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黒の騎士と三原色の少女たち~old testament~  作者: スナオ
第二章 二人称の名前
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第15話 墓前の名

 夜は、明けなかった。


 いや、正確には朝になっていた。


 障子の向こうは薄く明るく、庭の木々には朝露が残っている。鳥の声も聞こえる。屋敷の中では、リオが静かに歩く音と、ホムラが眠そうに何かをぼやく声もした。


 けれど桜夜の内側だけは、まだ夜の底にあった。


 彼は布団の上で横になっていた。


 眠ってはいない。


 眠れない。


 桜夜は、普段一人では眠れない。眠ろうとすれば、夢に沈む。白い病室へ戻ることもあれば、もっと遠いどこかへ引きずり込まれることもある。


 だから眠れるのは、鳳凰が強制的に意識を落としたときか、信頼できる誰かがそばにいるときだけだった。


 昨夜は、そのどちらでもなかった。


 鳳凰は弱っている。


 桜夜の胸の奥で、かすかな火種のように揺れているだけで、いつものように文句を言うこともない。


 だから桜夜は、眠らなかった。


 眠らないまま、朝を待った。


 隣にはサイカが座っていた。


 昨夜、桜夜が「少し横になる」と言ったときから、ずっとそばにいたらしい。桜夜の手を両手で包み、眠気に何度も頭を揺らしながら、それでも離さなかった。


「サイカちゃん」


 桜夜が呼ぶと、サイカははっと顔を上げた。


「桜夜さん。起きてたの?」


「うん。寝てはいないかな」


「……やっぱり」


 サイカは少しだけ怒った顔をした。


 でも、その目は優しい。


「寝られないなら、寝られないって言ってよ」


「言ったら、サイカちゃんが無理をするでしょう」


「するよ」


「そこは否定してほしかったな」


「だって、するもん」


 サイカは桜夜の手を握り直した。


「桜夜さんが一人で眠れないなら、わたしがそばにいるよ。眠れなくても、白い船に引っ張られそうになっても、ちゃんと呼ぶから」


「ありがとう」


「うん」


 サイカは少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、桜夜はようやく布団から身を起こした。


 胸の奥が重い。


 疲労もある。


 鳳凰の弱体化もある。


 けれど、それだけではない。


 今日は、行かなければならない場所がある。


 白い船へ近づく前に。


 親友の名前を探す前に。


 命をかける覚悟を、誰に向けるべきか、桜夜はわかっていた。


◇◇◇


 朝食は、トーストと卵、ベーコン、温かいスープだった。


 洋食。


 サイカがいつも作ってくれる朝食だ。


 こんがり焼けたパン。


 黄色い卵。


 湯気を立てるスープ。


 白い船の白へ引き込まれずに済む、温かい朝の色だった。


「桜夜さん、食べられそう?」


 サイカが心配そうに尋ねる。


「うん。おいしそうだ」


「ほんと?」


「ほんと」


「じゃあ、ちゃんと食べてね」


「努力する」


「努力じゃなくて、食べるの」


「はい」


 ホムラが向かいの席でパンをかじりながら鼻を鳴らした。


「サイカにまで管理されてやんの」


「ホムラちゃんにも管理されている気がするけどね」


「オレは殴る係だ」


「職分がはっきりしている」


「おう」


 リオは紅茶を注ぎながら、桜夜の顔色を見ていた。


「桜夜様。本日は夢渡りの準備を進める予定でしたが」


「うん」


「予定変更、ですね」


 桜夜は紅茶のカップを置いた。


「墓参りに行く」


