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第35話 枢機卿の背中

 謁見のあと、ヴァチカン側は桜夜たちに短い見学の時間を用意してくれた。


 公式行程ではない。


 教皇ヨハネ・パウロ三世の配慮による、半ば私的なものだった。


 ヴァチカンの職員が一人、案内役としてついた。


 ただし、距離は少し離れている。


 必要な時だけ説明をし、それ以外は桜夜たちの会話を邪魔しない。


 そういう控えめな案内だった。


 サイカは、教皇から受け取った白と透明のロザリオを、両手で大事に持っていた。


 白い船の白ではない。


 朝の白。


 祈りの白。


 まだ何色でもない白。


 教皇の言葉を、何度も確かめるように、ロザリオの珠へ指を添えている。


 リオは宗教画と建築に目を向けていた。


 ただ美しいと見るだけではない。


 絵の主題。


 配置。


 視線誘導。


 権威と祈りの関係。


 それらを、彼女らしい静かな目で読み取っている。


 ホムラは最初、退屈そうにしていた。


 だが、高い天井と巨大な絵画を見上げるうちに、少しずつ黙った。


「でかいな」


 ぽつりと言う。


「ええ」


 リオが答える。


「人を圧倒するためでもあり、天を見上げさせるためでもあるのでしょうね」


「天井高すぎだろ」


「神の家ですから」


「家にしては広すぎる」


 ホムラの感想は雑だった。


 だが、目は絵を追っていた。


 赤い衣の聖人。


 殉教者。


 天使。


 光の中に立つキリスト。


 そのすべてを、どう受け止めればいいのかわからないまま、見ている。


 桜夜は、少し後ろを歩いていた。


 礼装のまま。


 姿勢は崩していない。


 だが、謁見室で教皇と話していた時より、顔には疲れが出ていた。


 ヴァチカンは美しい。


 美しく、重い。


 祈りの積層。


 権威の積層。


 罪と赦しの積層。


 その中を歩いていると、少しずつ昔の記憶が浮かび上がってくる。


 まだヨハネ・パウロ三世が、教皇ではなかった頃。


 彼が枢機卿だった頃。


 桜夜は一度だけ、その背中を見たことがあった。


◇◇◇


 永い内乱にある国だった。


 地図上では、小さな国だった。


 しかし、その中には山があり、川があり、古い町があり、いくつもの民族と宗教と利害が絡み合っていた。


 最初は、政治的な対立だった。


 次に、宗教的な対立になった。


 それから、血の復讐になった。


 誰が最初に何をしたのか、誰も思い出せなくなった頃には、争いだけが残っていた。


 村が焼かれた。


 橋が落とされた。


 学校が避難所になった。


 教会が病院になった。


 病院が砲撃された。


 敵を殺すための戦争だったはずなのに、いつしか敵と呼べる者すら曖昧になっていた。


 その国には、日系人の評議会議長がいた。


 彼は何度も和平を呼びかけた。


 議場で。


 ラジオで。


 国際会議で。


 焼けた町の広場で。


 彼は老いていなかったが、声はいつも少し掠れていた。


 それでも、呼びかけ続けた。


 やめよう。


 もう十分だ。


 子どもたちの前で、これ以上銃を構えるな。


 だが、争いは止まらなかった。


 誰もが自分の死者を抱えていた。


 誰もが自分の正義を抱えていた。


 誰もが、自分たちだけが被害者だと思っていた。


 そしてある日、国には老人、けが人、病人、女性、子どもしか残っていないように見えた。


 戦える者たちは、死んだ。


 あるいは前線へ消えた。


 あるいは銃を持ったまま、帰ってこなかった。


 評議会議長は、四方院家とヴァチカンに救援を要請した。


 政治でも、軍事でも、もう足りなかった。


 食料。


 医療。


 避難路。


 霊的な汚染の除去。


 停戦交渉の保証人。


 孤児たちの保護。


 死者の確認。


 何もかも足りなかった。


 四方院家からは、桜夜が行った。


 議長とは旧知だった。


 昔、別の件で短く協力したことがある。


 桜夜にとっては、珍しく信用できる政治家の一人だった。


 ヴァチカンからは、一人の枢機卿が来た。


