第13話 十三番目の親友
四方院家が総力で調査を開始する。
静馬から届いた最後の文面は、それだけだった。
短い。
だが、その短さがかえって重かった。
四方院家が総力で動くとは、医療部門、呪術部門、神道系統、魔女術研究、外部の魔術協力者、そして必要なら政府筋までを巻き込むという意味だ。
普通の事件ではない。
普通の病でもない。
普通の呪いでもない。
そして、それは同時に、四方院家の内側に眠る古い火種にも触れるということだった。
四方院家は一枚岩ではない。
四方院の姓を名乗れるのは、代々、玄武家、青龍家、朱雀家、白虎家の四宗家だけである。
各家から一人ずつ継承者が選ばれ、その者たちは名を捨てる。
四方院玄武。
四方院青龍。
四方院朱雀。
四方院白虎。
それが当代の四柱の名となる。
そして、その四人の中から宗主が選ばれる。
現在の宗主は、四方院玄武。
小柄で、飄々としていて、普段はふざけた老人のように振る舞う。だが、四方院家の誰もが知っている。あの老人が笑っているうちはまだいい。笑わなくなったときこそ、本当に危ないのだと。
そして宗主と当代の相談役が、次期相談役を決める。
相談役は、四宗家とは別の系譜から出ることも多い。
その中でも、鷹司家は名門だった。
代々、多くの相談役を輩出してきた家。
四方院の姓こそ名乗らないが、宗主の隣で家の舵を取ってきた影の名家。
その鷹司家から出た先代相談役。
そして、現在の相談役。
水希桜夜。
四方院の血を持たず、四宗家の生まれでもない。
鷹司でもない。
神殺しを扱い、鳳凰と契約し、少女たちを連れて歩く異端の若者。
彼を支持する者はいる。
水希派と呼ばれる者たちだ。
だが、もちろん気に入らない者もいる。
宗主派。
水希派。
先代相談役派。
白虎家派。
それぞれが、四方院家の未来を別の形で見ている。
その中でも、桜夜にとって一番厄介なのは先代相談役派だった。
理由は単純だ。
先代相談役本人が、桜夜を嫌っているからである。
少なくとも、表面上は。
◇◇◇
四方院本邸、第一会議室。
そこは普段、宗主と四宗家の当主格、そして相談役に関わる者だけが使う部屋だった。
長い黒檀の机。
壁一面に貼られた護符。
天井に組み込まれた結界石。
上座には、四方院玄武。
その右に、四方院青龍。
さらに、四方院朱雀。
左には、四方院白虎。
四宗家が揃っていた。
玄武はいつものように小柄な身体を座椅子に沈めているが、その目は笑っていない。
青龍は静かだった。長い指を組み、目を伏せ、何かを計算している。
朱雀は落ち着かない様子で扇を開いたり閉じたりしていた。魔術と祭祀の橋渡し役を担う彼女にとって、今回の白い眠りは分類しづらいのだろう。
白虎は苛立っていた。
武と実戦を重んじる白虎家にとって、眠りという見えない敵は最も相性が悪い。
そして、末席に一人の老人が座っていた。
鷹司の先代相談役。
この場では、誰も名を呼ばない。
ただ、先代と呼ぶ。
痩せた老人だった。
だが、目は鋭い。枯れ木のような身体に、まだ抜き身の刃が入っている。
桜夜が部屋に入ると、その老人は鼻で笑った。
「遅いな、現相談役殿」
「呼ばれてから十分ですが」
「ワシなら五分で来た」
「だから年寄りは暇だと言われるんですよ」
「だから若造は時間の価値を知らんと言われる」
「若造を飼い殺しにしようとした人が言うと説得力が違いますね」
空気が凍った。
静馬が目を伏せる。
青龍の指が一瞬止まり、朱雀の扇も止まった。
白虎だけが、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
先代相談役は笑った。
だが、その笑みは薄かった。
「飼い殺しとは人聞きが悪い」
「事実でしょう」
「暗殺部隊を一つ壊滅させた子どもを野に放てと?」
「僕は、あの子を守っただけです」
「守るために何人殺した」
桜夜は答えなかった。
