第14話 白の記憶
遠くで、鈴が鳴っていた。
ちりん。
ちりん。
それが小春と日和の鈴なのか、白い船の鈴なのか、桜夜にはすぐに判別できなかった。
データセンターのサーバールームには、冷却装置の低い唸りだけが残っている。
白い霧は消えていた。
ピアノの音も聞こえない。
十二台のモニターは黒く沈黙し、床には一冊の手帳が落ちていた。
桜夜は、それを拾った。
表紙に名前はない。
鷹司の姓もない。
父親がつけたはずの名もない。
ただ、黒い革の表紙に細い傷がついているだけだった。
何度も開かれ、何度も閉じられ、何度も捨てられかけて、それでも捨てられなかった手帳。
桜夜は、表紙に指を置いたまま動かなかった。
背後には先代が立っている。
鷹司。
かつて桜夜を四方院家へ引き入れた男。
あずさを治す可能性をちらつかせ、静馬との取引の場へ桜夜を座らせた男。
桜夜を飼い殺しにするために、自分の部下にした男。
そして継承戦で暴走した桜夜に半殺しにされた男。
その男は、何も言わなかった。
息子の手帳を見ても。
息子が白い船べりへ消えたと聞いても。
ただ、黙っていた。
愛していないわけではないのだろう。
桜夜には、それくらいはわかる。
だが、この男はそれを口に出さない。
口に出せる男なら、親友は鷹司の姓も、父に与えられた名も、捨てていなかったかもしれない。
桜夜は手帳を懐に入れた。
「戻ります」
先代は短く頷いただけだった。
会話は、それで終わった。
それくらいでいい。
この男は味方ではない。
今は、同じ危機の前に立っているだけだ。
必要なら、先代は桜夜を切る。
桜夜もまた、必要なら先代を切る。
そのくらいの距離が、二人にはふさわしかった。
◇◇◇
データセンターの外では、警備の術者たちが眠っていた。
外傷はない。
心拍も呼吸も安定している。
だが、声をかけても起きない。
白い眠り。
穏やかな顔だった。
まるで、もう苦しまなくていいと言われた者の顔。
その安らぎが、何より不気味だった。
静馬の医療班が到着し、眠った術者たちを一人ずつ担架へ移していく。
静馬自身は、先ほどから一度も冗談を言わなかった。眼鏡の奥の目は冷え、声は淡々としている。
「呼吸、心拍、体温、いずれも安定。横浜の第二症例と似ている。ただし、こちらは白い花弁の残滓がない」
「入口は?」
桜夜が聞く。
「音、映像、文字、あるいは本人の記憶。まだ絞れない」
「親友は?」
「生体反応は追跡不能。データセンターの内部記録上は、退室も死亡もしていない」
「つまり?」
「記録から外れた」
静馬は短く言った。
記録から外れた。
消えた、とは言わない。
死んだ、とも言わない。
静馬らしい慎重さだった。
「読むなら、一人で読むな」
静馬が言った。
「どうして?」
「読む者の後悔を拾う相手だ。君が一人で読めば、君の後悔を拾われる」
「僕に後悔があるように言うね」
「ないのか」
「山ほどある」
「なら、なおさらだ」
静馬は桜夜の顔を見た。
責める目ではなかった。
診る目だった。
昔からそうだ。
静馬は、優しい言葉を多く使う医者ではない。
桜夜のことも、今でも平然とモルモットと呼ぶ。
だが、その言葉を本当にただの研究材料へ向けて使っているわけではない。
最初は違ったかもしれない。
P因子。
鳳凰の力。
どんな毒も病も弾く、常識外れの血。
医師として、研究者として、静馬が桜夜の身体に強い興味を示したのは事実だ。
けれど、今は違う。
少なくとも、それだけではない。
静馬は桜夜の主治医であり、友人だった。
口ではモルモットと言う。
検査値を見れば目を輝かせる。
無茶をすれば容赦なく怒る。
だが、桜夜が本当に危ういとき、静馬は研究者ではなく医師の顔をする。
