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第11話 救いは、まだ遠く

 朝は、昨日と同じ顔をしてやって来た。


 窓の外では、永久の桜の若木が風に揺れている。まだ花はない。けれど枝先の蕾は、夜のあいだに少しだけふくらんだようにも見えた。


 サイカは台所に立ち、真剣な顔でベーコンを焼いていた。


「今日は焦がさない……今日は焦がさない……」


「呪文か?」


 テーブルに肘をついていたホムラが、眠そうな目で言う。


「違うよ。祈りだよ」


「ベーコン相手に祈るなよ」


「ホムラちゃんだって昨日、桜夜さんのピアノがまた聴けますようにって言ってたじゃない」


「言ってねえ!」


「寝言で」


「寝言なら無効だ!」


 騒がしい二人を横目に、リオは静かに紅茶を淹れていた。手つきはいつも通り優雅だったが、視線だけは時折、廊下の奥へ向く。


 桜夜はまだ来ない。


 いつもなら、朝食の匂いにつられるというより、三人が何かを壊す前に止めに来るように食卓へ現れる。だが今日は少し遅かった。


「桜夜さん、まだかな」


 サイカがフライパンの火を弱めながら言った。


「瞑想の間ではないようです」


 リオはカップを置く。


「先ほど確認しました。部屋にもいません」


「じゃあどこ行ったんだよ」


 ホムラが立ち上がろうとした、そのときだった。


 玄関の方から、障子が開く音がした。


「ただいま」


 三人が一斉に振り返る。


 桜夜は、師匠の形見の黒い着流し姿で、頭を搔いていた。


「おかえりなさい。朝からどこに?」


「少しだけ桜を見ていた」


「桜?」


 サイカが窓の外を見る。


「まだ咲いてないよ?」


「だから見ていたんだよ」


 桜夜は何でもないように言い、上座の椅子に腰かけた。


「咲いている桜を見るのは誰でもできる。咲く前の桜を見ていると、少し得した気分になる」


「なんだそれ」


 ホムラは呆れた顔をした。


「貧乏くせえ」


「野良犬だからね」


「それ、便利に使いすぎだろ」


 桜夜は笑いながら新聞を手に取り、パラパラとめくり、すぐに閉じてしまった。


「桜夜様」


「なんだい」


「その新聞には、何か気になる記事がありました?」


「特に何も」


 本当のことだった。おそらく何者かの圧力があるのだろう。新聞には、殺人や強盗、詐欺、政治家の汚職など様々な事件が載っていたが、深夜に「親友」が手に入れてくれた情報以上のものはなかった。

 深夜、サイカたちが眠っている間に桜夜は四方院家が和風建築で誤魔化している、敷地内の「データセンター」に行った。監視も盗聴も対策された部屋で親友が話してくれやことはこうだ。


 フランス北部の修道院で、十五歳の少女が原因不明の昏睡状態に陥った。外傷はなく、毒物反応もない。医師の診断では生命活動に異常は見られないが、呼びかけにも痛覚刺激にも反応しない。


 そして、枕元には手書きのメモが残されていた。


 救いは、すぐそこにある。


「世は全てこともなし、だよ」


 確かに事件は多いが、新聞に載るレベルの事件は警察の仕事だ。載せられないレベルになって四方院家が動く、最初に分家が、次に宗家が、そして相談役、最後に宗主だ。リオは疑いの目を向けたが、桜夜に上質なコーヒーを入れてくれた。ちょうどあたたかいコーヒーの気分だった。


