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第24話 旧礼拝堂の祭壇

 夜の聖マリアンナ女子大学付属高等学校は、昼間とはまるで別の顔をしていた。


 女学生たちの声が響いていた煉瓦の校舎も、今は静まり返っている。


 窓の向こうに灯る非常灯。


 濡れた石畳。


 曇り空の隙間から落ちる、薄い月明かり。


 そのすべてが、どこか眠りの中の風景に似ていた。


 桜夜は、校舎の影から旧礼拝堂を見ていた。


 尖塔は黒く沈み、封鎖された扉には古い鉄鎖が掛けられている。


 王室側の調査員が入って倒れたという場所。


 悪魔憑きの噂が広まっている場所。


 名前を書く儀式が行われたという場所。


 そして、白い船が名を集める核があるかもしれない場所。


「桜夜さん」


 サイカが隣で小さく呼んだ。


「大丈夫?」


「うん」


「無理してない?」


「してる」


「そこは隠さないんだ」


「隠すと怒られるから」


 サイカは少しだけ唇を尖らせた。


「怒るよ」


「知ってる」


 桜夜は淡く笑った。


 その笑いは、いつもより少し薄い。


 如月あずさの魂。


 四方院一とその妻の子として転生する可能性。


 記憶は持たない。


 縁は結ぶが、強制はしない。


 真実を告げる時は、時が決める。


 ガブリエルの言葉は、まだ桜夜の中に残っている。


 胸の奥に置かれたまま、触れると痛む。


 だが、今は旧礼拝堂だ。


 エレノアの名を守る。


 名前を書いた少女を守る。


 学園の少女たちを守る。


 白い船に、次の名を渡さない。


「桜夜様」


 リオが、携帯端末を片手に近づく。


「王室側の警備は校門の外で待機。校内の監視カメラは、現在こちらで制御しています。旧礼拝堂周辺の熱源反応はありません」


「ありがとう」


「ただし、地下部は不明です。構造図が改竄されています」


「改竄?」


「はい。王室側から提供された図面と、学校側に残っていた古い図面が一致しません。地下礼拝室の奥に、図面上存在しない空間がある可能性があります」


 ホムラが肩を回した。


「つまり、そこが怪しいってことだな」


「単純化すればそうです」


「なら行こうぜ」


 ホムラの指先には、まだ炎は灯っていない。


 だが、彼女の体温が少し上がっているのがわかる。


 戦う準備はできている。


 通信端末の向こうで、静馬の声が響いた。


「再確認する。滞在時間は最大三十分。桜夜に意識混濁、過度の眠気、名前への異常反応、白い船の視認が発生した場合、即時撤退。異論は認めない」


「医者が厳しい」


「君が信用ならないからだ」


「友人としては?」


「友人としても信用ならない」


「つらい」


「つらくても従え」


 サイカが真面目に頷いた。


「わたしが見てるね」


「頼みます」


「はい」


 桜夜は苦笑した。


「主治医とサイカちゃんが組むと、僕に勝ち目がない」


「勝たなくていい」


 ホムラが言った。


「今日は戻るのが勝ちだろ」


 その言葉に、桜夜は少しだけ目を細めた。


「そうだね」


 帰る。


 戻る。


 それが、今の任務の中心にある。


 名もなき騎士団、帰還任務。


 子どもじみた名前の任務は、英国の旧礼拝堂まで広がっていた。


◇◇◇


 旧礼拝堂の扉は、リオが用意した鍵で開いた。


 鉄鎖が外れる音が、夜の校庭に鈍く響く。


 扉を押し開けると、内側から冷たい空気が流れ出した。


 湿った石の匂い。


 古い木材の匂い。


 それに混じって、わずかに甘い香りがある。


 花の香りだった。


 だが、桜ではない。


 白い花びらの匂い。


 桜夜は眉を寄せる。


「既に濃いね」


「何が?」


 サイカが聞く。


「白い船の気配」


 サイカの手が、すぐに桜夜の袖を掴んだ。