そして時々、医師の顔の奥から、友人の顔が出る。
今もそうだった。
「静馬くん」
「何だ」
「モルモットを心配してくれてありがとう」
「患者管理だ」
「友人管理ではなく?」
「君が自分を友人として扱ってほしいなら、まず医師の指示に従え」
「それは難しいな」
「なら患者だ」
「ひどい」
「モルモットに格下げしてもいい」
「患者でお願いします」
静馬は小さく息を吐いた。
それはため息というより、無事を確認した人間の息だった。
「今日は読むな」
「今日は、か」
「明日読むなら、僕を呼べ」
「忙しいんじゃない?」
「君のせいでな」
「ごめん」
「謝るくらいなら、せめて倒れる前に呼べ」
「善処する」
「君の善処は信用しない」
そう言って、静馬は医療班の方へ戻った。
桜夜はその背中を見送る。
静馬もまた、桜夜の過去に巻き込まれた一人だ。
あずさを救うために、桜夜は自分の血を差し出した。
先代が、その場を用意した。
P因子。
鳳凰の力。
ホメオスタシスを正常化させる奇妙な細胞。
そのすべてを調べても、あずさは救えなかった。
救えなかった。
だが、静馬は逃げなかった。
P因子があずさの治療に使えないとわかったとき、事実をごまかさなかった。
それでも、薬を変えた。
転地療養を提案した。
桜夜がそばにいることにも意味があるかもしれないと言った。
それは希望というには細すぎた。
だが、嘘ではなかった。
静馬は、そういう医者だった。
できることをする。
できないことはできないと言う。
それでも、最後まで可能性を捨てない。
だから桜夜は、今も静馬を信じている。
あずさを救えなかったという一点だけで、彼を責めることはできない。
あの頃、誰も逃げてはいなかった。
逃げていなかったのに、届かなかった。
それが、いちばん苦しい。
◇◇◇
主の間に戻ると、サイカ、リオ、ホムラ、小春、日和が待っていた。
リオはすぐに桜夜の顔色を見た。
「桜夜様」
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
それだけ言って、リオは黙った。
いつものように、すぐ報告を求めたり、端末を開いたりはしない。
サイカは立ち上がり、桜夜の前まで来た。
「桜夜さん、無事?」
「身体はね」
「心は?」
「少し疲れた」
サイカは迷わず、桜夜の手を握った。
「じゃあ、座って。報告はそのあとでいいよ」
「報告が先じゃない?」
「座ってからでもできるでしょ」
その言い方があまりに真剣だったので、桜夜は素直に座った。
ホムラが腕を組んで言う。
「そいつ、どうなったんだ」
「船べりにいる」
「船に乗ったのか?」
「まだ乗っていない」
「なら引っ張り戻せるんだな」
「簡単ではないけどね」
小春と日和が、神楽鈴を抱えたまま顔を見合わせた。
桜夜は二人を見る。
「視えた?」
小春が頷く。
「白い船のそばにいました」
日和も続ける。
「でも、鈴が届きません」
「どうして?」
「名前が、ないからです」
部屋の空気が静かになった。
小春は神楽鈴を胸に抱いた。
「おにいさまは、おにいさまです」
日和が言う。
「サイカおねえさんは、サイカおねえさんです」
「リオおねえさんは、リオおねえさん」
「ホムラおねえさんは、ホムラおねえさん」
「名前を呼ぶと、鈴が届きます」
「でも」
二人の声が小さくなる。
「あの人は、親友では届きません」
桜夜は目を閉じた。
わかっていた。
だが、幼い巫女の口から言われると、別の痛みがあった。
親友。
それは大事な言葉だった。
決して空っぽではない。
だが、名前ではない。
彼自身を呼ぶ言葉ではなく、桜夜との関係を示す言葉だ。
「なら、名前をつければいいんじゃねえのか?」
ホムラが言った。
言い方は乱暴だが、当然の疑問だった。