「ありがとう」


 桜夜はコーヒーを一口飲み、ほっと息をついた。


 リオの淹れるコーヒーは不思議と、そのとき自分が飲みたい味になる。苦味がほしいときは苦く、疲れているときは少しだけ甘く、考え事をしているときは香りが立つ。


 便利だと思う一方で、やはり少し怖い。


「……リオちゃん」


「はい」


「僕はそんなにわかりやすいかな」


「はい」


「即答か」


「ですが、そこがかわいらしいところです」


「かわいい、ね」


 にこりと微笑むリオに、桜夜は何も言えなくなった。


 その間にサイカが皿を並べていく。トースト、スクランブルエッグ、ベーコン、コンソメスープ。最後に、小さな皿に盛られたサラダが置かれた。


 桜夜は一瞬だけ視線を逸らした。


「桜夜さん」


「なんだい」


「サラダ、嫌いなんですか?」


「嫌いではないよ」


「でも目を逸らした」


「僕にも目の運動をする自由くらいある」


 サイカは少しだけ頬を膨らませた。


「嫌いなら言ってください。無理して食べなくてもいいです」


「いや、出されたものは食べるよ」


「でも、桜夜さんに無理してほしくないです」


 そう言われると困る。


 優しさというものは、刃物より扱いが難しい。敵意なら避ければいい。悪意なら斬ればいい。けれど優しさは、受け取らないと相手を傷つける。


 桜夜はフォークを取り、サラダを口に運んだ。


「うん。おいしい」


「本当ですか?」


「本当だよ」


「じゃあ、次から少なめにしますね」


 サイカはうれしそうに笑った。


 その笑顔を見て、桜夜は思う。


 白い眠りなど、今ここにはない。


 ここにあるのは、焦げなかったベーコンと、少し苦いコーヒーと、好き嫌いを見抜かれてしまった情けない自分だけだ。


 それでいい。


 今だけは、それでいい。


◇◇◇


 朝食のあと、サイカは洗濯へ、リオは図書室へ、ホムラは庭へ向かった。


 桜夜は執務室で溜まっていた書類仕事やメール対応をしていた。電話は嫌いなので置かれていない。彼自身の事務能力は決して低いわけではない、実際書類やメールの中には英語のものも混ざっていたが、英国式の英語で返していた。キーボードを打つ手も、三枚のモニターを見る目の動きも早い。ただ彼はやる気がでないと仕事をすぐ溜める悪癖があった。だが、やっておかなくては。それは彼なりの「終活」だった。


 自分がいつ死んでも、仕事が滞らないように。


 自分がいなくなっても、誰かが困らないように。


 そう考えること自体が、もう癖になっていた。


 彼にとって「死」は日常だ。先生もあの子も、守った者も、救った者も、赦した者も、糾弾した者も、平等な「死」に飲み込まれた。不死身の自分が「完全削除」されたら、この仕事はやってなかったことになるのだろうか。そう思うと手が止まる。無益なことをしている気がしたからだ。

 フランスの少女の件に追加情報があった場合は通知が来るようになっていた。だが文面には一切残さないつもりだ。その方が安全だ。


 桜夜は背もたれに体を預けた。執務室は洋間で寝室にも繋がっている。仕事をぎりぎりまでして寝られるつくりだ。シャワーも洗面所もあり、食料もある。この部屋に閉じこもって世界という盤面で駒を動かす司令塔をしたこともある。あのときは一手誤るだけで第三次世界大戦になる瀬戸際だった。だが桜夜にとっては楽しいゲームに過ぎなかったが。


 そのとき、控えめにドアが叩かれた。


「桜夜様、入ってもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


 ドアが開き、リオが静かに入ってきた。


 先ほどまで図書室にいたはずの彼女は、数冊の古い手帳と、桜夜がどこに置いたか忘れていた書類の束を抱えていた。そして執務室を見渡す。アンティーク家具で揃えられた部屋。しかしデスクには3台のモニターがあり、様々なケーブルが適当につながれていた。床には資料と読みかけの本が散乱している。リオはため息をつきそうになった。


「それ、どこにあったの?」


「図書室の三段目、東洋呪術関係の棚の裏です」


「ふむ」


 書類はともかく手帳には何の価値もないだろう。彼は基本的に手帳を買うだけで使わない。そしてスケジュールはだいたい忘れる。それは「完璧主義」なのに「完璧になれない自分」を誤魔化すための生き方だった。


 リオは微笑みながら、机の端に書類を置いた。


「それと、こちらの手帳ですが、四年前の英国滞在時の予定が書かれていました。必要かと思いまして」


「すごいね。僕より僕の持ち物に詳しい」


「桜夜様が、ご自分の持ち物に無頓着すぎるだけです」


「執着を禁止されているんだよ」


 それは先生の教えだった。桜夜は執着が強い子どもだった。気に入ったものはどんな手を使っても手に入れる。無くしたり壊したりしてしまうと大泣きをする。ただ不思議と他人の持ち物には関心のない子どもだった。そしてそれは先生やあの子への依存となり、今の壊れた桜夜を形作った。だから桜夜はなにも愛さないよう気を配るようになった。

