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第34話 偽キリスト

 桜夜の報告が終わったあと、部屋にはしばらく沈黙が落ちた。


 ヴァチカンの小さな謁見室。


 窓から入る光は柔らかい。


 壁には古い宗教画。


 机の上には、英国王リチャードからの親書。


 リオの端末には、桜夜の報告内容が整理されている。


 サイカは膝の上で手を握っていた。


 ホムラは椅子に座ったまま、落ち着かなさそうに足を動かしている。


 教皇ヨハネ・パウロ三世は、すぐには何も言わなかった。


 ただ、目を閉じた。


 胸の前で手を組む。


 老いた指。


 けれど、震えてはいない。


 その背筋は、やはりまっすぐだった。


 祈っている。


 桜夜はそう思った。


 声には出していない。


 しかし、その沈黙はただの思案ではなかった。


 誰かへ向けられた沈黙。


 応答を求める沈黙。


 あるいは、応答がないことを受け止める沈黙。


 桜夜は、少しだけ目を伏せた。


 神。


 桜夜には、まだわからない相手。


 天使は見た。


 悪魔も見た。


 世界意思のようなものも見た。


 白い船も見た。


 けれど、神を見たことはない。


 沈黙する神。


 ガブリエルが怒り、マリアが微笑み、サリエルが静かに線を引く、その奥にいるらしい存在。


 教皇は、その神へ祈っている。


 そして桜夜は、その祈りを邪魔しなかった。


 やがて、ヨハネ・パウロ三世は目を開いた。


 その瞳には、優しさがあった。


 同時に、深い疲労もあった。


 だが、それ以上に、生きる意志があった。


「正直に申し上げます」


 教皇は静かに言った。


「今の教会に、偽キリストと戦う力はほとんど残っていません」


 リオの指が、端末の上で止まった。


 サイカが顔を上げる。


 ホムラは露骨に眉を寄せた。


「お前がそれ言っていいのかよ」


「ホムラちゃん」


 桜夜がたしなめる。


 だが、教皇は怒らなかった。


 むしろ、穏やかに頷いた。


「言わねばなりません。言えないなら、私はこの椅子に座るべきではありません」


 ホムラは少し黙った。


 教皇は続ける。


「数字上の信徒の数は、確かに多い。教会は今なお、世界の多くの人々に祈りの言葉を届けています。けれど、数はそのまま力ではありません。信徒の多さは、時として脆さにもなります」


「脆さ」


 リオが静かに繰り返した。


「はい」


 教皇は頷く。


「偽りの救いが現れた時、多くの人々はそれを見分けることができないでしょう。彼らは偽キリストを、本物のキリストだと信じてしまう。おそらく、教会も。そして」


 教皇は、一度だけ自分の胸に手を当てた。


「私も」


 その一言は、重かった。


 ローマ教皇。


 地上における神の代理人。


 その人が、自分も欺かれる可能性を口にした。


 桜夜は、思わず教皇を見た。


 この老人は、自分の弱さを隠さない。


 教会の罪を隠さない。


 そして今、教会の限界も隠さなかった。


 ホムラが低く言う。


「本当に、それで教皇なのかよ」


「だからこそです」


 教皇は答えた。


「私は強いからここにいるのではありません。強いふりをしてはいけないから、ここにいるのです」


 ホムラは言葉を失った。


 桜夜も黙っていた。


 その時、桜夜の中に、別の声が蘇った。


 咲夜の声だった。


 オメガを誰もがキリストの再来だと喜ぶ。


 そう言っていた。


 誰も、消去の機構だとは思わない。


 誰も、終わりだとは思わない。


 人はそれを救いだと呼ぶ。


 桜夜は背筋に冷たいものを感じた。


 あの言葉は、誇張ではなかったのかもしれない。


 教皇自身が、同じ方向を見ている。


 偽キリスト。


 白い船。


 オメガ。


 すべてが同じものではない。


 だが、救いを名乗る空白という一点で、どこか繋がっている。


「桜夜様」


 リオが小さく呼んだ。


 桜夜は、少しだけ遅れて反応する。


「……ごめん」


「何か思い当たることが?」


「未来の自称僕の娘が言っていた。オメガを誰もがキリストの再来だと喜ぶ、と」


 部屋の空気が、さらに冷える。


 教皇は目を細めた。


「オメガ」


「完全消去に近いものです」


 桜夜は言った。


「白い船とは違います。少なくとも、同一ではない。でも、どちらも救いの顔で来る。痛みをなくす。罪をなくす。後悔をなくす。眠らせる。消す。それを人は、救いと間違えるかもしれない」