未咲にも、桜夜は名を与えた。
名前がない未来に、未咲という名をつけた。
なら、同じことをすればいい。
けれど桜夜は首を横に振った。
「軽くはできない」
「なんでだよ」
「未咲は、まだ咲いていない未来だった。あの子自身が、まだ名前を持っていなかった。でも彼は違う」
「違う?」
「彼には名があった。姓もあった。父親が願いを込めてつけた名があった。それを捨てたんだ」
先代は、部屋の隅に座っていた。
何も言わない。
桜夜の言葉にも、親友という呼び方にも、名を捨てたという事実にも、反応を見せない。
ただ、そこにいる。
敵でも味方でもなく。
監視者として。
それが、先代だった。
リオが静かに口を開く。
「捨てた名を呼べば、捨てた日の痛みに戻されるかもしれません」
「そうだね」
「ですが、親友と呼んでも届かない」
「うん」
「では、今は急いで名付けるべきではありません」
桜夜はリオを見た。
「意外だね。リオちゃんなら、すぐに整理案を出すかと思った」
「名前は整理するものではありませんから」
リオは静かに答えた。
「選んでもらうものです」
桜夜は少しだけ笑った。
「本当に、いい秘書だ」
「ありがとうございます」
リオは短く礼を言い、すぐに視線を戻した。
嬉しそうには見せない。
今は、それでいいと思ったのだろう。
◇◇◇
その夜、桜夜は手帳を開かなかった。
読もうと思えば読めた。
けれど静馬に言われた通り、一人では読まなかった。
代わりに、縁側に出た。
永久の桜の若木が見える。
まだ咲いていない。
枝先の蕾は固く、夜気に沈んでいる。
桜夜は、その若木を見るたびに、宮森家の桜を思い出す。
宮森家。
育ての親である宮森明人の家。
桜夜が、初めて帰る場所と呼んでもいいものを得た場所だった。
夜桜。
明人が自分につけてくれた仮の名。
桜の夜と書いて、桜夜。
明人先生。
師匠。
先生。
桜夜がそう呼ぶ相手は、すべて同じ人だった。
宮森明人。
財布を返しただけの名前も家もない子どもを拾い、飯を食わせ、剣を教え、叱り、育ててくれた人。
桜夜にとっての育ての親であり、剣の師であり、生き方の先生だった。
もともと戸籍も家もなかった野良犬に、明人は名を与えた。
水希という姓は、四方院家の失われた分家の末裔という形で用意されたものだった。
本当の血ではない。
本当の家でもない。
それでも、名は残った。
桜夜。
水希桜夜。
その名がなければ、今の自分はここにいない。
名は、嘘でも道になる。
だが、嘘の名が救いになるとは限らない。
それを、桜夜は知っている。
自分もまた、拾われた名前で生きてきたからだ。
縁側に座る。
胸の奥で、鳳凰の熱がかすかに揺れた。
だが、声はない。
鳳凰はまだ回復していない。
あの小さな熱だけが、桜夜の内側で眠るように灯っている。
それで十分だった。
今夜は、誰かに答えをもらう夜ではない。
自分の奥へ沈む夜だ。
白。
その言葉が、桜夜の中に落ちる。
白い船。
白い眠り。
白い花びら。
白い子守歌。
そして。
白い病室。
◇◇◇
最初に白を怖いと思ったのは、いつだっただろう。
たぶん、病院だった。
明人に拾われ、桜夜という名をもらい、水希という姓を与えられても、身体はすぐには強くならなかった。
鍛錬はしていた。
剣も学んだ。
だが、身体はまだ弱かった。
だから、四方院家が運営する総合病院に入院することが多かった。
白い壁。
白い天井。
白いシーツ。
消毒液の匂い。
夜になると、病棟は妙に静かになった。
その静けさの中で、桜夜はよく考えていた。
自分は、何なのだろう。
誰の子なのだろう。
どこから来たのだろう。
なぜ、名前も家も持たずに生きていたのだろう。
先生は優しかった。
厳しかった。