 枢機卿という立場を押して、現地に入ったらしい。


 周囲は止めたと聞いた。


 危険すぎる。


 政治的にも難しすぎる。


 宗教的にも火種になりかねない。


 それでも、その枢機卿は来た。


 後に教皇ヨハネ・パウロ三世となる人物だった。


 その時、桜夜と枢機卿は話さなかった。


 協力もしなかった。


 正式に名乗り合うことすらなかった。


 ただ、同じ国にいた。


 同じ空の下にいた。


 桜夜は、四方院家の人間として走り回った。


 負傷者を運ぶ道を確保した。


 呪術で汚染された井戸を封じた。


 銃を持った少年から武器を取り上げた。


 病院へ運ぶべき者と、もう運んでも間に合わない者を見分けた。


 子どもたちの名前を記録した。


 焼けた村で、死者の数を数えた。


 数えたくなかった。


 それでも数えた。


 数えなければ、誰が消えたのかもわからなくなる。


 枢機卿は、別の場所を歩いていた。


 避難所で祈った。


 病院で手を握った。


 孤児を抱いた。


 加害者と被害者が同じ部屋で泣く場所に座った。


 赦しを口にしながら、自分でそれが届かないことを知っている顔をしていた。


 それでも祈った。


 それでも名前を聞いた。


 それでも死者の前で十字を切った。


 桜夜は、遠くから一度だけその背中を見た。


 雨の中だった。


 仮設病院になった古い教会の前で、枢機卿は小さな女の子の前に膝をついていた。


 女の子は泣いていなかった。


 泣く力も残っていないのかもしれなかった。


 枢機卿は、その子の手を包んで、何かを聞いていた。


 たぶん、名前だった。


 少女が答えたかどうかはわからない。


 雨音が強く、桜夜のいる場所までは声が届かなかった。


 だが、枢機卿は待っていた。


 急かさず。


 祈りを押しつけず。


 ただ、その子が自分の名前を取り戻すまで待っているように見えた。


 桜夜は、その背中を見ていた。


 疲れた背中だった。


 だが、曲がっていなかった。


 祈りで救えないものがある。


 刀で救えないものがある。


 政治で救えないものがある。


 医療で救えないものがある。


 それでも、翌朝にはまた、生きている者の名を呼ばなければならなかった。


 その日、桜夜と枢機卿は言葉を交わさなかった。


 ただ、同じ絶望を見ていた。


 もう手の施しようがない。


 その感覚だけは、おそらく共有していた。


◇◇◇


「桜夜さん」


 サイカの声で、桜夜は現在へ戻った。


 ヴァチカンの廊下。


 柔らかな光。


 白と透明のロザリオ。


 サイカが心配そうに見上げている。


「どこか行ってた?」


「少し」


「白い船?」


「違うよ」


「じゃあ、昔?」


「うん。昔」


 サイカは、それ以上すぐには聞かなかった。


 ただ、桜夜の隣を歩く。


 リオは、桜夜の視線の先を見ていた。


 壁に飾られている写真。


 まだ若い頃のヨハネ・パウロ三世。


 枢機卿の衣をまとい、どこかの紛争地らしき場所に立っている。


 背後には瓦礫。


 横には子どもたち。


 写真の中の枢機卿は、今より若い。


 だが、背筋は同じだった。


「お知り合いだったのですか」


 リオが静かに聞いた。


「話したことはなかった」


「けれど、会ったことはある」


「見かけただけ」


 桜夜は写真を見つめた。


「永い内乱の国でね」


 ホムラが顔を上げる。


「内乱?」


「うん」


「戦争か」


「そう」


 桜夜は簡単に説明した。


 日系人の評議会議長。


 止まらなかった内乱。


 老人、けが人、病人、女性、子どもばかりになった国。


 四方院家とヴァチカンへの救援要請。


 議長と旧知だった桜夜。


 枢機卿として現地へ入った、今の教皇。


 言葉を交わさなかったこと。


 協力もしなかったこと。


 ただ、同じ絶望を見ていたこと。


 話し終えるまで、三人は黙っていた。


 ホムラが最初に口を開いた。


「なんで、そんなになるまで止まらねえんだよ」


 怒っていた。


 誰に対してかは、ホムラ自身にもわかっていないようだった。


