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黒の騎士と三原色の少女たち~old testament~  作者: スナオ
第二章 二人称の名前
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第13話 十三番目の親友

 四方院家が総力で調査を開始する。


 静馬から届いた最後の文面は、それだけだった。


 短い。


 だが、その短さがかえって重かった。


 四方院家が総力で動くとは、医療部門、呪術部門、神道系統、魔女術研究、外部の魔術協力者、そして必要なら政府筋までを巻き込むという意味だ。


 普通の事件ではない。


 普通の病でもない。


 普通の呪いでもない。


 そして、それは同時に、四方院家の内側に眠る古い火種にも触れるということだった。


 四方院家は一枚岩ではない。


 四方院の姓を名乗れるのは、代々、玄武家、青龍家、朱雀家、白虎家の四宗家だけである。


 各家から一人ずつ継承者が選ばれ、その者たちは名を捨てる。


 四方院玄武。


 四方院青龍。


 四方院朱雀。


 四方院白虎。


 それが当代の四柱の名となる。


 そして、その四人の中から宗主が選ばれる。


 現在の宗主は、四方院玄武。


 小柄で、飄々としていて、普段はふざけた老人のように振る舞う。だが、四方院家の誰もが知っている。あの老人が笑っているうちはまだいい。笑わなくなったときこそ、本当に危ないのだと。


