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黒の騎士と三原色の少女たち~old testament~  作者: スナオ
第二章 二人称の名前
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第12話 白い船と消される絆

 目を閉じた桜夜は、まず余計な考えを捨てた。


 第二症例、横浜。


 十六歳。


 枕元に同文のメモ。


 救いは、すぐそこにある。


 桜夜はデータセンターで受け取った暗号メモを燃やし、その灰まで風の精霊で散らした。紙の情報は残さない。文字そのものが呪いになる可能性を、彼は知っている。


 たった二件。


 場所も離れている。症例も少ない。偶然と言おうと思えば言える。


 だが、さっき見た夢がある。


 箱舟教団。


 未来を視る少女。


 白い子守歌。


 そして、黒い騎士様という声。


 普通なら夢で片づける。だが桜夜は普通の夢を見ない。夢渡りをする未来の娘と会い、神々の住まう場所で永久の桜を見て、世界意思の三つの貌まで教えられた男が、いまさら夢をただの夢として扱えるはずがなかった。


 コスモス。


 ホメオスタシス。


 オメガ。


 白い眠りがどれに近いのか、桜夜にはまだ断定できない。


 コスモスなら排除だ。


 ホメオスタシスなら調整だ。


 オメガなら、最初からなかったことにする。


 だが、今回の眠りは妙に優しい顔をしている。殺すのではなく眠らせる。壊すのではなく、苦しみから降ろすように見せかける。


 そこが気に入らなかった。


「桜夜さん?」


 サイカの声で、桜夜は目を開けた。


 データセンターになっている和風建築の外で、三人が待っていた。リオは静かに、サイカは不安そうに、ホムラは今にも走り出しそうな顔で。


「どうすんだ?」


 ホムラが聞いた。


「どうもしない」


 桜夜は答えた。


「はあ?」


「現場には静馬くんが行く。眠っている子を診るなら、まずは医者の仕事だ。医学的な検査、呪術的な検証、病室に残った気配の採取。それを静馬くんなら一人でできる」


「でもよ」


「僕が行くと、相手に知らせることになる」


 ホムラが黙った。


「黒い騎士が来た、とね」


 リオが静かに頷く。


「桜夜様はトラップの可能性も考えているのですね」


「うん。だから今は、動かない」


「らしくねーな」


 ホムラが眉を寄せる。


「てめえなら罠でも突っ込むと思ってた」


「僕は小物だからね」


「たしかにチビだよな。おまえ」


 桜夜は苦笑する。


 彼は病弱だったゆえ身体の発育が悪い。鳳凰との契約で多少ましになったとはいえ、日本人の中でも小柄な方だろう。もっとも、ホムラはそんな桜夜よりさらに小さい。


 だから桜夜は、ついその頭に手を置いた。


「さわんな!」


 ホムラは顔を真っ赤にして怒鳴る。


 桜夜は楽しそうに笑った。


「その眠った子は、助かりますか?」


 サイカが聞いた。


「もう救われたのかもしれないよ」


「……眠っているだけなんですよね?」


「うん。外傷も毒物反応もない。心拍も呼吸も安定している。だがおそらく、眠っている間に静かに死を迎える」


 ぽっくり信仰。


 ピンピンコロリ。


 眠るような死。


 良い死。


 現代社会で望まれている死に方だ。


 たたき起こす必要があるのか、桜夜にはまだわからなかった。


「そして日本人は、そういう死に方が好きだ」


「そっ……か」


 死を望んだ母のことを思い出したのか、サイカは辛そうに胸を押さえた。


「でも、怖い」


 その言葉に、桜夜は何も返さなかった。


 歩き出す。


 データセンターから、自分の屋敷へ戻るためだ。


 その途中で、鈴の音がした。


 ちりん。


 ちりん。


 風鈴ではない。神楽鈴の音だった。


 永久の桜の若木のそばに、二人の幼い少女が立っていた。


 白い小袖に、朱の袴。


 肩のあたりで切りそろえた髪。


 片方は桜色の紐で結び、もう片方は若草色の紐で結んでいる。二人とも、胸元に小さな神楽鈴を抱えていた。


「小春、日和」


 桜夜が名を呼ぶと、二人はそろって頭を下げた。


「おにいさま」


「およびに、まいりました」


 桜色の紐を結んだ方が小春。


 若草色の紐を結んだ方が日和。


 小春日和の陽気の中で生まれた双子だ。流れで桜夜が名付け親になったため、二人は彼を「おにいさま」と呼ぶ。


 四方院家と古くから縁のある社に仕える幼い巫女で、まだ術者としては未熟だが、夢と兆しを読む力だけは大人顔負けだった。


