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プロローグ 夢渡りの少女

 水希桜夜は、ときどき妙な夢を見る。


 子どもの頃からそうだった。


 知らない街を歩く夢。見たこともない星空の下で、誰かの名前を呼ぶ夢。真っ黒な海の底で、息もできないはずなのに、ただ静かに沈んでいく夢。夢の中の自分は、いつも少しだけ自分ではなかった。


 顔も、声も、名前も同じだ。


 けれど、どこかが違う。


 夢の中の自分は、今の自分よりも遠くを見ていた。人間の世界よりも大きなものを知っていて、しかもその大きさに疲れ果てているようだった。桜夜には、それが嫌だった。


 だから目が覚めるたび、彼はいつもこう思う。


 面倒な夢を見た、と。


 夢とは本来、目覚めれば終わるものだ。


 だが、桜夜の見る夢は違った。目覚めても、匂いが残る。手触りが残る。言葉が残る。知らないはずの誰かの泣き声が、耳の奥にこびりつく。


 そして最近、その夢には一人の少女が現れるようになっていた。


 少女の名は、咲夜。


 最初に会ったとき、彼女は桜の木の下に立っていた。


 そこがどこなのか、桜夜にはわからなかった。四方院本邸の庭にも見える。だが、庭の向こうには見慣れた屋敷がなく、代わりに夜の海のような宇宙が広がっていた。空には星が多すぎた。地球の空ではない。けれど完全に異世界でもない。


 中途半端な場所だった。


 夢と夢のあいだ。


 世界と世界の隙間。


 そう呼ぶのが一番近い気がした。


 少女は、十三か十四ほどに見えた。


 長い黒髪を背中に流し、白い着物の上に黒い羽織をかけている。瞳は桜夜とよく似た黒だった。だが、笑うとその奥に淡い桜色が揺れる。


 彼女は桜夜を見つけると、ひどく懐かしそうに笑った。


「やっと会えた」


 それが最初の言葉だった。


 桜夜は眉をひそめた。


「誰だ、君は」


「咲夜」


「名前を聞けば何者かわかるほど、僕は賢くない」


「知ってる。お父様はそういう人だもん」


 桜夜は黙った。


 少女は照れたように笑う。


「わたしは咲夜。水希咲夜。あなたの娘です」


 夢にしては、ずいぶん悪質な冗談だった。


 桜夜はそのとき、まだ誰の夫でも、誰の父でもなかった。四方院家特別相談役という厄介な肩書きだけを背負い、宗主直属の雑用として日本中の荒事に駆り出されているだけの男だった。


 親もなく、幼い頃に拾われ、才能があるからと刀を握らされ、気づけば化け物に片足を突っ込んでいた。


 そんな男に、娘。


 笑えない。


「夢にしては趣味が悪いな」


 桜夜がそう言うと、咲夜は少しだけ唇を尖らせた。


「夢だけど、ただの夢じゃないよ」


「じゃあ何だ」


「夢渡り」


 聞き慣れない言葉だった。


 咲夜は桜の幹に手を当てながら続ける。


「夢は、閉じたものじゃない。眠っている意識は、世界の表面から少しだけ浮くの。浮いた意識は、似た波長の世界に触れられる。普通の人はそれを忘れてしまう。でも、わたしは忘れない方法を知ってる」


「便利な力だな」


「便利じゃないよ。怖い力だよ。だって、見たくないものまで見えるから」


 咲夜の声から、ふざけた色が消えた。


 桜夜は黙る。


 彼女は空を見上げた。そこには星がある。無数の星。だが、そのいくつかは瞬いていなかった。まるで黒い穴が空いているように、光のない星が混じっていた。


「あれは、滅びた世界」


「世界が滅びる夢なら、誰でも一度くらい見るだろう」


「違うよ。夢じゃない。あれは本当にあったこと」


 咲夜は桜夜を見た。


「エデンという星がある」


 その名を聞いた瞬間、桜夜の胸の奥で何かが鳴った。


 知らない名前のはずだった。


 けれど、知らないままではいられない名前だった。


「そこでは、生まれることが罪だった」


 咲夜は言った。


「誰も苦しまないために、誰も生まれない。そう決めた星。優しさの顔をして、未来を閉じていった星」


 桜夜は何も言わなかった。


 夢の中だというのに、手のひらが冷えていく。


「その星に、アダムという男の子が生まれた。生まれてはいけない世界に生まれた、たった一人の子ども。彼はたくさん傷ついて、それでも生きようとした。だけど、エデンは壊れた。救えなかった」


