第16話 名前のない手帳
屋敷に戻った頃には、空が薄く暮れかけていた。
車を降りると、庭の永久の桜が風に揺れている。
まだ咲かない若木。
けれど、宮森家の桜を見たあとでは、その枝ぶりが少し違って見えた。
桜夜はしばらく、その若木を眺めていた。
宮森家の桜。
先生の墓。
司の声。
桜の微笑み。
そして、サイカたちが明人の墓前で告げてくれた言葉。
ちゃんと連れて帰る。
その言葉が、桜夜の中に残っている。
「桜夜さん」
助手席から降りたサイカが、そっと声をかけた。
「うん?」
「帰ってきたよ」
何でもない言葉だった。
けれど、胸の奥に届いた。
白い船へ向かう前に、戻る場所を確かめる。
それが今日の墓参りだったのだと、桜夜は改めて思う。
「そうだね」
桜夜は小さく笑った。
「帰ってきた」
ホムラが後部座席から降りて、大きく伸びをする。
「あー、肩こった。墓参りってもっとさくっと終わるもんじゃねえのかよ」
「ホムラちゃん、途中から泣きそうでしたものね」
「うっせ」
リオの言葉に、ホムラは即座に否定した。
「怒ってただけだ」
「はいはい。そういうことにしておきます」
「リオねえ!」
サイカは二人のやり取りに少し笑った。
桜夜は、その声を聞きながら、懐に入れた手帳へ触れた。
黒い革表紙。
名前のない手帳。
親友が残したもの。
宮森明人が桜夜に名を与えた人なら。
この手帳は、名を失った人間の墓標に近いのかもしれない。
だが、まだ墓標にするには早い。
桜夜は指先に少しだけ力を込めた。
「今夜、読む」
その言葉に、三人の空気が変わった。
リオがすぐに姿勢を正す。
「承知しました。静馬様にも連絡いたします」
「お願い」
ホムラは腕を鳴らした。
「オレは殴る係だな」
「まだ殴られる前提なの?」
「お前が勝手に船へ行こうとしたら殴る」
「たぶん行かないよ」
「信用できねえ」
「ひどいな」
サイカは、桜夜の袖をつまんだ。
「わたしもいるよ」
「うん」
「桜夜さんが遠くに行きそうになったら、呼ぶからね」
「頼りにしてる」
サイカは少しだけ頬を赤くした。
「うん。頼って」
その声はやわらかい。
けれど、逃がさない強さがあった。
◇◇◇
仕事部屋には、夜になる前に全員が集まった。
桜夜。
サイカ。
リオ。
ホムラ。
静馬。
そして、小春と日和。
小春と日和は、まだ少し眠そうだった。
それでも神楽鈴を胸に抱き、桜夜の前にちょこんと座っている。
「無理はしなくていいよ」
桜夜が言うと、小春が首を横に振った。
「無理じゃありません」
日和も眠そうな目で頷く。
「名前のない声は、鈴が必要です」
「そう」
桜夜は二人の頭を軽く撫でた。
「ありがとう」
静馬は医療鞄を開きながら、淡々と言った。
「礼を言う前に、自分の状態を申告しろ」
「眠ってない」
「知っている」
「なら聞かなくても」
「君の口から言わせることに意味がある」
静馬は桜夜の手首を取り、脈を確認した。
「鳳凰の反応は弱いままだな」
「うん」
「墓参りで少し落ち着いたようには見えるが、身体は疲労している。読む時間は短く区切る」
「了解」
「君の了解は信用しない」
「友人に対してひどくない?」
「友人じゃない」
静馬は視線を逸らさず、脈を取り続けた。
「お前はただのモルモットだ」
「そっか」
「そうだ」
リオが記録用紙を整えながら、静かに言う。
「桜夜様。手帳の内容は、わたくしが写しを取ります。途中で異変があれば、即座に中断します」
「うん」
「ホムラちゃん」
「わかってる。一度目は声。二度目は拳」
「今回は一度目から少し強めでもよろしいかと」
「任せろ」
「リオちゃん?」
「本気です」
桜夜は困ったように笑った。
サイカは、その隣で桜夜の手に自分の手を重ねる。
「桜夜さん」
「うん」
