「はじまりのもの」から、「救世流」という技法を学んだ。ただひたすら相手の攻撃を受け流し、回避し、受け止める。それを相手があきらめるまで続ける。我慢比べの業だ。後に桜夜は神原という男から超攻撃的な剣術を学び、積極的に相手の戦力を削る方法も会得していた。

 相手がどんな歴戦の戦士でも両手足を失えば戦えない。「魔女」の弱点も心得ている。魔力の源を貫けばいい。それは「丹田」とも「子宮」とも言われている。

 桜夜は目を細める。その瞳が冷たくなる。命の終わりを知る者の目だ。ホムラとリオはその瞳を見て固まってしまった。

 まずは攻撃態勢のまま固まっているホムラの下腹部を貫くために桜夜が動く寸前、悲鳴のような声が戦場に響いた。


「やめなさい! ホムラ! リオ!」


 桜夜の瞳に少しだけ温かみが戻る。


 声の主、サイカは毛布を肩にかけたまま、玄関に立っていた。


 顔色はまだ悪い。


 だが、その目はまっすぐだった。


「この人は、味方よ!」


 夜の庭に、静寂が落ちた。


 ホムラの炎が揺れる。


 リオの水が地面へ沈む。


 桜夜は刀を下ろし、煙管がほしいなと思った。


 こういう場面では、間を持たせる小道具が必要だ。


「……味方かどうかは、まだわからないけどなあ」


 小さく呟く。


 サイカに睨まれた。


 どうやら聞こえていたらしい。


 桜夜は肩をすくめる。


 夢の中で、咲夜が笑った気がした。


 黒は、色を守るための夜なんだよ。


 そう言っていた。


 なるほど。


 今のところ、黒は三つの色に囲まれている。


 雷の黄。


 炎の赤。


 湖の青。


 どれも扱いづらく、どれも危うく、どれも眩しい。


 桜夜は、静かに刀を鞘へ戻した。


「さて」


 彼は三人の少女を見渡す。


「寒いし、話は中でしようか。ココアなら、まだある」


 ホムラが噛みつくように叫んだ。


「誰がてめえの出したもんなんか飲むか!」


「正しい判断だ」


「なんで褒めてんだよ!」


 リオが口元に手を当て、くすりと笑った。


 サイカは困ったように、けれど少しだけ安堵した顔で三人を見ていた。


 桜夜はその表情を見て、思う。


 まだ何も終わっていない。


 不死身の魔女は動いている。


 四方院家の拠点は狙われている。


 この三姉妹を守るには、これからもっと面倒な選択をしなければならない。


 それでも今夜、少なくとも三人は揃った。


 誰も死んでいない。


 それだけで上出来だ。


 黒い夜の中、三つの色が揺れていた。


 そして「水希桜夜」はまだ知らない。


 この契約が、ただ三人の少女を助けるためだけのものではないことを。


 夢渡りの少女が告げた未来。


 エデンで消えたもう一人の「水希桜夜」。


 救えなかった子どもたちの残響。


 それらがいつか、この小さな契約へ戻ってくることを。


 今はまだ、誰も知らない。


 ただ、雪の残る青森の夜に、黒の騎士と三原色の少女たちは初めて同じ屋根の下へ入った。


 それが、長い物語の「はじまり」だった。

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