「行ける?」


「行く」


「無理なら止めるよ」


「うん」


 桜夜は一歩、礼拝堂の中へ入った。


 古い長椅子が左右に並んでいる。


 正面には祭壇。


 壁には十字架。


 ステンドグラスは黒く沈み、月明かりをほとんど通さない。


 かつて祈りの場所だった空間。


 今は、誰かが忘れたいものを置きに来る場所になっている。


 リオが低く言った。


「埃の積もり方が不自然です。最近、人が入っています」


「足跡は?」


「複数あります。大人と、生徒と思われる小柄なもの」


 ホムラが床を見た。


「こっちだ」


 彼女は祭壇の右脇へ向かう。


 そこには、古い木製の扉があった。


 南京錠は壊されている。


「誰かが先に入ったな」


「エレノアか、名前を書いた子か、あるいは別の誰か」


 桜夜は扉の前に立つ。


 その瞬間、耳の奥で船が軋んだ。


 ぎい、と。


 木の船が、水の上で身をよじる音。


「桜夜さん」


 サイカが呼ぶ。


「戻ってる」


「ほんと?」


「うん」


 桜夜は扉を開けた。


 地下へ続く石段が現れる。


 下から、白い霧が薄く這い上がってきていた。


 ホムラが舌打ちする。


「露骨だな」


「誘っているのでしょう」


 リオが言った。


「行きましょう。ただし、隊列を崩さずに」


 先頭はホムラ。


 次に桜夜とサイカ。


 その後ろにリオ。


 通信端末からは静馬の声が絶えず届く。


 階段を下りるたびに、空気が冷たくなった。


 白い霧が足元に絡む。


 その霧の中に、時折、文字のようなものが浮かぶ。


 忘れたい。


 眠りたい。


 許されたい。


 名前を消して。


 サイカが小さく息を呑んだ。


「これ、声じゃなくて」


「願いの残りですね」


 リオが答える。


「ここへ来た人たちの」


「救いを求めた人たちか」


 ホムラの声が低くなる。


「胸くそ悪い」


 桜夜は何も言わなかった。


 胸くそ悪い。


 その言葉で足りるような気もした。


◇◇◇


 地下礼拝堂は、地上の礼拝堂より狭かった。


 だが、圧迫感は強い。


 壁一面に、古い名前が刻まれている。


 英語。


 ラテン語。


 誰かの名前。


 祈りの言葉。


 懺悔。


 その中に、比較的新しい紙片が無数に貼られていた。


 白い紙。


 名前が書かれた紙。


 リオがライトを向ける。


「生徒の名前です」


 サイカが顔を強張らせる。


「こんなに」


「書かれた側と、書いた側を特定する必要がありますね」


 ホムラは壁の紙を睨んだ。


「全部燃やすか?」


「待って」


 桜夜が止める。


「ここまで儀式化しているなら、ただ燃やすと名前ごと船へ送る可能性がある」


「面倒くせえな」


「うん」


 地下礼拝堂の奥。


 そこに、もう一つの祭壇があった。


 地上の祭壇とは違う。


 十字架はない。


 代わりに、白い皿のような石盤が置かれている。


 石盤の中央には、浅い溝があった。


 その溝は、船の形をしていた。


 小さな白い船。


 その周りに、十三の椅子のような刻印。


 十二は輪の内側。


 一つだけ、輪の外。


 桜夜は、その刻印を見た瞬間、足が止まった。


 十三番目の椅子。


 自分を待っている席。


 石盤の縁には、古い文字が刻まれている。


 リオが読み取ろうとして眉を寄せた。


「これは、英語ではありません。ラテン語でもない」


「古い祈祷文字だね」


 桜夜は言った。


「読めるのか?」


 ホムラが聞く。


「少しだけ」


 桜夜は石盤へ近づく。


 サイカがすぐに腕を掴んだ。


「触らないでね」


「うん。触らない」


「ほんと?」


「本当」


 桜夜は、石盤の文字を目で追った。


 名を置け。


 痛みを置け。