 サイカの手が止まった。


 ホムラもパンをかじるのをやめる。


 リオだけは、少しだけ目を伏せた。


「宮森明人様のお墓、ですか」


「うん」


 桜夜は窓の外を見る。


 まだ咲かない永久の桜の若木が、朝の光の中に立っていた。


「白い船へ行く前に、親友の名を探す前に、先生に話しておきたい」


「先生?」


 サイカが小さく聞いた。


「僕の育ての親。師匠で、先生で、明人先生」


 桜夜は少しだけ笑った。


「宮森明人。僕に桜夜って名前をくれた人だよ」


 サイカは、何かを受け取るようにその名を聞いた。


「わたしたちも、行っていい?」


「いいよ」


「ちゃんと、ご挨拶したい」


「うん」


 ホムラが立ち上がった。


「なら早く行こうぜ。白い船だか何だか知らねえが、行く前に殴る相手に挨拶くらいしておかないとな」


「殴る相手?」


「桜夜の師匠なんだろ。お前が無茶したら代わりに殴ってくれって頼む」


「それは墓前で言うことではないね」


「言う」


 リオは静かに頷いた。


「わたくしも同行いたします。桜夜様がどのような方に育てられたのか、知っておきたいですから」


「大した話じゃないよ」


「大した話です」


 リオは即答した。


「桜夜様が命をかける前に会いに行く方なのですから」


 桜夜は返す言葉を失った。


 そして、少しだけ困ったように笑った。


◇◇◇


 車は鎌倉方面へ向かった。


 運転するのは桜夜だった。


 助手席にはサイカ。


 後部座席にはリオとホムラ。


 車内は静かだった。


 サイカは何度か話しかけようとして、そのたびに桜夜の横顔を見て言葉を飲み込んだ。


 桜夜の顔は、いつもよりずっと静かだった。


 悲しい、というより。


 寂しい、というより。


 帰る場所へ向かう人の顔だった。


 けれど、その帰る場所に、もう帰りたい人はいない。


 だから、サイカはそっと手を伸ばした。


 運転の邪魔にならないように、桜夜の袖を少しだけつまむ。


「サイカちゃん?」


「ごめん。ちょっとだけ」


「うん」


 桜夜はそれ以上何も言わなかった。


 ホムラが後ろで小さく舌打ちする。


「なんか、こういう空気苦手だ」


「ホムラちゃんは静かなのが苦手ですものね」


「そういう意味じゃねえ」


「では?」


「桜夜が何も言わねえときって、だいたいろくでもないこと考えてるだろ」


「それは否定できません」


「おい」


 桜夜が苦笑する。


 少しだけ車内の空気が緩んだ。


 その空気のまま、車は古い屋敷の前で止まった。


◇◇◇


 純和風の平屋建ての屋敷だった。


 桜夜の私邸と、どこか似ている。


 ただ、こちらの方が古い。


 長い時間をかけて木が乾き、柱が黒くなり、庭の石が土に馴染んでいる。


 庭には大きな桜の木があった。


 季節ではないはずなのに、枝先には淡い気配が宿っている。


 咲いてはいない。


 けれど、そこに桜があることだけは強くわかる。


「ここが、宮森家」


 サイカが小さく呟いた。


「うん。僕が育った場所」


 桜夜は車を降りた。


 黒いスーツ。


 その背中は、普段より少し細く見えた。


「お墓は屋敷の裏だよ」


 三人は桜夜について歩いた。


 屋敷の裏手には、小さな墓地があった。


 そこには「宮森家先祖代々之霊位」と刻まれた墓標と、「宮森明人之命」と記された墓標が並んでいた。


 その前に、二人の人物がいた。


 一人は、高校生くらいの少年。


 少し茶色がかった髪に、白い学生服。


 もう一人は、桜色の長い髪をした美しい女性。


 桜柄の着物をまとい、静かに手を合わせていた。


 二人は桜夜たちの気配に気づき、振り返った。


