表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/74

第26話 原初の騎士団

 桜夜は、眠るつもりではなかった。


 旧礼拝堂から戻ったあと、リオに水を飲まされ、静馬に通信越しで散々叱られ、ホムラに「黙って座ってろ」と言われ、サイカに手を握られた。


 それだけで、身体は限界を思い出した。


 英国の仮拠点。


 王室が用意した古い邸宅の一室。


 暖炉には弱い火が入り、窓の外では細い雨が降っている。


 礼拝堂の地下でまとわりついた白い霧は、もうない。


 それでも桜夜の指先には、まだ名前を切り離した感触が残っていた。


 エレノア。


 メイベル。


 キャロライン。


 ルーシー。


 そして、まだ壁に残された無数の名。


 救われたいという願い。


 忘れたいという願い。


 消えたいという願い。


 それらを、白い船へ渡さない。


 そのために桜夜は、名前と船を繋ぐ糸を斬った。


 六つ切ったところで限界が来た。


 全ては救えなかった。


 祭壇も残した。


 白い船は、まだ旧礼拝堂の地下で軋んでいる。


「桜夜さん」


 サイカの声がした。


「まだ起きてる?」


「起きてる」


「うそ。目、半分閉じてる」


「半分は起きてる」


「そういうの、起きてるって言わないよ」


 サイカはベッドの脇に座り、桜夜の手を握っていた。


 その手の温度が、眠りへ落ちようとする桜夜を現実に繋いでいる。


 普段なら、桜夜は一人では眠れない。


 眠れば、白い船へ引かれるかもしれない。


 十三番目の椅子に近づくかもしれない。


 だから眠りは、休息であると同時に危険でもあった。


 けれど今夜は、サイカがいる。


 扉の外にはホムラがいる。


 隣室ではリオが資料を整理している。


 通信端末は静馬へ繋がったままだ。


 独りではない。


「サイカちゃん」


「なに?」


「眠ったら、呼んで」


「うん。ちゃんと呼ぶ」


「白い船に行きそうになったら」


「絶対呼ぶ」


「ルシフェルが出てきても」


 サイカの手に、少し力が入った。


「呼ぶ」


「世界意思が出てきても」


「呼ぶ」


「明人先生が勝ち逃げの自慢をしてきても」


 サイカは少しだけ笑った。


「それも呼ぶ」


「ありがとう」


 桜夜は目を閉じた。


 雨音。


 暖炉の音。


 サイカの手の温度。


 それらを頼りに、桜夜は眠りへ沈んでいく。


 白い船の軋む音は、聞こえなかった。


 代わりに、遠くで森が揺れる音がした。


◇◇◇


 そこは、深い森だった。


 英国ではない。


 日本でもない。


 どこの国でもない。


 まだ国という名前が定まる前のような、古い森だった。


 木々は高く、空はほとんど見えない。


 足元には湿った土。


 草の匂い。


 獣の気配。


 世界は、まだ若い。


 あるいは、まだ何も決められていない。


 その森の中に、青年がいた。


 桜夜ではない。


 顔立ちはどこか似ている。


 けれど、違う。


 青年の姿は、桜夜よりも成熟していた。


 背は高く、肩も広い。


 瞳は静かで、そこに疲れはない。


 病弱さもない。


 誰かに拾われた子どもの影もない。


 ただ、最初からそこにいた者のように立っている。


 青年は、世界を見ていた。


 しかし、興味はなさそうだった。


 鳥が鳴いても。


 獣が走っても。


 人が遠くで叫んでも。


 青年は動かなかった。


 まるで、世界そのものが自分とは関係のない景色であるかのように。


 桜夜は、その青年を見ていた。


 夢の中だとわかっていた。


 だが、ただの夢ではない。


 これは記憶だ。


 誰の記憶かは、まだわからない。


 青年は森を歩いた。


 目的があるわけではない。


 ただ、歩いていた。


 やがて、木々の奥から小さな声が聞こえた。


 祈りだった。


 少女の声。


 震えていて、弱く、それでも必死だった。


