第10話 世界一の騎士
目を覚ましたとき、桜夜は瞑想の間にいた。
一畳の畳。
一つの座布団。
神棚。
音のない部屋。
現実に戻ってきたはずなのに、耳の奥にはまだ咲夜の泣き声が残っていた。
『なかったことにしてほしくない』
未来の娘を名乗る少女は、泣きながらそう叫んだ。
オメガ。
世界意思の終末機構。
誰にも負けない存在。
勝利と救いの化身。
そして、世界のすべてを、無すらも、なかったことにするもの。
その話を聞いた咲夜は、一度、諦めかけていた。
いや。
諦めるしかなかったのだろう。
どれほど分岐しても、どれほど抗っても、どれほど神が生まれても、オメガはそれすら消す。
敗北も勝利も意味はない。
勝っても負けても、最後にはなかったことになる。
そんな理不尽を前に、人はどんな顔をすればいいのか。
桜夜にもわからない。
わからないのに、彼は言ってしまった。
『パパは負けない』
『たとえ世界を敵に回しても』
『だって僕は……』
世界一の騎士だから。
その言葉は、桜夜自身のものではなかった。
もっと昔に、誰かが彼へ渡してくれた言葉だ。
あんたは捨てられた子犬みたいな情けないやつだけど。
あたしは狭い世界しか知らないけど。
あんたは世界一の騎士だ。
いつだってあたしを、みんなを救ってくれる。
あたしが保証する。
だから負けんなよ。
逃げんなよ。
戦え。
思い出すだけで、胸が痛い。
喉が詰まる。
それでも、その言葉だけは捨てられなかった。
神殺しの騎士。
黒の騎士。
四方院家特別相談役。
野良犬。
化け物。
どれも桜夜を表す肩書だ。
けれど、世界一の騎士という名だけは違う。
何の根拠も論理もない。
そもそも、世界一という定義が謎なのだ。
世界最高の騎士は、はじまりのもの。
そして世界最強の騎士は、おそらくオメガ。
桜夜に、その存在に並び立つ力などない。
けれど。
ただ、心から男の子を信じている女の子がつけた称号。
それだけの名だった。
「ふふ」
桜夜は小さく笑った。
けれど、大好きな女の子が信じてくれるなら。
男の子は、騎士にも、勇者にも、魔王にも、神様にもなれるような気がする。
たとえ本当は、何者にもなれない野良犬だったとしても。
信じてくれた誰かがいるなら、その誰かの前でだけは、少しだけ背筋を伸ばせる。
桜夜は神棚の前に立った。
神宮大麻。
皇大神宮大麻。
熊野本宮大社のお札。
異なる神域の気配が、この小さな部屋に静かに重なっている。
日本人の総氏神。
横浜の地を外来の神々から守ってきた社。
そして、熊野の奥深くで桜夜が修行した霊場。
桜夜は手を合わせた。
柏手の音が、狭い部屋に響いた。
一度。
二度。
澄んだ音が、畳と神棚と暗がりの間を走る。
魂の奥底で、鳳凰も目をつむった。
姿はひよこだ。
普段なら、ぴよぴよ騒ぎ、八咫烏に笑われ、桜夜の胸の奥で勝手にふて寝するような小さな火の鳥。
だが今だけは、神獣らしく静かだった。
一心に祈っている。
一冊の本の終わりを、ハッピーエンドにするために。
バトンを次のクリエイターに渡すために。
本そのものを、焼かせはしない。
八咫烏は顕現しなかった。
黒い翼も、三本の足も、導きの声もない。
けれど、沈黙は雄弁に語っていた。
《信じる道を進め》
桜夜は目を伏せた。
「言われなくても」
そう呟いた声は、少しだけ震えていた。
そのとき。
部屋の外から、声がした。
「桜夜さん?」
サイカの声だった。
まだ眠そうで、それでも不安を隠しきれていない声。
「どうしたの? こんなに朝早く」
つとめて優しい声で桜夜は答え、静かに襖を開いた。
サイカが枕を抱きしめたまま立っていた。
寝間着に羽織をかけただけの姿。
髪は少し乱れている。
その後ろには、リオとホムラもいた。
リオは眠気を感じさせない顔を作っていたが、目元が少し赤い。
ホムラは大きなあくびを隠しもしない。
「もっと惰眠をむさぼっていいんだよ?」
桜夜が気楽に言うと、ホムラが不機嫌そうに答えた。
「やだね。起きる」
そして、さらに小声で言った。
「てめえがいねえから探しちまったじゃねえか……」
その声は、怒っているようで、少しだけ拗ねていた。
桜夜は笑わなかった。
笑ったら、たぶん殴られる。
それに、笑うには少し温かすぎた。
「心配をかけたね」
「かけたと思うなら、勝手に消えるな」
「屋敷の中だけど」
「そういう問題じゃねえ」
ホムラは顔を逸らした。
サイカは枕を抱く腕に力を込める。
「なにをしていたの?」
「うーん、瞑想してたら迷走したというか」
サイカの表情が少し強張った。
リオは桜夜の顔をじっと見ていた。
彼が軽い冗談で誤魔化すかどうかを、見極めるような目だった。
「桜夜様」
「なんだい」
「なにか隠そうとしていませんか?」
「この家に十八禁のものはないよ」
「この部屋、まるでそう……大聖堂みたいに聖なる力が充満していて、わたくしたちは入れないほどです。なにかあったのでしょうか?」
リオの見透かすような目。
よどんでしまった桜夜とは違う、澄んだ目。
桜夜は口元に笑みを浮かべた。
「リオは鋭いね」
「あなた様が、わかりやすすぎるだけです」
「僕が?」
「はい」
リオは即答した。
「軽口を叩くときほど、本当のことを隠しています」
「ひどい評価だ」
「評価ではありません」
リオは少しだけ近づこうとして、足を止めた。
襖の敷居の手前。
そこから先へ踏み込めない。
見えない壁があるわけではない。
結界が張られているわけでもない。
それでも、リオの身体が自然に拒んでいた。
瞑想の間の中に満ちる聖なる気配が、魔女の血を持つ彼女たちに、静かに距離を求めているのだ。
「……本当に、入れませんね」
リオが呟く。
その声には、少しだけ寂しさがあった。
サイカも敷居の前で止まった。
ホムラも一歩踏み込もうとして、嫌そうに眉をひそめる。
「なんか、ちくちくする」