 少年は桜夜を見ると、人懐っこく笑った。


「やっぱり来てくれたんだ。兄さん」


「久しぶり、司くん」


 兄さん。


 その呼び方に、サイカたちはそろって桜夜を見た。


 桜夜は苦笑する。


「あとで説明するよ」


 桜色の髪の女性が、上品に頭を下げた。


「お久しぶりでございます、桜夜様」


「お久しぶりです、桜様」


 桜夜が丁寧に頭を下げる。


 ホムラが小声で言った。


「誰だよ」


「後で説明するって」


「説明すること多すぎんだろ」


「僕の人生は少し散らかっているからね」


「少しじゃねえ」


 司が笑う。


「相変わらずだね、兄さん」


「君もね」


 桜夜は墓前へ歩いた。


 司と桜は、自然に場所を譲る。


 桜夜は「宮森明人之命」と刻まれた墓石の前にしゃがみ込んだ。


 拝むでもなく。


 泣くでもなく。


 ただ、じっと墓石を見つめる。


 その横顔を見たサイカが、一歩踏み出しかける。


 だが、桜がそっと声をかけた。


「少し、彼を一人にして差し上げてくださいませんか」


 サイカは桜を見た。


 知らない女性。


 けれど、その声には不思議な柔らかさがあった。


「……うん」


 サイカは頷いた。


 リオとホムラも、それに続く。


 司が三人を縁側へ案内した。


◇◇◇


 縁側に座ると、庭の桜がよく見えた。


 司が三人へ向き直る。


「改めまして。僕は宮森司。この家で兄さんを育てた宮森明人の孫です」


「わたしはサイカ。桜夜さんに助けてもらって、それで……今は一緒にいるの」


「ホムラだ」


「リオと申します。桜夜様の秘書官を務めております」


「秘書官かあ。兄さん、本当に相談役なんだね」


 司は少し懐かしそうに笑った。


 サイカは、庭の向こうにいる桜夜の背中を見た。


「あの、桜夜さんは、育ての親って言ってた」


「うん。じいちゃん、宮森明人が兄さんを拾ったんだ」


「拾った?」


「言い方は悪いけど、本当にそんな感じ。夜桜の綺麗な夜に、じいちゃんが財布を落としてね。それを兄さんが届けた」


 司は庭の桜を見上げる。


「その頃の兄さんは、名前も家も知らない子どもだった。服もぼろぼろで、今日生きられるかもわからないような状態だったのに、財布を盗まなかった。それをじいちゃんが気に入って、連れて帰ったんだ」


 サイカは息を呑んだ。


 野良犬。


 桜夜が自分をそう呼ぶ理由が、少しだけ形になった気がした。


「それで、じいちゃんは仮の名前をつけた。夜桜をもじって、桜夜。桜の夜と書いて、おうや」


「桜夜さんの名前……」


「うん。じいちゃんがくれた名前」


 司は少しだけ表情をやわらげた。


「本当は養子にしたかったらしいけど、じいちゃんも高齢だったからね。代わりに四方院家の伝手を頼って、水希家の末裔って形を用意してもらった。水希桜夜。そうやって兄さんは、四方院家で生きる場所を得た」


 リオが静かに言う。


「つまり、明人様は桜夜様に、名と居場所を与えた方なのですね」


「そうだね。それだけじゃない。剣も教えた。生き方も教えた。兄さんが先生って呼んだり、師匠って呼んだり、明人先生って呼んだりするのは、全部じいちゃんのこと」


 サイカは、もう一度墓前の桜夜を見た。


 先生。


 師匠。


 明人。


 それらが同じ人の名だと、今ならわかる。


 桜夜が命をかける前に会いに来た人。


 それが、宮森明人だった。


「じいちゃんは、兄さんのことをずっと心配していたよ」


 司の声が少しだけ低くなる。


「兄さんは強い。頭もいい。剣も覚えるのが早かった。でも、じいちゃんはその奥に何か怖いものを見ていたんだと思う。四方院家の人にも、兄さんの瞳の奥に化け物を見たって言った人がいたらしい」