「僕にそれを話してどうする」


 咲夜は答えなかった。


 代わりに、桜の花びらが一枚、二人の間に落ちた。


 その花びらが地面に触れる前に、景色が変わった。


 桜夜は、知らない山の中にいた。


 巨大な施設だった。


 眠るための棺のような装置が並び、赤い警告灯が壁を染めている。外では白い飛行艇が山を包囲していた。清潔で、正しくて、慈悲深い顔をした暴力が、空から降りてくる。


 そこに、一人の男がいた。


 黒い影を纏った男。


 顔は桜夜と同じだった。


 声も、体つきも、癖も、刀を持つ手の形さえ似ていた。


 だが、桜夜はすぐに理解した。


 あれは自分ではない。


 自分ではないのに、自分の名を持っている者だ。


「誰だ、あいつは」


 桜夜が尋ねる。


 咲夜は苦しそうに答えた。


「水希桜夜を名乗った人」


「名乗った?」


「うん。あの人は、お父様の名前を借りたの」


 桜夜は夢の中の男を見た。


 男は崩れゆく施設の中で、子どもたちを逃がそうとしていた。アダムという少年。イヴという少女。まだ生まれていない未来を抱えた者たち。彼は影を伸ばし、扉を開き、壊れた機械を動かし、最後の脱出路を作っていた。


 その姿に、桜夜は嫌な既視感を覚えた。


 助けを求める者がいる。


 ならば助ける。


 そんな当たり前を、当たり前のようにやってしまう厄介な性分。


 桜夜は、あの男を知らない。


 だが、あの男がなぜ自分の名を借りたのかは、少しだけわかった気がした。


「あの人は、エデンを救えなかった」


 咲夜の声が震えた。


「アダムたちを逃がした。眠っていた子どもたちの一部も、未来へ送った。でも、星そのものは救えなかった。たくさんの命が消えた。たくさんの可能性が閉じた」


「……それで、あいつは?」


「消えた」


 咲夜は、はっきり言った。


「エデンの崩壊に巻き込まれて、世界の裂け目に落ちた。存在そのものが削れて、名前も、影も、記憶もばらばらになった。それでも最後に、子どもたちを残した」


「子ども?」


 桜夜の声が低くなる。


 咲夜は頷いた。


「あの人の子どもたち。血の子じゃない。影から生まれた子。救えなかった命の残響。エデンで生まれるはずだった未来の欠片。あの人は、自分の名を借りた責任として、その子たちを守ろうとした」


「守れたのか」


 咲夜は首を横に振った。


「守れなかった」


 その一言は、夢の空気を凍らせた。


 景色がまた変わる。


 桜夜は、黒い海のような場所に立っていた。


 そこに、小さな影がいくつも浮かんでいた。


 子どもの形をしたもの。


 声にならない声。


 名づけられる前に消えた命。


 生まれていいのかと問う暇さえなく、世界の崩壊に呑まれた者たち。


 その中心に、名前を借りた水希桜夜が膝をついていた。


 彼は何かを叫んでいた。


 だが、声は届かない。


 腕を伸ばしている。


 けれど、届かない。


 影の子どもたちは、一人、また一人と黒い海へ沈んでいく。


 桜夜は、思わず拳を握った。


 胸の奥がざらつく。


 自分の記憶ではない。


 自分の罪でもない。


 それでも見ているだけで腹が立った。


 助けられなかったことに。


 助けようとした者が、最後まで手を伸ばしてしまったことに。


 そして、自分がその名の本来の持ち主であることに。


「なぜ僕に見せる」


「必要だから」


「僕に何をしろと?」


「まだ、わからない」


 咲夜は正直に言った。


「わたしは未来から来た。でも、未来は一つじゃない。夢渡りで見える未来は、可能性の束みたいなものなの。だから、わたしが知っていることも全部正しいわけじゃない」


「なら、なおさら信用できない」


「うん。だから信じなくていい」


 咲夜は、泣きそうな顔で笑った。


「でも、覚えておいて。いつかお父様は三人の少女に出会う。雷の子。炎の子。水の子。その三人は、お父様を何度も救う。でも同時に、お父様はその三人を何度も危険に巻き込む」