先代相談役は続ける。
「お前は子どもだった。だが、子どもであることと、危険でないことは別だ。あのまま放置すれば、四方院家どころか国が動いた」
「だから自分の部下にした」
「そうだ」
「手綱を握るために」
「そうだ」
「そして継承戦で、その手綱を握り損ねた」
先代相談役の目が細くなる。
桜夜も笑っていなかった。
継承戦。
四方院家の次代を巡る争い。
その中で、桜夜は暴走した。
先代相談役は止めようとした。
止められなかった。
いや、止めるために自分の身体を差し出すしかなかった。
結果、半殺しにされた。
桜夜の手で。
「まだ根に持っています?」
「痛みは天気の悪い日に疼く」
「それはご愁傷様です」
「お前の方こそ、まだワシを恨んでいるのか」
「恨んでいませんよ」
「嘘をつけ」
「脅威として見ているだけです」
「奇遇だな。ワシもだ」
二人は睨み合った。
互いに実力は認めている。
だが、認めているからこそ嫌いなのだ。
相手がどこまでできるか知っている。
どこまで壊せるか知っている。
どこで踏み外すかも、ある程度わかっている。
だから信用できない。
信用できないから、互いに目を離せない。
玄武が杖の先で床を一度叩いた。
「そのくらいにせい。会議の前に殺し合うな」
「殺しませんよ」
「半殺しにはされたがな」
「先代がしぶといのが悪い」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてません」
玄武は深くため息をついた。
「仲が悪いのう」
「ええ」
「はい」
二人の声が重なった。
部屋の一部に、わずかな笑いが漏れる。
だが、緊張は消えない。
白い眠りの話をする前から、会議室にはすでに刃が置かれていた。
◇◇◇
「報告せよ、桜夜」
玄武が言った。
桜夜は席に座らず、立ったまま話し始めた。
「フランス北部で第一症例。横浜で第二症例。いずれも外傷なし、毒物反応なし、心拍と呼吸は安定。通常睡眠に似ていますが、刺激反応はありません。枕元には同一文面のメモ」
一度、言葉を切る。
誰も促さない。
だから桜夜は続けた。
「救いは、すぐそこにある」
その言葉が会議室に落ちた瞬間、空気が少し冷えた。
青龍が指を止める。
朱雀が扇を閉じる。
白虎が眉をひそめる。
先代相談役だけが、桜夜をじっと見ていた。
「第二症例、水無瀬ミライは発声しました。黒い騎士、そして未咲と」
「未咲?」
朱雀が聞き返した。
「夢の中で接触した、名を持たない未来です。正確な存在分類は不明。世界意思に消されやすい可能性であり、白い船に囚われている存在。僕が名付けたことで、現実側の水無瀬ミライにも反応が出ました」
「夢か」
先代相談役が笑った。
「また夢とはな。神託、夢渡り、未来の娘、今度は名もなき未来。現相談役殿はずいぶん眠るのが好きらしい」
「先代と違って、まだ寝る体力があるので」
「その体力で何度死にかけた」
「先代の時代の後始末で」
部屋の空気が再び凍る。
玄武が杖を鳴らした。
「進めろ」
「はい」
桜夜は素直に頷いた。
「敵の正体は断定できません。コスモス、ホメオスタシス、オメガ。世界意思のどれか、あるいはそれらに似たもの。サタンの関与も否定できません。ただし、現段階では白い眠りそのものに、人間の諦めが混じっているように見えます」
「諦め?」
青龍が静かに言った。
「生きるのがつらい。苦しまなくていい場所がほしい。目を覚ましたくない。そういう願いです」
白虎が低く唸った。
「つまり、敵は人間の弱さを使うということか」
「はい」
「ならば、厄介だな」
「ええ」
白虎の言葉に、桜夜は珍しく素直に同意した。
そこへ、静馬が口を開いた。
「横浜の第二症例から採取した白い花弁状の残滓は、直接視認を禁止しています。加工済み映像でも軽い眠気を訴える者がいました。音声データはノイズ化しましたが、ピアノに近い旋律が確認されています」