 そして宗主と当代の相談役が、次期相談役を決める。


 相談役は、四宗家とは別の系譜から出ることも多い。


 その中でも、鷹司家は名門だった。


 代々、多くの相談役を輩出してきた家。


 四方院の姓こそ名乗らないが、宗主の隣で家の舵を取ってきた影の名家。


 その鷹司家から出た先代相談役。


 そして、現在の相談役。


 水希桜夜。


 四方院の血を持たず、四宗家の生まれでもない。


 鷹司でもない。


 神殺しを扱い、鳳凰と契約し、少女たちを連れて歩く異端の若者。


 彼を支持する者はいる。


 水希派と呼ばれる者たちだ。


 だが、もちろん気に入らない者もいる。


 宗主派。


 水希派。


 先代相談役派。


 白虎家派。


 それぞれが、四方院家の未来を別の形で見ている。


 その中でも、桜夜にとって一番厄介なのは先代相談役派だった。


 理由は単純だ。


 先代相談役本人が、桜夜を嫌っているからである。


 少なくとも、表面上は。


◇◇◇


 四方院本邸、第一会議室。


 そこは普段、宗主と四宗家の当主格、そして相談役に関わる者だけが使う部屋だった。


 長い黒檀の机。


 壁一面に貼られた護符。


 天井に組み込まれた結界石。


 上座には、四方院玄武。


 その右に、四方院青龍。


 さらに、四方院朱雀。


 左には、四方院白虎。


 四宗家が揃っていた。


 玄武はいつものように小柄な身体を座椅子に沈めているが、その目は笑っていない。


 青龍は静かだった。長い指を組み、目を伏せ、何かを計算している。


 朱雀は落ち着かない様子で扇を開いたり閉じたりしていた。魔術と祭祀の橋渡し役を担う彼女にとって、今回の白い眠りは分類しづらいのだろう。


 白虎は苛立っていた。


 武と実戦を重んじる白虎家にとって、眠りという見えない敵は最も相性が悪い。


 そして、末席に一人の老人が座っていた。


 鷹司の先代相談役。


 この場では、誰も名を呼ばない。


 ただ、先代と呼ぶ。


 痩せた老人だった。


 だが、目は鋭い。枯れ木のような身体に、まだ抜き身の刃が入っている。


 桜夜が部屋に入ると、その老人は鼻で笑った。


「遅いな、現相談役殿」


「呼ばれてから十分ですが」


「ワシなら五分で来た」


「だから年寄りは暇だと言われるんですよ」


「だから若造は時間の価値を知らんと言われる」


「若造を飼い殺しにしようとした人が言うと説得力が違いますね」


 空気が凍った。


 静馬が目を伏せる。


 青龍の指が一瞬止まり、朱雀の扇も止まった。


 白虎だけが、面白くなさそうに鼻を鳴らす。


 先代相談役は笑った。


 だが、その笑みは薄かった。


「飼い殺しとは人聞きが悪い」


「事実でしょう」


「暗殺部隊を一つ壊滅させた子どもを野に放てと?」


「僕は、あの子を守っただけです」


「守るために何人殺した」


 桜夜は答えなかった。


 先代相談役は続ける。


「お前は子どもだった。だが、子どもであることと、危険でないことは別だ。あのまま放置すれば、四方院家どころか国が動いた」


「だから自分の部下にした」


「そうだ」


「手綱を握るために」


「そうだ」


「そして継承戦で、その手綱を握り損ねた」


 先代相談役の目が細くなる。


 桜夜も笑っていなかった。


 継承戦。


 四方院家の次代を巡る争い。


 その中で、桜夜は暴走した。


 先代相談役は止めようとした。


 止められなかった。


 いや、止めるために自分の身体を差し出すしかなかった。


 結果、半殺しにされた。


 桜夜の手で。


「まだ根に持っています?」


「痛みは天気の悪い日に疼く」


「それはご愁傷様です」


「お前の方こそ、まだワシを恨んでいるのか」


「恨んでいませんよ」


「嘘をつけ」


「脅威として見ているだけです」


「奇遇だな。ワシもだ」


 二人は睨み合った。


 互いに実力は認めている。


 だが、認めているからこそ嫌いなのだ。


 相手がどこまでできるか知っている。


 どこまで壊せるか知っている。


 どこで踏み外すかも、ある程度わかっている。


 だから信用できない。


 信用できないから、互いに目を離せない。


 玄武が杖の先で床を一度叩いた。


「そのくらいにせい。会議の前に殺し合うな」


「殺しませんよ」


「半殺しにはされたがな」


「先代がしぶといのが悪い」


「褒め言葉として受け取っておく」


「褒めてません」


 玄武は深くため息をついた。


「仲が悪いのう」


「ええ」


「はい」


 二人の声が重なった。


 部屋の一部に、わずかな笑いが漏れる。


 だが、緊張は消えない。


 白い眠りの話をする前から、会議室にはすでに刃が置かれていた。


◇◇◇


「報告せよ、桜夜」


 玄武が言った。


 桜夜は席に座らず、立ったまま話し始めた。


「フランス北部で第一症例。横浜で第二症例。いずれも外傷なし、毒物反応なし、心拍と呼吸は安定。通常睡眠に似ていますが、刺激反応はありません。枕元には同一文面のメモ」


 一度、言葉を切る。


 誰も促さない。


 だから桜夜は続けた。


「救いは、すぐそこにある」


 その言葉が会議室に落ちた瞬間、空気が少し冷えた。


 青龍が指を止める。


 朱雀が扇を閉じる。


 白虎が眉をひそめる。


 先代相談役だけが、桜夜をじっと見ていた。


「第二症例、水無瀬ミライは発声しました。黒い騎士、そして未咲と」


「未咲?」


 朱雀が聞き返した。


「夢の中で接触した、名を持たない未来です。正確な存在分類は不明。世界意思に消されやすい可能性であり、白い船に囚われている存在。僕が名付けたことで、現実側の水無瀬ミライにも反応が出ました」


「夢か」


 先代相談役が笑った。


「また夢とはな。神託、夢渡り、未来の娘、今度は名もなき未来。現相談役殿はずいぶん眠るのが好きらしい」


「先代と違って、まだ寝る体力があるので」


「その体力で何度死にかけた」


「先代の時代の後始末で」


 部屋の空気が再び凍る。


 玄武が杖を鳴らした。


「進めろ」


「はい」


 桜夜は素直に頷いた。


「敵の正体は断定できません。コスモス、ホメオスタシス、オメガ。世界意思のどれか、あるいはそれらに似たもの。サタンの関与も否定できません。ただし、現段階では白い眠りそのものに、人間の諦めが混じっているように見えます」


「諦め?」


 青龍が静かに言った。


「生きるのがつらい。苦しまなくていい場所がほしい。目を覚ましたくない。そういう願いです」


 白虎が低く唸った。


「つまり、敵は人間の弱さを使うということか」


「はい」


「ならば、厄介だな」


「ええ」


 白虎の言葉に、桜夜は珍しく素直に同意した。


 そこへ、静馬が口を開いた。


「横浜の第二症例から採取した白い花弁状の残滓は、直接視認を禁止しています。加工済み映像でも軽い眠気を訴える者がいました。音声データはノイズ化しましたが、ピアノに近い旋律が確認されています」


