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黒の騎士と三原色の少女たち~old testament~  作者: スナオ
第三章 英国王との絆
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第21話 珍獣教師と三人の留学生

 聖マリアンナ女子大学付属高等学校は、英国の古い町外れにあった。


 赤茶けた煉瓦造りの校舎。


 蔦の絡まる壁。


 手入れの行き届いた中庭。


 遠くからでも目につく礼拝堂の尖塔。


 曇り空の下に立つその学校は、絵葉書の中から抜け出してきたように美しかった。


 だが、桜夜はその美しさを素直に楽しめなかった。


 正門の前に立った瞬間、胸の奥に妙な引っかかりが生じたからだ。


 知っている。


 いや、知らない。


 この世界の桜夜は、この学校へ来たことがない。


 それなのに、中庭の形も、礼拝堂へ続く石畳も、校舎二階の窓の並びも、どこかで見たことがあるような気がした。


 黒い獅子。


 女子生徒の悲鳴。


 走ってくるホムラ。


 桜吹雪の柄に触れる指。


 一瞬だけ、そんな断片が白い霧の向こうで揺れた。


「桜夜さん」


 隣からサイカが声をかける。


「大丈夫?」


 桜夜は瞬きをした。


 目の前にあるのは、ただの校門だった。


 白い船でも、十三番目の椅子でもない。


「大丈夫。少し既視感があっただけ」


「また?」


「うん」


「行ったこと、ないんだよね?」


「少なくとも、この世界ではね」


 サイカは少し不安そうに眉を下げた。


 その後ろで、リオが制服の襟元を整えている。


 彼女はすでに完璧な留学生だった。


 濃紺のブレザー。


 白いブラウス。


 膝丈のスカート。


 長い髪は上品にまとめられ、立っているだけで周囲の空気が整う。


 ホムラはというと、同じ制服を着ているにもかかわらず、なぜか騎士団の少年兵のように見えた。


 本人はスカートが気に入らないらしく、朝から何度も裾を引っ張っている。


「なあ、本当にこれ着なきゃだめなのか」


「留学生なので」


 リオが即答する。


「動きにくい」


「暴れなければ問題ありません」


「それが問題なんだよ」


「ホムラちゃん、今日は暴れないでね」


 桜夜が言うと、ホムラは不満そうに睨んできた。


「相手が何もしなけりゃな」


「初日からその返事は不安だなあ」


「お前が言うな。珍しい日本人の男教師として目立つの、そっちだろ」


「僕は目立たないようにするよ」


 リオとホムラが、ほぼ同時に桜夜を見た。


 サイカだけが、少し困ったように笑う。


「桜夜様」


 リオが静かに言った。


「それは難しいかと」


「どうして?」


「この学校は女子校です。そこへ、珍しい日本人男性が臨時教師として赴任するのですから」


「日本語教師として普通に授業をするだけだよ」


「珍獣」


 ホムラの言葉に桜夜は怖い笑みを浮かべた。


「誰が珍獣かな」


「お前」


「ひどい」


 サイカが慌てて間に入る。


「だ、大丈夫だよ。桜夜さんなら、ちゃんと先生できるよ」


「サイカちゃんだけが優しい」


「でも、たぶん見られると思う」


「サイカちゃん?」


「珍しいから」


 桜夜は静かに空を見上げた。


 英国の空は灰色だった。


 逃げ場はなさそうだった。


◇◇◇


 校長室での挨拶は、予想よりも穏やかに進んだ。


 校長は初老の女性で、上品な銀髪を後ろでまとめていた。


 王室からの推薦状と、臨時教師としての書類はすべて整っている。


 表向き、桜夜は日本文化と日本語の短期講師。


 サイカ、リオ、ホムラは日本からの特別留学生。


 静馬は学校医との共同研究および留学生の健康管理担当として、近隣の王室関係施設に待機している。


 もちろん、すべては潜入のための肩書きだった。


 旧礼拝堂。


 白い花びら。


 眠った作業員。


 悪魔憑きの噂。


 そして、サタンを名乗る者からの手紙。


 それらを調べるには、外から眺めるだけでは足りない。


 学校の中に入る必要がある。


「ミズキ先生」


 校長が穏やかに言った。


「本校では、日本文化に関心を持つ生徒も多くおります。短い期間ではありますが、どうかよろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 桜夜は丁寧に頭を下げた。


