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第23話 受胎告知は三つに響く

 そのころ。


 天使たちの住まう世界では、ひとつの声が響き渡っていた。


「なに四方院の妖怪じじいに先を越されてるの!」


 大天使ガブリエルの声だった。


 声そのものは美しい。


 しかし、その声音には天上の静謐など一欠片もない。


 白い柱が並ぶ広間に、彼女の怒声が反響する。


「あずさの魂はさっさと確保してって言ったわよね! 言ったわよね、サリエル!」


 名を呼ばれた死天使サリエルは、少し離れた場所に立っていた。


 黒に近い灰色の翼。


 静かな目。


 死を司る者にふさわしく、その佇まいは冷えている。


 対するガブリエルは、金の髪を揺らしながら広間を行ったり来たりしていた。彼女が歩くたびに光の粒がこぼれ、こぼれた光が苛立ったように床を跳ねる。


「聞いてるの、サリエル!」


「聞いている」


「なら返事!」


「返事をしている」


「そういうことじゃない!」


 ガブリエルは両手を振り上げた。


「あずさの魂よ。あずさ。あの黒の騎士が何百年単位で引きずりかねない、あの魂よ。どうして四方院玄武に持っていかれてるの!」


 サリエルは表情を変えなかった。


「あずさは洗礼を受けていなかったんだ。仕方ない」


「仕方ないで済ませないで!」


「管轄外の魂を強制的に確保する方が問題だ」


「だから先に話を通してって言ったのよ!」


「誰に」


「泰山府君に!」


「無茶を言うな。あれは我々の下位機関ではない」


「知ってるわよ!」


 ガブリエルは悔しそうに歯噛みした。


 死天使サリエルは、それを静かに眺めている。


「そもそも、あずさの魂は日本の神々との縁が強い。出雲で結ばれた縁もある。四方院玄武が泰山府君へ直接交渉に行ったなら、こちらが割り込む余地はない」


「正論を言わないで! 今は腹が立ってるの!」


「怒っても魂は戻らない」


「サリエル!」


「それに、完全に奪われたわけではない」


 その言葉で、ガブリエルの動きが止まった。


「どういう意味?」


「四方院玄武は、転生先を定めた。だが、縁を強制したわけではない。泰山府君も条件を付けている。記憶は持たせない。選ぶのは本人たち。真実を告げる時は、時が決める」


「つまり?」


「こちらが介入できる余地は残っている」


 ガブリエルの目が、ぱっと輝いた。


 その輝きは神聖というより、面倒な計画を思いついた者のそれだった。


「受胎告知」


「まだ受胎していない」


「細かいことを言わないの。予告よ、予告。魂が宿る前の告知。未来に向けた布石。天使らしくていいでしょう?」


「天使らしいかは疑問だ」


「うるさいわね」


 ガブリエルがさらに言い募ろうとした時だった。


 広間の奥から、低い声が響いた。


「働け」


 天使長ミカエルだった。


 その一言で、広間の光が少し震えた。


 ガブリエルは振り返る。


「ミカエル、でも」


「働け」


「まだ説明が」


「働け」


「……はい」


 ガブリエルは唇を尖らせた。


 天使たちの世界において、大天使ガブリエルは多くの者に恐れられている。


 だが、ミカエルの「働け」だけは別だった。


 逆らうとさらに面倒な仕事が増える。


 それを彼女はよく知っていた。


「わかったわよ。やればいいんでしょ、やれば」


 ガブリエルは両手を広げた。


 光が集まる。


 金色の輪が、彼女の背後にいくつも開いた。


「三つに分けるわ」


 サリエルが少しだけ眉を動かす。


「同時顕現か」


「四方院玄武。四方院一とその妻。そして桜夜」


「彼に?」


「当然でしょう。本人だけ知らないまま話が進む方が、後で面倒になるもの」


「知っても面倒になる」


「それはそう」


 ガブリエルは、なぜか少し楽しそうに笑った。


「でも、黒の騎士は面倒の中でこそよく動く。白い船に座らせないためにも、別の面倒を増やすのは有効よ」


「天使の発想ではないな」