「白い子守歌、か」


 朱雀が呟いた。


「文字、音、花びら、夢。入口が多い」


 静馬は頷く。


「だから、情報の扱いそのものが危険です」


「では、情報を集める者が最初に危ない」


 青龍が言った。


 その言葉に、桜夜はわずかに反応した。


 情報を集める者。


 データセンター。


 親友。


 鷹司の姓を捨てた男。


 父親がつけた名も捨てた男。


 先代相談役の嫡男でありながら、戦いの才能がないと切り捨てられた男。


 桜夜と一緒に世界の裏側で悪さをした、数少ない同類。


 今は四方院家の偽装されたデータセンターで、和風建築の皮をかぶった機械仕掛けの巣にいる。


 第二症例の情報も、彼が桜夜へ手書きの暗号メモで渡した。


 それ自体はいつものことだ。


 だが。


 あまりに早かった。


 あまりに正確だった。


 そして、あまりに静かだった。


「桜夜」


 先代相談役が言った。


「今、誰を疑った」


「誰も」


「嘘だな」


「先代には関係ありません」


「ある」


 先代相談役の声が、わずかに低くなった。


「ワシの息子の話ならな」


 会議室が静まった。


 玄武が目を閉じる。


 青龍も朱雀も、何も言わない。


 白虎だけが、桜夜と先代を交互に見た。


「データセンターの男か」


 白虎が言う。


 桜夜は黙った。


 先代相談役は笑わなかった。


「あれは戦いの才能がなかった」


 先代は言った。


「四方院の者ではない。だが鷹司の嫡男だった。相談役を多く輩出してきた家の跡取りだ。期待も、失望も、大きすぎた」


「だから捨てた」


 桜夜の声は冷たかった。


「捨てたのではない。遠ざけた」


「同じです」


「違う」


「違いません」


「お前に何がわかる」


「わかりますよ」


 桜夜は先代を見た。


「僕も、あなたに飼われた側ですから」


 先代相談役の目が鋭くなる。


 だが、反論はしなかった。


 桜夜は続ける。


「彼は剣を持てなかった。槍も、札も、結界も、継承戦で使えるほどの才能はなかった。だからデータを持った。情報を持った。世界の裏側へ道を作った。戦えない者の戦い方を覚えた」


