第20話 王の相談
英国行きの専用機は、雲の上を静かに進んでいた。
窓の外は、どこまでも白い。
雲の白。
朝の光を含んだ白。
それは白い船の白とは違うはずなのに、桜夜は少しだけ目を細めた。
十三番目の椅子。
名を失った親友。
白い船の岸。
それらが、意識の奥でまだ軋んでいる。
だが今、桜夜の前にあるのは夢の岸ではない。
現実の英国だった。
天皇の名代として、英国王リチャードに謁見する。
同時に、玄武の命で身を隠す。
さらに、リチャード本人から届いた短いメール。
相談がある。
それだけだった。
白虎の盤面から一時的に外れたはずなのに、盤面そのものが別の国へ移っただけのようにも思えた。
「桜夜さん」
隣からサイカが声をかける。
「大丈夫?」
「うん」
「外、見すぎ」
「そう?」
「うん。白いから?」
サイカは、桜夜が見ていたものを察していた。
桜夜は少しだけ笑う。
「サイカちゃんは鋭いね」
「見てるから」
「ありがとう」
サイカは、自然に桜夜の手を握った。
「白い船じゃないよ」
「うん。これは雲だ」
「そう。雲」
サイカは少し力を込めた。
「だから、戻ってきて」
「まだどこにも行ってないよ」
「行きそうだった」
「そっか」
桜夜は、握られた手を見る。
手の温度がある。
それだけで、白はただの白に戻る。
前の席では、リオが英国側の儀礼資料と警備計画を読み込んでいた。黒のスーツに水色のブラウス。秘書官としての表情だが、時折こちらへ視線を向けてくる。
ホムラは通路を挟んだ席で、腕を組んでむすっとしていた。
「イギリスって、またあれか。フィッシュアンドチップスばっか食う国か」
「毎日食べなくてもいいよ」
「前に来たとき、オレが毎日食おうぜって言ったらねえちゃんたち嫌そうな顔してた」
「毎日は嫌だよ」
「うまいのに」
「おいしいけど、毎日はね」
ホムラは不満そうに鼻を鳴らす。
静馬は少し離れた席で医療端末を確認していた。
鳳凰の弱体化。
白い船への感応。
桜夜の睡眠状態。
それらを数値化できる範囲でまとめている。
「機内では少しでも眠れ」
静馬が画面から目を離さずに言った。
「一人じゃないなら、少しは眠れるだろう」
「医者らしい指示だね」
「医者だからな」
「友人としては?」
「寝ろモルモット」
「厳しい」
「モルモットにはこれでちょうどいい」
桜夜は苦笑した。
サイカが手を握ったまま、少し身を寄せる。
「寝てもいいよ。わたし、起こすから」
「ありがとう」
「白い船に行きそうになったら、ちゃんと呼ぶ」
「うん」
桜夜は目を閉じた。
飛行機の揺れ。
エンジン音。
サイカの手の温度。
そのどれもが、白い船の岸とは違う現実の感触だった。
それでも、眠りの縁に立つと、遠くで船が軋む。
十三番目の椅子が、水希桜夜を待っている。
だが、桜夜はその椅子を見ない。
代わりに、昔の英国を思い出した。
十四歳。
古本屋。
銃声。
リチャード王子の暗殺未遂。
犯人を捕まえたのに、なぜか自分まで牢に入れられた記憶。
あのときから、英国は桜夜にとって少し面倒な国だった。
そして、面倒な国には、面倒な王がいる。
◇◇◇
ロンドンは曇っていた。
灰色の空。
濡れた石畳。
古い建物の影。
何度来ても、英国の空気には独特の重さがある。
桜夜たちは、表向きには天皇の名代としての公式行程に従っていた。
空港での出迎え。
大使館関係者との短い挨拶。
王室側の儀礼担当者との確認。
リオは完璧に対応した。
ホムラは礼儀作法を叩き込まれすぎて、すでに不機嫌だった。
サイカは緊張しながらも、桜夜の隣を離れなかった。
静馬は医療スタッフ扱いで同行しているが、その顔には「なぜ僕が外交行事にいる」という不満がうっすら出ている。
そして桜夜は、モーニングに袖を通していた。
昔、玄武が用意させたものとよく似ている。
身体に合いすぎているところまで同じだった。
「桜夜様、襟元を」
