第30話 最後の告解
夜の聖マリアンナ女子大学付属高等学校は、昼とは別の顔をしていた。
昼間は、明るい声が廊下を満たしている。
制服の裾。
ノートを抱える手。
友人を呼ぶ声。
笑い声。
名前を書いた授業の余韻。
だが、夜になると、校舎は石と影の建物に戻る。
廊下の奥は黒く、窓には月が映り、礼拝堂へ続く道だけが妙に白く浮かんで見えた。
桜夜たちは、旧礼拝堂へ向かっていた。
先頭はホムラ。
次にリオ。
桜夜とサイカは、その後ろを歩く。
静馬は仮拠点から通信で繋がっている。
「桜夜」
端末越しの声が硬い。
「体調」
「頭痛あり。吐き気は軽度。眠気はなし。白い船の視認なし」
「鳳凰の反応は」
桜夜は一瞬だけ黙った。
「……弱い」
「どの程度だ」
「ほとんど眠っている」
静馬の沈黙が、わずかに伸びた。
「その状態は、いつからだ」
「はっきりとは」
「はっきりしろ」
「イギリスに来る前後から、だと思う」
言ってから、桜夜は自分でも少し眉を寄せた。
今さらだ。
本当に今さらだった。
鳳凰は、ずっと弱っている。
白い船に触れ、親友の名を失い、十三番目の椅子に引かれてから、鳳凰は眠りがちになった。
それ自体は理解していた。
鳳凰が力尽きれば、桜夜も消える。
桜夜が最低限活動できている以上、鳳凰は消えていない。
だが、ずっと眠っている。
あまりにも長い。
鳳凰は、ひよこの姿になると頭まで幼くなるのか、以前はうるさくぴよぴよ言っていた。
桜夜が無茶をすれば、ぴよぴよ怒る。
食事を抜けば、ぴよぴよ抗議する。
サイカが近づけば、ぴよぴよ意味不明に騒ぐ。
それが、イギリスに来る前後あたりから極端に減った。
鳳凰は、ただ眠っている。
回復していない。
それどころか、何かを待っているようにも見える。
何を。
桜夜は、ふと足を止めた。
あずさの魂は、京子の胎内に宿った。
その転生は、あと一年もせず完了する。
あずさは、別の命として生まれようとしている。
なら、自分は。
桜夜は、今まで考えないようにしていた可能性に触れた。
あずさが戻る。
逆に、自分が消える。
まるで、席を譲るように。
あるいは、借りていた命を返すように。
鳳凰が眠り続けているのは、その準備なのか。
白い船の十三番目の椅子は、水希桜夜を待っている。
世界意思は、桜夜を係留点にしようとしている。
ルシフェルは、病弱な失敗作と呼んだ。
玄武は、あずさの魂を未来へ送った。
神は沈黙している。
鳳凰は眠っている。
桜夜は、自分の顔がどんな表情をしているのかわからなかった。
泣いているのか。
笑っているのか。
怒っているのか。
全部が少しずつ混じっているようだった。
「桜夜さん?」
サイカがすぐに振り返る。
その声で、桜夜は現実へ戻った。
「大丈夫?」
「うん」
「うそ」
「うん。うそ」
サイカの顔が歪む。
桜夜は、何とか息を整えた。
「でも、今は行ける」
「今は、じゃなくて」
「わかってる。あとで静馬くんに全部話す」
通信越しに静馬が言う。
「今の時点で十分問題だ。戻ってから検査する。拒否権はない」
「はい」
「あと、消えるなどと考えるな」
桜夜は少しだけ目を見開いた。
「聞こえてた?」
「君の沈黙はうるさい」
「医者って怖いね」
「友人として言っている」
桜夜は、小さく笑った。
サイカが手を握る。
「桜夜さん、消えないで」
「うん」
「あとでちゃんと話して」
「うん」
「今は、帰ってくるところまで」
「うん」
ホムラが前から振り返った。
「話終わったか」
「ごめん」
「謝るより歩け。今夜は、こっちも暇じゃねえ」
リオも静かに頷いた。
「鐘が鳴るまで、あまり時間がありません」
桜夜は旧礼拝堂を見た。
古い扉。
封鎖されたはずの場所。
その奥に、呼ばれなかった名を食べる船がいる。