「だから危険だ」


 先代は言った。


「桜夜、お前はあいつを親友と呼ぶ。だが、ワシはあいつを知っている。あれは、お前と同じくらい執着が強い」


「それを父親が言いますか」


「父親だから言う」


「都合のいいときだけ父親面をするんですね」


「黙れ」


 先代の声に、初めて怒りが混じった。


 桜夜もまた、黙らなかった。


「黙りません。あなたは彼から鷹司の姓を奪った。いや、彼が捨てるところまで追い込んだ。父親がつけた名前まで、彼は捨てた。今の彼には、名前がない」


「名前ならあった」


「でも、彼はもう名乗っていない」


「捨てたのは、あいつ自身だ」


「捨てさせたのは、あなたでしょう」


 先代は答えなかった。


 その沈黙が、答えのようだった。


「親友」


 青龍が静かに呟く。


「水希相談役は、彼をそう呼んでいますね」


「はい」


「それは名前ではない」


「……」


「役割です。関係です。だが、名前ではない」


 桜夜は一瞬、言葉を失った。


 その通りだった。


 ずっと親友と呼んでいた。


 そう呼べば伝わった。


 そう呼べば、彼は笑った。


 それでいいと思っていた。


 だが、それは名前ではない。


 名前を失った男を、名前ではない言葉で呼び続けていた。


 その事実が、桜夜の胸の奥に冷たく沈んだ。


 そのときだった。


 会議室の隅で、端末が鳴った。


 静馬のものではない。


 桜夜の端末でもない。


 玄武の前に置かれていた、古い有線端末だった。


 データセンター直通。


 普段は鳴らない。


 鳴る必要がない。


 その端末が、三回だけ鳴った。


 玄武が受話器を取る。


「ワシじゃ」


 返事は聞こえない。


 だが、玄武の表情が変わった。


「……何?」


 その声だけで、部屋全体が緊張した。


 玄武は受話器を置き、桜夜を見た。


「データセンターからじゃ」


「親友からですか」


「いや」


 玄武はゆっくり首を横に振った。


「自動発信じゃ。本人の応答がない」


 桜夜の表情が消えた。


「内容は」


「メッセージが一文だけ残されていた」


「読んでください」


 玄武は一瞬ためらった。


 だが、読み上げた。


「十三番目の椅子は、名前を捨てた子どものために」


 誰も言葉を発しなかった。


 先代相談役の顔から血の気が引いていた。


 それを桜夜は初めて見た。


 この老人にも、そんな顔ができるのかと思った。


「宗主様」


 桜夜は言った。


「データセンターへ行きます」


「待て」


 先代相談役が立ち上がる。


「ワシも行く」


「来ないでください」


「行く」


「邪魔です」


「邪魔でも行く」


「父親面ですか」


「そうだ」


 桜夜は黙った。


 先代相談役は、自分の杖を握った。


「父親面だ。悪いか」


 桜夜はその顔を見た。


 嫌いな老人。


 自分を飼い殺しにしようとした男。


 継承戦で半殺しにした相手。


 そして、親友から姓と名を奪った父親。


 その老人が、今は確かに焦っていた。


「勝手にしてください」


 桜夜は言った。


「ただし、足を引っ張ったら置いていきます」


「それはこっちの台詞だ」


 二人は会議室を出た。


◇◇◇


 データセンターは、四方院本邸の敷地内にある。


 見た目は古い和風建築だ。


 だが、内側は違う。


 地下には分厚い防壁と最新の冷却設備、独自回線、幾重もの物理遮断、そして呪術的な防護が組み込まれている。


 桜夜と親友が若い頃に好き勝手やりすぎた結果、二人を暇にさせると世界の均衡が崩れると判断され、片方をここへ、もう片方を相談役の席へ半ば押し込めた。


 皮肉な隔離政策だった。


 だが、うまく機能していた。


 少なくとも、今までは。


 建物の前に着くと、警備の術者たちが倒れていた。


 全員、眠っている。


 外傷はない。


 表情は安らかだった。


「白い眠りか」


 先代相談役が低く言う。


「ええ」


「中は?」


「わかりません」


「突っ込む気か」


「罠の形は見えましたから」


「悪癖だな」


「先代ほどでは」


 二人は同時に扉へ向かった。


 セキュリティは生きている。


 だが、桜夜が手をかざすと扉は開いた。


 親友が残した裏口だ。


 かつて二人で作った。


 四方院家にすら完全には把握されていない、子どもじみた抜け道。


 それを見て、先代相談役が顔をしかめた。


「あいつめ」


「あなたに似たんでしょう」


「ワシはここまで陰湿ではない」


「自覚がない」


 中は白かった。


 本来なら青白いサーバーの光と、冷却設備の低い唸りが満ちているはずの廊下。


 そこに、白い霧が漂っていた。


 霧の中に、かすかなピアノの音が混じっている。


 桜夜は桜吹雪を抜いた。


 先代相談役も杖から仕込み刀を抜く。


 久しぶりに、二人が並んだ。


 敵同士のように。


 師弟のように。