口下手で、褒めるのも下手で、叱るときだけやたらと言葉が鋭かった。
けれど、桜夜を見捨てなかった。
宮森明人。
その人を、桜夜はときに先生と呼び、ときに師匠と呼んだ。
剣を教わるときは師匠だった。
生き方を教わるときは先生だった。
そして、どうしようもなく帰りたい夜には、明人という名が胸の奥で静かに灯った。
だから桜夜は、強くなりたかった。
明人のために。
先生に、拾ってよかったと思ってもらうために。
師匠に、鍛えてよかったと思ってもらうために。
けれど、それだけでは足りなかった。
強くなりたい。
その願いが、本当に自分のものになったのは、あずさに出逢ってからだった。
病室の窓から、庭が見えた。
ベンチがあった。
そこに、長い黒髪の少女が座っていた。
白いカーディガンを羽織り、文庫本を読んでいた。
風が吹く。
彼女が顔を上げる。
目が合う。
彼女は、微笑んだ。
その笑みを、桜夜は勝手に都合よく解釈した。
近くへ来てもいい、と。
今ならわかる。
ずいぶん勝手な勘違いだった。
だが、その勘違いがなければ、桜夜は如月あずさと出逢わなかった。
あずさ。
あの子。
白。
その三つは、桜夜の中で同じ場所にある。
病室の白に包まれた少女。
けれど、ただ弱いだけではなかった。
口は悪い。
素直ではない。
桜夜を犬扱いする。
でも、笑うときは本当に笑った。
怒るときは本気で怒った。
死ぬのが怖いと泣くときは、子どものように泣いた。
だから、桜夜は好きになった。
白い病室に閉じ込められていながら、それでも生きようとしていたあの子を。
守りたいと思った。
強くなったら結婚してくれと、子どもじみた約束までした。
あずさは笑っていた。
生きていたらね、と。
その言葉は冗談の形をしていた。
でも、冗談ではなかった。
◇◇◇
白が血の匂いを帯びたのは、病院が襲撃された日だった。
電気が消えた。
ざわめきが広がった。
足音が近づいた。
院内放送で占領宣言が流れた。
あずさが咳き込んだ。
発作だった。
いつものように見えて、いつもより悪かった。
ナースコールを押そうとして、桜夜はやめた。
呼んでも来ない。
なら、自分で動くしかない。
永久の桜の花びらが入ったお守りを、あずさの手に握らせた。
訓練用の鉄芯入り竹刀を持った。
病室を出た。
そこから先の記憶は、白く飛んでいるところがある。
拳銃を持った男。
マシンガンを持った男たち。
頭を撃ち抜かれた主治医。
震える看護師。
白衣に飛んだ血。
白い廊下に倒れる人間。
初めて人を怒鳴った。
初めて舌打ちをした。
初めて、邪魔な人間を迷わず叩き伏せた。
全部、あずさを助けるためだった。
あずさを背負い、階段を下りようとしたとき、その男が現れた。
先代。
当時の相談役。
白い手袋をした大柄な男。
その目を見た瞬間、桜夜は勝てないと理解した。
先生に教わった。
相手と自分の力量差を見抜け。
宮森明人が、剣の師匠として桜夜に叩き込んだ教えだった。
だから見抜いた。
勝てない。
それでも、桜夜はあずさを抱く腕に力を込めた。
彼女に触るな。
そう言った。
あの男は笑った。
面白いものを見る目で。
そこから、桜夜の人生は四方院家へ深く沈んだ。
◇◇◇
先代は、優しさだけで桜夜を拾ったわけではない。
むしろ、優しさなど二の次だった。
あずさを治したい。
その一点を見抜いた。
そして、静馬を餌にした。
世界でいくつもの難病を治療してきた若き名医。
その名を出されれば、桜夜は動くしかなかった。
気に入らなかった。
思い通りに動かされていることが。
利用されていることが。
野良犬は野良犬であって、飼い犬ではない。
そう思った。
それでも、黒塗りの車に乗った。
四方院家の本邸へ行った。
