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第32話 ヴァチカンへの護送

 教皇ヨハネ・パウロ三世は、すでに多くのことを知っていた。


 不死身の魔女がこの世を去ったこと。


 その忘れ形見を連れ回す日本人のこと。


 英国で起きた女子高の旧礼拝堂事件。


 日本、イギリス、フランスにまたがって見え始めた、白い船の兆候。


 そして、世界各地で囁かれ始めている「偽キリスト」の影。


 それはまだ、正式な教義判断を下すような事態ではない。


 奇跡に似たもの。


 救済に似たもの。


 眠りと忘却を伴う白いもの。


 苦しみから解放すると語りながら、名前を奪うもの。


 ヨハネ・パウロ三世は、それをただの異端思想とは見なさなかった。


 悪魔と断じることもしなかった。


 白い船は、悪魔の誘惑とは違う。


 それは、おそらくもっと静かで、もっと空虚で、もっと人の弱さに近い。


 祈りを歪めるもの。


 告解を眠りへ変えるもの。


 救いの形をした消去。


 教皇は、英国王リチャードと四方院玄武からの申し入れを、喜んで受けた。


 礼拝堂で起きた事件について、日本の名代であり、英国王の騎士であり、白い船に狙われる少年から直接話を聞きたい。


 魔女の忘れ形見と呼ばれる少女にも会いたい。


 そう告げ、主に感謝の祈りを捧げた。


 周囲は難色を示した。


「聖下、これ以上ご予定を増やされては」


「各国からの謁見希望も詰まっております」


「お身体に障ります」


 ヨハネ・パウロ三世は、静かに微笑んだ。


「世界が傷ついている時に、私の予定表だけが健やかでも仕方ありません」


 その一言で、側近たちは黙った。


 優しげな老人である。


 だが、柔らかいだけの人ではない。


 世界を飛び回り、赦し、愛し、謝り、諫め、救う。


 教会の過ちを知り、魔女たちへの迫害にも心を痛めている。


 それでも、彼は背筋を曲げない。


 教会の責任と義務を、自分の背に乗せて立つことを選んだ人だった。


 こうして、桜夜と教皇の謁見予定は、早々に決まってしまった。


◇◇◇


 一方その頃、桜夜は王宮に監禁されていた。


 比喩ではない。


 王宮内の客室。


 本来なら賓客用の豪華な寝室。


 天蓋付きのベッド。


 絨毯。


 暖炉。


 壁には古い絵画。


 窓の外には手入れされた庭園。


 その優雅な空間で、桜夜はベッドに縛り付けられていた。


「人権」


 桜夜は呟いた。


 隣で静馬が医療端末を確認している。


「逃亡歴のある患者に対する安全措置だ」


「医療倫理」


「君がそれを語るな」


「僕は病人です」


「病人だから拘束している」


「理不尽」


「合理的だ」


 桜夜は、手首の拘束具を見た。


 革ではない。


 王室が用意した、霊的干渉に耐性を持つ特製の拘束具だった。


 さらに、簡易的な呪縛もかけられている。


 桜吹雪は別室に保管され、鳳凰は眠ったまま。


 風の精霊も、この部屋には入りにくい。


 徹底している。


 あまりにも徹底している。


 桜夜は泣きそうになった。


 いや、少し泣いた。


「リチャードの裏切り者」


「君が過去にトイレから逃げようとしたからだ」


「十四歳の頃の話をいつまで引きずるんですか」


「今回も逃げようとしただろう」


「それは今回の話です」


「なら、なおさらだ」


 静馬は冷たかった。


 いや、正確には冷たくはない。


 心配している。


 心配しているから、逃がさない。


 そのタイプの優しさは、桜夜にとって非常に厄介だった。


 扉の向こうには、英国王室の近衛兵が常時二名。


 廊下にも数名。


 窓の外には狙撃ではなく、逃亡阻止用の警備。


 室内には静馬。


 隣室にはリオ。


 そのさらに向こうにホムラとサイカ。


 逃げ場がない。


 完全にない。


 桜夜は天井を見上げた。


