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第27話 足跡のない場所

 ガブリエルは、天上から地上を見ていた。


 英国。


 聖マリアンナ女子大学付属高等学校の近くにある古い邸宅。


 その一室で、水希桜夜は眠っている。


 眠っていると言っても、安らかではない。


 夢の中で原初の騎士団を見た。


 はじまりのものを見た。


 ルシフェルの喪失を見た。


 自分が病弱な失敗作と呼ばれる理由の端を見た。


 それでも、桜夜は戻ってきた。


 サイカの手の中へ。


 ただいま、と言える場所へ。


 ガブリエルは、腕を組んだまま不機嫌そうにその様子を見ていた。


「本当に、手のかかる子ね」


 口に出してから、彼女は少しだけ眉を寄せた。


 子。


 今、自分はそう言ったのか。


 水希桜夜は天使ではない。


 神の子でもない。


 人間ですら、純粋な意味ではそう呼びきれない。


 ルシフェルが作った模造品。


 はじまりのものを再現しようとして、失敗し、捨てられるはずだったもの。


 そのはずだった。


 けれど、あの子は捨てられなかった。


 宮森明人に拾われた。


 夜桜の下で、桜夜という名を与えられた。


 病弱で、壊れやすく、何度も死にかけ、それでも生きた。


 そして今、白い船に名を奪われそうな少女たちのために、旧礼拝堂の地下で名前の糸を切っている。


 失敗作。


 ルシフェルはそう呼んだ。


 ガブリエルは、その言葉を思い出すだけで腹が立った。


 だが、腹を立てる資格が自分にあるのかはわからない。


 彼女もまた、長い間見ていただけだった。


 ルシフェルが作った模造品たち。


 はじまりのものに似せられた器。


 世界へ干渉する力を与えられ、けれど身体が持たず、心が壊れ、あるいは世界に拒まれた存在たち。


 ルシフェルはそれらを失敗作と呼び、平行世界へ捨てた。


 ガブリエルは、それを見ていた。


 神の命令で。


 そして、ある時からは自分の意思で。


 記録を追った。


 危険があれば、少しだけ風向きを変えた。


 落ちるはずの瓦礫を逸らした。


 死ぬはずだった熱病の夜に、医者を近づけた。


 逃げ場のない戦場で、ほんの一瞬だけ敵の目を曇らせた。


 それで救えると思ったこともある。


 だが、ほとんどは救えなかった。


 模造品たちは壊れた。


 ある者は自分の力に焼かれた。


 ある者は世界を恨み、自ら消えた。


 ある者は名前を得られず、誰にも呼ばれないまま眠った。


 ある者は救いを求められ続け、最後には救えなかった者たちの憎しみに潰された。


 ガブリエルは、その記録を消せなかった。


 消してしまえば、彼らが本当に失敗作として処分されたことになる気がした。


 だから、残した。


 誰にも命じられていないのに。


 神へ報告する必要もないのに。


 残した。


 その最後に、水希桜夜がいた。


 病弱な子ども。


 夜桜の下で拾われた子ども。


 桜夜。


 その名が記録に刻まれた時、ガブリエルは思った。


 また、壊れるのだろう。


 きっと、この子も長くはもたない。


 けれど、桜夜は壊れながら生きた。


 熱を出しながら剣を握った。


 死にかけながら誰かを守った。


 あずさを失い、それでも忘れなかった。


 明人を失い、それでも勝ち逃げだと笑った。


 サイカに呼ばれ、リオに叱られ、ホムラに怒鳴られ、静馬に管理され、白い船の岸から何度も戻ってきた。


 ガブリエルは、いつの間にか桜夜の記録を見る頻度が増えていた。


 仕事だと言い聞かせた。


 危険個体の監視だと言い聞かせた。


 白い船に対する重要な係留候補だからだと言い聞かせた。


 だが、本当のところは。


「あなた、母親の顔をしていますね」


 ふいに声がした。


 ガブリエルは振り返った。


 そこに、聖母マリアがいた。


 白と青の衣。


 静かな瞳。


 人の痛みを知り、人の子を抱いた者の顔。


 ガブリエルは露骨に顔をしかめた。


「やめてください。私は大天使です」


「ええ」


 マリアは穏やかに頷いた。


