第37話 色を選ぶ日
ムラーノ島へ向かう舟の上で、サイカはずっと水面を見ていた。
ヴェネツィアの水は、見る角度によって色を変える。
灰色。
青。
緑。
銀。
光が差せば金色にもなる。
水面に建物の色が映り、舟が通るたびに崩れる。
崩れても、また別の形になる。
「きれい」
サイカが小さく言った。
「うん」
桜夜は隣で頷く。
「でも、ずっと同じ形じゃないんだね」
「水だからね」
「壊れても、またきれい」
「そうだね」
サイカは、教皇からもらった白と透明のロザリオを胸元にしまっていた。
白い船の白ではない。
朝の白。
祈りの白。
まだ何色でもない白。
ヴァチカンで聞いた言葉は、まだ彼女の中に残っているらしい。
リオは舟の縁に手を添え、島へ近づく景色を見ていた。
「水と建築が、ここまで一体化している街は珍しいですね」
「リオちゃんは好きそうだね」
「はい。脆さを前提にした秩序は、興味深いです」
「言い方がリオちゃんらしい」
「褒め言葉として受け取ります」
ホムラは少し不機嫌そうに座っていた。
「舟、揺れる」
「酔った?」
「酔ってねえ」
「じゃあ、退屈?」
「退屈じゃねえ」
「じゃあ、どうしたの」
「水が多い」
「水の都だからね」
「それは昨日も聞いた」
ホムラは顔をそむけた。
だが、彼女も景色を見ていた。
石造りの建物。
舟。
水面。
窓辺の花。
洗濯物。
空。
不満そうにしながらも、目を離せないでいる。
桜夜は、その横顔を見て少し笑った。
昨日から、何度も思っている。
こんな時間が、もう少し続けばいい。
永遠ではなくていい。
永遠は怖い。
永遠を名乗るものは、時々人を眠らせる。
だから、もう少しだけ。
この水の都の中で、サイカが驚き、リオが考え、ホムラが文句を言い、自分がそれを眺めていられる時間が続けばいい。
そんな願いすら、贅沢だとわかっている。
それでも、願ってしまう。
ヴェネツィアは、そういう街だった。
いつか沈むかもしれない。
終わりを予感させる。
それなのに、今日の光はあまりにも美しい。
桜夜は、明人のことを思い出した。
永久の桜を美しいと知りながら、散る桜を愛した人。
永遠の美を知りながら、花火の一瞬を好んだ人。
有終の美を、笑いながら大切にしていた人。
明人なら、この光を見て何と言っただろう。
たぶん、こう言う。
沈む前に、うまいものを食っておけ。
桜夜は小さく笑った。
「何笑ってんだよ」
ホムラが見咎める。
「明人先生なら、ムラーノ島でもまず食べ物を探すだろうなって」
「いい師匠じゃねえか」
「そこに反応するんだ」
「飯は大事だろ」
「うん。先生もそう言ってた」
サイカが笑った。
「じゃあ、工房見たらおいしいもの食べようね」
「先に食ってもいい」
「ホムラちゃん」
リオがたしなめる。
「本日の主目的はヴェネツィアングラス工房の見学です」
「飯も見学もどっちもやればいいだろ」
「それはそうですが」
「ほら」
ホムラが勝った顔をした。
リオは少しだけ困ったように微笑んだ。
桜夜はそのやり取りを見ながら、また思う。
色がある。
声がある。
名前がある。
白い船には渡したくないものばかりだ。
◇◇◇
ムラーノ島の工房は、古い建物の奥にあった。
教皇ヨハネ・パウロ三世からの紹介状のおかげで、通常の観光よりも少し奥まで見学できることになった。
案内してくれた職人は、年配の男だった。
手は大きく、指には火傷の跡がある。
だが、動きは繊細だった。
炉の熱。
溶けたガラス。
棒の先で光る玉。
息を吹き込み、回し、伸ばし、切り、色を重ねる。
炎の中で柔らかかったものが、少しずつ形を得ていく。
ホムラが、珍しく黙って見ていた。
「火、使うんだな」
「当然です」
職人の通訳を兼ねて、リオが言う。