「主よ」


「やめろ」


 静馬が即座に言った。


「まだ何も言ってない」


「ろくなことを言わない顔だった」


「我が神、我が神」


「やめろ」


「どうして私をお見捨てになったのですか」


「君は磔刑に処されているわけではない」


「精神的には似ています」


「全く似ていない」


 その時、どこか遠くで、ガブリエルの悪魔のような笑い声が聞こえた気がした。


 気のせいだと思いたい。


 しかし、たぶん気のせいではない。


 桜夜は枕に顔を埋めた。


◇◇◇


 出発の日。


 空港へ向かう時も、桜夜は大物犯罪者の護送並みの厳戒態勢だった。


 王宮から空港までのルートは非公開。


 複数の囮車両。


 王室警護。


 英国軍の支援。


 霊的干渉を防ぐ護符。


 手錠。


 足枷。


 それに加えて、逃亡防止用の呪縛。


 桜夜は泣きながら車に乗せられた。


「本当に泣いてる」


 ホムラが、車内でまじまじと桜夜を見た。


「おまえ、泣けたのか」


「ホムラちゃん」


「何だ」


「僕にも人間の心があります」


「いや、あるのは知ってるけど」


「では、その感想は失礼です」


「悪かった」


 ホムラは素直に謝った。


 しかし、そのあと小声で付け加える。


「でも、ちょっと珍しい」


「聞こえています」


「聞こえるように言った」


「ひどい」


 サイカは桜夜の隣で心配そうにしていた。


「桜夜さん、本当にそんなに嫌?」


「嫌」


「教皇様、怖い人なの?」


「たぶん違う」


「じゃあ、どうして?」


「いい人に、正式な場で、きちんと会うのが嫌なんだ」


 サイカは少し考えた。


「それは、ちょっとわかるかも」


「わかってくれる?」


「うん。悪い人なら、戦えばいいもんね」


「そう」


「でも、いい人だと、ちゃんとしなきゃいけない」


「そう」


 桜夜は、ようやく理解者を得た顔をした。


 リオが前の席から静かに言う。


「それでも、ちゃんとしていただきます」


「リオちゃん」


「はい」


「優しくない」


「逃亡防止と礼節維持に関しては、優しさより有効性を優先します」


「秘書官が強すぎる」


「当然です」


 軍用機に押し込められる直前、桜夜はもう一度だけ逃走を試みた。


 しかし、リオがそれを読んでいた。


 ホムラが肩を掴んだ。


 サイカが手を握った。


 静馬が無言で鎮静剤のケースを見せた。


 桜夜は観念した。


「人間とは、ここまで尊厳を奪われるものなのか」


「自業自得です」


 リオが即答する。


 軍用機の座席に座らされ、拘束具を確認され、ようやく離陸となった。


 英国王リチャードからローマ教皇ヨハネ・パウロ三世への親書は、リオが厳重に管理している。


 桜夜に持たせると、親書ごと逃げる可能性があると判断されたためだ。


「信用がない」


「実績がありますので」


「悪い実績ばかり積み上げている気がする」


「自覚があるなら改善してください」


 桜夜は窓の外を見た。


 雲の白。


 少し前なら、白い船を思い出していた。


 今も思い出さないわけではない。


 だが、今回はそれ以上にヴァチカンのことが重かった。


 教皇。


 地上における神の代理人。


 ヨハネ・パウロ三世。


 写真や映像で見る限り、優しそうな老人だった。


 聖職者になっていなければ、孫を膝に乗せて楽しくおしゃべりしていそうな、気さくさがあった。


 しかし、その背筋はきっと曲がっていない。


 教会の過ちを謝りながらも、その責任と義務を一身に背負っている人。


 瞳には、優しさと強さ、そして生きる意志がある。


 桜夜は、そういう人が苦手だった。


 嫌いではない。


 むしろ、敬意を抱く。


 だからこそ面倒だった。


 適当にごまかせない。


 距離を取れない。


 相手の誠実さに、こちらも何かを返さなければならない。


 それが、怖い。