 校長は次に、サイカたちを見る。


「皆さんも、困ったことがあれば遠慮なく相談してくださいね」


「はい。よろしくお願いします」


 サイカが礼儀正しく答える。


 リオは優雅に一礼した。


「お世話になります」


 ホムラは少し遅れて、ぎこちなく頭を下げる。


「よろしく、お願いします」


 スカートが気になっているらしく、動きが妙に硬い。


 校長はそれを微笑ましそうに見ていた。


 桜夜は内心で、どうか今日は何も起きないでほしいと願った。


 だが、そういう願いほど、だいたい叶わない。


◇◇◇


 最初に騒ぎが起きたのは、桜夜の授業だった。


 一年生向けの日本語入門。


 教室へ入った瞬間、生徒たちの視線が一斉に集まる。


 静かだった。


 あまりにも静かだった。


 その沈黙の中に、好奇心だけが異様な密度で詰まっている。


 桜夜は黒板の前に立ち、白いチョークを持った。


「はじめまして。水希桜夜です。しばらくの間、日本語と日本文化の授業を担当します」


 英語でそう言うと、教室中がざわっと揺れた。桜夜は上流階級が使うタイプの英国式英語を使う。アメリカ人相手ならともかくイギリス人ならそこまでいやがられないだろうとは思っていた