「んー、神道の神様なんて悪魔や魔女と変わらないはずなんだけどなあ」
桜夜は神棚を振り返った。
天照大御神は日本初の引きこもりだ。
須佐之男命は乱暴狼藉を働き、手に入れた嫁を隠してしまう困った男。
その姉弟の父神は、不要と見なした子を捨て、怒りに任せて生まれた子を斬る。
キリスト教の定義する悪魔以外のなにものでもないはずだ。
もちろん、定期的にお祓いを行い、清い空間にはしている。
それでも、この部屋の神聖さは少し異常だった。
「何となくですが、鳳凰様の神格化現象のときと似ている気がします」
「ふむ」
あのとき、神となった鳳凰はフェニキアも不死身の魔女も圧倒した神聖な力に満ちていた。
神道系の信仰と術の面白いところは、神が不完全なことにある。
最初から完成された絶対者ではない。
荒ぶるもの。
祟るもの。
迷うもの。
怒るもの。
人から見れば欠点だらけの存在が、人の信仰を受け、祀られ、清められ、少しずつ神聖なものになっていく。
怨霊も崇め奉れば御霊となる。
人間すら死後百年も経てば、ご先祖様として手を合わせられる。
繰り返し清め、拝み、瞑想を重ねることで、この部屋は神聖な場所になったのだろう。
桜夜はそう結論づけた。
「神道は来る者拒まずだから、そのうち入れるようになるよ」
彼はのほほんと言った。
サイカは少し安心したように息を吐いた。
けれどリオはまだ敷居の前に立っている。
その目は、桜夜を逃がさない。
「つまり、今は入れないということですか」
「まあ、そうなるかな」
「桜夜様だけが入れる場所で、桜夜様だけが何かを聞いてきた。そういうことですね」
「それはどうだろうか」
確信している少女と、はぐらかす青年。
不思議な構図だ。
桜夜は肩をすくめ、リオは静かに言った。
「話してください」
サイカが枕を抱いたまま頷く。
「わたしも聞きたい」
ホムラも腕を組んだ。
「どうせ聞かなくても巻き込まれるんだろ。なら先に聞く」
「うーん、夢は話すものじゃないでしょ」
本当は夢というよりは神託や預言に近い現象だったが、桜夜はまだしぶっていた。
「……てめえが黙ってると、怖いんだよ」
ホムラが言った。
低い声だった。
怒っているようにも聞こえる。
けれど、それよりも不安の方が大きかった。
桜夜はホムラを見た。
彼女は視線を逸らさない。
「てめえが軽い顔して黙ってると、また一人で死ぬ準備してるんじゃねえかって思うんだよ」
「そんなことしないよ」
桜夜は優しく笑う。
簡単には死ねない身体だ。
待っているのは、オメガに勝って孤独の中で絶望するか、オメガに負けてすべてを失うか。
死ぬわけじゃない。
だから、嘘ではなかった。
嘘ではない。
ただ、言葉の大事なところを隠しているだけだ。
「でも怖い」
サイカはそう言って、枕を抱く腕に力を込めた。
リオも目を伏せる。
桜夜は、少しだけ息を吐いた。
嘘をつく気はなかった。
だが、話さないで済ませるつもりではあった。
その方が、幸せだ。
何も知らない方が、幸せだ。
彼は、知れば知るほど苦しみが増すことを熟知していた。
世界の裏側。
神々の事情。
天使の任務。
悪魔の契約。
人間の悪意。
知るたびに、人は軽くなれない。
選べる道が増えるのではない。
選ばなければならない道が増える。
だから桜夜は、三人にはできるだけ知らせたくなかった。
サイカに、リオに、ホムラに。
この子たちには、できれば温かい朝食と、くだらない口喧嘩と、たまに咲く桜だけを見ていてほしい。
そんな願いは、たぶん傲慢だ。パターナリズムだと倫理学者と教育学者に叱られるだろう。
わかっている。
それでも、願わずにはいられない。
「桜夜さん」
サイカが言った。
「知らない方が幸せだって、思ってるでしょ」
桜夜は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「それは違うと思う」
サイカは小さく首を振った。
「知らないまま守られるのは、たぶん楽。でも、桜夜さんが一人で怖いものを見ている方が、わたしは嫌なんだ」
「サイカ」
「怖いなら、一緒に怖がりたい」
その言葉に、桜夜の胸が少し痛んだ。
リオが続ける。
「知ることで苦しみが増えるのは、その通りです。ですが、知らなければ選べません」
彼女は、敷居の前で背筋を伸ばした。
「わたくしたちは、あなた様の荷物ではありません。守られるだけの子どもでもありません。なら、知る権利があるはずです」
「僕は知らないでいる権利のが大切だと思うけどね」
人間とは不思議な生き物だ。「あなたの余命は二週間です」と宣告したら、精一杯最後まで「自分の時間」を生きる者もいる。逆に絶望してしまい、知りたくなかったと嘆く者もいる。「がんではなくただの胃潰瘍だったよ」と言ったら、がんが治ってしまった人もいる。
「桜夜様は、傲慢です」
「よく言われるよ」
そもそも桜吹雪を継承できたのも、その傲慢さゆえだった。桜吹雪に憑りついた人々の負の感情。救われなかった者の声なき声。それらを「うるさい!」と一喝して使っているのが今の桜夜だ。
「反省してほしいものです」
ホムラが壁に肩を預けたまま言う。
「オレは難しいことはわかんねえ。でも、てめえが黙って勝手に苦しんでるのはムカつく」
「抑肝散でも飲む?」
「はあ?」
あまり東洋の薬に詳しくないホムラは、わけわかんねえという顔をしていた。
薬学に詳しいリオは笑いそうになってしまった。
抑肝散は大人のいらいらにも用いる漢方薬だが、子どもの夜泣きや癇癪の薬でもある。あまりにぴったりで、そしてホムラが知れば激怒しそうな発言に、リオは笑いをこらえて肩を震わせた。
今笑って桜夜のペースに飲まれてはだめだ。
「よくわかんねえけどよ。オレはムカついてる。てめえがオレたちを信じないことにだ」
その言葉は、強かった。
だが桜夜はあざけるような顔をして見せた。
「信じる? 会ったばかりの君たちを? 信じた分だけ、裏切られたとき辛くなるのにかい」