鳳凰の沈黙。
あずさの転生。
自分の消滅。
それらは、今は胸の奥へ押し込める。
消えるかどうかを考える前に。
今夜、消されそうな名前がある。
「行こう」
桜夜は言った。
◇◇◇
旧礼拝堂の扉は、昼間より重く見えた。
封鎖の鎖は、すでにリチャードの権限で外されている。
だが、扉そのものが拒んでいるようだった。
ホムラが前に出る。
「開けるぞ」
「焼かないでください」
リオが即座に言う。
「わかってるって」
ホムラは扉に手をかけた。
炎は出さない。
ただ、扉の周囲にまとわりつく白い霧だけを薄く焼く。
霧は嫌がるように後退した。
リオが水を展開する。
透明な膜が、扉の隙間から漏れる白を押し戻す。
サイカの指先に、小さな雷が灯った。
旧礼拝堂の奥から、鐘の音が聞こえた。
一度。
低く、深く、どこか遠い音。
桜夜たちは顔を上げた。
「一つ目」
リオが言う。
「鐘楼は使われていないはずだろ」
ホムラが舌打ちする。
「白い船が鳴らしているのでしょう」
リオの声は落ち着いているが、表情は硬い。
「三度鳴る前に、地下祭壇へ到達します」
「急ごう」
桜夜が言った。
扉を開ける。
中は、白かった。
霧が床を這い、長椅子の脚を隠している。
壁には古い聖画。
割れたステンドグラス。
湿った木の匂い。
その奥に、地下へ続く階段がある。
だが、今夜はそれだけではなかった。
礼拝堂の中央に、生徒たちが立っていた。
五人。
六人。
いや、もっといる。
眠ったまま歩いてきたように、目の焦点が合っていない。
エレノア。
メイベル。
ホムラが昼間助けた下級生。
さらに、名前を書いた者。
名前を書かれた者。
呼ばれなかった者。
白い霧が、彼女たちの足元に絡んでいる。
「くそ」
ホムラが歯を食いしばる。
「生徒を盾にしてやがる」
「盾ではありません」
リオが周囲を見る。
「素材です。船へ送る名そのもの」
「余計に悪いわ!」
ホムラが前へ出ようとする。
だが、桜夜が止めた。
「炎は弱めて。名まで傷つける」
「わかってる!」
「サイカちゃん、生徒の意識を呼べる?」
「やってみる」
サイカは一歩前へ出た。
雷を強く放つのではなく、指先で細く鳴らす。
ぱちり。
ぱちり。
小さな音が、眠った生徒たちの耳元をくすぐるように広がる。
「エレノアさん」
サイカが呼ぶ。
「メイベルさん」
名前を呼ぶ。
一人ずつ。
名前を。
生徒たちのまぶたが震えた。
白い霧が嫌がるように揺れる。
リオは日誌を開いた。
「ここは、かつて告解の代わりに作られた場所でした」
リオの声が礼拝堂に響く。
「誰にも言えない罪や後悔を、神へ預けるための場所。ですが、いつからか祈りは歪みました。自分の罪を告げるのではなく、誰かの名を捧げる儀式へ変わった」
桜夜は地下への階段を見る。
そこから、白い糸が伸びている。
生徒たちの足元へ。
壁へ。
名前へ。
「白い船は、祈りを食べているわけじゃない」
桜夜は言った。
「呼ばれなかった名を食べている」
メイベルの肩が震えた。
エレノアが、ゆっくりと顔を上げる。
「……先生?」
「エレノアさん」
桜夜は彼女を見る。
「自分の名前を言えますか」
エレノアは唇を動かす。
白い霧が、その声を奪おうとした。
ホムラが踏み込む。
「邪魔すんな!」
炎が床を走る。
霧だけを焼く。
リオの水が生徒たちの足元を包み、白い糸を弱める。
エレノアは息を吸った。
「エレノア・グレイ」
声は震えていた。
けれど、確かに聞こえた。
白い糸が一本切れた。
桜夜は何もしなかった。
彼女自身が、自分の名前を呼んだ。
メイベルが泣きそうな顔でエレノアを見る。
「エレノア」
その声に、エレノアが振り向く。
メイベルは震えていた。
「ごめんなさい」
白い霧がざわめいた。
謝罪を嫌がるように。