「ガラスは炎と人の息で形を得るものです」
「へえ」
ホムラは炉を見つめた。
その目は真剣だった。
火をただ壊すものとしてではなく、形を与えるものとして見ている。
桜夜は、それを覚えておく。
ホムラは赤だけに惹かれると思っていた。
だが、彼女が見ているのは、赤いガラスではない。
炎そのものだ。
燃やす火ではなく、形を作る火。
守る火。
灯る火。
ホムラの色は、ただの赤ではないのかもしれない。
サイカは、透明なガラスの中に金色と紫が混じった小さな飾りに目を奪われていた。
「これ、夜みたい」
「紫が?」
「うん。でも、金色もあるから、雷みたいでもある」
「サイカちゃんっぽいね」
「そうかな」
「うん」
サイカは嬉しそうに笑う。
「でも、透明なのも好き」
「透明?」
「光が入ると、色が変わるから」
桜夜は頷いた。
金。
紫。
透明。
雷と夜。
魔女の子ども。
白に怯えながらも、透明を怖がらない子。
それも覚えておく。
リオは、棚に並ぶ青と水色のガラスを見ていた。
細い模様が入ったもの。
水泡を閉じ込めたもの。
青の中に銀が沈むもの。
完全に透明なものより、少しだけ色が含まれているものに目が止まっている。
「気に入った?」
桜夜が聞く。
「美しいですね」
「どれが?」
「このあたりです」
リオは、水色と透明が重なった小さなペンダントを見た。
「水のようですが、完全に流れてはいません。形を保っています」
「リオちゃんらしい」
「そうでしょうか」
「うん。柔らかいけど、崩れない」
リオは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
桜夜は、それも覚えておいた。
水色。
透明。
形を保つ水。
流れるだけではなく、名前を守る水。
工房の奥では、職人が小さな花の飾りを作っていた。
赤。
青。
金。
緑。
白。
透明。
それぞれの色が、小さな花弁になって光を受ける。
桜夜は、白い花を見て少しだけ足を止めた。
白い船の花びら。
旧礼拝堂。
十三番目の椅子。
呼ばれなかった名。
手が少し冷える。
だが、すぐ隣でサイカが言った。
「桜夜さん」
「うん」
「これは船の白じゃないね」
桜夜は白いガラスの花を見た。
それは、光を通していた。
消す白ではない。
閉じ込める白でもない。
熱を受け、人の手で形を与えられ、光を抱く白だった。
「うん」
桜夜は答えた。
「船の白じゃない」
サイカは安心したように笑った。
その笑顔を見て、桜夜は決めた。
贈り物をしよう。
名前を守った次は、色を贈る。
白い船に対する、ささやかな抵抗として。
◇◇◇
見学が終わったあと、職人は展示室へ案内してくれた。
そこには、観光客向けの小物から、芸術品のような器まで、さまざまなガラス作品が並んでいた。
サイカは小さな指輪やペンダントを見て、あれもきれい、これもきれい、と楽しそうにしている。
リオは値段と品質と管理方法を確認している。
ホムラは「割れそうだな」と何度も言いながら、赤いガラスのイヤリングの前で足を止めていた。
「ホムラちゃん、それ好き?」
「見てただけだ」
「ずっと?」
「悪いか」
「悪くない」
桜夜は笑った。
ホムラは不機嫌そうに顔をそらす。
その耳が赤くなっている。
桜夜は、三人が別の棚を見に行った隙に、職人へ声をかけた。
通訳は使わなかった。
桜夜はイタリア語で、静かに希望を伝える。
三人への贈り物を作ってほしい。
ただし、本人たちにはまだ秘密にしてほしい。
職人は少し目を細め、それから楽しそうに笑った。
「恋人たちへ?」
「大切な人たちへ」
桜夜は答えた。
職人はそれ以上聞かなかった。
ありがたいことだった。
桜夜は色を伝えた。
サイカには、透明なガラスの中に淡い金と紫。