リオが近づき、手早く整える。
「ありがとう」
「緊張なさっていますか」
「少しね」
「リチャード国王陛下とはご友人なのでしょう?」
「友人だからこそ面倒なんだよ」
リオは少しだけ笑った。
「確かに、王であり友である方の相談は、ただの公務では済まないでしょうね」
「そういうこと」
ホムラが袖を引っ張りながらぼやく。
「この服、動きにくい」
「今回は暴れる予定はありません」
リオが即座に言う。
「予定はな」
「ホムラちゃん、頼むから王宮で暴れないで」
「リチャードってやつが変なこと言わなけりゃな」
「それは保証できない」
「おい」
サイカは、桜夜のモーニング姿を見て、少し頬を赤くしていた。
「桜夜さん、似合ってる」
「服に着られてない?」
「ううん。かっこいい」
まっすぐ言われて、桜夜は一瞬だけ言葉に詰まった。
「ありがとう」
「うん」
そのやり取りを見たホムラが、面白くなさそうに舌打ちした。
リオはそれを見て微笑み、静馬は興味なさそうに脈拍計を確認している。
その空気のまま、桜夜たちは王宮へ向かった。
◇◇◇
謁見の間は、以前と同じようで、少し違っていた。
王が代われば、同じ場所でも空気が変わる。
リチャードは玉座の前に立っていた。
すらりとした長い手足。
金髪。
澄んだ蒼い瞳。
王としての威厳をまといながらも、その目の奥には、昔から変わらない悪戯っぽさがある。
桜夜は一歩進み、片膝をついた。
両手で親書を捧げ持つ。
「偉大なるリチャード国王陛下。この度、我が国よりのご挨拶と、四方院玄武よりの親書をお納めください」
側近が親書を受け取り、リチャードへ渡す。
サイカ、リオ、ホムラも頭を下げた。
静馬は少し後方で控えている。
リチャードは親書に目を通し、それから桜夜を見下ろした。
数秒だけ、王の顔をしていた。
次の瞬間、にかっと笑った。
「桜夜卿、面を上げよ」
「はっ」
桜夜が顔を上げると、リチャードは日本語で続けた。
「そう固くなるな。余たちは友達だろう?」
「国王陛下」
「リチャードでよい」
「リチャード国王陛下」
「なぜ増やす」
「礼儀です」
「お前は昔から、妙なところで頑固だな」
「陛下ほどではありません」
リチャードは楽しげに笑った。
謁見の間にいた側近たちの何人かも、慣れているのか表情を変えない。
慣れていない者だけが、わずかに困惑していた。
「そちらのレディたちも、顔を上げるがよい」
サイカたちは恐る恐る顔を上げた。
リチャードは彼女たちを見て、目を細める。
「以前にも増して、桜夜の周りは華やかだな」
「陛下」
「わかっている。褒めただけだ」
「あなたの褒め言葉は時々、火種になります」
「王とは火種を扱う者だ」
「迷惑な王ですね」
「友人にだけは言われたくない」
桜夜とリチャードは、しばらく視線を交わし、それから同時に小さく笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
だが、リチャードの目が次に見せたものは、笑いではなかった。
「桜夜」
王の声ではない。
友人の声だった。
「食事をしながら話そう。ここでは、少し固すぎる」
「相談ですね」
「ああ」
リチャードは親書を側近に渡し、短く命じた。
「サンルームへ」
◇◇◇
案内されたサンルームは、庭園に面していた。
大きな窓の向こうには、手入れされた芝生と、雨に濡れた薔薇が見える。
テーブルには、サンドイッチ、スコーン、紅茶。
以前とよく似た光景だった。
違うのは、そこに立つ女性が、ただのメイドではなくなっていたことだ。
紫の髪を上品にまとめた女性。
マリー。
以前、リチャードが「妻になる女」と紹介した人。
今は、その立場にふさわしい落ち着きをまとっていた。
「お久しぶりでございます、桜夜様」
「お久しぶりです、マリー様」
「様はおやめください。昔のようにマリーで」
「そう言われましても」