メイベルは、それでも続けた。
「あなたに忘れてほしかった。でも、本当は、私が忘れたかったの。私が言ったことも、あなたを傷つけたことも、あなたに嫌われることも、全部怖かった」
エレノアは黙っていた。
メイベルは涙をこぼす。
「あなたの名前を、あそこに置いていこうとした。ごめんなさい」
エレノアは、すぐには答えなかった。
ホムラが口を開きかけ、リオに目で止められる。
これは、待たなければならない。
桜夜も動かなかった。
エレノアは、ゆっくりと言った。
「許せるかは、まだわからない」
メイベルは、びくりと肩を震わせた。
「でも」
エレノアは、自分の胸に手を当てる。
「私は、エレノア・グレイ。あなたの紙に置いていかれる名前じゃない」
その瞬間、礼拝堂の奥で何かが軋んだ。
白い霧が悲鳴のように渦を巻く。
メイベルも、自分の名を言った。
「私は、メイベル・ウィンター」
白い糸がさらに切れる。
他の生徒たちも、夢から覚めかけたように自分の名を呟き始めた。
キャロライン・リード。
ルーシー・アダムス。
アン・ベネット。
呼ばれなかった名が、自分自身の声で戻ってくる。
リオが静かに息を吐いた。
「効いています」
「よし」
ホムラが笑った。
だが、その時、鐘が鳴った。
二度目。
礼拝堂の空気が一気に重くなる。
地下への階段から、白い船の軋む音が響いた。
生徒たちが一斉に膝をつきかける。
サイカが雷を強く鳴らした。
「だめ!」
桜夜は階段を見る。
「地下へ行く」
「桜夜様」
リオが止める。
「ここは?」
「ここは任せる。生徒たちを守って」
「承知しました」
ホムラが前に出る。
「オレも行く」
「ホムラちゃんは鐘を止めて」
「あ?」
「三度目の鐘を鳴らされたら、名が渡る。鐘楼へ行って。たぶん実物じゃなくても、核になる場所がある」
ホムラは一瞬だけ桜夜を睨んだ。
それから、笑った。
「面白え。鳴らせると思うなってやつだな」
「うん」
「任せろ」
ホムラは礼拝堂の側廊へ走った。
リオが生徒たちを守る水の膜を広げる。
サイカは桜夜の手を握った。
「わたしは?」
「一緒に」
「うん」
「呼んで」
「ずっと呼ぶ」
桜夜は頷き、サイカとともに地下へ降りた。
◇◇◇
地下礼拝堂は、前よりも白かった。
壁一面の名前。
紙片。
滲んだインク。
白い糸。
そして中央の祭壇。
船の形をした石盤。
その奥に、十三番目の椅子の影が見えた。
前よりもはっきりしている。
白い船は、旧礼拝堂の地下に入り込んでいる。
だが、本体ではない。
これは船の一部。
桟橋。
名前を集めるための仮の港。
桜夜は桜吹雪を抜いた。
途端に、祭壇の奥から声がした。
呼ばれなかった名は、ここに来れば眠れる。
低い声。
高い声。
男とも女ともつかない声。
無数の声が重なっている。
桜夜は答えない。
声は続いた。
苦しみを置け。
名を置け。
愛を置け。
後悔を置け。
眠れば、誰も傷つけない。
サイカが桜夜の手を握る。
「桜夜さん」
「うん」
「聞かないで」
「聞いてるけど、従わない」
「うん」
白い椅子が、少し近づいた。
十三番目の椅子。
そこに座れば、たぶん楽になる。
白い船が言うように、苦しみを置けるのかもしれない。
あずさの転生を見守る苦しみ。
鳳凰が戻らない不安。
自分が消えるかもしれない恐怖。
親友の名が失われた痛み。
全部、置いていけるのかもしれない。
その時、椅子のそばに影が立った。
親友の姿だった。
名を失った親友。
鷹司でもなく、父から与えられた名でもなく、親友という役割に近い場所で揺れている影。
彼は桜夜を見ていた。
来い、と言わない。
帰れ、とも言わない。
ただ、そこにいる。
桜夜の胸が締めつけられる。
「ずるいな」
桜夜は呟いた。
白い船は、明人やあずさの声を使わなかった。
