第33話 教皇の謝罪
長い廊下を歩く間、誰も喋らなかった。
ヴァチカンの廊下は、奇妙なほど静かだった。
磨かれた床。
古い壁。
高い天井。
そこに刻まれた歴史は、王宮のそれとは違う重さを持っている。
王宮の重さは、血と王冠と国家のものだ。
ここにある重さは、祈りと罪と赦しのものだった。
サイカは緊張していた。
魔女の子ども。
教会と長く対立してきた者たちの血。
その自覚が、歩くたびに足元から上がってくる。
リオは落ち着いているように見えた。
けれど、その頭の中では、西洋キリスト教諸国における儀礼、挨拶、席次、敬称、視線の置き方、言葉の選び方が高速で整理されていた。
彼女はいつでも桜夜を補佐できるように、必要な知識を叩き込んでいた。
ホムラは、意外にも少しわくわくしていた。
世界で一番偉い聖職者。
地上における神の代理人。
しかも、その人物が本当に強いのか、優しいのか、ただ偉そうなのかを、直接見られる。
ホムラにとって、それは少し面白いことだった。
そして桜夜は、嫌そうな顔をしていた。
心底嫌そうだった。
だが、その頭は冷えていた。
会談を成功させるには、最初が肝心だ。
それはよくわかっている。
まずは教皇の目を見て、許された距離で握手。
ヴァチカンの公用語であるラテン語で挨拶。
必要なら、リチャードからの親書をリオが差し出し、自分が英国王の名代として言葉を添える。
その後、四方院家と日本側の立場を簡潔に示す。
サイカへの視線が向いた場合、彼女を紹介するが、決して魔女の子どもとして見世物にはしない。
ホムラが燃やしそうになったら止める。
自分が逃げそうになったら、たぶん三人に止められる。
桜夜はため息をついた。
嫌だ嫌だと言いながら、身体は儀礼の手順を覚えている。
嫌なのに、できてしまう。
それがまた嫌だった。
リオが小声で言う。
「桜夜様」
「うん」
「最初はラテン語でご挨拶を」
「わかってる」
「親書は、わたくしが差し出します」
「うん」
「サイカちゃんの紹介は、桜夜様から。必要以上に血筋へ触れる必要はありません」
「うん」
「ホムラちゃん」
「何だ」
「燃やさないでください」
「まだ燃やしてねえだろ」
「念のためです」
「信用ねえな」
「実績がありますので」
ホムラは不満そうに顔を逸らした。
サイカは桜夜の袖をそっと掴んだ。
「桜夜さん」
「うん」
「大丈夫かな」
「たぶん」
「たぶん?」
「教皇様がまともな人なら、大丈夫」
「まともじゃなかったら?」
「ホムラちゃんが燃やす前に止める」
「そこは止めるんだ」
「ヴァチカンで放火はさすがにまずい」
サイカは少しだけ笑った。
その笑みで、桜夜の胸の緊張も少しだけ緩む。
廊下の先で、案内役の聖職者が立ち止まった。
重厚な扉。
その向こうに、教皇ヨハネ・パウロ三世がいる。
桜夜は息を整えた。
背筋を伸ばす。
表情を整える。
嫌だという気持ちは胸の奥に沈める。
今は、名代として立つ。
扉が開いた。
◇◇◇
部屋は、想像していたよりも質素だった。
もちろん、調度品は上質だ。
古い机。
落ち着いた椅子。
壁には宗教画。
小さな十字架。
窓からは、柔らかな光が入っている。
だが、権威を見せつけるための場所ではなかった。
祈り、語り、聞くための部屋。
そう感じた。
そして、その中央に老人が立っていた。
護衛はいない。
側近も控えていない。
教皇ヨハネ・パウロ三世。
写真や映像で見た通り、優しそうな老人だった。
柔らかな白い髪。
穏やかな目。
聖職者になっていなければ、孫を膝に乗せて楽しくおしゃべりしていそうな気さくさがある。
だが、背筋はぴんとしていた。
老いてはいる。
疲れてもいる。
それでも、折れていない。
教会の過ちを謝りながらも、その責任と義務を一身に背負っている。
それでも背筋は曲げない。
その瞳には、優しさと強さ、そして生きる意志があった。
桜夜は、一瞬で理解した。
苦手な人だ。
とても苦手な人だ。
悪人ではない。
敵でもない。
だからこそ、逃げにくい。
桜夜は予定通り、一歩進もうとした。
ラテン語の挨拶も、頭の中に用意している。
リオも親書を差し出す準備をしている。
だが、その前に。
教皇が、桜夜たちに向かって深く頭を下げた。
部屋の空気が止まった。
挨拶の会釈ではない。
形式的な礼でもない。
腰を深く曲げる。
日本人なら、土下座でもしかねないほどの勢いで。
地上における神の代理人が。
ローマ教皇が。
魔女の子どもを連れてきた日本人たちに。
