第36話 水の都
ヴェネツィアに着いた時、空は薄く曇っていた。
雨ではない。
晴れでもない。
光が雲にやわらかく濾され、運河の水面に淡く広がっている。
水の都。
そう呼ばれる街は、どこか現実から少し浮いて見えた。
石造りの建物。
細い運河。
橋。
水面を滑る舟。
古びた壁に残る潮の跡。
細い路地の奥から聞こえる人の声。
洗濯物。
観光客。
教会の鐘。
水の匂い。
桜夜は船着き場に立ち、その街をしばらく見ていた。
「桜夜さん」
サイカが隣に並ぶ。
「ここが、ヴェネツィア?」
「うん」
「本当に水の上にあるんだね」
「そうだね」
サイカは目を輝かせていた。
ローマやヴァチカンで見せていた緊張とは違う。
初めて見る街への素直な驚き。
それを見て、桜夜の胸の奥が少しだけ緩む。
リオは周囲を観察していた。
「美しい街ですね。ただ、構造としてはかなり複雑です」
「迷うよ」
桜夜が言う。
「桜夜様でも?」
「僕でも」
「それは相当ですね」
「褒めてないよね」
「事実確認です」
ホムラは運河を見て、少し不満そうに腕を組んでいた。
「水ばっかだな」
「水の都だからね」
「火が使いにくそうだ」
「観光地で火を使う予定を立てないで」
「使わねえよ」
「本当に?」
「たぶん」
「その返事は使う方の返事だね」
ホムラはそっぽを向いた。
リオが小さく笑う。
サイカも笑った。
その笑い声が、水面に落ちて、少しだけ揺れたように見えた。
ヴェネツィアは美しい。
桜夜は、昔からそう思っていた。
だが、その美しさは、完全なものの美しさではない。
永遠に続くものの美しさでもない。
いつか海に沈むかもしれない街。
水に抱かれ、水に侵され、水と共に生きてきた街。
石は古び、壁は傷み、運河は満ち引きを繰り返す。
それでも街は残っている。
人は歩き、食べ、笑い、恋をし、祈り、迷子になる。
終わりの予感を含んだまま、今日も美しい。
そこが、桜夜には好きだった。
明人なら、きっと気に入っただろう。
桜夜はそう思う。
宮森明人は、いろいろな世界を知っていた。
いくつもの平行世界を知っていた。
地球の中でも、さまざまな国を見ていた。
日本が平和そうに見えて、どうしようもないものを抱えた国であることも知っていた。
永久の桜が、永遠の美であることも知っていた。
散らない花。
枯れない美。
時を止めたような奇跡。
それを美しいと理解していた。
それでも、明人が愛したのは、ぱっと咲いて散る普通の桜だった。
夜空に上がり、一瞬だけ咲いて消える花火だった。
終わるからこそ、美しいもの。
終わると知っているから、目を逸らせないもの。
有終の美という、日本の美学。
明人は、それを愛していた。
だから、ヴェネツィアも気に入ったに違いない。
この街は、桜に似ている。
花火に似ている。
いつか沈むかもしれないと知りながら、水面に光を返している。
滅びの予感を抱えたまま、今日も人を笑わせている。
「先生」
桜夜は、声には出さずに呼んだ。
返事はない。
当然だ。
けれど、もし明人がここにいたら、きっとこう言う。
いい街だな。
いつ壊れてもおかしくないくせに、まだ飯がうまそうだ。
そんなふうに笑う。
桜夜は、小さく笑った。
「桜夜さん?」
サイカが顔を覗き込む。
「うん」
「笑ってた」
「明人先生なら、この街を気に入っただろうなって思ってた」
「桜夜さんのお師匠さん?」
「うん」
「どんなところが?」
「終わりそうなのに、ちゃんと綺麗なところ」
サイカは、少し考える。
「それ、悲しい?」
「少し」
「でも、好き?」
「うん」
「そっか」
サイカは水面を見た。
「わたしも、好きかも」
桜夜はサイカを見る。
「早いね」
「だって、きれいだもん」
「そっか」
