第29話 受胎告知
桜夜の机は、いつも汚い。
本人に言わせれば、汚いのではなく、処理中の情報が見える場所に置かれているだけらしい。
だが、リオに言わせれば整理能力の放棄であり、静馬に言わせれば脳内負荷を机上に転嫁しているだけであり、ホムラに言わせればただの散らかしっぱなしだった。
英国の仮拠点に用意された書斎も、今はその被害に遭っている。
シスター・アグネスの日誌。
旧礼拝堂の見取り図。
聖マリアンナ女子大学付属高等学校の校史。
リオが写した古い新聞記事。
ホムラが預かった白い紙。
礼拝堂地下の水脈図。
エレノアとメイベルの名前を書いた授業ノートの写し。
それらが、机の上に広がっていた。
その中で、桜夜は一冊の本を開いていた。
ヨハネによる福音書。
日本語訳の聖書だった。
桜夜は、ぱらぱらとページをめくる。
探している箇所は覚えている。
本当は、ページを開く必要などなかった。
それでも、文字として目の前に置きたかった。
ヨハネによる福音書二十章十六節。
イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向いて「先生」と言った。
桜夜は、その一文をじっと見つめた。
名前を呼ばれる。
振り向く。
そして、先生と呼ぶ。
それを死別した師弟の再会ととらえれば、桜夜と明人のようだった。
死んだはずの師が、名前を呼ぶ。
振り向けば、そこにいる。
明人先生。
そう呼べたなら、どれほど嬉しいだろう。
どれほど腹が立つだろう。
勝ち逃げした本人が、何事もなかったように立っていたら、まず説教されるに決まっている。
お前はまた一人で背負おうとしているのか。
執着するなと言っただろ。
そんなふうに怒る顔が、あまりにも簡単に想像できた。
それを死別した夫婦の再会ととらえれば、桜夜とあずさのようだった。
厳密には、夫婦ではない。
約束だけだった。
強くなったら結婚。
桜夜は、それをずっと抱えている。
死んだと思っていたあずさが、ある朝、目の前に現れる。
おはよう。
そう言ってくれたら。
その一言だけで、どれほど世界が変わるだろう。
ヨハネの一節は、あまりにもドラマティックだった。
あまりにも、うらやましかった。
桜夜は椅子にもたれ、天井を見た。
「奇蹟執行官、ね」
自分で言って、少し笑う。
そう呼ばれているらしい。
奇蹟を執行する者。
なら、明人やあずさを復活させることだって、理屈の上では可能なのかもしれない。
死者蘇生の禁術。
必要なものは、肉体。
記憶。
魂。
肉体は作れるかもしれない。
記憶も、世界意思なら記録層から高精度で引き出せると言った。
魂は、泰山府君祭で扱える可能性がある。
桜夜は、その術式を知っている。
使ったことはない。
使わなかった。
いや、使えなかった。
そこに踏み込めば、戻ってきた者が本当に本人なのか、わからなくなる。
あずさの姿。
あずさの記憶。
あずさの魂。
それらが揃っていたとして、それはあずさなのか。
それとも、桜夜があずさを取り戻したいあまりに作った、あずさの形をした何かなのか。
桜夜は、聖書の文字へ目を戻した。
マリア。
先生。
名前を呼ばれ、振り向く奇跡。
自分にも、それが許されるのか。
少しだけ想像した。
明人が戻ってくる。
あずさが戻ってくる。
そして、二人が自分を見る。
「怒られるよなあ」
思わず声に出た。
明人は、間違いなく怒る。
執着するなと言っただろ。
切るべきもののみを切れと言っただろ。
俺を戻すために、その刀を使うな。
そう言って、拳骨を落としてくるかもしれない。
あずさは、きっと泣く。
泣きながら、桜夜を殴ってくる。
どうしてそんなことをしたの。
私を言い訳にしないで。
桜夜は、桜夜のまま生きてって言ったでしょ。
そんな声が、胸の奥で聞こえた気がした。
イエスとマグダラのマリアのような、劇的で、美しい再会にはならない。
たぶん、もっと格好悪い。
泣いて。
怒られて。
謝って。
それでも、会いたかったと言ってしまう。
そう思うと、桜夜の口元に小さな笑みが浮かんだ。
笑える。
それが少しだけ、不思議だった。