「遠くに行かないでね」
「行かない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
サイカは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、始めよう」
桜夜は黒い手帳を机に置いた。
表紙には、やはり名前がない。
鷹司の姓も。
父に与えられた名も。
桜夜が呼んできた親友という言葉も。
何もない。
それが、かえって重かった。
桜夜は表紙に指をかける。
そして、ゆっくりと開いた。
◇◇◇
最初のページには、昨日も見た文字があった。
名前を捨てたら、少しは軽くなると思っていた。
でも、軽くなったのは僕ではなく、僕を呼ぶ声の方だった。
親友と呼ばれるのは嫌いじゃない。
でも、それは僕じゃない。
桜夜はそこで一度、息を止めた。
親友。
その言葉は、逃げだったのかもしれない。
名前を聞かずに済む。
捨てたものに触れずに済む。
関係だけで呼べる。
それは優しさだった。
同時に、臆病さでもあった。
宮森明人は、名前も家もない子どもに桜夜という仮の名を与えた。
嘘のような名でも、その名は道になった。
なら、自分は親友に何を与えたのか。
親友という、関係だけの言葉。
それは彼をつなぎ止めたのか。
それとも、彼自身を見ないままにしたのか。
「桜夜さん」
サイカの声がした。
桜夜は顔を上げる。
「大丈夫」
「うん」
サイカは手を離さなかった。
桜夜は次のページをめくった。
そこから文字が少し変わっていた。
きれいではある。
だが、ところどころ筆圧が強い。
押し殺した感情が、紙の繊維を傷つけているようだった。
桜夜は声に出して読んだ。
「鷹司の家には、名前が多すぎる」
リオのペンが走る。
「嫡男。跡取り。相談役候補。出来損ない。戦えない子。惜しい子。鷹司の恥。鷹司の血。先代の息子」
ホムラが舌打ちした。
「胸くそ悪りい」
桜夜は続ける。
「どれも僕を指していた。でも、どれも僕じゃなかった」
静馬が桜夜の脈を確認する。
まだ乱れは小さい。
「父さんは、僕を愛していなかったわけじゃないと思う」
その一文で、部屋の空気が少し冷えた。
先代。
鷹司。
桜夜を四方院へ引き入れた男。
親友の父。
愛していなかったわけではない。
その言葉は、恨みよりもずっと厄介だった。
「ただ、父さんの愛はいつも役割の形をしていた。強くなれ。役に立て。鷹司であれ。相談役の家にふさわしくあれ。僕がほしかったのは、たぶん、それではなかった」
桜夜は、そこで読むのを止めた。
先代は本音を言わない。
親友もまた、それを知っていたのだろう。
愛されていないと思い込めたなら、憎むだけで済んだ。
けれど、そうではなかった。
愛はあった。
ただ、その形が苦しかった。
桜夜は手帳に目を落としたまま言う。
「これは、先代にはまだ読ませない方がいいね」
リオが静かに頷いた。
「はい。少なくとも、今は」
ホムラが腕を組む。
「読ませてぶん殴らせりゃいいんじゃねえのか」
「先代は、殴られても本音を言わないよ」
「面倒くせえ親子だな」
「そうだね」
桜夜は苦笑した。
「面倒くさい」
◇◇◇
次のページには、桜夜の名が出てきた。
桜夜は、自分のことを野良犬だと言う。
でも、僕から見れば違った。
あいつには、明人先生がいた。
師匠がいた。
宮森の家があった。
先生と師匠が同じ人だと知ったとき、少し驚いた。
桜夜は、剣の話をするときだけ、あの人を師匠と呼んだ。
生き方の話をするときは、先生と呼んだ。
たまに酔ったときだけ、明人先生と呼んだ。
あいつは気づいていない。
呼び方を変えながら、何度も同じ人に帰っていることに。
桜夜は目を伏せた。
宮森家の墓前で、彼はそのことを思い出してきたばかりだった。
