第17話 名もなき騎士団
夜が明けても、白い船の軋む音は耳の奥に残っていた。
桜夜は、布団の上で目を開ける。
眠った、というほど深くはない。
けれど、一人で朝を待ったわけでもなかった。
右手には、サイカの手があった。
眠気で何度か舟を漕いでいたのだろう。サイカは桜夜の布団の横に座ったまま、こくりと小さく頭を揺らしている。それでも手だけは離していない。
襖の向こうには、ホムラの気配がある。
廊下の先には、リオ。
少し離れた部屋には静馬。
小春と日和は、昨夜の鈴の影響でまだ眠っているはずだ。
見張られている。
囲まれている。
逃げ場がない。
それなのに、息苦しくはなかった。
「……桜夜さん?」
サイカが薄く目を開ける。
「おはよう」
「おはよう……。遠く、行ってなかった?」
「少しだけ」
「だめだよ」
「ごめん」
「でも、戻ってきたからいい」
サイカは寝ぼけた声でそう言って、また桜夜の手を握り直した。
その単純な力が、白い船よりもずっと強い。
桜夜は少しだけ笑った。
「今日は、続きを探す」
「親友さんの名前?」
「うん。名前と、それから……たぶん、もっと古い約束」
「約束?」
「子どもの頃の、くだらない約束」
サイカは首を傾げた。
桜夜はそれ以上、すぐには言わなかった。
思い出していた。
白い船の岸。
十三番目の椅子。
そして、親友が残した手帳の中にあった、まだ読んでいないページ。
名もなき騎士団。
その言葉が、夜の底から浮かんでくる。
◇◇◇
朝食は、桜から習った和食だった。
まだぎこちなさはある。
けれど、サイカが丁寧に作った味噌汁と、少し形の崩れた卵焼きと、焼き魚が並んでいる。
桜夜は椀を持ち上げ、湯気を吸い込んだ。
白い米。
白い豆腐。
白い湯気。
昨日までなら、ほんの少し息が止まったかもしれない。
けれど今日は、サイカの指先についた小さな火傷の跡が先に見えた。
白い船の白ではない。
帰る場所の白だ。
「おいしいよ」
桜夜が言うと、サイカはぱっと顔を明るくした。
「ほんと?」
「うん。桜様に習った甲斐があったね」
「まだ桜さんみたいにはできないけど」
「サイカちゃんの味がする」
その言葉に、サイカは少し赤くなった。
ホムラが横から口を挟む。
「甘やかすなよ。卵焼き、ちょっと崩れてんぞ」
「ホムラちゃんはもう一切れ食べているよね」
「味はいいからな」
「それは褒めているのでは?」
「うるせえ」
リオが静かに茶を置いた。
「桜夜様。本日は手帳の未読部分と、データセンターから復元した旧ログを照合します」
「うん」
「ただし、静馬先生より、連続作業は三十分以内に区切るよう言われています」
「僕は子どもかな」
「自己管理ができない方は、年齢に関係なく管理対象です」
「厳しい秘書だ」
「はい」
リオはまったく悪びれなかった。
そのやり取りを聞いて、サイカが小さく笑う。
その笑い声だけで、朝が朝らしくなる。
桜夜は箸を置き、窓の外を見た。
永久の桜の若木が、風に揺れている。
まだ咲かない。
けれど、白い花びらはもう消えていた。
◇◇◇
仕事部屋に集まったのは、桜夜、サイカ、リオ、ホムラ、静馬だった。
小春と日和はまだ休ませている。
無理をさせる段階ではない。
机の上には、黒い手帳。
それから、リオが復元した旧ログ。
静馬の端末には、鷹司家の古い健康管理記録。
すべてが、ひとつの名前へ向かっている。
だが、まだ声には出さない。
父が与えた名。
家が背負わせた名。
そして、使用人が呼んでいた幼い呼び名。
それらは手がかりであって、答えではない。
桜夜は手帳を開いた。
昨日読んだページの続き。
そこに、懐かしい言葉があった。
名もなき騎士団。
桜夜は指先を止めた。
ホムラが覗き込む。
「なんだ、それ」
「子どもの遊びだよ」
「お前が?」
「僕にも子どもの頃くらいある」
「想像しにくいな」
「ひどいね」
桜夜は苦笑しながら、ページへ視線を落とした。
そこには、親友の筆跡が続いていた。
名もなき騎士団。
最初にその言葉を言い出したのは、桜夜だった。
いや、正確には名前ではない。
名前をつけないための名前だった。
鷹司でもない。
水希でもない。
相談役補佐でもない。
出来損ないでもない。
野良犬でもない。