 金髪の生徒が隣の友人に耳打ちする。


 黒髪の子が目を丸くする。


 後ろの席の生徒は、なぜか小さく手を合わせていた。


 祈られているのだろうか。


「先生、日本人ですか?」


 一人の生徒が手を挙げて聞いた。


「はい」


「本物の?」


「偽物の日本人というものがあるのかな」


 小さな笑いが起きた。


 別の生徒が続ける。


「髪、黒いんですね」


「日本人なので」


「目も黒い」


「そうですね」


「お箸、使えますか?」


「使えます」


「刀も使えますか?」


 桜夜は一瞬だけ黙った。


 使える。


 かなり使える。


 だが、ここで正直に答えるべきではない。


「授業では使いません」


 教室に笑いが広がった。


 さらに別の生徒が手を挙げる。


「先生、忍者ですか?」


「違います」


「サムライ?」


「違います」


「陰陽師?」


「違います」


「じゃあ、何ですか?」


 桜夜は少し考えた。


 相談役。


 神殺し。


 黒の騎士。


 野良犬。


 名もなき騎士団の最初の相棒。


 どれも、この教室では不適切だった。


「日本語教師です」


 そう答えると、なぜか拍手が起きた。


 桜夜はチョークを持ったまま、少し遠い目をした。


 珍獣扱い。


 ホムラの言葉は、残念ながら当たっていた。


「では、まずは簡単な挨拶から始めましょう」


 桜夜は黒板に、ひらがなで書いた。


 こんにちは。


 ありがとう。


 おかえり。


 最後の言葉を書いた瞬間、桜夜の指がわずかに止まった。


 おかえり。


 帰ってくるための言葉。


 白い船から引き戻すための言葉。


 サイカがよく言ってくれる言葉。


 桜夜はすぐに表情を戻し、振り返った。


「この三つを、今日は覚えてください」


 生徒たちは楽しそうに発音を真似した。


「こんにちは」


「ありがとう」


「おかえり」


 その声が教室に重なる。


 桜夜は、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。


 知らない国の女子校。


 潜入任務。


 白い船の入口かもしれない場所。


 それでも、教室の中に響く「おかえり」は、悪くなかった。


◇◇◇


 一方、サイカは驚くほど自然に馴染んでいた。


 昼休み。


 食堂の一角で、サイカは数人の生徒に囲まれていた。


 囲まれていると言っても、桜夜のような珍獣観察ではない。


 普通に友達になっていた。


「サイカ、これ食べられる?」


「うん。ありがとう」


「日本では毎日お米を食べるって本当?」


「毎日とは限らないけど、食べることは多いかな」


「あなた、料理はするの?」


「するよ。前は洋食ばっかりだったけど、最近、和食も教えてもらったの」


「和食!」


 生徒たちの目が輝く。


 サイカは少し照れながら笑った。


「まだ練習中だけどね。お味噌汁とか、卵焼きとか」


「いつか食べてみたい」


「うん。機会があったら」


 サイカの笑顔は、柔らかかった。


 警戒心をほどく力がある。


 桜夜が遠くから見ていてもわかるほど、生徒たちはサイカに安心していた。


 そのうち、一人の少女が少し声を落とした。


「ねえ、サイカ。日本の先生って、みんなあんな感じなの?」


「あんな感じ?」


「ミズキ先生。優しいけど、ちょっと変」


 サイカは一瞬迷ってから、笑った。


「桜夜さんは、桜夜さんだから」


「仲良しなの?」


「うん」


 迷いのない返事だった。


「とても大事な人」


 そう言ったサイカの顔を見て、生徒たちは一瞬だけ黙った。


 その沈黙は、からかいではなかった。


 誰かが大事な人の話をするときの、少し眩しいものを見るような沈黙だった。


 それから、一人が小さく笑う。


「素敵ね」


「うん」


 サイカは嬉しそうに頷いた。


「でも、すぐ無理するから、ちゃんと見てないとだめなの」


「ミズキ先生が?」


「うん」


「先生なのに?」


「先生でも」


 サイカは真面目な顔で言った。


「帰ってくるのが下手な人だから」


 その言葉を、生徒たちはよくわからないまま聞いていた。


 けれど、サイカの声があまりに優しかったので、誰も笑わなかった。


◇◇◇


 リオは、別の意味で目立っていた。


 午後の文学の授業。


 留学生として参加したリオは、教師に促されて簡単な自己紹介をした。


 それだけだった。


 それだけのはずだった。


 だが、彼女の発音、立ち姿、微笑み、質問への受け答え、教科書を開く指先の動きまでが、あまりにも整っていた。


 授業が終わる頃には、周囲の生徒たちの目が変わっていた。


「リオ様」


 一人が、思わずそう呼んだ。


 リオは一瞬だけ目を瞬かせた。


「様?」


「ご、ごめんなさい。でも、なんだかそう呼びたくなって」


 別の生徒が頷く。


「わかる。お姉さまって感じ」


「お姉さま……」


 リオは少し困ったように微笑んだ。


「わたくしは留学生ですので、皆さまと同じ生徒です」


「でも、リオ様はリオ様です」


「そうですわ」


「ぜひ、勉強を教えてください」


「立ち居振る舞いも」


「髪の結い方も」


 気づけば、リオの周りに小さな輪ができていた。


