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第28話 祈りと炎と水と

 朝の授業が終わったあと、聖マリアンナ女子大学付属高等学校はいつものざわめきを取り戻していた。


 廊下には女学生たちの笑い声が響き、食堂からは昼食の匂いが流れてくる。


 昨日、旧礼拝堂の地下で名前が船へ渡りかけていたことを、生徒たちは知らない。


 エレノアが夢の中で白い船を見たこと。


 メイベルの震える願いが、名前の紙となって壁に貼られていたこと。


 桜夜が桜吹雪で、名前と船を繋ぐ糸を切ったこと。


 リオとホムラとサイカが、水と炎と雷で残された名前を封じたこと。


 それらは、まだ表の世界には出ていない。


 だからこそ、昼の学園は明るかった。


 桜夜は、その明るさを少し遠くから見ていた。


 日本語の授業で、生徒たちは自分の名前を片仮名で書いた。


 エレノアも、メイベルも、自分の名前を書いた。


 消えなかった。


 白く滲むこともなかった。


 それは小さな勝利だった。


 だが、桜夜の身体はまだ重い。


 旧礼拝堂の地下で斬った名前の糸。


 原初の騎士団の夢。


 はじまりのもの。


 ルシフェルの言葉。


 病弱な失敗作。


 そして、あずさの記憶を取り戻せるという三つの取引。


 それらが、胸の奥で絡まっている。


「桜夜様」


 リオが廊下の窓際で声をかけた。


「昼食をあまり召し上がっていませんね」


「見てた?」


「はい」


「さすが秘書官」


「褒め言葉として受け取ります」


 リオは静かに一礼した。


 その仕草だけで、近くを通った数人の生徒が小さく息を呑む。


「リオ様、今日も素敵……」


「お姉さま……」


 リオは慣れた様子で、微笑みだけを返す。


 桜夜は少し笑った。


「完全にお姉さまだね」


「情報収集には有用です」


「実用的だ」


「はい」


 リオは、冗談を言っている顔ではなかった。


 実際、彼女はこの立場を利用していた。


 図書室の勉強会。


 上級生の相談。


 下級生の憧れ。


 教師たちの警戒が薄い廊下での会話。


 お姉さまと慕われることで、リオは学園内の情報の流れに入り込んでいた。


「桜夜様。午後は少しお休みください」


「そうしたいのは山々だけど」


「できない理由を述べる前に、倒れそうな顔をなさるのをおやめください」


「厳しい」


「静馬様より、桜夜様の過労兆候を見逃さないよう厳命されています」


「静馬くん、遠隔でも強い」


「加えて、わたくし個人としても休んでいただきたいと思っています」


 桜夜は、リオの顔を見た。


 静かな目。


 整った表情。


 だが、その奥に心配がある。


「ありがとう」


「感謝されるより、従っていただきたいです」


「努力します」


「その返答は、従わない方の返答です」


 桜夜は軽く咳払いした。


 リオはため息をつく。


「では、せめて一時間だけお一人にならないでください」


「……一人になりそうな顔をしてた?」


「はい」


 即答だった。


 桜夜は苦笑した。


「リオちゃんは鋭いね」


「見ていますので」


 その言葉は、サイカの「見てるから」と少し似ていた。


 桜夜は、それ以上ごまかせなかった。


「少しだけ、礼拝堂に行こうと思ってた」


「旧礼拝堂ですか」


「違う。閉鎖されていない方」


「通常の礼拝堂ですね」


「うん。絵を見たくなった」


「お一人で?」


「少しだけ」


 リオの表情が、わずかに硬くなる。


「おすすめできません」


「危険な場所ではないよ」


「桜夜様にとって、危険でない場所を探す方が難しいです」


「ひどい」


「事実です」


 桜夜は反論できなかった。


 リオは少し考えた。


「わたくしは、これから図書室で確認しなければならない資料があります。ホムラちゃんも、別件で生徒たちに囲まれています」


「王子様だから?」


「はい」


「大変だね」


「ですので、礼拝堂へ行く場合は、短時間にしてください。通信端末は切らず、異常があれば必ず連絡を」


「わかった」


「本当に?」


「本当に」


 リオは桜夜をじっと見た。


「信じます」


「ありがとう」


「ただし、裏切られた場合は、今後の単独行動をすべて禁止いたします」


「それは困る」


「困らせるために言っています」


 リオはそう言って、図書室の方へ歩いていった。