相談役執務室に座った。
スクリーン越しに静馬を見た。
そして、自分の血を差し出した。
P因子。
鳳凰の夢を見た後、桜夜の血に見つかったもの。
あらゆる毒や病変を駆逐し、身体のホメオスタシスを正常化させる奇妙な因子。
それを研究させる代わりに、あずさを診てほしい。
桜夜はそう言った。
そのときから、桜夜の身体は取引材料になった。
彼自身が、それを選んだ。
後悔はない。
いや。
後悔がないと言えば嘘になる。
P因子は、あずさを救えなかった。
静馬は、その事実をごまかさなかった。
けれど、見捨てもしなかった。
薬を変えた。
転地療養を提案した。
桜夜がそばにいることにも意味があるかもしれないと言った。
それは希望というには細すぎた。
だが、嘘ではなかった。
静馬は、そういう医者だった。
できることをする。
できないことはできないと言う。
それでも、最後まで可能性を捨てない。
だから桜夜は、今も静馬を信じている。
あずさを救えなかったという一点だけで、彼を責めることはできない。
あの頃、誰も逃げてはいなかった。
逃げていなかったのに、届かなかった。
それが、いちばん苦しい。
◇◇◇
伊豆の別荘は、先代が用意した。
同情ではない。
桜夜を自分の支配下に置くための布石だったのだろう。
それでも、あの時間が嘘だったわけではない。
夕暮れの砂浜。
二人分の足跡。
波に消えていく影。
あずさは振り返って言った。
あたしたち、もうすぐお別れなんだよ。
知っていた。
知っていて、それでも桜夜は告げた。
あずさの時間が残り少ないのはわかっている。
だけど、その時間を僕にくれないかな。
僕と、付き合ってほしい。
あずさは泣いていた。
桜夜は、夕陽に照らされたその泣き顔を美しいと思った。
キスをした。
ファーストキスは、苦い涙の味だった。
その後の時間は、短かった。
朝一緒に起きた。
慣れない料理をした。
観光地へ行った。
縁結びのお守りをお揃いでもらった。
おいしいものを食べて、たくさん笑った。
夜更かしもした。
星を見た。
手を繋いだ。
あずさは、桜夜の子を見てみたかったと言った。
桜夜は、野良犬の血は一代限りでいいと答えた。
彼女はそれを笑った。
子犬みたいだった、と。
あの頃の桜夜は、まだ人との距離がよくわかっていなかった。
あずさは、それを笑ってくれた。
許してくれた。
だから桜夜は、少しずつ人間になった。
その翌日、あずさの容体は急変した。
白い病室へ戻った。
白いシーツの上で、あずさは笑おうとした。
もし、あたしが死んだら、あたしのことなんてすっぱり忘れて、恋人作って、いつか結婚しなね。
その言葉を聞いたとき、桜夜は困ったように笑った。
忘れてほしい。
待たないでほしい。
それは、あずさらしい優しさだった。
自分の死を、桜夜の人生の鎖にしたくない。
自分のいない時間まで、桜夜を縛りたくない。
だから、あずさは嘘をついた。
けれど、桜夜にはわかっていた。
あずさは嘘が下手だ。
忘れてほしいと言いながら、本当は忘れないでと言いたい顔をしていた。
待たなくていいと言いながら、本当は、いつかまた見つけてほしいと願っている顔をしていた。
だから桜夜は、本音を聞かせてと言った。
すると、あずさは泣いた。
死にたくない。
もっと一緒にいたい。
桜夜との子どもにも会いたい。
どうして、もう時間切れなの。
その言葉を、桜夜は今も忘れていない。
忘れられるはずがない。
その後、あずさは少しだけ眠った。
そして夕焼けが病室を照らし、夜の漆黒が訪れた頃、彼女はそのまま息を引き取った。
桜夜は、彼女の手を握っていた。
冷たくなっていく指を、離せなかった。
泣かなかった。
泣けなかった。
ただ、あずさの小指に、自分の小指を絡めた。