 リオはしばらく考えた。


 潜入任務において、人間関係を築くことは有益である。


 情報の流れを掴むにも、学園内の噂を聞くにも、信頼は必要だ。


 そして、彼女は桜夜の秘書官である。


 与えられた状況を、最も効率よく使うべきだ。


「では」


 リオは静かに微笑んだ。


「放課後、図書室で少しだけ勉強会をいたしましょうか」


 歓声が上がった。


 その声が廊下まで響き、通りかかった桜夜が足を止める。


 教室の中を見ると、リオが完全に「お姉さま」として囲まれていた。


 桜夜は小さく呟いた。


「リオちゃん、すごいな」


 隣にいた教師が、真剣な顔で言った。


「彼女は、本当に留学生なのですか?」


「はい」


「どこかの貴族ではなく?」


「違うと思います」


「思います?」


「いえ、違います」


 桜夜は軽く咳払いした。


 リオは視線だけで桜夜に気づき、優雅に一礼する。


 その瞬間、周囲の生徒たちがまた小さく騒いだ。


 お姉さまが先生に礼をした。


 先生は何者なのか。


 珍獣教師の評価が、さらに妙な方向へ進んだ気がした。


◇◇◇


 ホムラが王子様扱いされるまでに、時間はかからなかった。


 始まりは、ただの階段だった。


 移動教室の途中、一人の生徒が足を滑らせた。


 悲鳴。


 落ちかける身体。


 周囲が反応するより早く、ホムラが動いた。


 片手で手すりを掴み、もう片方の腕で少女の腰を支える。


 ほとんど抱き上げるようにして、落下を止めた。


「危ねえな」


 ホムラは眉を寄せる。


「大丈夫か?」


 助けられた少女は、真っ赤になってホムラを見上げた。


「は、はい……」


「足、ひねってねえか」


「だ、大丈夫です」


「ならいい」


 ホムラは少女を立たせようとした。


 だが、少女の腰が抜けた。


「おい」


「す、すみません」


「仕方ねえな」


 ホムラはそのまま彼女を軽々と抱き上げた。


 周囲が静まり返る。


 女子校の階段で、ボーイッシュな留学生が、倒れかけた少女を横抱きにしている。


 数秒後。


 黄色い悲鳴が上がった。


「ホムラ様!」


「王子様みたい!」


「今の見た?」


「見た!」


 ホムラは顔をしかめた。


「なんだよ、うるせえな」


 助けられた少女は、ホムラの腕の中で完全に固まっている。


 そこへ桜夜が通りかかった。


「ホムラちゃん」


「あ、桜夜」


「初日から何をしているのかな」


「転びかけたから助けただけだ」


「それは偉い」


「だろ」


「でも、その抱え方は少し目立つ」


「歩けねえみたいだから仕方ねえだろ」


 桜夜は周囲の熱狂を見た。


 手遅れだった。


「王子様だって」


「誰がだ」


「ホムラちゃんが」


「やめろ」


 ホムラの顔が少し赤くなる。


 その反応を見て、周囲の生徒たちはさらに沸いた。


「照れてる!」


「かわいい!」


「王子様なのにかわいい!」


「やめろって言ってんだろ!」


 怒鳴りかけたホムラの肩に、桜夜が軽く手を置いた。


「ホムラちゃん、ここは学園。穏便に」


「う……」


「助けた子を保健室へ連れていこう」


「わかった」


 ホムラは少女を抱えたまま歩き出す。


 その後ろを、なぜか何人もの生徒がついていく。


 桜夜はその列を見送り、静かに呟いた。


「王子様か」


 似合わないようで、似合っている。


 不器用で乱暴で、けれど困っている者を放っておけない。


 ホムラは、自分が思っているよりずっと騎士に近い。


 そう思ったところで、桜夜ははたと気づいた。


 名もなき騎士団。


 名前を聞かずに隣へ立つための場所。


 ホムラは、きっと何も知らずにそれをしている。


◇◇◇


 放課後。


 学園の空気は、初日とは思えないほど彼らを中心に動いていた。


 桜夜は、職員室の片隅で授業記録を書いていた。


 だが、机の前には生徒が列を作っている。


「ミズキ先生、日本語で名前を書いてください」


「あとで順番にね」


「先生、日本の怪談を知っていますか?」


「授業時間外に怪談はどうかな」


「先生は本当に刀を使わないんですか?」


「使いません」


「でも、似合いそう」


「ありがとう?」


 完全に珍獣観察である。


 サイカは友人たちに誘われ、食堂でお茶会の約束をしている。


 リオは図書室で小規模な勉強会を開くことになり、すでに参加希望者が増えていた。


 ホムラは廊下を歩くたびに「ホムラ様」と呼ばれ、耐えきれず逃げ回っている。


 潜入は、成功しているのかもしれない。


 少なくとも目立たないという意味では、完全に失敗している。


 桜夜は授業記録を閉じ、ため息をついた。


「初日から濃いな」


 その時、机の上に一冊のノートが置かれた。


 女子生徒のものだ。


 授業で回収した練習用ノート。


 桜夜は順に確認していく。


 ひらがなの練習。


 こんにちは。


 ありがとう。


 おかえり。


 どれも不慣れながら、丁寧に書かれている。


 その中の一冊で、桜夜の手が止まった。


 余白に、小さな英語の文字があった。


 本人が意識して書いたというより、無意識の落書きに近い。


 だが、内容は明らかに普通ではなかった。


 Salvation is near.


