第22話 噂の旧礼拝堂
聖マリアンナ女子大学付属高等学校での二日目は、初日よりも騒がしかった。
理由は明白だった。
珍しい日本人男性教師。
普通に友達を増やしていく留学生。
いつの間にか「お姉さま」と呼ばれている留学生。
そして、階段から落ちかけた生徒を抱き止めたせいで「王子様」と呼ばれ始めた留学生。
この四人が、学園内の噂にならないはずがなかった。
「ミズキ先生」
職員室へ向かう廊下で、桜夜は三人組の生徒に呼び止められた。
「はい」
「先生、日本語で『かわいい』ってどう書くんですか?」
「かわいい、ですか」
桜夜は少し考え、持っていたメモ用紙にひらがなで書いた。
かわいい。
その下に、漢字で可愛い。
「こうです」
「可愛い」
「かわいい」
「先生は、どっちが好きですか?」
「どちらも使います」
「じゃあ、日本語で『先生は珍しい』は?」
「……授業で扱うには少し特殊な例文ですね」
生徒たちは楽しそうに笑った。
桜夜は表情を崩さずにいたが、内心ではため息をついていた。
珍獣扱いは、初日で終わらなかった。
むしろ、二日目の方がひどい。
生徒たちは少し慣れた分、遠慮がなくなっていた。
「先生、日本には本当に侍がいるんですか?」
「歴史上はいました」
「今は?」
「少なくとも、普通の道には歩いていません」
「先生は侍っぽいです」
「そうですか」
「刀、似合いそう」
「授業には不要ですね」
笑い声が廊下に広がる。
その空気は明るい。
悪意はない。
むしろ好意的だ。
だからこそ、桜夜は少し困る。
四方院家では、相談役として見られる。
日本では、水希桜夜という名に政治と力が絡む。
白い船は、十三番目の椅子へ誘う。
しかしこの学園では、桜夜はただの珍しい日本人教師だった。
それは奇妙に軽く、少しだけ救いでもあった。
だが、救いという言葉に、桜夜の胸はわずかに冷える。
救いは、すぐそこにある。
昨日、エレノア・グレイのノートに書かれていた言葉。
十三番目の席は、まだ空いている。
桜夜は顔を上げた。
「先生?」
「いえ。何でもありません」
白い船は、明るい廊下にも影を落とす。
桜夜は、生徒たちに短く挨拶をして、職員室へ向かった。
◇◇◇
その頃、サイカは食堂で友人を作っていた。
正確には、友人がさらに増えていた。
「サイカ、こっち」
「今日は隣に座って」
「昨日の日本の朝ごはんの話、もっと聞きたい」
数人の生徒が、当たり前のように席を空けてくれる。
サイカは少し照れながら、トレーを持って座った。
「ありがとう」
彼女の向かいには、昨日からよく話すようになった少女がいた。
エレノア・グレイ。
薄い金髪を肩の上で切り揃えた、物静かな生徒だった。
昨日、桜夜の授業でノートに異様な言葉を残していた少女。
だが、今の彼女におかしな様子はない。
少し内気で、礼儀正しく、話すと穏やかに笑う。
白い船に触れているようには見えなかった。
「サイカは、日本で料理を作るの?」
「うん。最近、和食も練習してるの」
「和食って難しい?」
「まだ難しいかな。お味噌汁は少し慣れてきたけど、卵焼きは形が崩れちゃう」
「かわいい」
「かわいいかな?」
「うん。好きな人のために練習するの、かわいい」
サイカは頬を赤くした。
「そ、そういうわけじゃ」
「違うの?」
「違わないけど」
周りの生徒たちが小さく笑う。
その中で、エレノアだけがふと視線を落とした。
「好きな人のために何かをするって、いいね」
サイカはその声音に気づいた。
少しだけ、影がある。
「エレノアにもいるの?」
「好きな人?」
「うん」
エレノアはしばらく迷ったあと、小さく首を横に振った。