「どうか」


 少女は、森の奥で膝をついていた。


 粗末な服。


 痩せた腕。


 泥で汚れた膝。


 その両手は胸の前で固く組まれている。


「どうか、あの人たちを助けてください」


 青年は足を止めた。


 初めて、何かに注意を向けた。


 少女は気づかずに祈り続ける。


「私の村を。家族を。どうか、誰でもいい。神様でも、悪魔でも、森の精でもいい。助けてください」


 青年は、少女を見下ろしていた。


 その目には、同情も怒りもない。


 ただ、疑問だけがある。


「なぜ祈る」


 少女は肩を震わせて顔を上げた。


 青年を見て、息を呑む。


「あなたは」


「なぜ祈る」


「助けてほしいからです」


「誰に」


「誰でも」


「誰でもいいのか」


 少女は一瞬だけ黙った。


 それから、唇を噛む。


「誰でもいいです。助けてくれるなら」


「なぜ自分で助けない」


 少女は泣きそうな顔になった。


「私には力がないから」


 青年は黙った。


 力がない。


 その言葉の意味を、確かめるように。


「力があれば、助けるのか」


「助けます」


「なぜ」


「大切だからです」


「大切」


 青年は、その言葉を繰り返した。


 世界に無関心だった青年の目に、ほんの少しだけ色が宿る。


「それは、世界より重いものか」


 少女は困惑したように青年を見た。


「世界なんて、わかりません」


「では、何がわかる」


「家族が泣いていること。村の人が殺されそうなこと。弟がまだ小さいこと。母が怪我をしていること。父が帰ってこないこと」


 少女は涙を拭った。


「私には、それしかわかりません」


 青年は、しばらく少女を見ていた。


 世界はわからない。


 けれど、目の前の誰かが泣いていることはわかる。


 その言葉が、青年の中に落ちた。


「なら」


 青年は言った。


「その祈りを、現実にすればいい」


 少女が目を見開く。


「え?」


 青年は振り返り、森の外へ向かった。


 少女の村がある方へ。


 初めて、青年は世界に干渉した。


◇◇◇


 そこから先は、断片だった。


 炎の上がる村。


 剣を持った男たち。


 泣き叫ぶ子ども。


 倒れた老人。


 少女の祈り。


 青年の手。


 世界が、少しだけ形を変える。


 男たちの剣が折れる。


 炎が裂ける。


 倒れた家屋が持ち上がる。


 怪我人の血が止まる。


 青年は、戦い方を知らなかった。


 だが、力はあった。


 世界に干渉する力。


 祈りを現実へ近づける力。


 少女は泣いた。


 村人たちは青年へ感謝した。


 神だと言う者がいた。


 悪魔だと言う者もいた。


 精霊だと呼ぶ者もいた。


 青年は、どれにも興味を示さなかった。


 ただ、少女の祈りが終わったことだけを確認した。


 それで十分だった。


 しかし、世界はそれで終わらなかった。


 助けた村の隣の村が、青年を求めた。


 その隣の町が、青年を恐れた。


 王が青年を利用しようとした。


 神官が青年を異端と呼んだ。


 兵士が青年へ剣を向けた。


 救われた者は感謝した。


 救われなかった者は憎んだ。


 救われた者の中にも、なぜ自分だけが遅かったのかと怒る者がいた。


 救ったはずの者が、別の誰かを傷つけた。


 青年は、それでも進んだ。


 少女の祈りを現実にするために。


 誰かの涙を見た少女が、また祈るから。


 祈るたび、青年は動いた。


 やがて、青年の周りに仲間ができた。


 最初に来たのは、光を背負う天使だった。


 美しい青年。


 白い翼。


 金色に近い光。


 名は、ルシフェル。


 神から天使長という権威を与えられ、同時に神に逆らう自由を与えられた者。


 だが、ルシフェルはその権威も自由も捨てた。


 青年の隣に立つために。


「面白いな、お前は」


 ルシフェルは言った。


「神でもなく、悪魔でもなく、世界でもない。なのに祈りを現実にしようとする」