 あるいは、互いに互いを殺せると知っている共犯者のように。


「懐かしいですね」


 桜夜が言う。


「お前と肩を並べるなど、悪夢だ」


「白い眠りの中なので、だいたい合っています」


「笑えん」


「僕もです」


 廊下の奥で、誰かの声がした。


「二人で来ると思っていたよ」


 桜夜は足を止めた。


 先代相談役も止まった。


 声はスピーカーからではない。


 廊下の奥。


 サーバールームの扉の向こう。


 親友の声だった。


「開けるよ」


 桜夜が言う。


 返事はなかった。


 桜夜は扉を開けた。


 サーバールームの中央に、彼はいた。


 車椅子に座っている。


 膝の上には、小さな手帳。


 机の上には、白い花びら。


 そして、彼の背後には十二台のモニターが並んでいた。


 そのすべてに、同じ映像が映っている。


 白い船。


 夢の底に沈む船。


 救いは、すぐそこにある。


 親友は振り返らなかった。


「やあ、桜夜」


「やあ」


「父さんもいるんだ」


 先代相談役の肩がわずかに動いた。


「……無事か」


「その言葉、何年ぶりかな」


「答えろ」


「無事だよ。たぶん」


 親友は笑った。


 声はいつも通りだった。


 軽くて、皮肉屋で、どこか楽しそう。


 だが、背筋が冷えた。


「君が白い眠りに関わっているのか」


 桜夜が聞く。


「質問が雑だね」


「急いでいる」


「なら答えも雑になる。関わっているとも言えるし、関わっていないとも言える」


「嫌な答えだ」


「君に教わった」


「僕はもっと性格がいい」


「そうだね。君は無自覚に最悪だ」


 親友は手帳を開いた。


「フランスの第一症例。横浜の第二症例。水無瀬ミライ。未咲。白い船。箱舟。エデン」


 その最後の言葉に、桜夜の目が細くなった。


「エデン?」


「ああ」


 親友は初めて振り返った。


 顔色は悪い。


 目の下に濃い隈がある。


 しかし、その瞳だけは冴えていた。


「君はまだ、エデンを遠い星の話だと思っている?」


「違うのか」


「遠い星でもあり、未来でもあり、平行世界の地球でもある。観測点によって呼び名が変わるだけだよ」


「君はエデンに介入したのか」


 桜夜の声が低くなる。


 先代相談役も息を呑んだ。


 親友は笑った。


「介入というほど立派なものじゃない。観測した。通信した。少しだけ、手を伸ばした。向こうからも、こちらへ手が伸びていた」


「誰が」


「生まれてこなければよかったと泣いていた人たち」


 白い霧が濃くなる。


 ピアノの音が強くなる。


「親友」


 桜夜は一歩踏み出した。


「君は何をした」


「救いを探した」


「誰のために」


 親友は笑った。


 その笑みは、痛々しいほど静かだった。


「名前を捨てた子どものために」


 先代相談役が震えた。


「お前……」


「父さん」


 親友は先代を見た。


「僕は戦えなかった。だから捨てられた。いや、遠ざけられたんだっけ?」


「……」


「鷹司の姓は重かった。父さんがくれた名前も重かった。相談役の家に生まれたのに、戦えない僕には、どちらも持てなかった」


「違う」


「違わないよ」


 親友は穏やかに言った。


「だから捨てた。姓も、名前も。そうしたら少し楽になった」


「それで、お前は何になった」


 先代相談役の声は掠れていた。


 親友は笑う。


「桜夜の親友」


 桜夜の喉が詰まった。


「戦えない僕と、戦いすぎる君。捨てられた僕と、飼い殺しにされた君。僕らはちょうどよかった」


「親友」


「でもね、桜夜」


 親友は首を傾げた。


「親友は名前じゃない」


 静かな一言だった。


 だが、その一言が、桜夜の胸を刺した。


「君は僕を親友と呼ぶ。父さんは僕を息子と呼ぶかもしれない。四方院家は僕をデータセンターの管理者と呼ぶ。でも、それは全部、関係か役割だ」


 親友は自分の胸を軽く叩いた。


「僕自身の名前じゃない」


 白い霧がさらに濃くなる。


 十二台のモニターの映像が変わった。


 白い会議室。


 長い机。


 十二の椅子。


 そして、十三番目の椅子。


 そこに座っていたのは、親友だった。


 幼い姿の。


 鷹司の姓を捨てる前。


 父のつけた名を捨てる前。


 まだ、自分が何者になれるのか知らなかった頃の子どもだった。


「十三番目は、裏切り者の数字だと人は言う」


 親友は笑う。


「でも、僕から見れば違う。十三番目は、最初から席を用意されなかった者の数字だ」


 先代相談役の顔が歪んだ。


「やめろ」


「父さんが僕に席をくれなかった」


「やめろ」


「四方院家は、戦える子どもだけを見た。才能のある子どもだけを見た。神殺しを握れる者、術式を組める者、血を継げる者、家を背負える者。それ以外は、邪魔だった」


「違う」


「違わない」


 親友は微笑んだ。


「でも、僕は怒っていないよ。だって、僕には桜夜がいた」


 桜夜の呼吸が止まる。