 その背に向けて、桜夜は小さく頭を下げた。


 彼女は、ただ整えているだけではない。


 名と記録を守る者として、確かに戦っている。


◇◇◇


 リオが向かった図書室には、今日も生徒たちが集まっていた。


 だが、今日は勉強会ではない。


 古い校史を調べるためだった。


「リオ様、こちらが創立記念誌です」


「ありがとうございます」


「旧礼拝堂のことなら、こっちの古い新聞にも載っていました」


「助かります」


「リオ様のお役に立てるなら」


 生徒たちは嬉しそうに資料を運んでくる。


 リオは礼を言いながら、素早く内容を確認していく。


 聖マリアンナ女子大学付属高等学校の歴史。


 礼拝堂の改修記録。


 旧礼拝堂の閉鎖時期。


 管理会社の変更。


 卒業生の寄付。


 そして、不自然に削られたページ。


 リオの指が止まった。


「ここだけ、切り取られていますね」


 近くの生徒が首を傾げる。


「本当だ。誰かが破ったんでしょうか」


「いつ頃からこうなっていたか、わかりますか?」


「うーん。たぶん、かなり前からだと思います」


 別の生徒が小声で言った。


「あの、リオ様」


「はい」


「旧礼拝堂のこと、調べているんですか?」


「少し」


「だったら、シスター・アグネスの日誌を探した方がいいかもしれません」


 リオは目を上げた。


「シスター・アグネス?」


「昔、ここにいた修道女です。悪魔憑きの噂が最初に出た頃の人だって聞いたことがあります」


「その日誌はどこに?」


「たぶん、禁書庫……というか、先生たちしか入れない資料室に」


 リオは静かに微笑んだ。


「貴重な情報です。ありがとうございます」


 生徒は頬を赤らめた。


「リオ様のお役に立てたなら嬉しいです」


 リオは端末へ情報を記録した。


 シスター・アグネス。


 悪魔憑きの噂の初期。


 切り取られた校史。


 教師専用資料室。


 旧礼拝堂の祭壇と繋がる可能性。


 さらに、別の記録にも不自然な点があった。


 十年前。


 五年前。


 二年前。


 一定の周期で、生徒の休学や転校が増えている。


 理由は家庭の事情。


 体調不良。


 精神的負担。


 だが、その直前に礼拝堂関係の行事がある。


 リオは目を細めた。


「周期性がありますね」


「周期性?」


 生徒が聞き返す。


「いえ、こちらの話です」


 リオは穏やかに微笑んだ。


 しかし、心の中ではすでに次の手順を組み立てていた。


 資料室へ入る方法。


 担当教師の動線。


 鍵の保管場所。


 生徒たちに危険を及ぼさない聞き出し方。


 そして、桜夜へ伝えるべき情報。


 その時、端末が微かに震えた。


 桜夜の通信位置が、閉鎖されていない礼拝堂へ向かっている。


 予定通りだ。


 だが、リオは胸騒ぎを覚えた。


 彼女はすぐに周囲の生徒へ微笑む。


「皆さま、少し席を外します。資料はそのままにしておいてください」


「はい、リオ様」


「何かあったのですか?」


「少し、確認が必要なことがありまして」


 リオは図書室を出た。


 歩きながら、ホムラへ短い連絡を送る。


 桜夜様、礼拝堂へ。


 警戒を。


◇◇◇


 ホムラは、その頃、校庭脇で追い詰められていた。


 敵にではない。


 女学生たちにである。


「ホムラ様、フェンシング部の見学だけでも」


「演劇部の男役、本当に似合います!」


「昨日助けてくださったお礼をしたくて」


「写真だけでも」


「撮らねえ!」


 ホムラは後ずさった。


 背後には壁。


 正面には笑顔の女学生たち。


 戦闘なら突破できる。


 だが、好意に満ちた包囲は苦手だった。


「オレは王子様じゃねえ」


「でも、昨日の助け方は王子様でした」


「今日も下級生の荷物を持ってあげていました」


「あれは重そうだったからだ」


「そういうところが王子様なんです」


「意味わかんねえ!」


 ホムラが頭を抱えかけた時、少し離れた場所で小さな騒ぎが起きた。


 泣き声。


 押し殺した声。


 ホムラの目が変わる。


「どけ」


 彼女は女学生たちの間を抜けた。


 校舎裏に近い植え込みの陰で、一人の下級生が上級生二人に囲まれていた。


 その手には、白い紙がある。


 ホムラは一瞬で状況を理解した。


 名前の紙。


 旧礼拝堂の儀式。


 まだ残っている。


「おい」


 ホムラの声に、上級生たちが振り返った。