 青年は答えない。


 ルシフェルは笑った。


「俺は人間が嫌いだ」


「なぜ」


「祈るくせに、与えられれば奪い合う。救われれば次の救いを求める。自分が救われなければ、救われた者を憎む」


「それでも来たのか」


「ああ」


 ルシフェルは青年を見る。


 その目には、奇妙な熱があった。


「お前は嫌いじゃない」


 次に来たのは、東の術者だった。


 名はタオ。


 まだ四方院という名が形を持つ前の、最初の者。


 タオは青年を見て、深く頭を下げた。


「未来を守るためなら、我が術も、我が血も使いましょう」


 青年は問う。


「未来とは何だ」


「今はまだいない者たちのために、今いる者が負うものです」


 青年は、その言葉を覚えた。


 さらに、剣士が来た。


 名は明人。


 まだ宮森明人ではない。


 だが、その魂の形は桜夜の知る師匠によく似ていた。


 明人は青年を見て、笑った。


「難しいことはよくわからん」


「では、なぜ来た」


「お前の剣が下手だからだ」


 青年は少しだけ首を傾げた。


「剣?」


「ああ。力はある。だが、切るべきものを知らん」


 明人は刀を抜いた。


「教えてやる。心の目で真実を見極めよ。切るべきもののみを切れ」


 桜夜の胸が、強く震えた。


 その言葉。


 明人先生の言葉。


 それは、この時代から続いていたのか。


 あるいは、明人がこの過去の想いを継いだからこそ、桜夜へ伝えたのか。


 夢は答えない。


 ただ、青年たちが並ぶ光景を見せる。


 はじまりのもの。


 ルシフェル。


 タオ。


 明人。


 少女。


 そして、名も知らぬ多くの仲間たち。


 人々は、彼らをいつしかこう呼んだ。


 原初の騎士団。


◇◇◇


 だが、騎士団ができても、世界から争いは消えなかった。


 むしろ、彼らが救えば救うほど、救われなかった場所の憎しみは濃くなった。


 なぜ、こちらには来なかった。


 なぜ、あの子は助かって、私の子は死んだ。


 なぜ、悪人まで救った。


 なぜ、世界を作り変えない。


 なぜ、祈ったのに届かなかった。


 感謝の声より、憎しみの声の方が長く残った。


 人は救われても、誰かを憎んだ。


 救われなければ、救った者を憎んだ。


 青年は、初めて疲れを知った。


 世界に無関心だった頃には知らなかったもの。


 誰かを大切に思うからこそ削られるもの。


 少女は、青年のそばにいた。


 最初に祈った少女。


 彼女は成長していた。


 だが、その身体は長くは持たなかった。


 生まれつき弱かったのか。


 それとも、祈りの代償を背負ったのか。


 夢の中の桜夜にはわからない。


 わかるのは、少女の命が少しずつ尽きようとしていることだけだった。


「もう、やめてもいいのです」


 少女は、青年にそう言った。


「あなたは十分に戦いました」


 青年は首を横に振る。


「まだ祈りがある」


「祈りは、なくなりません」


「なら、戦う」


「あなたが壊れてしまいます」


 青年は、少女を見た。


「壊れるとは何だ」


 少女は悲しそうに笑った。


「そういうところです」


 やがて、人々の負の感情は形を持った。


 憎しみ。


 妬み。


 怒り。


 飢え。


 恐れ。


 支配欲。


 絶望。


 それらが沈殿し、絡まり、名を得たもの。


 Original Sin。


 原罪。


 人から生まれ、人へ戻ろうとする負の塊。


 それは、倒しても消えなかった。


 砕いても消えなかった。


 七つに砕けば、七つの災厄となる。


 七つは再び一つに戻ろうとする。


 何度斬っても、何度封じても、人の心から同じものが滲み出す。


 ルシフェルは激怒した。


「だから言っただろう。人間など救う価値がない」


 青年は答えなかった。


「お前がどれだけ手を伸ばしても、こいつらはまた憎む。また奪う。また祈る。そして、自分が救われなければお前を呪う」