深く頭を下げていた。
桜夜は動けなかった。
リオも目を見開いている。
サイカは、何が起きているのかわからず、息を詰めた。
ホムラですら、言葉を失っていた。
最初に声を出したのは、教皇だった。
「まず、謝罪をさせてください」
その声は、穏やかだった。
だが、揺らがなかった。
「教会は、長い歴史の中で、多くの過ちを犯しました。主の御名を掲げながら、恐れを正義と呼び、無知を信仰と呼び、弱き者を守るべき手で、魔女と呼ばれた女性たちを傷つけました」
サイカの手が、震えた。
桜夜は反射的にその前へ出ようとした。
だが、サイカが自分で踏みとどまる。
教皇は頭を下げたまま続ける。
「あなたの母君たちに、私たちは罪を犯しました。あなた自身に対してではないと、責任を狭めるつもりはありません。あなたがその痛みを背負う義務はありません。私たちが赦しを求める権利もありません。それでも、私は教会を代表する者として、謝罪しなければなりません」
サイカは、唇を震わせた。
何かを言おうとして、言えない。
桜夜も言葉を探した。
だが、見つからなかった。
教皇は、次に桜夜へ向けて言った。
「水希桜夜殿」
「……はい」
「あなたにも感謝を」
「僕に?」
「ええ」
教皇は、まだ頭を上げない。
「あなたは、教会が過去に残してしまった宿題を、いくつも解いてくださいました。英国の旧礼拝堂で、告解と祈りが歪められた場所を、名を返す場所へ戻した。フランスで現れた兆候も、報告を受けています。日本で起きた白い船の問題にも、あなたは傷つきながら向き合っている」
桜夜は息を呑んだ。
どこまで知っている。
そう思った。
教皇は、穏やかに続ける。
「私たち聖職者が、もっと早く向き合うべきだった痛みです。あなたは、それを引き受けた。引き受けさせられた、と言うべきかもしれませんが」
桜夜は、思わず眉を寄せた。
この人は、そこまで言うのか。
自分を英雄扱いしない。
奇跡の執行者として称えない。
むしろ、引き受けさせられた痛みを見ている。
それが、桜夜には少し痛かった。
リオが一歩前へ出た。
「聖下。どうか、お顔をお上げください」
彼女の声は落ち着いていた。
しかし、驚きは隠しきれていない。
サイカも小さく言った。
「頭を、上げてください」
ホムラも、ようやく声を出す。
「そんなに下げなくていい。こっちが困る」
その言い方に、桜夜は少しだけ顔をしかめた。
だが、今はそれくらいでよかったのかもしれない。
教皇は、まだ少しの間、頭を下げていた。
まるで、自分の謝罪を軽く終わらせまいとしているかのように。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
その顔には、優しい微笑みがあった。
しかし、それはただの穏やかさではない。
自分が背負うべきものを背負ったまま、人を安心させようとする微笑みだった。
「今日、君たちに会えたのは、まさに主のお導きです」
教皇は言った。
その言葉は、押しつけではなかった。
神を信じろという命令でもない。
ただ、この出会いを祈りとして受け止める人の言葉だった。
桜夜は、ようやく呼吸を思い出した。
「聖下」
ラテン語で挨拶する予定だった。
握手をして、親書を渡し、形式を整える予定だった。
だが、最初の手順は完全に崩れた。
崩したのは教皇本人だ。
桜夜は少しだけ困った顔をした。
「予定していた挨拶が、全部飛びました」
リオが横で息を呑む。
だが、教皇は楽しそうに笑った。
「それは申し訳ない」
「いえ。こちらこそ、どう返せばいいのかわかりません」
「では、普通に話しましょう」
「教皇様と普通に話すのが、まず普通ではありません」
「たしかに」
教皇は、やわらかく笑った。
その笑い方が、あまりにも気さくだった。
写真や映像で見た印象そのもの。
聖職者でなければ、孫を膝に乗せて楽しくおしゃべりしていそうな老人。
だが、その背筋はまっすぐだった。
桜夜は、また少し困った。
こういう人が、一番やりにくい。
◇◇◇
リオは、すぐに自分を立て直した。
手順は崩れた。
だが、儀礼の本質は相手を尊重することにある。
ならば、今の教皇の行為もまた、彼の側から示された最大限の敬意だった。
リオは親書を両手で持ち、一歩前へ出る。
「聖下。英国王リチャード陛下より、親書をお預かりしております」
「ありがとう」
教皇は、リオを見た。
その視線は、穏やかだが鋭い。
「あなたがリオさんですね」
リオは少し驚いた。
「ご存じなのですか」