「かわいい……」


 サイカが思わず呟く。


「巫女ってやつか?」


 ホムラが首を傾げた。


 リオはすぐに膝を折り、二人と目線を合わせる。


「こんにちは、小春ちゃん、日和ちゃん。わたくしはリオと申します」


「こんにちは!」


「こんにちは、です」


 二人は同じ顔で、少しだけ違う笑い方をした。


 小春は花が開くように。


 日和は眠る前の灯りのように。


「宗主様の命令かい?」


 桜夜が尋ねると、小春は首を横に振った。


「ちがいます」


 日和が続ける。


「鈴が鳴りました」


「どこの鈴?」


「社の奥です」


「だれも触ってないのに」


 二人は同時に、永久の桜の若木を見た。


「白い子が」


「泣いていました」


 その一言で、空気が変わった。


 桜夜は膝をつき、二人と向き合った。


「何を視たの?」


 小春が神楽鈴を胸に抱きしめる。


「白い船」


 日和が目を伏せる。


「たくさんの子ども」


「みんな眠っていました」


「でも、ひとりだけ起きていました」


 二人の声が重なる。


「黒い騎士さまを、呼んで」


 風が止まった。


 サイカが息を呑む。


 ホムラが拳を握る。


 リオは黙って手帳を開いた。


「箱舟、か」


 桜夜は静かに言った。


 小春と日和は、その言葉に小さく震えた。


「その名前、こわいです」


 小春が言う。


「船なのに、沈んでいます」


 日和が続ける。


「沈んでいる?」


「夢の底に」


「でも、みんな乗っています」


 桜夜は目を細めた。


 桜夜の見た夢では、箱舟教団は牢の奥にあった。白い布に、同じ言葉が何度も書かれていた。


 救いは、すぐそこにある。


 それが今、幼い巫女の視た兆しでは、白い船になっている。


 夢は比喩を使う。


 神も世界意思も、時に人間の理解できる形を借りる。


 ならば白い船は、眠りの形だ。


 人を乗せ、苦しみから運ぶように見せかけるもの。


 だが、どこへ運ぶのかはわからない。


「怖かった?」


 桜夜が聞くと、小春は素直に頷いた。


「こわかったです」


 日和も小さく頷く。


「でも、泣いていました」


「だから来たの?」


「はい」


「たすけてって、聞こえたから」


 桜夜はしばらく何も言わなかった。


 助けて。


 その声を無視できない者が、また増えた。


 桜夜は困ったように笑い、二人をそっと抱き寄せた。


「よく来たね」


 小春は桜夜の袖を掴み、日和は神楽鈴を握ったまま目を閉じた。


 サイカが二人の頭を撫でる。


「もう大丈夫だよ」


 小春はサイカを見上げた。


「おねえさん、あったかい」


 日和が続ける。


「夢に落ちにくい人」


「わたしが?」


 サイカは驚いた。


 桜夜はその言葉を聞き逃さなかった。


「日和。今、何て?」


「おねえさんは、夢に落ちにくいです」


 小春がホムラを見る。


「赤いおねえさんは、火だから夢を焼けます」


「オレ?」


 ホムラが自分を指さす。


 日和はリオを見た。


「水のおねえさんは、夢の中まで糸を伸ばせます」


 リオの瞳がわずかに揺れた。


 最後に二人は、桜夜を見る。


「黒い騎士は」


「夢の奥まで行けます」


 桜夜は笑みを消した。


「でも」


「帰る道が、細いです」


 帰れない、と言わないところが小春と日和らしかった。


 幼いのに、二人は絶望を断定しない。


 だから巫女なのだろう。


「細いなら、切れなければいい」


 桜夜が言うと、小春が鈴を掲げた。


「道を結びます」


 日和も鈴を掲げる。


「おにいさまが、迷わないように」


 ちりん。


 二つの鈴が鳴った。


 その音は、白い眠りの気配を少しだけ遠ざけた。


◇◇◇


 小春と日和は縁側に正座していた。


 二人の前には湯呑みと、サイカが出した金平糖の皿がある。小春は桜色の金平糖を摘まみ、日和は若草色のものをじっと見つめてから口に入れた。


「甘い」


「よかった」


 サイカは優しく笑った。


 桜夜はその光景を見ながら、胸の奥に残る重さを感じていた。


 幼い子どもが甘いものを食べる。


 ただそれだけの光景が、妙に大事なものに見える。


 白い船。


 たくさんの子ども。


 眠ったまま帰ってこない者たち。


 相手が子どもの夢に触れているなら、趣味が悪いなどという言葉では足りない。


「桜夜様」


 リオが端末を手に近づいてきた。


「静馬様からです」


「読んで」