子どもじみた仕草だった。
けれど、あずさと交わす約束には、それくらい子どもじみた形が似合う気がした。
「忘れてなんて、思ってないくせに」
桜夜は、もう返事のない少女に向かって呟いた。
「待たなくていいなんて、言いたかっただけだろう」
あずさは答えない。
白いシーツの上で、ただ静かに眠っている。
桜夜は、絡めた小指に少しだけ力を込めた。
「忘れないよ」
声は震えていなかった。
震えてくれなかった。
「待つよ。探すよ。君がどこに生まれても、僕が見つける」
それは、あずさの最後の願いに対する返事だった。
そして、あずさが最後まで言えなかった本音への返事でもあった。
忘れてほしいという優しさ。
忘れないでほしいという寂しさ。
待たせたくないという強がり。
それでも見つけてほしいという願い。
その矛盾の全部を、桜夜は受け取った。
都合のいいところだけを選ばない。
あずさの優しさも、弱さも、嘘も、本音も。
全部、彼女だった。
だから桜夜は、彼女の遺体と指切りをした。
忘れない。
見つける。
もう一度、会う。
その約束だけが、桜夜の中に残った。
それが、水希桜夜という人間の秘密になった。
◇◇◇
「桜夜さん」
声がして、桜夜は目を開けた。
縁側ではない。
主の間だった。
いつの間にか、考え込んだまま意識が沈んでいたらしい。
目の前にはサイカがいた。
その隣にリオ。
少し離れた場所にホムラ。
小春と日和は、神楽鈴を抱えたまま眠っている。
先代の姿はない。
いつの間にか退出していたのだろう。
引き際だけは、昔からうまい男だった。
「顔、白かったよ」
サイカが言った。
「白?」
「うん。びっくりするくらい」
「それは嫌だな」
桜夜は少しだけ笑った。
うまく笑えたかはわからない。
リオが静かに言う。
「桜夜様。先ほど、うわ言のように、あずさ様の名を」
「そう」
「それから、白、と」
桜夜は目を伏せた。
「白は、あずさの色なんだ」
サイカが息を呑む。
ホムラも黙った。
リオは何も言わず、桜夜の言葉を待った。
「僕が昔から言う、あの子。初恋の人。けいくんのお姉さん。如月あずさ。僕の中では、ずっと白だった」
「白」
リオが繰り返す。
「病室の白い壁。白いシーツ。白いカーディガン。発作のあと青白くなる顔。朝の光。最後に眠った白いベッド」
桜夜は手帳を見た。
「親友は、それを知っていたんだろうね」
手帳を開く。
そこには、親友の癖のある字が並んでいた。
桜夜は白を失ってから、ずっと白を怖がっている。
白い病室。
白い花。
白いシーツ。
白い肌。
白い約束。
あの子が最後に眠った色。
桜夜は自分では気づいていないふりをしているけれど、白いものを見るたび、少しだけ息を止める。
だから、白い船は桜夜を呼べる。
桜夜は、手帳を閉じた。
部屋に沈黙が落ちる。
ホムラが低く言った。
「嫌な分析だな」
「正しいけどね」
「認めんな」
「正しいものは正しい」
「ムカつく」
「僕も」
サイカは、桜夜の手を握った。
「桜夜さん」
「うん」
「白い船には、乗らないで」
「うん」
「白が、あずささんの色でも」
「うん」
「そこに、あずささんがいるように見えても」
桜夜はサイカを見た。
サイカは泣きそうだった。
だが、目を逸らさなかった。
「行っちゃだめだよ」
白い船。
白い眠り。
救いは、すぐそこにある。
その言葉が、なぜこれほど嫌なのか。
ようやく、桜夜は理解した。
いや。
理解なら、ずっと前からしていた。
あずさの遺体と指切りをしたあの日から、桜夜はわかっていた。
忘れてほしいという言葉が、本音だけではなかったことを。
待たなくていいという言葉が、優しさであり、強がりでもあったことを。
白い船は、その古い理解を、都合よく磨いて差し出してくる。