雷の光と、魔女の夜。
でも重くならないように。
光を通すように。
リオには、水色と透明。
流れる水ではなく、形を保つ水。
記録を閉じ込めるのではなく、光を通して残すように。
ホムラには、赤と橙と少しの金。
燃え尽くす炎ではなく、形を与える火。
守る火。
灯る火。
職人は頷きながら、簡単なメモを取った。
「もう一つ」
桜夜は少しだけ声を落とした。
「透明なものを」
「誰へ?」
「まだ生まれていない子へ」
職人は、少しだけ目を丸くした。
桜夜は言葉を選ぶ。
「白に近い。でも白ではない。何色でもない。でも空っぽではない。光を通して、これから色を持つもの」
職人はしばらく黙っていた。
それから、深く頷いた。
「難しい注文だ」
「すみません」
「よい注文だ」
職人は笑った。
「時間をもらえるか」
「もちろん」
桜夜は礼を言った。
その時、背後からリオの声がした。
「桜夜様」
桜夜は肩を揺らさなかった。
偉い。
自分でそう思った。
「はい」
「何をなさっているのですか」
「工房について質問を」
「隠し事の声でした」
「声でわかるの?」
「わかります」
リオはにこりと微笑んでいる。
だが、追及はしなかった。
サイカは棚の前から手を振っている。
「桜夜さん、これ見て! 小さい鳥!」
透明なガラスで作られた鳥だった。
丸く、少しひよこのようにも見える。
桜夜は一瞬、鳳凰を思い出した。
眠ったままの鳳凰。
胸の奥の小さな空白。
「かわいいね」
「鳳凰さんみたい?」
「鳳凰はもう少し騒がしいかな」
「今は静かだね」
「うん」
サイカはガラスの鳥をそっと棚に戻した。
「また起きるよね」
「起きるよ」
桜夜は言った。
根拠は薄い。
でも、そう言いたかった。
サイカも頷いた。
「うん」
◇◇◇
工房を出る頃には、空の色が少し変わっていた。
午後の光が傾き、水面が金色を帯びている。
四人は島の小さな広場で、甘い焼き菓子と濃いコーヒーを買った。
ホムラはまた魚介の揚げ物を食べている。
「ホムラちゃん、気に入ったんだね」
「悪いか」
「悪くない」
「さっきからそればっかだな」
「本当に悪くないから」
サイカは焼き菓子を半分に割り、桜夜に差し出した。
「はい」
「ありがとう」
「甘いよ」
「うん」
桜夜は受け取って食べた。
甘かった。
少し硬く、香ばしく、噛むとほろりと崩れる。
その何でもない味が、妙に胸に残った。
リオは広場の隅で、ガラス工房のパンフレットを整理していた。
「ムラーノ島の技術は、保護と継承の歴史でもあるのですね」
「職人さんたち、すごかったね」
サイカが言う。
「火が強いだけでは駄目なのでしょう。息と手と時間が必要です」
「何か、桜夜さんみたい」
「僕?」
桜夜が聞く。
「うん。強いだけじゃないところ」
桜夜は少し困った。
「僕はあんなに器用じゃないよ」
「桜夜さんも、いろんなものを壊さないようにしてる」
サイカは何気なく言った。
「名前とか、約束とか、わたしたちとか」
桜夜は黙った。
サイカは、自分の言葉が桜夜に刺さったことに気づいて、少し慌てる。
「ごめん」
「ううん」
桜夜は首を横に振った。
「ありがとう」
ホムラが揚げ物を食べながら言う。
「壊す時は壊すけどな」
「ホムラちゃん」
「でも、壊しちゃいけねえもんは、ちゃんと見てるだろ」
リオも静かに頷いた。
「桜夜様は、ご自分のことになると雑ですが、他者の名や境界には慎重です」
「褒められてる?」
「はい」
「後半が少し痛い」
「そこも事実です」
桜夜は苦笑した。
水面が光っている。
広場では観光客が笑っている。
職人らしき老人が椅子に座り、犬を撫でている。
サイカは焼き菓子を食べ、リオはパンフレットを閉じ、ホムラはまた何か食べ物を探している。
こんな時間が続けばいい。