「横浜の第二症例、水無瀬ミライ。十六歳。現在、四方院系列の医療施設に搬送済み。静馬様が検証を開始しています」


「状態は?」


「脳波は睡眠に近いものの、通常睡眠とは異なる。刺激反応なし。外傷なし。毒物反応なし。感染症検査も現時点では異常なし。心拍、血圧、呼吸は安定」


「呪術的反応は?」


「既知の呪詛反応なし。ただし、神性干渉に似た微弱反応あり」


「似た、か」


「はい。静馬様は、神気ではなく、神気の影のようなもの、と」


 桜夜は湯呑みを置いた。


「詩人だね、静馬くん」


「医師が詩的な表現を使うときは、だいたい分類不能という意味です」


「だろうね」


 リオは続ける。


「枕元に手書きのメモ。文面は同一。救いは、すぐそこにある」


 小春と日和が同時に肩を震わせた。


 桜夜は二人を見る。


「その言葉、夢にあった?」


 小春は鈴を握る。


「白い布に、たくさん」


 日和も頷く。


「船の中にもありました」


「壁にも」


「床にも」


「天井にも」


「読んだら、眠くなります」


 ホムラが顔をしかめた。


「最悪だな」


「文字が子守歌になっているのかもしれない」


 桜夜は言った。


「音だけじゃない。文章、白い花びら、夢。入口がいくつもある」


「では、静馬様へ直接視認を避けるよう伝えます」


「うん。写真も映像も、人間が見る前に機械判定。録音も聴かせない。文字起こしも禁止」


「承知しました」


 リオはすぐに返信を打つ。


 このあたりの動きは早い。秘書として頼もしい一方で、あまりにも自然に桜夜の仕事の内側へ入ってくるので少し怖い。


 怖いが、助かる。


「静馬様から追加です」


 リオの声が少し硬くなった。


「白い花弁状の残滓を病室で確認。封印容器に収容。収容直前、微弱な音響干渉を確認。ピアノに近い旋律。ただし録音データは途中からノイズ化」


「白い子守歌」


 桜夜は呟いた。


 これも夢と同じだ。


 白い布。


 白い船。


 白い花びら。


 白い子守歌。


 白は、本来は清浄の色だ。神事にも葬儀にも使われる。


 だが、ここまで揃うと清浄ではなく空白に見える。


 何もなかったことにする色。


「オメガですか?」


 リオが静かに聞いた。


 桜夜はすぐには答えなかった。


「オメガなら、もっと徹底的だと思う。消すなら記録も記憶も祈りも残さない。少なくとも、メモを残す理由がない」


「では、コスモス?」


「排除なら眠らせるより殺した方が早い」


「ホメオスタシス」


「可能性はある。世界のバランスを保つために、苦しみを眠らせる。予定外に救われる者も、予定外に絶望する者も、穏やかに止める」


 桜夜は自分で言って、嫌になった。


「でも、まだ断定しない」


「はい」


「世界意思のどれかに見えるものを、誰かが真似ている可能性もある」


 サタン。


 創造神。


 外の世界の何か。


 あるいは、人間。


 候補は多すぎる。


 だから今は、名前を急がない。


 名前は力になるが、間違った名前は判断を曇らせる。


「静馬様から、さらに一文」


 リオが言った。


「患者が一度だけ発声」


 場が静まる。


 サイカが小春と日和の肩をそっと抱いた。


「何て?」


 桜夜が聞く。


 リオは画面を見たまま答えた。


「黒い騎士、と」


 沈黙が落ちた。


 夢の言霊が、現実に出てきた。


 もう偶然では済まない。


「おにいさまは、呼ばれています」


 小春が言った。


「白い船から」


 日和が続ける。


「でも、行くなら、瞑想の間がいいです」


 桜夜は二人を見た。


「どうして?」


「寝ると、船に近すぎます」


「瞑想の間なら、神さまの札があります」


「八咫烏さまも、たぶん見ています」


「性格悪いからなあ、あの烏って鳳凰が言ってるけど」


 桜夜は少し笑った。


 胸の奥で、まだ回復途中の鳳凰がぴよぴよ騒いでいた。


 しかし小春と日和は真剣だった。


「でも、道は知っています」


「黒い騎士が、前にも行った場所だから」


 それは桜夜ではない。


 名前を借りた「桜夜」でもない。


 ある平行世界で未来を視る少女を救おうとした黒い騎士。桜夜と無関係そうで、実は深いえにしを持つ者。


 ふいにリオが発言した。


「行かれるのなら、条件があります」


「聞こう」


「瞑想の間の外で、わたくしたちは待機します。サイカちゃんは名前を呼ぶ。ホムラちゃんは異変があれば扉を破る。小春ちゃんと日和ちゃんは鈴で道を結ぶ。わたくしは水の精霊で桜夜様の呼吸と脈を見ます」