今回使ったのは、親友だった。
今も白い船の縁で待っている者。
見捨てられない者。
連れて帰らなければならない者。
桜夜の足が、一歩動きかけた。
「桜夜さん!」
サイカが強く呼ぶ。
桜夜は止まった。
止まったが、戻りきれない。
親友の影が、十三番目の椅子のそばで揺れる。
鳳凰は眠っている。
桜夜の内側で、いつもなら騒ぐひよこの声がしない。
ぴよ、とも言わない。
怒らない。
止めない。
その静けさが、逆に怖い。
桜夜は、ふいに自分の身体の輪郭が薄くなる感覚を覚えた。
自分が消える。
あずさが生まれる。
親友を連れて帰る。
鳳凰は眠る。
十三番目の椅子は待つ。
それらが、一つの線になりかけた。
桜夜の顔が歪む。
泣いているのか、笑っているのか、怒っているのか、自分でもわからない。
「ふざけるな」
小さな声だった。
サイカが目を見開く。
桜夜は、白い椅子を睨んだ。
「勝手に綺麗な線にするな」
声が低くなる。
「あずさが生まれることと、僕が消えることを勝手に繋げるな。親友を帰すことと、僕が座ることを勝手に同じ話にするな。鳳凰が眠っていることを、僕の終わりみたいに扱うな」
白い船の霧が震える。
「僕は怖いよ」
桜夜は言った。
「消えるのは怖い。あずさが別の子として生まれるのも怖い。鳳凰が戻らないのも怖い。親友を連れて帰れないのも怖い」
桜吹雪を握る手に力が入る。
「でも、怖いから眠るとは言ってない」
サイカが、桜夜の手を握り直した。
「桜夜さん」
「うん」
「帰ろう」
「うん」
その時、地上から炎の気配が走った。
◇◇◇
ホムラは鐘楼へ駆け上がっていた。
階段は古く、足元は不安定だった。
白い霧が何度も足首に絡む。
ホムラはそのたびに炎で焼き払う。
「邪魔すんな!」
鐘楼には、古い鐘があった。
本来なら鳴るはずがない。
管理されていない。
錆びついている。
だが、その鐘は白く光っていた。
内側から、船の軋む音がする。
三度目を鳴らそうとしている。
ホムラは歯を食いしばった。
「鳴らせると思うなよ」
鐘の周囲に、白い手がいくつも伸びた。
細い指。
長い爪。
名を奪う霧の手。
ホムラは炎を纏う。
だが、鐘そのものを焼けば、礼拝堂が崩れるかもしれない。
生徒たちの名に影響が出るかもしれない。
燃やすべきものだけを燃やす。
桜夜が言っていた。
名前は焼くな。
名前を食おうとしている方を焼け。
「面倒くせえな」
ホムラは笑った。
「でも、やる」
炎が細くなる。
荒々しい炎ではない。
針のような炎。
白い手だけを貫く炎。
ホムラは鐘の周囲を駆け、白い手を一本ずつ焼き切った。
鐘が揺れる。
三度目の音が、喉元まで上がってくる。
「遅え!」
ホムラは鐘の前に飛び込み、両手で鐘の縁を掴んだ。
熱い。
いや、冷たい。
白い船の冷たさが、手のひらを食おうとする。
ホムラは叫んだ。
「鳴るな!」
炎が鐘全体を包む。
鐘を壊さず、白い船の音だけを焼く。
無茶だ。
だが、ホムラは無茶に慣れている。
炎の奥で、鐘の白い光が弾けた。
音は鳴らなかった。
ホムラはその場に膝をつく。
「はっ」
息が荒い。
手のひらが痛む。
だが、鐘は沈黙している。
「どうだ、ざまあみろ」
その声は、少しだけ震えていた。
◇◇◇
地上の礼拝堂では、リオが生徒たちを守っていた。
鐘の二度目以降、白い霧は激しくなっていた。
生徒たちは自分の名前を言おうとしている。
だが、霧がその声を奪おうとする。
リオは水の膜を幾重にも重ねた。
水は、生徒たちの口元を塞がない。
声だけを通す。
霧だけを退ける。
簡単ではない。
霊的な干渉と物理的な保護を同時に行う必要がある。
リオの額に汗が滲む。
それでも、彼女の声は乱れなかった。
「皆さん、自分の名前を」
リオは静かに言う。