「ええ」


 教皇は静かに頷いた。


「その通りです」


 サイカが、ためらいがちに口を開いた。


「あの」


「はい、サイカさん」


「偽物でも、苦しみがなくなるなら」


 そこで一度、言葉が止まる。


 サイカは少し俯いた。


 だが、逃げずに続けた。


「それは、救いじゃないんですか」


 ホムラがサイカを見た。


 リオも息を呑む。


 桜夜は、何も言わなかった。


 それは、サイカの優しさから出た問いだった。


 苦しんでいる人がいる。


 眠れない人がいる。


 忘れたい人がいる。


 赦されたい人がいる。


 白い船が本当にその苦しみを消すのなら、それは悪なのか。


 サイカは、それを聞かずにはいられなかった。


 教皇は、急がなかった。


 サイカの問いを、軽く扱わなかった。


 しばらく考え、それから答えた。


「苦しみがなくなることと、その人がいなくなることは違います」


 サイカは顔を上げた。


「その人が、いなくなる」


「はい」


 教皇は言った。


「真の救いは、痛みだけを取り除いて、人を残します。あるいは、痛みを抱えたままでも、その人が立てるように支えます。けれど偽りの救いは、人ごと痛みを消します。名前ごと。記憶ごと。関係ごと」


 桜夜は、旧礼拝堂を思い出した。


 名前を書いた紙。


 忘れてほしいと願った少女。


 自分の罪を告げるかわりに、他人の名を置いていこうとした祈り。


 白い船は、その弱さを責めなかった。


 ただ、利用した。


「偽りの救いは、悪魔の顔で来るとは限りません」


 教皇は続けた。


「むしろ、私たちが最も信じたい顔で来ます。十字架を背負う者の顔で。傷ついた者を抱く者の声で。眠れない者に、眠ってよいと告げる優しさで」


 サイカの手が、膝の上で強く握られる。


「それを偽物だと、どう見分けるんですか」


 その問いに、教皇は少しだけ目を細めた。


「その救いが、名を残すかどうかです」


「名前?」


「はい」


 教皇は十字架へ視線を向ける。


「主は名を呼ばれます。マリアと。ラザロと。シモンと。ザアカイと。名を呼ぶことは、その人を消さずに向き合うことです」


 桜夜の胸に、ヨハネによる福音書の一節が蘇る。


 マリア。


 先生。


 名前を呼ばれて、振り向く。


「偽りの救いは、名を消します」


 教皇の声は静かだった。


「苦しみから逃がすと言いながら、誰かを誰でもないものにする。罪を赦すと言いながら、罪を抱えて立つ人間そのものを消す。そこに名が残るかどうか。呼び返す余地があるかどうか。それを見なければなりません」


 リオが静かに言う。


「白い船は、呼ばれなかった名を食べていました」


「ええ」


 教皇は頷いた。


「だから、あなた方は正しく戦いました。名を取り戻した。それは、教会が本来すべきことでもありました」


 リオは言葉を返さず、少しだけ目を伏せた。


 教皇は次に、ホムラを見る。


「ホムラさん」


「あ?」


「もし偽キリストが現れ、皆が跪いたとしても、あなたは怒れるでしょうか」


 ホムラは一瞬だけ黙った。


 それから、鼻を鳴らす。


「そいつが誰かを消そうとするなら、たぶん怒る」


「よい怒りです」


「怒りにいいも悪いもあんのか」


「あります」


 教皇は穏やかに答えた。


「自分のためだけに燃える怒りは、周囲を焼きます。誰かを守るための怒りは、時に灯になります」


 ホムラは顔を赤くした。


「そういうの、やめろ」


「褒められるのが苦手ですか」


「うるせえ」


「ホムラちゃん」


 桜夜がまたたしなめる。


 だが、教皇は笑っていた。


 この老人は、ホムラの乱暴な言葉を怖がらない。


 むしろ、その奥の正直さを見ている。


 次に教皇は、リオを見る。


「リオさん」


「はい」


「あなたは記録を守る。言葉を整理し、名前を残す。それは、これから大切になります。偽りの救いは、記録を改ざんするでしょう。なかったことにするでしょう。苦しみだけでなく、苦しんだ人の名まで」