「あ、ホムラ様」


「何してる」


「いえ、これは」


「その紙、見せろ」


 上級生の一人が紙を隠そうとする。


 だが、ホムラは一歩で距離を詰めた。


「見せろって言った」


 声は荒い。


 だが、炎は出していない。


 怖がらせるためではなく、止めるための声だった。


 上級生は震えながら紙を差し出した。


 そこには、下級生の名前が書かれていた。


 その下に、短い言葉。


 この子が、私たちを裏切ったことを忘れますように。


 ホムラは紙を握り潰しそうになり、寸前で止めた。


 名前を傷つけてはいけない。


 桜夜なら、そう言う。


「誰に教わった」


 上級生たちは黙る。


「誰に、この紙を書けって言われた」


「……声が」


 一人が小さく言った。


「礼拝堂の方から。名前を書けば、つらいことをなくせるって」


「なくならねえよ」


 ホムラは低く言った。


「そんなもんで、なくなるわけねえだろ」


 上級生は涙目になった。


「でも、あの子が言ったことのせいで、私たちは」


「だったら言え。怒れ。謝らせろ。許せないなら許さなくていい」


 ホムラは紙を掲げた。


「でも、名前を船に渡すな」


 その言葉に、三人とも息を呑んだ。


 船。


 誰もその言葉を出していなかったのに、彼女たちは知っていた。


「見たのか」


 ホムラが問う。


 下級生が震えながら頷いた。


「白い船を」


「夢で?」


「はい」


「乗ったか?」


「乗ってません。怖くて」


「よし」


 ホムラは、白い紙を自分の制服の内側へしまった。


「これは預かる。お前ら、今日は旧礼拝堂の方に近づくな」


「でも」


「でもじゃねえ」


 ホムラは、少しだけ声を柔らかくした。


「怖いなら、誰かに言え。リオでもいい。桜夜でもいい。サイカでもいい。オレでもいい。名前を書いてどうにかしようとすんな」


 下級生が、ぼろぼろと泣き出した。


 ホムラは困った顔をする。


「泣くなよ」


「すみません」


「謝んな」


 言いながら、ホムラは自分のハンカチを差し出した。


 それを見ていた周囲の女学生たちが、また小さくざわめく。


「やっぱり王子様……」


「優しい……」


「だから違うって言ってんだろ!」


 ホムラが怒鳴った瞬間、端末が震えた。


 リオからの連絡。


 桜夜様、礼拝堂へ。


 警戒を。


 ホムラの表情が一気に変わった。


「悪い。あとで話聞く。今は絶対に旧礼拝堂へ行くな」


「ホムラ様?」


「王子様ごっこは終わりだ」


 ホムラは走り出した。


 向かう先は、閉鎖されていない方の礼拝堂。


 白い紙が、制服の中でかすかに冷えていた。


◇◇◇


 桜夜は、ひとりで礼拝堂に来ていた。


 閉鎖されていない方の礼拝堂。


 昼の光が、ステンドグラスを通して静かに床へ落ちている。


 旧礼拝堂の地下にあった白い霧はない。


 冷たさもない。


 ここはまだ、祈りの場所として息をしている。


 桜夜は、正面の絵を見上げた。


 描かれているのは、復活したイエス・キリストが、マグダラのマリアの前に姿を現した場面だった。


 白い衣。


 柔らかな光。


 驚きと喜びに満ちたマリアの表情。


 死んだと思っていた人が、目の前にいる。


 その奇跡。


 ある宗派では、マグダラのマリアはイエスの一番弟子であり、伴侶だったとも言われる。


 真偽は桜夜にはわからない。


 だが、その絵の前に立つと、どうしても自分とあずさを重ねてしまった。


 死んだと思っていたあずさが、ある日、何事もなかったように目の前に現れる。


 病室ではなく。


 夢でもなく。


 白い船でもなく。


 朝の光の中で、ただ普通に。


 おはよう。


 そう言ってくれたら。


 どれほど嬉しいだろう。


 どれほど怖いだろう。


 桜夜は目を閉じた。


 あずさはいろいろなことを知っていた。


 自分の命が長くないことを知っていたからかもしれない。


 病室の中で、彼女は本を読み、音楽を聴き、祈りの言葉まで覚えていた。


 カトリック教徒でもないのに、カトリックの祈りを教えてくれたことがある。


 桜夜は、その時のあずさの声を思い出した。


 そして、誰もいない礼拝堂で、静かに唱えた。


「愛の源なる天主、主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、我、心を尽し力を尽して、深く主を愛し奉る」