今度は憐れむような顔になる。
怒りそうになるホムラを制して、サイカが参戦する。
「だったらなんでお庭に、あやめとカーネーションがあるの?」
「さあ? 庭師が勝手に植えたんだろう」
「うそつき。桜夜さんを探しているとき、小さな図書室みたいな部屋があった。そこには花言葉事典があって、付箋が貼られていたよ。あやめとカーネーションのページだった」
人んちの図書室を物色しないでほしいなあと思いつつ、苦笑いする。
「桜夜さん、まめだね。付箋のページを開いたら、マーカーまでしてあった。書き込みもあった」
あやめの花言葉でマーキングされていたのは「信じる者の幸福」。
カーネーションでマーキングされていたのは「愛を信じる」と「愛は生きている」だった。
そして隅に「君の愛は生きている?」と書かれていたが、涙でにじんでいた。
「桜夜さん、人間不信だよね。そのくせ信じて、依存して、寄りかかりたいと思ってる」
リオは知性を、ホムラは野生の勘を持っていると感じていたが、サイカもなかなかの洞察力だ。
なんだか叱られている子犬の気分だった。
「信じたいんでしょ」
サイカは言った。
「それなのに、信じないふりをしている」
「……サイカは、意外と容赦がないね」
「容赦してほしい?」
「少し」
「じゃあ、しない」
サイカは枕を抱いたまま、少しだけ唇を尖らせた。
「桜夜さんは、すぐ逃げるから」
「逃げないよ」
それだけははっきり言った。
あの子の言葉が再びリフレインする。
あんたは捨てられた子犬みたいな情けないやつだけど。
あたしは狭い世界しか知らないけど。
あんたは世界一の騎士だ。
いつだってあたしを、みんなを救ってくれる。
あたしが保証する。
だから負けんなよ。
逃げんなよ。
戦え。
「逃げない。戦う」
最後の最後まで。
いや。
最後、つまりオメガすら飛び越えて。
その言葉を聞いて、三人が一瞬だけ黙った。
サイカは枕を抱く腕を緩め、少しだけほっとした顔をした。
リオは伏せていた目を上げる。
ホムラは鼻を鳴らした。
「なら、話せよ」
「厳しいね」
「逃げねえなら、隠す必要もねえだろ」
「理屈が通っている」
「馬鹿にしてんのか」
「感心している」
ホムラは疑わしそうに睨んだ。
桜夜は小さく笑い、座布団に腰を下ろした。
三人は敷居の外に座った。
瞑想の間の内と外。
聖なる気配と、魔女の血。
その境目を挟みながら、それでも四人は同じ場所にいた。
「世界意思についての話を聞いた。それはただの夢や幻覚、妄想かもしれない。神託や預言なのかもしれない」
三人の空気が変わった。
サイカの瞳が揺れる。
リオは背筋を伸ばす。
ホムラは眠気の残っていた目を完全に覚ました。
「世界意思の中でもオメガは、世界を無の無、空の空にしたいらしい」
桜夜は続けた。
「破壊して無にするだけでは足りない。無すら消す。普通の終末なら、何かが残る。瓦礫、記憶、神話、魂、物語。誰かが語り継げば、世界は形を変えて残る」
けれど。
「オメガは、その語り継ぐ余地ごと消す。何かがあったという痕跡も、誰かが泣いたという事実も、誰かが愛したという熱も、誰かが救いたいと思った祈りも、全部、なかったことにする」
はじまりのものと先生は師弟だったという。
二人の人助けの旅を、先生は無駄だったと思いながら死んだ。
でも、先生は、はじまりのものは、それをなかったことにしたいと思っただろうか。
「……最悪ですね」
リオが呟いた。
「悪意なら、まだ理解できます。憎しみなら、まだ対処できます。でも、正しさと救いの顔をして、記憶も痛みも存在も消しに来るなら、それはあまりにも厄介です」
「殴ればいいだろ」
ホムラが言った。
リオがちらりと見る。
「相手が殴れる形をしているとは限りません」
「形がなくても殴る」
「どうやってですか?」
「気合いだ」
「ホムラちゃんらしいです」
「馬鹿にしただろ」
「少し」
「おい!」
いつもならサイカが笑うところだった。
けれど、今は笑わなかった。
枕を抱きしめたまま、桜夜をじっと見ていた。
「桜夜さん」
「うん?」
「オメガは、優しいのかな?」
その問いは、静かだった。
桜夜はすぐに答えられなかった。
咲夜の言葉を思い出す。
オメガは救世主として歓迎される。
誰よりも強く、誰よりも正しい。
苦しみを終わらせる。
後悔を終わらせる。
失う痛みも、生まれてきたことへの問いも、すべて終わらせる。
「優しいかもね」
祈りの優しさは無力だ。
世界最高の騎士と言われ、祈りを奇蹟に変えたはじまりのものに、人々は感謝しなかった。
もっと早く来いと石を投げた。
そのたびに先生は怒った。
そう聞いている。
「苦しんでいる人間に、もう苦しまなくていいと言う。疲れた人間に、もう戦わなくていいと言う。眠りたい人間に、もう目覚めなくていいと言う。だから、きっと」
桜夜は神棚を見た。
そこに祀られている神々は、優しいだけではなく厳しさも兼ね備えた神々だ。
オメガのように、優しさと正しさだけで存在しているわけではない。
「オメガは誰よりも強く、誰よりも優しい」
「でも」
サイカが言った。
「わたしは嫌い」
「うん」
「お母さんが最後に笑ったことも、お父さんが来なかった席を見てホムラちゃんが怒ったことも、わたしたちが泣いたことも、桜夜さんの屋敷にただいまって言ったことも、なかったことにされたくない」
ホムラは頷いた。
「ばばあが死んだことも、じじいが来なかったことも、腹立つけどなかったことにされたらもっとムカつく」
彼女は低く言った。
「それじゃ、オレが怒ったことまで消えるだろ」
サイカは頷いた。
「つらいこともある。思い出すと苦しいこともある。でも、それを消されたら、わたしたちが生きてきたことまで消される気がする」
桜夜は何も言わなかった。
「それに」