 救いは、すぐそこにある。


 桜夜の呼吸が、わずかに浅くなる。


 横浜の事件。


 水無瀬ミライ。


 白い船。


 眠りへ誘う言葉。


 桜夜はノートを閉じようとして、もう一つの文字に気づいた。


 ページの端。


 ほとんど擦れて見えない場所に、日本語で書かれていた。


 十三番目の席は、まだ空いている。


 日本語。


 桜夜が今日、教えていない言葉。


 この生徒が書けるはずのない文。


「桜夜様」


 声がして、桜夜は顔を上げた。


 リオが立っていた。


「お疲れのようですが」


「リオちゃん」


「何かありましたか」


 桜夜はノートを見せた。


 リオの表情が変わる。


「これは」


「白い船だと思う」


「生徒の名前は?」


 桜夜はノートの表紙を見る。


 そこには英語で、エレノア・グレイと書かれていた。


 その名前を見た瞬間、桜夜の耳の奥で、遠く船が軋んだ。


 同時に、職員室の窓の外。


 中庭に面した教室の一つで、誰も座っていないはずの席が見えた。


 窓際。


 一列に十二の机。


 その奥に、あるはずのない十三番目の机。


 白い椅子。


 桜夜は立ち上がりかけた。


「桜夜さん!」


 廊下からサイカの声が飛んだ。


 その声で、視界が戻る。


 中庭の教室には、普通の机しかなかった。


 白い椅子もない。


 十三番目の席もない。


 サイカが職員室の入口に立っている。


 息を切らし、こちらを見ていた。


「今、遠くに行きそうだった」


「うん」


 桜夜はゆっくり座り直した。


「戻った」


 リオが静かにノートを閉じる。


「初日から、当たりを引いたようですね」


「そうみたいだ」


 桜夜は、表紙の名前をもう一度見た。


 エレノア・グレイ。


 普通の女子生徒。


 少なくとも、今日の授業ではそう見えた。


 だが、白い船は彼女の手を使って言葉を残した。


 あるいは、彼女自身が既に岸へ近づいている。


 サイカが桜夜の隣に来て、そっと手を握った。


「桜夜さん」


「うん」


「学園生活、楽しそうだったのにね」


「そうだね」


「でも、まだ終わりじゃないよね」


「もちろん」


 桜夜は、小さく笑った。


 珍獣教師。


 三人の留学生。


 お茶会。


 お姉さま。


 王子様。


 少しだけ普通の学園生活を味わえた気がした。


 けれど、白い船は待ってくれない。


 十三番目の椅子は、水希桜夜を待っている。


 そして今、その影は女子校の教室にまで入り込んでいる。


 桜夜はノートを手に取った。


「まずは、エレノア・グレイを調べよう」


 サイカが頷く。


「うん。一緒に」


 リオも静かに頷いた。


「放課後の勉強会で、彼女の周辺情報を集めます」


「ホムラちゃんにも伝えないと」


「ホムラちゃんは今、親衛隊から逃走中です」


「親衛隊」


「ホムラちゃんを王子様と慕う方々です」


「なるほど」


 桜夜は少し笑った。


 その笑いが残っているうちは、大丈夫だ。


 帰ってこられる。


 まだ、ここにいられる。


 窓の外では、英国の曇り空がゆっくりと白く沈んでいた。


 その白の向こうで、船がまた軋む。


 だが、職員室にはサイカの手の温度がある。


 リオの静かな視線がある。


 遠くから、ホムラの「追ってくんな!」という声も聞こえてくる。


 桜夜は目を閉じなかった。


 白い船の席へ向かうには、まだ早い。


 何しろ彼は、明日も日本語教師として授業をしなければならないのだから。

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