 声は、礼拝堂の高い天井に吸い込まれていく。


「また主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る」


 神の自己犠牲的な愛。


 あずさには、ぴったりだった。


 自分には似合わない。


 桜夜はそう思った。


 あずさは、いつも自分より誰かを思っていた。


 病室の中でも、桜夜のことを心配していた。


 忘れてと言った。


 忘れないでと言った。


 待たないでと言った。


 見つけてと言った。


 その矛盾ごと、彼女は優しかった。


 桜夜は違う。


 忘れられない。


 待たずにいられない。


 見つけたい。


 あずさの記憶を取り戻せると言われて、今でも欲しい。


 欲しくて、たまらない。


 ガブリエル。


 ルシフェル。


 世界意思。


 三つの取引を、桜夜は保留した。


 それは正しい判断だったのか。


 ただ臆病だっただけではないのか。


 死んだと思ったあずさが、目の前で「おはよう」と言う未来があるなら。


 手を伸ばしてしまいたくなる。


 桜夜は、絵の前で立ち尽くした。


「なぜ」


 声が漏れた。


「なぜ、僕が生きて、あずさが死んだんですか」


 答えはない。


 天主も。


 キリストも。


 マグダラのマリアも。


 鳳凰すらも。


 答えてはくれなかった。


 礼拝堂は静かだった。


 静かすぎた。


 その静けさの中で、ステンドグラスの光が少しだけ白く滲んだ。


 桜夜は気づく。


 遅かった。


 絵の中のマグダラのマリアの影が揺れる。


 キリストの白い衣が、船の帆のように見えた。


 礼拝堂の床に、薄い霧が広がる。


 旧礼拝堂の地下からではない。


 この礼拝堂の床下から。


 白い船の気配。


 桜夜は、桜吹雪の柄に手をかけた。


 だが、身体が少し重い。


 祈りが、あまりに深いところへ触れた。


 あずさの「おはよう」が、胸の奥でまだ響いている。


 霧の向こうで、少女の声がした。


「桜夜」


 桜夜は動けなくなった。


 あずさの声。


 似ている。


 似すぎている。


「桜夜、おはよう」


 霧の中に、朝の病室が見えた。


 白いカーテン。


 窓辺の光。


 ベッドの上で笑う、あずさ。


 桜夜の喉が詰まる。


「……あずさ」


 違う。


 これは違う。


 白い船だ。


 わかっている。


 それでも。


 おはよう。


 その一言が、欲しかった。


「こっちへ来て」


 霧の向こうで、あずさが手を伸ばす。


「もう、苦しまなくていいよ」


 その言葉は、あずさのようで、あずさではなかった。


 あずさなら、たぶんそうは言わない。


 彼女は苦しみを消すとは言わない。


 苦しみながらでも、朝を待とうとする子だった。


 でも、声は似ている。


 顔も似ている。


 記憶の中のあずさそのものだ。


 桜夜の足が、一歩だけ動いた。


 その瞬間。


 炎が、礼拝堂の扉を吹き飛ばしそうな勢いで走った。


「桜夜!」


 ホムラの声。


 白い霧が、炎に裂かれた。


 病室の幻が揺らぐ。


 あずさの姿が、一瞬だけ歪む。


 桜夜は目を見開いた。


 ホムラが礼拝堂へ飛び込んでくる。


 制服のまま。


 髪を乱し。


 息を切らし。


 炎を纏って。


「お前、何してんだ!」


「ホムラちゃん」


「ホムラちゃんじゃねえ!」


 ホムラは白い霧へ向けて炎を放つ。


 霧は逃げるように床へ広がった。


 しかし、完全には消えない。


 礼拝堂の絵の中で、白い衣がまた揺れる。


「リオねえ!」


 ホムラが叫んだ。


「はい」


 静かな声が、後ろから響いた。


 リオが礼拝堂へ入ってくる。


 手には、図書室から持ち出した古い日誌。


 もう片方の手には、水の気配が集まっている。


「桜夜様。やはりこちらの礼拝堂も、地下構造で旧礼拝堂と繋がっていました」


「地下で?」


「はい。シスター・アグネスの日誌に記録がありました。旧礼拝堂の祭壇は、本来こちらの礼拝堂の祈りを受ける地下水脈と接続していたようです。祈りの通路を、白い船が利用しています」