「わたくしは、忘れさせません」


 リオは静かに答えた。


「名前は、整理するものではなく、選び直すものです。誰かが勝手に消してよいものではありません」


 教皇は満足そうに頷いた。


「その言葉を、教会の司祭たちにも聞かせたい」


「恐れ入ります」


 リオは美しく頭を下げた。


 そして、教皇の視線はサイカへ戻った。


「サイカさん」


「はい」


「あなたには、難しいお願いをしなければなりません」


 桜夜がすぐに反応した。


「サイカちゃんに負担をかける依頼なら」


「桜夜さん」


 サイカが止めた。


 桜夜は口を閉じる。


 教皇はそのやり取りを見て、優しく微笑んだ。


「守られていますね」


「はい」


 サイカは少し照れながらも頷いた。


「でも、聞きます」


「ありがとう」


 教皇は、ゆっくりと言った。


「魔女の子どもであるあなたに、あなた方に、教会を見張ってほしいのです」


 部屋の空気が揺れた。


 桜夜は目を細める。


 ホムラも身を乗り出しかける。


 リオは静かに教皇の言葉を待った。


「教会は、過去に魔女と呼ばれた女性たちを裁きました。恐れ、誤り、傷つけました。だからこそ、あなた方に頼むのは虫のよい話かもしれません」


 教皇は、サイカから目を逸らさなかった。


「それでも、教会が再び救いの名のもとに誰かを消そうとしたなら、あなたにはそれを見ていてほしい。赦しのためではありません。未来のために」


 サイカは、長い間黙っていた。


 魔女の子ども。


 教会に追われた者たちの血。


 その自分が、教会を見張る。


 変な話だった。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 教皇が赦しを求めるために言っているのではないと、わかったからかもしれない。