 後悔を置け。


 眠りの船は、すべてを運ぶ。


 名を失えば、傷も失う。


 呼ぶ者がいなければ、帰らずに済む。


 桜夜の喉が、少しだけ乾いた。


 白い船の思想。


 救いに見せかけた消去。


 名前を奪い、縁を断ち、眠らせる。


 これが旧礼拝堂の核。


 名前を書く祭壇。


 リオが記録を取りながら言った。


「紙片を石盤に置くと、名前が船へ渡る仕組みでしょうか」


「おそらく」


「解除方法は?」


「調べる」


 桜夜は石盤へ視線を落とした。


 輪の外にある十三番目の椅子。


 そこだけ、刻印が妙に新しい。


 まるで、後から刻まれたように。


 桜夜は触れないよう、指先を浮かせたまま縁をなぞろうとした。


 その時だった。


 石盤の上に、白い花びらが一枚落ちた。


 どこからともなく。


 ゆっくりと。


 桜夜は反射的にそれを払おうとした。


「桜夜さん!」


 サイカの声が飛ぶ。


 しかし、遅かった。


 桜夜の指先が、花びら越しに石盤へ触れた。


 瞬間。


 地下礼拝堂の音が消えた。


◇◇◇


 白い。


 どこまでも白い。


 だが、船の上ではなかった。


 水もない。


 岸もない。


 椅子も見えない。


 そこは、何もない広い空間だった。


 桜夜は立っていた。


 手には桜吹雪がない。


 サイカの手もない。


 リオの声も、ホムラの炎も、静馬の通信も届かない。


 孤独。


 そう認識した瞬間、桜夜は奥歯を噛んだ。


「やられた」


「いいえ」


 声がした。


 金色の光が、白い空間に降る。


 ガブリエルだった。


 先ほどと同じ姿。


 ただし、ここでは怒鳴っていない。


 その顔は、少しだけ真剣だった。


「これは、取引の場よ」


「取引?」


「ええ」


 ガブリエルは桜夜を見る。


「白い船があなたを引き込もうとした。そこに、私たちが割り込んだ」


「私たち?」


「順番に来るわ」


 桜夜は眉を寄せた。


「嫌な予感がします」


「正しいわ」


 ガブリエルは、白い空間に手をかざした。


 そこに、一つの光景が浮かぶ。


 病室。


 白いカーテン。


 ベッドの上の少女。


 如月あずさ。


 桜夜の呼吸が止まりかける。


「やめてください」


「見なさい」


「やめてください」


「桜夜」


 ガブリエルの声が、珍しく静かだった。


「これは誘惑よ。あなたが何に弱いか、敵も味方も知っている。だから先に見せる」


「それが天使のやり方ですか」


「残酷でしょう?」


「ええ」


「でも必要よ」


 病室の中のあずさは、微笑んでいた。


 過去の記憶。


 あるいは、再現。


 ガブリエルは言う。


「私なら、あずさの記憶を守れる。玄武が用意した転生に、干渉はできない。でも、その魂が再び地上へ降りる時、失われないように記憶の種を保管することはできる」


 桜夜は、ゆっくりガブリエルを見た。


「記憶を、戻せると?」


「完全ではない。けれど、夢として、直感として、懐かしさとして、少しずつ戻す道を作れる」


「代償は」


「あなたが天上側の騎士として、白い船の排除に協力すること」


「今も協力しているようなものでは?」


「もっと明確に。神の秩序の側へ立つと誓いなさい」


 桜夜は、病室のあずさを見た。


 忘れないで。


 待っていて。


 見つけて。


 声が蘇る。


 喉の奥が痛む。


「神の秩序の側へ立てば、あずさの記憶を戻す手伝いをする」


「ええ」


「その子の意思は?」


 ガブリエルは黙った。


「記憶を戻された子が、それを望まなかったら?」


「その時は」


「その時は?」


 桜夜の声は静かだった。


 だが、その静けさの中に刃があった。


「神の秩序にとって都合よく、彼女の混乱を処理しますか?」


 ガブリエルは眉を寄せた。