「扉を破るのは物騒だな」


「桜夜様が帰らない方が物騒です」


「そうかな」


 桜夜は帰らないつもりだった。


 いや、帰れないのだ。


 昔ガブリエルが見せたヴィジョン。


 先生との出会い。


 あの子との出逢い。


 この二つをなかったことにされただけで、桜夜は桜吹雪を失い、戦い方がわからなくなり、病弱な身体に戻って倒れた。


 かろうじて息のあった桜夜を三人の天使が見下ろす。


 大天使ガブリエルは「助ける」と言い、死天使サリエルは「せめて魂だけでも」と述べた。先代天使長ルシフェルは「どちらも不可能だ」と言った。


 咲夜と話して、この未来がそう遠くないことを桜夜は理解した。


 桜夜の思考などわからないホムラが、にやりと笑う。


「任せろ。扉ごとぶっ壊して、引きずってでも連れ戻す」


 桜夜は困ったように笑った。


 そのとき、サイカが桜夜の袖を掴んだ。


「必ず帰ってきて」


 桜夜は頷きもせず、サイカに背を向けた。


「帰ってきてくれたら、なんでもしてあげるから」


「それを言われると男は弱いんだよね」


 それでも桜夜は、必ず帰るとは言わなかった。


 サイカは泣きそうになりながら笑った。


 小春と日和が鈴を掲げる。


「道は」


「わたしたちが結びます」


 桜夜は二人の頭を撫でた。


「頼むよ」


◇◇◇


 瞑想の間は、いつも通り狭かった。


 一畳の畳。


 座布団。


 神棚。


 それだけ。


 余計なものは何もない。


 桜夜は神棚への拝礼のあと、座布団の上で座禅を組み、瞑想を始めた。


 胸の奥で鳳凰が小さく鳴いた。


 ぴよ。


 ぴよぴよ。


「僕たちの前に道はない。僕たちの後ろに道は出来る。そう言いたいのかい?」


 鳳凰は頷く。


 鳳凰の力は回復しきっていない。桜夜の身体はよくて常人程度の強度しかない。魂も、不完全な模造品だ。心はとっくに壊れている。


 それでも相棒は、一緒に道を切り開こうと言っている。


 瞑想しながら、桜夜は微笑んだ。


 どこからか烏の声がする。


 不吉な声ではない。神聖な声。


 八咫烏。


 導きの烏。


 そう考えたとき、畳の下が抜けるような感覚があった。


 扉の向こうから、鈴の音が聞こえる。


 ちりん。


 ちりん。


 小春と日和の鈴。


 その音に重なるように、サイカの声がする。


「桜夜さん」


 リオの声も。


「桜夜様」


 ホムラの声も。


「戻ってこいよ」


 桜夜は目を閉じた。


「______」


 失われた言語、統一言語で、桜夜ははじまりのものの名前を呼んだ。


 世界意思とはじまりのものは、常に対立し続けてきた。


 そして先生曰く、桜夜ははじまりのものと似ているらしい。


 桜夜はヴィジョンを見る。


 永久の桜の下に立つ者たち。


 黒い騎士。


 白い巫女。


 不死身の魔女と、その伴侶らしき男性。


 伝承に残った肖像画に似たタオらしき男。


 写真で見た、子どものころの先生。


 皆、永遠の別れを惜しんでいた。


◇◇◇


 桜夜が目を開いたとき、彼は永久の桜の下に座っていた。


 これが沙羅双樹の下なら、覚りを開いたのかもしれない。


 だが、桜夜には世界の真実などわからない。


 ゆったりと立ち上がり、桜の木を確認する。屋敷の庭にある若木ではない。神々の住まう場所にある、オリジナルの永久の桜だった。


 ただし、そこには永遠の別れを惜しんでいた原初の騎士団の姿はなかった。


 世界が白い霧に包まれている。


 桜夜は自分の両手を見る。


 少し透けていた。


 魂だけの存在のようだ。しかも、その魂で形作られた身体は、今にも消えてしまいそうに儚い。


 それを、ひよこの姿の鳳凰が無理やり繋ぎ止めている。


「情けない姿だね」


 ぴよ。


「怒った?」