 サイカは、そっと桜夜を見る。


 桜夜は何も言わなかった。


 ただ、サイカが自分で選ぶのを待っていた。


 サイカは少しだけ息を吸う。


「わたしにできるなら」


 教皇は深く頷いた。


「ありがとうございます」


「でも」


「はい」


「教会が桜夜さんを消そうとしたら、わたしは怒ります」


 桜夜が目を見開いた。


 ホムラがにやりと笑う。


 リオも微かに表情を緩める。


 教皇は、まっすぐサイカを見たまま答えた。


「その時は、怒ってください」


「いいんですか」


「はい。私も怒ります」


 サイカは少し驚いた。


 教皇は続ける。


「大切な人を消されそうになって怒ることは、罪ではありません」


 サイカの表情が、少しだけ柔らかくなった。


「はい」


 教皇は、今度は桜夜を見た。


「水希桜夜殿」


「はい」


「もし偽キリストが現れた時、教会が跪いてしまったなら」


 嫌な予感がした。


 とても嫌な予感だった。


 桜夜は黙る。


 教皇は、逃がさなかった。


「私が跪いてしまったなら、あなたたちが私を止めてください」


 桜夜は深くため息をついた。


「ローマ教皇を止めるんですか」


「はい」


「世界中を敵に回しますよ」


「そうかもしれません」


「僕はただの珍獣教師です」


「英国王の騎士で、天皇の名代で、名もなき騎士団の騎士でもある」


「肩書きを増やさないでください」


 教皇は微笑んだ。


「あなたは、面倒な依頼を断るのが下手だと聞いています」


 桜夜は、リチャードと玄武を心の中で強く恨んだ。


 どちらだ。


 いや、たぶん両方だ。


「聖下」


「はい」


「僕は、神を信じているかどうかもわからない人間です」


「ええ」


「教会の味方でもありません」


「ええ」


「あなたを止める資格なんてありません」


「資格で止めるのではありません」


 教皇の声は柔らかい。


 だが、芯がある。


「見えている者が止めるのです」


 桜夜は黙った。


「そして、あなた一人に頼むつもりはありません」


 教皇は三人を見る。


「サイカさんが呼ぶ。リオさんが記録する。ホムラさんが怒る。あなたが斬る。あなた方は、一人ではありません」


 桜夜は、少しだけ目を伏せた。


 一人ではない。


 一人で決めない。


 一人で壊れない。


 最近、何度も言われていることだった。


 それをローマ教皇にまで言われるとは思わなかった。


「……検討します」


 桜夜は言った。


 教皇は楽しそうに笑った。


「断らないのですね」


「まだ引き受けてもいません」


「ええ。ですが、検討してくださる」


「意地が悪いですね」


「時々、そう言われます」


 ホムラがぼそりと言う。


「このじいさん、玄武にちょっと似てるな」


「ホムラちゃん」


 桜夜が本気で止める。


 だが、教皇は声を出して笑った。


「それは、褒め言葉でしょうか」


「たぶん違います」


 リオが丁寧に答える。


「そうですか。残念です」


 教皇はまったく残念そうではなかった。


 桜夜は頭が痛くなってきた。


 玄武。


 リチャード。


 ガブリエル。


 教皇。


 どうして権力者や超越者たちは、揃って桜夜を面倒な方向へ押し出すのか。


 白い船より先に、この人たちの会議をどうにかしたい。


 そう思った。


◇◇◇


 謁見は、さらに続いた。


 リオは各地の事例を整理して示した。


 日本での白い船の感応。


 イギリスの旧礼拝堂。


 フランスで報告された、眠りと白い花びらの兆候。


 教皇は一つずつ聞き、必要なところだけ質問した。


 質問は鋭かった。


 しかし、相手を追い詰めるものではない。


 見落としを防ぐための問いだった。


「偽キリストの兆候は、すでにいくつか報告されています」


 教皇は言った。


「病者が痛みを忘れた。罪を犯した者が、自分の罪を夢だったと語った。死者の声を聞いたという者が、翌朝、自分の名前を書けなくなった」


 桜夜は顔をしかめた。


「白い船に近い」


「ええ。ですが、すべてが同じ源とは限りません」


「模倣もあり得る」


「はい」


 リオが記録する。


「白い船の影響を受けた者が、宗教的な形で解釈している可能性もあります」


「その通りです」


 教皇は頷いた。


「信仰は、人を支えます。ですが、恐れと結びついた信仰は、時に見たいものだけを見ます」


 桜夜は、白い船に差し出されたあずさの幻を思い出した。


 おはよう。


 こっちへ来て。


 もう苦しまなくていい。


 見たいもの。


 聞きたい声。


 それが最も危ない。


「救いの顔をして来るなら」


 桜夜は小さく言った。


「僕はたぶん、斬りにくい」


 教皇は頷いた。


「だから、見分ける者が必要です」


「見分ける者」


「あなたの隣にいる方々です」


 サイカが桜夜を見る。


 リオも静かに顔を上げる。


 ホムラは不満そうに腕を組む。


「一人で救いを見分けようとする者は、かえって危うい。あなたは痛みを知りすぎている。だからこそ、痛みを消す救いに弱い」


 桜夜は反論しなかった。


 できなかった。


「ですが、あなたは呼ばれれば戻る」


 教皇は言った。


「なら、呼ぶ者たちを信じなさい」


 桜夜は、サイカの手を見た。


 何度も自分を呼んだ手。


 リオの記録。


 ホムラの炎。


 静馬の怒鳴り声。


 玄武の盤面。


 リチャードの友としての願い。


 ガブリエルの怒り。


 いくつもの呼ぶ声が、白い船から桜夜を戻している。


「信じるのは苦手です」


 桜夜は言った。


「でも、頼るのは少し覚えました」


 教皇は嬉しそうに頷いた。


「それで十分です」


 十分。


 桜夜には、その言葉が少しだけ意外だった。


 もっと求められると思っていた。


 信じろ。


 祈れ。


 神に従え。


 そう言われると思っていた。


 だが、教皇は言わない。


 ただ、今の桜夜が立てる場所を見ている。


 そこがまた、やりにくかった。


◇◇◇


 会談の終わり際、教皇は机の引き出しから小さなロザリオを取り出した。


 古いものではない。


 高価すぎるものでもない。


 白と透明の石で作られた、静かなロザリオだった。


 桜夜は一瞬、白に反応した。


 教皇はそれに気づいたのか、柔らかく言った。


「白い船の白ではありません」


「……読まれました?」


「顔に出ていました」


「失礼しました」


「よいのです」


 教皇はロザリオをサイカへ差し出した。


「これは、あなたへ」


「わたしに?」


「はい。受け取るかどうかは自由です。祈るために使っても、使わなくても構いません。教会に従う印ではありません」


 サイカは戸惑った。


「じゃあ、どうして」


「覚えていてほしいからです」


 教皇は言った。


「白には、消す白だけではありません。朝の白。祈りの白。まだ何色でもない白。あなたが怖いと思った時、これを見て、白いものすべてが船ではないと思い出してくれればよい」