「誰かに預けた名前ではなく、ご自身で持つ名前を」
エレノアが、他の生徒の肩を支えた。
「言って」
メイベルも泣きながら頷く。
「一緒に言うから」
リオはその姿を見た。
白い船は、呼ばれなかった名を食べる。
ならば、呼べばいい。
自分で。
友人で。
傷つけた相手で。
すぐには許せなくても。
まだ怖くても。
名前を呼ぶことはできる。
「アン・ベネット」
「ルーシー・アダムス」
「キャロライン・リード」
「メイベル・ウィンター」
「エレノア・グレイ」
名前が、礼拝堂に満ちていく。
リオは日誌を胸に抱いた。
シスター・アグネスが守ろうとした場所。
歪められた祈り。
告解の名を借りた名の献上。
それを、今、戻している。
リオは日誌の一節を読み上げた。
「罪を預けよ。されど、隣人の名を預けるな」
水が光る。
「痛みを告げよ。されど、誰かの存在を消すな」
白い霧が後退する。
「祈りは、眠りの船へではなく、呼び返す声へ」
その瞬間、地下から桜吹雪の気配が走った。
◇◇◇
地下礼拝堂で、桜夜は刀を構えた。
明人の声が、胸の奥で響く。
心の目で真実を見極めよ。
切るべきもののみを切れ。
祭壇そのものを破壊してはいけない。
ここは、もともと祈りの場所だった。
罪や痛みを、神へ預ける場所だった。
悪いのは祈りではない。
告解ではない。
名前を船へ渡したことだ。
白い船との接続だけを切る。
それが、今夜の一太刀。
サイカが隣で桜夜の名を呼ぶ。
「桜夜さん」
「うん」
「ここにいるよ」
「うん」
「帰ってきて」
「帰る」
桜夜は、白い糸を見る。
祭壇から旧礼拝堂へ。
地下水脈へ。
通常礼拝堂へ。
生徒たちの名へ。
白い船へ。
その中で、切るべきものを一つだけ探す。
船へ繋がる糸。
祈りではない。
名前でもない。
痛みでもない。
白い船が後から差し込んだ、空白の糸。
見えた。
桜夜は踏み込んだ。
「桜吹雪」
刃が走る。
紙は斬らない。
祭壇も斬らない。
礼拝堂も斬らない。
ただ、白い船へ伸びる空白だけを斬る。
音はなかった。
だが、世界のどこかで、白い帆が裂けるような気配がした。
祭壇の石盤に亀裂が入る。
船の形をしていた刻印が崩れた。
十三番目の椅子の影が遠ざかる。
親友の影も薄くなる。
桜夜は思わず手を伸ばしそうになった。
だが、サイカが握っている。
「今はだめ」
「うん」
「いつか、ちゃんと迎えに行こう」
「うん」
親友の影は、完全には消えなかった。
白い船の奥へ戻るわけでもない。
ただ、遠くなった。
桜夜はそれを見送った。
歯を食いしばりながら。
「待ってて」
小さく言う。
「名を返しに行くから」
祭壇から白い霧が噴き上がる。
最後の抵抗。
桜夜の身体が大きく揺れた。
鳳凰の反応はない。
内側は静かすぎる。
サイカが叫ぶ。
「桜夜さん!」
桜夜は膝をついた。
だが、倒れなかった。
地上から、名前を呼ぶ声が聞こえる。
エレノア。
メイベル。
アン。
ルーシー。
キャロライン。
ホムラの炎。
リオの水。
サイカの手。
静馬の怒鳴り声。
「桜夜、応答しろ!」
桜夜は、息を吸った。
「……応答」
「状態!」
「最悪。でも、戻ってる」
「今すぐ撤退しろ」
「はい」
桜夜は、サイカに支えられて立ち上がった。
祭壇は残っている。
だが、船の刻印は割れた。
白い船への通路は切れた。
女子高から、呼ばれなかった名を食べる港は消えた。
完全勝利ではない。
白い船の本体は残っている。
十三番目の椅子も、まだどこかで待っている。
親友も、まだ帰ってきていない。
鳳凰も、まだ眠っている。
けれど今夜、この学校の名は渡さなかった。
◇◇◇
地上へ戻ると、礼拝堂には生徒たちが座り込んでいた。
泣いている者。
抱き合っている者。
まだ震えている者。
だが、誰も眠っていない。