 ぴよぴよ。


「はいはい。ありがとう」


 それから周囲を見渡す。


 霧の向こうに、船が見えた。


 白い船。


 小春と日和が視たものと同じだ。


 船体には統一言語が刻まれていた。


 日本語にすると、こうだ。


「救いは、すぐそこにある」


 白い霧の向こうから、声がした。


「来てくれたんだ」


 銀の髪。


 赤い瞳。


 夢で見た、未来を視る少女。


 少女は船の手すりの向こうに立っていた。


「黒い騎士様」


「人違いだ」


「そうだね。彼と君は、まだ交わらない」


 少女は笑みを浮かべた。


「君は何者だ」


「まだ名前をもらっていない未来、かな?」


 桜夜は黙った。


 名を持たない未来。


 それは可能性だ。


 確定していないもの。


 だからこそ、世界意思に消されやすいもの。


「白い眠りは誰の仕業なんだい?」


 桜夜が尋ねる。


 少女は悲しそうに笑った。


「世界意思」


 桜夜は静かに聞いていた。


「コスモスが秩序のために危険因子を排除する。ホメオスタシスがバランスを取る。その間に、オメガはいろんなものをなかったことにする。でもね、オメガでも消しにくいものがあるんだよ」


「それは?」


「希望、想い、意思、絆、願い、祈り。呼び方は何でもいい。世界意思には敵わないけれど、強く強く存在を望まれているものをなかったことにするのは大変みたいだ」


 少女は白い船の手すりに指を置いた。


「たとえば、世界人口の三分の一がキリストは実在すると信じている状態で、キリストをいなかったことにするのは、オメガでも大変」


「その言い方だと、大変だけど、できないわけじゃないのか?」


「そう。キリストで言えば、クリスチャンを全滅させてからなら、いなかったことにできる」


 少女の赤い瞳が、桜夜を見た。


「騎士様。君にも、君の存在を強く望み、信じてくれている人たちがいる。その絆がある限り、オメガは簡単に騎士様を消せない。コスモスでも、ホメオスタシスでも同じ。ただし」


 少女は人差し指を立てた。


「オメガは必ずすべてを消す。騎士様を知っている人々を一人ずつ、思い出を一つずつ、ゆっくり、じっくり、真綿で首を締めるように消していく。そしてすべてを失い、絶望した騎士様を消す。それが世界意思の得意技」


 桜夜は笑わなかった。


 思い当たる未来がある。


 ガブリエルが見せたヴィジョン。


 先生と出会わなかった世界。


 あの子と出逢わなかった世界。


 桜吹雪を得ず、救世流を知らず、鳳凰とも繋がらなかった桜夜。


 ただ病弱で、弱く、壊れかけた少年のまま倒れた自分。


 そこに、三人の天使がいた。


 助けようとした者。


 魂だけでも拾おうとした者。


 どちらも無理だと告げた者。


 あれは、遠い未来ではない。


 オメガが絆を剥がし終えたあとの、結末だ。


「白い眠りは、そのための準備か」


「半分正解」


「半分?」


「眠りは、救いを願う人間の祈りでもある。苦しみたくない。傷つきたくない。生まれてこなければよかった。もう目を覚ましたくない。そういう祈りが、世界意思の隙間に流れ込んだ」


 少女は白い船の奥を振り返る。


「だから船は沈んでいるの。神の船でも、人間の船でもない。世界意思と人間の諦めが混ざったもの」


「厄介だね」


「うん」


「君は、その船に乗っているのか」


「乗せられている」


「降りたいか」


 少女は初めて、泣きそうな顔をした。


「降りたい」


 桜夜は一歩近づいた。


 だがその瞬間、白い船が大きく軋んだ。


 船体に刻まれた文字が光る。


 救いは、すぐそこにある。


 救いは、すぐそこにある。


 救いは、すぐそこにある。


 桜夜の身体が、薄くなった。


 魂が削られている。


 鳳凰が必死に鳴いた。


 ぴよ、ぴよぴよ!