「ですが今のあなたは、子を案じる母の顔をしていました」


「違います。あれはルシフェルが作った模造品です。厄介で、病弱で、頑固で、すぐ死にかける失敗作です」


「それで?」


「それで、放っておくと白い船に座るんです。天使の仕事として監視しているだけです」


「そうですか」


「そうです」


 マリアは微笑んだ。


 その微笑みが、ガブリエルには少し腹立たしかった。


 すべてを知っているような顔ではない。


 ただ、否定しない顔だった。


 人が泣く時も、怒る時も、強がる時も、ただそばにいる者の顔。


「仕事であっても、祈りは祈りです」


 ガブリエルは黙った。


 マリアは、地上を見下ろす。


 英国の古い邸宅。


 眠る桜夜。


 その手を握るサイカ。


「彼には、呼ぶ者がいます」


「ええ」


「それでも、あなたも呼んでいるのでしょう」


「私は呼んでいません」


「では、落ちるな、と怒っているのですね」


「それは……」


 ガブリエルは言葉に詰まった。


 マリアは、少しだけ目を細める。


「怒りもまた、愛から出ることがあります」


「愛などではありません」


「そう言うところも、母親に似ています」


「本当にやめてください」


 ガブリエルは顔を背けた。


 けれど、地上から目は離さなかった。


◇◇◇


 主は、沈黙するばかりではない。


 ガブリエルは、それを知っている。


 全知全能の神。


 彼女たちが仕える主。


 主は、時折、世界へ介入する。


 だいたいは直接ではない。


 天使を通して。


 代理人を通して。


 預言者を通して。


 ノア。


 モーセ。


 ナザレのイエス。


 ムハンマド。


 そのほか、多くの預言者たち。


 人間の歴史には、主の介入の痕跡がある。


 声がある。


 契約がある。


 律法がある。


 福音がある。


 啓示がある。


 だが、それでも世界はよくならなかった。


 人は争い続けた。


 神の名で殺した。


 救いの言葉で境界を引いた。


 愛を語りながら、隣人を憎んだ。


 ガブリエルは、イエスの言葉を覚えている。


 彼女の仕える主の子。


 人として生き、人として苦しみ、人として死んだ方。


 その方すら、こう言った。


 私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。


 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。


 その言葉を、人間たちはまた、それぞれの都合で解釈した。


 家族の分裂。


 信仰のための覚悟。


 真実がもたらす対立。


 神の国と地上の平和の違い。


 どれも間違いではないのかもしれない。


 だが、ガブリエルには時々わからなくなる。


 主は、人間同士が争うことを望んでいるのだろうか。


 世界のありさまは、少なくともそう見える。


 救いの言葉を与えれば、争いが生まれる。


 預言者を遣わせば、迫害が起きる。


 神の愛を語れば、人はその愛の外側に誰かを置こうとする。


 では、沈黙していればよかったのか。


 介入しなければよかったのか。


 それも違うと、ガブリエルは知っている。


 沈黙だけでは、ノアは箱舟を作らなかった。


 モーセは海を渡らなかった。


 マリアは受け入れなかった。


 預言者たちは立たなかった。


 人は、ただ滅びていたかもしれない。


 けれど、介入しても救われなかった者がいる。


 それもまた、事実だった。


「難しい顔をしていますね」


 マリアが言う。


「難しいことを考えていますから」


「主の御心ですか」


「はい」


「わかりましたか」


「わかるわけがありません」


 ガブリエルは即答した。


 マリアは静かに笑った。


「正直ですね」


「あなたはわかるのですか」


 ガブリエルは少しだけ棘のある声で聞いた。


「主がなぜ沈黙なさるのか。なぜ介入しても、すべてを救わないのか。なぜルシフェルを止めなかったのか。なぜはじまりのものを眠らせたのか。なぜ桜夜のような子が、あれほど苦しまなければならないのか」