「白い子守歌、か」
朱雀が呟いた。
「文字、音、花びら、夢。入口が多い」
静馬は頷く。
「だから、情報の扱いそのものが危険です」
「では、情報を集める者が最初に危ない」
青龍が言った。
その言葉に、桜夜はわずかに反応した。
情報を集める者。
データセンター。
親友。
鷹司の姓を捨てた男。
父親がつけた名も捨てた男。
先代相談役の嫡男でありながら、戦いの才能がないと切り捨てられた男。
桜夜と一緒に世界の裏側で悪さをした、数少ない同類。
今は四方院家の偽装されたデータセンターで、和風建築の皮をかぶった機械仕掛けの巣にいる。
第二症例の情報も、彼が桜夜へ手書きの暗号メモで渡した。
それ自体はいつものことだ。
だが。
あまりに早かった。
あまりに正確だった。
そして、あまりに静かだった。
「桜夜」
先代相談役が言った。
「今、誰を疑った」
「誰も」
「嘘だな」
「先代には関係ありません」
「ある」
先代相談役の声が、わずかに低くなった。
「ワシの息子の話ならな」
会議室が静まった。
玄武が目を閉じる。
青龍も朱雀も、何も言わない。
白虎だけが、桜夜と先代を交互に見た。
「データセンターの男か」
白虎が言う。
桜夜は黙った。
先代相談役は笑わなかった。
「あれは戦いの才能がなかった」
先代は言った。
「四方院の者ではない。だが鷹司の嫡男だった。相談役を多く輩出してきた家の跡取りだ。期待も、失望も、大きすぎた」
「だから捨てた」
桜夜の声は冷たかった。
「捨てたのではない。遠ざけた」
「同じです」
「違う」
「違いません」
「お前に何がわかる」
「わかりますよ」
桜夜は先代を見た。
「僕も、あなたに飼われた側ですから」
先代相談役の目が鋭くなる。
だが、反論はしなかった。
桜夜は続ける。
「彼は剣を持てなかった。槍も、札も、結界も、継承戦で使えるほどの才能はなかった。だからデータを持った。情報を持った。世界の裏側へ道を作った。戦えない者の戦い方を覚えた」
「だから危険だ」
先代は言った。
「桜夜、お前はあいつを親友と呼ぶ。だが、ワシはあいつを知っている。あれは、お前と同じくらい執着が強い」
「それを父親が言いますか」
「父親だから言う」
「都合のいいときだけ父親面をするんですね」
「黙れ」
先代の声に、初めて怒りが混じった。
桜夜もまた、黙らなかった。
「黙りません。あなたは彼から鷹司の姓を奪った。いや、彼が捨てるところまで追い込んだ。父親がつけた名前まで、彼は捨てた。今の彼には、名前がない」
「名前ならあった」
「でも、彼はもう名乗っていない」
「捨てたのは、あいつ自身だ」
「捨てさせたのは、あなたでしょう」
先代は答えなかった。
その沈黙が、答えのようだった。
「親友」
青龍が静かに呟く。
「水希相談役は、彼をそう呼んでいますね」
「はい」
「それは名前ではない」
「……」
「役割です。関係です。だが、名前ではない」
桜夜は一瞬、言葉を失った。
その通りだった。
ずっと親友と呼んでいた。
そう呼べば伝わった。
そう呼べば、彼は笑った。
それでいいと思っていた。
だが、それは名前ではない。
名前を失った男を、名前ではない言葉で呼び続けていた。
その事実が、桜夜の胸の奥に冷たく沈んだ。
そのときだった。
会議室の隅で、端末が鳴った。
静馬のものではない。
桜夜の端末でもない。
玄武の前に置かれていた、古い有線端末だった。
データセンター直通。
普段は鳴らない。
鳴る必要がない。
その端末が、三回だけ鳴った。
玄武が受話器を取る。
「ワシじゃ」
返事は聞こえない。
だが、玄武の表情が変わった。
「……何?」
その声だけで、部屋全体が緊張した。
玄武は受話器を置き、桜夜を見た。
「データセンターからじゃ」
「親友からですか」
「いや」
玄武はゆっくり首を横に振った。
「自動発信じゃ。本人の応答がない」