「わかっている。長居はできない」


 少女が手を伸ばす。


「名前を」


「名前?」


「名前がないと、降りられない。呼ばれない未来は、ただ消えるだけだから」


 桜夜は少女を見た。


 名を持たない未来。


 白い船に囚われた可能性。


 まだ咲いていないもの。


 ならば。


「未咲」


 桜夜は言った。


「まだ咲いていない未来。君の名前は、未咲だ」


 少女の赤い瞳が見開かれる。


 白い船がさらに大きく軋んだ。


 船体に刻まれた言葉のうち、「救い」という二文字だけが黒く焦げた。


「未咲」


 桜夜はもう一度呼んだ。


 少女の身体を包んでいた白い霧が、少しだけ晴れる。


「……ありがとう」


 未咲は胸に手を当てた。


「これで、呼ばれたら振り向ける」


「呼ぶよ」


「でも、まだ来ないで」


「なぜ」


「黒い騎士が乗れば、船は岸を離れる」


「僕を乗せたいのか」


「うん」


 未咲は頷いた。


「騎士様の絆を消すために。騎士様を、なかったことにするために」


 白い船の奥から、何か巨大な影が動いた。


 声はなかった。


 だが、世界そのものがこちらを見たような圧があった。


 桜夜はその気配へ向けて、静かに言った。


「僕は、頼まれていない救いが嫌いなんだ」


 その瞬間、白い霧が膨れ上がった。


 ピアノの音が聞こえる。


 優しく、静かで、眠りへ誘う旋律。


 けれど、その奥に鈴の音が混ざった。


 ちりん。


 ちりん。


 小春と日和の鈴。


 帰り道が、まだ繋がっている。


 サイカが名前を呼んでいる。


 リオの水の糸が、かすかに手首へ触れている。


 ホムラが扉の向こうで拳を握っている気配までした。


「未咲」


「うん」


「次は、必ず降ろす」


 未咲は泣きながら笑った。


「待ってる」


 鈴の音が強く鳴る。


 視界が白く弾けた。


◇◇◇


 桜夜は目を覚ました。そこは瞑想の間ではなく主の間のベッドの上だった。屋敷の主人と伴侶のための寝室。そのベッドに寝かされている。ふかふかだなと思っていると視界が戻ってくる。