 マリアは、すぐには答えなかった。


 その沈黙に、ガブリエルは少しだけ苛立つ。


 また沈黙か。


 そう思いかけた時、マリアは静かに言った。


「私にも、すべてはわかりません」


 ガブリエルは目を見開いた。


「あなたにも?」


「ええ」


 マリアは地上を見た。


「私は、子を抱きました。子を育てました。子が傷つき、嘲られ、十字架を背負う姿を見ました。母として、すべてを理解していたわけではありません」


 ガブリエルは黙った。


「ただ、後になって見えるものがあります」


「後になって?」


「はい」


 マリアの声は穏やかだった。


「苦しみの最中には、一人分の足跡しか見えないことがあります。見捨てられたと思うことがあります。けれど、後になって、それは抱えられていたのだと知ることがある」


 あしあと。


 人間が作った詩。


 苦しみの時ほど足跡が一人分しかなかった、と嘆く者に、それは一人で歩いていたからではなく、主に背負われていたからだと告げる詩。


 ガブリエルは、その詩を知っていた。


 人間が作ったものだ。


 神が直接書いたものではない。


 それでも、時々、天使より神に近い。


「ですが」


 ガブリエルは言った。


「抱えられている側には、それが見えません」


「ええ」


「見えないまま死ぬ者もいます」


「ええ」


「それでも、信じろと?」


「信じることは、命令で生まれるものではありません」


 マリアは答えた。


「だから、主は自由を残されたのではありませんか」


「自由意志」


 ガブリエルは苦い顔をした。


「その自由で、人間は互いを傷つけます」


「それでも、同じ自由で誰かを抱くこともあります」


 マリアは、眠る桜夜の手を握るサイカを見た。


「彼女のように」


 ガブリエルは何も言えなかった。


 サイカは、命令されて桜夜の手を握っているわけではない。


 天使の指示でもない。


 世界意思の効率でもない。


 白い船の救いでもない。


 自分の意思で、そこにいる。


 帰ってきて、と呼ぶために。


「病者の祈りも、あなたは知っているでしょう」


 マリアが言った。


 ガブリエルは頷いた。


 強さを求めたのに、弱さを与えられた。


 成功を求めたのに、失敗を与えられた。


 健康を求めたのに、病を与えられた。


 望んだものは与えられなかった。


 けれど、必要なものは与えられた。


 そう語る祈り。


 ガブリエルは、その祈りを嫌いではなかった。


 だが、好きだと言い切ることもできなかった。


 病の中にいる者に、それを言うのは酷だからだ。


「水希桜夜は、病弱でした」


 ガブリエルは言った。


「ルシフェルの目的から見れば、失敗作でした。強さを与えられず、安定した器も与えられず、失うものばかり与えられた」


「それでも、名を与えられました」


 マリアが言う。


「呼ぶ者も」


「それで足りると?」


「足りるとは言っていません」


 マリアは首を横に振った。


「ただ、そこからしか始まらないのかもしれません」


 ガブリエルは唇を噛んだ。


 答えではない。


 慰めにも足りない。


 それでも、何かが残る。


 望んだものではない。


 必要なもの。


 それが本当にあるのなら。


 桜夜に与えられたものは、何なのだろう。


 弱さ。


 喪失。


 名前。


 呼ぶ声。


 帰る場所。


 ガブリエルは、地上を見た。


 桜夜はまだ眠っている。


 サイカの手を握ったまま。


 まるで、一人分しかない足跡の場所で、誰かに抱えられている子のように。


「私は、あの子の母ではありません」


 ガブリエルは言った。


「ええ」


 マリアは穏やかに頷く。


「ですが、母のように怒っています」


「怒っているだけです」


「母はよく怒ります」


「私は大天使です」


「ええ。とてもよく怒る大天使です」


「聖母にからかわれる日が来るとは思いませんでした」


 ガブリエルは深くため息をついた。


 けれど、少しだけ肩の力が抜けていた。


◇◇◇


 朝。