忘れないで。
見つけて。
もう一度、会いたい。
その甘い願いだけを白く照らして、眠れば叶うような顔をする。
だが、違う。
あずさは、桜夜を眠らせたい人ではなかった。
桜夜の人生を止めたかったわけでもない。
忘れてほしいと嘘をついたのは、桜夜を生かすためだった。
忘れないでと泣いたのは、あずさ自身が生きたかったからだった。
「行かないよ」
桜夜は言った。
「少なくとも、今日は」
サイカは少しだけ怒った顔をした。
「今日だけ?」
「まずは今日から」
「明日もだよ」
ホムラが言った。
「明後日もだ」
リオが続ける。
「以後、無期限です」
「ずいぶん厳しい」
「当然です」
サイカは、桜夜の手を離さなかった。
「あずささんは、桜夜さんを眠らせたい人じゃなかったと思う」
「そうだね」
桜夜は静かに言った。
「あの子は、僕を眠らせる人じゃない」
◇◇◇
夕方。
小春と日和が目を覚ました。
二人は布団の上でしばらくぼんやりしていたが、桜夜が顔を出すと、そろって神楽鈴を抱えた。
「おにいさま」
「船、少し遠くなりました」
「遠く?」
桜夜が聞くと、小春は頷いた。
「今日は、近づいてきません」
日和が続ける。
「でも、止まってもいません」
「進んでいる?」
「はい」
「ゆっくり」
「どこへ?」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に言った。
「名前のない人が、たくさんいるところ」
桜夜は黙った。
白い船は、苦しむ人を拾う。
眠りたい人を拾う。
名前を失った人を拾う。
そして、失った人に会いたい者の心も拾う。
「白い人もいました」
小春が言った。
桜夜の指が止まる。
「白い人?」
日和が眠そうな目で、しかしはっきりと言った。
「おにいさまが、あの子って呼ぶ人」
部屋にいた全員が、言葉を失った。
小春は桜夜を見上げる。
「でも、船の人じゃありません」
「違うの?」
「はい」
日和が続ける。
「船の白と、あの子の白は違います」
「どう違う?」
小春は少し考えた。
「船の白は、ぜんぶ消す白です」
日和が言う。
「あの子の白は、朝みたいな白です」
桜夜は息を呑んだ。
朝。
病室の窓から入る光。
本を読む少女の横顔。
発作のあと、少し疲れた顔で笑うあずさ。
最後の旅の朝。
隣で眠っていた、温かな手。
白。
そうだ。
全部が死の色だったわけではない。
あずさの白には、朝もあった。
「ありがとう」
桜夜は小春と日和の頭を撫でた。
二人は少しだけ笑った。
「おにいさま」
「はい」
「あの子は、船に乗ってって言ってません」
日和が続ける。
「起きてって、言っています」
桜夜は目を閉じた。
胸の奥で何かが震えた。
鳳凰ではない。
もっと古い場所。
白い病室に置き去りにした、自分の一部だった。
◇◇◇
夜。
桜夜は一人で、永久の桜の若木の前に立った。
一人で出るなと怒られるのはわかっていた。
だから、縁側から見える場所までしか来ていない。
振り返れば、障子の隙間からサイカとリオとホムラがこちらを見ている。
見張られている。
ありがたいことだ。
桜夜は若木を見た。
まだ咲いていない。
けれど、白い船はその根に絡んでいる。
未咲は、そこにいる。
親友も、船べりにいる。
名前のない人々の声が、ゆっくりそこへ集まり始めている。
そのとき、若木の枝先に白い花びらが一枚だけ浮かんだ。
まだ咲いていないはずの花びら。
そこに、統一言語の文字が滲む。
桜夜は読めてしまった。
白は、眠りの色。
桜夜は目を細めた。
白い船が、言葉を置いていったのだ。
桜夜は花びらを見つめる。
そして、静かに首を横に振った。
「違う」
白い花びらが震えた。