 最初に見えたのは、サイカの泣きそうな顔だった。


「桜夜さん!」


 次に、リオの水色の瞳。


「戻られましたね」


 そして、ホムラの拳。


 額のすぐそばで止まっていた。


「……殴る寸前?」


「起きなかったら殴ってた」


「危なかった」


「危なかったのはてめえだ!」


 ホムラは怒鳴った。


 小春と日和は、扉の横で肩で息をしていた。神楽鈴はまだ小さく震えている。


「小春、日和」


 桜夜が声をかけると、二人は力なく笑った。


「道、切れませんでした」


「おにいさま、戻れました」


「ありがとう」


 桜夜は起き上がろうとして、リオに止められた。


「まだです」


「でも」


「まだです」


「はい」


 桜夜は素直にベッドに戻った。


 サイカが彼の手を握る。


「何があったの?」


「白い船があった」


 小春と日和が顔を見合わせる。


「やっぱり」


「沈んでいましたか?」


「わからない」


 桜夜は目を閉じる。


「ただ、名前のない少女がいた」


「名前を」


 日和が小さく言う。


「つけたのですね」


「うん」


「なんて?」


 サイカが尋ねる。


「未咲」


 桜夜は答えた。


「まだ咲いていない未来。未咲」


 リオはその名を手帳に書き留めた。


 その瞬間、彼女の端末が震えた。


「静馬様からです」


「読んで」


 リオは画面を確認し、目を見開いた。


「水無瀬ミライ、先ほど一度だけ発声」


 部屋の空気が止まる。


「発声内容は、未咲」


 誰も言葉を発しなかった。


 夢と現実が繋がった。


 桜夜は静かに息を吐く。


「名前は道になる、か」


 小春と日和が頷いた。


「はい」


「呼べるようになりました」


 ホムラが拳を下ろす。


「それで、助けられるのか?」


「まだわからない」


 桜夜は正直に言った。


「でも、相手の輪郭は見えた。白い眠りは、世界意思だけの問題じゃない。人間の諦めも混じっている」


「諦め?」


 サイカが聞く。


「苦しまなくていい場所がほしいという祈り。生きるのがつらいなら、眠ってしまえばいいという祈り」


 サイカは顔を曇らせた。


「それは、悲しい」


「うん」


「眠ったまま帰ってこないのは、悲しい」


「そうかもね」


 桜夜は立ち上がった。


 今度はリオも止めなかった。


「静馬くんには、ミライの発声内容と未咲の名を共有して。映像と音声はまだ封印。患者本人への接触は最低限。病室の文字情報も遮断」


「承知しました」


「宗主様にも報告。これは世界意思案件の可能性あり。ただし、コスモス、ホメオスタシス、オメガのどれとも断定しない」


「はい」


「それから、小春と日和」


 二人は顔を上げた。


「もう一度、力を貸してくれる?」


 小春は神楽鈴を抱きしめた。


「はい」


 日和も頷く。


「未咲ちゃん、まだ泣いています」


「そうか」


 桜夜は少しだけ笑った。


「なら、次は泣き止ませに行かないとね」


 遠くで、ピアノの音がした。


 今度は一瞬だけ。


 その音に重なるように、小春と日和の鈴が鳴る。


 ちりん。


 ちりん。


 白い眠りは、もうすぐそこにある。


 けれど、桜はまだ咲いていない。


 咲いていないなら、終わっていない。


 未咲という名を得た未来は、まだ枝先で震えている。


 未咲という名を得た未来は、まだ枝先で震えている。


 そのとき、リオの端末がもう一度震えた。


 彼女は画面を見た。


 そして、わずかに眉を寄せる。


「リオちゃん?」


 桜夜が声をかける。


 リオはすぐには答えなかった。何かを確かめるように、画面をスクロールする。いつもの彼女なら、必要な情報だけを即座に読み上げる。だが今は、その判断に数秒を要した。


「静馬様から、追記です」


「読んで」


「水無瀬ミライの状態に大きな変化はありません。呼吸、心拍ともに安定。ですが、発声後、病室内の神性干渉に似た反応が一時的に増幅したとのことです」


「未咲の名前に反応したか」


「その可能性が高いそうです」


「ほかには?」


 リオは画面を見つめたまま、少しだけ声を落とした。


「静馬様は、今回の症例を単独事例として扱うべきではない、と」


「理由は?」


「フランスの第一症例と横浜の第二症例の間に、医学的な共通点が少なすぎるからです」


 ホムラが顔をしかめた。


「共通点が少ないなら、別の事件なんじゃねえのか?」


「普通はそう考える」


 桜夜は言った。


「だが、医学的な共通点が少ないのに、同じメモ、同じ眠り、同じ白い気配が出ている。つまり、病気として似ているんじゃない。現象として同じなんだ」


「それって、余計やばくねえか」


「うん。かなりね」


 サイカが小春と日和を抱き寄せたまま、そっと聞いた。


「また、増えるんですか?」


 桜夜は答えなかった。


 答えられなかった。


 増える。


 おそらく。


 けれど、まだそれを口にしたくなかった。言葉にすれば、白い船がその言葉を道にしてしまいそうだった。


 小春と日和の神楽鈴が、小さく震えた。


 ちりん。


 触れていないのに、鳴った。


「小春」


「はい」


「日和」


「はい」


「何か視えた?」


 二人は顔を見合わせた。


 小春が先に口を開く。


「船が、動きました」


 日和が続ける。


「でも、まだ岸には着いていません」


「岸?」


「眠っている人の、夢の岸です」


「ミライちゃんのところ?」


 サイカが聞くと、日和は首を横に振った。


「ミライちゃんだけじゃありません」


 小春は神楽鈴を胸に抱く。


「船は、たくさんの岸を探しています」


 その言葉に、部屋の空気が重くなった。


 白い船。


 夢の底に沈む船。


 救いを名乗る眠り。


 それが、次の岸を探している。


 桜夜は目を細めた。


「つまり、まだ誰かを乗せるつもりか」


 小春と日和は、小さく頷いた。


「でも、まだ遠いです」


「声は、ぼんやりしています」


「声?」


「眠りたい声」


 日和が言った。


「もう起きたくないって声」


 サイカの指が震えた。


 死を望んだ母の記憶が、また胸の奥に触れたのだろう。


 桜夜はそれに気づいたが、何も言わなかった。


 言えば、サイカはきっと笑ってしまう。


 大丈夫です、と。


 今は、その笑顔を無理に作らせたくなかった。


「桜夜様」


 リオが静かに言う。


「静馬様から、今後の検証方針について相談したいとのことです。医学的検査だけではなく、四方院家の呪術部門、神道系統、魔女術、魔法、魔術、それぞれの知見を統合したい、と」