明人。
先生。
師匠。
三つの呼び名は、同じ人へ帰るための道だった。
親友は、それを見ていた。
遠くから。
名前を捨てた場所から。
桜夜が自分を野良犬だと呼びながら、実際にはいくつもの呼び名に支えられていることを、見ていた。
手帳の続きには、こうあった。
桜夜は、自分には何もないと言う。
嘘だ。
あいつには、呼び名が多すぎる。
桜夜。
水希。
先生の弟子。
司君の兄貴分。
あずささんのわんこ。
宗主様の相談役。
静馬先生の患者。
サイカさんの桜夜さん。
リオさんの桜夜様。
ホムラさんの桜夜。
そして、僕の親友。
あいつは空っぽなんかじゃない。
空っぽだと思い込めるくらい、たくさんの声に囲まれているだけだ。
桜夜は、声に出すのをやめた。
部屋に沈黙が落ちる。
サイカが桜夜の手を握り直した。
「桜夜さん」
「うん」
「わたし、ちゃんと呼ぶよ」
「何を?」
「桜夜さんのこと。これからも、ちゃんと桜夜さんって呼ぶ」
その言葉は、まっすぐだった。
桜夜は困ったように笑う。
「それは、ありがたいな」
「うん。だから、ちゃんと返事してね」
「努力する」
「努力じゃなくて、返事」
「はい」
ホムラが鼻を鳴らす。
「サイカに言われると素直だな」
「ホムラちゃんは拳が先に来るからね」
「次から名前呼びながら殴ってやる」
「やめてほしい」
リオは少しだけ微笑んだが、すぐに記録へ視線を戻した。
静馬は脈を確認する。
「少し乱れたが、続行可能だ。ただし長くは読むな」
「わかってる」
「君のわかっているは信用しない」
「今日何回目かな、それ」
「信用に値する行動を取れば言わなくなる」
「手厳しい」
「友人管理だ」
静馬は、今度は聞き間違いにできないほどはっきりと言った。
桜夜は少しだけ目を細める。
「ありがとう」
「礼を言う前に、呼吸を整えろ」
「はい」
◇◇◇
ページをめくる。
そこから、手帳の文字はさらに乱れていた。
白い船は、名前を聞かない。
家も聞かない。
役割も聞かない。
ただ、眠る場所をくれる。
それが救いに見えた。
少なくとも、最初は。
小春と日和の神楽鈴が、かすかに鳴った。
ちりん。
ちりん。
誰も触れていない。
けれど、鈴が鳴った。
小春が眉を寄せる。
「船が近いです」
日和が眠そうな声で続ける。
「手帳の中に、白い水があります」
静馬が目を細めた。
「中断するか」
「もう少しだけ」
「君に聞いていない。小春君、日和君、危険か?」
小春は神楽鈴を胸に抱いた。
「まだ岸です」
日和が頷く。
「でも、長く読むと、足が濡れます」
ホムラが眉を寄せる。
「なんだそれ」
「夢の岸に入る、という意味かもしれません」
リオが記録しながら言う。
桜夜は手帳に目を戻した。
白い船には、椅子がある。
十二の椅子。
それは箱舟教団の古い記録と一致している。
けれど、記録にない椅子があった。
十三番目の椅子。
船の外側に置かれた椅子。
乗客の席ではない。
漕ぎ手の席でもない。
たぶん、境界の席。
最初、僕はそこが自分のための席だと思った。
鷹司でもない。
相談役でもない。
息子でもない。
跡取りでもない。
でも、完全な他人にもなれない。
捨てた名の外側に座るには、ちょうどよすぎる場所に見えた。
けれど、違った。
十三番目の椅子は、僕を見ていなかった。
あの椅子が待っていたのは、水希桜夜だった。
桜夜は、息を止めていた。
サイカがすぐに呼ぶ。
「桜夜さん」
その声で、息が戻る。
「……大丈夫」
「大丈夫じゃないときも、ちゃんと言ってね」
「うん」
サイカの指が、桜夜の手の甲に触れている。
温かい。
その温かさが、白い水の冷たさを遠ざけてくれる。
桜夜はさらにページをめくった。
◇◇◇
そこには、断片的な記録が並んでいた。
