第25話 名前を返す夜
地下礼拝堂の壁には、名前が並んでいた。
白い紙。
震えた筆跡。
丁寧すぎる文字。
泣きながら書いたように滲んだインク。
その一枚一枚に、誰かの願いがあった。
忘れてほしい。
許してほしい。
苦しみから逃げたい。
あの子の中から、自分を消してほしい。
救われたい。
そのすべてが、白い船へ続く細い糸になっていた。
桜夜は、桜吹雪を握り直した。
足元はふらついている。
頭の奥はまだ痛む。
ガブリエル。
ルシフェル。
世界意思。
三つの取引の声が、まだ耳の奥に残っていた。
あずさの記憶を守る。
あずさの記憶を集める。
あずさの記憶を復元する。
どれも、桜夜が欲しくてたまらないものだった。
欲しいから、受け取れない。
それは矛盾している。
世界意思なら、そう判断するだろう。
だが、人間は矛盾する。
あずさも矛盾していた。
忘れてと言った。
忘れないでとも言った。
待たないでと言った。
見つけてとも言った。
だから、桜夜はその矛盾ごと抱えている。
白い船のように、きれいに消して眠らせることはできない。
「桜夜さん」
サイカの声が、すぐ横から聞こえる。
「顔色、悪いよ」
「うん。悪いと思う」
「そこは否定してほしかった」
「嘘をつく元気がない」
サイカは泣きそうな顔をした。
桜夜はその表情を見て、少しだけ笑った。
「でも、戻ってる」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと見てる」
「ありがとう」
リオは壁の名前を端末で記録していた。
「桜夜様。確認できる紙片は三十七枚。そのうち、船への接続が強いものが十二枚。エレノア・グレイの名は切断済みです」
「十二枚」
ホムラが顔をしかめる。
「全部やるんだろ」
「やる」
通信端末から静馬の声が飛ぶ。
「順番を決めろ。無差別に切るな。桜夜の負荷を減らすために、接続の強いものから処理する。リオ君、補助を」
「承知しました」
リオはすぐに紙片を分類し、接続の強いものへ印をつけていく。
ホムラは桜夜の前へ立った。
「霧が動いたらオレが焼く」
「名前は焼かないでね」
「わかってる」
ホムラは不満そうに言った。
「名前じゃなくて、名前を食おうとしてる方を焼く」
「頼もしい」
「お前はふらふらすんな」
「努力する」
「努力じゃ足りねえ」
ホムラは振り返らずに言った。
「倒れそうになったら、ぶん殴ってでも止める」
「うん」
桜夜は一歩、壁へ近づいた。
最初の名前。
エリザ・ハート。
紙の下には、短い願い。
彼女が、私を笑ったことを忘れますように。
幼い。
けれど、痛い。
誰かに笑われた傷。
誰かを笑った後悔。
白い船は、それすら拾い上げている。
「救いじゃない」
桜夜は低く言った。
桜吹雪を抜く。
刃は紙を斬らない。
紙から祭壇へ伸びる、白い糸だけを見極める。
心の目で真実を見極めよ。
切るべきもののみを切れ。
「はい、明人先生」
桜夜は呼吸を整えた。
一閃。
白い糸が切れる。
紙が、ただの紙へ戻る。
霧が小さく悲鳴のように震えた。
サイカが息を詰める。
ホムラの炎が揺れる。
リオが記録する。
「一つ、切断確認」
静馬の声。
「桜夜、状態」
「まだいける」
「具体的に」
「頭痛は増えた。吐き気は変わらない。眠気はない。白い船の視認なし」
「続行。ただし三枚ごとに休め」
「はい」
桜夜は次の名前を見る。
メイベル・ウィンター。
そこには、エレノアの名を書いた少女の名があった。
桜夜は少しだけ目を細めた。
エレノアに忘れてほしいと願った少女。
だが、その彼女自身の名も、ここに置かれている。
紙の下には、こう書かれていた。
私が、私を忘れられますように。
サイカが小さく声を漏らした。
「そんなの」
「うん」
桜夜は頷く。
「そんなの、だめだ」
自分を忘れたい。
自分の名を消したい。
それは、親友が落ちた場所に近い。
鷹司でもない。
父から与えられた名でもない。
親友という役割でもない。
名を捨て、名もなき者になろうとした人。
白い船は、そういう隙へ入ってくる。
桜夜は刃を構えた。
その瞬間、耳の奥で声がした。
お前もそうだろう。
野良犬。
名を与えられた模造品。
病弱な失敗作。
ルシフェルの声。