「それに」
「うん」
「桜夜さんが好きな街なら、ちゃんと見てみたい」
その言葉は、まっすぐすぎた。
桜夜は少しだけ言葉に詰まる。
「ありがとう」
「うん」
ホムラが後ろで小さく舌打ちした。
リオは何も言わず、ただ微笑んでいた。
◇◇◇
桜夜がヴェネツィアに持っている小さな家は、観光客の多い通りから少し外れた場所にあった。
小さな橋を渡り、細い路地を二つ曲がり、さらに迷路のような道を進んだ先。
古い建物の三階。
窓からは、細い運河が見える。
大きな家ではない。
むしろ、かなり小さい。
玄関。
狭い廊下。
小さな台所。
古い木のテーブル。
本棚。
窓際の椅子。
そして寝室が一つ。
「……狭いな」
ホムラが最初に言った。
「小さい家だからね」
桜夜は鍵を置きながら答える。
リオは部屋を見回した。
「手入れはされていますね」
「管理を頼んでいる人がいるから」
「桜夜様、この家をいつから?」
「かなり前。明人先生が生きていた頃から」
サイカが目を丸くする。
「昔から来てたの?」
「何度かね」
「ここに?」
「うん」
桜夜は窓を開けた。
水の匂いと、街の音が入ってくる。
遠くの話し声。
水音。
舟の気配。
鐘の音。
桜夜は少しだけ目を細めた。
「隠れるには、ちょうどいいんだ」
「桜夜様が隠れる場所にしては、趣がありますね」
リオが言う。
「昔はもう少し荒れてたよ」
「それでも、ここを選ばれた」
「迷子になりやすいから」
ホムラが顔をしかめる。
「それ、利点か?」
「追手も迷う」
「なるほど」
「納得しないでください、ホムラちゃん」
リオが止める。
サイカは室内を楽しそうに見ていた。
「かわいい家だね」
「そう?」
「うん。小さいけど、落ち着く」
「よかった」
桜夜は少し安心した。
この家は、王宮でもホテルでもない。
豪華ではない。
けれど、桜夜にとっては数少ない、息をつける場所の一つだった。
ただし、問題があった。
寝室の扉を開けた瞬間、全員が黙った。
ベッドが一つしかなかった。
しかも大きくはない。
四人で寝るには、明らかに無理がある。
リオが静かに桜夜を見る。
「桜夜様」
「はい」
「ベッドが一つです」
「見ればわかるね」
「ホテルを取るという選択肢は?」
「ある」
「では」
「僕はソファで寝るよ」
言った瞬間、三人が同時に桜夜を見た。
サイカが一番早かった。
「だめ」
「サイカちゃん」
「だめ」
「まだ何も」
「一人で寝たら、白い船に行くかもしれない」
桜夜は言葉に詰まった。
リオも静かに頷く。
「安全管理上、同室が望ましいです」
「リオちゃんまで」
「鳳凰様の状態も不安定です。静馬様からも、桜夜様を一人で休ませないよう指示されています」
「静馬くん、そんなことまで」
「はい」
「医者が強い」
「当然です」
ホムラは腕を組んでいた。
顔が少し赤い。
「どうせ今さらだろ」
「ホムラちゃん?」
「今さら、一緒に寝るくらいで騒ぐなって言ってんだよ」
「いや、四人は狭いよ」
「船に乗られるよりましだ」
言い方は乱暴だった。
でも、心配しているのはわかった。
桜夜はため息をついた。
「ホテルを」
「却下です」
リオが即答する。
「リオちゃん、判断が早い」
「桜夜様はホテルに移動する途中で逃げる可能性があります」
「逃げないよ」
三人が黙った。
「……今は」
「その補足がある時点で却下です」
リオの判断は揺るがなかった。
結局、その夜は四人で同じベッドに寝ることになった。
◇◇◇
寝る準備は、思った以上に大変だった。
まず、誰がどこに寝るのかで少し揉めた。
桜夜は端でいいと言った。
サイカは桜夜の手を握れる位置がいいと言った。
リオは落下防止と緊急時対応を考え、配置を冷静に決めようとした。