「桜夜様は相変わらずですね」
マリーは柔らかく笑った。
リチャードが椅子を引きながら言う。
「こいつは余にもこの調子だ。まったく、牢に入れられた恨みを何年引きずる気なのか」
「陛下。あれは一生分の恨みです」
「命を助けた礼にしては重いな」
「命を助けた人間を牢に入れる国の王族には言われたくありません」
「父上の近衛が悪い」
「最終的に僕を使い始めたのはあなた様です」
「友人に頼っただけだ」
「便利にこき使っただけでしょう」
サイカたちは、目の前で国王と普通に言い合う桜夜を見て、以前よりは驚かなかった。
ただ、やはり少し慣れない。
ホムラだけは、やや楽しそうだった。
「王様相手でも言うんだな」
「桜夜は昔からこうだ」
リチャードが答える。
「牢に入れられても、余に説教したからな」
「したくもなります」
マリーが紅茶を注ぐ。
その動きは優雅だった。
サイカの前に置かれたカップから、湯気が上がる。
「ありがとうございます」
「どうぞ」
マリーは微笑み、次に桜夜の前にサンドイッチを置いた。
「こちらには、生野菜とマヨネーズを入れておりません」
サイカがぱっと桜夜を見た。
「桜夜さん、やっぱり苦手なんだ」
「……リチャード」
「余は言っておらん。マリーだ」
「マリー」
「以前から存じております」
桜夜は目を逸らした。
サイカは、何かをメモするような顔をしている。
「サイカちゃん、そこまで重大情報ではないよ」
「重大だよ。ごはん作るときに大事」
「いや、まあ、そうだけど」
リチャードはその様子を見て、面白そうに笑った。
「よかったな、桜夜。お前の嫌いなものを覚えてくれる者がいる」
その言葉は軽かった。
けれど、少しだけ深いところに触れた。
桜夜はカップに視線を落とす。
「ええ。ありがたいことです」
リチャードの笑みが、少しだけ静かになった。
そして、王の顔に戻った。
「では、本題に入ろう」
部屋の空気が変わる。
マリーも席につく。
側近の多くは下がり、残ったのはごく少数の護衛だけだった。
リチャードは、テーブルの上に一枚の写真を置いた。
古い石造りの校舎。
手入れされた中庭。
尖塔を持つ礼拝堂。
写真の下には、英語で校名が記されていた。
聖マリアンナ女子大学付属高等学校。
桜夜は、その名前を見つめた。
知らない。
少なくとも、この世界の桜夜は、まだその学校に行ったことがない。
それなのに、胸の奥で何かがひっかかった。
中庭。
黒い獅子。
女子生徒たちの悲鳴。
桜吹雪を持って走ってくるホムラ。
そんな、起きたはずのない断片が、白い霧の向こうで一瞬だけ揺れた気がした。
「桜夜さん?」
サイカが心配そうに声をかける。
桜夜は瞬きをして、写真から目を離した。
「……いや。何でもない」
「何でもない顔じゃなかったよ」
「少し、既視感があっただけ」
リチャードはその反応を見逃さなかった。
「知っているのか」
「いいえ」
桜夜は首を横に振った。
「少なくとも、僕はこの学校へ行ったことはありません」
「なら、これから行ってもらうことになる」
リチャードは指先で写真を軽く叩いた。
「余の相談は、その学校への潜入だ」
ホムラが眉を寄せた。
「潜入?」
「そうだ。聖マリアンナ女子大学付属高等学校。表向きは由緒ある女子校だが、ここ数週間、妙な噂が広まっている」
「悪魔憑きの噂、ですね」
リオが静かに言った。
リチャードは頷く。
「人間には不可能としか思えぬ事件が続いている。だが悪魔憑きと断じるには、痕跡が薄すぎる。教会も、王室付きの術師も、決定的な証拠を掴めていない」
静馬が腕を組む。
「眠りの症状は?」
「まだ表には出ていないが……」
リチャードはそこで、もう一枚の資料を出した。
「だが、封鎖された旧礼拝堂の地下で、管理作業員が三人倒れた。医学的な異常はない。意識だけが戻らない。そして現場には、これが落ちていた」