「天使だからできるのよ」


 光が弾けた。


 ガブリエルの姿が、三つに分かれる。


 同じ魂。


 同じ声。


 同じ怒りと使命。


 三つの場所へ、同時に降りた。


◇◇◇


 日本。


 四方院本邸。


 宗主の私室へ戻った玄武は、手の中にある淡い光を見つめていた。


 如月あずさの魂。


 病室の朝に似た白。


 白い船の白とは違う。


 消すための白ではなく、戻るための白。


 それを特別な器へ納めようとした時、室内の空気が変わった。


 蝋燭の炎が一斉に上へ伸びる。


 次の瞬間、金色の光が降った。


 光の中から、ガブリエルが現れる。


 玄武は少しも驚かなかった。


 ただ、片眉をわずかに上げる。


「来ると思っておった」


「でしょうね!」


 ガブリエルは開口一番、怒鳴った。


「この妖怪じじい!」


「初対面の相手に失礼な天使じゃな」


「あなたに礼儀を使う気はないわ。あずさの魂、先に持っていくなんてどういうつもりよ!」


「泰山府君と交渉したまでじゃ」


「こっちが狙っていたの!」


「遅かったのう」


 玄武は薄く笑った。


 ガブリエルのこめかみがぴくりと動く。


「性悪妖怪狸じじい!」


「よく言われる」


「……桜夜にそっくり」


「それは光栄じゃ」


「褒めてない!」


 ガブリエルは深く息を吐いた。


 怒鳴るだけ無駄だと悟ったのだろう。


 彼女は玄武の手元を見る。


 淡い白。


 あずさの魂。


 その白に触れようとはしなかった。


 触れれば、泰山府君との取り決めに干渉することになる。


 天使といえども、他の神格の領分を簡単には侵せない。


「条件は?」


「記憶は持たせぬ。縁は結ぶが、強制はせぬ。真実を告げる時は、時自体が決める」


「泰山府君らしいわね」


「不満か?」


「不満だらけよ。でも、悪くない」


 ガブリエルは腕を組んだ。


「いい? 四方院玄武。あずさの魂を政争の駒としてだけ扱ったら、あなたの長い寿命を天上から毎日呪ってやるわ」


「天使が呪うとは」


「比喩よ」


「比喩に聞こえんが」


「気持ちの問題」


 玄武は小さく笑った。


「安心せい。駒ではある。だが、駒だけではない」


「それが厄介なのよ、あなたは」


 ガブリエルは玄武を睨んだ。


「桜夜に似てる。自分では冷酷なつもりでも、ちゃんと情がある。その情まで計算に入れるから、周りが振り回される」


「それもよく言われる」


「でしょうね」


 ガブリエルは振り返る。


 光が再び彼女の背後に揺れた。


「私は同時に他の三人にも会う。妙な隠し方をしないで。隠しすぎると白い船がそこを突く」


 玄武の目が、わずかに鋭くなる。


「白い船を知っておるのか」


「もちろん」


「何者じゃ」


 ガブリエルは少しだけ表情を曇らせた。


「救済を名乗る空白。名前と縁の隙間に入り込むもの。神でも悪魔でもない。秩序でも混沌でもない」


「厄介じゃの」


「あなたと同じくらいね。でもうちの神様には敵わない」


「それは大変じゃ」


 玄武が笑うと、ガブリエルは本気で嫌そうな顔をした。


「桜夜を座らせないで」


「そのために盤面を動かしておる」


「なら、動かしすぎないことね」


 その言葉を残し、ガブリエルの姿は光にほどけた。


 玄武はしばらく黙っていた。


 そして、淡い白を見下ろす。


「動かしすぎるな、か」


 玄武は低く笑った。


「それができれば、苦労はせんよ」


◇◇◇


 同じころ。


 四方院一は、妻と共に私邸の一室にいた。


 日本の夜は静かだった。


 桜夜が英国へ向かい、白虎が水面下で動き、玄武が何かを始めた。


 その気配は一にも届いていた。


 だが、宗主は詳細を語らない。


 それが一には少し不満だった。


「父上たちは、また弟を盤面の真ん中に置いている」


 一は低く言った。


 妻は、彼の隣で茶を置く。


「水希様のことですね」


「ああ。桜夜はいつも自分を軽く扱う。だから周囲が余計に駒として使う」