 聖マリアンナ女子大学付属高等学校の教室には、いつものざわめきが戻っていた。


 夜の旧礼拝堂で起きたことを、生徒たちは知らない。


 壁に貼られた名前。


 祭壇へ伸びる白い糸。


 エレノアの名が船へ渡りかけたこと。


 桜夜たちがそれを切り離したこと。


 何も知らないまま、生徒たちは登校し、笑い、友人と話し、授業の準備をしている。


 それでよかった。


 知らなくていいことはある。


 ただ、名前を奪われる危険だけは、知らないまま終わらせてはいけない。


 桜夜は黒板の前に立った。


 顔色は悪い。


 それは隠しようがない。


 サイカは教室の後方から心配そうに見ている。


 リオは留学生として席に座っているが、完全に監視役の目をしていた。


 ホムラは隣の教室にいるはずなのに、なぜか廊下からこちらを見張っている。


 静馬は通信越しに「授業時間を短縮しろ」と何度も言ってきた。


 桜夜は、それらをすべて理解した上で、チョークを取った。


「今日は、自分の名前を書きます」


 英語でそう言うと、生徒たちは楽しそうに顔を上げた。


「名前を日本語で?」


「はい。皆さんの名前を、片仮名で書きます」


 桜夜は黒板に書いた。


 エレノア。


 メイベル。


 キャロライン。


 ルーシー。


 教室の空気が明るくなる。


「かわいい!」


「私の名前も書いてください」


「先生、私の名前は難しいですか?」


「順番に書きます」


 桜夜は一人ずつ名前を聞き、黒板に片仮名で書いた。


 生徒たちは、それをノートに写していく。


 ぎこちない文字。


 少し曲がった線。


 間違えた伸ばし棒。


 それでも、自分の名前を書こうとする手。


 桜夜は、それを静かに見ていた。


「名前は」


 桜夜が言うと、生徒たちの手が止まる。


「誰かに勝手に捧げるものではありません」


 教室の空気が、少し変わった。


 エレノアが顔を上げる。


 メイベルは、びくりと肩を震わせた。


 桜夜は続ける。


「誰かの名前を勝手に書くことは、時にその人の心に触れることです。だから、大切にしてください」


 生徒たちは黙って聞いていた。


 桜夜は黒板へ向き直り、自分の名前を書いた。


 ミズキ オウヤ。


 その下に、漢字で書く。


 水希桜夜。


「名前には、呼ぶ力があります」


 桜夜は言った。


「誰かを呼ぶ時、その人が帰ってこられるように。自分の名前を書く時、自分がここにいると確かめられるように」


 サイカが、後ろで静かに桜夜を見ていた。


 リオはノートを閉じて、微笑んでいる。


 廊下のホムラは、少し照れくさそうに顔を背けた。


「だから今日は、自分の名前を自分の手で書いてください」


 桜夜は教室を見渡した。


「誰かに消されないように。誰かに捧げられないように。自分で持つために」


 しばらく、教室は静かだった。


 やがて、エレノアがペンを取った。


 ゆっくりと、ノートに書く。


 エレノア・グレイ。


 片仮名の線は少し震えていた。


 けれど、消えなかった。


 白く滲むこともない。


 エレノアはその文字を見つめ、小さく息を吐いた。


 隣でメイベルも、自分の名前を書き始めた。


 メイベル・ウィンター。


 書き終えた後、彼女はエレノアの方を見た。


 何か言いたそうにして、言えない。


 エレノアもそれに気づいた。


 けれど、責めなかった。


 ただ、自分の名前が書かれたノートを閉じずに、そこに置いた。


 桜夜はその様子を見て、ほんの少しだけ頷いた。


 全部が解決したわけではない。


 名前を書いた罪も、書かれた傷も、すぐには消えない。


 白い船の祭壇もまだ残っている。


 だが、名前は消えなかった。


 今は、それでいい。


◇◇◇


 天上で、ガブリエルはその授業を見ていた。


 黒板に並ぶ名前。


 自分の名を書く少女たち。


 顔色の悪い珍獣教師。


 それを見守る三人の留学生。


 ガブリエルは、少しだけ口元を緩めた。


「何を笑っているのですか」


 マリアが尋ねる。


「笑っていません」


「そうですか」


「ええ」


 ガブリエルは腕を組んだ。


