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黒の騎士と三原色の少女たち~old testament~  作者: スナオ
第二章 二人称の名前
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第17話 名もなき騎士団

 夜が明けても、白い船の軋む音は耳の奥に残っていた。


 桜夜は、布団の上で目を開ける。


 眠った、というほど深くはない。


 けれど、一人で朝を待ったわけでもなかった。


 右手には、サイカの手があった。


 眠気で何度か舟を漕いでいたのだろう。サイカは桜夜の布団の横に座ったまま、こくりと小さく頭を揺らしている。それでも手だけは離していない。


 襖の向こうには、ホムラの気配がある。


 廊下の先には、リオ。


 少し離れた部屋には静馬。


 小春と日和は、昨夜の鈴の影響でまだ眠っているはずだ。


 見張られている。


 囲まれている。


 逃げ場がない。


 それなのに、息苦しくはなかった。


「……桜夜さん?」


 サイカが薄く目を開ける。


「おはよう」


「おはよう……。遠く、行ってなかった?」


「少しだけ」


「だめだよ」


「ごめん」


「でも、戻ってきたからいい」


 サイカは寝ぼけた声でそう言って、また桜夜の手を握り直した。


 その単純な力が、白い船よりもずっと強い。


 桜夜は少しだけ笑った。


「今日は、続きを探す」


「親友さんの名前?」


「うん。名前と、それから……たぶん、もっと古い約束」


「約束?」


「子どもの頃の、くだらない約束」


 サイカは首を傾げた。


 桜夜はそれ以上、すぐには言わなかった。


 思い出していた。


 白い船の岸。


 十三番目の椅子。


 そして、親友が残した手帳の中にあった、まだ読んでいないページ。


 名もなき騎士団。


 その言葉が、夜の底から浮かんでくる。


◇◇◇


 朝食は、桜から習った和食だった。


 まだぎこちなさはある。


 けれど、サイカが丁寧に作った味噌汁と、少し形の崩れた卵焼きと、焼き魚が並んでいる。


 桜夜は椀を持ち上げ、湯気を吸い込んだ。


 白い米。


 白い豆腐。


 白い湯気。


 昨日までなら、ほんの少し息が止まったかもしれない。


 けれど今日は、サイカの指先についた小さな火傷の跡が先に見えた。


 白い船の白ではない。


 帰る場所の白だ。


「おいしいよ」


 桜夜が言うと、サイカはぱっと顔を明るくした。


「ほんと?」


「うん。桜様に習った甲斐があったね」


「まだ桜さんみたいにはできないけど」


「サイカちゃんの味がする」


 その言葉に、サイカは少し赤くなった。


 ホムラが横から口を挟む。


「甘やかすなよ。卵焼き、ちょっと崩れてんぞ」


「ホムラちゃんはもう一切れ食べているよね」


「味はいいからな」


「それは褒めているのでは?」


「うるせえ」


 リオが静かに茶を置いた。


「桜夜様。本日は手帳の未読部分と、データセンターから復元した旧ログを照合します」


「うん」


「ただし、静馬先生より、連続作業は三十分以内に区切るよう言われています」


「僕は子どもかな」


「自己管理ができない方は、年齢に関係なく管理対象です」


「厳しい秘書だ」


「はい」


 リオはまったく悪びれなかった。


 そのやり取りを聞いて、サイカが小さく笑う。


 その笑い声だけで、朝が朝らしくなる。


 桜夜は箸を置き、窓の外を見た。


 永久の桜の若木が、風に揺れている。


 まだ咲かない。


 けれど、白い花びらはもう消えていた。


◇◇◇


 仕事部屋に集まったのは、桜夜、サイカ、リオ、ホムラ、静馬だった。


 小春と日和はまだ休ませている。


 無理をさせる段階ではない。


 机の上には、黒い手帳。


 それから、リオが復元した旧ログ。


 静馬の端末には、鷹司家の古い健康管理記録。


 すべてが、ひとつの名前へ向かっている。


 だが、まだ声には出さない。


 父が与えた名。


 家が背負わせた名。


 そして、使用人が呼んでいた幼い呼び名。


 それらは手がかりであって、答えではない。


 桜夜は手帳を開いた。


 昨日読んだページの続き。


 そこに、懐かしい言葉があった。


 名もなき騎士団。


 桜夜は指先を止めた。


 ホムラが覗き込む。


「なんだ、それ」


「子どもの遊びだよ」


「お前が?」


「僕にも子どもの頃くらいある」


「想像しにくいな」


「ひどいね」


 桜夜は苦笑しながら、ページへ視線を落とした。


 そこには、親友の筆跡が続いていた。


 名もなき騎士団。


 最初にその言葉を言い出したのは、桜夜だった。


 いや、正確には名前ではない。


 名前をつけないための名前だった。


 鷹司でもない。


 水希でもない。


 相談役補佐でもない。