 桜夜は手帳を受け取り、ぱらぱらとめくった。懐かしい名前や地名が目に入る。ロンドン、ウィンザー、古書店、教会、地下道。見ただけで胃が痛くなる単語もあった。同時にこのころは手帳に何かを書いていたのかと昔の自分を懐かしんだ。


「この手帳燃やしといて」


「だめです」


「……はい」


 桜夜は素直に手帳を机へ置いた。


 リオは三枚のモニターをちらりと見た。画面に並ぶメール、報告書、各国のニュース、四方院家内部の連絡網。普通なら一目見ただけで逃げ出したくなる情報量だ。


 だが、リオは逃げなかった。


 むしろ、興味深そうに目を細めた。


「桜夜様」


「なんだい」


「これをお一人で?」


「今はね。みんな自分の仕事で忙しいからさ」


 昔は親友と組んで仕事という名の悪さをしたものだ。ハッキングによる情報収集、裏金の強奪による資金調達、金に物を言わせての人員調達、そしてそれをもとにした2人での作戦会議、実行。あまりに好き勝手したため世界のパワーバランスがめちゃくちゃになり、2人は一時期四方院家を放逐されていた。いろんな組織で知識と力をつけ、おもしろがった現宗主によって四方院家に呼び戻された。暇だと悪さをするからと2人はバラバラの場所で膨大な仕事をやらされる羽目になってしまったが……。


「これからもお一人でなさるおつもりですか?」


「一人分の仕事だからね」


「反対します」


 即答だった。


 桜夜は少しだけ目を丸くした。


「反対されるようなことかな」


「されるようなことです」


 リオは机の前に立ち、真っ直ぐに桜夜を見た。


「あなた様は、仕事ができないわけではありません。むしろ、とても優秀です。けれど、優秀であることと、無理をしてよいことは別です」


「だいじょうぶだいじょうぶ。怠けるのも得意だから」


 桜夜は大事な資料で紙飛行機を作って飛ばして見せた。


 リオは机の上にある書類を手に取り、流れるように分類していく。


「こちらは確認だけでよいもの。こちらは署名が必要なもの。こちらは宗主様からの嫌がらせ。こちらは返信不要。こちらは英国政府に確認が必要なもの。こちらは、今すぐ処理しないと後で大変なことになるものです」


「最後だけ妙に怖い」


「実際、怖いです」


「ちなみに宗主様からの嫌がらせの内容は?」


「知らなくて構いません」


「いいの?」


「はい。どうせ急ぎではありません。急ぎなら、もっと面倒な書式で送ってこられます」


「君、宗主様の扱いも上手いね」


「桜夜様を見て覚えました」


 リオは当たり前のように言った。


 その手際は見事だった。


 桜夜が画面を見て判断するより早く、彼女は書類の優先順位をつけていく。内容を完璧に理解しているわけではない。だが、何が桜夜の判断を必要とし、何が彼の時間を奪うだけのものなのかを見抜いている。


 それは、単なる器用さではなかった。


 ずっと見ていたのだ。


 桜夜がどこで疲れ、どこで迷い、どこで無理をするのか。


「リオちゃん」


「はい」


「君、もしかして僕の仕事を覚えるつもりだった?」


「はい」


「僕、ろくに働いてなかったよね?」


 彼は少女たちの前では働かない。ふざけてだらけているだけだ。彼女たちが見ていないとき、眠っているときにこっそり仕事をする。


「深夜2時から朝食までに桜夜様が返したメールは82通、イギリスとフランスが多いですね。紙媒体のものは日本のものが多く、面倒そうにハンコを押されていました。朝4時ころには妙に新しく、和風建築とは思えない最新のセキュリティに守られた屋敷に入り、すぐに出てきました。朝4時半になると図書室にいき、別の任務で必要となるイスラームの方々の文化を学ばれておりました。そのあとは……」