そんなものを一度全部横に置いて、ただ困っている誰かのところへ行く。
それだけの、二人だけの秘密結社。
団長はいない。
副団長もいない。
名簿もない。
規約もない。
ただ、桜夜が勝手に任務と言い、僕が勝手に情報を集めた。
桜夜は、声に出すのをやめた。
胸の奥で、何かが小さく軋む。
思い出す。
まだ相談役になる前。
互いに立場を持たされ始めていた頃。
水希。
鷹司。
補佐官候補。
出来損ない。
野良犬。
そういう言葉が鬱陶しくて、桜夜は冗談のように言った。
なら、名前のない騎士になろう。
名前で呼ばれない人間のところへ行こう。
親友は、最初は呆れていた。
けれど翌日には、必要な情報を全部集めていた。
四方院家の裏庭で迷子になった子どもの居場所。
泣きながら書類を抱えていた事務員の好物。
鷹司家の会合から逃げ出した自分を、誰にも見つからずに隠せる空き部屋。
それらを、二人は任務と呼んだ。
ばかみたいな秘密結社だった。
けれど、楽しかった。
桜夜は続きを読んだ。
最初の任務は、四方院家の裏庭で迷子になった子どもを見つけることだった。
二つ目の任務は、過労で泣いていた事務員に、誰にも見つからないよう甘いものを差し入れることだった。
三つ目の任務は、鷹司家の会合から逃げ出した僕を、桜夜が何も聞かずに連れ戻さないことだった。
あの頃、僕たちは笑っていた。
名もなき騎士団だなんて、子どもじみた名前で。
名前がない方が自由だと思っていた。
名前を持たないまま誰かを助けられるなら、それでいいと思っていた。
けれど、いつの間にか団員が増えていた。
助けた子どもが、自分も団員だと言った。
甘いものをもらった事務員が、今度は別の誰かへ差し入れをした。
桜夜に救われた誰かが、名もなき騎士団を名乗って、別の誰かを助けた。
名簿はない。
だから人数もわからない。
それでも、確かに増えていた。
僕たち二人だけの秘密結社は、いつの間にか、名前を持たないまま広がっていた。
それが少し誇らしかった。
少し寂しかった。
そして、少し怖かった。
リオのペンが止まった。
「桜夜様」
「うん」
「これは、組織として存在していたものなのですか?」
「ううん。遊びだよ。少なくとも、最初は」
「最初は?」
「助けられた人が、勝手に次の人を助けるようになった。僕らは名簿も作らなかったし、団員を認めた覚えもない。でも、気づいたら少し広がっていた」
ホムラが鼻を鳴らす。
「いいじゃねえか」
「そう?」
「名前とか立場とか関係なく、困ってるやつを助けるんだろ。わかりやすい」
サイカも頷いた。
「うん。わたしも、いいと思う」
静馬は端末を見ながら言った。
「ただ、彼にとっては複雑だっただろうな」
「どうして?」
サイカが尋ねる。
静馬は視線を上げた。
「名前を問わない場所は、名前を捨ててもいい場所ではない。だが、追い詰められた人間はそこを取り違えることがある」
桜夜は、手帳の続きを見た。
そこには、まさにその言葉が書かれていた。
名もなき騎士団。
僕は、その名を好きだった。
名前に縛られないでいられる気がしたから。
けれど、今ならわかる。
あれは名前を捨てるための場所ではなかった。
名を問わずに隣へ立つための場所だった。
名を奪うためではなく、いつかその人が自分の名に戻れるまで、隣で待つための場所だった。
僕はそれを間違えた。
名もなき騎士団の一人だったくせに、本当に名を捨てた。
そして、白い船のそばまで来てしまった。
桜夜。
君は怒るだろうか。
たぶん怒るだろう。
ホムラさんほどではないにしても、きっと静かに怒る。
それでいい。
僕は君に怒られたいのかもしれない。
親友と呼ばれるだけでは戻れない。
でも、名もなき騎士団の最初の相棒としてなら。
君は、僕を探しに来てくれるだろうか。
桜夜は、そこで手帳を閉じた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
ホムラが腕を組む。
「怒れよ」
「怒ってるよ」
「顔に出てねえ」
「そうかな」
「出せ」
桜夜は少しだけ笑った。
「無茶を言う」
「いいから怒れ。そいつ、怒られたがってんだろ」
「そうだね」
桜夜は閉じた手帳に手を置いた。
「怒ってる。かなり」