 出来損ないでもない。


 野良犬でもない。


 そんなものを一度全部横に置いて、ただ困っている誰かのところへ行く。


 それだけの、二人だけの秘密結社。


 団長はいない。


 副団長もいない。


 名簿もない。


 規約もない。


 ただ、桜夜が勝手に任務と言い、僕が勝手に情報を集めた。


 桜夜は、声に出すのをやめた。


 胸の奥で、何かが小さく軋む。


 思い出す。


 まだ相談役になる前。


 互いに立場を持たされ始めていた頃。


 水希。


 鷹司。


 補佐官候補。


 出来損ない。


 野良犬。


 そういう言葉が鬱陶しくて、桜夜は冗談のように言った。


 なら、名前のない騎士になろう。


 名前で呼ばれない人間のところへ行こう。


 親友は、最初は呆れていた。


 けれど翌日には、必要な情報を全部集めていた。


 四方院家の裏庭で迷子になった子どもの居場所。


 泣きながら書類を抱えていた事務員の好物。


 鷹司家の会合から逃げ出した自分を、誰にも見つからずに隠せる空き部屋。


 それらを、二人は任務と呼んだ。


 ばかみたいな秘密結社だった。


 けれど、楽しかった。


 桜夜は続きを読んだ。


 最初の任務は、四方院家の裏庭で迷子になった子どもを見つけることだった。


 二つ目の任務は、過労で泣いていた事務員に、誰にも見つからないよう甘いものを差し入れることだった。


 三つ目の任務は、鷹司家の会合から逃げ出した僕を、桜夜が何も聞かずに連れ戻さないことだった。


 あの頃、僕たちは笑っていた。


 名もなき騎士団だなんて、子どもじみた名前で。


 名前がない方が自由だと思っていた。


 名前を持たないまま誰かを助けられるなら、それでいいと思っていた。


 けれど、いつの間にか団員が増えていた。


 助けた子どもが、自分も団員だと言った。


 甘いものをもらった事務員が、今度は別の誰かへ差し入れをした。


 桜夜に救われた誰かが、名もなき騎士団を名乗って、別の誰かを助けた。


 名簿はない。


 だから人数もわからない。


 それでも、確かに増えていた。


 僕たち二人だけの秘密結社は、いつの間にか、名前を持たないまま広がっていた。


 それが少し誇らしかった。


 少し寂しかった。


 そして、少し怖かった。


 リオのペンが止まった。


「桜夜様」


「うん」


「これは、組織として存在していたものなのですか?」


「ううん。遊びだよ。少なくとも、最初は」


「最初は?」


「助けられた人が、勝手に次の人を助けるようになった。僕らは名簿も作らなかったし、団員を認めた覚えもない。でも、気づいたら少し広がっていた」


 ホムラが鼻を鳴らす。


「いいじゃねえか」


「そう?」


「名前とか立場とか関係なく、困ってるやつを助けるんだろ。わかりやすい」


 サイカも頷いた。


「うん。わたしも、いいと思う」


 静馬は端末を見ながら言った。


「ただ、彼にとっては複雑だっただろうな」


「どうして?」


 サイカが尋ねる。


 静馬は視線を上げた。


「名前を問わない場所は、名前を捨ててもいい場所ではない。だが、追い詰められた人間はそこを取り違えることがある」


 桜夜は、手帳の続きを見た。


 そこには、まさにその言葉が書かれていた。


 名もなき騎士団。


 僕は、その名を好きだった。


 名前に縛られないでいられる気がしたから。


 けれど、今ならわかる。


 あれは名前を捨てるための場所ではなかった。


 名を問わずに隣へ立つための場所だった。


 名を奪うためではなく、いつかその人が自分の名に戻れるまで、隣で待つための場所だった。


 僕はそれを間違えた。


 名もなき騎士団の一人だったくせに、本当に名を捨てた。


 そして、白い船のそばまで来てしまった。


 桜夜。


 君は怒るだろうか。


 たぶん怒るだろう。


 ホムラさんほどではないにしても、きっと静かに怒る。


 それでいい。


 僕は君に怒られたいのかもしれない。


 親友と呼ばれるだけでは戻れない。


 でも、名もなき騎士団の最初の相棒としてなら。


 君は、僕を探しに来てくれるだろうか。


 桜夜は、そこで手帳を閉じた。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 ホムラが腕を組む。


「怒れよ」


「怒ってるよ」


「顔に出てねえ」


「そうかな」


「出せ」


 桜夜は少しだけ笑った。


「無茶を言う」


「いいから怒れ。そいつ、怒られたがってんだろ」


「そうだね」


 桜夜は閉じた手帳に手を置いた。


「怒ってる。かなり」


 その声は静かだった。


 けれど、確かに怒っていた。


「名もなき騎士団は、名前を捨てる場所じゃない。名前を聞かずに隣へ立つための場所だ。名乗れないなら、名乗れるまで待つ。名を奪われたなら、取り戻すまで一緒に探す。そういう、子どもじみた秘密結社だった」