ホムラは「どこでもいい」と言いながら、一番文句を言った。
「狭い」
「だからホテルを」
「それは駄目」
サイカとリオが同時に言う。
「息が合ってるね」
桜夜が言うと、ホムラが肘で軽く突いた。
「笑ってんじゃねえ」
「痛い」
「痛くしてねえ」
「精神的に」
「うるせえ」
最終的に、桜夜は壁側に押し込まれた。
その隣にサイカ。
反対側にリオ。
さらに外側にホムラ。
だが、ホムラは寝返りを打つと桜夜側に寄ってくる。
リオはそれを冷静に押し戻す。
サイカは桜夜の手を握ったまま、少し嬉しそうにしている。
「サイカちゃん、狭くない?」
「狭いけど、平気」
「本当?」
「うん。桜夜さんがいるから」
またまっすぐ言われた。
桜夜は天井を見た。
「この配置、精神的に逃げ場がないね」
「逃げられないようにしています」
リオが答える。
「物理的にも逃げ場がありません」
「そうです」
「認めるんだ」
「はい」
ホムラが布団を引っ張る。
「寒い」
「ホムラちゃん、布団取りすぎ」
「知らねえ」
「火属性なのに」
「火属性だから寒くないとか思うな」
「なるほど」
サイカが小さく笑う。
その笑いが近い。
リオの髪の匂いも近い。
ホムラの体温も近い。
桜夜は、少しだけ困った。
困ったが、嫌ではなかった。
窓の外には、月明かりがある。
運河の水面が、細く白く揺れている。
白。
けれど、白い船の白ではない。
シーツの白。
月明かりの白。
水面に砕ける光の白。
サイカの手の温度がある白。
リオの呼吸が聞こえる白。
ホムラが「狭い」と文句を言う白。
桜夜は目を閉じた。
鳳凰は、まだ眠っている。
内側は静かだ。
それは不安だった。
けれど今夜は、一人ではない。
白い船が遠くで軋むような気配がしても、すぐ隣に手がある。
「桜夜さん」
サイカが小さく呼ぶ。
「うん」
「ここにいる?」
「いるよ」
「よかった」
「サイカちゃんは?」
「いるよ」
「リオちゃんは?」
「おります」
「ホムラちゃんは?」
「寝る。呼ぶな」
全員が小さく笑った。
桜夜は、その声を聞きながら眠りに落ちた。
夢の入口に、白い船は見えなかった。
代わりに、水の音がした。
ヴェネツィアの夜の、水の音だった。
◇◇◇
翌朝、桜夜はホムラの腕に押し潰されて目を覚ました。
「重い」
「あ?」
「ホムラちゃん、腕」
「知らねえ」
「知らなくない」
ホムラは半分寝ぼけたまま、桜夜の上から腕をどけた。
サイカは反対側でまだ眠っている。
リオはすでに起きていて、髪を整えていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「睡眠状態は、比較的安定していました」
「観察してたの?」
「はい」
「寝てください」
「交代で睡眠を取りました」
「いつの間に」
リオは涼しい顔をしている。
桜夜は少し呆れたが、同時に安心した。
白い船に引かれなかった。
少なくとも、今夜は。
朝食は、小さな台所で簡単に済ませた。
パン。
チーズ。
果物。
濃いコーヒー。
サイカはコーヒーを少し苦そうに飲んでいた。
ホムラは「濃い」と言いつつ、意外と気に入ったらしい。
リオは優雅に飲んでいる。
桜夜は窓辺で水面を見ながら、ゆっくりとカップを持っていた。
「今日はどうするの?」
サイカが聞く。
「街を歩く。迷う。食べる。工房を見る」
「迷うのは予定なの?」
「ヴェネツィアでは予定に入れておいた方がいい」
「そんな街なんですね」
リオが少し興味深そうに言う。
「地図はあります」
「地図があっても迷う」
「では、わたくしが検証します」
「リオちゃんが本気だ」
ホムラがパンをかじりながら言う。
「工房って、ガラスのか?」
「うん。ヴェネツィアングラス」