その時、書斎の空気が変わった。
窓は閉まっている。
扉も開いていない。
それなのに、部屋の中央へ光が落ちた。
白ではない。
白い船の空白とは違う。
もっと硬く、鋭く、騒がしい光。
桜夜は、ため息をついた。
「ノックという文化をご存じですか」
「天使が人間の扉を叩いて入ると思っているの?」
光の中から、ガブリエルが現れた。
相変わらず、突然だった。
金の髪。
強い瞳。
怒っているようにも、苛立っているようにも見える顔。
だが、桜夜はもう知っている。
その顔の下に、別の感情があることを。だから少し意地悪をした。
「叩きなさい。そうすれば、開かれる。と書いてある」
「そのイエス様みたいな口調やめて!」
「あはは、ようこそ大天使様」
「嫌味っぽいわね」
「それは失礼いたしました」
ガブリエルは、机の上を見た。
散らかった資料。
旧礼拝堂の図面。
シスター・アグネスの日誌。
そして、開かれたヨハネによる福音書。
その一節を見て、彼女は少しだけ目を細めた。
「マリアと先生」
「ええ」
「あなた、本当に面倒なところを読むわね」
「面倒なところが目に入る体質なので」
「知ってる」
ガブリエルは、桜夜の正面に立った。
その表情が、いつもより少しだけ硬い。
桜夜は、椅子から身を起こした。
「何かありましたか」
「受胎告知よ」
桜夜は数秒、黙った。
「……それは、比喩ですか?」
「比喩ではないわ」
ガブリエルの声は、静かだった。
「如月あずさの魂が、四方院一の妻、京子の胎内に宿った」
時間が止まった。
少なくとも、桜夜にはそう感じられた。
書斎の時計は動いている。
暖炉の火も揺れている。
外では英国の雨が降っている。
それでも、桜夜の中の時間だけが止まった。
あずさの魂。
京子の胎内。
宿った。
言葉の意味はわかる。
玄武が泰山府君祭で掴んだ可能性。
一と京子の子として転生させる策。
ガブリエルは、前にそれを告げた。
けれど、可能性として聞くのと、実際に宿ったと告げられるのは違う。
あと一年もせずに。
あずさの転生は完了する。
ただし、あずさとしてではない。
記憶はない。
強制もしない。
その子はその子として生まれ、その子として生きる。
時が来て、選ぶなら、あずさに繋がる何かを思い出すかもしれない。
桜夜は、ゆっくりと息を吸った。
うまく吸えなかった。
ガブリエルが、じっと桜夜を見ている。
「聞こえている?」
「はい」
「理解している?」
「たぶん」
「たぶん?」
「すみません。言葉は理解しています。気持ちが追いついていないだけです」
ガブリエルは何か言いかけ、やめた。
桜夜は、机の端を指で押さえた。
手が震えている。
自分でそれに気づく。
嬉しいのか。
怖いのか。
悔しいのか。
わからない。
あずさの魂が、この世界に戻る。
それは、桜夜が望んだことの一つだった。
だが、その魂は京子の子として生まれる。
一の子として。
四方院家の血の中へ。
玄武の盤面の上へ。
同時に、誰の所有物でもない一人の子として。
桜夜は、自分の胸の奥が軋む音を聞いた。
「あずさは」
声がかすれた。
「もう、あずさではないんですね」
「その子は、その子よ」
ガブリエルは即答した。
「如月あずさの魂を宿していても、如月あずさの記憶を持って生まれるわけではない。あなたが知っているあずさではない」
「はい」
「でも、無関係でもない」
「はい」
「面倒でしょう」
「とても」
「でしょうね」
桜夜は少しだけ笑おうとした。
うまく笑えなかった。
ガブリエルは、腕を組む。
「その子を消させないわよ」
「わかっています」
桜夜は、反射的にそう答えた。
カトリック教会を中心に、胎内の命を重く見る教会は多い。
天使も同じ考えなのだろう。
その程度の理解だった。
だが、ガブリエルは眉を寄せた。
「本当にわかってる?」
桜夜は、その言葉の意味を最初よく理解できなかった。
「はい。宿った命を奪うことを、あなた方が許さないという話でしょう」
「そういう話でもあるわ」
「でも?」
「それだけじゃない」
ガブリエルの視線は鋭かった。
責めているようで、どこか違う。