「あなたは、あの方を弟として大切に思っているのでしょう」


「当然だ」


 一は迷いなく答えた。


「兄弟の盃を交わした。あれは形式ではない。私が兄で、桜夜が弟だ」


 妻は静かに微笑んだ。


「なら、弟を守らなくてはいけませんね」


「守る。だが、今回は私を動かすなと宗主から釘を刺されている」


「それは、水希様を信じているからでは?」


「私も信じている。だから腹が立つ」


 その時だった。


 部屋の中に、金色の光が降った。


 一は即座に立ち上がり、妻を庇うように前へ出た。


 光の中から、ガブリエルが現れる。


 妻は息を呑んだ。


 一は警戒を解かない。


「何者だ」


「日本では、ガブリエルと呼ばれているわね」


「……天使?」


「ええ。そこの警戒心の強い次期宗主候補さん。少し話があるわ」


 一の眉が動く。


「宗主候補と知っているなら、礼を尽くせ」


「あなたこそ、神の御使いに平伏しなさい」


「拒否する」


 ガブリエルは一瞬だけ黙った。


 それから、少しだけ口元を緩めた。


「なるほど。あなたが兄で、桜夜が弟というのは、たしかに悪くないわね」


「桜夜を知っているのか」


「知っているわ。黒の騎士。面倒で、頑固で、すぐ自分を削る男」


「否定はしない」


「否定しなさいよ」


 一は少しだけ視線を細めた。


「用件を言え」


 ガブリエルは、妻の方を見た。


 その視線は、不思議と柔らかかった。


「あなたたちの未来の子に、ひとつの魂が宿る可能性がある」


 妻の手が、わずかに震えた。


 一が静かに問う。


「魂?」


「如月あずさ」


 一の表情が変わった。


 桜夜から直接深く聞いたことは少ない。


 だが、その名は知っている。


 桜夜が忘れなかった少女。


 死してなお、彼の歩く理由のひとつであり続けた少女。


「それは、桜夜の」


「ええ」


 ガブリエルは頷いた。


「桜夜が待ち、探し続けた魂。四方院玄武が泰山府君と交渉して、あなたたちの子として転生させる道を作った」


 妻は胸元に手を当てた。


「私たちの子に……」


「強制ではない。記憶も持たない。縁は結ばれるけれど、選ぶのは本人たち。泰山府君の条件よ」


 一は黙っていた。


 沈黙の中で、彼の拳がゆっくり握られる。


「宗主は、桜夜を四方院家の姻戚にするつもりか」


「そうでしょうね」


「白虎家対策か」


「それもある」


「しかしそれだけではないな」


 ガブリエルは、少しだけ目を細めた。


「あなた、お飾りにしては頭がよさそうね」


「弟に関わることなら、な」


 一は妻を振り返った。


「君は」


 妻は、静かに一を見返した。


「私は、まだ見ぬ子を政治の道具としてだけ考えることはできません」


「そうだな」


「でも、その魂が本当に水希様の大切な方なら」


 妻は少しだけ微笑んだ。


「その子が生まれてくるなら、私はその子自身として愛します。誰かのためではなく」


 ガブリエルは満足そうに頷いた。


「それでいいわ」


 一は低く言った。


「もし、宗主がその子を駒として扱うなら、私が止める」


「言うじゃない」


「私は、兄だからな」


「桜夜の?」


「それもある」


 一は妻の手を取った。


「この子の父になるなら、それもだ」


 ガブリエルは少しだけ笑った。


「合格」


「何の試験だ」


「天使の気まぐれ」


「迷惑だな」


「それもよく言われるわ」


 ガブリエルの姿が薄れていく。


 最後に、彼女は一へ言った。


「桜夜には、あなたからもいつか言いなさい。あなたの弟は、勝手に一人になる生き物だから」


「知っている」


「ならいいわ」


 光が消えた。


 部屋に静けさが戻る。


 一は妻の手を握ったまま、しばらく動かなかった。


「兄弟というのは、厄介だな」


 ぽつりと呟く。


 妻は柔らかく笑った。


「家族というのは、そういうものでは?」


 一は少しだけ苦笑した。


「そうかもしれない」


◇◇◇


 英国。


 聖マリアンナ女子大学付属高等学校近くの仮拠点。