桜夜の表情が消えた。
「内容は」
「メッセージが一文だけ残されていた」
「読んでください」
玄武は一瞬ためらった。
だが、読み上げた。
「十三番目の椅子は、名前を捨てた子どものために」
誰も言葉を発しなかった。
先代相談役の顔から血の気が引いていた。
それを桜夜は初めて見た。
この老人にも、そんな顔ができるのかと思った。
「宗主様」
桜夜は言った。
「データセンターへ行きます」
「待て」
先代相談役が立ち上がる。
「ワシも行く」
「来ないでください」
「行く」
「邪魔です」
「邪魔でも行く」
「父親面ですか」
「そうだ」
桜夜は黙った。
先代相談役は、自分の杖を握った。
「父親面だ。悪いか」
桜夜はその顔を見た。
嫌いな老人。
自分を飼い殺しにしようとした男。
継承戦で半殺しにした相手。
そして、親友から姓と名を奪った父親。
その老人が、今は確かに焦っていた。
「勝手にしてください」
桜夜は言った。
「ただし、足を引っ張ったら置いていきます」
「それはこっちの台詞だ」
二人は会議室を出た。
◇◇◇
データセンターは、四方院本邸の敷地内にある。
見た目は古い和風建築だ。
だが、内側は違う。
地下には分厚い防壁と最新の冷却設備、独自回線、幾重もの物理遮断、そして呪術的な防護が組み込まれている。
桜夜と親友が若い頃に好き勝手やりすぎた結果、二人を暇にさせると世界の均衡が崩れると判断され、片方をここへ、もう片方を相談役の席へ半ば押し込めた。
皮肉な隔離政策だった。
だが、うまく機能していた。
少なくとも、今までは。
建物の前に着くと、警備の術者たちが倒れていた。
全員、眠っている。
外傷はない。
表情は安らかだった。
「白い眠りか」
先代相談役が低く言う。
「ええ」
「中は?」
「わかりません」
「突っ込む気か」
「罠の形は見えましたから」
「悪癖だな」
「先代ほどでは」
二人は同時に扉へ向かった。
セキュリティは生きている。
だが、桜夜が手をかざすと扉は開いた。
親友が残した裏口だ。
かつて二人で作った。
四方院家にすら完全には把握されていない、子どもじみた抜け道。
それを見て、先代相談役が顔をしかめた。
「あいつめ」
「あなたに似たんでしょう」
「ワシはここまで陰湿ではない」
「自覚がない」
中は白かった。
本来なら青白いサーバーの光と、冷却設備の低い唸りが満ちているはずの廊下。
そこに、白い霧が漂っていた。
霧の中に、かすかなピアノの音が混じっている。
桜夜は桜吹雪を抜いた。
先代相談役も杖から仕込み刀を抜く。
久しぶりに、二人が並んだ。
敵同士のように。
師弟のように。
あるいは、互いに互いを殺せると知っている共犯者のように。
「懐かしいですね」
桜夜が言う。
「お前と肩を並べるなど、悪夢だ」
「白い眠りの中なので、だいたい合っています」
「笑えん」
「僕もです」
廊下の奥で、誰かの声がした。
「二人で来ると思っていたよ」
桜夜は足を止めた。
先代相談役も止まった。
声はスピーカーからではない。
廊下の奥。
サーバールームの扉の向こう。
親友の声だった。
「開けるよ」
桜夜が言う。
返事はなかった。
桜夜は扉を開けた。
サーバールームの中央に、彼はいた。
車椅子に座っている。
膝の上には、小さな手帳。
机の上には、白い花びら。
そして、彼の背後には十二台のモニターが並んでいた。
そのすべてに、同じ映像が映っている。
白い船。
夢の底に沈む船。
救いは、すぐそこにある。
親友は振り返らなかった。
「やあ、桜夜」
「やあ」
「父さんもいるんだ」
先代相談役の肩がわずかに動いた。
「……無事か」
「その言葉、何年ぶりかな」
「答えろ」
「無事だよ。たぶん」
親友は笑った。
声はいつも通りだった。
軽くて、皮肉屋で、どこか楽しそう。
だが、背筋が冷えた。
「君が白い眠りに関わっているのか」
桜夜が聞く。