「わからない。好きだったのか、憧れていたのか、助けてほしかっただけなのか」
周囲の生徒たちは別の話題で笑っている。
サイカは、そっと声を低くした。
「その人、今は?」
「いないの」
「卒業した人?」
「ううん」
エレノアは、食堂の窓の外を見た。
遠くに旧礼拝堂の尖塔が見える。
「あの子は、礼拝堂へ行ったきり、学校を辞めた」
サイカの指が止まる。
「礼拝堂?」
エレノアははっとしたようにサイカを見た。
「あ、ごめんなさい。変なことを言った」
「ううん。大丈夫」
「今のは忘れて。先生たちに聞かれると、また注意されるから」
「また?」
エレノアは苦笑した。
「この学校には、旧礼拝堂の噂が多いの。あまり話すなって言われてる」
サイカは、できるだけ自然に尋ねた。
「どんな噂?」
エレノアは少し迷った。
それから、小さな声で言った。
「悪魔憑き」
サイカは、表情を変えないようにした。
悪魔憑き。
生徒たちはその言葉を、ただの怪談として使っているわけではなさそうだった。
「旧礼拝堂で祈ると、願いを叶えてくれる声がするの」
「声?」
「うん。最初は優しい声。あなたは疲れている。もう頑張らなくていい。救いはすぐそこにあるって」
サイカの胸が冷えた。
「それで?」
「その声に返事をすると、夢を見るんだって」
「どんな夢?」
エレノアは答える前に、テーブルの端を見つめた。
「白い船」
サイカは、思わず桜夜の方を探しそうになった。
ここに桜夜はいない。
けれど、彼を呼ぶように胸が動く。
「エレノアは、その夢を見たの?」
「いいえ」
エレノアはすぐに首を横に振った。
少し早すぎる否定だった。
「私は見ていない。見たのは、友達」
「その子が、礼拝堂へ行ったきり学校を辞めた子?」
エレノアは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
◇◇◇
リオは図書室にいた。
昨日の勉強会は、二日目にしてすでに規模を増していた。
文学、歴史、ラテン語、日本語。
聞かれる内容はばらばらだが、リオは丁寧に答える。
その姿を見て、生徒たちの「お姉さま」熱はますます高まっていた。
「リオ様、この詩の解釈がわからなくて」
「比喩が複雑ですが、中心にあるのは喪失ですね。こちらの行を見てください」
「リオ様、ノートの取り方も美しいです」
「見やすく整理することは、考えを整理することでもあります」
「リオ様、放課後もいらっしゃいますか?」
「本日は少し調べものがありますので、短時間であれば」
リオは、微笑みながらも周囲を観察していた。
図書室は、噂が集まりやすい。
生徒たちは、授業中よりも緩み、食堂よりも声を潜める。
秘密めいた話をするには、ちょうどいい場所だった。
「旧礼拝堂の資料は、どちらにありますか?」
リオが自然に尋ねると、近くの生徒が少し驚いたように顔を上げた。
「旧礼拝堂ですか?」
「建築様式に興味がありまして。尖塔が印象的でしたので」
「あそこは、あまり近づかない方がいいです」
「なぜです?」
「先生たちがそう言っています」
別の生徒が、声を落とした。
「でも、本当は悪魔憑きが出るからだって」
「悪魔憑き」
リオは静かに繰り返した。
生徒は、少し得意げに囁く。
「昔、あそこの地下で、何かの儀式があったって噂なんです」
「儀式?」
「詳しくは知らないけど、白い服の女の子たちが夜に集まって、名前を紙に書いて、祭壇に置くんだって」
リオの目がわずかに細くなる。
「名前を?」
「はい。そうすると、つらいことを忘れられるって」
「名前を書いた本人が、ですか」
「ううん」
生徒は首を横に振った。