 桜夜たちは、白い花びらを前にしていた。


 次の名を、船へ。


 その文字は、花びらの中で淡く揺れている。


 サイカは桜夜の隣に立ち、彼の手を握っていた。


 リオは記録を取り、ホムラは腕を組んで窓の外を睨んでいる。


 通信端末の向こうでは、静馬が沈黙していた。


「次の名って、エレノアか?」


 ホムラが言う。


「可能性は高い」


 桜夜は答えた。


「でも、名前を書いた子も危ない。書いた側も、書かれた側も、白い船に触れている」


「胸くそ悪いな」


「うん」


 サイカが小さく言った。


「エレノア、普通の子だったよ。少し寂しそうだったけど、ちゃんと笑ってた」


「白い船は、そういう隙を探す」


 桜夜は花びらを見つめた。


「疲れている人。後悔している人。忘れたい人。忘れてほしい人。そこへ救いの顔で近づく」


 リオが静かに頷く。


「名前を奪うことで、苦痛から解放する。そう見せかけているのでしょう」


「救いじゃねえ」


 ホムラは吐き捨てた。


「それはもう聞いたよ」


「何度でも言う。救いじゃねえ」


 桜夜は少しだけ笑った。


「うん。何度でも言っていい」


 その時だった。


 部屋の空気が、唐突に変わった。


 白い花びらが震える。


 窓の外に、金色の光が降りた。


 サイカが桜夜の手を強く握る。


 ホムラの指先に炎が灯る。


 リオが一歩、桜夜の前へ出ようとした。


 だが、桜夜はその光に見覚えがあった。


 神聖で、まぶしく、やたらと騒がしい気配。


「……まさか」


 光の中から、ガブリエルが現れた。


 金の髪。


 白い翼。


 人間離れした美しさ。


 そして、その顔に浮かぶ、隠しきれない苛立ち。


「久しぶりね、黒の騎士」


 桜夜は額に手を当てた。


「今度はお前か」


「その反応は何よ」


「面倒が増えたなと」


「あなたに言われたくないわ!」


 ホムラが低く構える。


「桜夜、知り合いか?」


 桜夜はすごく嫌そうな顔をした。


「大天使ガブリエル、日本ではそう呼ばれているわ」


 ガブリエルが自分で名乗った。


 ホムラは眉を寄せた。


「大天使?」


「そう。ありがたがりなさい」


「なんか思ってた天使と違うな」


「失礼ね!」


 リオが静かに一礼した。


「大天使ガブリエル様。ご用件を伺ってもよろしいでしょうか」


「あなたは礼儀があるわね。桜夜の周りにいるのが不思議なくらい」


「リオちゃんは僕の秘書官だからね」


「あなたにはもったいないわ」


「否定しづらい」


 サイカは桜夜の手を離さずに、じっとガブリエルを見ていた。


「桜夜さんを連れていくの?」


 その声は柔らかい。


 けれど、はっきり警戒していた。


 ガブリエルはサイカを見て、少しだけ表情を和らげた。


「いいえ。今日は違うわ」


「今日は?」


「白い船に座らせないために来たの」


 桜夜の目が細くなる。


「白い船を知っているんですね」


「ええ。救済を名乗る空白。名前と縁の隙間に入り込むもの」


「神ですか」


「違うわ。たしかにうちの神様にもできるけどね」


「悪魔?」


「それも違う」


「では何ですか」


 ガブリエルは、白い花びらを見た。


 その目に、初めて明確な嫌悪が浮かぶ。


「穴よ」


「穴?」


「誰かが救われたいと願った時にできる空白。名前を捨てたい者、忘れたい者、眠りたい者。その隙間をつないで、船の形を取っている」


 静馬の声が端末から聞こえた。


「つまり、単独の神格ではなく、集合的な現象に近いと?」


 ガブリエルは端末を見る。


「誰?」


「医者です」


 桜夜が答える。


「なるほど。なら、その理解でいいわ。けれど、ただの現象ではない。意志を持ち始めている」


 リオが記録を進める。


「意志を持ち始めた救済の空白」


「嫌な言葉ね」


「記録ですので」


 ガブリエルは桜夜へ向き直った。


「桜夜。十三番目の椅子はあなたを待っている。これはもう知っているわね」