桜夜の手が、一瞬だけ止まった。
「桜夜さん!」
サイカが呼ぶ。
その声で、止まった手が戻る。
桜夜は奥歯を噛んだ。
「戻ってる」
「今、行きかけた」
「うん」
「だめだよ」
「うん」
桜夜は、紙から伸びる白い糸を見た。
「失敗作かどうかは、あとで聞く」
誰にともなく呟く。
「今は、名前を返す」
刃が走った。
白い糸が切れる。
メイベル・ウィンターの名が、壁に残る。
自分を忘れたいという願いは、船へ届かない。
ホムラが低く言った。
「いいぞ」
リオが続ける。
「二つ目、切断確認」
静馬が端末越しに言う。
「桜夜。休め」
「まだ二枚」
「三枚ごとと言ったが、今の反応は危険だ。休め」
桜夜は反論しようとした。
だが、サイカが先に彼の手を握った。
「休んで」
桜夜は、何も言えなくなった。
「……はい」
地下礼拝堂の石床に腰を下ろす。
サイカが隣にしゃがむ。
ホムラは前に立ち、霧を睨む。
リオは桜夜の呼吸を見ながら、次の紙片を確認する。
静馬は端末の向こうで黙っていた。
たった二枚。
それだけで、桜夜の身体は重くなっている。
白い船との接続を切るという行為は、ただ霊的な糸を斬るだけではない。
そこに込められた苦痛と後悔を、一瞬だけ見ることでもあった。
笑われた痛み。
自分を消したい願い。
忘れられたい罪悪感。
それらが刃を通じて、桜夜の内側へ触れる。
白い船は、それを眠らせる。
桜夜は、眠らせない。
だから痛い。
「桜夜さん」
サイカが小声で言う。
「痛い?」
「少し」
「ほんとは?」
「かなり」
「そういうときは、かなりって最初から言って」
「ごめん」
サイカは桜夜の手を両手で包んだ。
「名前を返すの、桜夜さん一人でしなくていいよ」
「でも、切れるのは僕だけだ」
「うん。でも、戻すのは一人じゃないよ」
その言葉に、桜夜は少しだけ目を伏せた。
戻すのは一人じゃない。
名もなき騎士団は、二人で始まった。
けれど今は、増えてしまった。
サイカがいる。
リオがいる。
ホムラがいる。
静馬がいる。
小春と日和も、日本で耳を澄ましているかもしれない。
玄武は勝手に盤面を動かしている。
一は、弟を守ると言うだろう。
そして、まだ生まれていない子の縁も、どこかで静かに結ばれ始めている。
白い船が嫌うもの。
縁。
なら、この痛みは一人で持つ必要がない。
「ありがとう」
桜夜は言った。
「もう少しだけ、手を握っていて」
「うん」
◇◇◇
天使たちの住まう世界で、ガブリエルは桜夜たちを見ていた。
正確には、地下礼拝堂そのものではなく、そこへ伸びる名と縁の流れを見ていた。
白い船は、穴だ。
救済を名乗る空白。
だが、穴である以上、塞ぐこともできる。
消すこともできる。
全知全能の神ならば。
コスモスの異物排除。
ホメオスタシスのバランス調整。
オメガの完全消去。
ルシフェルが求める、はじまりのものとの再会。
水希桜夜が求める、如月あずさとの再会。
それらすべてを、最も正しく、最も痛み少なく、最も完全に叶えられる存在がいる。
ガブリエルは、それを知っている。
全知全能の神。
彼女たちが仕える神。
人間たちが、時に信じ、時に恨み、時に忘れ、時に最後の最後で呼ぶ存在。
神ならできる。
だが、神は今も静かに見ている。
自由意志に任せている。
人間にも。
天使にも。
悪魔にも。
世界そのものにも。
白い船すらも、ただちに消しはしない。
「……何を考えておられるのかしら」
ガブリエルは、小さく呟いた。
その声には、先ほどまでのヒステリックな響きはなかった。
苛立ちはある。
不満もある。
だが、それ以上に、わからなさがあった。
神の御心は深い。
そう言えば、説明したことになる。
だが、それで納得できるなら、天使に自由意志などいらない。
ガブリエルは、かつて人間たちが作った二つの言葉を思い出していた。
一つは、砂浜に残された足跡の詩。
人が人生を振り返り、苦しい時ほど一人分の足跡しかなかったと嘆く。
しかし、それは見捨てられたからではなく、抱えられていたからだと知る詩。
もう一つは、病者の祈り。
求めた強さや成功や健康が、そのまま与えられなかった代わりに、弱さの中で得るもの、苦しみの中で見えるもの、欠けたまま受け取る恵みを語る祈り。