サイカは、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「桜夜さんに助けてって言ったことも、消されたくない」
助けて。
あの一言から始まった。
雷を纏う少女が、泣きながら発した声。
桜夜はその手を取った。
それが今、彼の屋敷の朝になっている。
それをなかったことにされたくない。
それは、サイカにとっての祈りだった。
「わたくしも同じです」
リオが続ける。
「わたくしが駆け引きばかり覚えようとしていたことも、不安で桜夜様を試してしまったことも、全部、わたくしです。消してほしいとは思いません」
「オレも」
ホムラがぼそりと言った。
「ばばあを恨んだことも、じじいの空の席見てムカついたことも、桜夜に八つ当たりしたことも、全部オレだ」
彼女は拳を握った。
「なかったことにすんなって思う」
三つの声が、瞑想の間に届く。
オメガの正しさは、強い。
論理ではない。
根拠でもない。
概念なのだ。
ただ、生きてきたものを消されたくないという、当たり前の抵抗。
だが、おそらくオメガを前にしたら、この三姉妹も屈服し、消滅を受け入れるだろう。
オメガとはそういう概念だ。
だが桜夜は、やはり隠して別のことを言った。
「君たちは強いね」
桜夜が言うと、ホムラが鼻を鳴らした。
「強くねえよ」
「そう?」
「怖いから言ってんだよ」
ホムラは桜夜を睨んだ。
「黙ってると、てめえがそっちに行きそうだからな」
「そっち?」
「眠れば楽だとか、なかったことにすれば誰も傷つかないとか、そういう顔をしそうってことだよ」
桜夜は苦笑した。
オメガの正しさに誰よりも心ひかれているのは自分だと指摘されてしまったからだ。
「よくわかるね」
「わかるに決まってんだろ」
ホムラは即答した。
「てめえはそういうやつだ」
サイカが、敷居の外から手を伸ばした。
部屋の中には入れない。
けれど、指先だけは桜夜の袖に触れた。
「桜夜さんが、オメガの優しさに連れていかれそうになったら、わたしが引っ張るよ」
リオが微笑む。
「わたくしは、理屈で引き止めます」
ホムラが拳を見せる。
「オレは殴る」
「役割分担が明確だね」
「てめえにはこれくらいでちょうどいい」
桜夜は笑った。
今度は、ちゃんと笑えた。
瞑想の間。
神棚。
世界をなかったことにする終末機構。
その全部を前にして、それでも笑えた。
たとえそれらがすべて仮初だとしても。
「ありがとう」
三人が少し驚いた顔をした。
リオが目を細める。
「素直ですね」
「きもちわりい」
ホムラが言う。
サイカは少し嬉しそうに笑った。
「いいことだよ」
「なんで女の子はいつも僕に厳しいのかね」
あの子には世界一の騎士なんて重責を背負わされ、未来の妻は嫌がる自分にオメガと向き合うことを強制するらしい。
三姉妹も逃がさないと息巻く。
優しくて、儚げで、守ってあげたくなるような女の子が好みなのになあ、と心で嘆いた。
「桜夜さんが逃げるからだよ」
桜夜は降参するように両手を上げ、やれやれと首を振った。
◇◇◇
四人は、新たな日常を過ごすことで合意した。
咲夜の話ぶりからして、オメガは今すぐに世界を無の無、空の空にはできないと考えたからだ。
先生の思い出話によれば、はじまりのものは人々の悪意の集合体であるOriginal Sinと相打ちになったとき、世界に希望をばらまいたという。
その祈りの欠片が、オメガの救済の邪魔になっているような気がしていた。
そんなことを小さな食事スペースの上座の椅子に座った桜夜が考えていると、その前に朝食が並べられていた。
トースト。
スクランブルエッグ。
焼きすぎたベーコン。
少し濃いめのコンソメスープ。
そして、サイカが妙に真剣な顔で作ったサラダ。
特に不満はない。
先生との食事は和食だった。
病院の食事は味がしなかった。
先生もあの子もいなくなったあとは、ファストフードと、仕事でいやいや食べる高級料理だった。
食事へのこだわりはなくなっていた。
しばらく全員が無言で食事をしていた。
テレビもないこの部屋で、食事の音だけが響く。
ホムラがつまらなそうに言った。
「おい、桜夜。おもしろい話しろよ」
「それ、パワハラ?」
「おうとも」
偉そうなホムラに全員呆れたが、桜夜は少しだけ考え、話し始めた。
「昔、熊野で修行していたとき、八咫烏様に導かれて、なぜか出雲に飛ばされたことがある」
そのとき出雲は神在月で、観光客と地元民と神々であふれかえっていた。
人込みが嫌いな桜夜が、人の少ない方へ、少ない方へ歩いていくと。
「変なアヒルに出会った」
「アヒルぅ? 焼いて食ったのか?」
「違うよ。そのアヒルは王冠をかぶっていて、胸には勲章もいっぱいあった。そして偉そうに胸を張って言った」
桜夜は少しだけ声色を変えた。
「おいらは皇帝アヒル様である。頭が高いぞ人間。控えおろう」
人間の言葉を話すアヒルへの驚きより、いらだちが勝ち、思わず蹴り飛ばした。
アヒルは烈火のごとくぶちぎれたが、桜夜は蹴りで黙らせた。
「おまえ、動物虐待もすんのかよ。最低だな」
「焼いて食べちゃうホムラちゃんよりましでしょ」
話の続きを促すサイカに応え、桜夜は思い出話を再開した。
「結局、顕現した八咫烏様と鳳凰が仲裁に入って、アヒルと僕は仲直りの握手をした」
そのあと皇帝アヒルは、ご先祖様のことを神様に聞きにきたのだと言った。
「八咫烏様の導きで神々の宴会にもぐりこんだ僕らは、縁結びをしている神様たちの中でも特に気さくだった応神天皇から、自分が祀られている八幡宮の一社にアヒルが住み着いた話を聞いた」
最初は雌が一羽だったが、ある軍人が雄のアヒルをつれてきたらしく繁殖したとのことだった。
神域ゆえいじめられることも少なく、のびのびと今もアヒルたちは暮らしているという。
「それくわ! おいらたちのアヒル帝国では、その人間を神様として祀ってんのくわ!」
「なんでアヒル、途中から語尾がついたの?」
サイカが首を傾げる。