 サイカがそっと桜夜を見る。


「桜夜さん」


「うん」


「ちゃんと、言いに行こう」


「うん」


「でも、ひとりでは行かないで」


「わかってる」


 静馬が即座に言った。


「信用しない」


「今の流れで?」


「今の流れだからだ。君は感情が動いたときほど一人で行こうとする」


「よくわかっているね」


「主治医だからな」


「友人では?」


「今は主治医だ。友人としても止めるが」


 桜夜は苦笑した。


「手厳しい友人だ」


「君にはこれくらいでちょうどいい」


◇◇◇


 リオが復元ログをさらに開いた。


「桜夜様。もう一つ、関連する断片があります」


「何?」


「宮森明人様の聞書を読んだ後に、親友様が残したメモです」


 画面に文字が表示される。


 明人は世界を救えなかった。


 でも、桜夜を拾った。


 世界から争いと憎しみを消せなかった人が、名前のない子どもに名前を与えた。


 それで、ひとつの世界は変わった。


 桜夜は、たぶんそのことを知らない。


 自分が誰かの絶望の後に残った祈りだったことを、知らない。


 桜夜は目を伏せた。


 宮森明人。


 戦争を知り、神隠しにあい、はじまりのものと共に数多の世界を見た人。


 どこへ行っても争いと憎しみは消えず、日本に戻れば焼け野原が広がっていた。


 復興に尽力し、世界のために働き、それでも憎しみは終わらなかった。


 絶望して、日本へ戻り、許嫁と結婚し、ただ静かに暮らした。


 そして余命があと五年あるかどうかという頃に、名前も家もない少年を拾った。


 はじまりのものによく似た少年。


 金を盗むことは知らないのに、落とし物を返すことだけは知っていた少年。


 その少年に、明人は名前を与えた。


 桜夜。


 夜桜から生まれた、仮の名。


 桜夜は、机の上の手帳を見つめた。


「親友は、先生のことまで調べていたんだね」


「桜夜様を知ろうとしていたのでしょう」


 リオが言う。


「桜夜様がどのような名に支えられたのか。その根にあったものを、彼は見ようとしていた」


「そして、羨ましかった」


 桜夜は静かに言った。


「名前を持たない僕に、名前をくれた人がいたことが」


 リオは否定しなかった。


 サイカも何も言わなかった。


 ホムラでさえ黙っている。


「でも、先生もずるい人だったよ」


 桜夜はふと笑った。


「ずるい?」


 サイカが聞き返す。


「うん。勝ち逃げした」


「勝ち逃げ?」


「先生とは、よく勝負をしたんだ。剣だけじゃない。将棋も囲碁もした。釣りもした。庭掃除の速さを競ったこともある。焼き魚をどちらがきれいに食べられるか、なんてくだらない勝負もした」


 桜夜の声が、少しだけやわらかくなる。


「早起きで負けた日は、朝の雑巾がけ。酒を飲める年になったら付き合えと言われていたのに、その勝負だけは叶わなかった」


 サイカは黙って聞いていた。


「先生は、勝つのがうまい人だった。負けるのもうまい人だった。わざと負けることはしない。でも、僕が初めて勝ったときだけ、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた」