桜夜は、その違和感をゆっくりと追った。
ガブリエルは心配している。
京子のことを。
胎内の子のことを。
そして、桜夜のことを。
その瞬間、桜夜は理解した。
ガブリエルが恐れているのは、桜夜が錯乱することだ。
あずさの魂が別の子として宿った。
その事実に耐えきれず、京子ごと、お腹の子ごと、殺してしまうのではないか。
そう疑っている。
いや、疑っているというより、恐れている。
桜夜はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「僕は、そんなに危ないですか」
「ええ」
ガブリエルは即答した。
「即答」
「あなた、自覚が足りないのよ」
「それはよく言われます」
「死者を戻す術式を知っている。神殺しの刀を持っている。白い船から誘われている。世界意思から係留点にされかけている。ルシフェルからも狙われている。その上、あずさのことになると判断が鈍る」
「反論しにくいですね」
「反論できると思っていたの?」
「少し」
「諦めなさい」
桜夜は、今度はほんの少しだけ笑えた。
ガブリエルの表情が、わずかに緩む。
桜夜は机に置かれた聖書へ視線を落とした。
マリア。
先生。
復活の奇跡。
名前を呼ばれて振り向く再会。
自分は、その奇跡を欲しがっている。
その欲しさが、いつか自分を壊すかもしれない。
あずさの魂を宿した子を見た時、自分がどうなるのか。
正直、わからない。
けれど。
「京子さんを殺すつもりはありません」
桜夜は言った。
「その子も」
ガブリエルは黙っている。
「その子があずさではないことも、わかっています。たぶん、実際に会ったらもっと苦しいでしょう。でも、だから殺すという発想にはならない」
「絶対に?」
「絶対と言えるほど、自分を信じてはいません」
ガブリエルの眉が上がる。
桜夜は続けた。
「だから、周りに止めてもらいます」
ガブリエルの表情が少し変わった。
「周り?」
「サイカちゃん、リオちゃん、ホムラちゃん、静馬くん、一兄さん、京子さん本人、玄武様。たぶん、みんな止めるでしょう」
「他人任せね」
「ええ。最近少し覚えました」
桜夜は、机の上の資料を指で整えた。
整ったようには見えなかった。
「僕一人では危ない。だから、一人で決めない。そういう話です」
ガブリエルは、しばらく桜夜を見ていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……少しは学習しているのね」
「珍しく褒められました」
「褒めてないわ」
「そうですか」
桜夜は、少し考えた。
「でも、心配する相手が違うと思います」
「どういう意味?」
「それなら、僕より白虎様の方がするでしょ」
ガブリエルは一瞬だけ固まった。
「……そこ?」
「そこです」
桜夜は真顔で言った。
「京子さんの胎内にあずさの魂が宿った子がいる。つまり、その子は一さんの子で、四方院家の血筋で、なおかつ僕との縁も持つ。白虎様から見れば、最悪の駒です」
「あなた、自分を駒扱いするのやめなさい」
「話の構造上です」
「腹立つわね」
「すみません」
ガブリエルは、しばらく黙った。
それから、ふっと笑った。
「それは、あの妖怪狸じじいがさせないでしょ」
「ですよね」
「ええ。あの性悪妖怪狸じじいなら、白虎が動く前に盤面ごとひっくり返すわ」
「玄武様は味方だと頼もしいですね」
「敵に回すと最悪だけどね」
「そこは否定しません」
二人は、ほんの少し笑った。
最初は小さく。
けれど、すぐに笑い声は大きくなった。
あまりにも重い話だった。
胎内の命。
あずさの魂。
転生。
殺意の可能性。
四方院家の権力争い。
神と天使と悪魔と世界意思。
そのすべてを前にして、白虎と玄武の話で笑っている。
おかしなことだった。
でも、笑えた。
ガブリエルも笑っていた。
苛立ちを含んだ笑いではない。
少しだけ、安心したような笑いだった。
桜夜は、その笑いを見て思った。
この大天使は、やはり心配していたのだ。
天上の秩序としてではなく。
神の使いとしてだけではなく。
長く見守ってしまった者として。