「意地が悪いわね」


「あなたほどでは」


「私は本気で、あなたを助けるつもりよ」


「わかっています」


「なら」


「だから怖いんです」


 桜夜は病室のあずさを見た。


「善意は、時々いちばん逃げ道を塞ぐ」


 ガブリエルは言葉を失った。


「僕は保留します」


「拒否ではなく?」


「拒否ではありません。でも、今ここでは誓いません」


「頑固ね」


「よく言われます」


 ガブリエルは大きくため息を吐いた。


「いいわ。次が来る」


 金色の光が薄れていく。


 最後に、ガブリエルは小さく言った。


「桜夜。あの子の人生を、あなたの後悔だけで決めないで」


「わかっています」


「本当に?」


「わかろうとしています」


 ガブリエルは、それ以上何も言わなかった。


 光が消える。


 代わりに、白い空間の奥に、柔らかな光が満ちた。


 天国を思わせる光。


 しかし桜夜は、その光を見て警戒を強めた。


「久しぶりだな、桜夜」


 玉座のような影の上に、美しい青年がいた。


 クリーム色の髪。


 白い肌。


 エメラルドグリーンの瞳。


 天使のような姿。


 だが、その名は天使ではない。


「ルシフェル」


 桜夜は言った。


 青年は楽しげに笑う。


「悪魔としての名なら、サタンと呼んでもいい」


「どちらでも面倒です」


「相変わらずだ」


 ルシフェルは、手に持っていたリンゴをかじった。


 白い空間に、果実を噛む音がやけに鮮明に響く。


「ガブリエルは相変わらず不器用だな。記憶の種? 秩序への誓い? まるで役所の申請書だ」


「あなたなら違うと?」


「当然だ」


 ルシフェルは指を鳴らした。


 白い空間が、一瞬で変わる。


 伊豆の海。


 夕暮れ。


 隣に座るあずさ。


 風で揺れる髪。


 桜夜の胸が、強く軋んだ。


「やめろ」


「嫌か?」


「やめろ」


「嫌なら、なぜ見ている」


 ルシフェルは笑った。


「お前は見たい。聞きたい。触れたい。あの子が、お前を見て、お前の名を呼ぶ瞬間を、もう一度欲しがっている」


 桜夜は拳を握った。


「欲しいですよ」


 その声は、低かった。


「欲しくないわけがない」


「なら、取引しよう」


 ルシフェルは楽しそうに身を乗り出した。


「俺なら、記憶を戻すだけでは済ませない。あずさを、あずさとして戻す道を探せる」


「嘘ですね」


「可能性の話だ」


「嘘ではないが真実でもない、という顔をしている」


「聡いな」


 ルシフェルは笑った。


「魂、記憶、器。この三つがあれば、死者は戻せる。お前も知っているだろう」


 桜夜は黙った。


 かつて、玄武に問うたことがある。


 死者蘇生の禁術を教えてほしいと。


 依り代にする肉体。


 記憶データ。


 魂。


 三つがあれば、死者を蘇らせることも転生させることもできる。


 だが、それは本当に本人なのか。


 桜夜はその問いから逃げられず、術式を追うのをやめた。


「お前が諦めた道を、俺は諦めていない」


 ルシフェルは言った。


「如月あずさの魂は地上へ戻る。記憶は失われる。だが、記憶は世界に残る。お前の中にも、彼女の魂にも、彼女が触れた場所にも。集めればいい」


「代償は」


「神殺し」


 即答だった。


「白い船の向こうに、世界意思へ通じる裂け目がある。俺はそこを開きたい。お前の桜吹雪が必要だ」


「世界意思を殺すつもりですか」


「殺すとは限らない。話し合うかもしれない」


「あなたが?」


「俺は平和主義だ」


「初耳です」


「今言ったからな」


 桜夜は冷たく見た。


 ルシフェルは肩をすくめる。


「桜夜。世界意思はお前を便利な修復材として見ている。白い船もまた、お前を椅子として見ている。天使はお前を騎士にしたがる。俺だけだぞ、お前をお前の欲望ごと認めてやるのは」