人間は、時々、天使より神に近い言葉を作る。
だから厄介だ。
だから、愛おしいのだとミカエルなら言うかもしれない。
サリエルなら、死を知る者ほど祈りを知る、と静かに言うかもしれない。
ルシフェルなら、そんなものは後付けの慰めだと笑うだろう。
しかし、そのルシフェルもまた、はじまりのものを失った世界に耐えられず、模造品を作り続けた。
神から与えられた権威も、神に逆らう自由も捨てたくせに。
神の不在に、誰より耐えられなかった。
「本当に、面倒な連中ばかり」
ガブリエルは腕を組んだ。
白い船。
ルシフェル。
世界意思。
玄武。
桜夜。
どれも面倒だ。
そして、おそらく神は、そのすべてを見ている。
ただ見ているだけではない。
足跡のない場所で、誰かを抱えているのかもしれない。
望んだものを与えないことで、必要なものを残しているのかもしれない。
だが、それがわかるのは、ずっと後だ。
人間には遅すぎることもある。
桜夜のような者には、特に。
「せめて、今は落とさないでよ」
ガブリエルは、地下礼拝堂へ伸びる光を見た。
水希桜夜の縁は、多い。
多すぎるほど多い。
あずさ。
サイカ。
リオ。
ホムラ。
静馬。
明人。
親友。
一。
玄武。
まだ生まれていない子。
そして、名もなき騎士団。
その多さが、彼を苦しめている。
同時に、白い船から引き戻している。
「主よ、あなた様は、本当にそれでいいと思っておられるのですか?」
ガブリエルは、見えない神へ向けて呟いた。
返事はない。
いつものことだった。
それでも、彼女は働く。
ミカエルに言われたからだけではない。
桜夜が、まだ座らずに立っているからだ。
◇◇◇
地下礼拝堂では、三枚目の名前が切り離された。
その瞬間、白い霧が膨れ上がった。
ホムラが前へ出る。
「来るぞ!」
霧の中から、腕のようなものが伸びた。
白い。
細い。
だが、指先は異様に長い。
名前の紙を剥がそうとするように、壁へ伸びる。
ホムラの炎が走った。
「触んな!」
炎は白い腕を焼いた。
腕は悲鳴を上げない。
ただ、ほどけるように霧へ戻る。
リオが水を展開する。
水の幕が、壁の名前を守るように広がった。
「霧の濃度、上昇。祭壇の反応が強まっています」
静馬の声が端末から響く。
「桜夜、限界が近い。あと何枚だ」
「強接続は九枚」
「全部は無理だ」
「でも」
「全部は無理だ」
静馬の声が低くなる。
「今の君が倒れれば、十三番目の椅子へ引かれる。君一人の問題じゃない」
桜夜は黙った。
その言葉は正しい。
正しすぎて、腹が立つ。
ホムラが言った。
「じゃあ、核を壊すか?」
リオが首を横に振る。
「祭壇を破壊した場合、接続中の名前が一斉に流れる危険があります」
「面倒だな!」
「はい。非常に」
サイカが、壁の名前を見つめていた。
「全部、今じゃなくてもいい?」
桜夜が振り返る。
「サイカちゃん?」
「今すぐ船に行きそうな名前だけ、先に切る。あとの名前は、船に渡らないように一時的に止めることはできないかな」
リオが目を細めた。
「封印ですか」
「うん。桜夜さんが全部切るんじゃなくて、リオちゃんとホムラちゃんと、わたしで止める」
ホムラがにやりと笑った。
「いいじゃねえか」
リオも頷く。
「水で壁面を保護し、ホムラちゃんの炎で霧の侵食を防ぐ。サイカちゃんの雷で祭壇の反応を乱す。完全な解除ではありませんが、時間稼ぎにはなるかもしれません」
静馬が通信越しに言った。
「現実的だ。桜夜、強接続の中から緊急性の高いものだけ切れ。残りは封印して撤退」
「……わかった」
桜夜は頷いた。
一人で全部やる。
それは、いつもの悪い癖だ。
戻すのは一人じゃない。
サイカの言葉が、今さら胸に染みる。
「リオちゃん、優先順位を」
「はい。紙の溶解が進んでいるものを三枚。エレノアさんは処置済み。次はメイベルさん、キャロライン・リードさん、ルーシー・アダムスさんです」
「わかった」
桜夜は立ち上がる。
サイカが支える。
「桜夜さん」
「うん」
「これで終わりじゃないよ」
「わかってる」
「今日は、帰るところまでが任務」
「うん」
桜夜は桜吹雪を構えた。
四枚目。
五枚目。
六枚目。
名前から祭壇へ伸びる白い糸だけを切る。
そのたびに、願いの欠片が胸を刺す。