「はい」


「でも、船が嫌っているものがある」


「名前ですか」


「名前だけではない。(えにし)よ」


 桜夜は黙った。


 泰山府君の言葉と同じだ。


 名を奪うものは、血よりもえにしを嫌う。


「縁が多いほど、あなたは戻りやすくなる。呼ぶ声が増える。だから船は、あなたの周囲の名前を奪おうとしている。親友。エレノア。学園の少女たち。そして」


 ガブリエルは言葉を止めた。


 桜夜の胸の奥が、わずかにざわつく。


「そして?」


「あなたがまだ知らない、これから生まれる縁」


 サイカの手に力が入った。


 リオのペンが止まる。


 ホムラが鋭く言う。


「はっきり言えよ」


 ガブリエルは桜夜を見た。


「四方院玄武が動いたわ」


「知っています。婚約をしてもらう、とかいうふざけた短文を送ってきました」


「それは、たぶん説明が雑すぎるだけね」


「宗主様らしい」


「桜夜」


 ガブリエルの声が少しだけ低くなる。


「如月あずさの魂が、泰山府君の手から玄武へ渡った」


 部屋の空気が止まった。


 白い船の音すら、遠くへ退いた気がした。


 桜夜は何も言わなかった。


 言えなかった。


 あずさ。


 その名が、胸の奥で触れてはいけない場所に触れる。


 病室の白。


 伊豆の海。


 忘れて。


 忘れないで。


 待たないで。


 見つけて。


 矛盾した願い。


 それでも、桜夜が選んだ約束。


「桜夜さん」


 サイカが呼んだ。


 その声で、桜夜はかろうじて呼吸を思い出した。


「……戻ってる」


「ほんと?」


「うん」


 ガブリエルは続けた。


「玄武は、あずさの魂を四方院一とその妻の子として転生させるつもりよ」


 ホムラが目を見開いた。


 リオも息を呑む。


 サイカは、桜夜の横顔を見つめていた。


 桜夜は、ただ静かに聞いている。


「理由は白虎家対策。あなたを四方院家の姻戚にすることで、白虎があなたを野良犬と罵る道を塞ぐ。あなたを否定すれば、青龍家を否定することになるから」


「……なるほど」


 桜夜の声は、驚くほど静かだった。


「宗主様らしい」


「怒らないの?」


「怒りはコントロールするものだと教わっています」


「それはすばらしいわね」


「どうも」


 桜夜は、白い花びらを見た。


 次の名を、船へ。


 その文字が、今は別の意味を持って見える。


 エレノアの名。


 学園の少女たちの名。


 親友の名。


 そして、まだ生まれていない子の名。


 あずさの魂が宿るかもしれない子。


 桜夜の未来の縁。


「記憶は?」


 桜夜が聞いた。


「持たない」


「強制は?」


「されない。縁は結ばれるけれど、選ぶのは本人たち。真実を告げる時は、時自身が決める」


「泰山府君様あたりが好みそうな条件だ」


「そうね」


 桜夜は少しだけ目を閉じた。


 サイカがすぐに手を握る。


「桜夜さん」


「大丈夫。座らない」


「うん」


「そうだね」


 ガブリエルは桜夜を見ていた。


「思ったより落ち着いているのね」


「かつて宗主様に頼みましたからね死者蘇生の禁術を教えてほしいと」


 そのとき玄武はわりと気楽に教えた。


『初代様によれば、依り代にする肉体、記憶データ、魂、この三つがあれば死者をよみがえらすことも転生させることもできるそうだ。だが初代様は細かいことは書かないお方でな。具体的にどうするのかは書いておらん」


「なら、あの妖怪があなたの願いを叶えたと?」


「記憶が足りません。いや、仮に記憶があってもそれはあずさ自身なのかどうか」


 現代技術なら表の技術だけでも死んだペットのクローンは作れる。記憶のデータ化技術も四方院家にはある。だがクローンの肉体とコピーの記憶をもっていたとしても、それは自分が愛した「あずさ」なのだろうか。そう思っていこう、彼は死者蘇生の術式を調べなくなった。「泰山府君祭」はできるが、使用したことはない。桜夜が話している間にサイカの手がどんどん震えていった。桜夜は、その手を握り返すことができなかった。