「名前を書かれた人が、だったと思います」
空気が、少し冷えた。
名前を書かれた人が、忘れる。
忘れられる。
名を奪われる。
白い船の性質に近い。
「その儀式は、今も行われているのですか?」
「たぶん、もう誰もしていないと思います。旧礼拝堂は封鎖されていますし」
リオは頷いた。
「ありがとうございます。参考になりました」
「リオ様、もしかして怪談がお好きなんですか?」
「好きというより、情報は集めておく方です」
「かっこいい……」
その呟きに、周囲の生徒たちが頷く。
リオは穏やかに微笑みながら、手元のノートへ情報を書き込んだ。
旧礼拝堂。
悪魔憑きの噂。
名前を書く儀式。
書かれた者が忘れる。
忘れる対象は、苦痛か、記憶か、名か。
そして、白い船。
リオはページの端に小さく記した。
桜夜様へ即時共有。
◇◇◇
ホムラは逃げていた。
正確には、追われていた。
「ホムラ様!」
「待ってください!」
「昨日のお礼を!」
「ぜひフェンシング部に!」
「演劇部の男役を!」
「やらねえ!」
ホムラは廊下を曲がり、階段を駆け上がった。
留学生としての品位など、すでにどこかへ消えている。
昨日、階段から落ちかけた生徒を助けたことがきっかけで、ホムラは王子様扱いされるようになった。
それだけならまだよかった。
しかし今日は、校庭で倒れかけた生徒を支え、重い荷物を運んでいた下級生を助け、上級生に囲まれて泣きそうになっていた生徒の前に立った。
全部、放っておけなかっただけだ。
その結果、王子様の噂はさらに広がった。
「くそ、何なんだよこの学校」
ホムラは人気のない廊下で息を吐いた。
窓の外に、旧礼拝堂が見える。
石造りの壁。
封鎖された扉。
そこだけ、校舎の明るさから切り離されたように沈んでいた。
ふと、背後で小さな物音がした。
ホムラは振り返る。
廊下の隅に、一人の少女がいた。
制服のリボンが乱れ、目元が赤い。
昨日助けた少女とは別の生徒だ。
「お前、大丈夫か?」
少女はびくっと肩を震わせた。
「す、すみません」
「謝んなくていい。誰かに何かされたのか」
少女は答えない。
ただ、手の中に小さな紙を握っていた。
ホムラはその紙に目を留める。
「それ、何だ?」
少女は慌てて隠そうとした。
だが、ホムラは見逃さなかった。
白い紙。
そこに、名前が書かれている。
エレノア・グレイ。
「おい」
ホムラの声が低くなる。
「それ、誰に書かされた」
「違います」
「違うって何がだ」
「これは、私が」
少女は震えながら言った。
「私が、救われたいから」
ホムラは眉を寄せる。
「救われたい?」
「名前を書けば、その人が忘れてくれるって。私がしたことも、言ったことも、全部」
「誰がそんなことを言った」
少女は旧礼拝堂の方を見た。
「声が」
ホムラの中で、火が小さく燃え上がった。
「声って何だ」
「礼拝堂の方から聞こえたんです。あなたは悪くない。つらいことは、相手の中から消してあげればいいって」
「ふざけんな」
ホムラは思わず吐き捨てた。
少女は怯えたように身をすくめる。
ホムラは、少しだけ声を抑えた。
「悪い。お前を怒ってるんじゃない」
少女は顔を上げる。
「でも、それは救いじゃねえよ」
「え?」
「相手の記憶を勝手に消すとか、名前を書いてどうにかするとか、そういうのは救いじゃねえ」
ホムラは、紙を見た。
エレノア・グレイ。
昨日のノートに名前があった生徒。
桜夜が気にしていた生徒だ。
「これ、預かる」
「あ……」
「代わりに、後でちゃんと話聞いてやる。逃げんなよ」
「どうして」
「困ってるやつを放っておくと、桜夜がうるせえから」
そう言ってから、ホムラは少しだけ眉を寄せた。