 その顔が悔しくて、嬉しかった。


 だから次も勝とうと思った。


 剣でも、将棋でも、掃除でも、口喧嘩でも。


 けれど最後の勝負だけは、桜夜の負けだった。


 明人は死んだ。


 桜夜に言い返す時間を与えず、答え合わせもせず、勝ち逃げした。


「ひどい先生だよ」


 桜夜は呟いた。


「世界を救えなかったくせに、名前のない子どもを拾って、名前をつけて、飯を食わせて、剣を教えて、生き方まで押しつけて、最後は勝ち逃げした」


 言葉は軽く聞こえた。


 けれど、サイカはその奥にある痛みを聞いた。


「桜夜さん」


「だから、まだ負けたままなんだ」


 桜夜は手帳に触れた。


「白い船に乗って終わるわけにはいかない。十三番目の椅子に座って、もう戦わなくていいなんて顔をされたら、先生にまた負ける」


「明人さんに?」


「うん。勝ち逃げした先生に、完全敗北する」


 ホムラが少しだけ笑った。


「いいじゃねえか。その理由」


「そう?」


「死にたくない理由より、負けたくない理由の方がお前らしい」


「僕はそんなに負けず嫌いかな」


「今さら何言ってんだ」


 静馬が淡々と続ける。


「君は負けず嫌いだよ。特に、自分を拾った相手と、自分が救えなかった相手に関しては」


「分析が鋭すぎる医者は嫌われるよ」


「嫌ってもいい。診察はする」


「強い」


 少しだけ、部屋の空気が緩んだ。


 その時だった。


 小春と日和の鈴が、隣室で鳴った。


 ちりん。


 ちりん。


 誰も触れていないはずの鈴が、二度鳴った。


 ホムラが即座に立ち上がる。


「見てくる」


「僕も」


「お前は座ってろ」


 ホムラが鋭く言った。


 桜夜は苦笑しながらも、立ち上がらなかった。


 すぐに、ホムラが小春と日和を連れて戻ってくる。


 二人は眠そうな顔をしているが、目だけははっきりしていた。


「おにいさま」


 小春が言う。


「椅子が、呼んでいます」


 日和が続ける。


「でも、親友さんじゃありません」


 部屋の空気が止まった。


 桜夜は、静かに聞いた。


「誰を?」


 二人は同時に答えた。


「水希桜夜」


 サイカの手が、桜夜の手を強く握った。


 リオのペンが止まる。


 ホムラが低く唸る。


 静馬の目が細くなる。


 小春は神楽鈴を抱えたまま、震える声で言った。


「十三番目の椅子は、親友さんの椅子じゃありません」


 日和が続ける。


「あれは、おにいさまを待っています」


 桜夜は、目を閉じた。


 わかっていた。


 いや、薄々気づいていた。


 白い船がなぜ、あずさの白を使ったのか。


 なぜ、桜夜の記憶を揺らしたのか。


 なぜ、親友を船べりに立たせているのか。


 目的は、親友ではない。


 親友は、ほころび。


 案内人。


 あるいは、囚われた最初の相棒。


 白い船が待っているのは、水希桜夜。


 名前を与えられ、名前で帰ることを覚えた者。


 白を失い、白を恐れ、それでも白を捨てられない者。


 名もなき騎士団を始めた、黒の騎士。


「なるほどね」


 桜夜は静かに言った。


「僕用の席だったか」


「落ち着いて言うな!」


 ホムラが怒鳴った。


「いや、かなり嫌だよ」


「嫌そうに見えねえ!」


「見えないだけ」


 サイカが、桜夜の手を両手で握った。


「桜夜さん、乗らないで」


「乗らないよ」


「ほんとに?」


「うん」


「十三番目の椅子が桜夜さんを待っていても?」