「割れそう」
「割れるよ」
「そんなもん見るのか」
「綺麗だからね」
サイカの目が輝く。
「色、いっぱいある?」
「あるよ」
「見たい」
「うん」
その顔を見て、桜夜は少しだけ笑った。
名前を返した。
白い船の白を拒んだ。
教皇から白と透明のロザリオを受け取った。
次は、色を見る。
それは、とても自然な流れのように思えた。
◇◇◇
ヴェネツィアの街は、歩くたびに形を変えた。
細い路地。
小さな橋。
急に開ける広場。
また狭くなる道。
目印にしたはずの店が、次に来ると見つからない。
運河に沿って歩いていたつもりが、いつの間にか別の運河に出る。
リオは地図を開いた。
眉を寄せた。
「現在位置が」
「わからない?」
「確定しにくいです」
「ヴェネツィアが勝った」
桜夜が小さく言う。
「まだ負けていません」
リオは真剣だった。
サイカは楽しそうに笑っている。
「迷子って楽しいね」
「普通は困るものだよ」
「でも、きれいなところに出るから」
「それはそう」
ホムラは路地の先にある店を見つけた。
「何か揚げてる」
「食べる?」
「食う」
即答だった。
小さな店で、魚介のフリットを買った。
熱い。
塩気がある。
油の香りと海の匂いが混じる。
ホムラは一口食べて、少しだけ目を見開いた。
「うまい」
「よかった」
「もう一つ買う」
「気に入ったんだね」
「悪いか」
「悪くない」
サイカは小さな菓子を買った。
リオは店の人と短く会話し、地図上の位置を確認しようとしていた。
しかし、店の人の説明もまた、感覚的だった。
橋を渡って右。
黄色い壁のところを曲がる。
小さな聖母像がある角。
水の匂いが強くなる方。
リオは少しだけ困った顔をした。
「論理的ではありません」
「でも、ヴェネツィアっぽい」
サイカが笑う。
桜夜も頷く。
「ここは、そういう街だよ」
「桜夜様は慣れているのですね」
「慣れても迷う」
「では、慣れとは」
「迷っても焦らないこと」
リオは少し考えた。
「なるほど」
納得したらしい。
その様子が少しおかしくて、桜夜は笑った。
リオも、少しだけ笑った。
その日、四人は何度も迷った。
何度も橋を渡った。
何度も同じような路地に出た。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
水の都は、人を迷わせる。
だが、迷った先に、必ず何かを見せてくれる。
古い教会の扉。
静かな広場。
猫。
水面に落ちる光。
窓辺の花。
舟を漕ぐ老人。
壁に残る剥がれた色。
終わりそうな街の中で、すべてが今日を生きていた。
桜夜は思った。
明人先生なら、やっぱり気に入っただろう。
永久の桜も美しい。
永遠の花も、奇跡としては美しい。
けれど、普通の桜は散る。
花火は消える。
ヴェネツィアは、いつか沈むかもしれない。
だから人は、今見る。
今歩く。
今笑う。
桜夜は、三人の後ろ姿を見た。
サイカが橋の上で水面を覗き込む。
リオが壁の小さな聖母像を見ている。
ホムラがまた食べ物の店を探している。
こんな時間が、もう少し続けばいい。
そう思った。
永遠に、とは思わない。
永遠は怖い。
永遠を名乗るものは、たいていどこか歪む。
けれど、もう少し。
あと少しだけ。
この水の都の中で、何者にも追われず、何も失わず、誰も消えず、ただ迷って笑っていられたら。
桜夜は、そう思ってしまった。
「桜夜さん!」
サイカが橋の向こうから呼ぶ。
「早く!」
「うん」
桜夜は歩き出す。
水面が揺れる。
街は古びている。
終わりを抱えながら、それでも美しい。
この街の色を、三人に贈りたい。
桜夜は、まだ誰にも言わずにそう思った。
そして、ムラーノ島の工房へ向かう道を探し始めた。