「でも、今は任務です。エレノアさんを助ける。学園の名前を守る。白い船に次の名を渡さない。それが先です」


 ガブリエルは、ほんの少しだけ笑った。


「そういうところよ」


「何がですか」


「面倒なのに、ちゃんと騎士なのよね」


「褒めています?」


「とっても。天使に認められた騎士なんて少ないのよ?」


 ガブリエルは白い花びらに手をかざした。


 花びらの文字が一瞬だけ金色に変わる。


 次の名を、船へ。


 その文字の上に、別の文字が重なった。


 拒む。


 たった二文字。


 花びらは、細かな光になって砕けた。


「一時しのぎよ」


 ガブリエルは言った。


「白い船そのものを止めたわけじゃない」


「十分です」


「いいえ。不十分。だから働きなさい、黒の騎士」


「あなたもミカエル様に言われたんですか」


 ガブリエルの表情が凍った。


「なぜわかったの」


「なんとなく」


「本当に腹が立つ男ね」


「よく言われます」


 ガブリエルはため息をついた。


「旧礼拝堂へ行きなさい。そこに名前を書く儀式の核がある。悪魔憑きの噂は、たぶん隠れ蓑よ。悪魔に見せかけて、船が名を集めている」


「核とは」


「祭壇。あるいは、名前を受け取る器。詳しくは自分で見なさい」


「丸投げですね」


「天使は忙しいの」


「ヒステリックに騒いでいたのでは?」


「誰から聞いたの!」


 桜夜は少しだけ笑った。


 その笑いを見て、サイカがほっと息を吐く。


 ガブリエルは咳払いをした。


「とにかく。エレノアを見張りなさい。名前を書いた子も。書かれた側と書いた側、両方が船に引かれる可能性がある」


「わかりました」


「それと、桜夜」


「はい」


「あずさの魂のことは、今すぐ答えを出そうとしないこと」


 桜夜の表情が、わずかに揺れた。


「それは」


「待つのが得意でしょう。あなた」


「得意ではありません」


「でも待ってきた」


「それは、そうです」


「なら、もう少し待ちなさい。生まれてくる子は、あずさであって、あずさではない。あなたの約束は消えない。でも、その子の人生を約束で縛ってはいけない」


 桜夜は黙った。


 その言葉は、痛かった。


 けれど、必要だった。


「わかっています」


「本当に?」


「たぶん」


「不安ね」


「僕も不安です」


 ガブリエルは呆れたように笑った。


「正直でよろしい」


 光が、彼女の背後に広がる。


「では、私は他にも行くところがあるから」


「まだ働くんですか」


「働けって言われたのよ!」


 最後だけ少し本音が混じった。


 ガブリエルは光の中へ消えた。


 部屋には、静けさが戻る。


 だが、先ほどまでとは違う静けさだった。


 白い花びらは消えた。


 けれど、桜夜の中には新しい名が落ちていた。


 如月あずさ。


 まだ生まれていない子。


 四方院一とその妻。


 姻戚。


 白虎対策。


 そして、選ぶのは本人たち。


「桜夜さん」


 サイカが小さく呼んだ。


「うん」


「大丈夫じゃないよね」


「うん」


「でも、帰ってきてる?」


「帰ってきてる」


「じゃあ、今はそれでいい」


 サイカはそう言って、桜夜の手を両手で包んだ。


 ホムラは腕を組み直す。


「で、旧礼拝堂だな」


「うん」


 リオが静かに記録を閉じた。


「明日ではなく、今夜動くべきかもしれません。ガブリエル様が花びらを一時的に退けた以上、相手も動く可能性があります」


 静馬の声が端末から響く。


「桜夜の状態は最悪に近い。だが、放置も危険だ。短時間、複数名同行、撤退条件を明確にするなら許可する」


「医者の許可が出た」


「条件付きだ」


「わかってる」


 桜夜は立ち上がった。


 窓の外、遠くに旧礼拝堂の尖塔が見える。


 白い船は、まだ遠くで軋んでいる。


 十三番目の椅子は、水希桜夜を待っている。


 だが、今夜の桜夜には、そこへ座っている暇などなかった。


 エレノアの名を守る。


 名前を書いた少女を守る。


 学園の少女たちを守る。


 親友を連れ戻す。


 そして、まだ生まれていない縁を、船に渡さない。


「名もなき騎士団、帰還任務」


 桜夜は静かに言った。


「今夜は、旧礼拝堂へ行く」


 サイカが頷いた。


 リオが立ち上がる。


 ホムラの炎が、静かに灯る。


 遠く、日本では玄武があずさの魂を抱え、四方院一とその妻が未来の名を思う。


 そして天上では、ガブリエルがまだどこかで文句を言いながら働いている。


 世界のあちこちで、名と縁が動き始めていた。


 白い船が最も嫌うもの。


 それはきっと、消せないほど多く結ばれた縁なのだ。


 ガブリエルは冷めた目でそれを見ながら、つぶやいた。


「かわいそうな桜夜。迷える子羊。気をつけなさい。あずさの記憶を餌に、あなたへ取引を持ちかける者が出るわ。天使(わたし)も、悪魔も、それ以外のものも」

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