 桜夜は答えた。


「止まれないからだよ」


「は?」


「自分たちが何をしているか、もう見えなくなる。死者が増えるほど、やめられなくなる。ここでやめたら、死んだ人たちに申し訳ないって思ってしまう」


「そんなの」


「うん。おかしい」


 桜夜は静かに言った。


「でも、渦の中にいると、それがおかしいとわからなくなる」


 ホムラは拳を握った。


「ぶん殴ってでも止めればいいだろ」


「殴る相手が一人ならね」


 桜夜の声は、少しだけ苦かった。


「国中がそうなったら、誰を殴ればいいのかわからない」


 ホムラは何も言えなくなった。


 サイカが、ロザリオを握る。


「教皇様は、その時も祈ってたの?」


「うん」


「祈ったら、止まった?」


「止まらなかった」


 サイカの表情が少し曇る。


「じゃあ、祈りって」


「無意味ではなかったと思う」


 桜夜は言った。


「戦争は止められなかった。でも、名前を聞かれた子どもはいた。手を握られた老人はいた。死ぬ前に一人じゃなかった人もいた」


 サイカは黙って聞いている。


「それを救いと呼んでいいのかは、わからない。でも、何もなかったわけじゃない」


 リオが静かに頷いた。


「記録に残らない救援ですね」


「そうかもしれない」


「けれど、当事者には残る」


「うん」


 桜夜は写真の枢機卿を見る。


「あの人は、あの日から背筋を曲げていない」


 その一言に、三人は少しだけ黙った。


 教皇ヨハネ・パウロ三世。


 優しげな老人。


 世界を飛び回り、赦し、愛し、謝り、諫め、救う人。


 けれど、その優しさは柔らかいだけではない。


 祈っても救えないものを見たうえで、それでも祈ることを選んだ人。


 謝っても戻らない死者を知ったうえで、それでも謝ることを選んだ人。


 赦しを強制できないと知ったうえで、それでも赦しの可能性を捨てない人。


 桜夜は、だから苦手なのだと思った。


 逃げない人は、苦手だ。


 自分の役目を背負い続ける人は、苦手だ。


 そういう人を見ると、自分も逃げられなくなる。


◇◇◇


 案内役の職員は、しばらく離れた位置で待っていてくれた。


 会話が一段落したのを見て、静かに近づいてくる。


「次は、礼拝堂をご覧になりますか」


 リオが桜夜を見る。


 桜夜は少しだけ考えた。


 礼拝堂。


 宗教画。


 祈りの場。


 旧礼拝堂で白い船が歪めたものとは違う、本来の場所。


 見ておくべきだと思った。


「お願いします」


 職員は頷き、先へ進む。


 礼拝堂へ向かう途中、サイカが小さく言った。


「桜夜さん」


「うん」


「教皇様も、救えなかったことがあるんだね」


「あると思う」


「それでも、教皇様なんだね」


「うん」


「桜夜さんも、救えなかったことがある」


「たくさんある」


「でも、桜夜さんなんだね」


 桜夜は、少しだけ足を止めた。


 サイカは何気なく言ったのかもしれない。


 だが、その言葉はまっすぐ届いた。


 救えなかった。


 それでも、自分である。


 救えなかったことが、自分を消す理由にはならない。


 桜夜は、ゆっくりと頷いた。


「そうだね」


 サイカは微笑んだ。


「うん」


 ホムラが横から言う。


「救えなかったことがあるからって、船に乗っていい理由にはならねえからな」


「うん」


「あと、消える理由にもならねえ」


「それも、うん」


「鳳凰のことも、あとでちゃんと静馬に話せ」


「はい」


 桜夜は素直に返事をした。


 ホムラは少し驚いた顔をする。


「素直だな」


「怒られる前に頷いた方が楽だと学んだ」


「ずるいな」


「少し賢くなったんだよ」


 リオが微笑む。


「賢くなられたなら、逃亡癖も改善してください」


「それは別の話」


「別ではありません」


 サイカが笑った。


 重かった空気が、少しだけ緩む。


 そのまま、四人は礼拝堂へ入った。


 高い天井。


 光。


 絵画。


 沈黙。


 ヴァチカンの祈りの場は、旧礼拝堂とは違う静けさを持っていた。


 白い船の気配はない。


 ただ、人が何百年も祈り続けてきた場所の重みがあった。