日付。
場所。
観測した夢。
白い花びら。
白い船。
箱舟教団。
水無瀬ミライ。
未咲。
夢渡り。
そして、桜夜。
桜夜は、きっと僕を止めに来る。
あいつは救いという言葉を疑う。
眠りという言葉を憎む。
でも、白だけはだめだ。
あずささんの白を見せられたら、あいつは止まる。
それが怖い。
それでも、来てほしい。
僕は、桜夜に止められたいのかもしれない。
ホムラが机を叩いた。
「ふざけんなよ」
怒りの声だった。
「止めてほしいなら、最初から言えよ。黙って消えて、船べりに座って、桜夜を苦しませてんじゃねえよ!」
「ホムラちゃん」
「わかってるよ。わかってるけど、ムカつくだろ」
「うん」
桜夜は頷いた。
「ムカつくね」
ホムラは少し驚いた顔をした。
「お前も怒るのかよ」
「そういえば、最近は怒ってなかったね」
「ならもっと怒れ。怒ってる方が人間らしいだろ」
ホムラはそっぽを向いた。
サイカは、手帳をじっと見つめていた。
「でも、止めてほしいって書いてあるんだね」
「そうだね」
「だったら、止めよう」
サイカは迷わず言った。
「怒ってもいいし、文句も言えばいいよ。でも、戻ってきてからにしよう」
桜夜は、少しだけ笑った。
「サイカちゃんは強いね」
「強くないよ」
「そう?」
「桜夜さんが戻ってこない方が、ずっと怖いもん」
サイカはそう言って、桜夜の手を握り直した。
柔らかい手だった。
だが、離す気のない手だった。
◇◇◇
手帳の最後に、折り込まれた紙が挟まっていた。
リオが気づき、慎重に取り出す。
「桜夜様」
「うん」
それは、手帳とは別の紙だった。
データセンターの管理用紙。
裏面に、手書きの文章がある。
文字は震えていた。
桜夜は、それを読んだ。
もし、僕が十三番目の椅子のそばに立っていたら。
桜夜。
僕を親友と呼ばないでくれ。
その言葉はうれしい。
でも、その言葉だけだと戻れない。
それに、あの椅子は僕を待っていない。
十三番目の椅子が待っているのは、君だ。
水希桜夜。
名を与えられ、名に縛られ、名で帰ってくることを覚えた君。
白を失い、白を恐れ、それでも白を捨てられない君。
僕は君の親友でいたかった。
でも、君の親友だけでは、僕は僕になれなかった。
だから、僕は船べりにいる。
君を呼ぶためなのか。
君を止めるためなのか。
それとも、君に止められるためなのか。
もう、自分でもわからない。
名を捨てたのは僕だ。
だから、もう一度名を選ばなければならないのも、僕なのだと思う。
けれど、ひとりでは選べない。
だから。
君が僕にくれなかった名前を、今度は一緒に探してほしい。
もし、僕が十三番目の椅子に座ったら。
桜夜。
僕を親友と呼ばないでくれ。
その言葉はうれしい。
でも、その言葉だけだと戻れない。
僕は君の親友でいたかった。
でも、君の親友だけでは、僕は僕になれなかった。
名を捨てたのは僕だ。
だから、もう一度名を選ばなければならないのも、僕なのだと思う。
桜夜の指が止まった。
紙の最後には、たった一行だけが残っていた。
君が僕にくれなかった名前を、今度は一緒に探してほしい。
部屋が静まり返った。
その一文は、責めているようにも読めた。
頼っているようにも読めた。
桜夜は目を閉じる。
親友。
それは大事な言葉だった。
けれど、その言葉だけでは足りなかった。
名前を聞かずに済む。
捨てたものに触れずに済む。
関係だけで呼べる。
桜夜は、それを優しさだと思っていた。
だが、優しさだけでは人を救えないことがある。
宮森明人は、桜夜に仮の名を与えた。
夜桜から生まれた、嘘のような名。
それでも桜夜は、その名に何度も帰ってきた。
なら、親友にも必要なのだ。
鷹司の姓でもなく。
父に与えられ、捨てた名だけでもなく。