「それでも」


「それでも?」


 ルシフェルの声が荒れる。


「まだ続けるのか」


 青年は、少女を見た。


 少女は、もう立つことも難しくなっていた。


 それでも、彼女は青年を見ていた。


「私は」


 少女は言った。


「世界がすべて救われるなんて、最初から思っていませんでした」


「なら、なぜ祈った」


 ルシフェルが問う。


「目の前の人に、泣いてほしくなかったからです」


 ルシフェルは言葉を失った。


 青年は、少女の手を取った。


「なら、封じる」


 青年は言った。


「Original Sinは消せない。砕いても戻る。なら、眠らせる」


「どこに」


 タオが問う。


「世界の底」


 明人が眉を寄せる。


「お前も一緒に行く気か」


「封印には、係留点がいる」


 その言葉に、桜夜は息を呑んだ。


 係留点。


 世界意思が桜夜に言った言葉。


 白い船の制御に必要な役割。


 それは、はじまりのものが一度選んだものだったのか。


 ルシフェルが青年の胸倉を掴んだ。


「ふざけるな」


 青年は動かない。


「お前がいなくなったら、誰が世界を見る」


「世界は、世界であり続ける」


「俺はそんな話をしていない!」


 ルシフェルの声が震えていた。


 怒りではない。


 恐れだ。


 失う恐れ。


「お前が消える必要はない。神に任せればいい。あの全知全能なら、全部どうにでもできる。なのに何も言わない。何も動かない。だったらお前が消える必要などない!」


 青年は空を見上げた。


 そこには何もない。


 神の声はなかった。


 光もなかった。


 ただ、世界があるだけだった。


「祈りは、届くとは限らない」


 青年は言った。


「それでも祈る者がいる」


 少女が、かすかに笑った。


「私のせいですね」


「違う」


「いいえ。私が最初に祈ったから」


「違う」


 青年は初めて、苦しそうな顔をした。


「お前が祈ったから、世界が見えた」


 少女は泣いた。


「それなら、最後まで一緒に行きます」


 ルシフェルが叫ぶ。


「やめろ!」


 少女は静かに首を横に振った。


「私はもう長くありません。なら、最後の祈りを使います」


「何を祈る」


 タオが問う。


 少女は、青年の手を握った。


「この人が、一人で眠らなくて済みますように」


 桜夜の胸が、痛んだ。


 一人で眠らない。


 眠れない桜夜。


 白い船へ引かれる桜夜。


 サイカの手を頼りに眠る桜夜。


 そのすべてが、遠い過去の祈りと重なった。


 Original Sinは封印された。


 七つに砕かれた負の塊は、世界の底に沈められた。


 はじまりのものは、少女と共に眠りについた。


 世界から消えた。


 その瞬間、ルシフェルの中で何かが壊れた。


◇◇◇


 ルシフェルは、人間を憎んだ。


 祈るだけ祈り、救われなければ呪い、救われればさらに求める人間を。


 神を憎んだ。


 全能であるはずなのに、沈黙した神を。


 世界を憎んだ。


 はじまりのものが消えても、何事もなかったように続く世界を。


 彼は、はじまりのもののいなくなった世界に耐えられなかった。


 だから、作り始めた。


 模造品。


 はじまりのものに似せた器。


 力を持つもの。


 世界へ干渉できるもの。


 祈りを現実へ近づけるもの。


 だが、どれも違った。


 どれも壊れた。


 どれも足りなかった。


 失敗作。


 失敗作。


 失敗作。


 ルシフェルは、それらを平行世界へ廃棄した。


 捨てた。


 また作った。


 また失敗した。


 その繰り返しの果てに。


 病弱な子どもがいた。


 生まれた時から壊れやすく、力に身体が追いつかず、まともに生きることすら難しい子ども。


 ルシフェルは、それを見て失望した。


 病弱な失敗作。


 その子どもは、やがて宮森明人に拾われた。


 夜桜の下で名を与えられた。


 桜夜。