透明な袋に封じられた、一枚の白い花びら。
桜夜の目が細くなる。
サイカがすぐに彼の手を握った。
「桜夜さん」
「うん。戻ってる」
「よかった」
リチャードは、二人のやり取りを見て、少しだけ表情を引き締めた。
「その反応を見る限り、やはり日本で起きている件と繋がるか」
「可能性は高いです」
桜夜は白い花びらを見つめた。
「白い船は、英国にも入口を作ったのかもしれません」
「白い船?」
「眠りと名を奪う船です。そして、十三番目の椅子が僕を待っている」
リチャードはしばらく黙った。
それから、低く言った。
「王に聞かせるには、実に不愉快な話だな」
「友人に聞かせるなら?」
「なお悪い」
「でしょうね」
リチャードは深く息を吐き、背もたれに身体を預けた。
「桜夜。お前たちには、聖マリアンナ女子大学付属高等学校へ入ってもらう。表向きは、日本からの臨時講師と留学生だ」
「僕が教師ですか」
「日本語教師だ。お前ならできるだろう」
「できるかどうかと、やりたいかどうかは別です」
「王命だ」
「便利な言葉ですね」
「便利だから使う」
ホムラが口を挟んだ。
「つまり、オレたちは学生として入るのか?」
「ああ」
リチャードは笑みを戻した。
「サイカ嬢、リオ嬢、ホムラ嬢。三人には留学生として潜入してもらう。学校内部の人間関係、噂の出所、旧礼拝堂へ近づく生徒の有無を探ってほしい」
リオはすぐに頷いた。
「承知しました」
サイカは少し不安そうに桜夜を見る。
「桜夜さんも一緒?」
「もちろん」
「なら、大丈夫」
ホムラは腕を鳴らした。
「女子校か。面倒そうだな」
「ホムラちゃん、暴れないでね」
「相手次第だ」
「だから不安なんだよ」
リチャードは楽しそうに笑ったが、すぐに真剣な顔へ戻った。
「ただし、これは悪魔憑きの調査だけではない。旧礼拝堂から、もうひとつ妙なものが見つかっている」
マリーが静かに封筒を差し出した。
古い印が押された封筒。
英国王室でも、教会でもない。
だが桜夜には、その意匠に見覚えがあった。
命の実。
黒い獅子。
サタン。
知らないはずなのに。
まだ経験していないはずなのに。
なぜか、胸の奥でその名が結びついた。
「……サタン関連ですか」
「おそらくな」
リチャードの声が低くなる。
「封筒の中には、手紙が一枚だけ入っていた。宛名は、黒の騎士」
桜夜は、封筒を受け取った。
紙は古い。
だが、文字は新しい。
英語で書かれている。
癖のある、妙に美しい筆致。
桜夜は読み始めた。
親愛なる黒の騎士へ。
君がまだ知らないはずの戦いを、君の魂は覚えているか。
黒い獅子。
命の実。
神の機構。
眠りに落ちた人々。
それらは、ある世界では既に起きた。
だが、この世界ではまだ選ばれていない。
今度の白い船は私のものではない。
秩序でも、混沌でもない。
救済を名乗る空白だ。
十三番目の椅子に座れば、君は眠る。
君が眠れば、名もなき者たちは帰り道を失う。
だから、まだ座るな。
英国の古い礼拝堂へ来い。
そこには、君が忘れたわけではないが、まだ経験していないはずの記憶が眠っている。
桜夜は、そこで読むのを止めた。
指先が、ほんのわずかに冷えていた。
「桜夜さん?」
サイカの声が近くで聞こえる。
桜夜はゆっくり息を吐いた。
「大丈夫。戻ってる」
「ほんと?」
「うん」
ホムラが低く言う。
「何て書いてあった」
「白い船はサタンのものではない。十三番目の椅子に座るな。英国の古い礼拝堂へ来い」
「それだけか?」
「もう一つ」
桜夜は手紙を見下ろした。
「僕が忘れたわけではないが、まだ経験していないはずの記憶が眠っている、と」
リオの表情が変わる。
「平行世界の記憶、でしょうか」
「可能性はある」
静馬が静かに言った。
「夢、白い船、名を失う現象。そこに平行世界の記憶が混じるなら、精神負荷はかなり高い」
「医者としての見解?」
「友人としても止めたいところだ」