 桜夜は、しばらく天井を見上げた。


 そこに描かれた救いの物語を、信じているわけではない。


 けれど、無視することもできない。


 人は、救いを求める。


 教会もそれに応えようとしてきた。


 応えられなかった。


 間違えた。


 傷つけた。


 それでも、祈り続けた人たちもいた。


 だから、白い船はそこにつけ込む。


 だから、偽キリストは現れる。


 人が救いを求めるかぎり、救いの偽物もまた生まれる。


 桜夜は、小さく息を吐いた。


「見分けるのは、難しいね」


 リオが隣に立つ。


「はい」


「救いと、消去」


「似せてくるのでしょう」


「うん」


 ホムラが言う。


「だったら、名前が残るか見るんだろ」


 桜夜はホムラを見た。


「教皇様の受け売り?」


「悪いかよ」


「悪くない」


 サイカがロザリオを握る。


「白にも、いろんな白がある」


「うん」


「船の白じゃない白もある」


「うん」


 桜夜は、三人を見た。


 サイカ。


 リオ。


 ホムラ。


 それぞれの色が、ヴァチカンの光の中にある。


 白だけではない。


 金。


 水色。


 赤。


 その色があるだけで、桜夜は少し呼吸がしやすくなった。


◇◇◇


 見学を終える頃、案内役の職員が一通の封筒を持ってきた。


「聖下より、お預かりしております」


 リオが受け取り、確認する。


「紹介状です」


「紹介状?」


 桜夜が聞く。


「ヴェネチア滞在中に、いくつかの教会と工房を非公式に見学できるよう手配してくださったようです」


「工房?」


 サイカが目を輝かせる。


「ヴェネチアングラス?」


「そのようですね」


 リオが封筒の中を確認しながら答える。


「ムラーノ島の工房の名もあります」


 桜夜は少しだけ目を細めた。


 ヴェネチアングラス。


 色。


 透明。


 まだ生まれていない命に用意しようと思っていたもの。


 あずさの白に近く、それでいて何ものでもない透明。


 それを探すには、ちょうどよい機会かもしれない。


「教皇様、手回しがいいね」


「玄武様やリチャード陛下と同系統の方かもしれません」


 リオが冷静に言う。


「やめて。嫌な分類をしないで」


「有能で、意地が悪く、桜夜様を逃がさない方々」


「最悪の分類」


 ホムラが笑った。


「合ってるじゃねえか」


「否定しきれないのが嫌だ」


 サイカは封筒を見ながら嬉しそうに言う。


「ヴェネチア、楽しみだね」


「うん」


 桜夜は頷いた。


 今度は素直に。


 水の都。


 迷路の路地。


 いつ滅ぶとも知れない、美しい街。


 そこには、たぶん少しだけ休息がある。


 もちろん、完全な休息など期待していない。


 白い船も、偽キリストも、鳳凰の眠りも、あずさの転生も、親友の名も、消えるわけではない。


 それでも。


 ヴァチカンの光の中で、桜夜は思った。


 色を探しに行くのは、悪くない。


 名前を守った次に、色を選ぶ。


 それは、白い船への小さな抵抗になるかもしれない。


 教皇の枢機卿時代の背中を、もう一度だけ振り返る。


 写真の中の男は、雨の内乱の国に立っていた。


 今も、背筋は曲がっていない。


 桜夜は小さく礼をした。


 誰に向けたのか、自分でもよくわからない。


 過去の枢機卿にか。


 今の教皇にか。


 救えなかった名たちにか。


 それとも、これから守るべき名と色にか。


「行こう」


 桜夜は言った。


「次は、水の都だ」


 サイカが嬉しそうに頷いた。


 リオは紹介状を丁寧にしまった。


 ホムラは少しだけ不満そうに言った。


「水か」


「ホムラちゃん、火の都じゃないけど我慢して」


「別に嫌とは言ってねえ」


「楽しみ?」


「……少しな」


 桜夜は笑った。


 ヴァチカンの長い廊下を、四人は歩き出す。


 祈りの重みを背にして。


 偽キリストの影を胸に残して。


 そして、まだ何色にも染まっていない透明を探しに。

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