ごめんなさい。
忘れて。
私を見ないで。
あの子を返して。
救って。
消して。
人の願いは、きれいではない。
けれど、だからこそ人のものだった。
桜夜は、それを船へ渡さない。
六枚目を切った瞬間、膝が落ちた。
「桜夜さん!」
サイカが支える。
ホムラの炎が、白い霧を押し返す。
リオの水が壁を覆う。
サイカは桜夜を支えたまま、片手を祭壇へ向けた。
「いかずちよ」
小さな雷が、白い船の石盤に走る。
破壊ではない。
攪乱。
祭壇の刻印が一瞬だけ乱れた。
ホムラが叫ぶ。
「今だ、リオねえ!」
「はい」
リオの水が壁の紙片を薄く包み込む。
水は青白く輝き、紙を霧から隔てる膜になった。
ホムラの炎が、その外側を囲う。
炎と水。
本来なら相反する力が、リオの制御によって薄い結界を作る。
サイカの雷が、その中心を縫う。
壁の名前たちが、白い船から一時的に隔離された。
静馬が端末越しに言う。
「封印反応確認。撤退しろ」
桜夜は息を整えた。
「まだ祭壇が」
「撤退」
「でも」
「桜夜さん」
サイカの声が、近かった。
「帰ろう」
その一言で、桜夜は止まった。
帰ろう。
それは、白い船が最も嫌う言葉だ。
「……うん」
桜夜は桜吹雪を鞘に戻した。
「撤退する」
ホムラが笑った。
「よし」
リオが結界の維持状態を確認する。
「持続時間は不明ですが、一晩程度は持たせます。明日、再調査が必要です」
「十分だ」
静馬が言った。
「今は戻れ」
桜夜たちは、地下礼拝堂を後にした。
背後で、白い船の石盤が軋む。
怒っているように。
泣いているように。
あるいは、次の名を待っているように。
桜夜は振り返らなかった。
今は帰る。
帰って、また来る。
白い船に奪われる前に、何度でも。
◇◇◇
地上の礼拝堂へ戻ると、夜の空気は冷たかった。
桜夜は扉を出た瞬間、膝から崩れかけた。
サイカが支える。
ホムラも慌てて腕を掴む。
「おい、大丈夫か!」
「大丈夫じゃない」
「正直だな!」
「嘘をつく元気がない」
リオがすぐに脈を確認する。
「静馬様、桜夜様の脈拍が上がっています。意識はありますが、かなり消耗しています」
「すぐに拠点へ戻せ。水分、糖分、体温維持。睡眠は監視下でのみ許可する」
「承知しました」
サイカが桜夜の顔を覗き込む。
「桜夜さん」
「うん」
「帰ってきたよ」
桜夜は、少しだけ目を閉じた。
白い船は見えない。
十三番目の椅子も見えない。
見えるのは、夜の校庭。
濡れた石畳。
サイカの顔。
ホムラの怒った顔。
リオの心配そうな目。
端末越しに響く静馬の不機嫌な声。
帰ってきた。
完全ではない。
すべてを救えたわけでもない。
祭壇も残っている。
名前もまだ壁にある。
だが、エレノアの名は船へ渡らなかった。
メイベルも、キャロラインも、ルーシーも。
今夜だけは。
「ただいま」
桜夜は小さく言った。
サイカの目が潤んだ。
「おかえり」
その声は、地下のどんな祈りよりも、桜夜を現実へ繋いだ。
ホムラが顔を背ける。
「ほら、帰るぞ。珍獣教師」
「ひどいなあ」
「明日も授業あるんだろ」
「あるね」
「なら寝ろ」
「はい」
リオが静かに笑った。
「桜夜様。明日の授業内容は、予定を変更しましょう」
「何に?」
「名前について」
桜夜は少しだけ目を開けた。
「名前?」
「はい。日本語で名前を書く授業です。自分の名前を、自分の手で書く。誰かに奪われるものではなく、自分で持つものとして」
サイカが頷いた。
「いいと思う」
ホムラも言った。
「ついでに、名前を勝手に書くなって言っとけ」
「授業としては少し直接的だね」
「いいだろ。大事なんだから」
桜夜は、少しだけ笑った。
「そうだね」
白い船は、名前を奪う。
なら、こちらは名前を返す。
まずは授業からでもいい。
珍獣教師らしい、奇妙な戦い方だ。
桜夜は、旧礼拝堂を振り返らないまま歩き出した。
ただ、胸の奥にはまだ残っている。
ルシフェルの声。
病弱な失敗作。
お前が、お前になる前から。
その言葉は、白い船よりも冷たく桜夜の内側に沈んでいた。
けれど、今夜は問わない。
今夜は帰る。
明日、名前を書く授業をするために。
そして、また旧礼拝堂へ戻ってくるために。
名もなき騎士団の帰還任務は、まだ終わらない。