「乗らない」


「白い船が、あずささんの白を見せても?」


「乗らない」


「明人さんに、もう休めって言われたみたいに見えても?」


 桜夜は、そこで目を開けた。


「先生は、そんなこと言わないよ」


 声は静かだった。


 けれど、強かった。


「先生なら、たぶんこう言う。勝負の途中で座るな、って」


 ホムラがにやりと笑った。


「いい師匠じゃねえか」


「うん。ひどい師匠だ」


 桜夜は手帳を持ち上げた。


「名もなき騎士団は、名前を捨てる場所じゃない」


 誰に言うでもなく、桜夜は言った。


「名前を聞かずに隣へ立つための場所だ。名乗れないなら、名乗れるまで待つ。名を奪われたなら、取り戻すまで一緒に探す。そういう、子どもじみた秘密結社だった」


 白い船が遠くで軋む音がした気がした。


 桜夜は続ける。


「十三番目の椅子が僕を待っているなら、なおさら座らない」


「どうして?」


 サイカが聞いた。


「座ったら、名もなき騎士団の最初の任務を放棄することになる」


「最初の任務?」


「迷子を探すこと」


 桜夜は、黒い手帳を見た。


「親友は、今も迷子だ。名前を失って、船べりにいる。だったら、探しに行かないと」


「でも、船に乗らないで」


「うん。船には乗らない」


「椅子にも座らないで」


「座らない」


「帰ってきて」


「帰ってくる」


 サイカは、ようやく少しだけ息を吐いた。


◇◇◇


 その日の午後、桜夜は小春と日和の鈴を使わなかった。


 静馬が止めたからだ。


 小春と日和も疲れている。


 鳳凰も弱い。


 白い船は桜夜を待っている。


 なら、焦るほど危ない。


 リオはその間に、名もなき騎士団に関する断片をさらに集めた。


 正式な組織ではない。


 名簿もない。


 規約もない。


 だが、四方院家の内部記録の片隅に、奇妙な符牒がいくつか残っていた。


 名無しの差し入れ。


 騎士団任務完了。


 名を問わず。


 困った者の隣へ。


 誰が書いたのかもわからない。


 だが、確かに広がっていた。


 二人だけの秘密結社は、いつの間にか誰かの小さな救いになっていた。


 桜夜は、その記録を見ながらぽつりと言った。


「僕ら、ちゃんと馬鹿だったんだね」


 リオが静かに答える。


「素敵な馬鹿さだと思います」


「リオちゃんがそう言うなら、そうかもしれない」


 ホムラは腕を組んだ。


「で、次はどうする」


「親友の幼い呼び名を持って岸へ行く」


「十三番目の椅子は?」


「見ない」


「見ないで済むのかよ」


「難しいだろうね」


「じゃあどうすんだ」


 桜夜は少しだけ笑った。


「椅子を見る前に、親友を見る」


 サイカが頷く。


「わたしは、桜夜さんを見る」


「僕を?」


「うん。桜夜さんが椅子を見そうになったら、わたしが呼ぶ」


 桜夜は目を細めた。


「頼もしいね」


「頼って」


「うん」


 静馬が時計を見た。


「今日はここまでだ」


「まだ夕方だよ」


「だから終わる。夜に近づくほど白い船の影響が強くなる可能性がある」


「理屈としては正しい」


「なら従え」


「はい」


 桜夜は素直に頷いた。


 その素直さに、静馬が逆に訝しむ。


「何か企んでいないだろうな」


「信用がない」


「ない」


「即答」


 サイカがくすりと笑った。


 その笑い声に、部屋の張り詰めた空気が少し緩んだ。


◇◇◇


 夜。