 桜夜は、拘束された手首を見下ろした。


「帰りたい」


「まだ着いてもいません」


 リオが言った。


◇◇◇


 イタリア入国後も、護送は続いた。


 空港には、表向きの外交ルートとは別の車列が用意されていた。


 イタリア警察。


 軍関係者。


 ヴァチカン側の警護担当。


 英国王室から派遣された連絡官。


 さらに、玄武がどこからか手配したらしい日本側の霊的警護員。


 桜夜は、完全に包囲されていた。


「これはもう国際的な誘拐では?」


「国際的な護衛です」


 リオが訂正する。


「僕の意思は?」


「確認済みです」


「いつ?」


「サイカちゃんが行きたいとおっしゃった時点で」


「僕の意思ではない」


「桜夜様は、サイカちゃんが行きたいと言った場合、拒否できません」


「心理を読まないでください」


 ホムラが笑った。


「まあ、合ってるな」


「ホムラちゃんまで」


「諦めろ」


 車列はローマ市内を通り、一般の観光客が知らない裏ルートからヴァチカンへ入った。


 石の壁。


 警備の門。


 古い建物。


 歴史の重さ。


 祈りと権力と血と赦しが幾層にも積み重なった場所。


 サイカは車窓からそれを見て、少しだけ息を呑んでいた。


「ここが、ヴァチカン」


「うん」


「教会の中心?」


「そう言っていいと思う」


「怖い?」


 桜夜は答えに迷った。


 サイカが怖いかどうかを聞いているのか。


 桜夜が怖いかどうかを聞いているのか。


 たぶん両方だ。


「怖いよ」


 桜夜は正直に言った。


「でも、今のところ白い船よりはまし」


「比較対象が悪いね」


「うん」


 サイカは少し笑った。


 その笑みで、桜夜の胸の重さが少しだけ和らいだ。


◇◇◇


 控室で、ようやく拘束が解かれた。


 それだけで桜夜は椅子に崩れ落ちそうになった。


 しかし、リオがそれを許さなかった。


「お着替えです」


「休憩」


「お着替えです」


「五分」


「お着替えです」


「リオちゃん、時々壊れた機械みたいになるよね」


「桜夜様が逃げる時だけです」


 礼服が用意されていた。


 黒を基調とした、控えめだが上質な礼装。


 英国での王宮謁見ほど華やかではない。


 だが、ヴァチカンで教皇に謁見するには十分すぎるほど整っている。


 桜夜は嫌そうな顔で着替えた。


 リオが襟元を整える。


「お似合いです」


「似合わなくていいのに」


「似合ってしまうものは仕方ありません」


「理不尽」


 サイカたちも着替えていた。


 サイカは、雷光を思わせる淡い金と、魔女の夜を思わせる紫を含んだドレス。


 派手ではない。


 けれど、彼女のやわらかさと芯の強さが見える色だった。


 リオは水色。


 澄んだ水のようで、同時に儀礼の場にふさわしい落ち着きがある。


 ホムラは深い赤。


 炎そのものではなく、守るために灯る火の色。


 本人は「動きにくい」と不満を言っているが、似合っていた。


 桜夜は三人を見て、少しだけ言葉に詰まった。


「みんな、似合ってる」


 サイカがぱっと笑う。


「ほんと?」


「うん」


「桜夜さんも、かっこいいよ」


「ありがとう」


 ホムラが顔を赤くしてそっぽを向く。


「こういう服は嫌いだ」


「似合ってるよ」


「言うな」


 リオは静かに微笑んだ。


「ありがとうございます」


 控室は静かだった。


 外では、ヴァチカンの職員や警護が控えている。


 まもなく呼ばれる。


 ローマ教皇ヨハネ・パウロ三世との謁見。


 桜夜は椅子に座り、両手を組んだ。


 顔色は悪い。


 しかし礼装を着て背筋を伸ばすと、それでも形になってしまう。


 それがまた嫌だった。


 できてしまう。


 できるから、連れてこられる。


「我が神、我が神」


 桜夜は小さく呟いた。


 サイカが顔を上げる。


「桜夜さん?」