 桜夜は黙った。


「そして、いつか世界の危機が来る。エデンだけじゃない。地球も、夢の向こうの世界も、名もない可能性の世界も、全部まとめて崩れかねない危機が」


「ずいぶん壮大な話だな」


「茶化さないで」


 咲夜の声が鋭くなった。


 桜夜は少しだけ目を伏せる。


「悪い」


「お父様は、いつもそう。自分が怖いときほど、ふざける」


「未来の娘なら、親の嫌なところまでよく知っているらしい」


「うん。よく知ってる」


 咲夜は近づいてきた。


 そして、桜夜の手を取った。


 小さな手だった。


 夢の中なのに、温かかった。


「ねえ、お父様」


「僕はまだ君の父親じゃない」


「でも、いつかそうなる」


「確定か?」


「そうなる未来を、わたしは選びたい」


 その言葉に、桜夜は何も返せなかった。


 咲夜は桜夜の手を握ったまま、まっすぐに見上げてくる。


「エデンへ行った水希桜夜は、あなたの名前を借りた。だから、あなたは無関係じゃない。でも、あの人の代わりにならなくていい。あの人の後悔を背負わなくていい」


「なら、なぜ伝えに来た」


「背負わせるためじゃない」


 咲夜は言った。


「選べるようにするため」


 夢の世界が揺れた。


 桜の花が散る。


 黒い海が遠ざかる。


 エデンの山も、影の子どもたちも、白い光も、少しずつ薄れていく。


「もう時間がない」


 咲夜はつぶやいた。


「目が覚めるのか」


「うん。お父様はこれから青森へ行く」


「青森?」


「そこで、最初の色に出会う」


 雷の音がした。


 夢の空に、黄色い光が走る。


「イカズチの少女。サイカ。彼女を助けて」


「夢の中の娘に頼まれたから、初対面の少女を助けるのか」


「違うよ」


 咲夜は微笑んだ。


「お父様は、頼まれなくても助ける」


 その言い方があまりに自然で、桜夜は苦笑した。


「買いかぶりだ」


「違う。知ってるだけ」


 咲夜の姿が薄れていく。


 桜夜は反射的に手を伸ばした。


 だが、夢の中の少女はもう遠かった。


「待て。まだ聞きたいことがある」


「また会えるよ。夢の中で」


「咲夜」


 名を呼ぶと、少女はうれしそうに笑った。


「お父様」


 その声は、どこか懐かしかった。


「黒は、終わりの色じゃないよ」


 少女は言った。


「黒は、色を守るための夜なんだよ」


 次の瞬間、桜夜は目を覚ました。


 車の中だった。


 東北自動車道を走る車の助手席。窓の外には夜の道路が流れ、白線が規則正しく後ろへ消えていく。暖房は効いているはずなのに、指先が冷えていた。


 桜夜はゆっくり息を吐いた。


 胸の奥に、夢の名残がある。


 エデン。


 アダム。


 名前を借りた水希桜夜。


 消滅した影の子どもたち。


 そして、夢渡りの少女、咲夜。


「……本当に、悪趣味な夢だ」


 思わずつぶやく。


 運転手がちらりとこちらを見た。


「お目覚めですか、相談役」


「ああ」


「珍しいですね。移動中に眠るなんて」


「少し疲れていたらしい」


「無理もありません。青森まで長いですから」


 青森。


 その地名を聞いた瞬間、夢の中の黄色い雷が脳裏をよぎった。


 イカズチの少女。


 サイカ。


 桜夜は窓の外を見た。


 夜は深い。


 東北の闇は、東京の闇より濃い。街灯はまばらで、山の影は黒く沈んでいる。路肩にはまだ雪が残り、白いはずのそれさえ闇の中では灰色に見えた。


 桜夜は自分の服を見下ろす。


 黒い着物スーツ。


 胸には、公式任務中を示す四方印のバッジ。


 腰には桜吹雪と呼ばれる刀。


 四方院家特別相談役。


 宗主直属の荒事担当。


 時に四方院家を守るためなら、宗主に背くことさえ許された地位。


 聞こえはいい。


 だが、要するに面倒事を押しつけられる雑用である。