桜夜との関係を示す親友という言葉だけでもない。
彼自身が、振り向ける名。
「桜夜様」
リオが静かに呼ぶ。
「ご自身を責めすぎないでください」
「まだ何も言っていないよ」
「お顔に書いてあります」
「秘書は怖いね」
「はい。怖い秘書です」
リオは微笑まなかった。
ただ、まっすぐ桜夜を見ている。
「その方は、桜夜様に名前を与えてほしかったのではありません。おそらく、一緒に探してほしかったのです」
「うん」
「なら、まだ間に合います」
まだ間に合う。
そう思うには、白い船は近すぎる。
けれど、完全に遅すぎるわけでもない。
十三番目の椅子。
船べり。
境界。
そこにいるということは、まだ選んでいないということだ。
乗ることも。
戻ることも。
桜夜は手帳を閉じた。
「小春ちゃん、日和ちゃん」
「はい」
「はい」
「岸だけ、見られる?」
静馬が眉を寄せる。
「桜夜」
「船には行かないよ」
「君の行かないは信用しない」
「だから、みんなにいてもらう」
桜夜は静馬を見た。
「岸を見るだけだ。船に乗るんじゃない。十三番目の椅子にも触らない。ただ、呼べる場所を探す」
静馬は黙った。
その沈黙は、許可ではない。
検討だった。
「条件がある」
「どうぞ」
「三分。異常が出たら即中断。鳳凰は使わない。誰にも無理はさせない。君が続けると言っても、僕が止めると言ったら止める」
「了解」
「リオ君」
「はい」
「記録を頼む」
「承知しました」
「ホムラ君」
「一度目は声。二度目は拳だろ」
「そうだ」
「任せろ」
「サイカ君」
「うん」
「名前を呼べ。彼が格好つけて帰り道を忘れる前に」
「わかった」
サイカは桜夜の手を両手で包んだ。
「桜夜さん、ちゃんと帰ってきてね」
「うん」
「約束だよ」
「約束する」
その言葉を聞いて、サイカはようやく少しだけ笑った。
◇◇◇
小春と日和が神楽鈴を鳴らした。
ちりん。
ちりん。
鈴の音が、部屋の空気に染み込んでいく。
桜夜は目を閉じた。
白い船は見ない。
白い眠りも見ない。
見るのは岸。
船とこちら側の境界。
親友がまだ完全には渡っていない場所。
鈴の音が遠くなる。
畳の感触が薄れていく。
代わりに、足元に湿った砂の感覚が生まれた。
海ではない。
川でもない。
夢と記憶と名前のあいだにある、奇妙な岸。
そこに、白い船があった。
遠い。
けれど、見える。
船べりに、椅子がある。
十三番目の椅子。
そのそばに、人影が立っていた。
顔は見えない。
名も聞こえない。
だが、桜夜にはわかった。
親友だ。
桜夜は呼びかけようとして、言葉を止めた。
親友。
それでは届かない。
けれど、別の名はまだない。
だから桜夜は、名前ではなく、約束を口にした。
「探しに来た」
白い船が、ぎしりと軋んだ。
人影が、わずかにこちらを向く。
桜夜は続ける。
「君の名前を、僕が勝手につけるんじゃない。一緒に探しに来た」
風が吹いた。
白い花びらが舞う。
その向こうで、人影が何かを言った。
声は聞こえない。
だが、口の動きだけが見えた。
遅いよ。
そう言ったように見えた。
桜夜は少しだけ笑った。
「知ってる」
次の瞬間、船の影が濃くなった。
白いはずの船底から、黒い文字が浮かび上がる。
統一言語。
桜夜は読めてしまう。
名前を探す者は、名を失う。
岸に立つ者は、船に選ばれる。
白い船が、こちらを見た。
船そのものに目はない。
それでも、見られたとわかった。
足元の砂が濡れる。
冷たい。
白い水が、桜夜の足首に触れた。
その瞬間、遠くから声がした。
「桜夜さん」
サイカの声。
「戻ってきて」
柔らかくて、かわいらしくて、けれど絶対に離さない声。
「桜夜さん、帰ってきて」
砂の感覚が薄れる。
鈴の音が戻ってくる。