 リオは水を展開した。


 透明な水が、礼拝堂の床を薄く覆う。


 白い霧がその水に触れ、動きを鈍らせる。


「桜夜様」


 リオの声は、静かだった。


 けれど強い。


「祈りは、船へ捧げるものではありません」


 桜夜は、はっとした。


 祈り。


 あずさの教えてくれた祈り。


 それを白い船が利用した。


 死者への未練。


 復活への憧れ。


 おはようを待つ心。


 それらを、船へ向かう道に変えた。


 ホムラが桜夜の前に立つ。


「おい、珍獣教師」


「……今、その呼び方?」


「今だからだよ」


 ホムラは炎を構えたまま言った。


「死んだ女におはようって言われたいのはわかる。でも、今お前におかえりって言うやつは生きてるだろ」


 桜夜の胸に、その言葉が刺さった。


 乱暴で。


 不器用で。


 だけど、まっすぐだった。


「サイカねえも、リオねえも、静馬も、オレもいる。お前一人で朝の病室に戻ってんじゃねえよ」


 ホムラの炎が、白い霧をさらに押し返す。


 リオの水が、床の模様をなぞるように広がった。


 水は旧礼拝堂へ続く地下の流れを捉え、そこから上がってくる白い気配を封じていく。


「ホムラちゃん、右側の柱を」


「わかった!」


 ホムラが炎を走らせる。


 炎は柱を焼かない。


 柱に絡んでいた白い糸だけを焼く。


 リオが水を重ねる。


 水と炎。


 相反する二つの力が、礼拝堂の中で重なり、白い霧を追い詰めていく。


 桜夜は、その光景を見ていた。


 自分は何もしていない。


 リオが調べ、ホムラが駆けつけ、二人が戦っている。


 自分を戻すために。


 その事実が、少しだけ悔しくて、同じくらい救いだった。


「桜夜様」


 リオが振り返る。


「絵をご覧にならないでください。視覚誘導が入っています」


「わかった」


「ホムラちゃん、上部ステンドグラス」


「任せろ!」


 ホムラが跳んだ。


 炎が弧を描き、ステンドグラスに映った白い船影だけを焼き払う。


 ガラスそのものは割れない。


 ホムラの炎は乱暴に見えて、今は驚くほど精密だった。


 桜夜は目を細める。


 彼女は、強くなっている。


 ただ燃やすだけではない。


 守るために焼くことを覚えている。


 リオの水が、礼拝堂の祭壇へ向かう。


 祭壇に置かれた古い聖書の周囲だけを避け、白い霧を洗い流す。


 リオの所作は優雅だった。


 だが、その制御は鋭い。


 彼女は情報だけではなく、場そのものを整理している。


 何を守るべきか。


 何を流すべきか。


 何を残すべきか。


 それを見極めている。


 白い霧は、最後に絵の前で集まった。


 あずさの声が、もう一度した。


「桜夜」


 桜夜の身体が震える。


 ホムラが即座に怒鳴った。


「聞くな!」


 リオが続ける。


「それは、あずさ様ではありません」


 桜夜は目を閉じた。


 あずさ。


 会いたい。


 おはようと言ってほしい。


 それでも。


「うん」


 桜夜は息を吐いた。


「知ってる」


 彼は桜吹雪を抜かなかった。


 代わりに、祈りの言葉をもう一度、心の中で唱えた。


 主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。


 自己犠牲的な愛。


 自分には似合わないと思っていた。


 でも、それを白い船に渡すつもりもない。


 あずさの祈りは、船の餌ではない。


「ホムラちゃん、リオちゃん」


「何だ」


「何でしょう」


「ありがとう」


 ホムラは顔をしかめた。


「礼は戻ってから言え」


 リオは静かに微笑んだ。


「帰還後に正式に受け取ります」


 桜夜は頷いた。


「じゃあ、戻る」


 その言葉に、白い霧が一瞬だけ震えた。


 ホムラの炎が走る。


 リオの水が満ちる。


 白い霧は、絵の中へ逃げ込もうとした。


 だが、リオが日誌を開き、古い祈祷文の一節を読み上げる。


 それは、この礼拝堂がまだ祈りの場所として建てられた頃の言葉だった。


 名前を消すためではない。


 名を呼び、隣人のために祈るための言葉。


 水が淡く光る。


 ホムラの炎が、その光を支える。


 白い霧は、細く、薄くなり、やがて消えた。


 礼拝堂に静けさが戻る。


 ステンドグラスの光は、もう白く滲んでいない。