「雑なアヒルなんだよ」
「雑すぎるだろ」
ホムラが呆れた。
それから早く帰りたい桜夜も宴会に巻き込まれ、なんだか余計な縁を大量に結ばれてしまった。
なにせ、その宴会から解放されてから仕事量が十倍になってしまったのだから。
そしてある国の内乱に巻き込まれたとき、アヒル帝国近衛師団を名乗る最新兵器を乗り回したアヒルたちが駆け付けたときには頭がおかしくなりそうだった。
「不思議な話ですねえ」
リオは優雅に紅茶を飲んでいた。
だが目が笑っていない。
サイカがそれを察知し、おそるおそる尋ねる。
「なんか怖いよ?」
「あら、ごめんなさい。ただ、たしか出雲の縁結びは結婚相手を決めるものだったはずだと思いまして」
空間がぴしっと割れた音がした。
桜夜は速攻で逃げ出した。
「待てこら!」
ホムラが椅子を蹴って立ち上がる。
「桜夜様、まだ食事中です」
リオの声は静かだったが、その静けさが一番怖かった。
「桜夜さん、逃げないって言ったばかりだよ?」
サイカの声が一番優しい。
だから一番痛い。
「朝食後の運動だよ」
「言い訳が雑すぎます!」
リオが席を立つ。
廊下を軽やかに走る桜夜と、それを追う三姉妹。
誰も寄り付かない水希家に、新しい朝の騒がしさが生まれていた。
◇◇◇
逃亡ついでに神託の報告に来た桜夜を、玄武は冷たい麦茶を用意して待っていた。
この老人は未来を見ていると言われるくらい準備がいい。
走ってきた桜夜を私室に匿い、麦茶で喉を潤わせた。
「世界意思」
玄武は呟いた。
桜夜が得た神託は、すでにタオの遺した膨大な資料に書かれていた。
ただ、タオは天才すぎたためか端的にしか書き残しておらず、歴代宗主で理解できたのは今の玄武くらいのものだった。
「初代様は世界意思に逆らった」
初代とはタオのことだ。
玄武の話に桜夜は少し驚く。
タオは借金取りと妊娠させた女性たちから逃げ回るゴミくずやろうで、とうとう黄龍につかまり謝罪行脚させられていたと先生は言っていた。
謝罪行脚に付き合った黄龍、青龍、朱雀、白虎、玄武の五大神獣と契約していたとも聞く。
五大神獣も世界のバランスを司る存在だ。
どちらかと言えば世界意思側のように思えた。
「勝てないことは初めからわかっていた。ゆえに初代様は四方院家を興し、書物を残し、未来を託した」
「無責任ですね」
自分では解決できないから子孫に任せる。
逃げるのが得意なタオらしいといえばタオらしい。
「そうかもしれんな」
にかっと玄武が笑う。
齢百を超えても、きれいな自分の歯を保っていた。
玄武は碁盤を出し、桜夜は静かに相手をすることにした。
玄武が黒、桜夜が白だ。
「仕掛けてくるのは、まずコスモスじゃろうな。ホメオスタシスは必要以上の介入を好まず、オメガは別件で忙しいはずじゃ」
桜夜は答えずに碁に集中した。
黒石が白を囲む。
白石が逃げる。
逃げた先で、また囲まれる。
まるで誰かの人生のようだ、と桜夜は思った。
「負けました」
やがて、桜夜の負けが確定した。
玄武がまたにかっと笑った。
「勝てぬ相手を前にしたとき、人は何をすると思う?」
「逃げます」
「お主らしい」
「僕は逃げ足だけが取り柄ですので」
「違うな」
玄武は碁石をひとつ摘まみ、盤面の隅に置いた。
「逃げる者だけが、次の一手を残せる」
桜夜は盤面を見る。
そこに勝ちはない。
だが、完全な詰みでもない。
「初代様も、そうした」
「逃げたんですか?」
「逃げて、残した。逃げて、つないだ。逃げて、未来へ押しつけた」
「言い方」
「事実じゃ」
玄武は愉快そうに笑った。
「じゃが、それは悪いことばかりではない。人間は、たいてい一代では何も終えられぬ。誰かが始め、誰かが投げ出し、誰かが拾い、誰かが泣きながら続ける」
「ろくでもない種族ですね」
「そのろくでもなさが、世界意思の計算を狂わせる」
玄武は桜夜を見た。
「世界一の騎士よ」
「宗主様まで」
「よい名じゃ」
「よくありません」
「よい。神殺しの騎士より、ずっとよい」
桜夜は黙った。
玄武は静かに続ける。
「神殺しの騎士は呪いの名じゃ。世界一の騎士は、誰かの祈りの名じゃ」
「重いんですよ」
「祈りは重いものじゃ」
玄武は麦茶を飲んだ。
「じゃが、重いからこそ、手放してはならんこともある」
桜夜は碁盤を見下ろした。
勝ち目のない盤面。
それでも、次の一手がある盤面。
最後すら飛び越える。
自分で言った言葉が、少しだけ胸の奥で鳴った。
◇◇◇
玄武から昼食に誘われたが丁重にお断りした彼は、三姉妹の下に戻り、お詫びとばかりに昼食をごちそうした。桜夜は料理がすきではなかったが、できないわけではない。適当に作ったカレーを食べたサイカは、すこし悔しそうだった。リオは静かに楽しみ、ホムラは何度もおかわりをした。
それからは思い思いの時間を過ごした。サイカはなれない手つきでパソコンを操作し料理の勉強、リオは図書室で読書、ホムラは庭で筋トレ。そして桜夜は屋敷で一番広いパーティールームにあるピアノの前に座っていた。
この屋敷が廃墟同然だったときからあったもので、親友である「天才」と勘をたよりに調律したものだ。鍵盤に触る。音が鳴る。
パッヘルベルのカノンを弾くことにした。桜夜がまともに弾ける数少ない曲だ。
それは決して上手な演奏ではなかった。
指はときどき迷い、和音は濁り、同じ場所でわずかに詰まる。
流れるような美しさとは程遠い。
けれど、旋律だけはわかった。
同じ低音が繰り返される。
その上に、少しずつ音が重なる。
何度も、何度も。
変わらない土台の上に、変わっていく旋律が乗る。
いつのまにかサイカが窓際で静かに聴いていた。敵意がなかったから桜夜は気にしなかった。
次にリオが本を片手に現れ、椅子に腰掛けると聴き入った。
ホムラは筋トレ終わりにふらりと立ち寄った風を装った。
桜夜はカノンに特別な思い入れがある。
カノンは、繰り返しの曲だ。
同じ進行。