「どうして私をお見捨てになったのですか」


 磔刑に処されたキリストの言葉。


 それを呟いた瞬間、どこかでガブリエルの悪魔のような笑い声が聞こえた気がした。


 今度は、かなり確信がある。


 ガブリエルは聞いている。


 そして笑っている。


 桜夜は天井を睨んだ。


「後で覚えていてください」


「誰に言ってるの?」


 サイカが不思議そうに聞く。


「天使」


「ガブリエルさん?」


「たぶん」


「笑われたの?」


「たぶん」


 ホムラが呆れた顔をする。


「天使に笑われるって何だよ」


「僕も知りたい」


 桜夜は深く息を吐いた。


 そして、もう一つ口にした。


「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」


 ゲツセマネの祈り。


 受難の前の言葉。


 桜夜の声は、やけに真剣だった。


 その場に沈黙が落ちた。


 サイカは首を傾げる。


 リオも少しだけ困惑した顔をする。


 ホムラは、はっきり呆れた。


「だめだこりゃ」


「ホムラちゃん」


「なんでお前、処刑される前のキリストみたいな気分になってんだよ」


「心理的には近い」


「近くねえよ!」


 リオが静かに言う。


「桜夜様。これからお会いするのは、処刑人ではなくローマ教皇です」


「世界最高峰の権威者です」


「だからこそ、礼節を尽くせばよいだけです」


「それが嫌なんです」


「存じております」


「知っているなら優しくしてください」


「ですから、逃げないよう優しく見守っています」


「拘束と護送は見守りではありません」


 サイカが桜夜の手をそっと握った。


「桜夜さん」


「うん」


「わたしも怖いよ」


 桜夜は黙った。


 サイカは、少しだけ視線を落とす。


「魔女の子どもだから。教会の中心に来るの、ちょっと怖い」


「うん」


「でも、桜夜さんが一緒だから来た」


 その言葉は、まっすぐだった。


 桜夜の中の駄々が、少しだけ静かになる。


「だから、桜夜さんも一緒にいて」


「……うん」


「逃げないで」


「うん」


 サイカは微笑んだ。


「じゃあ、大丈夫」


 桜夜は、その笑顔を見て、ようやく背筋を伸ばした。


 自分が怖がっている場合ではない。


 いや、怖がっていてもいい。


 ただ、サイカを置いて逃げるわけにはいかない。


 リオが襟元をもう一度確認する。


「準備はよろしいですか」


「よくはない」


「では、最低限の準備は整いました」


「言い方」


 ホムラが扉を見る。


「変なこと言われたら燃やす」


「燃やさないで」


「努力する」


「その返事は燃やす方の返事です」


 リオが即座に言った。


 ホムラは舌打ちする。


 その時、扉の向こうから静かなノックがあった。


 ヴァチカンの職員が入ってくる。


「皆さま、聖下がお待ちです」


 部屋の空気が変わった。


 桜夜は立ち上がる。


 嫌だ。


 逃げたい。


 帰りたい。


 だが、サイカがいる。


 リオがいる。


 ホムラがいる。


 リチャードの親書がある。


 玄武の思惑がある。


 白い船の兆候がある。


 そして、教皇ヨハネ・パウロ三世が待っている。


 桜夜は小さく息を吐いた。


「行こう」


 サイカが頷く。


「うん」


 リオが親書を手に取る。


 ホムラが不満そうにドレスの裾を払う。


 扉が開く。


 長い廊下の向こうに、柔らかな光が見えた。


 その先に、地上における神の代理人がいる。


 桜夜はもう一度だけ、心の中で呟いた。


 父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。


 だが、杯は過ぎ去らなかった。


 だから、桜夜は歩き出した。

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