「水と記録を扱う方。英国の旧礼拝堂で、名前を守った方だと聞いています」
リオは静かに頭を下げた。
「過分なお言葉です」
「いいえ。記録を守ることは、祈りを守ることでもあります。教会は、それを何度も忘れてきました」
リオは、胸の奥に小さな震えを覚えた。
この老人は、言葉を軽く扱わない。
感謝も、謝罪も、過去の罪も。
すべてを自分の言葉として口にしている。
リオは親書を差し出した。
教皇はそれを丁寧に受け取る。
封を確認し、側の机へ置いた。
今は読むのではなく、まず目の前の者たちと話すつもりなのだとわかった。
「ホムラさん」
「お、おう」
ホムラは少し身構えた。
教皇に直接名前を呼ばれるとは思っていなかったのだろう。
「鐘を止めたそうですね」
「まあ」
「鳴らせると思うな、と」
ホムラの顔が赤くなった。
「誰から聞いたんだよ」
桜夜が小さく咳払いする。
「ホムラちゃん、相手は教皇様」
「わかってる」
教皇は笑った。
「いい言葉です。時には、鳴ってはならない鐘もあります」
「鐘は壊してない」
「ええ。それも聞いています。守るために燃やす炎は、美しい」
ホムラは完全に言葉を失った。
褒められ慣れていない。
特に、こういう種類の褒め方には弱い。
リオが微かに微笑んだ。
サイカも少し緊張がほどけたようだった。
教皇の視線が、そのサイカへ向く。
サイカの身体が、少し硬くなる。
桜夜はすぐに横へ立った。
教皇はそれを見て、静かに頷いた。
「守っているのですね」
「はい」
桜夜は即答した。
「ですが、見世物にはしません」
「もちろんです」
教皇は、サイカへ向き直った。
「サイカさん」
「はい」
サイカの声は小さかった。
「ここへ来てくれて、ありがとう」
サイカは目を丸くした。
「ありがとう、ですか」
「ええ」
「わたしたち、魔女の子どもなのに」
「だからこそです」
教皇は、まっすぐサイカを見た。
「あなたがここへ来るには、勇気が必要だったでしょう。教会の中心に立つことは、あなた方の血にとって、優しいことばかりではないはずです」
サイカは、言葉を探した。
「怖かったです」
「ええ」
「今も、少し怖いです」
「それでよいのです」
教皇は言った。
「恐れたまま来てくれたことに、私は感謝します」
サイカの目が揺れた。
「教会は、魔女が嫌いなんですか」
その問いは、幼く聞こえた。
だが、重かった。
教皇は目を伏せなかった。
「過去の教会には、恐れがありました。無知がありました。権力への執着もありました。その中で、魔女と呼ばれた女性たち、知恵ある女性たち、ただ周囲と違っただけの女性たちを、罪人として扱いました」
サイカは黙って聞いている。
「それは罪です」
教皇ははっきりと言った。
「ですが、私は教会そのものを憎めとは言えません。教会には罪があり、同時に祈りもあります。過ちを犯した者たちがいて、傷ついた者を抱いた者たちもいた。私はその両方を背負います」
桜夜は、教皇を見た。
背筋が曲がらない理由が、少しわかった。
この老人は、謝罪で自分を軽くしようとしていない。
背負うために謝っている。
「サイカさん」
教皇は続ける。
「あなた方が私たちを赦す義務はありません」
サイカの瞳が揺れた。
「赦さなくていいんですか」
「赦しは、命令で生まれるものではありません」
自由意志。
祈り。
強制されない赦し。
教皇は静かに言う。
「ただ、私は謝らなければならない。そして、これからの教会が同じ過ちを繰り返さぬよう働かなければならない。それが私の責任です」
サイカは、長い間黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「まだ、わかりません」
「ええ」
「でも、ちゃんと聞きました」
「ありがとう」
教皇は微笑んだ。
サイカは、少しだけ桜夜の方を見た。
桜夜は静かに頷いた。
よく頑張った。
言葉にしなくても、そう伝わった。
◇◇◇
教皇は、ようやく椅子を示した。
「皆さん、どうぞ座ってください。立ったまま謝罪を続けると、年寄りの腰に悪い」
空気が少しだけ緩んだ。
ホムラが小さく呟く。
「自分で言うのか」
「ホムラちゃん」
桜夜がたしなめる。
教皇はまた笑った。
「構いません。私も、たまには自分の年齢を便利に使います」
「教皇様もそういうことするんだな」
「ええ。聖職者も人間ですから」
その言葉に、ホムラは少しだけ目を細めた。
人間。
教皇が自分をそう呼ぶことが、少し意外だったのかもしれない。