違う。
桜夜がうるさいからではない。
名もなき騎士団。
名前を聞かずに隣へ立つための場所。
自分はいつの間にか、その任務の中にいる。
そんな気がした。
◇◇◇
同じ頃。
日本。
四方院本邸の奥にある、宗主の私室。
そこには、玄武がいた。
蝋燭だけが灯る薄暗い部屋で、古い巻物と系図を前に座っている。
白虎は動く。
いや、すでに動こうとしている。
玄武はそれを読んでいた。
白虎にとって、水希桜夜は野良犬である。
だが、ただの野良犬ではない。
次期宗主候補、四方院一の弟分。
兄弟の盃を交わした男。
一が宗主となり、桜夜が相談役となる未来は、白虎にとって最も面白くない形だ。
だからこそ、白虎は桜夜を狙う。
桜夜の出自を突く。
水希の名を仮初めと罵る。
血筋ではないと叫ぶ。
ならば。
血筋の外から入れればいい。
玄武は、系図の一点に指を置いた。
四方院一。
その妻。
まだ生まれていない子。
そこへ、ひとつの魂を結ぶ。
水希桜夜が、四方院家の姻戚となる道。
白虎が「野良犬」と罵るほど、四方院家そのものへ牙を剥くことになる道。
だが、そのためには必要な魂があった。
あずさ。
桜夜が生涯忘れず、待ち、探し続けた少女。
かつて死に、転生を約束した魂。
玄武は静かに笑った。
「すまんな、盟友よ。お前の痛みまで、盤上に置く」
だが、ためらいはなかった。
宗主とは、そういうものだ。
守るためなら、情さえ使う。
利用するのではない。
置くべき場所へ、置く。
その違いを、玄武は自分でよくわかっていた。
いや、わかっているつもりだった。
「泰山府君に会う」
玄武は独り言のように呟いた。
かつて初代タオが踏み越えた試練。
大陰陽師、安倍晴明が越えた道。
死と生の帳の奥に立つ神へ会うための試練。
普通の陰陽師なら、命を落とす。
名のある術者でも、魂を削られる。
だが、玄武は四方院宗主だった。
長命の怪物。
四方院家の盤面を百年先まで読む男。
彼は、試練の門を易々と踏み越えた。
◇◇◇
そこは山ではなかった。
宮でもなかった。
夜の底にある、巨大な帳の前だった。
足元には、数え切れないほどの名が流れている。
生者の名。
死者の名。
忘れられた名。
まだ生まれていない名。
名の川。
その向こうに、泰山府君はいた。
姿は定まらない。
老人にも見える。
少年にも見える。
神にも、ただの記録係にも見える。
「四方院玄武」
声がした。
「長命の者が、また余計なことをしに来たか」
「余計とは失礼な」
玄武は笑った。
「必要な交渉じゃ」
「安倍晴明もそう言った。お前の先祖もそう言った」
「なら、わしも同じように言おう。人を救うためじゃ」
「人を救う者ほど、魂を動かしたがる」
「魂は動くものじゃろう」
「勝手には動かぬ」
泰山府君の気配が、深くなる。
「何を求める」
「一人の少女の魂」
「名は」
「如月あずさ」
名の川が、わずかに波打った。
「その魂は、すでに巡りの中にある」
「知っておる」
「ならば、なぜ求める」
「転生先を定めたい」
「誰のために」
「四方院家のために」
玄武は答えた。
そして少し間を置く。
「水希桜夜のためにも」
泰山府君は沈黙した。
その沈黙の中で、無数の名が流れていく。
「それは救いか」
「救いであり、策でもある」
「正直だな」
「神相手に嘘をつくほど若くはない」
玄武は淡々と続けた。
「白虎が動く。水希桜夜を野良犬と罵り、四方院家の外へ押し出そうとするじゃろう。ならば、四方院一とその妻の子に、あずさの魂を宿す。桜夜は、未来においてその子と縁を持つ。姻戚となる。白虎が桜夜を否定すれば、一の血筋をも否定することになる」