そのことを指摘したら、怒られるに決まっている。
だから桜夜は黙っていた。
笑いが落ち着くと、ガブリエルは表情を戻した。
「桜夜」
「はい」
「その子は、あずさではない」
「はい」
「でも、あずさと無関係でもない」
「はい」
「あなたは、その矛盾に耐えなさい」
桜夜は、静かに頷いた。
「耐えます」
「一人で?」
「できれば、みんなで」
ガブリエルは満足したのか、不満なのか、わからない顔をした。
「まあ、いいわ」
彼女は光の中へ戻りかけた。
だが、途中で一度だけ振り返る。
「あと、机を片づけなさい」
「そこまで見ます?」
「見えるのよ。嫌でも」
「善処します」
「その返事は片づけない返事ね」
「リオちゃんみたいなこと言いますね」
「誰と一緒にしてるのよ」
そう言って、ガブリエルは消えた。
書斎に、雨音が戻る。
桜夜はしばらく、何もせず座っていた。
そして、聖書の文字へ視線を落とす。
マリア。
先生。
名前を呼ばれて、振り向く再会。
あずさの魂は、もう別の朝へ向かい始めている。
桜夜の知る朝ではない。
病室の朝でもない。
伊豆の海でもない。
まだ生まれていない子の朝。
桜夜は、その朝を壊してはいけない。
たとえ、自分がどれほど会いたくても。
「怒られるどころじゃ済まないよね」
小さく呟いた。
あずさなら、本当に泣きながら殴るだろう。
それが想像できたから、桜夜はもう一度だけ笑った。
◇◇◇
同じ頃、リオは別室でシスター・アグネスの日誌を読んでいた。
机の上は、桜夜の書斎とは違い、整然としている。
年代順に並べられた記録。
抜粋した箇所。
校史との照合表。
旧礼拝堂と通常礼拝堂の地下構造図。
ホムラが預かった白い紙。
すべてが、リオの手で意味を持つ形に整理されていた。
日誌は古い英語で書かれていた。
ところどころにラテン語の祈祷文も混じっている。
だが、リオは辞書と照合しながら淡々と読み進めていた。
その表情が、ある箇所で止まる。
「……これは」
そこには、旧礼拝堂が閉鎖される前の記録があった。
悪魔憑きの噂。
眠る生徒。
名前を書いた紙。
そして、祈りを集める地下祭壇。
だが、日誌の記述は噂とは違っていた。
悪魔憑きではない。
悪魔を呼んだのでもない。
最初は、救いを求める祈りだった。
傷ついた生徒が、互いの苦しみを紙に書き、祭壇へ置いた。
それは、秘密の告解のようなものだった。
誰にも言えない罪。
誰にも見せられない後悔。
忘れたい痛み。
それらを神へ預けるための場所。
しかし、いつからか祈りは変質した。
自分の罪を告げるのではなく、誰かの名前を捧げるようになった。
私を許してください。
ではなく。
あの子に忘れさせてください。
あの子を消してください。
私から、あの子の名を奪ってください。
リオは、そっと日誌を閉じかけた。
だが、まだ先がある。
彼女は続きを読んだ。
シスター・アグネスは、その変化に気づいていた。
止めようとした。
だが、地下祭壇はすでに何かと繋がっていた。
白い船。
その名こそ書かれていない。
しかし、眠りの船という表現があった。
罪も名も痛みも運ぶ、白い眠りの船。
リオは息を呑んだ。
さらに、日誌の最後に近いページには、震える文字でこう書かれていた。
船は、祈りを食べているのではない。
呼ばれなかった名を食べている。
リオは、その一文を何度も読んだ。
呼ばれなかった名。
名前を書かれ、捧げられ、しかし誰にも呼び返されなかった者。
それを、白い船が食べる。
だから、名前を書く授業が効いた。
自分で名を書き、自分で持つこと。
誰かに呼ばれること。
帰ってこいと言われること。
それが、船への抵抗になる。
リオはすぐに記録をまとめ、桜夜へ送信しようとした。
その時、扉が乱暴に開いた。
「リオねえ!」
ホムラだった。
息を切らしている。
その手には、前回預かった白い紙がある。
「ホムラちゃん。どうしました?」
「この紙、熱い」
「熱い?」
「さっきまで冷たかった。今、急に熱くなった」
リオは紙を受け取ろうとして、寸前で止めた。
紙の表面に、白い文字が浮かんでいる。