「ただ、あの子にしては悪くない授業だと思っただけです」


「母親の顔ですね」


「違います」


「ええ」


「本当に違います」


「はい」


 マリアは微笑んだ。


 ガブリエルは地上を見た。


 桜夜は、黒板に最後の言葉を書いている。


 おかえり。


 生徒たちが、その文字を真似して書く。


 意味を知らない者もいる。


 発音がうまくできない者もいる。


 それでも、教室にその言葉が増えていく。


 おかえり。


 おかえり。


 おかえり。


 白い船が嫌う言葉。


 名前を持つ者が、帰ってくるための言葉。


 ガブリエルは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「落ちるんじゃないわよ、桜夜」


 それは命令ではなかった。


 取引でもなかった。


 神の啓示でもない。


 ただ、長く見守ってしまった者の、祈りに似た怒りだった。


 マリアは何も言わなかった。


 ただ、静かに微笑んでいた。


◇◇◇


 授業が終わったあと、エレノアが桜夜のところへ来た。


 メイベルも少し離れた場所にいる。


 サイカがそれに気づき、そっと席を立った。


「ミズキ先生」


 エレノアの声は小さかった。


「はい」


「昨日、夢を見ました」


 桜夜は表情を変えなかった。


「どんな夢ですか」


「白い船の夢です。でも、乗りませんでした」


「どうして?」


 エレノアは、自分のノートを胸に抱いた。


「誰かが、私の名前を呼んでくれた気がしたんです」


 桜夜は少しだけ目を細めた。


「そうですか」


「先生ですか?」


「どうでしょう」


 エレノアは困ったように笑った。


「先生、時々ずるいですね」


「よく言われます」


 メイベルが、後ろで小さく震えていた。


 エレノアは振り返る。


 二人の間に、昨日までとは違う沈黙があった。


 壊れてしまったもの。


 言わなければならないこと。


 でも、今はまだ言えないこと。


 桜夜は、その沈黙を無理に破らなかった。


 名前を返すことは、すぐに仲直りさせることではない。


 傷をなかったことにすることでもない。


 ただ、自分の名を持って、自分の足で立つことだ。


「エレノアさん」


 桜夜は言った。


「はい」


「今日書いた名前、大事にしてください」


「はい」


「メイベルさんも」


 メイベルがびくりとする。


「……はい」


「名前は、消すためではなく、呼ぶためにあります」


 二人は黙って頷いた。


 その時、廊下の向こうから騒ぎ声が聞こえた。


「ホムラ様!」


「待ってください!」


「今度こそフェンシング部へ!」


「演劇部も!」


「来んな!」


 ホムラが逃げていた。


 桜夜は少しだけ笑った。


 重かった空気が、少しだけほどける。


 エレノアも、メイベルも、つられるように小さく笑った。


 サイカが桜夜の隣に戻ってくる。


「桜夜さん」


「うん」


「少し戻ったね」


「何が?」


「教室」


 桜夜は、生徒たちのいる教室を見た。


 まだ不安はある。


 旧礼拝堂も残っている。


 白い船も、祭壇も、ルシフェルの言葉も、世界意思の取引も終わっていない。


 だが、今この教室には、名前を書く音が残っている。


 それは小さな抵抗だった。


 神の奇跡でもない。


 天使の啓示でもない。


 悪魔の取引でもない。


 人間の手で、自分の名を書くこと。


 その小ささを、桜夜は少しだけ信じてもいいと思った。


「そうだね」


 桜夜は言った。


「少し戻った」


 その時、窓の外を白い花びらが一枚だけ横切った。


 桜夜はそれを見た。


 サイカも見た。


 けれど、花びらは教室へ入ってこなかった。


 風に流され、旧礼拝堂の方へ消えていく。


 桜夜は静かに息を吐いた。


 まだ終わっていない。


 だが、今日は。


 名前は消えなかった。


 それだけで、次へ進める。

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