「しかし東北でのゴタゴタに、関東の僕がなんで駆け付けなければならんのかね」


 桜夜がため息混じりに言うと、運転手は苦笑した。


「相談役は日本中のトラブルに対応する仕事ですよ」


「まったく、野良犬にはお似合いの仕事だ」


「またそんなことを」


 運転手は困ったように笑う。


 桜夜もそれ以上は言わなかった。


 野良犬。


 自分をそう呼ぶのは、癖のようなものだった。


 親もなく、幼い頃に四方院家へ拾われ、才能があるという理由だけで生き延びた。刀を持ち、術を覚え、政治の匂いを嗅ぎ分け、神や魔女や化け物の気配に怯えながら、それでも笑って歩いてきた。


 人間なのか。


 化け物なのか。


 その境界は、いつも曖昧だった。


 だからこそ、夢の中の名前を借りた男が嫌だった。


 あの男は、自分よりも自分らしく見えた。


 助けを求める者の前に立ち、面倒だと言いながら死地へ向かい、最後には消えた。


 あれは別人だ。


 桜夜はそう思う。


 だが、完全に無関係だとは言い切れなかった。


 名前を借りられた。


 ただそれだけなら笑い話にできる。


 だが、もし名が縁になるのなら。


 もし夢が、世界を渡る道になるのなら。


 もし未来の娘を名乗る少女が、本当に自分に何かを伝えに来たのなら。


「……面倒だな」


「え?」


「いや、なんでもない」


 桜夜は目を閉じた。


 眠る気はなかった。


 けれど、瞼の裏にはまだ咲夜の顔が残っている。


 お父様。


 そう呼ぶ声。


 その響きが、不思議と胸から離れなかった。


 未来。


 娘。


 三人の少女。


 世界の危機。


 どれも今の桜夜には遠すぎる話だ。


 だが、青森の赤木家で何かが起きているのは事実だった。四方院家に連なる拠点が北から順に潰されている。相手は不死身の魔女に関わる存在かもしれない。宗主はそう読んだ。だから桜夜を送った。


 夢を見たから向かっているのではない。


 任務だから向かっている。


 それでいい。


 桜夜はそう自分に言い聞かせた。


 だが、胸の奥で別の声がする。


 助けて。


 まだ聞いてもいない少女の声。


 夢に引きずられているだけだと、桜夜は思った。


 それでも、聞こえてしまったものは仕方ない。


 もし本当に、赤木家にその少女がいるなら。


 もし彼女が、こんなことをしたくないと泣くなら。


 もし彼女が、自分と二人の妹を助けてほしいと言うなら。


 そのとき自分はどうするのか。


 考えるまでもなかった。


 契約だの、任務だの、四方院家の利害だの、そういう言葉で理屈をつけることはできる。


 だが、本当はもっと単純だ。


 泣いている子どもを見捨てるほど、自分は器用にできていない。


 それだけだった。


 車はやがて高速を降り、青森の夜道へ入った。


 空気はさらに冷える。


 窓の向こうに、赤木家の屋敷が見えてきた。


 明かりはない。


 屋敷全体が、息をひそめているようだった。


 敷地に入った瞬間、桜夜は異変を感じた。


 人が倒れている。


 死んではいない。


 だが、かなりの数だ。


 運転手が息を呑む。


「相談役、これは」


「救急車の手配を。警察には四方院を通すように」


「はい」


 桜夜は車を降りた。


 冷たい夜気が頬を刺す。


 腰の桜吹雪に手を添える。


 そのとき、屋敷の奥から雷の気配がした。


 黄色い光。


 夢で見た色。


 桜夜は小さく息を吐いた。


「本当にいたか」


 独り言は、夜に溶けた。


 彼は屋敷の中へ進む。


 倒れた者たちの呼吸を確認しながら、奥へ奥へと歩いていく。床には焦げ跡が残り、壁には雷が走ったような亀裂があった。戦闘の跡というには荒い。殺すためではなく、止めるために力を使ったような痕だった。