その声は静かだった。
けれど、確かに怒っていた。
「名もなき騎士団は、名前を捨てる場所じゃない。名前を聞かずに隣へ立つための場所だ。名乗れないなら、名乗れるまで待つ。名を奪われたなら、取り戻すまで一緒に探す。そういう、子どもじみた秘密結社だった」
サイカがそっと桜夜を見る。
「桜夜さん」
「うん」
「ちゃんと、言いに行こう」
「うん」
「でも、ひとりでは行かないで」
「わかってる」
静馬が即座に言った。
「信用しない」
「今の流れで?」
「今の流れだからだ。君は感情が動いたときほど一人で行こうとする」
「よくわかっているね」
「主治医だからな」
「友人では?」
「今は主治医だ。友人としても止めるが」
桜夜は苦笑した。
「手厳しい友人だ」
「君にはこれくらいでちょうどいい」
◇◇◇
リオが復元ログをさらに開いた。
「桜夜様。もう一つ、関連する断片があります」
「何?」
「宮森明人様の聞書を読んだ後に、親友様が残したメモです」
画面に文字が表示される。
明人は世界を救えなかった。
でも、桜夜を拾った。
世界から争いと憎しみを消せなかった人が、名前のない子どもに名前を与えた。
それで、ひとつの世界は変わった。
桜夜は、たぶんそのことを知らない。
自分が誰かの絶望の後に残った祈りだったことを、知らない。
桜夜は目を伏せた。
宮森明人。
戦争を知り、神隠しにあい、はじまりのものと共に数多の世界を見た人。
どこへ行っても争いと憎しみは消えず、日本に戻れば焼け野原が広がっていた。
復興に尽力し、世界のために働き、それでも憎しみは終わらなかった。
絶望して、日本へ戻り、許嫁と結婚し、ただ静かに暮らした。
そして余命があと五年あるかどうかという頃に、名前も家もない少年を拾った。
はじまりのものによく似た少年。
金を盗むことは知らないのに、落とし物を返すことだけは知っていた少年。
その少年に、明人は名前を与えた。
桜夜。
夜桜から生まれた、仮の名。
桜夜は、机の上の手帳を見つめた。
「親友は、先生のことまで調べていたんだね」
「桜夜様を知ろうとしていたのでしょう」
リオが言う。
「桜夜様がどのような名に支えられたのか。その根にあったものを、彼は見ようとしていた」
「そして、羨ましかった」
桜夜は静かに言った。
「名前を持たない僕に、名前をくれた人がいたことが」
リオは否定しなかった。
サイカも何も言わなかった。
ホムラでさえ黙っている。
「でも、先生もずるい人だったよ」
桜夜はふと笑った。
「ずるい?」
サイカが聞き返す。
「うん。勝ち逃げした」
「勝ち逃げ?」
「先生とは、よく勝負をしたんだ。剣だけじゃない。将棋も囲碁もした。釣りもした。庭掃除の速さを競ったこともある。焼き魚をどちらがきれいに食べられるか、なんてくだらない勝負もした」
桜夜の声が、少しだけやわらかくなる。
「早起きで負けた日は、朝の雑巾がけ。酒を飲める年になったら付き合えと言われていたのに、その勝負だけは叶わなかった」
サイカは黙って聞いていた。
「先生は、勝つのがうまい人だった。負けるのもうまい人だった。わざと負けることはしない。でも、僕が初めて勝ったときだけ、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた」
その顔が悔しくて、嬉しかった。
だから次も勝とうと思った。
剣でも、将棋でも、掃除でも、口喧嘩でも。
けれど最後の勝負だけは、桜夜の負けだった。
明人は死んだ。
桜夜に言い返す時間を与えず、答え合わせもせず、勝ち逃げした。
「ひどい先生だよ」
桜夜は呟いた。
「世界を救えなかったくせに、名前のない子どもを拾って、名前をつけて、飯を食わせて、剣を教えて、生き方まで押しつけて、最後は勝ち逃げした」
言葉は軽く聞こえた。
けれど、サイカはその奥にある痛みを聞いた。
「桜夜さん」
「だから、まだ負けたままなんだ」
桜夜は手帳に触れた。
「白い船に乗って終わるわけにはいかない。十三番目の椅子に座って、もう戦わなくていいなんて顔をされたら、先生にまた負ける」
「明人さんに?」
「うん。勝ち逃げした先生に、完全敗北する」
ホムラが少しだけ笑った。
「いいじゃねえか。その理由」
「そう?」