「え……? リオちゃんってストーカー?」


「水の精霊は誰の体内にもいるのですよ。鳳凰様が弱っている今、桜夜様の行動を監視させることなどたやすいことです」


 あたりまえにいうが、この子はかなり危ない子だと思った。近親相姦してきそうな自称娘とは別のベクトルで。


「リオちゃん」


「はい」


「人の体内の精霊を使って監視するのは、一般的にはかなりまずい行為だと思うんだ」


「存じております」


「存じた上でやったの?」


「はい」


「強いね」


「桜夜様が心配でしたので」


 悪びれない。


 実に悪びれない。


 もちろん桜夜も作戦に必要ならためらわずに風の精霊をつかって対象者のプライバシーを侵害する。風や空気は地球のどこにでもあるし、体内にも入り込む、水の精霊を使うリオ以上にえぐい監視をしたこともあった。鳳凰がもう少し回復するまでは行動自粛かなと思いながら立ち上がる。リオがすぐ近くまで寄ってくる。


「監視されてたら仕事にならないから休むことにするよ」


「そうですか」


 寝室に向かおうとする桜夜のすぐ後ろに、リオはついてきた。


「横になるだけだから監視はいらないよ?」


「ふふふ、わたくし、知ってますよ」


 リオがいたずら好きな小悪魔の顔をする。


「桜夜様って、独りでお眠りになれないのでしょう?」


 桜夜は黙ってしまった。鳳凰の力が身体を満たしている間は、P因子が活性化している間は、睡眠を必要としない。だが今鳳凰は弱ってしまっている。本来であれば桜夜も疲れやすく、睡眠が必要な状態だった。しかし彼はもう眠り方を忘れてしまっていた。あの子と一緒のベッドで寝て以来、独りでまともに寝た記憶がなかった。


「だから、添い寝してあげます」


「あー、リオちゃんみたいな子と一緒のベッドはちょっと」


 母親譲りの整った顔立ち、モデル顔負けのプロポーション。そんな魔女とベッドを共にしたら、風紀が乱れるのは間違いなかった。


「大丈夫です。わたくしたちは夫婦になるのですから」


 リオの目が、淫魔のように見えた。


 桜夜は苦笑しながら執務室からつながる寝室の扉を開けた。


 寝室は主の間と呼ばれる屋敷の主人と妻が同衾するための洋室でもなく、客間の和室でもない。すこし豪華なビジネスホテルくらいの洋室だった。執務室と繋がっているだけあって、急な仮眠用に作られている。大きめのベッド、低い棚、簡単な照明。飾り気はないが、桜夜らしく無駄もない。


 いや、無駄がないというより、生活の匂いが薄い。


 リオは部屋に入るなり、それに気づいた。


 ここは眠るための部屋ではない。


 倒れるための部屋だ。


 限界まで仕事をして、意識が切れる寸前に横になるためだけの場所。そんな印象があった。


「桜夜様」


「ん?」


「このお部屋、寂しいです」


「そうかな。必要なものはあるだろう」


「必要なものしかありません」


「それで十分じゃないか」


「十分ではありません」


 リオはきっぱり言った。


「まず、花を置きましょう」


「花?」


「花です。できれば季節のものを」


「枯れるだろ」


「枯れるからよいのです」


 リオはベッドの端に腰かけ、静かに言った。


「枯れるものを毎日見れば、今日を大切にできます」


「……」


「それに、誰かが花を替えに来る理由にもなります」


 桜夜は返事をしなかった。


 リオはときどき、こういうことを言う。


 何気ない顔をして、こちらが隠している場所へすっと手を伸ばしてくる。


「次に、毛布を増やします」


「毛布?」


「はい。桜夜様は体温が不安定になることがあります。鳳凰様の力が弱っている今は、なおさらです」


「そこまで見ているのか」


「見ています」


「本当に監視じゃないか」


「観察です」


「言い方を変えただけだね」


 リオは微笑んだ。


 桜夜は呆れながらも、ベッドに腰かけた。


 身体は確かに重かった。


 鳳凰の力が満ちているとき、疲労は遠いものだった。多少の無茶をしても、肉体は勝手に整う。眠らなくても動ける。食べなくても戦える。


 だが今は違う。


 重い。


 まぶたの裏に、知らない暗さがある。


 眠ればいいだけの話だ。人間なら誰でもやっている。サイカも、ホムラも、リオも、夜になれば眠る。


 なのに桜夜は、そのやり方がわからなかった。


 目を閉じると、死が近づいてくる気がする。


 眠りと死は違う。


 そんなことは知っている。


 知っていても、身体が信じてくれない。


「横になってください」


 リオが静かに言った。


「命令?」


「お願いです」


「お願いにしては圧が強い」


「では命令です」


「変わった」


 桜夜は笑いながら、言われた通り横になった。


 リオは少し迷ったように見えた。


 いつもの彼女なら、ここでためらわず距離を詰める。けれど今は、ほんの少しだけ違った。妖艶な笑みも、小悪魔のような目も、消えてはいない。消えてはいないが、その奥にもっと静かなものがある。