今度は、桜夜だけではなかった。
サイカも思った。
ローマ教皇と話し、魔女の子どもとして教会の中心に立った緊張が、少しずつほどけている。
リオも思った。
記録も任務も置いて、ただ美しいものを見ていられる時間があるのなら、もう少しだけ保管しておきたい。
ホムラも思った。
言葉にはしない。
でも、サイカが笑っていて、リオが穏やかで、桜夜が白い船を見ていないなら、それでいい。
四人の中に、同じ願いが浮かんだ。
永遠ではなくていい。
もう少しだけ。
もう少しだけ、このまま。
その願いが浮かんだ瞬間だった。
風が止まった。
◇◇◇
島から戻る舟を降り、桜夜たちはヴェネツィア本島の細い路地を歩いていた。
観光客の多い通りから外れ、小さな橋を渡る。
夕方の光が、運河を金色に染めている。
水面は静かだった。
さっきまで聞こえていた人の声が、遠くなっている。
サイカが最初に足を止めた。
次にリオ。
ホムラも、何かを感じ取ったように顔を上げる。
桜夜は三人の反応を見て、少し遅れて前を向いた。
細い橋の上に、男が立っていた。
観光客ではない。
地元の人間でもない。
そこに立っていることが、あまりにも自然で、逆に異様だった。
長身。
整った顔。
静かな目。
どこか父親のような穏やかさをまといながら、その奥に測りきれない空白を持つ男。
サイカの手から、焼き菓子の包みが落ちた。
リオの表情から血の気が引く。
ホムラは怒るより先に、固まった。
桜夜は、その三人を見た。
そして悟る。
この男は……。
おそらく……。
「久しぶりだね」
男は穏やかに言った。
その声は、優しかった。
優しいからこそ、三人を縛った。
「私の娘たち」
その瞬間だった。
桜夜の内側で、長く眠っていたものが燃えた。
鳳凰。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、神鳥が目を開いた。
声がした。
逃げろ。
その声は、ひよこのものではなかった。
いつもの、ぴよぴよと騒がしい声でもない。
焼け残った神鳥の声だった。
この男は、罪の神器を持っている。
神を殺せる。
水希桜夜を殺せる。
「鳳凰」
桜夜が心の中で呼ぶ。
だが、返事はなかった。
炎は消えた。
鳳凰は、また眠りに落ちた。
残されたのは、警告だけ。
罪の神器。
神を殺せる。
水希桜夜を殺せる。
桜夜は、ゆっくりと息を吸った。
状況を整理する。
桜吹雪はない。
観光地で刀を持ち歩くわけにはいかなかった。
鳳凰は眠った。
力は戻っていない。
ここはヴェネツィアの路地で、周囲にはまだ人の気配がある。
大きな術は使えない。そもそも鳳凰が眠っている今、桜夜の霊力は常人以下だ。
サイカ、リオ、ホムラは動揺している。
相手は三姉妹の父で、罪の神器を持っている。
困った。
本当に困った。
逃げたい。
ものすごく逃げたい。
桜夜はそう思いながら、一歩前に出た。
三人の前へ。
そして、穏やかな笑みを浮かべた。
「初めまして」
声は落ち着いていた。
自分でも驚くほど。
「あなたも観光ですか?」
ケイオスは、桜夜を見た。
静かな目が、少しだけ細くなる。
「君が、水希桜夜か」
「人に名前を聞くときは自分から先に名乗るのが、僕の祖国のマナーです」
「娘たちが世話になっている」
「こちらこそ、いつも助けられています」
桜夜は笑っていた。
優しく。
礼儀正しく。
まるで、偶然出会った知人の父親に挨拶するように。
内心では、もう一度だけ思った。
逃げたい。
けれど、逃げるなら三人と一緒だ。
置いてはいけない。
それだけは、絶対に。
夕暮れのヴェネツィアで、水面が金色に揺れていた。
さっきまで選んでいた色が、遠くなる。
そして橋の上で、三姉妹の父は静かに微笑んだ。