誰の名も消えていない。
リオは水を解き、静かに息をついた。
ホムラも鐘楼から戻ってきた。
両手に軽い火傷がある。
それを見た桜夜が顔をしかめる。
「ホムラちゃん、手」
「このくらい平気だ」
「静馬くん」
「あとで診る」
通信越しの声が即答する。
ホムラは嫌そうな顔をした。
「診なくていい」
「診る」
「オレより桜夜だろ」
「両方だ」
「くそ」
リオが小さく笑った。
エレノアとメイベルが、桜夜の前に来た。
二人とも泣いた跡がある。
メイベルは、深く頭を下げた。
「先生。私、名前を書きました。エレノアの名前を」
「はい」
「消してほしいって思いました」
「はい」
「でも、本当は私が逃げたかっただけです」
桜夜は黙って聞いた。
メイベルは震えながら続ける。
「許してもらえるかはわかりません」
エレノアが横で言う。
「まだ、許せないかもしれない」
メイベルは頷いた。
「うん」
「でも、私の名前は返してもらった」
「うん」
「だから、話す」
エレノアは、メイベルを見た。
「全部すぐには無理。でも、話すところから始めたい」
メイベルは、また泣いた。
桜夜は、二人を見て少しだけ頷いた。
「それでいいと思います」
「先生」
「名前を返すことは、すぐに仲直りすることではありません。傷がなかったことになるわけでもない。でも、自分の名前を持って、自分の足で立つことはできます」
二人は頷いた。
礼拝堂の空気が、少しだけ軽くなる。
その時、周囲の生徒たちがホムラの手に気づいた。
「ホムラ様、怪我を!」
「私たちを守ってくださったんですか」
「やっぱり王子様……」
「だから違うって言ってんだろ!」
ホムラが怒鳴る。
だが、生徒たちは怯えない。
むしろ涙ぐみながら集まってくる。
リオの周りにも、生徒たちが集まり始めた。
「リオ様、ありがとうございました」
「お水が、とても綺麗でした」
「怖かったけど、声が聞こえました」
リオは一人ずつに穏やかに応じる。
桜夜はその様子を見て、少しだけ笑った。
「活躍したね、二人とも」
「当然です」
リオが言う。
「オレは王子様じゃねえ」
ホムラが言う。
「そこは誰も聞いてないよ」
「聞けよ」
サイカが、桜夜の手を握ったまま笑った。
桜夜も笑おうとした。
だが、その笑みは途中で少し歪んだ。
鳳凰の沈黙。
自分が消える可能性。
あずさの転生。
それらは、今夜の勝利の中にも残っている。
サイカは気づいた。
「桜夜さん」
「うん」
「あとで、ちゃんと話してね」
「うん」
「鳳凰さんのことも」
「うん」
桜夜は、礼拝堂の奥を見た。
旧礼拝堂は、まだ完全には癒えていない。
祭壇も残っている。
けれど、もう白い船の港ではない。
ここは、祈りの場所に戻ろうとしている。
「この礼拝堂は」
桜夜が言う。
「閉じなくていいと思う」
リオが振り返る。
「なぜですか」
「祈る場所が悪かったんじゃない。名前を船に渡したことが悪かったんだ」
リオは静かに頷いた。
「同感です」
ホムラは、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「次に変な船が来たら燃やす」
「鐘は壊さないでね」
「壊してねえだろ」
「偉い」
「褒めんな」
サイカが笑った。
生徒たちの名前が、まだ礼拝堂に残っている。
それは、白い船に渡るためではない。
互いに呼び合うために。
自分がここにいると確かめるために。
桜夜は、そっと息を吐いた。
女子高潜入任務は、終わりに近づいている。
白い船の本体は遠い。
十三番目の椅子も、親友も、まだ残っている。
鳳凰の眠りという新しい不安もある。
それでも今夜、呼ばれなかった名は帰ってきた。
最後の告解は、眠りの船ではなく、生きている者たちの声に届いた。