 桜夜は自室で、明人の古い将棋盤を出していた。


 宮森家から持ち帰ったものではない。


 昔、明人が桜夜に持たせた盤だ。


 駒の角が少し丸い。


 使い込まれた木の色。


 何度も負けた。


 何度も勝ちそうになった。


 何度か勝った。


 そして、最後の一局は指せなかった。


 桜夜は盤の前に座り、王将を指先で転がした。


「勝ち逃げですよ、先生」


 小さく呟く。


 襖の外にいたサイカが、そっと顔を出した。


「入っていい?」


「うん」


 サイカは桜夜の向かいに座った。


「将棋?」


「先生との勝負道具」


「桜夜さん、強いの?」


「そこそこ」


「明人さんは?」


「強かった。嫌になるくらい」


「じゃあ、勝てなかった?」


「勝ったこともあるよ。でも、最後は負けたまま」


「最後?」


「先生が死んだ」


 サイカは何も言わなかった。


 桜夜は駒を並べながら続ける。


「死んだら、もう負けを取り返せない。反則だよね」


「うん」


「先生らしい。勝つのがうまい人だった」


「でも、桜夜さんはまだ勝負してるんだね」


 桜夜の手が止まる。


「そう見える?」


「うん」


 サイカは盤の上の駒を見た。


「白い船に乗らないのも、十三番目の椅子に座らないのも、明人さんに負けたまま終わらないためなんでしょ?」


「サイカちゃんは鋭いね」


「桜夜さんを見てるから」


 その言葉は、素直だった。


 だから桜夜は、少し困ったように笑うしかなかった。


「じゃあ、一局付き合ってくれる?」


「わたし、将棋わからないよ」


「教えるよ」


「勝てる?」


「最初から勝てたら、先生が怒る」


「じゃあ、負けてもいい?」


「負けてもいい。次に勝てばいい」


 サイカは少し考えてから、笑った。


「それ、桜夜さんにも言えるね」


「僕に?」


「うん。白い船にちょっと引っ張られても、次に戻ってくればいい。十三番目の椅子を見そうになっても、座らなければいい。負けそうになっても、まだ勝負は終わってないんでしょ?」


 桜夜は、しばらくサイカを見ていた。


 それから、静かに笑った。


「うん。まだ終わっていない」


 駒を並べる。


 王将。


 金。


 銀。


 桂馬。


 香車。


 飛車。


 角。


 歩。


 小さな盤の上に、戦場ができる。


 けれど、それは誰かを殺すための戦場ではない。


 帰ってくるための勝負だ。


 桜夜は、最初の一手をサイカに教えた。


 遠くで、白い船が軋む音がした。


 十三番目の椅子が、水希桜夜を待っている。


 だが、桜夜は盤の上を見ていた。


 目の前にはサイカがいる。


 襖の向こうにはホムラがいる。


 廊下の先にはリオがいる。


 別室には静馬がいる。


 小春と日和は眠っている。


 そして、記憶の奥には明人がいる。


 勝ち逃げした、ひどい先生がいる。


 桜夜は駒を一つ進めた。


「先生」


 心の中で呟く。


「まだ勝負は終わっていませんよ」


 白い船の音が、少しだけ遠ざかった気がした。


 その夜、桜夜は一人ではなかった。


 だから、少しだけ目を閉じることができた。


 名もなき騎士団の最初の相棒を、連れ戻すために。


 十三番目の椅子に座らないために。


 そして、勝ち逃げした師匠に、いつかもう一度勝つために。


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