 キリストとマグダラのマリアの絵も、ただの絵に戻っていた。


 桜夜は、ようやく息を吐いた。


◇◇◇


 しばらく、三人とも動かなかった。


 最初に口を開いたのはホムラだった。


「で?」


「で?」


 桜夜が聞き返す。


「何か言うことあるだろ」


「助かりました」


「他には」


「一人で来てすみませんでした」


「よし」


 ホムラは満足げに頷いた。


 リオは日誌を閉じる。


「桜夜様。こちらの礼拝堂と旧礼拝堂の接続について、詳細な調査が必要です。シスター・アグネスの日誌には、旧礼拝堂を閉鎖した本当の理由が記されている可能性があります」


「本当の理由?」


「はい。悪魔憑きの噂は、後からつけられた隠れ蓑かもしれません」


 ホムラが腕を組む。


「また面倒な話か」


「はい」


「だと思った」


 桜夜は礼拝堂の絵を見上げた。


 今はもう、あずさの声は聞こえない。


 ただ、マグダラのマリアが復活したキリストを見ている。


 死んだと思った人が帰ってくる奇蹟。


 それを桜夜は、まだ欲しいと思っている。


 たぶん、これからも。


 でも、その欲しさごと、船には渡さない。


「リオちゃん」


「はい」


「祈りは、船へ捧げるものではない。さっきの言葉、よかった」


「恐縮です」


「ホムラちゃん」


「何だよ」


「おかえりって言う人は生きてる。あれも、効いた」


 ホムラは顔を赤くした。


「うるせえ。適当に言っただけだ」


「適当であれが出るならすごいよ」


「褒めんな」


「褒める」


「やめろ」


 桜夜は少しだけ笑った。


 笑える。


 それは、戻ってきた証拠だった。


 リオがその様子を見て、静かに息を吐く。


「桜夜様」


「うん」


「サイカちゃんだけではありません」


「え?」


「桜夜様を呼び戻すのは、サイカちゃんだけの役目ではありません」


 ホムラも頷いた。


「そうだぞ。お前一人、船に乗り逃げできると思うなよ」


「乗り逃げって」


「似たようなもんだろ」


 桜夜は、言葉に詰まった。


 サイカが呼ぶ。


 それは確かに、桜夜を現実へ戻す強い力だった。


 けれど、それだけではない。


 リオがいる。


 ホムラがいる。


 静馬がいる。


 小春と日和もいる。


 親友も、まだどこかで待っている。


 明人の言葉も、あずさの矛盾した願いも、桜夜を簡単には消させない。


「帰還任務は、みんなの任務か」


 桜夜が言うと、リオが静かに頷いた。


「はい」


 ホムラは鼻を鳴らす。


「今さらだろ」


 桜夜は、少しだけ目を伏せた。


「そっか」


「そうです」


「そっか」


 もう一度、桜夜は呟いた。


 礼拝堂の外では、昼の学園の声が聞こえる。


 誰かが笑っている。


 誰かがホムラを探している声もする。


「また呼ばれてるよ」


「うるせえ」


 ホムラは扉の方を睨んだ。


 だが、その顔にはもう本気の怒りはない。


 リオが日誌を抱え直す。


「一度戻りましょう。桜夜様の体調確認と、日誌の解析が必要です」


「うん」


 桜夜は、最後にもう一度だけ絵を見た。


 復活したキリスト。


 マグダラのマリア。


 死を越えて再会する奇蹟。


 それを信じることはできない。


 諦めることもできない。


 ただ、今は。


 あずさの「おはよう」ではなく、今生きている仲間たちの「おかえり」を選ぶ。


 選び続ける。


 たとえ、それが毎回苦しくても。


「帰ろう」


 桜夜が言った。


 ホムラが先に歩き出す。


「今度はちゃんと戻れよ、珍獣教師」


「はいはい」


 リオがその後ろで微笑む。


「帰還確認まで、わたくしが同行いたします」


「監視が厳しい」


「当然です」


 三人は礼拝堂を出た。


 ステンドグラスの光が、背中を静かに照らしている。


 白い船の影は、もうそこにはなかった。


 だが、旧礼拝堂の地下にはまだ祭壇がある。


 シスター・アグネスの日誌。


 祈りの通路。


 名前を船へ送る儀式。


 新しい手がかりが、リオの腕の中にある。


 ホムラが預かった白い紙も、まだ答えを待っている。


 次は、彼女たちが開いた道を進む番だった。

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