「魅力的な言い方ですね」


「だろう?」


「だから信用できない」


 ルシフェルは愉快そうに笑った。


「それでいい。信用しなくていい。取引とは信用ではなく、条件だ」


 伊豆の海のあずさが、桜夜を見る。


 声はない。


 それでも、唇が動いた気がした。


 桜夜。


 桜夜の膝が、少しだけ揺れた。


「欲しいだろう」


 ルシフェルが囁く。


「彼女が、お前を覚えている未来が。お前を見て、忘れていないと言う未来が」


「欲しい」


 桜夜は言った。


「でも」


 彼は顔を上げる。


「欲しいものを差し出されて、すぐ手を伸ばすほど若くない」


「つまらん」


「先生に鍛えられましたので」


「宮森明人か」


 ルシフェルは少しだけ目を細めた。


「あの男は、お前に余計なものを残したな」


「ええ」


 桜夜の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。


「勝ち逃げしましたから」


「死者はずるいな」


「本当に」


 ルシフェルは、その笑みを見て、なぜか少しだけ懐かしそうな顔をした。


 それは、悪魔の顔ではなかった。


 天使の顔でもない。


 もっと古い、どこか壊れたものを見ているような顔だった。


「しかし、よくここまで残ったな」


「何の話ですか」


「お前の話だ」


 ルシフェルは笑う。


 それは、懐かしむようで、失望するようでもあった。


「病弱な失敗作にしては、上出来だ」


 桜夜の目が、わずかに冷えた。


「……今、何と言いました」


「聞こえなかったか?」


「聞こえました。だから聞いています」


「なら、今は忘れておけ。取引の途中だ」


「忘れろと言われて忘れる性格なら、苦労していません」


「知っている。だから面白い」


 ルシフェルは、手の中のリンゴを弄ぶ。


「お前は昔からそうだ。壊れやすいくせに、壊れたまま動く」


「昔から?」


「いずれ話してやる。お前が、自分を野良犬だと思い込んでいる理由ごとな」


 桜夜の指先が、冷える。


 野良犬。


 自分が自分に貼り続けてきた言葉。


 それを、ルシフェルはあまりにも自然に踏み抜いた。


「僕を知っているんですね」


「知っているとも」


「いつから」


「お前が、お前になる前から」


 白い空間が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 桜夜は、喉の奥に硬いものが落ちるのを感じた。