「死にたくない理由より、負けたくない理由の方がお前らしい」
「僕はそんなに負けず嫌いかな」
「今さら何言ってんだ」
静馬が淡々と続ける。
「君は負けず嫌いだよ。特に、自分を拾った相手と、自分が救えなかった相手に関しては」
「分析が鋭すぎる医者は嫌われるよ」
「嫌ってもいい。診察はする」
「強い」
少しだけ、部屋の空気が緩んだ。
その時だった。
小春と日和の鈴が、隣室で鳴った。
ちりん。
ちりん。
誰も触れていないはずの鈴が、二度鳴った。
ホムラが即座に立ち上がる。
「見てくる」
「僕も」
「お前は座ってろ」
ホムラが鋭く言った。
桜夜は苦笑しながらも、立ち上がらなかった。
すぐに、ホムラが小春と日和を連れて戻ってくる。
二人は眠そうな顔をしているが、目だけははっきりしていた。
「おにいさま」
小春が言う。
「椅子が、呼んでいます」
日和が続ける。
「でも、親友さんじゃありません」
部屋の空気が止まった。
桜夜は、静かに聞いた。
「誰を?」
二人は同時に答えた。
「水希桜夜」
サイカの手が、桜夜の手を強く握った。
リオのペンが止まる。
ホムラが低く唸る。
静馬の目が細くなる。
小春は神楽鈴を抱えたまま、震える声で言った。
「十三番目の椅子は、親友さんの椅子じゃありません」
日和が続ける。
「あれは、おにいさまを待っています」
桜夜は、目を閉じた。
わかっていた。
いや、薄々気づいていた。
白い船がなぜ、あずさの白を使ったのか。
なぜ、桜夜の記憶を揺らしたのか。
なぜ、親友を船べりに立たせているのか。
目的は、親友ではない。
親友は、ほころび。
案内人。
あるいは、囚われた最初の相棒。
白い船が待っているのは、水希桜夜。
名前を与えられ、名前で帰ることを覚えた者。
白を失い、白を恐れ、それでも白を捨てられない者。
名もなき騎士団を始めた、黒の騎士。
「なるほどね」
桜夜は静かに言った。
「僕用の席だったか」
「落ち着いて言うな!」
ホムラが怒鳴った。
「いや、かなり嫌だよ」
「嫌そうに見えねえ!」
「見えないだけ」
サイカが、桜夜の手を両手で握った。
「桜夜さん、乗らないで」
「乗らないよ」
「ほんとに?」
「うん」
「十三番目の椅子が桜夜さんを待っていても?」
「乗らない」
「白い船が、あずささんの白を見せても?」
「乗らない」
「明人さんに、もう休めって言われたみたいに見えても?」
桜夜は、そこで目を開けた。
「先生は、そんなこと言わないよ」
声は静かだった。
けれど、強かった。
「先生なら、たぶんこう言う。勝負の途中で座るな、って」
ホムラがにやりと笑った。
「いい師匠じゃねえか」
「うん。ひどい師匠だ」
桜夜は手帳を持ち上げた。
「名もなき騎士団は、名前を捨てる場所じゃない」
誰に言うでもなく、桜夜は言った。
「名前を聞かずに隣へ立つための場所だ。名乗れないなら、名乗れるまで待つ。名を奪われたなら、取り戻すまで一緒に探す。そういう、子どもじみた秘密結社だった」
白い船が遠くで軋む音がした気がした。
桜夜は続ける。
「十三番目の椅子が僕を待っているなら、なおさら座らない」
「どうして?」
サイカが聞いた。
「座ったら、名もなき騎士団の最初の任務を放棄することになる」
「最初の任務?」
「迷子を探すこと」
桜夜は、黒い手帳を見た。
「親友は、今も迷子だ。名前を失って、船べりにいる。だったら、探しに行かないと」
「でも、船に乗らないで」
「うん。船には乗らない」
「椅子にも座らないで」
「座らない」
「帰ってきて」
「帰ってくる」
サイカは、ようやく少しだけ息を吐いた。
◇◇◇
その日の午後、桜夜は小春と日和の鈴を使わなかった。
静馬が止めたからだ。
小春と日和も疲れている。
鳳凰も弱い。
白い船は桜夜を待っている。
なら、焦るほど危ない。
リオはその間に、名もなき騎士団に関する断片をさらに集めた。
正式な組織ではない。
名簿もない。
規約もない。
だが、四方院家の内部記録の片隅に、奇妙な符牒がいくつか残っていた。
名無しの差し入れ。
騎士団任務完了。
名を問わず。
困った者の隣へ。
誰が書いたのかもわからない。
だが、確かに広がっていた。
二人だけの秘密結社は、いつの間にか誰かの小さな救いになっていた。