「質問が雑だね」
「急いでいる」
「なら答えも雑になる。関わっているとも言えるし、関わっていないとも言える」
「嫌な答えだ」
「君に教わった」
「僕はもっと性格がいい」
「そうだね。君は無自覚に最悪だ」
親友は手帳を開いた。
「フランスの第一症例。横浜の第二症例。水無瀬ミライ。未咲。白い船。箱舟。エデン」
その最後の言葉に、桜夜の目が細くなった。
「エデン?」
「ああ」
親友は初めて振り返った。
顔色は悪い。
目の下に濃い隈がある。
しかし、その瞳だけは冴えていた。
「君はまだ、エデンを遠い星の話だと思っている?」
「違うのか」
「遠い星でもあり、未来でもあり、平行世界の地球でもある。観測点によって呼び名が変わるだけだよ」
「君はエデンに介入したのか」
桜夜の声が低くなる。
先代相談役も息を呑んだ。
親友は笑った。
「介入というほど立派なものじゃない。観測した。通信した。少しだけ、手を伸ばした。向こうからも、こちらへ手が伸びていた」
「誰が」
「生まれてこなければよかったと泣いていた人たち」
白い霧が濃くなる。
ピアノの音が強くなる。
「親友」
桜夜は一歩踏み出した。
「君は何をした」
「救いを探した」
「誰のために」
親友は笑った。
その笑みは、痛々しいほど静かだった。
「名前を捨てた子どものために」
先代相談役が震えた。
「お前……」
「父さん」
親友は先代を見た。
「僕は戦えなかった。だから捨てられた。いや、遠ざけられたんだっけ?」
「……」
「鷹司の姓は重かった。父さんがくれた名前も重かった。相談役の家に生まれたのに、戦えない僕には、どちらも持てなかった」
「違う」
「違わないよ」
親友は穏やかに言った。
「だから捨てた。姓も、名前も。そうしたら少し楽になった」
「それで、お前は何になった」
先代相談役の声は掠れていた。
親友は笑う。
「桜夜の親友」
桜夜の喉が詰まった。
「戦えない僕と、戦いすぎる君。捨てられた僕と、飼い殺しにされた君。僕らはちょうどよかった」
「親友」
「でもね、桜夜」
親友は首を傾げた。
「親友は名前じゃない」
静かな一言だった。
だが、その一言が、桜夜の胸を刺した。
「君は僕を親友と呼ぶ。父さんは僕を息子と呼ぶかもしれない。四方院家は僕をデータセンターの管理者と呼ぶ。でも、それは全部、関係か役割だ」
親友は自分の胸を軽く叩いた。
「僕自身の名前じゃない」
白い霧がさらに濃くなる。
十二台のモニターの映像が変わった。
白い会議室。
長い机。
十二の椅子。
そして、十三番目の椅子。
そこに座っていたのは、親友だった。
幼い姿の。
鷹司の姓を捨てる前。
父のつけた名を捨てる前。
まだ、自分が何者になれるのか知らなかった頃の子どもだった。
「十三番目は、裏切り者の数字だと人は言う」
親友は笑う。
「でも、僕から見れば違う。十三番目は、最初から席を用意されなかった者の数字だ」
先代相談役の顔が歪んだ。
「やめろ」
「父さんが僕に席をくれなかった」
「やめろ」
「四方院家は、戦える子どもだけを見た。才能のある子どもだけを見た。神殺しを握れる者、術式を組める者、血を継げる者、家を背負える者。それ以外は、邪魔だった」
「違う」
「違わない」
親友は微笑んだ。
「でも、僕は怒っていないよ。だって、僕には桜夜がいた」
桜夜の呼吸が止まる。
「だからこそ、君には知らせたかった」
「何を」
「白い眠りは、もう止まらない」
モニターの中の白い船が軋んだ。
「止める方法はある」
「何だ」
「黒い騎士が船に乗ること」
先代相談役が低く唸った。
桜夜は静かに言った。
「それは、僕を消すための罠だろう」
「そうだね」
親友はあっさり認めた。
「でも、罠だからといって間違いとは限らない」
「君は僕を船に乗せたいのか」
「乗せたくない」
親友はすぐに答えた。
「でも、乗せなければもっと大勢が眠る」
「……」