「それは」


「今は取引の話だ」


「逃げるんですか」


「楽しみは後に取っておく主義でな」


 ルシフェルは、また笑った。


 だが、その笑みは先ほどまでよりも薄かった。


「保留します」


 桜夜は言った。


「ガブリエルにもそう言った」


「また保留か」


「拒否しないだけありがたいと思ってください」


「強欲なくせに、慎重だ」


「臆病なんです」


「臆病な者は神殺しを握らない」


「握ってしまったんですよ」


 ルシフェルは、リンゴの芯を白い床へ放った。


 それは落ちる前に光になって消える。


「いいだろう。保留にしておく。だが覚えておけ、桜夜」


「何を」


「ガブリエルは記憶を守る。俺は記憶を集める。だが次に来るものは、記憶を必要としない」


「世界意思ですか」


「そうだ」


 ルシフェルは、笑みを消した。


「気をつけろ。あれは、お前の幸福に興味がない」


 光が消える。


 海も、あずさも消える。


 白い空間に、何かが降りてきた。


 音はない。


 光もない。


 ただ、圧倒的な無機質さがあった。


 人の形をしていない。


 神の威光でも、悪魔の誘惑でもない。


 ただ、そこに世界の仕組みがある。


 桜夜は、直感した。


 世界意思。


 声は、耳ではなく思考に直接響いた。


『水希桜夜』


 桜夜は、立ったまま答える。


「はい」


『個体識別。黒の騎士。神殺し保有者。複数系統の縁により帰還率が高い。十三番目の椅子との適合率、上昇中』


「人を椅子扱いするのはやめていただけますか」


『否定不能。役割は椅子ではなく、係留点』


「係留点?」


『白い船は、名と縁を削ることで過剰な苦痛を処理する発生現象。現段階では暴走傾向。制御には、名を持ち、縁を多重に保持し、かつ自己犠牲傾向の強い個体が必要』


「最悪の人選ですね」


『適合率は高い』


「褒められていないことはわかります」


 世界意思は、何の感情もなく続けた。


『取引を提示する』


「あなたもですか」


『如月あずさの記憶を復元可能』


 桜夜の胸が、また痛んだ。


 だが、ガブリエルやルシフェルの時とは違う。


 世界意思の言葉には、温度がない。


『世界記録層には、如月あずさの全行動、全発話、全感情反応の痕跡が残存。復元精度、九十八・七三パーセント』


「それは、あずさの記憶ですか」


『記憶として機能する情報群』


「本人の記憶ですか」


『区別は不要』


「不要ではありません」


『個体の主観において差異は微小』


 桜夜は、ゆっくり息を吐いた。


 世界意思は続ける。


『条件。水希桜夜は十三番目の椅子、すなわち係留点となる未来を受諾する。白い船を消滅させず、制御下に置く。名を失いたい者、眠りたい者、苦痛を保持できない者の処理装置として再設計する』