「でも、行く必要はある」
「だから僕も行く」
静馬は即答した。
サイカも頷いた。
「わたしも行く」
「オレも」
「わたくしもです」
リチャードはそれを見て、少しだけ安堵したように見えた。
「桜夜。余からの条件は一つだ」
「何でしょう」
「必ず帰ってこい」
王の命令ではない。
友人の願いだった。
桜夜は、少しだけ目を伏せた。
日本でも言われた。
サイカにも。
リオにも。
ホムラにも。
静馬にも。
小春と日和にも。
そして、今度は英国王にも。
帰ってこい。
名前を呼ばれるたびに、帰り道が増えていく。
「約束します」
桜夜は答えた。
「必ず帰ってきて、陛下に文句を言います」
リチャードは満足そうに笑った。
「よろしい。それでこそ余のナイトだ」
桜夜は肩をすくめた。
「まったく、面倒な王ですね」
「面倒な騎士には、面倒な王が似合う」
ホムラが小さく笑った。
「いいじゃねえか。帰って文句言う騎士」
リオも頷く。
「帰還任務と一致します」
サイカは桜夜の手を握った。
「桜夜さん、また約束増えたね」
「そうだね」
「ちゃんと守ってね」
「うん」
桜夜は、テーブルの上の写真を見た。
聖マリアンナ女子大学付属高等学校。
まだ行ったことのない場所。
けれど、どこかで見たような場所。
これから始まるミッション。
あるいは、平行世界の記憶が先に影を落としている場所。
白い船は、夢の岸だけで待っているわけではない。
現実の学校にも、礼拝堂にも、未経験の記憶にも、入口を開いている。
◇◇◇
サンルームを出る頃、雨は少し強くなっていた。
王宮の窓を叩く雨音が、妙に規則正しく聞こえる。
桜夜は、廊下の途中で一度だけ立ち止まった。
窓の外。
灰色の庭園。
白く曇った空。
その向こうに、ほんの一瞬、船影を見た気がした。
白い船。
十三番目の椅子。
だが、次の瞬間には消えていた。
「桜夜さん」
サイカがすぐに呼ぶ。
「うん」
「行ってた?」
「行きかけた」
「戻ってきた?」
「戻ってきた」
「よかった」
サイカは手を握る。
桜夜はその温度を確かめる。
英国に来ても、白い船は遠ざからない。
むしろ、別の入口が開いた。
まだ起きていないはずの事件。
平行世界から滲むような記憶。
サタンの手紙。
白い花びら。
そして、これから潜入する女子校。
「面倒なことになったね」
桜夜が言うと、ホムラが鼻を鳴らした。
「いつもだろ」
「それもそうか」
リオが予定表を確認する。
「今夜は王室側が用意した邸宅で休息を取ります。明日以降、学校側との調整を済ませ、潜入開始です」
「僕、本当に教師をやるの?」
「はい。臨時の日本語教師です」
「向いてるかな」
静馬が即答する。
「面倒見はいいから向いているだろう。自分の管理はできないが」
「後半が余計だね」
「事実だ」
ホムラがにやりと笑う。
「オレたちは留学生か。制服とかあるのか?」
「あります」
リオが端末を見ながら答える。
「ホムラちゃん用の制服も、既に手配済みです」
「なんでちょっと楽しそうなんだよ」
「似合うと思いますので」
「着せ替え人形じゃねえぞ」
サイカが小さく笑った。
その笑い声を聞いて、桜夜も少しだけ肩の力を抜く。
王の相談。
これから始まる潜入任務。
サタンの手紙。
白い船の花びら。
聖マリアンナ女子大学付属高等学校。
そして、思い出したくなかったものではなく、まだ経験していないはずの記憶。
名もなき騎士団、帰還任務は、いつの間にか海を越え、英国の女子校へまで広がっていた。
まったく、勝手に増える秘密結社らしい。
桜夜はそう思いながら、もう一度だけ窓の外を見た。
白い船は、もう見えない。
けれど遠くで、確かに軋む音がした。
十三番目の椅子は、水希桜夜を待っている。
だが、桜夜はまだ座らない。
これから教師として潜入しなければならないし。
帰ってきて、王に文句を言う約束も増えてしまったからだ。