「魂を政争の道具にするか」
「否定はせん」
玄武は目を細めた。
「だが、あの少女もまた桜夜を探しておる。桜夜もまた、あの少女を探しておる。わしは、会うべき者たちの道を少しだけ近づける」
「少しだけ、か」
「少しだけじゃ。選ぶのは本人たちじゃ」
泰山府君の気配が、静かに揺れた。
「四方院玄武。お前は策士だが、優しくはない」
「知っておる」
「情がないわけでもない」
「それも知っておる」
「だから厄介だ」
玄武は笑った。
「よく言われる」
泰山府君の前に、一つの光が現れた。
淡く、白い。
だが、白い船の白とは違う。
朝の白に近い。
病室の窓から差し込む光。
桜夜が忘れられなかった少女の白。
如月あずさの魂。
「条件がある」
泰山府君が言った。
「聞こう」
「記憶は持たせぬ」
「当然じゃな」
「縁は結ぶが、強制はせぬ」
「それでよい」
「そして、その子が生まれた時、桜夜に真実を告げるかどうかは、お前ではなく時が決める」
玄武は少しだけ目を細めた。
「わしではなく?」
「お前ではない。桜夜でもない。あずさでもない。時だ」
玄武は、しばらく黙った。
「それでは意味がない」
「意味はある。桜夜とあずさのえにしは、出雲で日本の神々が強く結んだ。そして恐らく天使を名乗る者も介入する」
玄武は桜夜から聞いたガブリエルのことを思い出す。「受胎告知」。それに似た何かがある気がした。ゆえに、頷いた。
「よかろう」
「ならば、持っていけ」
光が玄武の前へ降りる。
玄武は両手を出し、その魂を受け取った。
軽い。
あまりにも軽い。
だが、その軽さの中に、ひとりの人生があった。
「礼を言おう、泰山府君殿」
「礼は不要だ。代償は後で払われる」
「誰が払う」
「さあな」
玄武は、そこで初めてわずかに眉を動かした。
泰山府君の声は、もう遠ざかっていた。
「白い船に気をつけろ、四方院玄武。名を奪うものは、血よりもえにしを嫌う」
玄武は、光を抱えたまま、夜の帳を後にした。
◇◇◇
放課後。
桜夜たちは王室が用意した邸宅ではなく、学校近くの仮拠点に集まっていた。
リオの情報。
サイカの聞いた話。
ホムラが回収した紙。
桜夜が見つけたノート。
すべてが机の上に並ぶ。
静馬は通信越しに参加していた。
「まず、整理しましょう」
リオが言った。
「学園内には旧礼拝堂に関する複数の噂があります。第一に、悪魔憑き。第二に、白い船の夢。第三に、名前を書く儀式。第四に、書かれた者が苦痛や記憶を忘れるという噂」
「救いはすぐそこにある、という言葉も一致している」
桜夜が続ける。
「日本の事件と繋がっている可能性は高い」
サイカが小さく手を上げた。
「エレノアの友達が、礼拝堂へ行ったあと学校を辞めたみたい」
「名前は?」
「まだ聞けてない。でも、エレノアはかなり気にしてる」
ホムラが白い紙を机に置いた。
「オレはこれを回収した。エレノアの名前が書いてある。持ってたやつは、エレノアに忘れてほしいことがあるらしい」
リオが紙を確認する。
「筆跡は?」
「震えてる。たぶん本人も怖がってた」
静馬の声が端末から響いた。
「問題は、その紙が単なる迷信で終わるかどうかだ。書かれた名前が、白い船に引き渡される仕組みなら危険だ」
「つまり、名前を書かれたエレノアが次の対象になるかもしれない」
サイカの顔が強張る。
「助けないと」
「助けるよ」
桜夜は静かに言った。
「名もなき騎士団の任務として」
ホムラが頷く。
「名前を使って誰かを消すなんて、気に入らねえ」
「同感です」
リオも頷いた。
「名前は奪うものではありません。戻るための手がかりです」
サイカは桜夜を見た。
