第31話 王と狸とローマへの手紙
「これが、事の顛末です」
王宮の秘密の部屋で、桜夜はリチャードと画面越しの玄武に報告をした。
聖マリアンナ女子大学付属高等学校。
旧礼拝堂。
シスター・アグネスの日誌。
名前を書いた紙。
白い船へ繋がっていた祈りの通路。
呼ばれなかった名を食べる船。
そして、最後の告解。
桜夜はできるだけ簡潔にまとめた。
白い船の本体は消えていない。
十三番目の椅子も残っている。
親友の名も、まだ返ってきていない。
鳳凰の回復も遅い。
だが、少なくとも女子高から白い船へ繋がっていた港は切断した。
生徒たちの名前は戻った。
旧礼拝堂は、閉鎖ではなく再聖別と調査を行うべきだと付け加えた。
サイカたちは、学生たちとのお別れ会に出ている。
エレノアやメイベル、ホムラを王子様扱いする下級生たち、リオをお姉さまと慕う上級生たちが、半ば強引に三人を連れていった。
桜夜も誘われたが、王室への報告という名目で逃げた。
逃げたはずなのに、目の前には英国王と四方院玄武がいる。
考えてみれば、こちらの方がよほど逃げたい場だった。
リチャードは、満足そうに頷いた。
「よくやった。それでこそ余のナイトだ」
「イギリスのナイトなんてもう形だけなんですから、体よく利用しないでください」
「形だけと言うな。余は気に入っている」
「そこが問題です」
リチャードは楽しそうに笑った。
画面の向こうで、玄武も薄く笑っている。
その目は、報告内容だけではなく、桜夜の顔色を見ていた。
リチャードも同じだった。
桜夜は立っている。
声も乱れていない。
礼儀も崩れていない。
だが、疲れている。
鳳凰の反応が弱い。
旧礼拝堂で白い船との接続を切った反動も残っている。
そして何より、如月あずさの魂が四方院一の妻、京子の胎内に宿ったという知らせが、桜夜の奥に静かに沈んでいる。
リチャードは、王の顔ではなく友人の顔で言った。
「なれば友よ。少し休息を取ってはどうだ。イギリスにいると政治家たちが群がるだろうから、他国がよいかもしれんな」
「休息」
「そうだ」
リチャードは少し考えるふりをした。
その顔は、明らかに何かを思いついている顔だった。
「イタリアのヴェネチアはどうだ? お前は、あの水の都が好きだっただろう?」
桜夜の顔が、少しだけほころんだ。
ヴェネチア。
水の都。
いつ滅ぶとも知れない、美しい街並み。
運河に映る空。
古い石造りの建物。
迷路のような路地裏。
何度来ても道に迷い、迷うことそのものが少し楽しい街。
あの街を、もう一度歩く。
サイカたちと。
水面の光を見て、路地裏を探索し、古い教会の天井を見上げる。
それはいい。
かなりいい。
桜夜は素直にそう思った。
だが、そこで玄武が横やりを入れた。
「イタリアに行くなら、ヴァチカンにも寄るとよい」
桜夜の顔から、光が消えた。
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感だった。
「では、僕はこれで失礼します」
桜夜は即座に礼をして、入口へ向かった。
だが扉の前には、屈強な近衛兵が二人立っていた。
さっきまではいなかった。
いや、いたのだろう。
桜夜が気づかなかっただけだ。
鳳凰も桜吹雪もまともに使えない今の桜夜に、抵抗の余力はない。
「離してください。僕はただの疲れた日本人です」
近衛兵たちは丁重に、しかし一切の隙なく桜夜を取り押さえた。
「リチャード」
「余は何も命じていないぞ」
「嘘ですね」
「王は時に沈黙するものだ」
「最悪です」
玄武が画面の向こうで、楽しそうに扇子を開いた。
「ほっほ。まだ逃げ足は残っておるようじゃな」
「玄武様、今すぐ通信を切ってください」
「嫌じゃ」
リチャードは涼しい顔で続ける。
「しかしヴァチカンはよいな。余の騎士は宗教画も好きだっただろう」
桜夜は一瞬、希望を持った。
なんだ、ただの観光か。
ヴァチカン美術館。
システィーナ礼拝堂。
宗教画。
それなら悪くない。
むしろ見たい。
だが、玄武はその希望を見逃さなかった。
「せっかくじゃし、今回の日本、イギリス、フランスの事件について、ローマ教皇の意見も聞きたいの」