「白い船を残す?」


『完全消去は非効率。苦痛処理機構として転用可能』


「人の名前を奪って眠らせるものを、世界の装置として使うと?」


『適切な制御下では有用』


「その制御の中心に僕が座る」


『肯定』


「戻れるんですか」


『戻る必要は低い』


 桜夜は笑った。


 笑うしかなかった。


「すごいですね」


『何が』


「あなたは、白い船より白い」


 世界意思は沈黙した。


 桜夜は続ける。


「ガブリエルは秩序を求めた。ルシフェルは欲望を認めた。あなたは効率だけを見ている」


『世界維持が目的』


「そのために、あずさの記憶を餌にする」


『餌ではない。交換条件』


「同じです」


『拒否するか』


 桜夜は、病室の白を思い出した。


 あずさが笑う。


 あずさが泣く。


 あずさが言う。


 忘れて。


 忘れないで。


 待たないで。


 見つけて。


 彼女は矛盾していた。


 生きた人間だったからだ。


 だからこそ、世界意思が提示する九十八・七三パーセントの復元は、桜夜にはあまりにも恐ろしかった。


 完璧に近い情報。


 けれど、そこに揺れはあるのか。


 嘘はあるのか。


 言い間違いは。


 言えなかった本音は。


 手の震えは。


 最後まで生きたがった、あの子の痛みは。


「保留」


 桜夜は言った。


『非合理』


「でしょうね」


『即時拒否ではない理由は』


「欲しいからです」


『ならば受諾が合理的』


「欲しいから、すぐには受け取れない」


『矛盾』


「人間なので」


 世界意思は、しばらく沈黙した。


 その沈黙の中に、わずかな計算の気配があった。


『水希桜夜。あなたの判断は非効率だが、白い船への耐性を高めている』


「そうですか」


『縁の保持。未練の保持。後悔の保持。苦痛の保持。通常は不安定化要因。あなたの場合、帰還要因として機能』


「つまり、面倒なままでいろと?」


『表現は不正確だが、概ね肯定』


「なら、そうします」


 桜夜は、白い空間の中でまっすぐ立った。


「僕は面倒なままでいます。あずさの記憶も、親友の名前も、エレノアさんの名も、まだ生まれていない子の人生も、効率では決めません」


『決定保留を記録』


「どうぞ」


『次回接触時、条件再提示』


「できれば来ないでください」


『不可』


「でしょうね」


 世界意思の気配が薄れていく。


 その直前。


『警告。旧礼拝堂の祭壇は、既に次の名を受理している』


 桜夜の目が鋭くなる。


「誰の名ですか」


『エレノア・グレイ』


 白い空間が崩れた。


◇◇◇


「桜夜さん!」


 サイカの声が、耳元で弾けた。


 桜夜は息を吸った。


 地下礼拝堂。


 白い霧。


 名前を書く祭壇。


 ホムラの炎。


 リオのライト。


 サイカの手。


 戻ってきた。


 桜夜は膝をつきかけ、サイカに支えられた。


「桜夜さん、桜夜さん!」


「戻った」


「ほんと?」


「うん」


 通信端末から静馬の声が鋭く飛ぶ。


「意識消失時間、四十二秒。桜夜、今すぐ状態を報告しろ」


「ガブリエル、ルシフェル、世界意思に会った」


「最悪だな」


「同感」


「身体症状は」


「少し気持ち悪い。頭痛。吐き気は軽い。白い船の視認はなし」


「撤退」


「待って」


「撤退だ」


「エレノアさんの名が、もう祭壇に受理されている」


 空気が変わった。


 サイカの顔が青ざめる。


 ホムラが壁の紙を見る。


「どれだ」


 リオが即座に動いた。


「エレノア・グレイ。エレノア・グレイ……ありました」


 壁の右奥。


 比較的新しい白い紙。


 そこに、エレノア・グレイの名が書かれている。


 紙の端は、すでに白く溶けかけていた。


 まるで、紙そのものが霧になって船へ流れようとしているように。


「燃やすか?」


 ホムラが言う。


「待って」


 桜夜は立ち上がった。


 足元がふらつく。


 サイカが支える。


「桜夜さん、無理しないで」


「無理する。でも、座らない」


「うん。座らないで」


 桜夜はエレノアの名が書かれた紙の前に立つ。


 紙には、名前の下に小さな文字があった。


 彼女が、私を忘れますように。


 その願いは、弱く、痛々しかった。


 書いた少女の後悔。


 エレノアの傷。


 白い船は、その両方を救いとして吸い上げる。


「救いじゃない」


 桜夜は呟いた。


 ホムラが頷く。


「救いじゃねえ」


 リオが静かに言った。


「名前は、奪うものではありません」


 サイカが続ける。


「呼んで、帰ってくるためのものだよ」


 桜夜は、桜吹雪の柄に手をかけた。


 だが、抜かない。


 切るべきものを見極める。


 明人の言葉が、胸の奥で響く。


 心の目で真実を見極めよ。


 切るべきもののみを切れ。


「先生」


 桜夜は小さく言った。


「今回は、紙じゃないですね」


 彼が切るべきものは、名前ではない。


 名前を船へ渡す線だ。


 桜夜は桜吹雪を抜いた。


 白い霧が一斉にざわめく。


 石盤の小さな船が軋む。


 十三番目の椅子の刻印が、淡く光る。


 サイカが叫ぶ。


「桜夜さん!」


「大丈夫」


 桜夜は刀を構えた。


「僕は座らない」


 そして、エレノアの名が書かれた紙ではなく、その紙から石盤へ伸びる白い糸だけを斬った。


 音はなかった。


 ただ、白い霧が弾ける。


 紙の溶解が止まる。


 エレノア・グレイの名が、そこに残る。


 消えずに。


 奪われずに。


 壁に貼られたただの紙として。


 ホムラが息を吐いた。


「やったか」


「一人分は」


 桜夜は言った。


 リオが周囲を見る。


「他の名前も、同様の処置が必要です」


「全部やる」


 静馬の声が飛ぶ。


「桜夜」


「短時間でやる。危なくなったら撤退する」


「その言葉を記録した。破ったら薬で眠らせる」


「怖いなあ」


「本気だ」


「知ってる」


 桜夜は、壁一面の名前を見た。


 忘れたい。


 忘れてほしい。


 許されたい。


 救われたい。


 その願いを、白い船に渡さない。


 名もなき騎士団の任務は、また一つ増えた。


 名前を奪われる前に、隣へ立つ。


 名前が船へ渡る前に、帰り道を切り離す。


 桜夜は桜吹雪を握り直した。


 白い霧の向こうで、船が怒ったように軋む。


 十三番目の椅子は、水希桜夜を待っている。


 だが、桜夜はその椅子を見なかった。


 見たのは、壁に並ぶ名だった。


 エレノア。


 他の少女たち。


 そして、自分がまだ守らなければならない、いくつもの縁。


「始めよう」


 桜夜は言った。


「今夜は、名前を返す」

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