「桜夜さんも、ちゃんと戻ってきてね」
「うん」
その時、桜夜の端末が鳴った。
日本からの暗号通信。
宗主回線ではない。
だが、玄武の側近を経由した最高優先度の通達だった。
リオが即座に確認する。
「桜夜様。宗主様より、短文です」
「読んで」
リオは一瞬だけ眉を寄せた。
そして読み上げた。
「お前には婚約をしてもらう」
空気が固まった。
サイカが怒りを抑えた笑みになる。
「婚約って誰と誰が?」
リオの笑みも怖い。ホムラはオーバーヒートしたようだった。
玄武が何かを動かしている。
それはわかる。
だが、その中身はまだ見えない。
見えないのに、胸の奥がざわついた。
遠く、日本の方角。
淡い白が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
白い船の白ではない。
病室の朝の白。
あずさの白。桜の様子にサイカに心配が戻った。
「桜夜さん?」
サイカが声をかける。
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
桜夜は息を整えた。
「たぶん、宗主様が何かとんでもないことをしている気がする」
「止めなくていいのか?」
ホムラが聞く。そこには僅かな嫉妬があった。
「宗主様を止めるのは無理」
「従うのかよ」
「従わないよ」
桜夜は机の上の紙を見ながら言った。あずさとの約束、少女たちの求婚。それらを無視して婚約などする気はない。だから無視して別のことを考える。
エレノア・グレイ。
救いはすぐそこにある。
十三番目の席は、まだ空いている。
旧礼拝堂。
悪魔憑き。
白い船。
名前を書く儀式。
日本では玄武が何かを動かし、英国では白い船が生徒たちの名前に手を伸ばしている。
盤面が増えていく。
だが、桜夜は一人ではない。
「明日、エレノアに話を聞く」
桜夜は言った。
「それから、旧礼拝堂の周辺を調べる。中にはまだ入らない。まずは入口と噂の経路を確認する」
リオが頷く。
「承知しました」
「サイカちゃんは、エレノアのそばにいて」
「うん」
「ホムラちゃんは、名前を書いた子の方を見てほしい。責めるんじゃなくて、守る方向で」
「わかってる」
「リオちゃんは図書室と記録」
「はい」
「静馬くんは、眠った作業員のデータ分析を」
「すでに始めている」
「頼もしいね」
静馬は端末越しにため息をついた。
「君は自分の状態管理を忘れるな」
「はい」
「特に睡眠だ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「重く返事をする方法がわからない」
「はあ」
「わたしが見ておくから」
サイカが真面目に。
桜夜は苦笑した。
その時、窓の外で風が吹いた。
白いものが一枚、ガラスに貼りつく。
花びらだった。
英国のこの季節、この場所にあるはずのない白い花びら。
桜夜は立ち上がった。
花びらには、細い文字が浮かんでいた。
次の名を、船へ。
サイカが息を呑む。
ホムラの炎が、指先に灯る。
リオが静かに記録を始める。
桜夜は、白い花びらを見つめた。
「やっぱり、待ってはくれないか」
遠くで、船が軋む音がした。
十三番目の椅子は、水希桜夜を待っている。
だが今、船が求めているのは桜夜だけではない。
エレノアの名。
学園の少女たちの名。
そして、もしかしたら。
日本で玄武が動かした、まだ生まれていないえにしの名。
桜夜は目を閉じなかった。
「次の名なんて、渡さない」
静かにそう言った。
名もなき騎士団の帰還任務は、またひとつ形を変えた。
名前を奪われる前に、隣へ立つ。
それが、今度の任務だった。