 水希桜夜。


 桜夜は、夢の中で自分を見た。


 幼い自分。


 弱く、熱を出し、息をするだけで苦しそうな自分。


 けれど、その横には明人がいた。


 宮森明人。


 師匠。


 先生。


 育ての親。


 明人は、幼い桜夜の背を撫でていた。


「失敗作だと?」


 明人は、誰にともなく呟いた。


 その声は静かだった。


 だが、怒っていた。


「ふざけるな」


 明人は、幼い桜夜を見る。


「こいつは、こいつだ」


 桜夜の胸が詰まる。


 明人は、何かを継ごうとしていた。


 はじまりのものの想い。


 原初の騎士団の願い。


 切るべきもののみを切る剣。


 未来を守るという誓い。


 だが、明人もまた絶望した。


 世界は変わらない。


 人は憎む。


 救いは届かない。


 はじまりのものは戻らない。


 それでも、明人は桜夜に剣を教えた。


 将棋を教えた。


 釣りをした。


 庭掃除をした。


 焼き魚を焼いた。


 早起き勝負をした。


 勝ち逃げした。


 そして、桜夜へ残した。


「心の目で真実を見極めよ。切るべきもののみを切れ」


 それは、原初の騎士団の言葉であり、明人の言葉であり、桜夜に託された言葉だった。


 タオは、子孫へ願いを残した。


 未来を守れ。


 名を失わせるな。


 人は愚かでも、未来まで愚かと決めつけるな。


 その願いは、長い時を経て四方院家へ残った。


 玄武の盤面にも。


 一の覚悟にも。


 白虎の歪みさえ含めて。


 未来を守るという呪いのような願いとして。


 そして、天上。


 全知全能の神は、ただ黙っていた。


 ルシフェルが壊れても。


 はじまりのものが消えても。


 少女が眠っても。


 人間が祈り、憎み、また祈っても。


 神は黙っていた。


 だが、その沈黙の中で、ひとつだけ動いたことがあった。


 ミカエル。


 ルシフェルの弟。


 彼が、次の天使長に任命された。


 ガブリエルは、それを見ていた。


 サリエルも。


 他の天使たちも。


 ルシフェルは、その知らせを聞いて笑った。


 笑って、泣いて、神を呪った。


「俺の代わりを立てるのか」


 その声は、世界の果てまで響いた。


「なら、俺も作ってやる」


 ルシフェルは言った。


「お前が沈黙するなら、俺が作る。お前が返さないなら、俺が戻す。はじまりのものを。あいつを」


 その果てに、桜夜がいる。


 病弱な失敗作。


 模造品にもなりきれなかったもの。


 しかし、その失敗作は今、白い船から名前を取り戻そうとしている。


 桜夜は、夢の中でルシフェルと向き合った。


 ルシフェルは、原初の森の中に立っていた。


 翼はない。


 天使長の権威もない。


 神に逆らう自由すら捨てた男。


 残っているのは、喪失だけだった。


「見たか」


 ルシフェルが言った。


「お前の始まりだ」


「僕の始まりではありません」


 桜夜は答えた。


「はじまりのものの始まりです」


「強がるな。お前はあいつを写そうとして作られた」


「でも、あの人ではない」


「そうだ。だから失敗作だ」


 桜夜は、その言葉を受け止めた。


 痛い。


 胸の奥が軋む。


 自分の存在の根に刃を入れられたようだった。


 けれど、倒れはしなかった。


「僕は、誰かの代わりにはなれません」


「ああ」


「はじまりのものにも、あずさの願いにも、明人先生の理想にも、誰の代わりにも」


「だから失敗作だと言っている」


「そうかもしれません」


 ルシフェルの目が、わずかに細くなる。


「認めるのか」


「ええ」


 桜夜は静かに言った。


「あなたの目的から見れば、僕は失敗作でしょう」


 ルシフェルは黙った。


「でも、僕は明人先生に名前をもらいました。サイカちゃんに呼ばれます。リオちゃんに叱られます。ホムラちゃんに怒鳴られます。静馬くんにモルモット扱いされます。親友を探しています。あずさを忘れられません」