同じ土台。
帰ってくる旋律。
けれど、完全に同じではない。
少しずつ音が増え、少しずつ景色が変わる。
それは、何事もない平凡な日常によく似ていた。
朝起きる。
ごはんを食べる。
誰かとくだらない話をする。
怒られる。
笑う。
また眠る。
同じような一日が繰り返される。
けれど、完全に同じ日は一日もない。
昨日より少しだけ、誰かのことを知る。
今日より少しだけ、誰かを信じる。
明日になれば、また同じ旋律が戻ってくる。
それが平凡というものだ。
そして、平凡とは、失って初めて祈りになるものだ。
桜夜の指が、一度つまずいた。
変な音が鳴る。
ホムラが吹き出した。
「下手くそ」
桜夜は苦笑し、鍵盤から手を離した。
サイカが小さく言う。
「この曲、知ってる」
「有名だからね」
「同じところに戻ってくるみたい」
「うん」
桜夜は鍵盤を見たまま答えた。
「戻ってくる曲だよ」
「帰る曲?」
「そうかもしれない」
リオが静かに目を開けた。
「だから、お好きなのですか?」
「好きというほど上手く弾けないけどね」
「答えになっていません」
「鋭いなあ」
桜夜はもう一度弾くか少しだけ迷った。
その結果音が消える。
パーティールームに、夕方前の光が満ちていた。
「何度も同じことを繰り返す。日常、平和、そして退屈。普段は忘れているけれど、本当はすごく贅沢で、先人たちの努力の積み重ねなんだ。昨日と似た今日が来る。今日と似た明日が来る。それこそが本当の奇蹟」
桜夜は鍵盤に視線を落とす。
「オメガは、そういう繰り返しごと消すんだと思う」
サイカが息を呑んだ。
「何事もない朝も。焦げたベーコンも。へたくそなカノンも。全部、なかったことにする」
「……やだ」
サイカが言った。
「うん」
「わたし、その曲、また聴きたい」
「CDが図書室に……」
「桜夜さんに弾いてほしい」
サイカは優しく笑った。
桜夜は少しだけ黙った。
それから、もう一度鍵盤に指を置こうとした。
その前に、リオが立ち上がった。
「少し、よろしいですか?」
「リオも弾きたくなった?」
「はい」
リオは桜夜の隣に立ち、鍵盤を見下ろした。お嬢様っぽいリオとピアノはよく似合う。桜夜は席を譲った。
リオは優雅に座る。
指を置く姿だけで、桜夜よりずっと慣れているのがわかった。
ホムラが小さく言った。
「リオねえ、絶対音感持ちの天才のくせに……」
「静かにしてください」
「はいよ」
リオの指が、鍵盤に触れた。
最初の音は、ひどく静かだった。
祈りにも似ていた。
曲名を、リオは弾きながら告げた。
「孤独の中の神の祝福」
サイカが目を伏せる。
ホムラも、もう茶化さなかった。
それは、カノンのように明るく繰り返される日常の曲ではなかった。
ひとつの音が、暗い部屋に落ちる。
その音を、次の音がそっと抱く。
誰もいない場所で、誰かに見守られているような旋律。
救いが降ってくるのではない。
ただ、孤独の中で、かすかな祝福だけが残っている。
人はひとりだ。
それでも、完全には見捨てられていない。
そう告げるような曲だった。
桜夜は、息をするのを少し忘れた。
上手い。
単純に、上手かった。
指は迷わない。
音は濁らない。
静けさの使い方まで知っている。
それなのに、誇らしげではない。
リオはただ、遠いどこかを思い出すように弾いていた。
桜夜はふと思った。
サイカには「助けて」と言えた瞬間があった。
ホムラには怒りがある。
だが、リオの孤独は、もっと静かで、もっと見えにくいものなのかもしれない。
彼女はいつも、綺麗に笑う。
礼儀正しく立つ。
言葉を選ぶ。
自分の感情すら、整えてから差し出す。
その内側に、どれだけの夜があったのか。
桜夜はまだ知らない。
曲が終わった。
音楽室に、長い沈黙が落ちた。
「ブラーヴァ」
桜夜はへたくそなイタリア語とともに拍手を送った。
「しかしどうして、その曲を?」
桜夜が尋ねる。演奏されたのは魔女の敵である神に祝福を願う曲だ。少しだけちぐはぐに感じた。
リオは鍵盤から手を離した。
「孤独は、消えません。けれど、孤独の中にも祝福があると信じたかったのです。たとえ神様がお許しにならなくても」
桜夜は黙った。
サイカも、ホムラも黙った。
「桜夜様のカノンは、日常の曲でした。何度も戻ってくる、平凡な明日の曲」
リオは鍵盤を撫でる。
「わたくしの曲は、戻る場所が見えないときの曲です。誰も来ない夜に、それでも自分がまだ神様に忘れられていないと信じるための曲」
「……リオ」
「ですから」
リオは桜夜を見る。
「わたくしは、オメガの救いを信じません。孤独をなかったことにされるくらいなら、孤独の中で祝福を探します」
その言葉は、静かだった。
だが、強かった。
桜夜は苦笑した。
「君たちは本当に強いね」
「強くありません」
リオは首を振る。
「強くないから、曲を覚えたのです」
ホムラが頭をかいた。
「なんか、桜夜よりよっぽど騎士っぽくねえか?」
「そのうち「くっ殺せ」とか言うのかな?」
「ないない」
サイカがふふっと笑った。
「でも、わたしは桜夜さんのカノンも好きだよ」
「下手なのに?」
「下手だから、また聴きたい」
「褒めてる?」
「うん」
サイカは優しく笑う。
「完璧じゃないから、明日も聴ける気がする」
それは「完璧」を求めるオメガへの答えだった。
◇◇◇
たそがれどきの庭に、四人は移動した。
永久の桜は、まだ満開ではない。
けれど蕾は確かに膨らんでいた。
その近くに、あやめとカーネーションが植えられている。
きちんと手入れされた小さな花壇。
派手ではない。
けれど、誰かが意図してそこに置いたことは、見ればわかった。
「庭師が勝手に、ねえ」
ホムラがにやにやする。
「庭師に全部任せてるからな」
「事典の付箋とマーカーは?」
「古本だから前の持ち主のだろう」
「涙でにじんだ書き込みは?」
「前の持ち主が書いたところに水をこぼした」