桜夜は最後にもう一度、船べりの影を見た。
「また来る」
影は動かなかった。
だが、白い船の軋む音の向こうで、かすかに笑ったような気がした。
◇◇◇
目を開けると、そこは仕事部屋だった。
サイカが桜夜の手を握っている。
リオが記録を取っている。
ホムラが今にも殴れる距離にいる。
静馬が脈を取っていた。
「二分四十秒」
静馬が言った。
「制限内だね」
「ぎりぎりだ」
「褒めてくれてもいいのに」
「悪化なし。意識混濁なし。霊的汚染の兆候は不明。褒めるには早い」
「厳しい」
「患者管理だ」
「モルモットだろ?」
「今は患者だ」
桜夜は苦笑した。
サイカがほっとしたように息を吐く。
「帰ってきた」
「うん。ただいま」
「おかえり」
その短いやり取りだけで、桜夜の胸の奥が少し温かくなった。
リオが記録用紙から顔を上げる。
「桜夜様。何が見えましたか」
「岸と、船と、十三番目の椅子」
「親友様は?」
「いた」
「話せましたか」
「声は届いたと思う。返事は聞こえなかったけど、口は動いた」
「何と?」
「遅いよ、かな」
ホムラがまた舌打ちした。
「本当にムカつくやつだな」
「うん」
「で、どうすんだ」
桜夜は手帳を見た。
名前のない手帳。
そこに残された、一緒に探してほしいという願い。
「次は、彼が捨てた名前を調べる」
部屋の空気が少し硬くなる。
リオが静かに言った。
「先代に聞くのですか」
「聞かない」
桜夜は即答した。
「先代は、おそらく答えない。仮に答えても、それは父親が与えた名だ。今必要なのは、それだけじゃない」
「では?」
「彼が捨てる前に、誰かに呼ばれていた名。彼自身が少しでも振り向けた呼び方。鷹司家の記録ではなく、彼の生きた痕跡を探す」
リオは頷いた。
「データセンターの私的ログ、旧端末、通信履歴、研究メモ、交友記録を洗います」
「お願い」
静馬が言う。
「僕は医療記録を確認する。鷹司家の子なら、四方院系列の診療履歴が残っている可能性がある」
「個人情報では?」
「関係ない」
「さすがマッドサイエンティスト」
ホムラが腕を鳴らす。
「オレは?」
「小春ちゃんと日和ちゃんの護衛」
「地味だな」
「一番大事だよ」
ホムラは少しだけ黙り、それから鼻を鳴らした。
「ならやる」
サイカが桜夜を見る。
「わたしは?」
「僕を呼ぶ係」
「それ、ずっと?」
「うん。ずっと」
サイカは少し照れたように笑った。
「じゃあ、ちゃんと呼ぶね。桜夜さん」
名前を呼ばれる。
それだけで、戻れる。
桜夜は改めて思う。
名は、ただの音ではない。
帰り道だ。
なら、親友にも必要なのだ。
親友という関係ではなく。
鷹司の姓でもなく。
父に与えられ、捨てた名だけでもなく。
彼自身が、振り向ける名。
その手がかりを探さなければならない。
◇◇◇
夜。
仕事部屋の窓から、永久の桜の若木が見えた。
まだ咲かない枝先に、一枚だけ白い花びらが引っかかっていた。
桜夜はそれを見つめる。
今度の花びらには、文字がなかった。
ただ、白い。
船の白か。
あずさの白か。
それとも、宮森家の桜が運んできた白か。
まだ、わからない。
だが、桜夜はもう目を逸らさなかった。
「白は、ひとつじゃない」
小さく呟く。
その声に、サイカが振り返った。
「桜夜さん?」
「何でもないよ」
「そう?」
「うん」
桜夜は机の上の手帳に目を落とした。
黒い表紙。
名前のない手帳。
その最後の紙には、まだ親友の震えた文字が残っている。
君が僕にくれなかった名前を、今度は一緒に探してほしい。
桜夜は、指先でその文字に触れた。
「探すよ」
声は静かだった。
だが、迷いはなかった。
「今度は、逃げない」
遠くで、白い船が軋む音がした気がした。
そしてどこかで、名前のない誰かが、ほんの少しだけ息をした。