 桜夜は、自分の胸に手を当てた。


「失敗作でも、それは僕のものです」


「お前は、まだわかっていない」


 ルシフェルの声が低くなる。


「お前が抱えているものは、やがてお前を壊す」


「もう壊れています」


「なら、なぜ動く」


 その問いに、桜夜はすぐには答えられなかった。


 なぜ動くのか。


 世界を救うためではない。


 はじまりのもののように、祈りを現実にするためでもない。


 神の秩序のためでも、世界意思の効率のためでも、ルシフェルの喪失を埋めるためでもない。


 ただ。


「呼ばれるからです」


 桜夜は言った。


「呼ばれたら、帰りたいと思うから」


 ルシフェルの顔が歪んだ。


 怒りか。


 悲しみか。


 憎しみか。


 懐かしさか。


 桜夜にはわからない。


「それが、あいつと違うところだ」


 ルシフェルは呟いた。


「はじまりのものは、呼ばれても帰ってこなかった」


「眠ったからです」


「違う」


 ルシフェルの声が震えた。


「世界を選んだからだ」


 桜夜は何も言えなかった。


 森が白く溶け始める。


 夢が終わろうとしている。


 ルシフェルは最後に言った。


「水希桜夜。お前は失敗作だ」


「はい」


「だが、失敗作のくせに、俺の計算にない動きをする」


「それは」


 桜夜は少しだけ笑った。


「明人先生の教育が悪かったんです」


 ルシフェルは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。


 それから、笑った。


 ひどく苦しそうに。


「本当に、余計なものばかり残されたな」


 白い光が、森を呑んだ。


◇◇◇


「桜夜さん?」


 サイカの声で、桜夜は目を開けた。


 白い船ではない。


 旧礼拝堂でもない。


 原初の森でもない。


 そこは、英国の仮拠点の寝室だった。


 暖炉の火は小さくなっている。


 雨音はまだ続いている。


 サイカは、ベッドの脇で桜夜の手を握っていた。


 その目は、眠っていない。


 ずっと見ていたのだとわかる。


「戻ってきた?」


 サイカが聞いた。


 桜夜は、すぐには答えられなかった。


 はじまりのもの。


 原初の騎士団。


 最初に祈った少女。


 Original Sin。


 封印。


 ルシフェル。


 明人。


 タオ。


 神の沈黙。


 ミカエル。


 そして、病弱な失敗作。


 夢の中で見たものが、胸の奥に重く沈んでいる。


「桜夜さん」


 サイカの手が、少し震えた。


 桜夜は、その手を握り返した。


「……うん」


 ようやく声が出る。


「帰ってきた」


 サイカは、ほっとしたように息を吐いた。


「おかえり」


 その言葉を聞いて、桜夜は思った。


 はじまりのものは、世界から消えた。


 少女と共に眠った。


 ルシフェルは、その喪失に耐えられなかった。


 明人は、想いを継ごうとして絶望し、それでも桜夜に託した。


 タオは子孫へ未来を願った。


 神は黙っていた。


 そして自分は、失敗作らしい。


 病弱で。


 壊れやすく。


 はじまりのものにはなれず。


 誰かの祈りを完全には現実にできない。


 けれど。


「ただいま」


 桜夜は、小さく言った。


 その言葉を言える場所がある。


 それだけは、白い船にも、ルシフェルにも、世界意思にも渡すつもりはなかった。


 サイカは桜夜の手を握ったまま、そっと笑った。


「怖い夢だった?」


「うん」


「話せる?」


「今は少しだけ」


「うん」


 桜夜は天井を見た。


 雨の音がする。


 世界はまだ続いている。


 争いも、祈りも、憎しみも、救いも、全部終わらない。


 それでも、明日はまた学園へ行く。


 日本語の授業をする。


 名前を書く授業をする。


 旧礼拝堂へ戻る。


 壁に残された名を、船から取り返す。


「サイカちゃん」


「なに?」


「僕は、誰かの代わりにはなれないらしい」


「うん」


「失敗作らしい」


 サイカの顔が、きゅっと歪んだ。


「そんなことない」


「ルシフェルから見れば、そうなんだと思う」


「ルシフェルが何を言っても、桜夜さんは桜夜さんだよ」


 まっすぐだった。


 あまりにもまっすぐで、桜夜は少しだけ息を詰まらせた。


「そうかな」


「そうだよ」


「僕は、はじまりのものじゃない」


「うん」


「あずさのためだけの人間でもない」


「うん」


「明人先生の理想そのものでもない」


「うん」


「それでも、ここにいていいのかな」


 サイカは、少し怒ったような顔をした。


「いていいに決まってる」


「そっか」


「うん。いて」


 その一言は、祈りに似ていた。


 世界を変える大きな祈りではない。


 目の前の人に、消えないでほしいという祈り。


 深い森で少女が最初に祈ったものと、少しだけ似ている。


 桜夜は目を閉じた。


 今度は白い船の音はしなかった。


 サイカの手がある。


 戻ってこられる場所がある。


 それなら、眠れる。


 少しだけなら。


 桜夜は、もう一度小さく呟いた。


「ただいま」


 サイカは、同じように小さく返した。


「おかえり」


 外では、雨が降り続いている。


 世界はまだ変わらない。


 それでも、名前を返す夜は終わっていない。


 原初の騎士団の夢も、白い船の事件も、ルシフェルの喪失も、桜夜の問いも、すべて途中だ。


 だが、今だけは。


 失敗作と呼ばれた少年が、誰かの手の中で眠ることを許されていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