桜夜は、近衛兵に取り押さえられたまま固まった。
リチャードが、手を打つように頷く。
「それは妙案。では余が親書を書き、桜夜を名代にすることで場を設けよう」
「やだ!」
桜夜は叫んだ。
「教皇様に会うなんて絶対やだ!」
「子どものような駄々をこねるな。我が騎士よ」
「騎士扱いするなら本人の尊厳を守ってください!」
「逃げようとした者が尊厳を語るな」
「逃げる権利は人権です」
「王宮内では適用外だ」
「そんな国際法はない!」
画面の向こうで玄武が腹を抱えて笑っている。
桜夜は本気で腹が立ってきた。
この騎士であるはずの男は、かたっ苦しい場が好きではない。
政治家との腹の探り合い。
軍隊との謀略合戦。
呪術師や異能者との駆け引き。
そういうものは得意だ。
むしろ、嫌そうな顔をしながらも平然とこなす。
だが、貴族のパーティー、王族への謁見、天皇への拝謁、教皇との会見。
格式と儀礼が前面に出る場は、ほとんど全部断ってきた。
理由は単純だ。
やりたくない。
ただそれだけだった。
◇◇◇
リチャードは、昔のことを思い出していた。
王太子時代。
暗殺未遂事件。
十四歳の日本人の少年が、偶然居合わせた古本屋で暗殺犯を捕まえ、その後なぜか自分まで牢に入れられた。
さらに、その少年は脱獄してまで暗殺チームを壊滅させた。
当時の英国王は、その功績を認め、桜夜にナイトの爵位を与えると手紙を送った。
普通なら、名誉なことだ。
国家からの感謝。
王からの叙任。
少年であっても、英雄として扱われる。
だが、桜夜はトイレに行くふりをして逃げた。
日本への逃亡を企てたのだ。
しかも、空港まで行く気だったらしい。
当時、リチャードは本気で頭を抱えた。
王のメンツを潰すわけにはいかない。
イギリス中の警察と軍隊が動き、桜夜は結局、王宮へ連れてこられた。
リチャードは心配した。
この男は、王本人を前にしても非礼を働くのではないか。
牢の中で説教してきた少年である。
可能性は十分にあった。
だが、礼装に着替えた桜夜は違った。
誰もが目を奪われるような美しい所作。
上流階級の英語。
王への詫び。
礼儀正しい沈黙。
完璧な敬意。
そして粛々とナイトになった。
式が終わり、二人きりになった時、リチャードは聞いた。
「あれだけできるなら、なぜ逃げたのか」
桜夜は、心底ふてくされた顔で答えた。
「やりたくないからだ」
リチャードは、その時初めて理解した。
こいつはできないのではない。
やりたくないだけなのだ。
その性質は、今も変わっていない。
◇◇◇
玄武もまた、駄々をこねている桜夜を見て、ある事件を思い出していた。
とある若い男性皇族が行方不明になった。
政府の密命で桜夜が捜査し、皇族は無事に発見された。
しかもその裏では、政界で天皇すら巻き込みかねない陰謀が渦巻いていた。
それも、その皇族と桜夜が解決した。
天皇は大いに喜ばれた。
会って礼がしたい。
そう仰せになり、桜夜を皇居へ招いた。
たいへんな栄誉である。
四方院の相談役が行かないという選択肢はない。
普通はない。
だが、この男は屋敷にこもった。
さらに自室にこもった。
そこから引きずり出そうとすると、四方院の手練れ千人を病院送りにした。
こんなところで一騎当千を本当にするな。
玄武は本気で頭を抱えた。
最終的に、くだんの男性皇族が桜夜を迎えに来るという破格の待遇になった。
さすがに桜夜も観念した。
桜夜は時の天皇に拝謁し、お礼の言葉を賜った。
その時の所作は、皇族にも負けないほど訓練されたものだったという。
そして、天皇に「ありがとう」と言われた時、桜夜は感涙しているかのようだった。
あとから聞いたところによると、桜夜の師である宮森明人は、天皇陛下を深く敬愛していたらしい。
いつか拝謁したい。
それが明人の夢だった。
その夢を弟子である自分が叶え、あまつさえお礼を言われた。
だから桜夜は、泣きそうになった。
それを聞いた玄武は、少しだけ黙った。
そして思った。
なら、無駄な怪我人を出さずに最初から行ってくれ。
その記憶があったので、玄武はさらに意地悪を言った。
「桜夜」
「何ですか」
「お前の好きなインターネットによると、世界の偉い人トップスリーというものがあるそうじゃな」