 怖がらせたくない。


 そう思っている顔だった。


「隣、よろしいですか」


「だめと言ったら?」


「床で寝ます」


「それは僕が悪いことをした気分になる」


「では、よろしいですね」


「交渉が上手い」


「秘書ですから」


 リオはそう言って、桜夜の隣に身を横たえた。


 近い。


 近すぎる。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 リオの髪から、淡い水の香りがした。雨上がりの庭のような、少し冷たく、けれど落ち着く匂いだった。


「何もしません」


 リオが言った。


「今のところは?」


「今のところは」


「そこは否定してほしかった」


「嘘はつきたくありませんので」


 桜夜は小さく笑った。


 リオはその笑い声を聞くと、安心したように目を細めた。そして、桜夜の胸にそっと手を置く。


「心音が少し速いです」


「君が近いからね」


「では、わたくしのせいですね」


「そうだね」


「嬉しいです」


「嬉しいんだ」


「はい」


 リオは悪びれずに言い、額を桜夜の肩に寄せた。


 それ以上、何かをするわけではなかった。


 ただ近くにいる。


 体温を分ける。


 呼吸の速度を、少しずつ合わせていく。


 それだけで、桜夜の身体から力が抜けていくのがわかった。


 眠りは死に似ている。


 だが、誰かの体温が隣にある眠りは、少しだけ生に似ていた。


「桜夜様」


「ん?」


「眠れそうですか」


「どうだろう」


「眠れなくても、目を閉じてください」


「君が見張ってくれる?」


「はい」


「じゃあ、少しだけ」


 桜夜は目を閉じた。


 リオの指が、彼の髪に触れた。


 ゆっくりと梳く。


 それは誘惑というより、祈りに近かった。


 夜の底へ落ちていく直前、桜夜はリオの声を聞いた。


「おやすみなさいませ。わたくしの黒い騎士様」


 黒い騎士。


 その言葉が、暗闇の中でほどけた。


◇◇◇


 桜夜は、月を見上げていた。


 知らない空だった。


 青でも黒でもない、薄い銀を混ぜたような夜空。そこに浮かぶ月は大きく、こちらを見ているようだった。


 足元には、石畳が続いている。


 城壁。


 尖塔。


 白い宮殿。


 見たことのない世界のはずなのに、どこか懐かしい。


 自分の服を見る。


 黒い騎士礼装だった。


 黒地に銀糸。腰には桜吹雪ではない、細身の剣がある。手には古びたキセル。口に咥えると、煙が肺を満たし、周囲の視線から自分の輪郭が消えていくのがわかった。


 認識をずらす術。


 風の精霊に似ている。


 だが違う。


 これは自分の記憶ではない。


 誰かの物語だ。


「我が騎士よ」


 背後から声がした。


 振り返ると、若い王が玉座に座っていた。


 顔は見えない。


 金の髪も、青い瞳も、白い礼服も、輪郭だけがぼやけている。


 けれど、その声には聞き覚えがあった。


 あの方に似ている。


 あるいは、かつて守れなかった誰かに似ている。


「街でおもしろい噂を聞いた」


「またですか」


 夢の中の桜夜は、自然に答えていた。


「箱舟を名乗る教団があるそうだ」


「箱舟」


「救いを売る者たちだ。眠れば救われる。未来を見れば救われる。世界の終わりに備えよ。そう言って、人を集めている」


 桜夜の胸に、冷たいものが落ちた。


 救い。


 眠り。


 箱舟。


 それらの言葉が、白い糸のように絡まっていく。


「潰せ」


 若い王は笑っていた。


 笑っているのに、その声は硬かった。


「余の国に、余以外の救いはいらぬ」


「あなた様も大概です」


「だからお前がいるのだろう?」


 夢の中の桜夜はため息をついた。


 そして、夜へ歩き出した。


◇◇◇


 箱舟教団の本部は、奇妙なほど静かだった。


 警備は薄い。


 門も、壁も、結界も、まるで誰かを招き入れるために隙間を残しているようだった。


 桜夜はそれを見て、すぐに理解した。


 これは罠だ。