「だからこそ、君には知らせたかった」


「何を」


「白い眠りは、もう止まらない」


 モニターの中の白い船が軋んだ。


「止める方法はある」


「何だ」


「黒い騎士が船に乗ること」


 先代相談役が低く唸った。


 桜夜は静かに言った。


「それは、僕を消すための罠だろう」


「そうだね」


 親友はあっさり認めた。


「でも、罠だからといって間違いとは限らない」


「君は僕を船に乗せたいのか」


「乗せたくない」


 親友はすぐに答えた。


「でも、乗せなければもっと大勢が眠る」


「……」


「僕は計算した。観測した。エデンの記録も、この世界の症例も、未咲の反応も、白い船の航路も。答えは同じだった」


 親友は桜夜を見た。


「水希桜夜が船に乗れば、白い眠りは一時的に止まる」


「一時的に?」


「永遠ではない。でも、時間は稼げる」


「その代わり、僕は?」


 親友は答えなかった。


 答えないことが答えだった。


 先代相談役が杖を振るった。


 仕込み刀が親友の喉元に向かう。


 だが、その刃は届かなかった。


 桜夜の桜吹雪が、先代の刃を止めていた。


「邪魔をするな」


 先代が低く言う。


「殺すな」


「こいつはお前を船に売ろうとしている」


「まだ売っていない」


「時間の問題だ」


「それでも殺すな」


「甘い」


「知っています」


 二人の刃が火花を散らす。


 親友はそれを見て、少しだけ笑った。


「いいなあ」


 その声は、本当に羨ましそうだった。


「父さんは、桜夜とはちゃんと戦うんだね」


 先代相談役の刃が止まった。


 桜夜も動きを止める。


 親友は、泣いていなかった。


 泣いていないのに、泣いているようだった。


「僕とは戦ってくれなかった」


 その一言が、白い眠りよりも深く部屋を沈めた。


 先代相談役は何も言えなかった。


 桜夜も言えなかった。


 白い船は、ここを拾ったのだ。


 戦えなかった子どもの痛み。


 父親に見てもらえなかった嫡男の祈り。


 姓も名も捨てた者の空白。


 親友と呼ばれながら、名前を呼ばれなかった孤独。


 それは裏切りではない。


 裏切りと呼ぶには、あまりにも古い傷だった。


「親友」


 桜夜は言った。


「まだ戻れる」


「どこへ?」


「ここへ」


「ここに、僕の席はある?」


 桜夜は答えようとした。


 だが、その前に親友が手元のキーを押した。


 十二台のモニターが一斉に暗転する。


 そして、中央に一文だけ表示された。


 救いは、すぐそこにある。


 白い霧が爆ぜた。


 桜夜は咄嗟に先代相談役を突き飛ばす。


 白い光がサーバールームを満たした。


 ピアノの音。


 白い鈴の音。


 小春と日和の鈴の音が、遠くでそれに抗っている。


 桜夜は親友へ手を伸ばした。


 だが、届かない。


 親友の身体が白い霧に包まれていく。


「君はどこへ行く」


「船べり」


「戻れ」


「呼んでよ」


 親友は笑った。


「君が未咲を呼んだみたいに、僕にも名前をつけてよ」


「君には名前がある」


「捨てたよ」


「なら、拾えばいい」


「父さんがつけた名前を?」


 親友は首を横に振った。


「それはもう、僕のものじゃない」


 桜夜は言葉を失った。


 白い霧の奥で、親友の声が遠ざかる。


「桜夜」


「何だ」


「僕は、君の親友ではいられた。でも、僕自身にはなれなかった」


「……」


「だから、次に会うときまでに考えておいて」


「何を」


「僕の名前」


 その言葉を最後に、親友の姿が消えた。


 白い霧も消える。


 ピアノの音も止む。


 サーバールームには、桜夜と先代相談役だけが残された。


 床には、親友の手帳が落ちている。


 開かれたページに、手書きの文字があった。


 僕の席は、どこにある?


 先代相談役は、その文字を見て動かなかった。


 まるで、神殺しで胸を貫かれたように。


 桜夜は手帳を拾った。


 そして、低く言った。


「先代」


「……何だ」


「あなたの息子の名前を、僕はもう呼べません」


 先代相談役は答えなかった。


 答えられなかった。


 桜夜は続ける。


「あの人が捨てた名前だから」


「……」


「でも、親友のままにもしておけない」


 その沈黙が、何より不吉だった。


 桜夜は理解した。


 白い船は、四方院家の外から来たのではない。


 内側にあった空席を見つけたのだ。


 十三番目の椅子。


 戦えなかった子どもの席。


 鷹司の姓を捨て、父に与えられた名も捨て、親友という役割だけで生きてきた者の席。


 そして、そこから白い眠りは始まろうとしている。


 遠くで、また鈴が鳴った。


 ちりん。


 ちりん。


 それが小春と日和の鈴なのか、白い船の鈴なのか、桜夜にはすぐに判別できなかった。


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