「うそくせえ」
サイカは花壇の前にしゃがむ。
「あやめの花言葉は、信じる者の幸福。カーネーションには、愛を信じる、愛は生きているという花言葉がある」
「よく覚えてるね」
「覚えるよ」
サイカは桜夜を振り返った。
「桜夜さんが、信じたかった言葉だから」
桜夜は答えなかった。
風が庭を通る。
永久の桜の枝が、かすかに揺れた。
「誰に向けた言葉なのかは、聞きません」
リオが言った。
「今は」
「含みがある」
「あります」
リオは微笑む。
「ですが、その花が残っているなら、桜夜様はまだ信じることを諦めていないということです」
「買い被りすぎだよ」
「いいえ」
サイカが立ち上がった。
「信じたい気持ちは、生きてるよ」
桜夜は目を伏せる。
愛は生きている。
信じる者の幸福。
それらの言葉を、自分はなぜ残していたのか。
忘れたふりをしていた。
けれど、忘れてはいなかった。
忘れられなかった。
ホムラが隣に来て、乱暴に桜夜の背中を叩いた。
「痛い」
「元気出せ」
「力加減」
「知らねえ」
「君らしい」
ホムラは桜夜の隣に立ち、花壇を見下ろした。
「オレは、花言葉とかよくわかんねえけど」
「うん」
「信じるって、たぶん一回決めたら終わりじゃねえんだろ」
桜夜はホムラを見た。桜夜は笑みを浮かべた。
「……壊すのは一瞬で、守るのは永遠だ」
「あ?」
「信じない方が気楽ってことだよ」
「気楽な方にはにげねえんだろ? おまえは」
ホムラは照れたように頬を掻いた。
「知らねえけど」
「いや」
桜夜は静かに言った。
「たぶん、合ってる」
ホムラは驚いた顔をした。
すぐに、そっぽを向く。
「ふん」
サイカが嬉しそうに笑った。
リオも穏やかに目を細める。
桜夜は三人を見た。
信じる。
依存する。
寄りかかる。
その境目は、彼にはまだわからない。
けれど、今この庭で三人と立っていることは、悪いものではなかった。
少なくとも、今すぐ逃げだしたいとは思わなかった。
「オメガに会ったら手袋と勿忘草を投げつけてやるかな」
桜夜のつぶやきにホムラが反応する。
「手袋だけでいいだろ。それから殴る」
手袋を投げるのは決闘の申し込みを意味する。
サイカとリオは勿忘草を投げつける意味を理解しほほえんだ。
勿忘草の花言葉のひとつは、「私を忘れないで」だ。最高の皮肉をしてやるという桜夜の性格の現れだった。
◇◇◇
夜。
屋敷が静かになってから、桜夜は一人でパーティールームへ戻った。
月明かりが、黒いグランドピアノの蓋に薄く映っていた。
昼間よりも、鍵盤は冷たく見えた。
桜夜は椅子に座る。
指を置く。
そして、今度は「乙女の祈り」を弾いた。
カノンよりは上手く弾けた。あの子はどんな結婚生活を夢見ていたんだろうと思いながら弾き続ける。
第10話の終盤を、余韻を残しつつ、第11話へ自然につながる形に整えました。最後は「音」と「眠り」をつなげ、次話の異変を静かに予告する構成にしています。
◇◇◇
夜。
屋敷が静かになってから、桜夜は一人でパーティールームへ戻った。
月明かりが、黒いグランドピアノの蓋に薄く映っていた。
昼間よりも、鍵盤は冷たく見えた。
桜夜は椅子に座る。
指を置く。
そして、今度は「乙女の祈り」を弾いた。
カノンよりは上手く弾けた。
あの子は、どんな結婚生活を夢見ていたのだろう。
そんなことを思いながら、桜夜は鍵盤を追った。
可憐な曲だった。
少し背伸びをした少女が、鏡の前で髪を整えるような曲。
誰かに会いに行く前の、淡い期待。
まだ来ていない未来を、もう大切に抱きしめているような旋律。
だからこそ、弾いていると胸が痛くなった。
あの子は、たぶん普通の幸せを夢見ていた。
朝、同じ食卓につくこと。
くだらないことで笑うこと。
怒って、拗ねて、それでも夕方には隣にいること。
きっと、それだけでよかった。
それだけでよかったはずなのに。
桜夜の指が、一瞬だけ止まりかけた。
だが止めなかった。
止めてしまえば、思い出まで途切れてしまう気がした。
下手でもいい。
間違えてもいい。
旋律が最後まで続くなら。
それだけで、少なくともその間だけは、祈りは消えない。
「……乙女、か」
桜夜は小さく呟いた。
「僕には似合わないな」
「似合わないね」
背後から、優しい声がした。
振り返ると、サイカが扉のところに立っていた。
寝間着に羽織をかけている。
昼間と同じように、少し眠そうで、それでも目だけはまっすぐだった。
「起こした?」
「ううん。聴こえたから、来ちゃった」
「夜更かしはよくないよ」
「桜夜さんもね」
「返す言葉もない」
サイカは小さく笑って、パーティールームへ入ってきた。
月明かりの中を歩いて、桜夜の隣に立つ。
ピアノの黒い蓋に、二人の影がぼんやり映った。
「さっきの曲、カノンと違うね」
「うん」
「なんだか、女の子の曲だった」
「乙女の祈りという曲だからね」
「乙女」
サイカは少し考えるように目を伏せた。
「桜夜さんが弾くと、ちょっと寂しいね」
「僕が乙女じゃないからかな」
「違うよ」
サイカは首を振った。
「誰かを思い出してる音だった」
桜夜は返事をしなかった。
サイカは、それ以上聞かなかった。
彼女の優しさは、踏み込むことではなく、隣に立つことだと知っている。
桜夜は鍵盤から手を離した。
「今日はいろいろありすぎたね」
「うん」
「世界意思の話をして、アヒル皇帝の話をして、碁で負けて、ピアノを弾いて、ハンバーグを食べた」
「変な一日だね」
「そうだね」
けれど、悪くはなかった。
そう言おうとして、桜夜は言葉を飲み込んだ。
言わなくても、サイカには伝わっている気がした。
「桜夜さん」
「うん?」
「明日も、カノン弾いてね」
「下手なのに?」
「下手でもいいよ」
サイカは笑った。
「戻ってくる曲だから」
戻ってくる。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