桜夜は、その記録を見ながらぽつりと言った。
「僕ら、ちゃんと馬鹿だったんだね」
リオが静かに答える。
「素敵な馬鹿さだと思います」
「リオちゃんがそう言うなら、そうかもしれない」
ホムラは腕を組んだ。
「で、次はどうする」
「親友の幼い呼び名を持って岸へ行く」
「十三番目の椅子は?」
「見ない」
「見ないで済むのかよ」
「難しいだろうね」
「じゃあどうすんだ」
桜夜は少しだけ笑った。
「椅子を見る前に、親友を見る」
サイカが頷く。
「わたしは、桜夜さんを見る」
「僕を?」
「うん。桜夜さんが椅子を見そうになったら、わたしが呼ぶ」
桜夜は目を細めた。
「頼もしいね」
「頼って」
「うん」
静馬が時計を見た。
「今日はここまでだ」
「まだ夕方だよ」
「だから終わる。夜に近づくほど白い船の影響が強くなる可能性がある」
「理屈としては正しい」
「なら従え」
「はい」
桜夜は素直に頷いた。
その素直さに、静馬が逆に訝しむ。
「何か企んでいないだろうな」
「信用がない」
「ない」
「即答」
サイカがくすりと笑った。
その笑い声に、部屋の張り詰めた空気が少し緩んだ。
◇◇◇
夜。
桜夜は自室で、明人の古い将棋盤を出していた。
宮森家から持ち帰ったものではない。
昔、明人が桜夜に持たせた盤だ。
駒の角が少し丸い。
使い込まれた木の色。
何度も負けた。
何度も勝ちそうになった。
何度か勝った。
そして、最後の一局は指せなかった。
桜夜は盤の前に座り、王将を指先で転がした。
「勝ち逃げですよ、先生」
小さく呟く。
襖の外にいたサイカが、そっと顔を出した。
「入っていい?」
「うん」
サイカは桜夜の向かいに座った。
「将棋?」
「先生との勝負道具」
「桜夜さん、強いの?」
「そこそこ」
「明人さんは?」
「強かった。嫌になるくらい」
「じゃあ、勝てなかった?」
「勝ったこともあるよ。でも、最後は負けたまま」
「最後?」
「先生が死んだ」
サイカは何も言わなかった。
桜夜は駒を並べながら続ける。
「死んだら、もう負けを取り返せない。反則だよね」
「うん」
「先生らしい。勝つのがうまい人だった」
「でも、桜夜さんはまだ勝負してるんだね」
桜夜の手が止まる。
「そう見える?」
「うん」
サイカは盤の上の駒を見た。
「白い船に乗らないのも、十三番目の椅子に座らないのも、明人さんに負けたまま終わらないためなんでしょ?」
「サイカちゃんは鋭いね」
「桜夜さんを見てるから」
その言葉は、素直だった。
だから桜夜は、少し困ったように笑うしかなかった。
「じゃあ、一局付き合ってくれる?」
「わたし、将棋わからないよ」
「教えるよ」
「勝てる?」
「最初から勝てたら、先生が怒る」
「じゃあ、負けてもいい?」
「負けてもいい。次に勝てばいい」
サイカは少し考えてから、笑った。
「それ、桜夜さんにも言えるね」
「僕に?」
「うん。白い船にちょっと引っ張られても、次に戻ってくればいい。十三番目の椅子を見そうになっても、座らなければいい。負けそうになっても、まだ勝負は終わってないんでしょ?」
桜夜は、しばらくサイカを見ていた。
それから、静かに笑った。
「うん。まだ終わっていない」
駒を並べる。
王将。
金。
銀。
桂馬。
香車。
飛車。
角。
歩。
小さな盤の上に、戦場ができる。
けれど、それは誰かを殺すための戦場ではない。
帰ってくるための勝負だ。
桜夜は、最初の一手をサイカに教えた。
遠くで、白い船が軋む音がした。
十三番目の椅子が、水希桜夜を待っている。
だが、桜夜は盤の上を見ていた。
目の前にはサイカがいる。
襖の向こうにはホムラがいる。
廊下の先にはリオがいる。
別室には静馬がいる。
小春と日和は眠っている。
そして、記憶の奥には明人がいる。
勝ち逃げした、ひどい先生がいる。
桜夜は駒を一つ進めた。
「先生」
心の中で呟く。
「まだ勝負は終わっていませんよ」
白い船の音が、少しだけ遠ざかった気がした。
その夜、桜夜は一人ではなかった。
だから、少しだけ目を閉じることができた。
名もなき騎士団の最初の相棒を、連れ戻すために。
十三番目の椅子に座らないために。
そして、勝ち逃げした師匠に、いつかもう一度勝つために。