 だが罠であるなら、中心に行けば仕掛けた者に会える。


 それだけの話だった。


 黒い騎士は、闇に紛れて歩く。


 廊下には白い布が垂れていた。


 その布には、同じ言葉が何度も書かれている。


 救いは、すぐそこにある。


 救いは、すぐそこにある。


 救いは、すぐそこにある。


 文字が多すぎて、祈りというより呪いに見えた。


「趣味が悪い」


 桜夜は呟いた。


 だが歩みは止めない。


 教団の奥へ進むほど、空気は冷たくなる。階段を下り、さらに下り、湿った石壁の地下へ出た。


 古い牢が並んでいる。


 誰もいない。


 いや、奥に一人だけいる。


 小さな人影だった。


 ぼろ布のような白いワンピース。


 床まで届きそうな銀の髪。


 月明かりもない地下で、その髪だけが淡く光っている。


 少女は鉄格子の向こうに座り、何もない天井を見上げていた。


「こんばんは」


 少女が言った。


 こちらを見ていない。


 だが、確かに桜夜へ向けた声だった。


「姿は見えていないんだろう?」


「見えていないよ」


 少女は笑った。


「でも、視えていた。黒い騎士が今夜ここへ来ることも、ぼくを殺そうか悩むことも、結局殺せないことも」


 少女がこちらを向いた。


 その瞳は赤かった。


 血の色。


 夕焼けの色。


 あるいは、未来の終わりを焼きつけた色。


「未来視か」


「そう呼ぶ人もいる」


「君が予言者?」


「たぶんね」


「たぶん?」


「ぼくが見せているのか、ぼくが見せられているのか、もうわからないんだ」


 少女は鉄格子に近づいた。


 その足取りは危うい。


 何日もまともに食べていないように見えた。


 桜夜は剣に手をかける。


 夢の中なのに、指先が冷えた。


 未来を視る者。


 それは危険だ。


 王の脅威になる。


 秩序の脅威になる。


 四方院家の脅威になる。


 ならば、ここで殺すべきだ。


 理屈はそう言っていた。


 だが、少女は笑っていた。


 自分を殺そうとしている相手を前に、安心しきったように。


「君はぼくを殺さない」


「なぜ言い切れる」


「視えているから」


「未来は変わる」


「変わるよ」


 少女は頷いた。


「でも、君は変えられない。目の前の子どもを殺せるほど、君は壊れていない」


「僕を知っているような口ぶりだね」


「知っているよ」


 少女は鉄格子の隙間から手を伸ばした。


 細い指だった。


「ずっと逢いたかった」


 桜夜は動けなかった。


 まるで赤い目に縛られたようだった。


「ぼくの黒い騎士様」


 その言葉を聞いた瞬間、地下牢の景色が揺れた。


 少女の顔が変わる。


 銀の髪が、桜色に見えた。


 赤い瞳が、水色に見えた。


 声が、サイカのものになり、リオのものになり、ホムラのものになった。


 そして、知らない少女の声に戻った。


「黒い騎士様。未来を、視る?」


「未来?」


「君がこのまま何も言わなければ、あの子たちは眠る」


 空気が凍った。


 少女は笑っていなかった。


「白い眠りは、優しい顔をして来る。怖くないよ、苦しくないよ、もう傷つかなくていいよって囁く。救いはすぐそこにあるって」


「……」


「でも、それは救いじゃない」


 少女の赤い瞳に、白い光が映った。


 地下牢の壁が消える。


 代わりに、白い部屋が見えた。


 ベッドが三つ並んでいる。


 右から、リオ。


 サイカ。


 ホムラ。


 三人は眠っていた。


 穏やかな顔で。


 まるで幸せな夢を見ているように。


 けれど、起きない。


 桜夜は息を呑んだ。


「やめろ」


「これは可能性だよ」


「やめろ」


「君が見ないなら、君は選べない」


 少女の声は静かだった。


「黒い騎士様。未来は、見るだけでは変わらない。見て、傷ついて、それでも手を伸ばした人だけが変えられる」


「君は誰だ」


「箱舟に乗せられた子ども」


「名前は」


「名前は、まだない」


 少女は寂しそうに笑った。