 ホムラが顔をしかめる。


「化け物じゃねえよ」


 その声は、怒っていた。


 司は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「うん。そう言ってくれる人がいて、よかった」


「当たり前だろ」


 桜が盆に茶を乗せて戻ってきた。


「明人様も、きっと同じことを願っておられました」


「同じこと?」


 サイカが聞く。


 桜は静かに茶を置き、庭の向こうを見た。


「桜夜様が、化け物ではなく、人を愛し、人に愛される方になることです」


 その言葉に、サイカは胸の奥がきゅっとなった。


 桜夜は強い。


 とても強い。


 けれど、強いだけではない。


 一人では眠れない。


 白い船に引きずられそうになる。


 忘れられない痛みを抱えている。


 それでも、誰かを助けるために命をかけようとする。


 サイカは膝の上で手を握った。


「わたし」


 声が自然に出た。


「桜夜さんが化け物にならないように、ちゃんと呼ぶよ」


 司と桜が、サイカを見る。


 サイカは少し赤くなりながらも、言葉を続けた。


「桜夜さんが白い船に行きそうになったら、名前を呼ぶ。帰ってきてって言う。だから……明人さんにも、そう伝えたい」


 ホムラが腕を組む。


「オレは、あいつが変な方向に行ったら殴る」


「ホムラちゃん」


「何だよ。必要だろ」


「必要です」


 リオが静かに頷いた。


「わたくしは、桜夜様がご自身を役割に閉じ込めないように支えます。相談役としてではなく、水希桜夜という一人の方として、戻ってこられるように」


 司は目を細めた。


「兄さん、いい人たちに会えたんだね」


「そう見える?」


「うん」


 桜は優しく微笑んだ。


「明人様も、きっと安心なさいます」


◇◇◇


 墓前で、桜夜は一人だった。


 墓石には、宮森明人之命と刻まれている。


 師匠。


 先生。


 明人先生。


 どの呼び方もしっくりくる。


 どれも足りない。


 桜夜はしばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと口を開いた。


「先生」


 風が吹く。


 桜の葉が揺れる。


「また、面倒なことになりました」


 返事はない。


 当たり前だ。


 けれど桜夜は続けた。


「白い船が、人を眠らせています。救いみたいな顔をして、名前を失った人たちを連れて行こうとしている」


 墓石に触れる。


 冷たい。


「僕の親友も、そこにいます。親友って呼んでも届かない。彼は名前を捨てた。鷹司の姓も、父親にもらった名も、自分で手放した」


 桜夜は苦笑した。


「僕には、名前を捨てる気持ちが少しわかるんです。僕には最初から、名前も家もなかったから」


 手のひらに力が入る。


「でも、先生が拾ってくれた。夜桜から、桜夜って呼んでくれた。嘘みたいな名前でも、僕にはそれが道になった」


 目を閉じる。


 あの夜のことは、ほとんど覚えていない。


 けれど、明人の手の大きさだけは覚えている。


 乱暴で、温かかった。


「だから、今度は僕が呼ぶ番なんだと思います」


 白い船。


 十三番目の椅子。


 名前のない親友。


 そこへ近づけば、危険はある。


 戻れなくなるかもしれない。


 名前を失うかもしれない。


 白に呑まれるかもしれない。


「命をかけることになるかもしれません」


 桜夜は静かに言った。


「でも、死にに行くわけじゃない。先生に叱られそうだから、そこは間違えないようにします」


 風が少し強くなった。


 桜夜は墓石を見つめる。


「先生。僕は、化け物にならずに済んでいますか」


 答えはない。


 それでも、聞きたかった。


「あの子たちが、僕を呼んでくれます。サイカちゃんが、リオちゃんが、ホムラちゃんが。小春ちゃんと日和ちゃんも。静馬くんは口ではモルモットって言うくせに、僕を患者として、友人として止めてくれる」