「正しい」


「ただし、情報の扱いには細心の注意が必要です。例の文面を見た者、音を聞いた者、花弁状の残滓に触れた者への影響がまだ不明です」


「文字、音、花びら、夢。入口が多すぎるね」


 桜夜は小さく息を吐いた。


「リオちゃん。静馬くんには、検証班を最小限に絞るよう伝えて。文字情報は伏せる。音声は封印。花弁状の残滓は直接視認禁止。夢の聞き取りは、質問者にも防護をかけること」


「承知しました」


「宗主様には?」


「すでに第一報は送っています」


「さすが秘書」


「はい」


 リオは短く返し、すぐに端末へ指を走らせた。


 ホムラは腕を組み、苛立ったように床を蹴る。


「見えねえ相手って、本当に腹立つな」


「そうだね」


「船とか夢とか、わけわかんねえ」


「僕も全部わかっているわけじゃないよ」


「でも行くんだろ」


「必要なら」


「次も帰ってこいよ」


 ホムラの声は、いつものように乱暴だった。


 だが、その奥にあるものは乱暴ではなかった。


 桜夜は少しだけ笑う。


「善処する」


「てめえが言うと信用できねえな」


「ひどい」


「ひどくねえ」


 サイカが、桜夜の手をもう一度握った。


「桜夜さん」


「うん」


「未咲ちゃんを助けよう」


「うん」


「でも、桜夜さんも助かって」


 桜夜は、すぐには返事をしなかった。


 助かる。


 自分が。


 その言葉は、いつも少し遠い。


 誰かを助けることならできる。誰かのために危険な場所へ行くこともできる。だが、自分が助かることを目的にするのは、どうにも苦手だった。先生にもいつも叱られていた。


『てめえを助けられない奴に、他人が助けられるわけねーだろ。バカ野郎』


 けれどサイカは、その苦手な場所へまっすぐ手を伸ばしてくる。


「約束は、しなくていい」


 サイカはそう言った。


「でも、帰ってくるつもりではいて」


 それは優しい妥協だった。


 必ず帰ると言えない桜夜に、それでも残された道だった。


「……わかった」


 桜夜は小さく頷いた。


「帰ってくるつもりではいるよ」


 サイカは泣きそうに笑った。


「うん」


 小春と日和が、そろって神楽鈴を掲げた。


「道は」


「わたしたちが結びます」


 リオが端末を伏せ、静かに言う。


「記録は、わたくしが残します」


 ホムラが拳を握る。


「戻らなかったら、オレが起こす」


 サイカが桜夜の手を握る。


「名前は、わたしが呼ぶ!」


 桜夜は、四人と二人を見渡した。


 騒がしくて、危なっかしくて、あまりにも自分を放っておいてくれない者たち。


 オメガが消したがる絆。


 世界意思が剥がそうとする、彼がここにいる理由。


 だからこそ、白い船は桜夜を呼ぶのだろう。


 この絆を一つずつ眠らせ、忘れさせ、消していくために。


「まったく」


 桜夜は困ったように笑った。


「厄介なものを持たされたね」


「いらないのですか?」


 リオが聞く。


「まさか」


 桜夜は静かに答えた。


「厄介だから、大事なんだよ」


 遠くで、またピアノの音がした。


 今度はほんの一瞬だけ。


 白い子守歌。


 その音に重なるように、小春と日和の鈴が鳴る。


 ちりん。


 ちりん。


 小さく、澄んだ音。


 眠りへ沈めるための音ではない。


 帰るための音だった。


 桜夜は窓の外を見る。


 永久の桜の若木は、まだ咲いていない。


 けれど枝先の蕾は、確かに朝よりも膨らんでいる。


 咲いていないなら、終わっていない。


 未咲という名を得た未来も。


 白い船に囚われた誰かの声も。


 そして、桜夜自身も。


 まだ、終わっていない。


 そのとき、リオの端末に静馬から最後の短い文が届いた。


 今夜から四方院家は総力をあげて調査を開始する。


 文面はそれだけだった。


 だが、それで十分だった。


 白い眠りは、もう個人の悪夢ではない。


 四方院家が動く。


 医学と呪術の両面から。


 神、悪魔、世界意思、人間の祈り。


 そのどれが相手でも、探し出すために。


 桜夜は静かに目を閉じた。


 夢の底で、未咲がまだ泣いている。


 白い船は、次の岸を探している。


 救いは、すぐそこにある。


 その言葉に、対する答えはあの子から教わっている。だから桜夜はしずかに、寂しげに微笑んだ。

 


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