帰る場所。
帰る旋律。
繰り返される日常。
それを、咲夜はなかったことにされたくないと泣いた。
桜夜は、ようやくその意味を少しだけ理解した気がした。
「約束?」
サイカが聞く。
桜夜は少しだけ迷い、それから頷いた。
「約束」
サイカは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見るだけで、明日というものが少しだけ確かな輪郭を持つ。
それは奇蹟ではない。
救済でもない。
ただの約束だ。
けれど、人間はきっと、そういう小さな約束を積み重ねて、世界の終わりに背を向けるのだろう。
そのとき、廊下からもうひとつ足音がした。
今度はリオだった。
「わたくしも、聴こえてしまいました」
「夜更かしが増えた」
「桜夜様が弾くからです」
「責任転嫁だ」
「事実です」
リオは静かに言って、サイカの隣に立った。
月明かりの下で、彼女の横顔は昼間より少し幼く見えた。
「リオも弾く?」
サイカが聞く。
リオは少しだけ迷った。
それから、桜夜を見る。
「よろしいですか?」
「もちろん」
桜夜は椅子を譲った。
リオは座り、昼間と同じように鍵盤に指を置いた。
そして、「孤独の中の神の祝福」を弾いた。
夜のパーティールームで聴くそれは、昼間よりも深かった。
音は暗い。
けれど、冷たくはない。
孤独はそこにある。
消えない。
癒えない。
けれど、その孤独の底に、確かに小さな祝福が灯っている。
サイカは静かに聴いていた。
桜夜も黙っていた。
リオの音は、誰かに救われることを待つ音ではなかった。
誰も来ない夜に、自分がまだ自分でいるための音だった。
曲が終わる。
静けさが戻る。
サイカが小さく言った。
「綺麗だね」
「ありがとうございます」
「でも、少し寂しい」
「そういう曲です」
リオは穏やかに答えた。
桜夜は言った。
「カノンが明日の約束なら、リオの曲は夜を越えるための祈りだね」
リオは一瞬だけ目を見開いた。
それから、少しだけ笑った。
「そう言っていただけるなら、弾いた甲斐がありました」
サイカがくすりと笑った。
その音に誘われたように、今度は廊下の向こうから不機嫌そうな声がした。
「うるせえ……寝らんねえだろうが」
ホムラだった。
髪は乱れ、目は半分閉じている。
けれど、足はしっかりこちらへ向かっていた。
「ごめんね、起こしちゃった?」
サイカが言うと、ホムラは大きくあくびをした。
「起きてねえ。寝ながら来た」
「器用だね」
「うるせえ」
ホムラはピアノの横まで来ると、そのまま床に座り込んだ。
「で、次はなんだよ」
「もう終わりだよ」
「ならいい」
そう言って、ホムラは壁にもたれた。
寝るのかと思ったが、目は閉じなかった。
「さっきの曲」
ぼそりと言う。
「ばばあが聴いたら、泣きそうだな」
誰も茶化さなかった。
リオも、サイカも、桜夜も。
ホムラは少しだけ口を尖らせた。
「じじいは寝る」
「お父様への評価は最後まで雑ですね」
リオが静かに言う。
「雑でいいんだよ。じじいだし」
ホムラはそう言ってから、少しだけ笑った。
「でも、もし明日も同じ曲が聴けるなら、それは悪くねえな」
その言葉で、夜の部屋にもうひとつ約束が増えた。
明日も弾く。
明日も聴く。
明日も、誰かが下手だと言う。
明日も、誰かが綺麗だと言う。
そんな小さな繰り返しを、なかったことにされたくない。
桜夜は鍵盤に目を落とした。
「重いなあ」
サイカが昼間と同じ言葉を返す。
「一緒に持つよ」
リオも続ける。
「わたくしも、少しなら」
ホムラは眠そうに目を細めたまま言った。
「重すぎたら、床に置け。オレが見張っとく」
「持ってはくれないんだ」
「眠いんだよ」
「正直だね」
桜夜は笑った。
その笑いは、昼間よりも少しだけ静かだった。
夜のパーティールームに、もう音はなかった。
けれど、旋律はまだ残っていた。
繰り返される日常の曲。
孤独の中の祝福の曲。
乙女の祈り。
どれも、明日へ渡すには小さすぎるものばかりだった。
だが、その小ささこそが、人間の祈りなのだろう。
世界一の騎士には似合わないほど、ささやかな約束。
その約束を胸に、桜夜はようやく鍵盤から指を離した。
◇◇◇
同じころ。
遠い場所で、一人の少女が眠っていた。
白い部屋。
白い寝台。
白いカーテン。
機械の音だけが、規則正しく鳴っている。
少女の手には、聖書が握られていた。
開かれたページには、薄い鉛筆で線が引かれている。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」
その一節の上に、涙の跡が落ちていた。
少女は目を閉じている。
苦しそうではなかった。
むしろ、穏やかだった。
誰かの腕の中にいるような、安らかな顔をしていた。
看護師が呼びかける。
返事はない。
医師が瞳孔を確認する。
異常はない。
脈もある。
呼吸もある。
けれど、目覚めない。
少女の唇が、かすかに動いた。
「もう……だいじょうぶ……」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「もう、目覚めなくていいって……」
窓の外で、夜風がカーテンを揺らした。
その風に混じって、どこか遠くからピアノのような音が聞こえた気がした。
繰り返される旋律ではない。
孤独を慰める祈りでもない。
終わりへ誘う、白い子守歌。
少女の手から、聖書が静かに滑り落ちる。
床に落ちた音は、やけに小さかった。
その夜、最初の眠りが記録された。
原因不明。
外傷なし。
病名なし。
ただ、患者は目覚めない。
そして、枕元に残されていたメモには、震える字でこう書かれていた。
救いは、すぐそこにある。
桜夜は、まだ知らない。
彼らが守ろうとした何気ない明日は、すでに遠い場所で、白い眠りに触れられていた。