 桜夜は小さく笑った。


「僕はまだ、一人では眠れません。先生に怒られそうですね。いい年をして、誰かがそばにいないと眠れないなんて」


 けれど、それは弱さだけではない。


 誰かを信じている証でもある。


 そう思えるようになったのは、いつからだろう。


「先生」


 桜夜は墓石の前で、深く頭を下げた。


「行ってきます」


 しばらく、動かなかった。


 やがて顔を上げる。


 涙はない。


 けれど、目の奥にあった白い靄は少しだけ薄れていた。


 桜夜は立ち上がる。


 その瞬間、ふわりと風が吹いた。


 季節外れの桜の花びらが一枚、どこからともなく舞い落ちる。


 花びらは、桜夜の肩に触れて、地面へ落ちた。


 桜夜はそれを見下ろし、少しだけ笑った。


「相変わらず、言葉が少ないですね。先生」


◇◇◇


 桜夜が縁側へ戻ると、サイカたちは司と桜から話を聞いていた。


 ホムラは明らかに機嫌が悪そうで、リオは静かに考え込み、サイカは今にも泣きそうな顔をしている。


「……司くん」


 桜夜が笑顔で言った。


「どこまで話したのかな」


「兄さんが名も家もない野良犬だったところから、じいちゃんが名前をつけたところまで」


「だいぶ重要な個人情報だね」


「兄さんが話さないから」


「君は昔からそういうところがある」


「兄さんに似たんだよ」


「僕はもっと慎み深い」


 ホムラが鼻を鳴らす。


「どこがだよ」


 サイカは立ち上がり、桜夜の前へ来た。


「桜夜さん」


「うん?」


「お墓、わたしたちも行っていい?」


 桜夜は少しだけ目を細めた。


「いいよ。先生も喜ぶと思う」


「うん」


 サイカは頷いた。


 リオとホムラも立ち上がる。


 三人は屋敷の裏へ向かった。


◇◇◇


 明人の墓の前で、サイカは手を合わせた。


 何を言えばいいのか、うまくわからなかった。


 けれど、言葉は少しずつ出てきた。


「はじめまして。サイカです」


 墓石は何も答えない。


 それでも、サイカは続けた。


「桜夜さんに助けてもらいました。わたしも、妹たちも。たくさん、救ってもらいました」


 隣でリオも手を合わせる。


「桜夜様は、とても不器用な方です。ご自身をすぐ役割にしてしまいます。相談役として、神殺しとして、誰かを救う者として」


 ホムラは腕を組んだまま墓石を見ていた。


 だが、やがて気まずそうに頭を下げる。


「あいつ、放っておくとすぐ一人で行こうとする。だから、オレたちが止める」


 サイカは墓石を見つめた。


「桜夜さんは、一人では眠れないんです」


 その言葉を言うと、胸が少し痛んだ。


「でも、わたしはそれを弱いって思わない。誰かと一緒なら眠れるなら、わたしが一緒にいる。名前を呼んで戻せるなら、何度でも呼ぶ」


 サイカはぎゅっと手を握った。


「だから、見ていてください。桜夜さんが化け物にならないように、わたしたちがちゃんとそばにいます」


 リオが静かに続ける。


「わたくしも、秘書官としてではなく、一人の人間として桜夜様を支えます」


 ホムラが言う。


「オレは、あいつが戻ってこなかったら無理やり引きずって帰る。先生だか師匠だか知らねえけど、あんたの代わりに殴ってやるから安心しろ」


「ホムラちゃん」


「いいだろ。これが一番伝わる」


 そのとき、優しい風が吹いた。


 桜の花びらが一枚、三人の前を通り過ぎる。


 サイカは、誰かに頭を撫でられたような気がした。


 声は聞こえない。


 けれど、心の奥に何かが届く。


 ありがとう。


 孤独なあいつを、愛してくれて。


 そんな気がした。


 サイカは涙をこぼしそうになり、慌てて目元をぬぐった。


「……うん」


 小さく頷く。


「ちゃんと、連れて帰るね」


◇◇◇


 帰り際、司が桜夜に声をかけた。


「兄さん」


「何?」


「命をかけに行く顔をしてる」


 桜夜は少しだけ笑った。


「司くんは鋭いね」


「じいちゃんの孫だからね」


「それは困った」


 司は真剣な顔をした。


「でも、死にに行く顔じゃない」


 桜夜は黙った。


「それなら、僕は止めない。桜さんも、たぶん止めない」


 桜は静かに微笑んでいる。


 司は続けた。


「でも、戻ってきてよ。兄さんはいつも帰ってくるのが下手だから」


「ひどい言い草だ」


「本当のことだよ」


 桜夜はしばらく司を見ていた。


 そして、ぽんとその頭を撫でる。


「大きくなったね」


「高校生を子ども扱いしないでよ」


「僕から見れば、まだ子どもだよ」


「兄さんだって、じいちゃんから見ればずっと子どもだったと思うけど」


 桜夜は言葉に詰まった。


 司は少しだけ笑った。


「行ってらっしゃい、兄さん」


「うん」


 桜夜は車へ向かう。


 サイカたちも続いた。


 車に乗る前、桜夜はもう一度だけ宮森家を振り返った。


 庭の桜。


 古い屋敷。


 明人の墓。


 司。


 桜。


 ここに、自分の名前の始まりがある。


 桜夜。


 夜桜から生まれた、仮の名。


 けれど、その仮の名が自分をここまで連れてきた。


 なら、名前を失った親友にも、まだ道はあるはずだ。


 桜夜は車のドアを開ける。


 サイカが助手席に座り、彼を見る。


「桜夜さん」


「うん」


「帰ろう」


 その言葉に、桜夜は少しだけ笑った。


「うん。帰ろう」


 白い船へ向かうためではない。


 戻る場所を確かめるために。


 名前を失った誰かを、もう一度呼び戻すために。


 桜夜は車を走らせた。


 遠くで、白い船が軋む音がした気がした。


 けれど今は、その音よりも、助手席から聞こえるサイカの呼吸の方が近かった。


 桜夜はハンドルを握り直す。


 命をかける覚悟はできた。


 だが、死ぬ覚悟ではない。


 帰ってくる覚悟だった。

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