桜夜が、びくっと反応した。
近衛兵の腕の中で、暴れるのをやめる。
「第三位、英国王」
リチャードが楽しげに胸を張る。
「余だな」
「第二位、天皇」
玄武が続ける。
「お前はすでに拝謁済みじゃ」
「やめてください」
「第一位、教皇」
玄武は、にんまりと笑った。
「やったの。今回、教皇に会えばコンプリートじゃぞ」
「いやだー!」
桜夜は本気で叫んだ。
「コンプリートとかいう言い方をしないでください! 僕は御朱印集めをしているわけではありません!」
「御朱印ならヴァチカンにはないのではないか?」
リチャードが真顔で言う。
「そこじゃありません!」
「なら何が問題だ」
「全部です!」
桜夜は近衛兵に取り押さえられたまま、じたばたした。
鳳凰が元気なら、もう少し抵抗できたかもしれない。
桜吹雪を使えば、近衛兵を傷つけずに抜けられたかもしれない。
だが、今はできない。
できない上に、相手が悪い。
英国王リチャード。
四方院玄武。
どちらも桜夜の扱いを心得ている。
「そもそも、ローマ教皇に会って何を話せばいいんですか!」
桜夜が叫ぶ。
「今回の事件じゃろ」
玄武が言う。
「日本の件、イギリスの件、フランスでの白い船の兆候。天使、悪魔、教会、祈り、告解、名を失う者。教皇の意見を聞く価値はある」
「そういう正論を今言わないでください」
「正論だから言っておる」
「性格が悪い」
「今さらじゃ」
リチャードも続ける。
「教皇ヨハネ・パウロ三世は、気さくな方だと聞く。世界を飛び回り、赦し、愛し、謝り、諫め、救う。地上における神の代理人として、今の世界と向き合っている人物だ」
「だから嫌なんです」
「なぜだ」
「いい人にきちんと会うのは、悪い人に会うより面倒なんです」
リチャードは一瞬黙り、それから苦笑した。
「お前らしい理屈だな」
「本気です」
「知っている」
桜夜はため息をついた。
「カトリック教会の枢機卿とは会ったことがあります」
「ほう」
「非公式な場でした。相手も気さくでした。だから何とかなりました」
「その時も駄々をこねたのじゃろう」
玄武が言う。
「かなりな」
リチャードが笑う。
「なぜ知ってるんですか」
「お前の関係者は、だいたい余に愚痴を言う」
「最悪だ」
「安心しろ。余も聞いていて楽しい」
「安心できる要素がありません」
玄武は扇子で口元を隠した。
「ローマ教皇は、教会が魔女たちにしてきた迫害にも心を痛めていると聞く。サイカたちにも会わせる意味はある」
その言葉で、桜夜の動きが止まった。
サイカ、リオ、ホムラ。
魔女の子どもたち。
教会と対立してきた者たちの血。
その子を連れて、ローマ教皇に会いに行く。
世界でもトップクラスの権力者に。
地上における神の代理人に。
桜夜は眉を寄せた。
「サイカたちを見世物にするつもりなら、行きません」
「するわけがなかろう」
玄武の声が、少しだけ低くなった。
「教会が自らの過ちを反省しておるなら、魔女の子どもを哀れみの対象としてではなく、一人の人間として迎えるかどうかを見る価値がある」
リチャードも頷く。
「余も同感だ。教皇ヨハネ・パウロ三世が評判通りの人物なら、サイカ嬢たちに赦しを要求したりはしないだろう」
桜夜は黙った。
逃げたい。
ものすごく逃げたい。
だが、話の意味はわかる。
白い船は、祈りを歪めた。
告解を歪めた。
教会の言葉や象徴も、これから先、何度も絡んでくるだろう。
ならば、教会の中心にいる人物の意見を聞く意味はある。
それに、サイカたちが教会と向き合う機会にもなる。
もちろん、サイカたちが嫌がればやめる。
それは当然だ。
しかし、最初から桜夜の逃げ腰だけで潰していい話でもない。
「……サイカたちに確認します」
桜夜は言った。
リチャードと玄武が、同時に目を細める。
「本人が嫌がったら行きません」
「よかろう」
玄武が即答した。
「そこは尊重する」
リチャードも頷いた。
「余も異論はない」
リチャードは近衛兵へ目配せした。
近衛兵たちはようやく桜夜を解放する。
桜夜は服の乱れを整えた。
「逃げないな?」
リチャードが聞く。
「今は」
「正直だな」
「鍛えられているので」
桜夜は少し不機嫌そうに言った。