最初に書かれていたのは、下級生の名前と、彼女が裏切ったことを忘れますように、という願いだった。
だが、その下に新しい文字が浮かび上がっている。
リオは、目を細めた。
「これは……」
ホムラが苛立ったように言う。
「何て書いてある」
リオは静かに読んだ。
「今夜、最後の告解を」
「告解?」
「はい」
紙の下に、さらに細い文字が浮かぶ。
礼拝堂の鐘が三度鳴る時、呼ばれなかった名は船へ渡る。
リオとホムラは、同時に顔を上げた。
「今夜」
ホムラが言う。
「クライマックスってやつか」
「おそらく」
リオは端末を取り、桜夜へ連絡を入れようとした。
だが、その前に桜夜から通信が入った。
リオは応答する。
「桜夜様」
「リオちゃん。ガブリエルが来た」
「大天使様が?」
「うん。あずさの魂が、京子さんの胎内に宿った」
リオは一瞬、言葉を失った。
ホムラも、目を見開く。
重い沈黙が落ちる。
だが、桜夜の声は思ったより落ち着いていた。
「僕の方は大丈夫。少なくとも今は」
リオは、その言葉を聞いて少しだけ目を伏せた。
「承知しました。後ほど詳しくお聞きします」
「そっちは?」
「旧礼拝堂に関する新しい情報があります。白い船は、祈りそのものではなく、呼ばれなかった名を食べています。そして、今夜、最後の告解が起きる可能性があります」
「最後の告解」
「はい。鐘が三度鳴る時、呼ばれなかった名は船へ渡る、と」
通信の向こうで、桜夜が息を吸う気配がした。
「わかった」
声が変わった。
もう、あずさの転生を聞いた直後の声ではない。
奇蹟執行官。
珍獣教師。
名もなき騎士団の騎士。
戻ってきた桜夜の声だった。
「今夜、旧礼拝堂へ行く」
ホムラが通信に割り込む。
「今度は一人で行くとか言うなよ」
「言わないよ」
「ほんとか?」
「本当。リオちゃんとホムラちゃんが道を開いてくれたからね」
ホムラは少し顔を赤くした。
「そういうこと言うな」
リオは静かに微笑んだ。
「では、作戦を組みましょう」
「うん」
桜夜は答えた。
「今夜、呼ばれなかった名を呼び戻す」
◇◇◇
その夜へ向けて、学園は静かに傾いていく。
生徒たちはまだ知らない。
礼拝堂の鐘が三度鳴れば、誰かの名が船へ渡るかもしれないことを。
エレノアとメイベルの間に残る沈黙。
下級生の白い紙。
シスター・アグネスの日誌。
通常礼拝堂と旧礼拝堂を繋ぐ祈りの通路。
それらが、一つの場所へ集まっていく。
桜夜は書斎で、聖書を閉じた。
机は相変わらず散らかっている。
ガブリエルに片づけろと言われたことを思い出し、少しだけ資料を寄せる。
片づいたとは、とても言えない。
だが、ヨハネによる福音書だけは、机の中央に残した。
マリア。
先生。
名前を呼ばれて振り向く再会。
その奇跡に、桜夜はまだ憧れている。
けれど今夜やるべきことは、死者を振り向かせることではない。
生きている者の名を呼び戻すことだ。
桜夜は、桜吹雪を手に取った。
「あずさ」
小さく呼ぶ。
返事はない。
当然だ。
それでいい。
今、返事をしてはいけない。
その魂は、別の朝へ向かっている。
桜夜はその朝を壊さない。
たとえ、その朝に自分がいなくても。
「行ってきます」
誰に向けたのか、自分でもわからなかった。
明人か。
あずさか。
まだ生まれていない子か。
あるいは、帰ってこいと呼ぶ仲間たちか。
扉の向こうで、ホムラの声がした。
「珍獣教師、準備できたか!」
「うん」
リオの声も続く。
「桜夜様、今回は撤退条件を明確にします」
「はい」
「返事だけは素直ですね」
「努力します」
「その返事は」
「従わない方の返事だね」
桜夜が先に言うと、リオは少しだけ笑った。
サイカも廊下にいた。
「桜夜さん」
「うん」
「今夜も、ちゃんと呼ぶから」
「ありがとう」
桜夜は、三人を見た。
サイカ。
リオ。
ホムラ。
彼女たちの向こうには、通信端末越しの静馬もいる。
一人ではない。
一人で決めない。
一人で壊れない。
そう約束したばかりだ。
桜夜は書斎を出た。
今夜、旧礼拝堂の鐘が三度鳴る。
その前に、呼ばれなかった名を呼び戻す。
女子高潜入任務は、クライマックスへ向かっていた。