皆が席につく。
桜夜は、教皇の正面に座った。
逃げ場はない。
だが、もう逃げる気も少し薄れていた。
この人とは、話さなければならない。
そう思えた。
教皇は、ゆっくりと桜夜を見る。
「水希桜夜殿」
「はい」
「あなたは、神を信じていますか」
いきなり来た。
桜夜は少しだけ目を細めた。
リオの肩がわずかに動く。
サイカも緊張する。
ホムラは眉をひそめた。
桜夜は、正直に答えた。
「わかりません」
「否定ではないのですね」
「僕は、神を見たことがありません」
「多くの人もそうです」
「でも、天使は見ました。悪魔も見ました。世界意思のようなものも見ました。白い船も見ました」
「ええ」
「だから、神がいると考える理由は増えました。でも、信じるかどうかは別です」
「なるほど」
教皇は嬉しそうに頷いた。
「よい答えです」
「よいのですか」
「少なくとも、正直です」
桜夜は少し困った顔をする。
「信仰告白を求められるなら、困ります」
「求めません」
教皇は即答した。
「信仰は、脅しや礼儀で差し出すものではありません。あなたはまだ、神を信じているとは言えない。けれど、祈りを捨ててはいない」
桜夜は、黙った。
「愛の祈りを唱えたそうですね」
「……どこまで知っているんですか」
「必要な範囲だけです」
「その言い方は信用できません」
教皇は小さく笑った。
「あなたにその祈りを教えたのは、如月あずささんですか」
桜夜の表情が変わった。
それを見て、教皇は少しだけ目を伏せる。
「失礼しました。傷に触れましたね」
「いえ」
桜夜は首を横に振る。
「その通りです」
「なら、その祈りは、あずささんのものでもあり、あなたのものでもあります」
「僕の?」
「ええ」
「似合いません」
「似合うかどうかで、祈りは決まりません」
教皇の声は、優しい。
けれど逃がさない。
「あなたは、その祈りを白い船へ渡さなかった。なら、すでにあなたの中で生きています」
桜夜は、何も言えなくなった。
愛の源なる天主。
主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。
あずさには似合う。
自分には似合わない。
そう思っていた。
だが、白い船に渡さなかった。
あずさの祈りを、船の餌にはしなかった。
それは、確かに自分の選択だった。
教皇は、桜夜の沈黙を責めなかった。
ただ静かに待った。
その待ち方が、また厄介だった。
強制しない。
でも、逃がさない。
祈りの場にいる人間の待ち方だった。
桜夜は小さく息を吐いた。
「聖下」
「はい」
「僕は、教会を信じていません」
「ええ」
「神も、まだわかりません」
「ええ」
「でも、あなたが謝罪を軽く扱っていないことは、わかりました」
教皇の目が、少しだけ細くなる。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、サイカちゃんに、赦しを強制しないでくれてありがとうございます」
「当然のことです」
「当然のことができない人が多いので」
「耳が痛いですね」
教皇は穏やかに言った。
そして、少しだけ表情を改める。
「では、話しましょう」
部屋の空気が変わった。
柔らかさは残っている。
しかし、そこに職務の重さが戻る。
「白い船について」
教皇は言った。
「そして、世界各地で見え始めている偽キリストの兆候について」
桜夜は背筋を伸ばした。
リオも端末を開く。
サイカは手を膝の上で握る。
ホムラは椅子の上で少し前傾した。
謁見は、ようやく本題へ入ろうとしていた。
教皇ヨハネ・パウロ三世は、穏やかに十字架へ目を向けた。
「救いを名乗るものが、本当に救いであるとは限りません」
その声は、静かだった。
「だからこそ、私たちは見極めねばなりません。主の名を使う者ほど、慎重に」
桜夜は、その言葉を聞いて思った。
やはり、この人は苦手だ。
優しい。
強い。
そして、逃げない。
だから、こちらも逃げられない。
桜夜は深く息を吸った。
「わかりました」
教皇が頷く。
「では、あなたが見た白い船を、聞かせてください」
桜夜は、話し始めた。
十三番目の椅子。
名を失った親友。
眠り。
祈りの歪み。
あずさの記憶。
ガブリエル、ルシフェル、世界意思。
そして、救済を名乗る空白。
ヴァチカンの静かな部屋で、桜夜の言葉はゆっくりと置かれていった。
教皇は一度も遮らなかった。
ただ、聞いていた。
祈る人のように。