「僕は計算した。観測した。エデンの記録も、この世界の症例も、未咲の反応も、白い船の航路も。答えは同じだった」
親友は桜夜を見た。
「水希桜夜が船に乗れば、白い眠りは一時的に止まる」
「一時的に?」
「永遠ではない。でも、時間は稼げる」
「その代わり、僕は?」
親友は答えなかった。
答えないことが答えだった。
先代相談役が杖を振るった。
仕込み刀が親友の喉元に向かう。
だが、その刃は届かなかった。
桜夜の桜吹雪が、先代の刃を止めていた。
「邪魔をするな」
先代が低く言う。
「殺すな」
「こいつはお前を船に売ろうとしている」
「まだ売っていない」
「時間の問題だ」
「それでも殺すな」
「甘い」
「知っています」
二人の刃が火花を散らす。
親友はそれを見て、少しだけ笑った。
「いいなあ」
その声は、本当に羨ましそうだった。
「父さんは、桜夜とはちゃんと戦うんだね」
先代相談役の刃が止まった。
桜夜も動きを止める。
親友は、泣いていなかった。
泣いていないのに、泣いているようだった。
「僕とは戦ってくれなかった」
その一言が、白い眠りよりも深く部屋を沈めた。
先代相談役は何も言えなかった。
桜夜も言えなかった。
白い船は、ここを拾ったのだ。
戦えなかった子どもの痛み。
父親に見てもらえなかった嫡男の祈り。
姓も名も捨てた者の空白。
親友と呼ばれながら、名前を呼ばれなかった孤独。
それは裏切りではない。
裏切りと呼ぶには、あまりにも古い傷だった。
「親友」
桜夜は言った。
「まだ戻れる」
「どこへ?」
「ここへ」
「ここに、僕の席はある?」
桜夜は答えようとした。
だが、その前に親友が手元のキーを押した。
十二台のモニターが一斉に暗転する。
そして、中央に一文だけ表示された。
救いは、すぐそこにある。
白い霧が爆ぜた。
桜夜は咄嗟に先代相談役を突き飛ばす。
白い光がサーバールームを満たした。
ピアノの音。
白い鈴の音。
小春と日和の鈴の音が、遠くでそれに抗っている。
桜夜は親友へ手を伸ばした。
だが、届かない。
親友の身体が白い霧に包まれていく。
「君はどこへ行く」
「船べり」
「戻れ」
「呼んでよ」
親友は笑った。
「君が未咲を呼んだみたいに、僕にも名前をつけてよ」
「君には名前がある」
「捨てたよ」
「なら、拾えばいい」
「父さんがつけた名前を?」
親友は首を横に振った。
「それはもう、僕のものじゃない」
桜夜は言葉を失った。
白い霧の奥で、親友の声が遠ざかる。
「桜夜」
「何だ」
「僕は、君の親友ではいられた。でも、僕自身にはなれなかった」
「……」
「だから、次に会うときまでに考えておいて」
「何を」
「僕の名前」
その言葉を最後に、親友の姿が消えた。
白い霧も消える。
ピアノの音も止む。
サーバールームには、桜夜と先代相談役だけが残された。
床には、親友の手帳が落ちている。
開かれたページに、手書きの文字があった。
僕の席は、どこにある?
先代相談役は、その文字を見て動かなかった。
まるで、神殺しで胸を貫かれたように。
桜夜は手帳を拾った。
そして、低く言った。
「先代」
「……何だ」
「あなたの息子の名前を、僕はもう呼べません」
先代相談役は答えなかった。
答えられなかった。
桜夜は続ける。
「あの人が捨てた名前だから」
「……」
「でも、親友のままにもしておけない」
その沈黙が、何より不吉だった。
桜夜は理解した。
白い船は、四方院家の外から来たのではない。
内側にあった空席を見つけたのだ。
十三番目の椅子。
戦えなかった子どもの席。
鷹司の姓を捨て、父に与えられた名も捨て、親友という役割だけで生きてきた者の席。
そして、そこから白い眠りは始まろうとしている。
遠くで、また鈴が鳴った。
ちりん。
ちりん。
それが小春と日和の鈴なのか、白い船の鈴なのか、桜夜にはすぐに判別できなかった。