「でも、君が目を覚ましたら、きっとつけてくれる」


「僕が?」


「そう。君は名前を与える人だから」


 夢の中で、遠くからピアノの音がした。


 白い子守歌。


 優しく、静かで、眠りへ誘う旋律。


 少女の身体が、白い花びらのようにほどけ始めた。


「待て」


 桜夜は鉄格子を斬った。


 剣が振るわれ、錆びた鉄が音もなく崩れる。


 少女へ手を伸ばす。


 だが、指先は届かない。


「未来で待っているよ」


 少女は微笑んだ。


「ぼくを救って。黒い騎士様」


 その瞬間、白い光が地下牢を満たした。


◇◇◇


 桜夜は目を覚ました。


 天井が見える。


 自分の寝室だ。


 窓から差し込む光は、昼前のものだった。


 隣にはリオがいた。


 彼女は半身を起こし、桜夜の顔を覗き込んでいる。髪が少し乱れていた。頬も、いつもよりわずかに赤い。


 眠ったのか、眠らなかったのか。


 何かあったのか、何もなかったのか。


 その境目は、布団の温もりと、近すぎる距離の中に曖昧に溶けていた。


「桜夜様」


「……リオちゃん」


「うなされていました」


「そうか」


「夢を?」


「うん」


 桜夜は額に手を当てた。


 赤い瞳の少女。


 箱舟。


 白い眠り。


 未来で待っているという声。


 夢だ。


 ただの夢だ。


 だが桜夜は普通の夢は見ない。


「どんな夢でしたか」


 リオが尋ねる。


 桜夜は少し考えた。


 全部は言えない。


 言えば、リオはきっと踏み込んでくる。サイカも、ホムラも。三人とも、自分の役目を作って、危険の内側へ入ってくる。


 けれど、隠しきることもできない。


 もう、そういう相手ではない。


「黒い騎士の夢を見た」


「黒い騎士?」


「箱舟を名乗る教団に行って、未来を視る少女に会う夢だ」


 リオの表情が少しだけ変わった。


「未来を視る少女……」


「その子は言っていた。白い眠りは救いじゃないって」


 リオは黙った。


 桜夜も黙った。


 静かな部屋に、二人分の呼吸だけがあった。


 やがてリオが、桜夜の手を取った。


「桜夜様」


「うん」


「その夢は、ただの夢ではないのですね」


「たぶんね」


「では、記録します」


 リオはまっすぐに頷いた。


「そして、桜夜様が一人で抱え込まないようにします」


「怖いな」


「有能な妻、有能な秘書でもあるんですよ」


「そっか」


 桜夜は小さく笑った。


 そのとき、執務室の方から端末の通知音が鳴った。


 一度。


 それから、もう一度。


 緊急度の高い音だった。


 リオの手が止まる。


 桜夜はゆっくりと起き上がった。


 身体は重い。


 けれど頭は冴えていた。


 夢の中の少女の声が、まだ耳に残っている。


 未来で待っている。


 ぼくを救って。


 黒い騎士様。


 桜夜は黒い着流しの合わせを直し、ベッドから降りた。


「行きましょう」


 リオが言った。


「一緒に?」


「未来の妻ですので」


「本当に便利な言葉だね」


「はい」


 リオは少しだけ微笑んだ。


 桜夜は偽装されたデータセンターに急いだ。


 そのサーバールームにいるかつての「親友」は、手書きのメモを桜夜に渡した。


 そこには2人で考えた暗号文字で短い情報が書かれていた。


 第二症例、確定。


 場所、日本、横浜市内。


 年齢、十六歳。


 枕元に同文のメモ。


 救いは、すぐそこにある。


 桜夜はメモをすぐに燃やした。


 たった二件。場所も離れている。偶然の可能性が高い。仮に必然だとしても症例が少なくて何もわからない。現場には医者である静馬がいくだろう。今自分がすべきことはなにか、桜夜は迷いながらデータセンターになっている和風建築から出てくる。セキュリティの関係で外にいたリオの両隣には、サイカとホムラが集まっていた。桜夜の判断を待っている。目を閉じた桜夜は……。

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