「白は、あずさの色だ」
声に出した瞬間、胸の奥の痛みが少しだけ形を変えた。
「あの子の白は、眠りだけじゃない。病室の朝だ。本を読む横顔だ。泣きながら怒った声だ。僕を約束へ繋いだ色だ」
白い花びらの文字が、わずかに歪む。
「お前たちの白と、あの子の白を一緒にするな」
花びらは、音もなく焦げた。
黒ではない。
淡い桜色に。
それから、風にほどけるように消えた。
背後で障子が開く。
サイカが出てきた。
その後ろに、リオとホムラもいる。
「桜夜さん」
「見てた?」
「見てたよ」
「信用がないなあ」
「あるよ。だから見てるの」
サイカはそう言って、桜夜の隣に立った。
リオも反対側に立つ。
ホムラは少し離れて腕を組んだ。
「で、どうすんだよ」
ホムラが聞く。
桜夜は若木を見たまま答えた。
「明日は、もう少し読む」
「船には?」
「行かない」
「本当だな」
「本当」
リオが静かに頷いた。
「では、わたくしは資料を整理します。鷹司家の記録、データセンターのログ、エデン関連の断片、そして桜夜様ご自身の過去に関わる記録も」
「僕の過去も?」
「必要です」
リオの声は柔らかかった。
だが、譲るつもりはない声だった。
「親友様は、桜夜様を見ていました。桜夜様がどのような名に支えられ、どのような白を失ったのかを知らなければ、その方が何を羨み、何を恐れ、何を救おうとしたのかも見えません」
「容赦ない秘書だ」
「必要なことです」
「そうだね」
桜夜は少しだけ目を伏せた。
明人。
先生。
師匠。
三つの呼び名が、同じ人の影を結ぶ。
宮森明人。
桜夜を拾い、名を与え、剣を教えた人。
そして、あずさ。
白。
あの子。
桜夜に守りたいという願いを与えた人。
静馬。
玄武。
サイカ。
リオ。
ホムラ。
そして、親友。
自分は多くの名に呼ばれてきた。
野良犬だと思っていた。
空っぽだと思っていた。
けれど、そうではなかった。
名前を呼んでくれる誰かがいること。
それ自体が、すでに居場所だった。
「まず、そこからだね」
桜夜は呟いた。
「何が?」
サイカが聞く。
「僕が、どれだけ呼ばれてきたかを知るところから」
サイカは少しだけ不思議そうにしたあと、柔らかく笑った。
「うん。そこからでいいと思う」
ホムラが鼻を鳴らす。
「やっと気づいたのかよ」
「ホムラちゃんに言われると傷つくな」
「傷つけてんだよ」
「ひどい」
リオがくすりと笑う。
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻った。
けれど遠くでは、まだ白い船が軋んでいる。
名前のない者たちを乗せるために。
救いの顔をして。
眠りの岸へ近づくために。
桜夜は、まだ咲かない若木を見上げた。
十四番目の夜は、何も解決しなかった。
誰も救えなかった。
船にも乗らなかった。
ただ、ひとつだけ取り戻した。
白は、眠りだけの色ではない。
白は、あずさの色でもある。
あの子の色でもある。
桜夜を眠らせるためではなく、かつて桜夜に約束を残した色だ。
そして、あずさの言葉は、ひとつではなかった。
忘れてほしい。
忘れないで。
待たなくていい。
見つけて。
その矛盾ごと、あずさだった。
桜夜は、そのすべてを覚えている。
都合のいいところだけを選ばない。
忘れてほしいと願った優しさも。
忘れないでと泣いた寂しさも。
待たせたくなかった強がりも。
それでも見つけてほしかった本音も。
全部、あの子の白だ。
だから桜夜は、白い船に乗らない。
あの子の白を、奪わせない。
そして親友の名を探す。
彼が振り向ける名を。
彼自身が、もう一度選べる名を。
白い船に座らせないために。
いつか船べりから戻ってきた彼に、今度こそ名前で呼びかけるために。