 やがて、当主の部屋にたどり着く。


 そこに少女がいた。


 黄色い髪。


 黄色い瞳。


 小さな身体に不釣り合いなほど強いイカズチを纏いながら、彼女は苦しそうに倒れる当主の前に立っていた。


 その目は、悲しそうだった。


 桜夜は、その目を見た瞬間、夢の中の咲夜の声を思い出した。


 最初の色。


 雷の子。


 彼女を助けて。


 桜夜は肩の力を抜いた。


 いつも通りに。


 怖いときほど、ふざける。


 未来の娘に見抜かれた癖を、そのまま使う。


「おーい、お嬢ちゃん」


 桜夜はのんきに声をかけた。


「そのおっさん、返してくれる?」


 少女が振り返る。


 黄色い瞳が揺れた。


「……四方院の、秘密を教えて。そうしたら帰る」


「秘密、ねえ」


 桜夜は少し考えるふりをした。


「宗主があまりにチビだから、いまだに嫁が来ない話でいいか?」


 次の瞬間、少女の掌からイカズチが放たれた。


 桜夜は桜吹雪を鞘ごと構え、それを受け止める。守りの結界が発動し、雷が跳ね返る。少女が小さく悲鳴を上げ、動きが止まった。


 その一瞬で、桜夜は間合いを詰めた。


 桜吹雪を抜き、少女の首筋に刃を当てる。


「君のイカズチと僕の刀、どっちが早いか試してみる?」


 桜夜は笑った。


 少女は震えていた。


 目から涙がこぼれた。


「……たすけて」


 その声は、夢で聞いた声と同じだった。


 いや、違う。


 夢ではない。


 今、目の前の少女が言ったのだ。


 助けて、と。


 桜夜の胸の奥で、何かが静かに決まった。


 エデンのことはまだわからない。


 名前を借りた男のことも、咲夜のことも、世界の危機のことも、今はわからない。


 だが、この少女が泣いている。


 ならば、今やることは一つだ。


 桜夜は刃を外した。


「僕は桜夜」


 少女は涙に濡れた目で、彼を見上げる。


「君、名前は?」


 少女は震える唇で答えようとした。


 その瞬間、桜夜はなぜか、遠い夢の中の桜を思い出した。


 咲夜が笑っていた。


 黒は、色を守るための夜なのだと。


 だから桜夜は、まだ知らない未来へ向けて、ほんの少しだけ笑った。


 この夜、彼は最初の色に出会った。


 ここから、黒の騎士と三原色の少女たちの物語が始まる。


 そしてその背後では、誰にも知られぬまま、もう一つの約束が目を覚まそうとしていた。


 エデンを救えなかった水希桜夜。


 その名を貸した、本来の水希桜夜。


 夢を渡る娘、咲夜。


 消滅した影の子どもたち。


 世界を越えて絡み合うそれらの因果は、まだ一本の細い糸に過ぎなかった。


 けれど、物語というものは、いつもそうやって始まる。


 たった一つの出会い。


 たった一つの声。


 たった一つの、助けてという願いから。


 水希桜夜は、まだ知らない。


 自分がいつか、名前を借りた者の後悔と向き合うことを。


 咲夜がなぜ未来から夢を渡ってきたのかを。


 そして、三原色の少女たちが、ただ守られる存在ではなく、黒の騎士を何度でも生へ引き戻す光になることを。


 何も知らないまま、彼は少女に手を差し出した。


 黒い夜の中で、黄色い雷が静かに揺れていた。


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