その時、秘密の部屋の外が騒がしくなった。
明るい声。
複数の足音。
花の匂い。
扉が開く。
「桜夜さん!」
サイカが、大量の花束を抱えて入ってきた。
その後ろから、リオとホムラも入ってくる。
リオの腕にも花束。
ホムラの腕にも花束。
ホムラは不機嫌そうだが、耳まで赤い。
「何その花」
桜夜が目を瞬かせる。
「学生の皆さまからです」
リオが穏やかに言った。
「感謝の印だそうです」
「オレはいらねえって言ったんだぞ」
ホムラがぼやく。
「でも、皆さんがどうしてもって」
サイカが嬉しそうに笑う。
「ホムラちゃん、王子様だから」
「違う!」
リチャードが目を輝かせた。
「ほう。王子様か」
「そこ拾うな!」
ホムラが即座に怒鳴る。
玄武は画面越しに笑っている。
「ずいぶん華やかな帰還じゃの」
サイカはそこで、桜夜の表情に気づいた。
「桜夜さん、何かあった?」
桜夜は、ほんの一瞬だけ迷った。
だが、さっき言ったばかりだ。
一人で決めない。
一人で壊れない。
「イタリアに行くかもしれない」
サイカの目が輝いた。
「イタリア?」
「うん。ヴェネチア」
「水の都?」
「そう」
「行きたい!」
即答だった。
桜夜は少し笑った。
「あと、ヴァチカン」
リオが反応した。
「ローマ教皇庁ですか」
「うん」
ホムラが花束を抱えたまま眉をひそめる。
「教皇って、オレたちの敵だろ」
「歴史的には、そうだね」
サイカは少しだけ首を傾げた。
「教会に戦争をしかけるの?」
「違うよ。会うだけだ」
「わたしたちも?」
「サイカちゃんたちが嫌なら行かない」
桜夜は即答した。
サイカは、花束を抱えたまま少し考えた。
「怖いかもしれない」
「うん」
「でも、会ってみたいかも」
桜夜は黙ってサイカを見た。
「魔女の子どもだから、教会は怖い。でも、ガブリエルさんは怖いだけじゃなかった。だから、教皇様も見てみたい」
リオが静かに頷く。
「わたくしも賛成です。教会の中心が、魔女迫害の歴史をどう捉えているのか、確認する価値があります」
ホムラは鼻を鳴らした。
「サイカが行くなら行く。変なこと言われたら燃やす」
「燃やさないで」
「努力する」
「その返事は燃やす方の返事だよ」
桜夜が言うと、ホムラは顔を逸らした。
リチャードは満足そうに頷いた。
「決まりだな」
「決めないでください」
玄武も続ける。
「では、イタリア行きの手配を進める。リチャード陛下、親書を頼みますぞ」
「任せよ」
「任せないでください」
桜夜の抗議は、誰にも届かなかった。
サイカは花束を抱えたまま、桜夜の隣に来る。
「桜夜さん」
「うん」
「ヴェネチア、楽しみだね」
桜夜は、まだ不満そうな顔をしていた。
だが、サイカのその声を聞くと、少しだけ表情が緩んだ。
「うん」
水の都。
迷路の路地。
滅びそうで、まだ美しい街。
その先に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ三世が待っている。
優しげな老人だという。
世界を飛び回り、赦し、愛し、謝り、諫め、救う、地上における神の代理人。
桜夜はまだ会っていない。
だが、写真や映像で見る限り、柔らかな目をした老人だった。
聖職者になっていなければ、孫を膝に乗せて楽しくおしゃべりしていそうな、気さくさがある。
それでも、たぶん背筋は曲がっていない。
教会の過ちを謝りながらも、その責任と義務を一身に背負っている。
優しさを言い訳に逃げない人。
そういう人に会うのは、悪い人に会うより面倒だ。
桜夜は心からそう思った。
「やっぱり嫌だなあ」
「桜夜さん」
サイカが笑う。
「逃げないでね」
「……努力します」
リオがすぐに言った。
「その返事は逃げる方の返事です」
ホムラが花束を肩に担ぐ。
「逃げたら捕まえる」
リチャードが笑い、玄武が笑い、サイカも笑った。
桜夜は、深くため息をついた。
潜入任務は終わった。
白い船の影は残っている。
鳳凰はまだ眠っている。
あずさの魂は、別の朝へ向かっている。
そして次の行き先は、イタリア。
ヴェネチアと、ヴァチカン。
まったく、名もなき騎士団の帰還任務は、どこまで遠回りをすれば気が済むのだろう。