 サイカは、そっとロザリオを受け取った。


「ありがとうございます」


「こちらこそ、来てくれてありがとう」


 桜夜は、そのロザリオを見ていた。


 あずさの白。


 白い船の白。


 まだ生まれていない命の透明。


 白と透明は、似ているようで違う。


 その違いを、これから何度も見分けなければならない。


 教皇は次に桜夜を見た。


「水希桜夜殿」


「はい」


「あなたには、物ではなく言葉を」


「嫌な予感がします」


「よい予感です」


「教皇様までそういうことを」


 教皇は微笑んだ。


「名を消す救いを、救いと呼んではなりません」


 桜夜は黙って聞いた。


「そして、あなた自身の名も、船に渡してはなりません」


 その言葉は、静かに刺さった。


 鳳凰の沈黙。


 自分の消滅の可能性。


 十三番目の椅子。


 あずさの転生。


 親友。


 すべてが胸の奥で揺れる。


「約束はできません」


 桜夜は言った。


 サイカが少しだけ目を見開く。


 リオも桜夜を見る。


 ホムラは黙っていた。


 教皇は怒らなかった。


「正直ですね」


「僕は、まだ自分がどうなるかわからない」


「ええ」


「でも」


 桜夜は、少しだけ息を吸った。


「呼ばれたら、できるだけ戻ります」


 教皇は深く頷いた。


「それでよいのです」


「本当に?」


「はい。人は、完全な誓いより、小さな帰還を積み重ねることがあります」


 桜夜は苦笑した。


「僕の周り、帰還任務ばかりですね」


「それが、あなたの騎士団なのでしょう」


 桜夜は目を細めた。


「そこまで知っているんですね」


「少しだけ」


「少しだけの範囲が広すぎます」


「教皇ですから」


「便利な言葉ですね」


 教皇は楽しそうに笑った。


 そして、立ち上がる。


 会談の終わりだった。


 桜夜たちも立ち上がった。


 最初の予定とは、何もかも違う謁見だった。


 ラテン語の挨拶も、形式的な握手も、きれいな導入も、ほとんど崩れた。


 だが、必要な話はできた。


 それどころか、必要以上のものを受け取ってしまった気がする。


 教皇は最後に、四人へ向けて十字を切った。


「主の平和が、あなた方と共にありますように」


 桜夜は、まだ神を信じているとは言えない。


 だが、その祈りを拒む気にはならなかった。


 サイカはロザリオをそっと握っていた。


 リオは深く頭を下げた。


 ホムラは少しだけ照れくさそうにしていた。


 桜夜も、静かに礼をした。


「ありがとうございます、聖下」


 教皇は微笑んだ。


「また会いましょう」


 その言葉に、桜夜は嫌な顔をした。


「また、ですか」


「ええ」


「できれば、次は非公式で」


「では、お茶を用意しましょう」


「そういう意味では」


「違いましたか?」


 教皇はいたずらっぽく笑った。


 桜夜は深くため息をついた。


 優しい老人。


 気さくな人。


 だが、背筋は曲げない。


 そして少しだけ意地が悪い。


 桜夜は、また苦手な人が増えたと思った。


 部屋を出る直前、教皇はもう一度だけ言った。


「水希桜夜殿」


「はい」


「偽キリストは、あなたが最も欲しい声で呼ぶかもしれません」


 桜夜の足が止まる。


「その時、誰の声で帰るかを、忘れないでください」


 桜夜は、サイカ、リオ、ホムラを見た。


 そして、静かに頷いた。


「はい」


 扉が開く。


 ヴァチカンの廊下に、四人は戻った。


 謁見は終わった。


 けれど、教皇の言葉は、まだ胸の奥で響いている。


 偽りの救いは、名を消す。


 主は名を呼ぶ。


 そして白い船は、まだどこかで十三番目の椅子を空けている。

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